"迷い人"と”探し人”


広さの違いはあれ、書庫の空気というものはどこも似ている。
静かで、恒常的で、熱くもなく、寒くもない。窓からの光は紙の劣化を防ぐため、本を避けるようにして薄く差し込んでいるだけ。
閉鎖的でありながら、知識を求める者を静かに迎え入れてくれる。まさに本のために誂えたような場所だ。
その例にもれず、荘園の図書館も同じような雰囲気を醸し出していた。ちなみに天井に吊るされた半球状のシャンデリアは最近設置されたものらしく、端から見れば燭台に見えるそれは実は電気ランプなのだとか。
以前トレイシーが興奮気味に解説してくれたことを思い出し、エミリーは少し笑う。それから自分の倍以上の高さはある本棚を見上げた。
この棚には、背表紙にタイトルが書かれていない本ばかりが並んでいる。そもそも背表紙がなく、紙の束を紐で閉じられたものばかりだった。
「ここの棚だけジャンルもばらばらに詰め込まれているのは、そのせいかしら?」
それか分類前の本を一時的にこの棚に置いていたのかもしれない。異国の本でも、分野ごとにきちんと収められているものもあるのだから。
エミリーの目的のものはそちらの本棚にはなかった。次に可能性があるとしたらこの棚だ。
「この本がここにあったから、次はこの段からね……」
借りていた本を抜き出した時と同じ場所に差し込み、その右隣にある本を指先で引いた。表紙に記された文字を確認し、棚に戻してはゆっくりとした歩調で深い群青の床を歩く。図書館の床に敷き詰められた絨毯が、エミリーの足音を全て吸い込んでいった。
患者のカルテを探すような作業を繰り返し、時間を忘れて没頭し始めた時だった。
ふと、本棚に細長い影が差した。次いで感じた誰かの気配。
もしかして。そう思うよりも早く身体が動いた。
「おっと。これはこれはダイアー医師。何かお探しですか?」
反射的に振り向いて、彼ではないことに落胆した。そんな自分に内心で自嘲しながら、エミリーは声の主を見上げた。
「ええ、少し調べ物を……リッパーさんはどうしてこちらに?」
「私も同じ理由です。少々人体の構造について気になることが」
リッパーと呼ばれた細身の男は、胸に手を当てて会釈した。普段は外しているのだろうか。彼の特徴でもある鋭く長い鉤爪は、今は彼の手についていなかった。
「でしたら、二階に医学書がまとまっていますよ。階段を上がって、右手側の本棚に」
言いながら、エミリーは部屋の奥の方を指し示す。人体解剖学の本もそこにあるはずだ。
荘園主は随分と知的好奇心が強い人物らしい。あらゆるものに興味を持ち、そしてより深い知識を求める性分なのがこの部屋からよくわかる。
特に医学、さらに言えば精神医学に造詣(ぞうけい)が深い、とエミリーは推察している。その分野だけ殊更に専門的な蔵書が多いのだ。エミリーでさえ何度も読み返し、別の本と照らし合わせて読まなければ理解できない医学書もあった。
彼がどのような本を求めていたとしても、きっと目的の知識は見つかるはずだ。そう思い、エミリーは二階の本棚を指し示す。
しかし、リッパーは佇んだまま動かなかった。訝しげに首を傾げていると、ふむ、と顎に手を添え、彼はこちらをじっと見下ろしてきた。
「ダイアー医師、あなたは出産に立ち会った経験はおありですか?」
居心地の悪さを感じた矢先、問いに混じった単語に心臓が跳ねた。
エミリーは静かに息を呑む。動揺が顔に出ていないか不安だった。
「ええ……そうですね、以前は助産婦のもとについて、よく」
「その際に帝王切開を行ったことは?」
「……何故そんなことを?」
「いえ、単なる興味です。人の身体にメスを入れることに、あなたは何を思うのかと」
白い仮面に開いた小さな穴から強い視線を注がれる。表情は見えない。けれどよくないことを考えている。そう思った。
「特に何も。人体の構造について知りたいなら、私に聞くよりも図解を見た方が正確ですよ」
言いながら中央の通路へ向かおうとして、しかし長い手足に阻まれる。見上げれば、好奇の眼差しが自分を見下ろしていた。
「そうでしょうか?あなたなら、私がこの胸に抱く疑問を解いてくれそうに思うのですが」
「通してください。私に何を期待しているのか知りませんが、あなたの求める答えを私は持ち合わせていません」
「つれませんねぇ。そう言わずに、もう少し私の話を聞いてください」
エミリーは足の隙間からすり抜けようとするが、男の手がそれを阻んだ。肩を掴まれ、無理やり彼と相対する形をとらされる。
凹凸のない顔が目の前に迫る。もう慣れたと思っていたはずなのに、白いマスクの不気味さに身の毛がよだった。
「は、離し──」
「あなたからは私と同じ匂いがするのですよ。汚れなど知らないとでもいうような、その清潔で真っ白な手袋に包まれた手から。鉄臭を帯びた、血に染まった死臭が」
頭上から降り注ぐ言葉に、これ以上ないほど四肢が強張った。気道が一気に狭まる感覚に、呼吸の仕方がわからなくなる。
「な、にを、根拠にそんなこと……」
「おや、図星ですか?いえいえ、真っ当に働いていればお金にも生活にも困らないはずの職を手にお持ちでありながら、医師という身分を偽るような恰好をして、こんな物騒な荘園にいるものですから。何かしら訳アリだと思うではないですか」
喘ぐように呟けば、彼は戯けた様子でそう返してきた。その反応にエミリーは唇を噛む。
鎌をかけられたのだ。己の単純さを心の底から悔いる。
さて、とリッパーは愉しげな視線をエミリーに向ける。紳士的な部分など見当たらない、獲物を捕らえた眼差しだった。
彼はわざとらしい、ゆっくりとした調子で口を開く。
「ダイアー医師、あなたはどのようにして人を殺めてきたのですか?いつも持ち歩いているその注射器で、血管に毒を流して?それとも手術中に腹を開いたまま放置でもしましたか?」
心臓が嫌な大きさで脈を打った。
「わ、私は……人殺しなんて……」
男から目を逸らすことができない。そのせいで仮面の端から覗く口元が嗜虐的に吊り上がるのを目の当たりにしてしまった。
喜びに打ち震えるかのように恍惚とした男の声音が、エミリーに問いかける。
「人の内臓を取り上げた時の、体温と同じ温かさに……あなたは何を思いましたか?」
すぅ、と静かに伸びてきた手がエミリーの腹部に触れた。こちらの半身ほどもある手のひらは、その内側にある臓器の位置を確かめるようにぐっと腹を押してきた。
恐怖と不快感にエミリーは思わず下を向く。刹那、立ち眩みがしたかと思うと、目の前に靄が立ちこめた。
群青の絨毯は消え、足元は冷たいリノリウムの床が広がる。そして眼前に現れたのは、両手に何かを持った自分の腕だった。
それが何なのか理解した瞬間、ざっと全身の血が引いた。
「あ……」
大人の親指ほどしかない小さな手足。全身を丸めて、どちらかといえば小動物のようで。それでもヒトの形を成していた。
まだ未成熟だった。それでも生きていた。生きようとしていた。産まれるために生きていた。
目の前の生命が産声を上げる。けれど何もかもが未熟な身体は、外の世界で生きる機能を宿していなかった。
消毒液と血生臭いにおいが鼻を掠める。その泣き声が徐々に小さくなっていくのを、窓を閉め切った部屋で聞いていた。何度も、何度も。
傍らにはいつも誰かのすすり泣く声が響いていた。その泣き声がまるで、呪いのようだと──
「私、は……」
「おやおや、そんなに震えて……ああ、いいですね、その怯えた表情。とても可愛らしい」
するりと顎にかかった指先が頬を撫でる。その感覚に寒気が走った。身体の震えがどうしようもなく止まらなかった。
強制的に顔を上げさせられる。白い仮面はほとんど間近に迫っていた。
「私はそういう顔を見るのが大好きなんですよ。近頃、サバイバーを追い回してもなかなか怖がってくれなくて……物足りないと思っていたんです」
歌うような流暢さでリッパーは話す。エミリーに話しかけているというよりも、独り言に近い調子で彼は続ける。
「その表情をゲーム中でもしてほしいものです。ああ、そうだ、今この場であなたに恐怖を植え付けましょうか。そうしたらゲーム中でも怖がってくれるでしょう?恐怖に震えながら、なりふり構わず、涙を流して命乞いをして……そうしたら、あなたのお仲間も私を見て震えてくれると思うんですよ」
長い指先に力が込められた。下顎の骨が軋む感覚に、思わず両手でその手を掴んだ。そんなエミリーの抵抗すら愉快とばかりにリッパーは笑い声を上げた。
手のひらが顎から首筋へとなぞるように降りていく。上着のケープごと、襟元に指を掛けられた瞬間、エミリーは耐え切れずにきつく目を閉じた。
「──荘園内での暴力行為は禁止のはずではなかったか?」
ふいに男とは違う、不思議な低い声音が響いた。弾かれるように目を開けば、仮面の隙間から見える口元が笑みを消して顔を横に向けていた。
リッパーの目線を追うように辿ると、そこにはしゅるしゅると長い舌が揺らしながら佇む、爬虫類によく似た見た目をした人外の男の姿があった。
「ルキノさんではありませんか。どうしてこちらに?」
「本の返却と貸し出しだ。書斎とはそういう場所だろう」
「僕もいるよ、リッパー」
「おや、ロビーさんまで。お二人とも、いつの間にそんなに仲良くなられたのですか?」
ルキノの大きな背中からひょっこりと袋を頭にかぶたった少年が顔を出した。その台詞に嬉しそうにえへへ、と照れていたロビーは、リッパーの下にいるエミリーに気付いてあれ?と首を傾げた。
「エミリー?」
そう呟き、縮こまっているエミリーを見つめ、ルキノの背から降りて不思議そうにリッパーを見上げた。
「ねぇリッパー、ゲーム以外ではサバイバーをいじめちゃダメなんだよ」
「いじめるだなんてとんでもない。少しお話していただけですよ」
「そう?でもエミリー、すごく怖がってるみたいだよ」
「おやおや?そうとは気付かず、大変失礼しました」
ロビーの指摘に、さも今気付いたとばかりにリッパーはエミリーから離れた。白々しく謝罪してくる変わり身の早さに、エミリーは絶句するしかない。
エミリーが唖然としているうちにリッパーは一方的に挨拶を済ませ、そのまま図書館から去っていった。
パタン、と扉が閉まったと同時に、エミリーは本棚の側板に寄りかかって深く息を吐いた。何かにもたれないと座り込んでしまいそうだった。
「エミリー大丈夫?ルキノに部屋までおぶってもらう?」
「だ、大丈夫よ、ロビー君。助けてくれてありがとう。ルキノさんもありがとうございます」
とことこと寄ってきて心配そうに覗き込んできたロビーに、エミリーは慌てて笑みを浮かべた。「ほんとに?」と言い募る彼に、エミリーは安心させるように平気だと繰り返す。
「それより、ロビー君が今持ってる本は、私がおススメしたものじゃないかしら?読んでくれたのね」
「あ、うん、そうなんだ。この本、すっごく面白かったよ!」
美智子に読んでもらったんだ。そう言ってロビーは嬉しそうに表紙を掲げてみせた。
「よかった。前にねずの木の物語が好きだって言っていたから、このお話も好きなんじゃないかなって思ったの」
「エミリーはすごいね。色んな事いっぱい知ってて、まるで神父さまやシスターみたい」
「昔から読書は好きだったから。本をたくさん読んでいただけよ」
「おい、声が大きい。図書館では静かにしなさい」
話を弾ませていると、ふいに横から声がかかった。本棚を物色していたルキノにたしなめられ、ロビーと共に慌てて口を噤む。
「ねぇエミリー。他にもおススメの本はある?」
両手を袋の切れ目に添え、小さな声でこそこそと尋ねてくるロビーに、エミリーは目元を緩める。
「そうね……『ヘンゼルとグレーテル』はどうかしら?読んだことはある?」
「ううん、まだ読んだことない。探してみるね」
そう言って、わくわくと楽しそうにロビーは部屋の奥へと向かった。以前に教えた絵本の棚に迷うことなく歩いていくロビーを眺め、エミリーは微笑する。
「君はサバイバーのくせに、随分と無防備なのだな」
ロビーが棚の向こうへ消えていった頃、ルキノがおもむろに口を開いた。振り返れば、爬虫類特有の縦長の瞳孔がちらりとこちらを見つめていた。
「我々の関係は、共生ではなく共存だ。そのことに対して、もっと自覚と警戒心を持つべきだ。物理的に危害を加える以外にも、相手を害する方法はいくらでもあるだろう。私からしたら、君たちは羽虫のように脆弱だ」
「……ええ、そうですね。おっしゃる通りです……」
「本当に理解しているか?今君と話しているのは、その小さな身体を一瞬で丸呑みにできるトカゲ男だぞ?」
言うや否や、ルキノが鱗に覆われた腕をこちらに向けて伸ばしてきた。エミリーは後退り、反射的に腕を前に掲げる。
「それでいい。以後、距離の取り方を間違えないよう」
しかし、ルキノはすぐに腕を引っ込めた。そう言い、しゅるりと細長い舌を出す。
どうやら脅かしただけだったようだ。エミリーは胸を押さえてほっと息をつく。
「ルキノー、ちょっと来てー」
「今行こう」
言いつけを守って静かにルキノを呼ぶロビーにルキノが応える。ゆったりとした歩調でのそのそと少年の元へと向かっていく姿に、本当に仲良しなのね、とエミリーは感心した面持ちで猫背の背中を見つめた。
ルキノがロビーのいる棚へ辿り着く。エミリーは本棚からはみ出た長い尻尾がぱたりと揺れる様子をしばらく眺めていたが、やがて元いた本棚へと戻る。
「ええと……どこまで見たかしら……?」
途中で中断されてしまったせいでどの本まで見たかわからなくなってしまった。思わずこめかみを押さえるが、立ったままでは何も変わらない。
恨みごとのひとつでも言いたい。そう思って先程のリッパーとのやり取りを思い出して身震いした。何をやっているのかと首を振り、諦めて探し物の続きに取り掛かる。
「……リッパー?」
ふと、エミリーは目をしばたかせた。リッパー。その名前を荘園以外で聞いた覚えがあることを思い出したのだ。
「リッパー……霧の刃……気のせいかしら?どこかで……」
あっと思わず声を上げ、慌てて口を手で覆う。
「ロンドンで起きた、連続猟奇殺人事件……」
思い出した。以前、新聞の報道記事で見かけたことがあった。
「被害者は全て婦人……凶器は鋭いナイフのようなもの……」
喉を掻き切られ、事切れたあとに腹部を裂かれていたという。外傷はそれだけではない。犯人の殺し方は全て常軌を逸していた。
ある被害者は腹部を何度も刃物で刺され、また別の被害者は引きずり出された内臓を肩にかけられていた。四肢を細切れにされ部屋にばらまかれていた事件もあったと、記事に書かれていた現場はどれも凄惨だった。淡々と事実を記した文章だけで、人々を震撼させるほどに。
そして、その猟奇的な殺人はさらに謎めいていた。だからこそどんな報道よりも群を抜いて不気味だった。
彼女らの死体は、何故か子宮や腎臓が切り取られ、持ち去られていたのである。
「霧に紛れて刃を当てる……そうよ、何故今まで気づかなかったのかしら」
ロンドンの深い霧は狂った殺人者の姿を隠す。いくら長身であっても、その手に凶器を携えていても、都全体を覆う濃霧に溶け込んでしまえば彼の正体を暴けるものは誰もいなかった。
顔も名前も一切不明の、霧の中に姿をくらました殺人者。彼はいつしかこう呼ばれるようになった。
「切り裂きジャック……ジャック・ザ・”リッパー”……」
そして自分は丸腰のまま、今の今までかの有名な殺人鬼と対峙していたのだ。
ここが荘園という場所でなければ、悲惨な死を遂げた彼女たちと同じ目に遭っていたのだろう。そこでようやく実感が伴い、今さら死の恐怖を感じて震え出した身体を抱き締めた。
ルキノの言う通りだ。ハンターとのゲームに慣れてしまって、感覚が麻痺している。この荘園の中であれば身の安全は保障されるという油断もあった。
今まで起きたことがなかったから。だから気を抜いてしまっていた。
己の浅はかさにますます呆れた。エミリーは首をゆるく振り、切り替えるように顔を上げる。
「ダメね……気を引き締めなきゃ」
そう言い聞かせるように呟きながらも、それだけが原因だけではないことに気付いていた。
視界の端で白い服の裾が揺れていた。ちらりと横を見るが、当然そこには誰もいない。
ぽっかりと空いた狭い空間に、妙な物寂しさを感じてしまう。そんな自分が確かにいた。
隣にはいつも、背の高い人影が知らないうちに立っていた。ページをめくる音に視線を滑らせれば、気付いた彼が長い三つ編みを揺らし、穏やかな笑みを浮かべた。そうして、決まって問いかけてくるのだ。
──どうしました?と。
本の背表紙に指先を掛け、止まる。本に触れる手の甲に、そのまま額を寄せた。
「……守られていたのね」
吐息まじりの言葉がこぼれて落ちる。だから無防備でいられた。今更ながらにその事実に気付かされた。
いつの間にか。自分の知らないところで。

そんなことが、いくつもあるのかもしれない。


◆  ◆  ◆


水音が聞こえたと同時に何も見えなくなり、地べたが中心だった視野が一転した。
「な──?ちっ……!」
確かサバイバーを追いかけていたはずだ。だが入れ替わった地点は、今まで見ていた場所とはまったく違う場所だった。辺りを見回すが、足跡は当然、サバイバーの気配すら感じない。
范無咎は額に手を当てる。最近はこんなことばかりだ。謝必安が自分に代わるタイミングが噛み合わない。おかげで負けが続いていた。
怒りを鎮めるように息を吐き、范無咎は短く持った鎮魂傘を見つめ、必安、と名を呼ぶ。
「お前に考えがあってのことならいい。だがこれは……」
言いかけて、范無咎は口を閉じた。まだゲームはまだ続いている。
范無咎は首を振り、切り替えるように辺りを見渡す。脆い壁に囲まれた元は家か何かだったのだろうか。范無咎の傍にある暗号機は、何の音も立てずに静まり返っていた。
「こんな失態、お前らしくもない」
それでもつい、そんな呟きが范無咎の口から落ちる。
これが謝必安の策であったなら、范無咎が汲み取れなかっただけの話だ。そういうことであれば別に構わない。自分と謝必安では頭の出来が違うことは、それこそ生前から重々承知している。
だが、今のは違う。違うとはっきりわかる。
今だけではない。明らかに悪手だという時に諸行無常を使うことが増えた。范無咎自身のミスもないわけではないが、主にそれが原因で負けが続いている。それは謝必安もわかっているだろうに。
──相当に重症だな。
知らずため息がこぼれる。
刹那、廃れた教会にサイレンの音がけたたましく鳴り響いた。
范無咎は舌打ちをする。丁度狙いを定めていた暗号機が音を立てて光ったのだ。
「ここからだとどっちもどっちだな……」
サバイバーは残り三人。おそらく二手に分かれている。幸い今あがった暗号機はゲートからはやや距離がある。こちらの特質は瞬間移動。
ならば。范無咎は教会入り口の先にあるゲートを睨んだ。身体が空間ごとよじれていく感覚に顔をしかめているうちに浮遊感に襲われ、視界が暗転した。
「──捕った!」
地に足がついた瞬間、捉えた人影に間髪入れず一撃を叩き込む。傘に手応えを感じながら視界が明瞭になっていくの待てば、足元には人の形を模した人形が転がっていた。
「技師の……本体は反対側か」
振り返れば、対極にあるゲート側が黒く光っていた。人形を壊したことで技師伝手にこちらの居場所も知られたことだろう。
しかし、人形を壊した後も耳鳴りは続いている。サバイバーが近くにいるのだ。
逃げられる前に仕留めたい。そう思って動き出した范無咎の目に、丸い円状の輪郭が映った。
ゲートを目の前にして左手。墓標が立ち並ぶその地点。
祭司の転移陣だ。范無咎は足音が立つのもかまわず墓地へと急ぐ。
墓石の列を二つほど抜けると、そこにはつい先ほどまで謝必安が追っていた医生が陣の前に佇んでいた。
「逃がさんっ!」
「エミリー、早く!」
「フィオナ!」
范無咎に気付いた医生が身を竦めたのと、青い燐光を放つ陣から祭司が現れたのは同時だった。
射程に入る寸でのところで祭司が固まった医生の腕を引き、一つ目に吸い込まれて消える。
「クソっ」
だがまだ医生の残像は残っている。祭司の作るこの転移陣は、祭司以外が使うと一定時間だけその場に透明な輪郭が必ず現れる。
その残像はサバイバー自身の身体と繋がっている。つまり残像を攻撃すれば、その痛みが本来の身体にも伝わるという仕組みだ。
医生をダウンさせたあと、諸行無常で小屋近くにあるゲートに飛ぶ。そうすれば引き分けには持ち込めるはずだ。
「──っ?な、必安……っ?」
だが、残像を攻撃しようとしたその瞬間、振り下ろした腕が范無咎の意に反して止まった。いや、止められた。
鎮魂傘が、淡い緑色の光を纏って静止していた。残像に当たる一寸ほどの距離だ。力を込めてもそれ以上動かない。
その間に医生の残像は消えてしまった。同時にゲーム終了の知らせが届いた。
「……っ!」
范無咎は目の前の転移陣を蹴り飛ばす。陣は奇妙な音を立てて消え、後ろの墓石も巻き添えを食らってどう、と後ろに倒れた。
歯を食いしばり、倒れた墓石を睨みながら唸る。しばらくそうして激情に耐えていた范無咎は、やがて気が抜けたように頭を抱えてしゃがみこんだ。
誰もいなくなった教会の墓地で、范無咎は弱々しい声音で必安、と友の名を呼ぶ。
「何故、俺に何も言ってこない」
医生を攻撃できないのだろう。それともしたくないのか。けれど范無咎は、それを謝必安からは全く聞いていなかった。頭上の傘が微かに震えたが、それ以上の反応はなかった。
医生が湖の中に落ちたときから、目に見えて謝必安の様子がおかしくなった。
以前から落ち込んでいる節はあった。それも原因は医生だったようだが、今の不調は湖景村での出来事が引き金だ。
理由ははっきりとわかっている。医生が水に沈んだとき、謝必安は思い出してしまったのだろう。范無咎が河で溺れ死んだことを。
地面を見つめたまま、范無咎はいや、と自分の言葉を撤回する。
「だから言ってこないんだろうな……」
范無咎だからこそ。それは謝必安が自ら傷口を抉ることに等しい。謝必安が負っている深い傷は、范無咎に直結しているのだから。
そしてもう一つ。謝必安は范無咎も傷つけることを恐れているのだろう。だから言えない。
「必安……俺は気に病んでなんかいないと、どうすればお前に伝わるんだ?」
もう気にするな。俺は後悔なんてしていない。お前を恨んでなんかいない。今の状態も、別にそれほど悪いものじゃない。
言ったところで何だというのだろう。范無咎がそう言っただけで、果たして謝必安は自分自身を赦すことができるのだろうか。
できないだろう。他ならぬ范無咎ができていないのだから。
自分が身を投げたことを後悔していない。だが、そのせいで謝必安がすぐに後を追ってきてしまった。そのことを、范無咎は今なお深く悔やんでいる。
ぐしゃりと、范無咎は自身の髪を掴む。結った髪が無理やり引っ張られ、ぷつぷつと髪が切れる音が耳に響いた。
どうしたらいい。どうすればいい。
俺はあいつに何をしてやれる。未だに苦しんでいるあいつに。
はっ、と范無咎は自嘲する。わかっている。あの夜、医生に言い放った言葉は、全て自分に対しての罵倒でもあったのだ。
何をしてやれるというのだろう。必安を苦しめて、追い詰めた俺が。
どんな手を差し出せるというのか。先に手放して、手放したと思ったのに道連れにした俺が。
わからない。今までは手紙のやり取りなどなくともわかっていたはずだったのに。こんなにも不安に苛まれることなどなかったのに。
──わからない。必安に関して、俺は、俺自身が一番信用ならない。


「……やっぱり戻ってなかったのね」
その時、地面をする足音と共に、そんな声音が降ってきた。
驚いて顔を上げれば、つい先ほど逃げたばかりの、范無咎が今最も会いたくない女がぽつんと佇んでいた。



あとがき
改めて事件のことを調べてみたら思った以上にむごい事件でした切り裂きジャック……背景推理からもリッパーの異常さは伝わってきましたが、当時の現場の状況を読んでいるとこれが本当に現実であったことだと信じられないくらいの事件でした。

前も語った気がしますが白黒は自分が命をなげうったことは後悔してないけど、自分のせいで相手が命を落としたことはずっとずっと後悔してそうだなと思います。お互いが自分のことよりも大切な存在だったからこそ、大切な人を死なせてしまった自分をいつまでも赦せないんじゃないかなと。


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