"トラウマ"と"後悔"
雨が降っている。雨粒が鼓の音のような、けたたましく傘を叩く激しい雨だった。
橋が見えた。濁流が川岸を飲み込んでいた。──そこは待ち合わせたはずの場所だった。
心臓が痛いほど大きく跳ねる。思わず傘を投げ捨てた。ぬかるんだ土に足を取られながら橋に駆け寄る。
荒れ狂う河を覗き込んだ。人影はない。誰も。何も。跡形もなく。
名を呼んだ。応える声はない。もう一度呼びかける。ごうごうと唸る水音しか聞こえてこなかった。
声が枯れるほどに叫び続けた。それでも何も。手の一つすら。
雨音と濁流が全てを呑み込んでいく。全てを流して、自分ひとりと絶望だけが取り残される。
膝が砕けた。かろうじて手だけが橋の縁を掴んでいた。雨は降り続ける。
嘘だ。夢であってくれ。そんな思いすら容赦なく抉り取って流される。
何故。どうして。狂ったように天に叫んだ。慟哭に答える声はない。救いの手もない。ただ大粒の雨だけが、この身に降り続けた。
何故、人というものは、こんなにも──。
じじ、とシャンデリアに刺さる蝋燭が、音を立てて揺らめいた。
ざぁぁ、と壁越しに雨の音が絶えず聞こえていた。夜闇に染まりきったガラスに、いくつもの雨粒が当たっては筋を描いて落ちていく。
豪奢だが年季を感じさせる広間の一室、そこに燭台の灯とは別の光があった。
館の雰囲気にはやや不釣り合いな、背の高い電気スタンドだった。部屋のちょうど中央、天井から床まで垂れた幕の周辺を爛々と照らしている。
大きな革張りの椅子が二脚置かれた方の広間には、大小の人影が二つあった。
一方は椅子に腰掛け、もう一方はその大きな人影の前にちょんと佇んでいる。こまめに動いていた小さな影は、やがて一息ついて大きな影から一歩離れる。
「軟膏と化膿止めの薬を塗っておきました。一日一回、入浴後に今と同じような手順で患部に塗ってください」
腕に包帯を巻き終わり、エミリーは手袋を外して大男に告げた。二種の薬と包帯をふしくれだった手のひらに渡すと、彼は無言で首肯する。
普段は包帯と仮面で隠れた男の顔は、今は手当てのために露わになっていた。しかしその表情は仮面のようにずっと無表情のままだった。
「え、と……痛みはありますか?あるようでしたら、痛み止めの薬もありますが……」
おずおずと尋ねると、やはり黙ったまま首を横に振る。無口な男に、エミリーはそうですか、と目を伏せた。沈黙が重い。
(まさか、この人も治療を受けに来るとは思わなかったわ……)
ちら、と視線を上に向ける。ただただ恐ろしかったはずのハンターが、今は大人しく自分の治療を受けている。何とも不思議な心地だった。
というのも、エミリーは一度、このハンターに殺されかけたことがあるのだ。幸いにも命拾いしたわけであるが、思い出すだけでも未だに恐ろしくなる。ゲーム中に彼に当たるときも、他のハンターとは違う恐怖を常に感じていた。
けれど今は、あの時の殺意もゲーム中に感じる怒りや敵意も感じない。感情の読めない表情で、彼は手のひらの薬をぼんやりと見つめていた。
全身に深い熱傷のある大男。サバイバーからは『復讐者』という名で通っている。不気味なパペットを操り、見境なくサバイバーを追いかけ、追い詰め、捕らえていく。常に怒り狂っている恐ろしい怪物だと。
エミリーの認識も仲間が抱く印象とそう変わりない。だがそれだけでもなかった。
仲間が知らない事実を、エミリーは知っているのだ。
だから彼が美智子と共にここへやって来た時、恐れはしたが逃げることはしなかった。他ならぬ美智子が連れてきたこと、そしてゲーム時と違って意思疎通が可能だったことも警戒を解く要因となった。
「エマは……、か……?」
ぼそりと何事かを呟いた男に、エミリーははたと目をしばたかせた。どこか縋るような眼差しで見つめてくる男に、エミリーは慌てて我に返った。
「すみません、もう一度話してくださいますか?」
聞き取れなくて。そう謝罪すると、彼はこちらをじっと見つめ、それから先程よりも声量を上げた。
「エマは……庭師の子は、元気でやっているだろうか?」
問いを理解するのに数秒かかった。エミリーの様子にまた聞こえなかったと思ったのだろう。もう一度口を開いたレオに、エミリーは急いで大丈夫だと手を上げた。
「ちゃんと聞こえました。ええ、エマは元気ですよ。そうですね……最近は逃げるのも上手くなって、怪我が少なくなりました。私たちがゲームから戻ってくると、いつも笑って出迎えてくれるんです」
お疲れ様なの!と元気に労ってくれるエマのことを思い出す。それだけで心が和らいで、知らず唇には笑みが浮かんだ。
「彼女の明るい笑顔には、いつも励まされています」
「……そうか」
呟いて、彼は安堵したように肩を落とした。その様子をエミリーは複雑な面持ちで見つめる。
彼の本名はレオ・ベイカー。自分達と同じ人間で、今話題に出ているエマ・ウッズの──リサ・ベイカーの実の父親だ。
エミリーがエマ達と共にゲームに参加した日、初めて相対したハンターがレオだった。そしてレオとエマが親子であることを、エミリーは死地の最中で知った。
レオがエマのことを知りたがるのは当然のことだ。ゲーム中に出会う彼女はきっと逃げる後ろ姿か、緊張と恐怖で強張った表情ばかりなのだろうから。
同時にゲーム外で会おうとしない理由もわからないでもなかった。彼が果たして生者なのかどうか、エミリーにも判断がつかないのだ。
(重度の熱傷。場所によっては皮下組織まで壊死している患部もあった。そのうえ打撲や切り傷の痕も。それにパペットだって……いえ、あの能力が荘園の影響によるものだとしても、彼が生きているとしたら奇跡か何かだわ)
そしてもし生者だとしても、ゲーム上のルールとはいえ娘にまで武器を振るっている自分に、何も思わないはずがない。今もなおエマのことを愛しているのだ。
彼の胸中を思うと、直接会いに行くことを気軽に勧めるのも難しい。しかし、このままというのも。そこまで考えて首を傾げた。
そういえば、少し前に似たようなことがあったような。そう思った瞬間、脳裏に白い人影がちらつき、あっと閃く。
(私が仲介役として、エマのことを話していけば)
そうすればレオも安心できるだろう。こちらとしても定期的に彼を診察する機会を作れる。
それにエマだって。いや、けれどレオは彼女を孤児院に預けたのだ。下手をすれば症状だって悪化しかねない。そのあたりは慎重に進めていかなければ。
「……それと、あの時はすまなかった、先生。私は危うく、あんたを殺してしまうところだった」
「……え?」
とりあえずはレオに提案だけでもと、そう思った時だった。彼の告げた内容に、一瞬で頭が真っ白になった。
呆気にとられたままレオを凝視する。エミリーの視線に、レオは居心地が悪そうに眼を泳がせた。
「いや……許してもらいたくて、謝ったわけじゃないんだ。あんな恐ろしい目に遭わせておいて……ただずっと謝りたかった。嫌なことを思い出させて、すまない」
しどろもどろにそう言って、レオはもう一度謝ってそそくさと腰を上げた。その動作にエミリーは我に返り、去ろうとするレオの指先を咄嗟に掴む。
驚いたように固まったレオを、エミリーは動揺しながらも見返した。
待って、と思った。声に出そうとして上手くいかなかった。自分の手首ほどもある親指を握ったまま、エミリーは意識して呼吸する。
今、レオが言った話は。それは。
「ち、ちょっと待って。今の話……でも、あなたは……」
白紙に戻った思考を戻すために無理やり頭を働かせる。今を逃してはいけない、と直感が訴えていた。
脳裏で様々な景色が、写真を見返すように浮かんではめくられていく。
細部に至るまで再現された廃墟の工場。箱に詰められた銃。壁に殴り書いた文字。
飛びかかる大男。レンズの奥で燃える憎悪に満ちた顔。明確な殺意を持って罠に落とされた。
けれどあれきり、身が竦むほど強い憎しみを向けられたことはない。
それは記憶を消されたからだと、それが荘園主からの罰だと結論付けたのはいつだったか。
「あなたは……ベイカーさんは、あの日の事を覚えていらっしゃるんですか……?」
レオは怪訝そうに眉を潜めた。しかしそのうち合点が言ったようにああ、と声をもらし、眉間に寄せたしわを深くした。
「そうか……あいつは記憶を奪われたんだな」
記憶を奪われた。エミリーは口の中で繰り返す。うなじにひやりとしたものが触れた気がして、指を握る手に力が入る。
「それは……ライリーさんのこと?」
緑色の瞳が、静かに自分を見つめ返してくる。生い茂る葉の色。エマの瞳と同じ色が、無言で肯定を示した。
エミリーは思わず息を呑んだ。
彼は覚えている。フレディは忘れていた。
この違いは。だとするなら。
「なら、あなたは……っ?」
刹那、二人の間に黒い影が横切った。
「先生!」
短い悲鳴を上げたエミリーをかばうように、レオが手をかざして影と対峙する。エミリーもレオの後ろに隠れるように身を寄せる。
しかし、電気スタンドに照らされ明らかになったその正体に、二人ははたと目をしばたかせた。
待機室で黒い傘がくるくると宙に浮く。その真下に白い水が盛り上がり、見慣れた姿が現れた。
「……どうしました?」
「お前か……」
傘を閉じ、床に降り立った長身の男が、二人の物々しい空気を察して首を傾げる。不思議そうな様子の彼を見て、レオは苦笑しながら警戒を解いた。
「……普通にドアから入ってきてくれないかしら?」
謝必安、とエミリーは先ほど頭によぎった人物に向かってため息をついた。
礼を言って去っていくレオを見送った後、エミリーは負傷したのだという謝必安を椅子に座らせた。
診せてほしいと言えば素直に上着を脱いで袖をまくった。青白い右腕から現れたのは、大きな裂傷だった。
消毒液と綿球を取り出し、既にかさぶたで塞がった傷口を消毒していく。ハンターの傷の治りは早い。負傷した当初はもっと深い傷だったはずだ。やや発赤しているが、明日には綺麗に治っていることだろう。
「念のため化膿止めを付けておくわね」
「ええ、お願いします」
短い応答のあと、また静寂が戻ってくる。医療器具の音と外の雨だけが唯一の物音だった。
静まり返った室内は、しかし先程のように居心地が悪いとは思わなかった。相手が謝必安だからだろう。無言でも気が楽だった。
それにしても、と治療テープを患部に貼りながら、エミリーは先ほどの行動を内省する。
(迂闊だったわ。つい気が急いで問い質してしまったけれど……)
夜間は外出禁止令が出ている。それは監視されているということに他ならない。少なくともそう考えておくべきだ。
人間というのは案外と逞しいもので、荘園の奇妙な生活でさえ、日々を過ごすうちに徐々に慣れはじめてくる。あれから荘園主が介入したような出来事も起きていない。それもあって気が緩んでいたのだろう。
手遅れになる前に気付けたのは幸いだった。特に夜は、常に神経を張り巡らせるくらいでいなければ。
「何の話をしていたんですか?」
そう改めて気を引き締めたときだった。唐突に尋ねられ、エミリーは包帯を巻く手を止めて謝必安を見上げた。
「レオさんと。私が現れた時、随分と焦っていたようですが」
紫苑の瞳が探るようにエミリーを見つめる。全てを見透かそうとするような眼差しに、エミリーは思わず視線を彷徨わせた。
やましい話をしたわけではないが、レオ自身に関わる内容だ。彼がどこまで自分のことを周りに話しているのかわからない。エミリーとて偶然知ったようなものなのだ。
「あれは焦ったというか……警戒したのよ」
少しだけ悩んで、荘園に関わる部分だけを打ち明けることにした。
ルールに触れようとしたエミリーらに罰を下しにきたのではないかと、もしかしたら荘園主が来たのではないかと、そう思ったのだと。
けれど現れたのは謝必安だった。つまりあの時に関わる話、もしくはルールや罰についての情報を共有するのは違反にならない、ということなのだろう。少なくともこの程度なら問題ない。
そう片隅で思考しながら、エミリーは苦笑する。まるで探偵の真似事でもしている気分だ。
「あとは大したことじゃないわ。少し個人的なお話をしていただけ」
「どんなお話ですか?」
けれど謝必安から更に問われて、エミリーは驚いて彼をまじまじと見つめてしまった。次いで湧いたのは困惑だった。
普段、謝必安はそれとなく意志を示せば、こちらの心情を察してそれ以上踏み込んでこようとしない。だからエミリーも、彼にはあまり構えずに話すことができた。
なのに、一体どうしたのだろう。そんな彼がお構いなしに食い下がってきた。
だが、レオに無断で彼の話をするのは憚られる。謝必安の頑なにさえ見える態度に首を傾げながら、エミリーは眉を下げて断る。
「ごめんなさい、あまり誰かに言いふらしていいものでもないの」
「大した話ではないのでしょう」
「そうだけど、ベイカーさんのプライベートに関わることだから」
「あなたは関わってもいいと?」
まるで尋問だ。流石にそこまで詰問じみたことをされるのは不本意だった。エミリーはむっとしながら、文句を言いたいのをこらえて首を振る。
「どうしたの?今日は随分と詮索するのね」
「それは……」
そこで初めて謝必安が言葉に詰まった。自分で自分に戸惑ったように目を泳がせた謝必安に、エミリーは無言で治療を続ける。
何かを言おうとする気配は感じたが、それに気付かないふりをして包帯を巻いた。先ほどとは違った質の沈黙が部屋に落ちる。静まり返った室内に、ざぁざぁと雨の降る音が鼓膜に響いた。
ふとその時だ。妙に雨音が気になった。そしてそう思ったのも、本当に何の根拠もない思いつきの言葉だった。
「もしかして、雨のせい?」
頭上で息を詰める音がした。そういうことか、と納得した。何故と理由を探す気もなくただそうなのだと、普段はしないような納得の仕方をした。
今思えば自分も気が立っていたのだろう。最近はハンターの治療も請け負うことも増えて、更に忙しくなっていた。レオ相手に気疲れしていたのもあったのだろう。
だが、それは言い訳にしかならない。この時、医師として見逃してはならないはずの彼の変化を、エミリーは見落としてしまった。
あまつさえそんなことでと腹が立って、不躾な言葉を投げつけてしまったのだ。
「雨で気分が憂鬱になるのはわかるけれど、八つ当たりをされても困るわ。雨に嫌な思い出でもあるの?」
瞬間、手元ごと包帯が跳ね飛んだ。ばっと勢いよく腕を振り払われ、エミリーは悲鳴を上げる。
「ちょっと……っ?」
痛みに顔をしかめながら苦情を告げよう彼を見上げ、そして凍り付いた。
氷のように寒々しい、冷酷な瞳がそこにあった。
「──あなたには関係のないことだ」
光のない、全てを拒絶する眼差し。その目にエミリーは覚えがあった。
心を閉じた証。自分を守るための防衛本能。
そこでようやく、過ちに気付いた。
けれどエミリーが謝罪するより先に、謝必安の表情がはっと我に返ったように狼狽したものに変わった。
「すみません、お怪我は」
「え、ええ……大丈夫……」
結ぶ前の包帯が彼の腕にだらりと垂れ下がっていた。反射的に手を伸ばすが、それに気づいた謝必安が自分自身で包帯をまとめた。
「あなたの仰る通りです。少し鬱々としていて……つい当たってしまいました。すみません」
謝罪しながら、謝必安は眉を下げたまま微笑む。普段から白いその顔が、今は輪をかけて青白い気がしてならなかった。
「いいえ、そんな──」
「怪我の手当て、ありがとうございます。あとは自分でもできますので」
「あの、」
「それでは、良い夜を」
そう言って立ち上がり、謝必安は逃げるように踵を返す。
ぱたん、とドアの閉まる音がしてもなお、エミリーはしばらくその場から動けなかった。
「あの人とは、本当に大したことは話していないぞ」
部屋から出た途端、横からそんな声がかかった。視線を向ければ、部屋に戻っていったはずのレオが壁にもたれていた。
「盗み聞きですか?そんなに信用ならないなんて……」
大仰にため息をついて肩を落とす。しかしレオは真剣な面差しを変えぬまま、目線で廊下の先へと促した。歩きながら話そう、ということらしい。
「変な態度を取ってしまったからな。お前が誤解してるんじゃないかと思っただけだ」
二人は渡り廊下を静かに歩いていく。廊下の脇には花瓶と電気ランプが交互に並び、薄暗いながらも互いの顔がそれなりに見える程度の光量はあった。ハンターが住まう館には、未知の道具がそこかしこに置いてある。それらは全てバルクという老人が発明、もしくは改造したものだ。
サバイバーの館は灯りと言えば蝋燭らしく、夜は燭台を手にもって歩くことが普通だと聞いた。ハンターの治療で夜の待機室に訪れるエミリーがいつも治療箱と共に燭台を持っているのはそのためだと以前聞いた覚えがある。
「俺の正体に関わることだから、言うに言えなかったんだろう。サバイバーで俺が元人間だと知っているのは、あの人くらいだからな」
「そう二人して弁明されると、逆に勘繰りたくなってしまいますね」
「白無常」
窘めるように名を呼ばれ、謝必安は肩を竦めて見せた。薄い笑みを浮かべた彼をじっと見ていたが、やがてレオはため息をついて話題を変える。
「彼女とは仲が良いのか?」
「あなたこそ。彼女とは過去に何か?」
「最初のゲームで少しな。あの人には悪いことをした」
言って、レオは苦々しく顔を歪ませる。狐のように狡猾な狡猾な鼠男の罠に、あの時はまんまと引っかかってしまった。
そして彼女は当時のことを覚えていた。あの時の恐怖は、今もなお強く残っていることだろう。半ば強引に連れてこられたとき、怯えて固まっていたのが何よりの証拠だ。
それより、とレオは口を開く。白無常を待っていたのは、それだけではなかった。
「あまり、サバイバーに深く関わらないほうがいい」
忠告すれば、切れ長の瞳がこちらを向く。
「何故です?」
「情が湧いてしまうだろう。それでゲームに支障が出るようなことがあったら」
「もう湧いているとしたら?」
「白無常……」
「冗談です」
さらりと前言を撤回して白無常は笑う。彼が真実を言っているのかどうか、レオにははかりかねた。
「重々承知しています。気を付けていますよ」
「白無常、ちゃんと聞いてくれ。私はお前を心配して……」
「わかっています。これでもきちんと弁えているつもりですよ。あなたこそ、誰かに世話を焼くのはほどほどになさった方がよろしいのでは?」
それでは。そう言って一方的に会話を切り、白無常は傘を広げて去っていってしまった。
エントランスにひとり残されたレオは、雨音の響く廊下にため息を落とした。
◆ ◆ ◆
からん、と室内に響いた金属質な音で目が覚めた。はっと俯いていた頭を上げ、音がした方向を見る。ややぼやけた視界に、ひじ掛けからずり落ちた左腕と八卦盤が映った。
ため息をつき、左手を床に向けて掲げる。謝必安の意に従い、羅針盤がふわりと浮いて手元に戻る。
未だ眠気が残る頭を軽く振り、左腕ごと八卦盤をひじ掛けに乗せ直して幕の向こう側に目を向けた。
長机には、気付けばサバイバーが四人揃って待機していた。そこに彼女の姿があることを確認し、我知らずため息がこぼれる。
待機室から見えるサバイバーは、みな豆粒のような大きさだ。だが、その距離でも話し声はある程度聞き取れた。
朝食のこと、昨日のこと、他のサバイバーのこと……と、とりとめもない会話のやり取りに、彼女は姿勢よく相槌をうち、時には言葉を返している。
随分と楽しそうな顔をしている。自分には滅多に見せない類の。
それが妙に気になって仕方がない。サバイバー達と雑談しているその人を見つめ、またしてもため息をつく。
「それも仕方ないか……」
昨夜、感情的に彼女を拒絶した。そして逃げるように帰ってしまった。いや、事実逃げたのだ。他意はないと、わかっていたのに。
今のようにうたた寝をしていた。嫌な夢を見て目が覚めた。雨音がして、じっとりとした湿気が部屋に忍び込んでいて、そのせいだとすぐにわかった。
窓を見れば案の定、雨が降っていた。部屋は暗闇に包まれていたが、すっかり目が冴えてしまった。
だから気晴らしに彼女がいないかと、そう思って訪ねたのだ。
なのに、自分は。
──謝らなければ。
だが、流石にゲーム中は無理か。特に今回は、最近荘園に招かれた探鉱者がメンバーにいる。
彼は輪の形をした妙な石を使うサバイバーだ。隙を見せようものならその石を身体に付けられ、弾かれるか引き寄せられるかして壁に叩きつけられる羽目になるのだ。
そんな状況で慌ただしく謝っても、何の意味もない。
数度目のため息をつくと、かたりと音がした。今度は何だと視線を落とすと、椅子に寄り掛かっていた黒傘が小刻みに震えていた。
「無咎……心配してくれているのかな」
淡く微笑し、傘の柄を軽く撫でた。それだけで鬱々とした気持ちが少しだけ軽くなった。
先程と同じ要領で鎮魂傘を引き寄せ、腕の中に収める。抱えた傘に温度はなかったが、友の魂が寄り添ってくれているように感じた。
僅かに瞑目して、それから窓の向こうに視線を滑らせる。昨夜に引き続き、小雨でも降っているのだろう。透明なガラスが白く曇り、景色がまったく見えなかった。
「……雨の日は嫌いだ」
傘を抱きしめて、無意識に言葉がぽたりと落ちる。
記憶と感情が際限なく溢れだして、己を保っていられなくなる。
がたん、と座っている椅子が震えた。床に穴が開き、椅子もろとも降下して今回のゲームの舞台へと移動しはじめる
暗闇の中でカタカタと歯車が回るような音が絶えず響き、それが消えた頃、枯れ果てたとうもろこし畑が目の前に現れた。
小雨の影響だろう。昼近い時刻にも関わらず辺りは薄暗く、霧も随分と濃かった。
ぐ、と傘の柄を握り、立ち上がる。まずはゲームを終わらせる。それからだ。
雨が止んで、時間を見つけて、改めて彼女の元を訪ねよう。
「行こうか、無咎」
──そうやって、自分は何度過ちを繰り返せば気が済むのだろう。
◆ ◆ ◆
濃霧の中でのゲームは、互いに苦戦しながらであるがそれなりに形をなしていた。物陰の多い場所に逃げ込まれると厄介だったが、逆に奇襲はいつも以上によく効いた。姿が見えづらいという点は、それぞれに有利にも不利にも働いたのだ。
──それが起きたのは、ゲームが中盤に差し掛かった頃だった。
「うぐっ……」
大きく振りかぶった傘に手応えを感じた。吹き飛んだ男を認め、謝必安は前に落ちてきた三つ編みを後ろに払う。階段に倒れたサバイバーを風船に括りつけ、そのまま船の甲板まで上がっていく。
暴れる相手を制し、艦橋の壁に備え付けられた椅子に縛り付ける。大きな火傷痕が見られる顔を歪ませて睨んできたが、気にも留めずに謝必安は甲板から周囲を見渡した。小雨のせいで、衣はすっかり濡れてしまっていた。
これで探鉱者は二吊り目。暗号機は残り二台。一人は飛ばした。負傷者は一名。
(揺れている暗号機は恐らく小屋中。それが調香師のはず……来るとしたら無傷の彼女か)
思わず重いため息が出そうになった。耳鳴りはしている。既に探鉱者を救助するために動いているのだろう。
ひとまず椅子の近くに監視者を置く。奇怪な動きで甲板に張り付いた一つ目のそれは、まだ反応は示さない。
「……いいな、ハンターは。そいつがあれば、いくら隠れようがすぐに見つけられるんだから。サバイバーにも使わせてほしいくらいだ」
暴れるのを諦めた炭鉱者が皮肉交じりにそう言った。謝必安はちらと彼を見下ろし、口端を吊り上げる。
「おや、そんな厄介な石を持っていてなお欲しがりますか。随分と欲が深いですね、あなたは」
「この荘園に来ておいて、欲がない奴らなんていないんじゃないかな。みんな人並み以上に強欲だろう」
「それもそうですかね」
相槌を打ったところで、大きな機械音が響いた。どうやら暗号機が上がったらしい。残り一台。
手の甲で濡れた顔を拭い、水滴を払う。重たい衣が、気分まで重く沈めてくる。
「こういう時、離れた暗号機にも圧をかけられたらいいんだけどな……」
「……今の言葉は?一体何て言ったんだい?」
「いえ、ただの戯言です」
無意識に母国語で呟いていたらしい。胡乱な眼差しを軽くあしらい、残りの暗号機を注意深く観察した。
探鉱者に感化されたわけではないが、謝必安にも思うところはあった。
同じことを何度も繰り返し行えば、否が応でも要領はよくなる。それが顕著に露われているのが、サバイバーの解読速度だ。近頃は目に見えて速くなっていると実感していた。
自分達もレオのように人形で牽制できればいいのだが。もしくはいつの間にか現れた夢の魔女のように、使徒のような存在がいれば。
もちろん諸行無常や瞬間移動で牽制することはできる。だが特質は常時使えるわけではない。
何かしらの対策が欲しい。サバイバーが手強くなっていくのであれば、こちらも現状のままではいずれ対処しきれなくなる。
無咎の意見も聞いてみようか、そう思案していた時だった。謝必安はす、と目を細め、傘の柄を握り直す。
「来ましたね……」
監視者が反応を示した。位置は──船下、階段からこちらへと駆け上がってくる。監視者によって映し出された輪郭は、予想通り彼女だった。
白い帽子が階段から見えた。青い上着を翻し、こちらに向かってくる。椅子の上部についている時計を見れば、探鉱者が飛ぶにはまだ時間があった。
走ってくる小さな身体を傘で叩く。体勢を崩しながらも彼女は椅子に辿り着き、縄を解いて探鉱者を救出した。
謝必安は再び追いかけ、探鉱者に狙いを定めて傘を振り上げた。しかしその攻撃は彼の背を押しながら走るエミリーに当たった。
謝必安は唇を噛み、今度こそ探鉱者に当てようと傘を大きく振り上げる。
「くっ……!」
探鉱者がこちらに何かを投げた瞬間、カチリと妙な音がした。彼の所持している石が身体に付着した音だ。
(弾き飛ばされる……!)
せめて相打ちになればと、悪あがきに腕を振り下ろした。
「きゃあっ……?」
まさにその時だった。甲高い悲鳴が聞こえ、一瞬で消えた。次いで下方から水の跳ねる音が耳に届く。
──消えたのは、悲鳴だけではなかった。
「くそ、失敗した……」
甲板に転がる探鉱者が悔しそうに呻く。確かに手ごたえは感じた。攻撃が当たったのだ。
それもそのはずだ。謝必安は弾き飛ばされなかったのだ。──だが、何故。
自分には付いていなかった。ならば、あの石は誰に────。
「エミリー……?」
彼女が、いない。
謝必安は勢いよく船縁に駆け寄った。下に広がる湖を見るが、濃い霧のせいで何も見えない。
「エミリー、聞こえますか!」
声を張り上げる。霧の向こうに吸い込まれた声に返ってくるものはなかった。
もう一度名を呼ぶ。やはり応える声はない。
船縁を掴む手に力がこもる。打ち捨てられて朽ちかけた木の縁が、みしりと軋んだ音を立てる。
──ダウンした状態で水に落ちたサバイバーは、果たして泳げるのだろうか。
ぞわりと、背筋に言い難い寒気が走った。
「エミリー!どこですか、エミリー?」
濃霧の中で謝必安は叫ぶ。握りしめる船縁が、見えないはずの船下の光景が別の景色に変わっていく。
石作りの橋。大雨が降っていた。真下は荒れ狂った河が木や石を押し流している。
無意識に息が荒くなり。せり上がってくるものを感じ、謝必安は思わず片手で喉を掴んだ。
人影はない。身体の一部すら見えない。
何もない。声も届かない。
何もかもが、もう手遅れで──。
ふいに右手が何かに振り払われた。反射的に痺れた右手を見る。持っていたはずの鎮魂傘がなくなっていた。
慌てて視線を彷徨わせると、傘は頭上に浮いていた。范無咎の魂が宿った黒傘は、開いた状態でくるくると回っている。
「無咎……?」
謝必安の意思を離れて浮遊する傘を呆然と見つめる。傘は謝必安を確認するようにその場に静止していたかと思うと、突然船の縁を越えて飛んで行ってしまった。
謝必安は慌てて手を伸ばす。だが間に合わなかった。絶望を露わに謝必安は叫んだ。
「無咎っ!君までどこに──っ?」
半狂乱になった謝必安に、そのとき異変が起きた。
目の前の視界とは違う、別の景色が重なって見えたのだ。
先ほどのような過去の記憶ではない。凪いだ水面。周囲にぼんやりと船の影が見える。
謝必安は思わず下を見た。霧の向こう、何も見えない空間に、淡い緑色の光が見えた。
「これは、無咎の……?」
唖然としながら重なり続ける視界を眺める。
ふと、水の中に濃い影が見えた。ゆらゆらと揺れる影の輪郭をなぞり、謝必安は弾かれたように船縁に足を掛け、湖へと飛び込んだ。
ばしゃん、と水飛沫が上がった。纏わりつく気泡が水面へと上っていく。暗い水の中で、四肢を投げ出して沈んでいく白い足が見えた。
(見つけた……!)
エミリーは湖の底へまさに沈んでいくところだった。謝必安は水を掻きながら手を伸ばす。
力なく目を閉じた彼女の顔が見えるところまで近づいた。その細い腰を引き寄せ、范無咎の光を目指して泳いだ。
水面に上がり、彼女の様子を確かめる。ぐったりと己に持たれる身体を腕で包んで、さするように背を軽く叩く。
「エミリー、エミリー!しっかりしてください!」
「……っ、ぅ……」
ごほ、と小さな身体が咳き込んだ。何度か咳を繰り返して水を吐き出したエミリーは、呼吸が落ち着いた頃合いでのろのろと瞼を開く。
「……び、あん……?」
「えみり……っ」
自分を見上げて名を呼んだ彼女を、謝必安はたまらず抱きしめた。淡い緑色の光は優しく彼らを照らし続ける。ぬくもりと鼓動が伝わってきて、どうしようもなく泣きたくなった。
細い手足。軽い身体。震える肩。強く掻き抱けば、容易く折れてしまいそうだった。そう思うのに、どうしても腕を緩めることができなかった。
湖に浸かったまま、謝必安は思い至る。違う。思い出した。思い知った時のことを。
──謝ることはいつだってできると、何で思い込んでしまったのだろう。
また会える保障などどこにもないのだと、わかっていたはずなのに。
そうだ。人というのは、過ちひとつで、こんなにも。
「すみませんでした」
「謝必安……?」
「ほんとうに、」
こんなにも、揺らいで。
こんなにも、呆気なく。
こんなにも、一瞬で。
「無事で、よかった……」
こんなにも、脆く崩れていく。