"狩人"と”人”
もう手遅れかもしれない。
謝必安は両手で顔を覆った。
荘園が主催するゲームには、ルールの異なるものが複数存在する。徐々に新しいものが増えている、と言った方がより正しい。
謝必安が招かれた時から存在していたものは、ハンター一人がバイバー四人を相手にする形式だった。朝・昼・夕と決められた時刻に開催され、戦績によって各自に段位が与えられる。おそらく最も頻繁に行われているゲーム形式だ。
これが一つ目。ちなみにこの段位という個々の称号は、ゲームに勝つことで上がっていく。またゲーム中にどれほど活躍したかによっても評価が変わってくる。
定められた期間内に七段あるうちの七段位目、つまり最高段位になれば、荘園主から求める秘宝が与えられ、晴れて荘園から脱出できる……という話だが、謝必安の知る限り、それを達成した者は未だ存在しない。
二つ目は、休日限定で開催されるゲーム。これはハンター一人とサバイバー四人で五人チームを組み、もう一方の相手と競う五人形式だ。
ルール自体はまったく同じであるが、サバイバーとハンターが間接的にとはいえ協力しあう形式となっている。どんな気まぐれでそのようなルールを作ったのかはわからないが、荘園主の性格の歪み具合はよくわかるというものだ。
そして三つ目。戦績も報酬もからまない、特殊なゲーム形式が存在した。
──協力狩り。ハンター二人で八人のサバイバーを捕える、多人数型のゲーム形式である。
「えっと、白無常……だっけ?今日はよろしくね」
少年のなりをした、身の丈ほどもある斧を抱えたハンターが謝必安を見上げて挨拶する。廊下で彼を待っていた謝必安は、古びた袋を頭にかぶった小さな新参者を見て微笑する。
「ええ。よろしくお願いします、ロビーさん。では行きましょうか」
待機室のドアを開け、二人で部屋に入る。入ってすぐ目の前に二脚の椅子が鎮座していた。
「協力狩りは初めてだとお伺いしましたが」
奥側の椅子に腰を下ろして問いかけると、よいしょと椅子にのぼっていたロビーはこくりと頷く。
「うん。ルールはレオに教えてもらった。だからやってみようと思って」
「では、電話の使い方ももうご存じですか?」
「サバイバーを追いかけたり捕まえたりして、ポイントをもらったら道具と交換できるんでしょ」
「ええ、その通りです」
「足が速くなったり、投げるともくもくが出る瓶があるんだよね。早く使ってみたいな」
「そうですか」
ロビーは袋の切れ目を口のようにぱくぱくと動かして話す。彼の話を聞きながら、謝必安は頭の片隅でどう動き、ロビーをどう動かすべきか思案していた。
貯まったポイントで道具を買えるのはハンターだけではない。寧ろサバイバーが交換できるものの方が品揃えが豊富だ。
特に終盤に差し掛かると、必ずと言っていいほど数人のサバイバーが信号銃を所持しているのだ。戦略としては理にかなっているが、打たれる側からしたらたまったものではない。
初戦で、例えばよくあるゲート前で銃を乱射されるようなことになれば、この子どもはどんな思いをするだろうか。レオに頼まれた手前、トラウマになるような事態は避けたい。
「あ、向こうにも誰か来た」
ぴょん、と頭が跳ねるように動いたかと思うと、ロビーは椅子の上に膝立ちして幕の向こうを覗き見た。視線を滑らせれば、彼の言う通りサバイバー達が待機室に集まってきていた。
談笑しながら長机に座っていく小さな人の群れのなかに、白い帽子が見えた。無意識に傘の柄に触れ、目を逸らす。
人数が揃ったところでマップが掲示され、謝必安はさらに憂鬱な気分になった。場所は湖景村。1/2の確率とはいえ、よりにもよってこのマップか。
今日はついていない。静かに息を吐きながら背もたれに身を預ける。
「足の速いお兄ちゃんと、ムキムキのお兄ちゃんと……んーと、あのお姉ちゃんはロボットを出すお姉ちゃんで、本を持ってるおじさんは小さくなっちゃうおじさんで」
対照的に、ロビーは楽しそうに足をパタパタと上下に揺らしていた。端から順にサバイバーを指さしながら、彼らがどんな個性を持っているか、懸命に把握しようとしているようだった。
「足の速いサバイバーは傭兵ですね。できれば最初に追わない方がいい。隣の男はオフェンス。サバイバーをダウンさせた後、彼が近くにいるときは要注意です。体当たりを食らうと、あのレオさんでさえ吊っているサバイバーを落としてしまいますから」
彼の独り言に謝必安が補足を入れる。ある程度の知識があった方が動きやすいだろうと思ってのことだ。謝必安としてもその方が彼を動かしやすい。
ロビーはこちらを振り向いてへぇ、と口を開けた。存在しないはずの眼が、興味津々に謝必安を見つめている気がした。
「変なガイコツ持ってる、ちょっと怖いお姉ちゃんと一緒だね。あれより痛い?」
「勢いにもよりますが……私は呪術師の呪いの方が受けたくないですね。心臓を直接絞められるような感覚がどうも慣れない」
「僕もあれイヤだ。ときどきすっごく痛いんだ」
思い出したのか、ロビーは古着の上から胸をこする。感情がころころとよく変わる少年だ。
その態度や仕草は、どこにでもいるごく普通の子どもにしか見えない。その袋の中身が、空っぽでさえなければ。
軽い頭を左右に揺らしてサバイバーを眺めるロビーが、またあっと声を上げた。
「じゃああの人は?まだゲームで会ったことないや」
ロビーが指をさす。その先を追った謝必安は、先ほど視界から逸らしたサバイバーを再び見ることになった。
今話題に出た呪いにでもかかったように胸が絞まった。それを表に出さず、謝必安はあえて淡々とした口調で説明する。
「あの人は……医生です。ドクター。負傷したサバイバーは、時には仲間と合流して治療するのはご存知ですね?彼女の治療速度は、サバイバーの中で群を抜いて速い」
「一番ってこと?」
「ええ」
そっか、とロビーは頷くと、少し考えす素振りを見せてから謝必安の方に頭を向けた。
「じゃあ最初に捕まえた方がいいね」
「それはダメです」
そして彼の答えに否を唱えた。唱えてからはたと謝必安は動きを止めた。
「えっどうして?折角なぐったのに、すぐ治しちゃうんでしょ?」
「そう、ですが……彼女は足が遅い。狙おうと思えばいつでも狙えます」
「足が遅いなら、やっぱり最初に捕まえた方がいいんじゃないの?」
「ダメです。他のサバイバーを狙いなさい」
「えー、何でなの?」
不満を乗せた問いかけが謝必安に投げられる。謝必安は一度口をつぐんだ。
ゆっくりとまばたきをして、言葉を選びながら再び口を開く。
「……確かに、最初に彼女に出会ったら狙った方がいいでしょう。けれどそうでなければ、足の遅いサバイバーでも解読速度が速い者を狙うべきです」
「……そうなの?暗号機はいっぱいあるって聞いたよ?」
「そのぶん人数も多いでしょう?あのメンバーでなら……そうですね、機械技師や心眼が狙い目です」
今度は謝必安が指でさし示す。オレンジ色のつなぎを着た人物と眼鏡をかけた少女を、ロビーは交互に見比べた。
「ふーん……そうなんだ」
「ええ」
そう話せば、ようやく納得したようだった。ロビーは膝立ちになったまま、サバイバーを眺めて鼻歌を歌い出した。
その様子にひっそりと胸を撫でおろした。次いで何を言っているのだという声が頭のなかで上がった。
その通りだ。ロビーの言っていることは正しい。自分達だってよくやる戦法ではないか。相手の中にエミリーがいれば、真っ先に彼女を狙っていた。なのに。
どうして。疑問が浮かぶ。何故自分は咄嗟に否定したのか。嘘をついたのか。彼女を庇うようなことを、何故──。
その時、脳裏によぎるものがあった。
「────、」
まさか。
声を出しかけて、寸でのところで手で口元を覆った。
心臓が奇妙に脈打っている。嘘だろう、と信じられない思いで呼気を吐いた。
無意識に手に力が入った。握りしめた右手が傘の柄の感触を伝えてきて、謝必安は思わず縋るような眼差しで范無咎を見た。
「無咎……」
どうしよう。
助けを求めるように、謝必安は友の名を呟いた。
◆ ◆ ◆
指の動きに合わせ、万年筆が橙色に照らされた白い紙に文字を書いていく。
しばらくはさらさらと滑らかに動いていたペン先が、唐突にぴたりと止まった。迷うように指先が万年筆をとんとんと叩き、仕切り直すようにペン先が動き出す。けれどまた筆が止まって宙をさまよった。
しばらくそんな動きを繰り返していた右手は、やがて深いため息を合図に紙の上にことりと置かれた。
「ダメ……集中できない」
エミリーは椅子に寄りかかる。中途半端に経過が書かれたカルテをちらりと眺めるが、どうにも続きを書く気にはなれなかった。
さらにもたれかかって背もたれに首を乗せ、そのまま瞼を閉じる。視界が塞がれば、先ほどからちらついて離れない顔が鮮明に浮かび上がった。
その時、ちゃぷん、と水の跳ねる音が聞こえた。次いで重なり合うように水音が続く。まるで雨のように。
驚きはしなかった。来るだろうと思っていたからだ。
閉じていた瞼を上げ、エミリーは姿勢を正す。黒い水は、ちょうど部屋のドア近くで盛り上がっていた。
「……こんばんは」
水の中から現れた人影に声を掛ける。長い三つ編みを揺らして現れた范無咎は、常日頃から変わらない強面に、どこか困ったような色を滲ませてエミリーを見下ろした。
「謝必安のことで話がある」
医務室に現れるや否や、范無咎はエミリーに向けてそう言った。その台詞を予想していたエミリーはええ、と頷き、彼にベッドを示して座るように促す。
范無咎は逡巡するようにベッドを見つめていたが、やがて呆れたような息を吐くと寝台に腰を下ろした。手に持っていた黒傘を寝かせるように布団に置き、向かい合うように椅子を移動させていたエミリーに視線を注ぐ。
改めて椅子に座ったエミリーはひとつ呼吸をして、それから范無咎の視線を正面から見返した。
「謝必安のことというのは、最近、様子がおかしいこと?」
尋ねれば、范無咎は首肯した。そう、とエミリーは一度目を伏せる。
「ごめんなさい。あなたの予想通り、原因は私にあるわ」
ぴくりと范無咎の眉が跳ねた。しかし彼は無言のまま、ただエミリーをじっと見つめるだけだった。
続けるよう促しているのだと解釈して、エミリーはあの夜の出来事を語った。
次第に吊り上がっていく金色の双眼に、思わず視線を逸らしたくなる衝動に耐えながら最後まで説明する。話す責任が自分にはあり、それを聞く権利が彼にはあるのだ。
──『あなたには関係のない話だ』
あの時の謝必安を思い出して、ぐっと喉が詰まる感覚に襲われる。エミリーは思わず下唇を噛んだ。
後悔している。あの時に掛けた言葉を誤ったことを。彼の様子がいつもと違っていたことに、もっと気に掛けるべきであったと。
彼らは人外だ、という認識がエミリーの中で強くあった。だから人としての心の機微があるという前提を、無意識に除外していたのかもしれない。
彼らもレオと同じく、おそらく人であった頃があったのだ。それに薄々気付いていたのに。
「……なるほどな。だからあいつは、あんなに落ち込んでいたのか」
事の顛末を語ったあと、范無咎は腕を組みながらそう呟いた。エミリーは意外に思って彼を見つめる。
謝必安を傷付けたことに怒って責められると思っていた。叱責をもらう覚悟で話したのだが、彼が怒鳴る気配はない。顔は恐ろしいままだから、怒ってはいるのだろうが。
「その、范無咎」
「何だ?」
「謝必安に会わせてもらえないかしら?ちゃんと謝らせてほしいの」
あれ以来考えていたことだった。それに湖景村で助けてくれた礼も言いたい。けれどあの日から、謝必安はエミリーを避け続けているのだ。
以前はあれほど范無咎の話を聞くために頻繁にやってきていたのに、避けているのだとわかるほどに会うことが少ない。それほどのことをしてしまったのだと、この数日で強い自責の念に駆られていた。
「必要ない」
しかし、范無咎は考える素振りもなく断ってきた。エミリーは思わず目の前の男を見上げて停止する。
「それは……そんなに謝必安は怒っているの?」
躊躇いがちに尋ねると、いや、と范無咎は首を横に振った。
「必安が落ち込んでいる原因の一つがお前だということはわかった。だが、会う必要はない」
「どうして?」
「根本は違うからだ。あいつの様子が本格的におかしくなったのは──」
言いかけてから、彼は口を噤んだ。口を滑らせたと言わんばかりに顔を歪めた彼に、エミリーは思わず椅子から降りて問いかけた。
「おかしくなった、って……ねぇ、もしかして彼は調子が悪いの?」
「お前には関係ない」
「それだけじゃわからないわ。不調があるなら診察も──」
「必要ないと言っている!」
話している途中で強い口調で阻まれ、エミリーはびくりと身を竦めた。范無咎ははっとしたように渋面を作り、顔を逸らして舌打ちを打つ。
「俺はここに来たのは、お前の釈明を聞くためじゃない。忠告するためだ」
「忠告?」
「必安に近付くな」
切れ長の瞳が真っ直ぐにエミリーを捉え、低い声音が静かに告げる。
「お前が寄れば必安が傷付く。だから近寄るな。必安のためと思うならな」
「……私が、彼を傷付けるようなことをすると?」
疑問を投げかけるが、范無咎は何も言わなかった。ただ蝋燭の灯に照らされた金色だけが、複雑に揺らめいていた。
「彼は何かに怯えているの?私が医者だから?それとも別の理由が?」
「お前が知っても意味のないことだ」
「それじゃあ納得できないわ」
「別に納得しなくともいい」
「教えてちょうだい。事情を知れば、もしかしたら力になれるかも──」
「黙れ」
范無咎が瞳から温度が消えた。冷たい光を宿した双眸に射抜かれ、エミリーは続く言葉を見失った。
刹那、右腕を掴まれ、悲鳴を上げる間もなく身体を強く引かれた。
「驕るのも大概にするんだな、人間」
間近に范無咎の顔が迫る。燃えるようにきらめく黄金色がひどく恐ろしくて、意思と関係なく全身がぞわりと震えあがった。
「たかだが数十年生きただけの人の身で、俺たちを理解できるとでも言うのか?現に必安を傷付たお前が」
怒りと侮蔑を滲ませた顔に睨まれ、呼吸が止まる。その様を睥睨しながら范無咎はさらに続けた。
「俺たちの事情を知って、力になれるだと?笑わせる。己の力で全てを救えると思うなよ」
突き放すための言葉だった。范無咎の言葉が、確かに、容赦なくエミリーの心臓をえぐった。
「そんな、こと……」
唇が震えた。何か言いたいのに何も言い返せず、言葉にすらできず、ただそれだけを呟くに終わってしまった。
その時、部屋にノック音が響いた。刹那、襟を掴んでいた手が離れ、無理やり上げさせられていた踵が床につく。
「先生、いるか?」
「あ……」
ノックの後に聞こえてきたのはナワーブの声だった。こんな状況で来客があるなんて。エミリーは狼狽する。
しかしどうすればいいのか悩む前に、すぐ傍でばさっと音がした。視線を戻せば、范無咎が黒傘を広げ、ここから去ろうとしていた。
「いいか、しばらくは必安に近付くな。もし忠告を無視するようなら、俺は容赦しない」
そう釘を刺し、范無咎は黒い水に溶けていく。床に染み込んだ黒い水が全て消えるまで、エミリーは動けなかった。
完全に范無咎が去り、とうとうエミリーは崩れ落ちるように床の上へたりこんだ。彼の怒気にあてられ、震えが止まらない。足に力が入らなかった。
「先生?」
物音が聞こえたのだろう。怪訝そうな声音に、ちょっと待ってて、と急いで扉越しに声をかけた。
凍えたように震える手を胸に抱き寄せる。大きな音を立てて早鐘を打つ心臓を鎮めるために、意識して深い呼吸を繰り返した。
「大丈夫……落ち着いて……」
わざわざ医務室を訪ねてきたのだ。患者ならば待たせるわけにはいかない。そう自分に言い聞かせ、何とか震えをおさめて気合いで立ち上がった。
それでもひどい顔をしていたらしい。ドアを開いた瞬間、目の前にいたナワーブが驚いたように目を見開いていた。
「あんた、何かあったのか?」
「いえ……」
「……白黒無常か?」
内心でぎくりとした。けれどそれをおくびにも出さず、エミリーはふるりと首を軽く振って笑顔を見せる。
「大丈夫。少し立ちくらみがしただけだから。サベダーさんこそ、こんな夜更けにどうしたの?」
ナワーブは物言いたげにエミリーをじっと見つめたが、結局何も問いかけてはこなかった。代わりにひとつため息をつき、唐突にエミリーの腕を掴んで部屋を出た。
「さ、サベダーさん?一体どこに行くの?」
「食堂」
いいから来い、と問う前にそう言葉を投げられ、困惑しながらもついていく。
廊下に出ると、かすかに芳ばしい香りがした。思わず鼻を上に向けて匂いを辿る。それは食堂に近付くにつれ、徐々に強くなっていった。
食堂に明かりが灯っていた。普段よりも光量の落ちた広間の先に、別の人影を見つける。
「ナワーブ、エミリー起きてた?」
「ああ」
「トレイシー?こんな夜遅くに、二人ともどうしたの?」
大テーブルの中央に座るトレイシーを見て、エミリーは目を丸くする。彼女の前には湯気の立った鍋やいくつかの皿が置かれていた。
驚いて問いかけると、トレイシーはにしし、と丸い頬を上げて子どものように笑った。
「あの子たちのメンテナンスしてたら、夜ご飯食べ忘れちゃってさ。なんかないかなーって厨房覗いたら、ナワーブが何か作ってたから。お裾分けしてもらったんだ」
あの子とは、トレイシーがいつもゲームで使用している機械人形のことだ。非常に精巧な人形で、彼女以外が操作しても暗号機の解読や板を倒すこともできるほどに、緻密な動きが可能だった。
時には身代わりとして盾にしていることもあるが、トレイシーは自分の作った機械人形をとても大切にしていた。
「嘘つけ。奪い取ったの間違いだろ。丁度作ろうとした時に来やがって……」
「あーあー。そこで僕にも分けてくれたってことにしてたら、僕とエミリーのナワーブの株が上がったのに」
「株じゃ腹は膨れねえ」
「株で僕の優しさがついてくるのに」
「それもいらねえ」
きっぱりと告げるナワーブに、トレイシーは頬を膨らませて手元にあったスパナを投げつけた。難なくそれをキャッチして危ねえだろ、と注意するナワーブを睨みながら、彼女はわざとらしくやれやれと両手を上げる。
「もー、そんなんだからわざと見捨てただろって、マジシャンのおじさんに疑われるんだよ。もっとエミリーの誠実なところ見習ったら?」
「うるせぇ。どっちにしても救助が遅いだの何だの文句言うんだよ、あのペテン師は」
遠慮のないやり取りだ。彼らの気さくな関係がよく見えるようで、エミリーはくすりと笑みを浮かべた。
「エミリーも座りなよ。ナワーブのご飯、意外と美味しいんだよ」
「意外は余計だてめぇ」
「でも、いいの?私も食べたら、サベダーさんの分がもっと少なくなってしまうんじゃないかしら?」
「こいつが来た時点で多めには作ってある。じゃなかったら誘わねえよ」
どっかと椅子に腰を下ろしたナワーブがぶっきらぼうに言った。改めてテーブルを見れば、鍋の中にはコンソメスープが、大皿には具だくさんのサンドイッチが山のように盛りつけられている。
「……サベダーさんも夕食を食べ損ねたのかしら?」
「食った」
「時々こうしてつまみ食いしてるんだよねぇ。ナワーブ、めちゃくちゃ燃費悪いから」
「そ、そうなの……」
夕食を摂ったうえでこの量。しかもトレイシーの話を聞く限り、これが普段通りらしい。
これだけの量を食べて、男性にしては小柄な身体のどこに収まり、消費されているのだろうか。確かに傭兵らしく筋肉質な身体つきであるが。
思わず羨望の眼差しをナワーブに向けていると、エミリーも座って、とトレイシーが声を掛けてきた。
「エミリー、いつもこの時間まで起きてるの知ってたからさ。一緒にどうかなって」
「あんたも食ってなかったろ、晩飯。そのうちぶっ倒れるぞ」
「なーんでエミリーにはそんなに優しいのかなぁ。僕のときは自分で作れって、つっけんどんに返してきたくせにさ」
「人徳ってやつだろ。お前こそ、先生から慎ましさってのを教えてもらったらどうだ?」
「ナワーブには言われたくないよ!」
また言い合いをはじめるナワーブとトレイシーを、エミリーはぼんやりと眺めた。
彼らは夕食に現れなかった自分を気にして、この場に誘ってくれたのだ。夜遅くまで仕事をしている自分を知っていたから。この時間なら起きているかもしれないからと。
二人の優しさが身に沁みる。じんわりと沁み込んでくるあたたかさは、けれど少しだけちくりと痛かった。
だから、つい。普段は隠している後ろ向きな本音が、ぽろりとこぼれてしまったのだろう。
「……トレイシーは、どうして私のことを最初から信じてくれたの?」
「エミリー?」
先程の范無咎の言葉が脳裏を掠める。驕っているわけでは、ない。ただ、力になりたくて。
だがそれは、相手からしたら傲慢でしかないのかもしれない。そう思うから、謝必安も自分を避けているのだろうか。
だから信用されないのだろうか。今も……昔も。
なのに、こんなにも不甲斐ない自分を、彼らは労わってくれている。信じてくれている。どうしてだろう、と思わずにはいられなかった。
賑やかだった空気がしん、と静まり返る。燭台の灯に照らされたトレイシーの顔が、心配そうに眉を下げた。
「……どうしたの?ナワーブに何か言われた?」
「おい」
「いいえ……ただちょっと気になったの。変なこと聞いてごめんなさい」
しかし、口にしてから後悔した。こんな質問をされたら困るに決まっている。思った以上に冷静さを欠いていると遅れて自覚して、エミリーは反省する。
苦笑するエミリーの前で、ナワーブとトレイシーが顔を見合わせる。ナワーブは小さく肩を竦めて見せた。
ナワーブから視線を外したトレイシーは、うーん、と考えるように今度は天井を見上げた。
「そうだなぁ……どんな怪我でも手当てしてくれたり、落ち込んだときに慰めてくれたり、色々あるけど……僕がエミリーのこと信じられるって思ったのは、ゲームしてるときだったかな」
「ゲーム中に?」
「だってエミリー、ハンターから逃げたあと、いつも震えてんじゃん」
えっ、とエミリーは驚いて目をしばたかせた。トレイシーはエミリーを見つめたまま、仕方ないなぁとでも言うように困ったような笑顔を見せた。
「僕は隠れて解読するから、よく逃げてきたエミリーと鉢合わせするでしょ?」
そう付け加え、トレイシーは続ける。
「だから知ってるよ。本当はエミリーも、怖いのや痛いの我慢してるんだって。ハンターに追っかけ回されて、殴られて……怖いのに、それでも何度も自分が盾になったり、僕らを助けてくれるから。そんなの、信じないわけないわけにはいかないよ」
照れ臭そうに鼻をこすり、トレイシーはエミリーを真っ直ぐに見つめた。
「それに僕たちのことはちゃんと治療するくせに、自分は鎮静剤しか使わないしさ。あんな痛いの、ワンゲーム中に何回も腕に刺すなんて僕ならムリ。絶対ヤダ」
「トレイシー……」
「……俺も」
スープをすくいながら、ナワーブが口を開く。深皿に湯気の立つコンソメスープがことりとエミリーの前に置かれた。
「トレイシーにその話聞いて、疑うのをやめた。最初は単に戦略として有効だからってだけかと思った。けど、それにしては無茶やらかす時もあるし……でもそれも、そんな思いしてたのかって知って、やめた。……まぁ、あの時みたいな特攻は勘弁だが」
「あ、そうそう!あんな自分を犠牲にするようなことはもうやめてよね。ただでさえ心臓に悪いのに、本当に潰れちゃうよ」
笑顔から一転して眉を吊り上げ、トレイシーは怒ったように同意する。そんなトレイシーとナワーブを、エミリーはまじまじと見つめる。
ふいに目の奥から熱くなった。涙が込み上げてくる感覚に慌てて俯くと、トレイシーが不安そうにエミリーの名を呼んだ。エミリーは首を振り、何でもない、と顔を上げる。
こんな言葉が聞けるとは思いもよらなかった。彼らは自分のことを見て、そんな風に評価してくれていたのだ。
だから信用してくれている。今のように心配してくれている。そのことが、こんなにも嬉しい。
「二人ともありがとう。あなたたちにそう思ってもらえて、とても誇らしいわ」
そうして、もう一つ気付いたことがある。
自分は、謝必安と范無咎のことを何も知らないのだ。知らないままで手を伸ばしても、確かにそれは独り善がりにしかならない。
相手のことも知らないまま言葉を重ねても、心を開いてはもらえない。奥深くにしまい込まれたものならば尚更だ。そういうことなのだろう。
「実は、少し悩み事があったの。おかげでどうするか決められたわ」
エミリーは微笑みを浮かべて感謝を示した。二人はきょとんとエミリーを見つめていたが、やがてそれぞれが安心したように表情を緩めた。
「そっか。ならよかった」
トレイシーは歯を見せて笑い、それから大皿からサンドイッチを二枚取ってエミリーに渡した。
「ほら、スープが冷めないうちに食べちゃおう。僕もうお腹ぺこぺこ」
「ふふ、そうね。サベダーさん、お言葉に甘えていただかせてもらうわ」
「味に期待はするなよ。傭兵仕込みの男料理だからな」
三人揃って口に付けたナワーブの料理は素朴な美味しさで、トレイシーの言う通り彼にしては意外な、あたたかみのある味だった。
スープを口に運びながら、エミリーはひとつ決意する。
(迷惑かもしれない。今度は怒鳴られる程度じゃ済まないかも……それでも、もう決めた)
何も知らない相手。自分のことを拒んでいる相手。
もしかしたら范無咎の言う通り、自分が謝必安と関わらないことが最善なのかもしれない。
だが、そう結論付けるにはまだ早い。きっと嫌われているわけではない。まだ希望はあるはずだ。
──何かに苦しんでいる"彼ら"を目にして、放っておくことなどできない。
医師として、それから友人として。
二人のことを理解したい。謝必安が苦しんでいる何かを、范無咎が自分を拒んだ理由を。
そんな思いが、エミリーの中で芽生えはじめていた。
◆ ◆ ◆
それは、夕方のゲームを終えて館へと戻ってきた時のことだった。
「ロビーは随分とコテンパンにされたようだな。号泣しながら戻ってきたと聞いたぞ」
エントランスに戻った謝必安は、入ってすぐに掛けられた声に顔を上げた。
人気のない広間のソファに大柄な男が座っていた。彼はそう言うと立ち上がり、謝必安の前に歩み寄った。
「レオさん……」
「ああいや、別に叱っているわけじゃない」
謝ろうとして、その前にレオに止められる。ゲーム中はマスクで隠れて見えない彼の顔には、謝必安を気遣う色が浮かんでいた。
「お前にしては珍しいと思ったんだ。どうした、何かあったのか?」
いえ、と首を振りかけて止まる。逸らした視線を戻せば、レオは先を促すように小さく笑った。悩んでいるなら相談に乗る。そう顔に書いてあった。
謝必安は一度床に視線を落とし、鎮魂傘を抱えなおして顔を上げる。彼の優しい心遣いに後ろめたさを感じながらも、謝必安は意を決して口を開いた。
「レオさん、あなたは以前、荘園主から罰を受けたとお伺いしました」
「……ああ」
「それは何故ですか?」
どんな理由があって規則を破ったのか。もしくは破らざるを得なかったのか。
ずっと鼓動が早鐘を打っていた。頭の中で絶えず警鐘が鳴り響いている。
従順ではないハンターには、どのような仕打ちが待っているのだろうか。
それを確かめなければならなかった。例えどんなに恐ろしい事実であっても。
何故なら、自分は。
「あなたが受けた、罰とは?」
重い沈黙が広間に降り積もる。じっと、翡翠の色をした瞳が自分に注がれる。答えを待つまでの時間が、いやに長く感じられた。
生唾を飲み込み、傘を両腕で抱き締める。再びレオの幅広の口が開かれたとき、腕により強く力がこもった。
「絶望だ。違反者がもっとも苦しむ方法で、これ以上ないほどの絶望を与えられる」
それが荘園主の怒りを買った狩人の末路だと、レオは静かに語った。