英国紳士の嗜み
"入郷随俗"、ということわざが祖国にはある。
城と見紛うほどに巨大で豪奢な館。その一角に備えられた部屋で范無咎は唸る。ここは范無咎と謝必安に割り当てられた自室だった。
この荘園の主は東洋文化にも手を出していたらしい。中には范無咎にも覚えのあるものがあった。その一つが、この目の前にある文机である。
どうしたものか、と苦虫を噛みつぶしたような顔をして腕を組む。
貴人などの家に置いてあったような、側面に繊細な彫りが施された上等な机の上には、何の変哲もない一通の手紙。簡素な紙に、それよりも厚めの紙で折られた封筒。開けば、そこに綴られているのは范無咎の国の言語だった。
しばしば送られてくる赤い封蝋の押された荘園主のものではない。会話も手紙も異国語が飛び交うこの荘園内で、祖国の言葉を操れるのは范無咎が知る限り一人しかいない。己の無二の親友であり、己の半身である謝必安だけだ。
友の魂が収まっている黒傘を問うように見るが、何の反応もない。文机に寄り掛かり、静かに佇んでいる。
わからん、とため息を吐き、再び視線を落とす。
ここに招かれてから──謝必安が医生の女と接触したのをきっかけに渡されるようになった、自分宛ての手紙。
それ自体に不満はない。まめに置いてある手紙は、范無咎にとって親友の"今"を知ることのできる唯一の楽しみだった。だからこそ自分も苦手な筆をとって返事を書いている。謝必安に比べれば相当に少ないが。
故に手紙があることが珍しいわけでも、ましてや嫌なわけでもない。だのに今、親の仇のように睨みつけているのは、そこに書かれた内容に問題があったのだ。
「必安……」
喉の奥から低く呼ぶ声音は、表情も相まって大層不機嫌に聞こえる。だが実際は心底困り果てた末にこぼれたものだった。
郷に入っては郷に従え、ということだろう。客人として招かれたとはいえ、異国に足を踏み入れたのならば、その国の風習や規律を重んじるべきだと。
それは異なる文化への、ひいてはその文化の中で生まれ育った相手への礼儀に繋がる。謝必安が言いたいのは、おそらくそういうことだ。
その言い分はわかる。わかるのだが。
「これを、俺にやれと……?」
墨で綴られた紙を凝視するが、何も変わらない。腕を組んだまま背を丸めて、范無咎は参ったといわんばかりに呻く。
彼が眺める手紙の末尾には「ちゃんとお礼をするように」と、あの頃を変わりない手本のような書体でそう締めくくられていた。
◆ ◆ ◆
「気のせいだったら、構わないのだけれど」
そう前置きをして、エミリーは恐る恐る声をかけた。
「范無咎、私はあなたに何か気に障るようなことをしたかしら?」
ロケットチェアから見上げる背に問いかけると、周囲を警戒していた男があ?と胡乱な目をしてこちらを振り向いた。
「負傷させたサバイバーを片っ端から治療しているヤツが今さら何を言っている」
「それは、そうなのでしょうけど……」
金色の瞳に射抜かれ、反射的に身が竦む。普段から威圧感のある面差しをしているが、今日は輪をかけて恐ろしい。
確かにエミリーたちが仲間を治療する行為は、ハンターからすれば当然不利に働く。特に攪乱・救助に長けたサバイバーの復帰を、ハンター達が心底嫌がっていることは知っている。目の前にいる范無咎も例外ではない。
けど、とエミリーは再び口を開く。
「それこそ今さらあなたが怒る要因にはならないと思うのだけれど」
「いや普通に腹は立つぞ」
「でも、いつもと雰囲気が変わるほど怒りはしないでしょう?」
彼はエミリーの医術を疎んじているが、一方でそれが戦略だと理解している。逃げることに関してこれといった能力のない自分を、真っ先に退場させるのと同じことだ。
そう反論すれば、范無咎はぐっと押し黙った。口をへの字に曲げ、決まりが悪そうに目を背ける。
どうやら図星をついたらしい。隠し事をするのが苦手なのね、とエミリーは苦笑いを浮かべて長い三つ編みを垂らした頭を見つめた。彼の片割れである謝必安とは正反対だ。
そういった違いに気付くとき、二人は別人なのだと実感する。
何となくその後ろ姿を眺めていると、ちろりと横顔がこちらに向いた。苦い薬でも飲み込んだかのような顔をして、間を空けてからぽつりと呟く。
「……別に怒っているわけじゃない」
「……そうは見えないのだけれど」
「怒ってないと言っている」
じろりと睨めつけられ、身動きが取れないことも忘れて思わず身を引いた。
やっぱり怒っているじゃない。そう反論したいところだが、そこまでは恐ろしくてできなかった。チェアに拘束されたまま殴られたくはない。
しかし、怒っていないのなら何故それほど怖い顔をしているのだろうか。エミリーを見つけた瞬間、鬼気迫る勢いで追い駆けてきておいて。あれは本当に怖かった。命の危険を感じたほどに怖かった。
「なら、謝必安のことで何か気になることでも?それとも体調が悪い?時間を合わせてくれれば診察するわ」
「そういう訳でも……いや、ある意味繋がっているか……?」
その問いも一旦は否定するも、彼は途中で言葉を止めて何やらぶつぶつと呟きはじめた。
何なのだろうか、と今度はこちらが首を傾げる。やはり様子がおかしい。
また不調を隠しているのだろうか訝しげに眺めていると、ふいに気難しそうな表情でじっと見下ろしてきた。
「な、なに?」
あまりにも鋭い視線に問いを投げるが、彼は気難しい顔をしたまま返答しない。一体何なのだろう。
訳がわからないまま無言の威圧が続く。妙な沈黙に、エミリーは椅子の上で身じろいだ。居心地が悪い。
「あの……え?」
流石に耐え切れなくなりもう一度声をかけようとした頃、ようやく范無咎が動いた。
時間を追うごとに深くなっていった眉間のしわはそのままに、彼は無言で傘を放り投げたのだ。
何も言わずに溶けていく彼に、エミリーはぽかんと口を開けた。足元に広がった黒い水溜まりが、突如色を白く変えて大きく盛り上がる。
彼が消えた場所から現れた人物はきょとんと軽く周囲を見回し、それから苦笑いをこぼした。
「こんにちは、エミリー」
未だ近くまでサバイバーが来ていないと気付いたらしい謝必安は、先ほどまで対面していた彼とは正反対に愛想よく微笑んだ。
この状況でよく挨拶ができるものだ。いくら穏やかに見えても彼もハンターなのだと、こういう時に思い知る。
それでも以前ほどの恐怖は感じなくなっていた自分もいて、それもどうなのだろうと内心で自問した。良いのか悪いのか判断に迷うところだ。
思わず半眼になりつつ、エミリーは謝必安を上から下まで検分する。不思議そうに目をしばたかせる彼に、見た限りでは異常は見られない。
「何か?」
「范無咎の様子が、少し気になったから。また怪我でも隠しているのかと思って」
そう返すと、彼は合点がいったようにああ、と声を上げた。
「あれからちゃんと治りましたし、特に怪我もしていません。流石に反省しましたから。しかし、そうですか、無咎の様子が」
楽しげにくつくつと笑う謝必安を、エミリーは怪訝そうに見上げる。視線に気付いた彼は、笑顔のままずれたナースキャップを定位置に戻した。
「エミリーのせいではありませんよ。少し悩み事があるだけですから」
「……本当に、怪我ではないのね?」
「ええ。じきに解決すると思います」
ならいいのだけれど、と呟いたと同時に、細長い身体が宙に浮いた。そして驚くほどの速さで壁の向こうに消えていったあと、少しの間をおいて誰かの悲鳴が教会の空に響いた。
この声は、と思った途端に壁から涙目のトレイシーが飛び出してきた。
必死に逃げ惑う彼女を、謝必安はそれはそれはにこやかな笑みを浮かべて容赦なく狩っていく。チェアに届く前に地面に倒れてしまったトレイシーに、エミリーは心から同情したのだった。
◆ ◆ ◆
「あら黒無常、どうしかしたの?」
ゲーム終了後、エントランスのソファにぐったりともたれかかっていると、通りがかりのヴィオレッタに声をかけられた。范無咎はちらりと彼女を一瞥し、別に、と答える。
「疲れただけだ」
たったのワンゲームで。余計なことに気を回していたためだろう。妙に疲れた。頭が鈍く痛む。それもこれも謝必安が妙なことを言ってきたせいだ。
息を吐いて背もたれに身を沈める。范無咎の返事にふぅん、と相槌を打ったヴィオレッタは、カシャカシャとソファの傍まで移動してきた。
「じゃあはい、これ」
差し出されたものを反射的に受け取る。機械仕掛けの手から転がってきたものは、やたらきらきらした丸い包装紙だった。
「……菓子か?」
「ええ、キャンディよ。お裾分け」
両手を合わせ、明るい調子で相手は告げる。
「疲れたときは甘い物を食べるといいんだって、美智子が言ってたわ」
「……」
無言を了承を受け取ったのか、それとも渡したことに満足したのか、ヴィオレッタは機嫌よくそれじゃあね、と手を振りエントランスから出ていった。
物怖じしないヤツだな、と怪訝な顔で待機室へと消えていく背を見送る。眺めていた姿がドアの向こうへ消えてから、范無咎は手のひらに乗った菓子の一つをつまんだ。
両端を引っ張って包装を解けば、果実の香りと共にころりと丸い形の菓子が出てきた。そのまま口の中に放り込む。
転がっていったそれをがり、と噛み砕けば、破片が舌の上に散らばってゆっくりと溶けた。おぼろ気ながらも覚えのある味に遠い記憶を探り、ああ、と声をもらす。
「"糖"か。甘いな」
いわゆる飴玉だ。砂糖水を煮詰めて固めたもの。こういった菓子はどこの国にもあるらしい。
舌にいつまでも甘さが残るような菓子はどうも苦手なのだが、今は美味いと感じる。確かに疲労に甘味はいいらしい。
そういえば、と生前の記憶を思い出す。衙役時代の頃だ。
大捕り物などで疲労困憊になるまで働いた後は、決まって謝必安と二人で市へ出かけ、よく饅頭や団子などの甘味を買っていた。紙に包まれた出来立てのそれを、適当な段差に座って食べていたものだ。
所詮下働きだ。買ったものは子どものおやつ程度の安上がりなものばかりであったが、あの時に食べた菓子は豪勢な食事にも劣らぬ馳走だった。
──必安は甘いものが好きだったな。
甘味は殊更旨そうに食べていた。あの顔はガキの頃から変わらなかったと懐かしさに目を細め、残りの飴を上着の裏にしまう。
使用人に頼めば、他国の菓子も取り寄せてもらえるのだろうか。機会があれば言ってみるかと思案しながら懐に手を入れたとき、何かの紙が先に入っていることに気付いた。
「何だ……?」
首を傾げ、はたと思い出す。珍しく浮かんでいた淡い笑みから一転、整った顔は渋く険しいものに変わった。
飴を押し込み、代わりに折りたたんだ紙を取り出す。開いてみれば、予想通りとりあえず保留だと脇に置いておいた問題が目の前に現れた。
そうだった。悩みの種は依然、種のまま解決していなかった。
ソファに背を預けたまま、手紙を顔の前まで持ち上げる。もう一度読み返してみるが、今朝と変わらず同じことが綴られていた。
自然、額にしわが刻まれていく。がりり、と口の中で転がしていた飴を無意識にまた砕く。
いっそ忘れてなかったことにしてしまおうか。そんな考えが頭をよぎるが、すぐに無理だな、と范無咎は遠い目をする。謝必安が忘れるはずがない。
文面だけであれば礼はしたと嘘でもついてやり過ごせそうなものだが、バレる気がしてならない。范無咎が誤魔化そうとしても何故だかすぐに気付かれるのだ。
どうしたものか、とソファにもたれながらため息を吐く。飴の欠片は気付けば全てなくなり、口の中に甘さだけが残っていた。
(……そういえば、呼び方に訛りがなくなったな)
悩みの種であるもう一人の人物を思い浮かべ、ふと思う。
范無咎、と。ついこの間まではどこかぎこちなさが拭いきれなかった発音が、今日は違った。それほど呼び慣れたということか。
范無咎自身は医生と頻繁に話した覚えはない。ならば謝必安との会話で己の名が出る機会が多いのだろう。
──そうだ、謝必安の名も耳に馴染んだ発音だった。
謝必安のことを呼び捨てにするようになったのは知っていた。聞いてくれ無咎、と。范無咎に話したくて仕方がないときによく使っていた言葉遣いで、嬉しそうに綴っていたから。
謝必安はもう聞いたのだろうか。まだなのかもしれない。聞いていたら、手紙でその話題に触れるに違いない。
僕らの名前はいつ彼女に馴染むかな?以前にそう疑問を投げかけてきた親友の、笑みを浮かべて筆を動かす姿を想像して、自然と表情が緩んだ。
「──白無常さんからの手紙ですか?」
刹那、耳元で聞こえてきた問いかけに、范無咎は勢いよく背後を振り返った。
反射で振るった拳を、不意打ちで現れた人物は軽々と避ける。おっと、と大袈裟に両手を上げた胡散臭い仮面の男に、范無咎は唸りながら睨みつけた。
「人の手紙を盗み見るとは、とんだ悪趣味だな」
「これは失礼。通りがかりに見えてしまったものですから」
つい見えただけならまだしもわざわざ覗き込んできたところに性格の悪さが垣間見える。厄介な奴に見つかった、と相手がいることも気にせずその場で舌打ちをした。
しかし仮面の男──リッパーは范無咎の態度に気を悪くした様子もなく、ふむと顎に指を添えた。
「しかし、白無常さんは博識ですね。こちらの作法にもお詳しいとは」
手紙を見つめながらまじまじと呟く。その言葉に、范無咎は思わず目の前のハンターを凝視した。
「……お前の出身はここなのか?」
「おや、今さらですか」
「お前に興味など湧かん」
「ええ、そうでしょうね。ちなみに私のような礼儀に通じた者を、敬意をこめて英国紳士と称されるのですよ」
「なら、お前の国ではこれが常識なのか?」
余分な話には無視を決めて手紙を突き付ける。白い仮面をつけた男はやれやれと肩を竦め、そしてゆっくりと頷いた。
「そうですね。男性がこの仕草を見せれば、大抵のレディはどういう意図であるかわかります」
「…………そうか……」
そうなのか。
謝必安から聞いたときはそうでもなかったが、改めて異国の者に平然と肯定されると何とも衝撃だった。故郷とはあまりにも文化が違う。それを今さら突き付けられた気分だ。
「それにしても、白無常さんは本当に礼儀正しい方ですね。サバイバー相手にお礼ですか」
「別に悪いことじゃないだろう」
呆然としていた范無咎の耳にそんな言葉が届き、勝手に口が動いた。
思わず滑り出た反論に范無咎自身が驚く。相手の遠回しの皮肉は、確かにその通りだと自分とて思っていた。謝必安はあのサバイバーに甘すぎる。敵にそこまで礼儀を尽くす必要があるかと。
戸惑ったが、すぐに思い至った。謝必安があいつを気に入っているからだろう。だのに己が蔑ろにすれば、謝必安は悲しむ。
それに先日世話になった。礼もしなければ、范無咎はおろか謝必安まで無礼者に成り下がる。
そう結論付けて、手紙を折りたたむ。懐に入れると、飴とぶつかってかさりと音が鳴った。
そう、礼はしなければならない。ならば、腹を括ってやるしかない。全く気が進まないが。
深い呼吸を一つ。范無咎は気合いを入れて立ち上がった。
◆ ◆ ◆
今日は洗濯物がよく乾いてくれる。干していた衣服を次々と籠に入れながら、エミリーは抜けるような青空を見上げて目を細めた。
午前中のゲームは散々だったが、こうも天気が良いと自然と気分も晴れてくる。普段なら肌寒く感じる気候も、真上に昇る陽光が身に降り注いで暖かい。
午後のゲームは頑張らないと、と吊るされた服に手を伸ばす。腕の中までもってくれば、石鹸のいい香りが鼻先をくすぐった。
「やぁ、サバイバーのお嬢さん。こんにちは」
その時だった。唐突に背後から掛けられた声音に、エミリーは悲鳴を上げて飛び上がった。怯えながら振り返ったと同時に、おい、と咎めるような別の声が耳に届く。
「わざわざ隠れながら声をかけるな。つくづく趣味が悪いな」
「心外ですねぇ。遊び心があると言ってほしいものです」
ばくばくと跳ねる心臓を服ごと両手で押さえながら、あなたたちは、と震えた声で呟いた。
スーツを着崩した仮面の男と、東洋風の衣服で佇む長身の男。仮面男はリッパーという名で通っているハンターであり、もう一人は范無咎だった。
珍しい、というより今まで一度も見たことのない組み合わせだと、何とか端を引き寄せた冷静さで思う。
「とはいえ、思いのほか驚かせてしまったようですね。失礼いたしました、ダイアー医師。今この場で何かしようとは思っておりませんから、ご安心なさってください」
それは暗にそれ以外では何をするかわからない、ということではないか。
まったく安心できない言葉に今すぐ逃げ出したくなったが、逃走したらそれこそ追ってくるのだろう。ゲーム以外でも追い回されるなど冗談ではない。
エミリーは衝動を必死に抑え、代わりに問いを投げる。
「その、ハンターの方々が、こちらに何の用ですか……?」
「ええ、彼が貴女に、どうしても伝えたいことがあるそうですよ」
品よく手を動かして隣を指し示すと、范無咎は非難がましい目でリッパーを睨んだ。余計なことをするな、と顔が言っている。珍しいと感じた通り、やはりそれほど親しいわけではないようだ。
「范無咎、私に伝えたいことって?」
間に入るのは気が進まないが、このままでは時間だけが過ぎていきそうだ。そう判断したエミリーは范無咎に声をかける。
それだけでリッパーが何やら面白そうにほう、と声を上げた。彼の様子に更に范無咎の顔が怖くなる。
どんどん機嫌の悪くなっていく彼に尚更この場から立ち去りたくなる。早く済まないかしら、とどう言葉を引き出そうかと悩み始めたときだった。
「……医生」
彼特有の呼称で呼ばれ、やっと反応があったことに安堵しながら范無咎を見た。
「何かしら?ひょっとして謝必安のことでも──」
聞きたいの?そう続けようとした言葉は、途中で止まった。
見上げていた人物が、自分の目の前で片膝を付く。跪いたともいう。
編み込んだ長い髪が地面に垂れる。勿体ない、と頭の片隅でそんな言葉が浮かんだ。
普段は見ることのない黒い頭頂部をぽかんと眺めていると、ふいに頭が持ち上がった。首を上げなければ見えないはずの顔に、正面から見据えられる。
「え、あの……っ?」
その時点で相当に驚いたが、なおかつ添えるように手を取られていよいよ混乱を極めた。
ちょっと待って。エミリーは処理の追いつかない頭で現状を理解しようと努める。だが、身に沁みついた常識が余計に考えを絡ませる。
だって。狼狽しながら、エミリーは口の中だけで呟く。
──だって、その仕草はどう考えても。
黄金の瞳が、覚悟を決めたような強さを向けてくる。真一文字に結ばれていた口がゆっくりと隙間を空ける。
真っ直ぐに澄んだ眼差しに、心臓がとくりと大きく脈打ったのをエミリーは感じた。
「先日は世話になった。感謝する」
そして、紡がれた言葉に今度こそ思考が止まった。
固まっているエミリーをよそに、范無咎は短い礼を言ってから片手を引き寄せる。一拍ほどの躊躇いのあと、手の甲に顔を寄せてキスを落とされた。
ひやりとした柔らかい感触がした。かと思うと、間近に迫った頭がすぐに離れる。
「……お前たちの文化は変わってるな。礼をするのにいちいちこんなことをしなければならんのか……」
范無咎はげんなりとした調子で呟き、ゆっくりと顔を上げる。声音通り彼は疲れ切った顔をしていた。
その顔が、エミリーを見た瞬間はたと不思議そうに目をしばたかせた。その反応に、エミリーは徐々に事の次第を理解しはじめる。
「何か間違っていたか?」
ああ、やっぱり。
驚きと混乱が呆れと困惑に変わっていく。その時、がたん、と何かが落ちる音がした。
ぎこちなく首を巡らせると、裏庭に繋がるドアに人影があった。すらりと長い足を惜しげもなく見せた、身軽そうな衣装の女性。おそらく干すつもりで持ってきたのであろう衣服が、詰まった籠ごと彼女の足元に落ちていた。
籠から転がり落ちたらしい小さな箱が、ぱかりと開く。耳に馴染んだオルゴールの軽快なリズムが、周囲に漂う妙な空気を加速させた。
「──っ、きゃーーー!ちょっとみんな聞いて聞いてーーーー!!」
「マルガレータ待って!待ちなさい!」
まずい、と思った時には遅かった。引き留める間もなく、マルガレータは籠もオルゴールもそのままに館へと駆け戻っていく。流石サーカス団の踊り子、身のこなしが軽い。
エミリーは額に手を当てて溜め息をつく。この後に待ち受けている事態を思うと今から頭が痛かった。
「……何だ?」
頭上に疑問符を散らしている范無咎をちらりと見やり、またため息がこぼれる。
「わかって……ないわよね」
だからやったのだろうし。そう付け加えると、不審そうに眉間にしわを寄せた。范無咎も薄々勘付きはじめたのだろう。
どう説明しようか。清々しいまでの青空を仰ぎ、しばし言葉を探す。空は先ほどのように気分を晴らしてはくれなかった。
「おい、どういうことだ?」
「そうね……あなたが私にした行為は、私たちの国では男性がプロポーズをするときに使うものなの」
「ぷ、ろ……?何だそれは」
「婚約を結ぶ、つまり私はあなたと結婚したい、という意思表示ね。もしくは騎士が主人に忠誠を誓うときとか」
「……──、」
深く刻まれたしわが、徐々に薄くなっていく。きっと相当に驚いたのだろう。思考停止を余儀なくされた脳が、ゆっくりとエミリーの言葉を理解しようとしているのが手に取るようにわかった。
言葉もなく跪いたまま固まること一秒、二秒、三秒。
更に伸びる沈黙のなかで、突如として切れ長の瞳が一気に見開かれるのをエミリーは見た。
「────っ、必安っ!!」
范無咎の大声が裏庭に響き渡る。今は謝必安の魂が宿っているらしい大きな黒傘を両手で鷲掴み、眉を吊り上げてエミリーには聞き取れない言語で何事かを叫びだした。衝撃のあまり咄嗟に母国語が出たらしい。
やっぱりあなただったのね、とエミリーは半眼になって黒傘を見つめる。
冷静に考えてみれば、范無咎がそんなことを知っているはずもない。知っていたとしても自分にやるわけがないのだ。予想外の出来事とはいえ、一瞬でも勘違いをしてしまった自分が恥ずかしくなる。
はぁ、と息をついて頬を押さえると、今度はリッパーが耐え切れないとばかりに大声で笑い出した。
「あっはっは!やった!本当にやった!」
「貴っ様よくも騙したなっ!」
弾かれたように立ち上がった范無咎が彼に掴みかかった。笑いが止まらないらしいリッパーはお待ちを、とでも言うように手を上げる。
襟首を締め上げてくる手を押さえ、仕切り直すようにリッパーは咳払いをひとつ。それでも抑えきれなかった笑声が喉からくつくつと鳴っていた。
「いけませんねぇ、黒無常さん。他人を安易に信用しては。そもそも私は嘘などついていませんよ。寧ろ私が言った通り、あなたの行動だけでダイアー医師はそれが何であるか察したでしょう?」
「ふざけるな!こっちが誤認するような言い回しを選びやがったのはどこのどいつだ!」
「勘違いをしたのはあなたの落ち度ではありませんか。いやはや、なかなかに面白いワンシーンでした。ねぇ、ジョゼフさん?」
「は?」
「ふふ……ああ。呼んでくれて感謝するよ、リッパー」
どこからともなく聞こえてきた声に、エミリーはひっと短い悲鳴を上げた。
リッパーの視線を追えば、貴族然とした出で立ちをした青年が優雅な足取りでこちらに寄ってきていた。ハンターの一人、写真家のジョゼフだ。
唖然と固まっているエミリーと范無咎にかまわず、ジョゼフは范無咎に近寄って少しばかり腰を屈めた。
「白無常、君も後で見るといい。よく撮れたよ」
右手に握られた黒傘の前で、彼は一枚の写真をひらひらと振る。ジョゼフの声に応えるように黒傘がかたかたと震えた。心なしか楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。
もしかして、とこれまでの会話からその写真が何であるかエミリーが気付いたのと、范無咎がリッパーから手を放してその写真を奪おうとしたのは同時だった。
「おっと」
「消せ!今すぐ破り捨てろ!」
ぎりぎりのところで躱され范無咎は怒号する。怒り狂う范無咎にジョゼフは愉快でたまらないといった顔をして「いやだね」と拒否し、迫りくる腕を次々と避けていく。その様子をリッパーが笑いながら、時折ジョゼフを援護しながら眺めていた。
──何だろう、これは。
目の前で繰り広げられるハンターたちの攻防を、エミリーは呆然と眺めることしかできない。三人とも自分の動体視力程度では追いつけないほど素早い動きで争っている。だが実際にやっていることは一枚の写真をネタにからかわれているだけのことである。
ここはどこだろう。サバイバー館の裏庭だ。その場所で子どものように動き回っている者達は誰だ。自分達を追い回しているハンターだ。それは間違いないはずなのだが。
ふと、エミリーは范無咎を見る。彼は傘を振り回しながらも、ジョゼフとリッパーに翻弄されている。こちらに被害が及ばないところを見るに、一応気遣われてはいるようだ。
服装と同じように、范無咎と謝必安は地肌の色も対照的だ。范無咎の肌は、謝必安に比べて黒い面積が多く、白い肌少ない。だから余計に顔色が分かりづらい。
けれど、今は。白色の一部がある左側の目元が、誰が見てもわかるほど赤く染まっている。
(耳まで赤い……)
見たこともないくらいに慌てていて、必死に写真を奪取しようとジョゼフ達を追い回している。
まるで、そう。自分と何ら変わりない、人間のようで。
「──……ふ、」
気付けば、エミリーは耐え切れずに声を立てて笑っていた。
こぼれてしまった笑声を聞かれたらしい。范無咎が勢いよくこちらを振り向いた。
まずい、と思うが止められない。日頃の恐怖心などすっかり吹き飛ばされてしまった。
ちらりと様子を伺うと、范無咎の方も珍しくぽかんとした顔でこちらを見ていた。けれどすぐにバツが悪そうに顔を歪め、眉を吊り上げて大股で近寄ってきた。
「お前も笑うな!」
「ご、ごめんなさ──きゃあ!」
長い腕が伸びてきて頭を掴まれる。大きな手のひらは間を置かずにエミリーの髪を掻き回した。
「ちょっと、髪が……ふふっ……」
「だから笑うな!」
「だ、だって……」
──そんなに真っ赤になって、子どもみたいな誤魔化し方をするんだもの。
内心で呟いてまた笑みがこぼれる。謝必安の宿る傘を見れば、まるで笑っているかのようにふるふると震えていた。
牙をむき出しにして怒る姿だって、もう照れ隠しにしか見えない。それもおかしくてますます笑いの止め方がわからなくなった。
「もう、ちょっと、やめて──」
「エミリーに何してるの?」
ぐしゃぐしゃにされた髪からぱちん、と留め具が外れて地面に滑り落ちたその時、聞き慣れた少女の声が耳に届いた。
頭にある手のひらがぴたりと止まった。声のした方向に意図せず揃って首を動かせば、麦わら帽子をかぶった少女がきょとんとした顔をして自分達を見ていた。
エマ、と声を掛ける間もなく、彼女は再び口を開く。気付けばリッパーとジョゼフはいなくなっていた。
「黒無常さん、あなたに聞いてるの」
どこか有無を言わせない口調に、エミリーも范無咎も目を丸くした。謝必安もさっきまでの動きが嘘のように静止している。
ふと、気付けばオルゴールの音色が聞こえなくなっていた。視線を滑らせれば、エマの足元に何かの残骸が散らばっていて、エミリーは思わず見なかったことにした。
ぱちぱちとまばたきを繰り返してから、エマはにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「エミリーに、何、してるの?」
「お、おう……」
「散々な目に遭った」と、のちに范無咎は謝必安に宛ててそう綴ったという。