立春
蕾が開きはじめた頃の、春季の陽光を浴びるような。
そんな心地に似ている。
ふと見知った気配を感じ、謝必安は立ち止まった。
まばたきをひとつして首を巡らせる。丁度そこには両開きの扉が厳かに鎮座していた。その奥にある生者の、馴染みのある魂の気配。
自然と顔が綻ぶ。ドアノブに手をかけて開けば、廊下とは異なる空気がすぐに鼻を掠めた。静かに漂う埃のにおいと、紙と墨──こちらではインクというのだそうだ──が混ざり合った書物の匂い。決して嫌ではない匂いだ。
目の前に広がる知識の山を静かに歩いていく。本棚で区切られた通路をゆっくりと見回す。扉越しに感じた通り、彼女以外は誰もいないようだった。
階段を上ってさらに奥へと進む。やはりというべきか、予想通り幅の広い背表紙がずらりと並んだ棚の前にエミリーはいた。
「調べものですか?」
静かに声をかける。が、彼女はこちらを振り向かない。
おや、とまばたきをして、それから声を殺して苦笑する。どうやら随分と集中しているらしい。本の虫になっている。
謝必安よりも高い脚立の一番上の足場に座り、膝の上に乗せた分厚い書物から視線が動かない。珍しく見上げる位置にある、柔らかな輪郭に縁どられた横顔は真剣そのものだった。きっちりと結い上げられ露わになったうなじを見つめても、長い睫毛がゆっくりと上下する様を眺めていても一向に気付かない。
ちょこんと座ったまま微動だにしないエミリーをしばらく見上げていた謝必安は、淡い笑みを浮かべてから本棚に目を向けた。そっと黒傘を棚に立てかけ、異国語ばかりの背表紙を指先で辿る。医学、看護学、薬学、疫学……医療関連で埋め尽くされた棚のなかから何となしに興味の湧いた題名で指を止め、棚から抜き取った。
ぺらり。表紙をめくると、隣からも紙の擦れる音がした。
ちらと視線だけを動かせば、先ほどよりも背を丸め、紙面に綴られた細かな文字を追っているエミリーが見えた。普段は白い手袋に隠れた細い指先が、くっと引かれた小さな顎に添えられている。
ちらりと笑んで手元の書物に目を戻す。彼女に倣うように、謝必安も文字の海に飛び込んでいった。
「……えっ?あ、わっ……!」
がたん、と図書館に響いた物音に謝必安は意識を引き戻した。首をひねるとエミリーを乗せた脚立が後ろに傾いでいくところだった。
目の前に飛び込んできた状況に咄嗟に本を離して手を伸ばす。滑り落ちる小さな身体を寸でのところで受け止め、倒れる脚立をもう片方の手で止めた。
早鐘を打っている鼓動を抱えた腕越しに感じながら、驚いた猫のように固まって動かない彼女を見下ろす。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとう……」
まん丸に見開かれた瞳がじっとこちらを見上げてくる。その仕草も小さな動物を彷彿とさせた。
「あなた、案外とドジですよね」
思わず笑みをこぼしてそう言えば、二つの伽羅が気分を害して半分隠れてしまう。
「知らないうちに隣に人がいたら驚いて当たり前よ……いるなら声をかけて頂戴」
「かけましたよ。ですが気付かなかったので。それほど集中しているのなら、邪魔するのも悪いかと……まさかひっくり返るほど驚かれるとは思わなかったんです」
くつくつと肩を揺らすと、エミリーは不機嫌に加えてバツが悪そうな表情で顔を伏せた。落ちそうになっても手放さなかった本が(というより腕に力が入ってしまったのだろうか)、そんな彼女の面差しを隠す。
忍び笑いをもらしながら傾いだ脚立を立て、軽い身体を両手で抱え直して元いた位置に座らせた。ちら、と背表紙に額を預けたままこちらを見たエミリーが、ありがとう、と再び礼を告げてきた。
その時、ぽかりと泡のように胸に何かが浮かんで弾ける。弾けたそれにつられて、謝必安はまた笑声をこぼした。
「……そんなに笑うことはないんじゃないかしら」
「いえ、違うんです。少々昔のことを思い出しまして」
ジト目で睨んでくるエミリーに弁明しながら、謝必安は続ける。まぁそれもありますが、とは言わないでおこう。
「幼少の頃、無咎が木から滑り落ちたことがあったんです。無咎を助けようとしたら、その時は見事に失敗しまして」
木に実った梅を取りに行った時の事だ。自分は地上から手の届く範囲で、あの頃から謝必安よりも身軽であった范無咎はひょいひょいと木を登って、丸く実った梅を摘んでいた。
范無咎の抱えていた籠に梅の実の山ができた頃だ。籠の重さにバランスを崩して、范無咎が木から落ちた。
落ちてくる范無咎を受け止めようとして謝必安は慌てて駆け寄り、謝必安に気付いた范無咎も何故か慌てて手をばたつかせた。結果、間に合ったものの重さに耐えきれず范無咎もろとも倒れてしまい、謝必安はそのまま気絶、二人で集めた梅が辺りに散乱するという惨事になった。
実際のところ、范無咎はひとりで着地できたのだそうだ。だから着地地点に丁度謝必安がきてしまって焦ったのだと、寧ろ邪魔をしてしまったと知ったのは後のこと。
「目が覚めたら心配そうに自分を呼んでいる無咎がいて……あのとき頭にできたこぶはしばらく痛みました」
丁度こぶができたあたりに触れながらそう話す。機嫌を損ねていた彼女は、ようやく尖らせていた唇をやわくほどいた。
ぽかり。また泡が弾ける。
「よっぽど強くぶつけたのね。ちゃんと冷やしたの?」
「慌てふためいた無咎が頭から水をかけてくれましたね。おかげで風邪も引くという合わせ技です」
「それは……災難ね」
口元に手を添え、彼女は笑いながらそう返す。つられるように謝必安も笑みを深くした。
「ええ。まぁずぶ濡れの私より、無咎の方が顔を真っ青にしていましたが」
懐かしい。そのあと無咎は必死になって母と一緒に看病してくれた。仰向けに寝ようとするとこぶが枕に当たってそのたびに痛かったが、母か無咎がずっと傍にいてくれたことが幼い自分には嬉しかった。
「無咎には内緒にしてくださいね。バレたらきっと怒られてしまいますから」
きっとというか確実に。直接話すことはできないが、謝必安が宿る傘を睨みつけて怒るだろう。このあいだの時ように。
余計なことを喋るなと手紙でも言われるかもしれない。けど、何だかんだ彼は許して、譲歩してくれるのだ。今も変わらず。
そう思えば、またぽかりと泡が浮かんだ。
「今日はどうしたの?ゲーム中に怪我でも?」
「いえ、扉越しにあなたの気配を感じたもので。会いに来ただけです」
本を閉じて下に降りようとする彼女を片手で止めてそう返す。エミリーは不思議そうにまばたきをして、それから何かを閃いたようにああ、と声を上げた。
「范無咎のことね。それならちょっと待っていてくれないかしら?あと少しで読み終わるから」
今度はこちらが目を点にする番だった。自分の反応に彼女も丸い頭をゆっくりと傾ける。
「ええと……違った、の?」
不安そうに眉を下げるエミリーに、謝必安はぱっと表情を戻した。
「いえ、流石だと思いまして。ええ、大丈夫です。気の済むまで読んでいてください」
笑みを浮かべてそう返すと、エミリーはややほっとしたように微笑み、小さく頷いてから手元の本を読み始めた。
再び文字の世界へ集中していく彼女を確認し、謝必安も床に落としてしまった本を拾い上げてページを開く。しかし、内心では別のことを考えていた。
確かに、そうだ。自分がエミリーと接点を持ったのは范無咎の事を聞くためで、会いに行くのは専らそれか、ゲーム中に負傷したときだ。
彼女の推測は間違っていない。ただ、今回は。
(そういうつもりじゃ、なかったな。そういえば)
図書館にエミリーがいるのがわかった。だから会いに来た。まるでそうするのが当然のように、自然と足が赴いた。彼女に指摘されるまで気付かなかったが、単純にエミリーに会うのが目的だった。
何故?ここで疑問がころりと謝必安の前に落ちる。それを拾い上げ、指先で色んな角度に転がしながら思案する。
会えば無咎の話題になるのが当たり前になったから。これもあるだろう。意識などせずとも、エミリーとの会話では自然と無咎の話題が出てくる。
以前より気兼ねをせずに会えるようになったから。これもある。彼女がハンターを治療していると告白して以降、サバイバーとハンターが交流する機会が少しばかり増えたのだ。
自分達のように元から交流があった者もいれば、新たに接点を作った者もいる。中には特訓がしたいとハンター相手に一対一の勝負をもちかけるような輩もいるという。おかげで謝必安も、以前より人目を気にせずエミリーに会えるようになった。
けれど、それだけではないような。
あまり頭に入ってこない文字の羅列を見つめる。じっと見ていても、当然答えは浮かび上がってこない。
──『ありがとう……』
手の甲にあの時のぬくもりがよみがえる。彼女自身のことを知りたいと思った。おそらく、これも。
だがそれが理由かというと、どうもしっくりこない。そもそもそんな考えすらなくただ扉を開いたのだから。
一向に答えが見出せず、謝必安は唸る代わりに目を閉じる。
(うーん、これは……)
考えること自体が不毛だろうか。
他者に何かしらの感情を抱くことなど遥か昔すぎて、いまいち感覚が鈍くなっている。元が人間とはいえ、流石に数百年も経つと気付かぬうちに人間離れが進んでいるようだ。
「──そういえば、」
静かだった室内に落ち着いた女性の声音が響いた。はい、と視線を向ければ、エミリーは残り数ページほどの本に目を向けたまま口を開いた。
「あなたが勧めてくれた本、とても面白かったわ」
「ああ、もう読み終わったのですか?」
以前、東洋医学に興味を示したエミリーに母国語の辞書を渡したことがあった。その辞書を使って謝必安の故郷の薬学書を読もうとしたのだが、どうも理解しきれない部分が多いのだと後日会ったときにぽつりとこぼしたのだ。
話を聞いてみると、訳し方がわからない、というよりも訳した言葉の意味がよくわからないのだという。ならば基礎医学を読んでみてはどうかと思い、彼女と一緒に書物を探し出したのが先日のことだ。
「いいえ、まだ途中まで。辞書で訳しながらだから、半分しか読めていなくて……外国語を今まで学んでこなかったのを、少し悔やんでいるくらい」
呟き、エミリーは困ったような笑みを浮かべた。馴染みのない言語だというのを踏まえるとなかなか速いペースで読んでいると思うのだが、それでよしとしないが故にこの表情なのだろう。彼女の生真面目さ、というよりも自己に対する厳しさに、謝必安も思わず苦笑いをこぼす。
ぱたん、と静かな物音が響いた。小さな手のひらが分厚い書物を閉じ、伽羅の瞳がこちらを向く。好奇心に満ちた双眸が謝必安に注がれる。
「あなたたちの国の医学は、本当に興味深いわ。根本の考え方は非科学的なものなのに、何故か科学的に証明された治療法と重なるの」
「医生のあなたが戸惑うほどですものね。私も浅く知る程度ですが、それほど違いましたか」
「ええ。例えば心臓に病気がある患者がいるとするでしょう?こちらの医学だと心臓に不調があると判断したら、心臓の働きを正常にするための薬を出したり、場合によっては手術を施すわ。けれど東洋医学だとまず全体のバランスに着目するのね。心臓が悪いと気付いたら、次に何が心臓に悪影響を与えているのか、それを患者やその人を取り巻く環境まで含めて診察して、不調になった根本的な原因を見極めていくの。ひとりひとりにじっくりと向き合って、患者に合った治療をしていく」
「……ああ、なるほど。診察の流れが大分違いますね」
「そうなの。でも、結果を見ればどちらも患者は快方に向かっていく。不思議よね。医学の考え方や患者の診方(みかた)が、こんなにも違うのに」
新たな発見が楽しくて仕方がないとばかりに、いつになく彼女は饒舌に語る。きらきらと輝く眼差しが好奇心に跳ねる感情を伝えてくる。それを目の当たりにして、またぽかりと泡が浮かんで弾けた。
(──ああ、そうか)
弾けた泡から沁み込んでくるあたたかさに、先程の疑問の答えを見つけた。
似ているんだ。あの頃の日々に、面影に。
こぽぽ、と泡沫の音が耳元で小さく弾けていく。
真っさらな紙の前にして、何を描こうかと墨を磨っていくような。木陰に腰を落として木漏れ日を浴びながら、心に浮かんだ感情を思うままに詩を歌うような。
ふ、と思わず目を閉じたくなるような、身を委ねたくなる穏やかさ。
エミリーといるとき、ふいにいつだかの面影が重なって、謝必安の胸にそんな心地よさをもたらす。
母と並んで夕食を作っていた頃のように。無咎と日が暮れるまで遊び回った後のような。
(いつもなら、胸が軋んで痛いはずなのに)
服の上から心臓を押さえる。
懐かしい思い出には、その後の辛い記憶も付随してくるのが常だった。最後は決まってそのすべてを失った事実を、独りで佇んでいる現実を突き付けられた。
けど、彼女のそばであれば。
あの頃の面影を、不思議と痛みを伴わずに追える。ただ懐かしいと、楽しかったと。あの頃と同じ、澄んだ気持ちで。
そうだ、だから。
それがまるで、淡い陽光を浴びているような心地にさせるから。
「あ……ごめんなさい。范無咎のことを聞きに来たのに、こんな話を」
はっと恥じるように口元を本で隠したエミリーに、謝必安はいえ、と首を振る。手元にあった本を棚にしまいながら、脚立の上に座る彼女に向き直る。
「もっと詳しく教えていただけませんか?聞いているうちに、私も興味が湧いてきました」
だからきっと、会いたくなったのだろう。
自分の返事にぱっと華やいだ表情を見せる彼女に、謝必安は目を細めてやわく微笑んだ。
◆ ◆ ◆
ぱたん、と扉を閉めれば、窓の脇でカーテンがひらひらと揺れていた。起き抜けに煙草を吸って、そのまま明け放していたままだったのを今思い出す。
謝必安は窓辺まで歩いて窓を閉める。晴れ晴れとした日差しが降り注いでいた庭は、青々と茂った草木を黄昏色に染め上げていた。
すっかりエミリーとの医学談議にのめり込んでしまった。東洋医学は陰陽の概念に通じているのは知っていた。だがそこからどのように医学的な見解を合わせて発展していったのか、疑問点をまじえて話すエミリーにこちらも好奇心を刺激されたのだ。
こういうことでは、いやこういうことではないか、しかしそれだとこの説明が成り立たない……などといつの間にか議論に熱が入り、気付いたときにはサバイバーの外出禁止時刻が迫っていた。いけない、と慌て出したエミリーと別れたのがつい先刻だ。
「無事に間に合ったでしょうか……」
いっそ送っていけばよかっただろうかと思い、本を抱えたまま意気揚々と話すエミリーを思い返してくすりと笑声を立てる。
おそらくあの時、彼女は謝必安がハンターであり、人外であることなど忘れていただろう。壁掛け時計の時刻を見て我に返ったエミリーが、焦ったような戸惑ったような顔をしていたのが少し可笑しかった。
笑みをこぼしながら黒傘を文机の横に立てかけて椅子に腰掛ける。机の上には、朝に読んだ手紙が今朝と変わらないまま文鎮を乗せていた。
謝必安は手紙を引き寄せ、今朝と同じように文字を追う。紙には、謝必安への返事と范無咎が表に出ていた時に起きた出来事がぽつり、ぽつりと書かれている。まるで報告書のように硬くて手短かな文だ。
さらさらに乾いた墨を指先でそっとなぞる。あの頃と変わらない、力強く、達筆な文字。
謝必安はこの文字が好きだった。今は小さな紙の上で手狭そうに収まっているが、范無咎が半紙にえがく文字はいつだって堂々と迫力のある佇まいをしていた。その力強さに憧れたものだ。
友からもらった手紙を丁寧に置いて、白紙の紙と筆を取り出す。静かに呼吸をひとつ。小筆を取り、穂先を墨に浸す。
「ねぇ、無咎」
──今日はね、春を見つけたんだ。
たったそれだけを書いて渡したら、友はどんな反応をするのだろうか。返事が来ないことの方が多いけれど、謝必安の手紙を全部読んでくれているのは知っている。
きっと疑問符をまき散らして、難しい顔をして悩むに違いない。珍しく短い手紙に、何かあったのかと考え込んでしまうやもしれない。
「困り果ててエミリーに聞きに行くかも……ふふ、余計にややこしくなりそうだ」
そんな友の姿が容易に想像できた。想像できるくらいには、今の范無咎のことも謝必安は知ることができていた。
けれど本当にそうなったら今度はこちらが少し困ったことになる。思いつきは思うだけに留めておくとしよう。
そう気を取り直して、改めて居住まいを正す。ゆっくりとまばたきをした先の紙を見つめ、余分な墨を落として硯から穂先を離す。
──さぁ、今日の出来事を、感じた思いを、無咎にどう伝えようか。
口元を綻ばせながら、謝必安は紙面に筆を滑らせた。