"患者"と"医者"・後
泥濘の中で微睡んでいた謝必安は、強制的に引き揚げられた意識に目を開き、視界に映った状況にぽかんと口を開けた。
薄暗い室内。嗅ぎ慣れた香が鼻先を掠める。おそらく自室。出入り口の、その目の前。
「……えみりー?」
白い衣服を着た女性が、同じく唖然とした様子で自分を見つめていた。常より大きく目を見開いたその表情は、普段より幼く見える。
いや、そうではない。何故彼女がここに。
無咎、と咄嗟に助けを求めて胸中で呼びかける。頭が全く働かない。
これは一体、どういう状況だ?
「……こんにちは、シャビアンさん」
先に混乱から回復したのはエミリーだった。我に返った彼女は、口唇を吊り上げてそれはそれはにこやかに挨拶をする。だが目が全く笑っていない。
思わず気圧されて素直に挨拶を返すと、間を置かずに問答無用で謝必安に突っ込んできた。
「ちょ、痛い、痛いです。えみりー、箱の角が骨に当たって──」
「痛いなら早くベッドに向かって」
救急箱を持ったままぐいぐいと押してくるエミリーに、謝必安はひどく狼狽えながら後ろに下がる。しかもいつもの丁寧な言葉遣いではない。
望んでいたことではあるが、こんな状況を想像していたのではない。決してない。一体どうしたことか。
訳の分からぬままに追い立てられ、そのままベッドの縁にふくらはぎが当たって反射運動で座る。次いで向けられた言葉に更に唖然とする羽目になった。
「脱いで」
「は?」
ただでさえ回らない思考が固まった。一瞬不埒な考えが頭をよぎるが、かろうじて残っていた冷静さがそれはないと否定する。誘われているにしては照れも色気も情緒もなさすぎる。
おそらく怪我のことだろう。普段の何倍も回転の遅い頭で判断して、謝必安はようやく微苦笑を浮かべた。
「いえ、その、おかまいなく……」
「いいから服を脱ぎなさい。かまわないかどうかは私が判断するわ」
が、寝台に腰かけてもなお下にある目線に鋭く睨みつけられるだけに終わる。
にべもない。どうやら相当にご立腹のようだ。
美人は怒ると怖い、といつかのどこだかで聞いた言葉を思い浮かべながら、謝必安は早々に観念して衣の紐に手をかけた。
こういう場合は大人しく従っておいた方がいい。長いこと活用することのなかった過去の経験則に久方ぶりにならう。
「見かけによらず頑固ですよね、あなた」
「今のあなたに言われたくないわ」
「ひどいですね、私なりに考えてのことだったのですが……」
いやに重い腕を緩慢に動かしながら彼女の反論に乾いた笑いをこぼした時、唐突にやってきた強い痛みに息を詰めた。表情を取り繕うことは得意であるが、今ばかりはそれをする余裕もなかった。元々痛みにはそれほど耐性がないのだ。
「いいわ。そのままでいて」
見かねたエミリーが救急箱を寝台横の机に置いて近寄った。手助けされながら中衣を脱ぐと、露わになった背中を見て彼女が息を呑んだのがわかった。
「こんな状態になるまで放っておくなんて……」
呆然とした呟きがやけにぼやけて聞こえた。そんなに酷いのだろうか。朧げな頭で左肩に視線を滑らせ、ぎょっと目を?く。
「えみり、何を」
「あっ、ちょっと──」
いつの間にか靴を脱ぎ、躊躇う様子もなく寝台に上がってきたエミリーを謝必安は慌てて腕で阻む。途端、眩暈に襲われぐらりと身体が傾いだ。
咄嗟に左手を突き出してしまい、体重が片手に乗る。しまったと思った時には、呼吸ができないほどの激痛が脳天を貫いた。
あまりの痛みに耐えきれず、謝必安は彼女を巻き込んで倒れた。
「す、みません……」
自分の下で苦しそうに呻いたエミリーに、息も絶え絶えに謝る。上半身を起こそうとするが、更に酷くなった眩暈のせいで力が入らなかった。
「大丈夫?」
気遣わしげな声が耳に届く。涼やかな音をした声色に少しだけ眩暈が治まり、何とか起き上がる。謝必安を補助するように胸を支えた小さな手のひらも、普段と違ってひやりと冷たかった。
「起きているのも辛そうね……そのままうつ伏せになれる?」
促されるままに寝台に伏せる。枕に顔を埋めたところで、ようやく人心地が付いた。
しかし次の瞬間、あまりの出来事に再び身を固めた。ふと何気なく机から救急箱を寝台に移動させていたエミリーが、あろうことか己の背に乗ってきたではないか。
脇腹にひたりと柔らかな感触が当たる。何を、と慌てて飛び起きようとして、しかし動く前に制された。
「大人しくなさい。でないと鎮静剤を打つわ」
「もはや脅しでは……」
「言うことを聞かない患者には遠慮をしないと決めているの」
そんな横暴な医者がどこにいる。だがきっぱりと言ってのけた相手に冗談の気配はない。目が本気だ。
常との差に思わず身を引きそうになっていると、有無を言わせない表情がふ、といつもの頼りなさげなものへと変わった。
「あなたがハンターであることは充分承知しているわ。でも、この怪我を放置しておけば今以上に酷くなりかねない。お願いだから、治療させて」
懇願する響きを孕んだ声音だった。謝必安は何とも複雑な面持ちで彼女を見つめていたが、回した首が痛くなりだした頃にわかりました、と白旗を上げた。
ほっと安堵に目を細める姿に、内心で溜め息をつく。エミリーは早速救急箱を開き、手早く治療の準備をしはじめていた。
男の背に跨る彼女に、羞恥や気まずさは一切感じない。一瞬でも狼狽えた自分が馬鹿らしくなるほどだ。ハンターにも性別があることを理解しているのだろうかと疑いたくなる。
先日、彼女は子ども扱いするなと怒っていたが。
(あなたも大概ですよね……)
医生としてはそちらのが正しい対応なのだろうが、そう思えて仕方がない。何となく理不尽な気分になるのは何故だろう。
「傷口を洗浄するわ。かなり沁みると思うけど、我慢してちょうだい」
そう告げられて始まった治療は、言葉通り相当な激痛だった。
傷口に水をかけられたかと思うとすぐさま悲鳴を上げそうなほどの痛みに変わった。冷たいと感じた先から焼けるような熱が湧いてくる。痛みを感じる範囲の広さに、思っていた以上に傷口が広がっていたことにようやく気付く。
謝必安は叫び出したいほどの痛苦に、目の前の枕を噛んで必死でやり過ごす。それでも押し殺しきれなかった呻きが喉から漏れ出てしまった。
全てが激しい熱と痛みに変わっていく。そのなかで、濡れた肩回りを拭う布と労わるように動く手のひらが触れる場所だけは、不思議と痛みと熱が引いていく錯覚を覚えた。
「──終わったわ、もう大丈夫」
軟膏が塗られた布を当て、その上からきっちりと包帯が巻かれる。やっと地獄のような痛みから解放され、謝必安は肺が空になるほど息を吐いた。鈍い痛みがじくじくと残っているが、先ほどよりも大分いい。
数度呼吸を繰り返し、謝必安は己の背から降りた女性に顔を向けた。清潔な布が目の前に現れ、汗をかいた顔を拭われる。謝謝、と礼を述べてから、ずっと喉の奥にあった疑問を口にした。
「あなた、どうやってここにいらしたのですか?」
エミリーはちらとこちらを見る。けれどすぐに視線を戻し、布を優しく押し当てながら答えた。
「美智子さんに案内してもらったの。ファンウジンが昨日、私の所に来ると言っていたのに来なかったから、おかしいと思って」
「無咎が?」
「ええ。美智子さんに聞いたら、今日一日あなたたちの姿を見ていないと聞いたから」
そうか、無咎が。口止めをしていたのに、という思いと、それほど心配をさせてしまったのだろう、という申し訳なさが胸中に湧く。
確かに無理をさせた。今の自分の容態をみて反省する。互いの身体的な不調は共有されるのだ。
細い指先が額に伸び、乱れた髪を梳く。簾(すだれ)のようにかかっていた白い髪が耳に掛けられ、憂いを帯びた伽羅の瞳と目があった。
「こんな状態になるまで無理をしてはいけないわ。痛みを隠していても、何にもならないの」
その言葉に、ぱっと古い記憶がよみがえる。今の今まで奥底にしまって忘れていたような、遠い昔の記憶が。
──我慢しないで、必安。辛いときはきちんと私に教えて?お願いね。
──苦しいとか、痛いとか、ちゃんと言え。言ってくれないと、俺は何もしてやれない。何もできないのは辛い。
女手一つで育ててくれた母。幼い頃から一緒だった無咎。
昔から、熱を出した謝必安を看病してくれたのは決まってこの二人だった。母がいなくなってからは無咎だけだった。
色恋沙汰が話題に盛り上がる年頃には、そうそう体調を崩すこともなくなっていた。だから謝必安の記憶の中で自分を看てくれたひとは、彼らだけだった。
その二人と似たようなことを訴えてくる女性を、謝必安は不思議な面持ちで見つめた。
「自分の身を犠牲にして誰かを守っても、守られた方は嬉しいとは思えない。少なくとも私はそう」
静かに続けられたその言葉に、謝必安はゆっくりとまばたきをした。胸に去来したさざ波が、かつての喪失の痛みを運んで置いていく。
「……ええ、そうですね」
その通りだ。手の甲を瞼に押し当て、息を吐く。彼女に対し、誤った選択をしていたことを自覚せざるを得なかった。
チ、チ、と時を刻む軽快なリズムが聞こえる。近くに懐中時計があるのだろう。無咎が服を脱いだ拍子に寝台の近くに転がってしまったのかもしれない。
ことりと、秒針とは別の物音がした。目元から手を外して視線を向ければ、寝台横の机に水差しと薬包を置く姿が見えた。
「痛み止めの薬を置いておくわ。痛みで眠れそうになかったらこれを飲んで。とにかく今は安静にして眠ること。また明日、様子を見に来るから」
そう言って、エミリーは寝台や床に落ちたタオルをまとめていく。腕の中におさまるそれは血や膿で汚れていた。
それを持って去っていくのだろう。怪我の処置は終わった。あとは自身の回復力次第だ。
エミリーはタオルを抱えてこちらを振り返る。お大事に、と軽く会釈をする彼女を、謝必安は見送るはずだった。
──なのに、気付いたときにはその細腕に手を伸ばしていた。
掴んだ腕は折れそうなほどに細く柔い。彼女は驚いたように忙しなくまばたきを繰り返す。けれど最初の頃のように咄嗟に振り払われるようなことはなかった。そのことに存外の安心感を覚える。
拒絶しないことに背を押されるように、自分でさえ思いもよらなかった言葉が口をついて出た。
「もう、行ってしまわれるのですか?」
片腕から布が数枚、はらりと落ちる。
エミリーは丸くしていた瞳を更に見開いていた。その反応を見て、謝必安ははたと我に返る。
「すみません」
白い腕から手を離す。何を血迷ったことを。熱で頭が働かない自覚はあったが、どうやら回らないどころか狂っているらしい。
そもそも彼女があらぬ疑いで追放されることを危惧していたのは他ならぬ謝必安だ。自ら不穏の種を撒いてどうする。
「その布は後で片付けますから、そのままで。どうかお気をつけて」
寝台の縁から垂れ下がった左腕をそのままに微笑する。謝必安は知っているのだ。濡れ衣を着せられて爪はじきに遭う苦しみを、疑いと蔑みの目を向けられる辛さを、誰よりも深く理解している。
その苦汁を、彼女には飲んでほしくない。
「……わかったわ」
エミリーは頷いて、落とした布を拾い上げて部屋の隅にまとめた。今の状態ではとても送れそうになかった。心臓が絞められるような違和感を無視して、もう一度お気をつけて、と小さな背中を見送る。
けれど、彼女は立ち上がったかと思うと何故か踵を返した。ドアノブを回すと思っていた手が、ぶらりと垂れ下がった左手を取る。優に手のひらに収まってしまう両手に挟まれ、椅子を寄せて座るとそのまま膝の上に乗せられた。
予想だにしなかった状況に、謝必安は唖然とエミリーを凝視した。
「……戻らないのですか?」
「戻るわ」
「これは?」
「あなたが眠ったのを確認してからね。また無断で部屋から出て行かれても困るもの」
それは無咎が。出かけた言葉を、謝必安は呑み込んだ。きっとそんなことは彼女もわかっている。敢えて言ったのは、謝必安への気遣いだ。
じわりと胸をあたためるものがある。けれどそれ以上に申し訳なさが頭をもたげた。それほどまで心を砕いてくれることも不思議で仕方なかった。
「いいのですか?」
「ここに来た時点で今更よ。というより、皆にこのことを話したときから、それなりの覚悟はしていたから」
「ご自分からおっしゃったのですか?」
謝必安は目を瞠る。てっきりサバイバーに現場を目撃され、告げ口でもされたのかと思っていた。
エミリーは心なしかすっきりとした様子でええ、と頷く。その表情に後悔の色は見られない。
「間違ったことはしていないもの。なら秘密にしておく必要はないわ」
「……あなたは、」
わかっている、とでもいうように彼女は口の端を上げてゆるく首を振る。自嘲気味の、眉尻を下げた困ったような笑みだった。
「馬鹿みたいだと思うわよね。実際そうなのかもしれない。でも、これだけは誰に何を言われようと譲れないの」
深い色の双眸には、告げた台詞に見合った強さがある。しかし、そのさらに奥で微かに必死さが揺らいでいるように感じられた。
見間違いかと思うほどにほんの微かなその揺らぎが、何故だろう。謝必安には強い決意以上に目に留まった。
まるで逃げてはいけないと、己に言い聞かせているようだ。
左手を握る両手にく、と力が入る。手の動きは無意識なのだろう。目を伏せて己の指先に指をからめるようにして遊ぶ彼女は、ひどく頼りなく見えた。
「皆からしたら敵に塩を送っているに等しいのでしょうし、あなたたちハンターから見れば愚かにも見えるのでしょうね。それはわかってる。でも、私は」
「いいえ、患者を救ったのです」
だから、喉からせり上がるように言葉が口を突いて出た。
ぱちりと目をしばたかせるエミリーに、謝必安は握られた手に少しだけ力を込める。からめた指先は、やはりひんやりと冷たい。
「あなたが無理を通してここまで出向いてくださったおかげで、私と無咎は助けられました。私たちだけではどうにもできませんでした」
確かに彼女のしていることは愚行なのだろう。愚直で融通が利かないとも言える。
けれど、この手が治療してくれたのも事実だ。優れた医術の腕を自分達にも向けてくれたおかげで、こうして数日ぶりに安らいでいられる。
その分け隔てのない誠実さと、時に頑固なまでの治療に対する真摯さが、そうだ、最初から好ましかった。卑下すべきことではない。誇っていいことだ。
ぼんやりと熱を持つ目元を、謝必安は柔らかく細める。
「ありがとうございます。Dr.エミリー」
覚えたばかりの言い回しで、そう礼を言った。その方が感謝の意が伝わるような気がしたから。
驚いたように固まっていた彼女は、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。呆然とした顔としばらく目が合う。謝必安を見つめて、それからふいに瞳を歪ませた。
泣くだろうかと少し焦ったが、彼女は泣かなかった。ぐっとこらえるように下唇を噛んで、その表情すら隠すように謝必安の左手に額を押し付けた。
手の隙間から、おそらく無意識に、柔らかそうな唇が解けてじわりと滲むような笑みをかたどる。
「ありがとう……」
その一言に、謝必安は首を傾げようとしてできなかった。痛みと強張りが解けた身体は休息を求め、押し寄せてきた眠気に抗いきれなくなってきていたのだ。
喉を震わせる体力も尽き、取り残された疑問が胸の中で揺らめく。
(なぜ、あなたが礼を言うのですか?)
彼女が感極まった理由は何故なのか。祈るような、縋るような様子で。
──一体、彼女に何があったのだろう。
次第に薄らいでいく意識のなかで、知りたいと。
左手を握りしめるぬくもりを感じながら、彼女に対して初めて強く、そう思った。
◆ ◆ ◆
「疑ったりして悪かった」
ドアノブに手をかけた瞬間、そんな声が耳に届いた。謝必安は目をしばたかせ、音を立てずに待機室へと忍び込む。
広間を見れば、既視感のある光景がそこにあった。
「ナワーブ君?」
「トレイシーに説教食らったんだ」
戸惑ったように手を胸の辺りに置いたエミリーの前に、頭を下げた傭兵がいる。けれどあの時のような剣呑さはまるでなかった。
「あんたがハンターを治療してるから、そんなヤツ信用できないって言ったんだ。そしたらアイツ、自分だって蜘蛛のハンターを直したって言ってきて。何でそんなことしてんだよって言ったらさ。そんなの関係ないって」
蜘蛛のハンターとはヴィオレッタのことだろう。彼女の身体のほとんどは機械で出来ている。その彼女を直せる相手となると。
サバイバーの顔を思い出している間にも傭兵の話は続く。
「身体が勝手に動くんだって、俺だってそうだろって言われた。仲間が捕まったら助けに行くだろって……その通りだって思った」
独り言のように語る青年がふと顔を上げた。
「助けねぇとって思うと、それ以外考えられなくなる。んで、上手く逃がせたら安心するんだ」
「安心……」
「だから、悪かった。あんたが怪我人治した時の顔、そういう顔だった」
視線をエミリーに向ける。そう指摘された彼女の表情はどこか不思議そうだった。
まばたきを繰り返していた彼女は、やがて淡い微笑みを浮かべる。緊張が解けたのが見ていてわかった。
「私の方こそ、皆を混乱させてしまうようなことを言ってしまってごめんなさい。もっと言葉を選ぶべきだったわ」
それに、と彼女は呟いて、少し間をおいてから続ける。
「スパイかと思われても仕方がない動きをしているとは、自分でも思っているから」
「……まぁ、そうだな。足遅いし、板倒すのも窓越えるのも遅くてすぐハンターに捕まるし」
「言ってくれるわね……」
「だって本当のことだろ。でも、本当にただ運動神経が悪かっただけだったんだな、”先生”」
正しいが容赦のない物言いに半眼になっていたエミリーは、続けられた傭兵の最後の一言に目を見開いた。
棒立ちになった彼女に、傭兵は一度頬を掻き、そうして片手を前に出す。
「改めて、よろしく頼む。この間のゲームみたいに、脳筋な奴らに指示飛ばしてくれ」
エミリーはまじまじと差し出された手を凝視していた。普段よりも丸くなった目は、けれど口元に笑みが浮かぶにつれて細まっていく。
安堵と喜色を滲ませて、エミリーは手甲の巻かれた手を握り返す。そのやり取りは異国人である謝必安でもわかる、和解の証だった。
謝必安は知れずほっと息をはいた。ひとまず一人、特にこじれていたであろう相手の誤解が解けたようで安心した。
礼を言いに来たのだが、ここで現れたら邪魔をしてしまうだろう。謝必安は微笑し、後日にしようと踵を返した。
「それは、あなたも入っているのかしら?」
「俺は違うな。運動神経もいいが、頭もいい」
「あら、大した自信ね」
そうするつもりであったのに、くすくすと笑いあう二人を見て、無意識に身体が動いた。
「──どうやら誤解が解けたようですね」
垂れ下がった幕をくぐって顔を出すと、二人は驚いて後退った。謝必安も自分の行動に内心で困惑しながら、それをおくびにも出さずに近付く。
「盗み聞きとは趣味が悪いな」
「失礼ですね、たまたま居合わせただけです」
じろりと睨み上げてきた傭兵に図星をつかれながらも適当にあしらう。同じくそう思ったから聞かぬふりを決め込むつもりだったのだが。ほぼ反射の行動ゆえに、謝必安自身も理由を把握できていなかった。
傭兵は不満そうな顔つきで更に食い下がろうとして、しかしそうはしなかった。ため息をついて首を振り、再度こちらを見る。
「白黒無常、次も負けないからな」
鋭く光ったつり目が、宣戦布告を口にする。謝必安は口端を吊り上げ、投げられた挑発を受け取めた。
「こちらこそ。そう簡単に勝たせるつもりはありませんので」
先日に脅しを受けていながら、自分を真正面から見上げる態度は大したものだ。その胆力には純粋に好感が持てた。
サバイバー達と張り合うのもそれはそれで楽しそうだと考えていると、シャビアンさん、とすぐ横から声がかかった。
「何かご用でも?」
「ええ、あなたにお礼を言おうと」
小首を傾げるエミリーににこやかに微笑み、深々と頭を下げる。礼を取りながら、そうか、とふと閃いた。
もしかしたら、こうしたかったのかもしれない。
「この間はありがとうございました。朝まで傍にいてくださって、とても嬉しかったです」
その言葉を発した瞬間、場が凍り付いたのを謝必安は感じた。予想通りの反応に、内心でほくそ笑む。
「……何だ、あんたら。そういう仲だったのか?」
「違います」
謝必安が口を開くのを遮るようにエミリーが即座に否定した。エミリーはくるりとこちらを向き、謝必安を非難するように睨みつける。その顔に焦りはあるが、赤くはなっていないのが少し残念だった。寧ろ青い。だが、それはそれで面白い。
「誤解を招く言い方はよしてください」
「おや、今日はその言葉遣いなのですか?私の部屋にいらしていたときは、敬語など使っていなかったのに……」
「……なぁ、別にそうでも黙っとくぞ」
「だから違うの。シャビアンさん、いい加減にしてください。笑えないジョークを言うならもう二度と普段の口調では話しません」
「なるほど、否定したら敬語をやめてくださると。というわけで誤解です、すみません。ほんの冗談のつもりでした」
ころりと手のひらを返して謝罪する白黒無常に、彼らのやり取りを唖然として見ていたナワーブは更に目を白黒させた。
──誰だ、こいつ?
先日のゲームとあまりにも違いすぎるハンターの姿に、思わず相手を凝視する。そうしている間にも白黒無常とエミリーの口論は続いた。
謝罪に誠意がこもっていません、そんなちゃんと込めましたよ、白々しいです、ところで敬語はやめてくれるのではないのですか?
声だけ聞けばとてもサバイバーとハンター同士の会話とは思えない。あまりにもくだらない、まるで平凡な日常そのものの会話がナワーブの頭上を飛び交っている。
会話に入り込めずに二人を交互に見ていたナワーブは、唐突にああそうか、と呆れまじりに理解した。
「先生がいると変わるんだな……」
やっぱり間違ってないんじゃないか?首を傾げたナワーブの疑問に答える者は、残念ながらここにはいなかった。