"白無常"と"黒無常"


「……何をしに来た?」
唐突に目の前に現れた医生を、范無咎は座り込んだまま睨みつけた。女は一度は怯むように二の足を踏んだが、すぐにこちらに向かって歩き出す。
「寄るな!」
はっきりと拒絶を伝えるが、医生の足は止まらない。范無咎は半ば反射で傘を振り上げた。
「寄るなと言って──っ?」
しかし、振り切る前にまた腕が止まる。見上げれば、先程と同様に鎮魂傘が淡い光を放ち、范無咎の力と反発していた。
「私を殴れないの?」
気遣うような声音だ。范無咎はそれを跳ね返すように更に目尻をきつく吊り上げる。
「だからどうした。サバイバー共にでも言って回るか?」
「そんなつもりはないわ。……近付いても?」
煽るような言葉を投げつけても相手は微動だにしなかった。ただ足を止めただけで、動揺することも傷付いた様子もなく范無咎を見る。その視線に、知らず重心が後ろに傾ぐ。
医生の問いに諾とも否とも答えなかった。それをどう受け取ったのか、医生は再び足を進め、少しだけ距離を置いて立ち止まった。
「……怪我をしているわけではないのよね?」
「ああ。もういいだろう。さっさと消えろ」
こちらをじっと眺めてからそう呟いた医生に、范無咎は座り込んだまま乱暴に言葉を投げた。
今、この女と話をしたくなかった。この女の眼差しがどうも苦手だった。全てを見透かすようなその両の眼が、己の心に土足で踏み込んでくるような気にさせる。
「俺は驕るなと言ったはずだ。必安に関わるなとも。それともその石頭では理解できなかったか?」
「私が今話しているのはあなたよ、范無咎」
「俺と話すなら、必安と関わらないとでもいうのか」
「そうでしょう。だってあなたと謝必安は別人じゃない」
間髪入れずに返されて言葉に詰まった。そう、その通りだ。指摘されてようやく己の失言に気付く。
范無咎は舌打ちをした。苛立ちのまま墓石を砕けば、この女は怯えてどこかへ消えてくれるだろうか。そんな考えが頭をよぎる。
口が達者でない自覚は充分にあった。こういう時、相手を丸め込んで誤魔化す術を范無咎は持ち合わせていない。そういった役目はいつも謝必安が請け負っていた。
謝必安の横顔が頭によぎり、ぐっと息が詰まる錯覚がした。范無咎は無意識に喉元を掴む。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「うるさい!」
近付いてきた手を振り払う。小さい身体はそれだけでよろめいた。范無咎は思わず腕を伸ばすが、その前に医生は近くの墓石を掴んで何とか踏みとどまっていた。
ほっと胸を撫で下ろす医生の傍らで、どこか気まずい気分を味わいながら、宙を掻いた手を戻して視線を逸らす。
「何故、わざわざそんなことを聞く」
「だって……いえ、平気ならいいの」
更に言い募ろうとした医生は、ふと口を噤んで思い直すように首を振る。だが『いい』と思っているような顔ではなかった。それくらいはわかる。納得していない。そんな顔だ。
「心配だったから。謝必安もだけど、あなたのことも」
「……は?」
そんな顔で、医生は思いもよらない言葉を告げてきた。
心配?自分を?
何故。疑問が浮かぶ。范無咎は目を見開いて医生を凝視した。ついさっきまで自分を射抜いていた女の目は、今は所在なさげに地面に向けられていた。
気弱そうな眉を更に下げ、口元には張り付いた笑みが浮かぶ。自嘲的な笑みだった。
「またお節介を焼いてしまったわね。ごめんなさい、もう戻るわ」
医生は作り笑いを浮かべたまま謝り、そのまま范無咎の横を通り過ぎる。ゆっくりと自分から離れていく足音を、ただ呆然と聞いていた。
何故、自分にそんなことを。
今苦しんでいるのは謝必安の方だ。抱え込んで、悩んで、辛い思いをしているのは。
范無咎は傘の柄を握りしめる。いつの間にか、傘は光を失って沈黙していた。
足音が遠ざかっていく。風ひとつ吹かない荒れた教会の箱庭に、自分はひとり佇んだまま、立ち尽くして。
「……、……だろう」
わからない。女の言うことも。必安の心も。
わからない。
「大丈夫なわけ、ないだろう」
去ろうとする背に、そう口走ってしまった自分も。
「范無咎……?」
ぴたりと足音が止まった。不思議そうな、どこか優しく問いかけるように呼ぶその声に、范無咎は考えるより先に口が動いていた。
「大丈夫か、だと?必安がこんな状態なんだぞ?──平静でいられるわけがないだろっ!」
背を向けたまま、喉からせり上がってきたものをぶちまける。タガが外れた。溜め込んでいた鬱屈が、胸の奥から堰を切って溢れ出す。
「あいつの様子がおかしいんだ。どんどん悪化している。なのにあいつは、俺に何も言ってこない!」
ぎり、と強く噛んだ口の中でじわりと鉄の味がした。怒りとも悲しみともつかない感情を持て余すように、范無咎は叫んだ。
悩んでいる。怯えている。わかっているのに、わかっているから。
「俺のせいで、あいつは苦しんでいるのに……っ!」
それでも言ってほしいと思うのは、傲慢だろうか。辛いのだと、助けてほしいと……そう、自分を頼ってほしいと思うのは。
そのくせ、どうすればいいのかわからないのだ。謝必安の苦痛を和らげるような言葉も、解決できるような知恵も、自分は持ち合わせていない。
范無咎は片手で顔を覆う。瞼を閉じれば、少年のなりをした友の顔がぼんやりと浮かんできた。
泣き腫らした顔で、座り込んでいた。謝必安が天涯孤独になった時だ。
あの時、何も言えずに隣で座っていた自分に、珍しく乱暴に目元をぬぐってから、笑って友はこう言った。
──無咎がそばにいてくれるだけで、こんなに心強いことはないんだ。それだけで、僕はどんなことにだって耐えられる。
たったひとつ、ひとつだけこの手にあった、范無咎が謝必安のためにできたこと。
それを、范無咎はとうの昔に、手放してしまったから。
痩せこけた頬を指でこする。皮の次には骨の感触が伝わるこの身体は、謝必安のものだ。元々細身な男ではあった。が、記憶が正しければ生前の頃の謝必安はこれほどまで痩せてはいなかった。自分がいなくなってからの友を思い、胸がずきりと痛む。
こんな思いを、酷い選択を、させたかったわけではないのに。
「俺は、あいつに何もしてやれない」
無力なのだ。どうしようもなく。力になることも、見守ることすらできず、それどころか存在自体が謝必安を蝕んでいる。
それが辛いと、誰に言えよう。
息を深く吐き出す。再び、墓地には墓場らしい静寂が降りる。大声に驚いて逃げていたらしいカラスが、恐る恐る墓石に降り立つ音すら響く。
「……本当に、あなたのせいなの?」
その時、ぽつりと届いた声に范無咎はばっと後ろを振り向いた。気付けば、医生はすぐ傍に戻ってきていた。
しばし唖然としていた范無咎だったが、その言葉の意味を理解して眦を吊り上げる。
「元凶が何を言う」
范無咎は言い募ろうとして、しかしそれより先に医生が口を開く。
「私がきっかけを作ってしまったのは確かだわ。それは本当に申し訳なく思ってる」
だけど、と医生は顎に指を添え、そのまま黙り込んだ。少し思案したあと、顔を上げて范無咎を見上げる。
「謝必安が今のようになったことは、今までにもあったの?」
「お前に言う必要はない」
「なかったのね」
「おい」
人の心を勝手に読むな。そう言いかけて口を噤む。墓穴を掘ってどうする。
范無咎が苦虫を噛み潰している傍らで、医生はなおも考え込んでいるようだった。
「……范無咎、やっぱりもう一度、謝必安と会わせてくれないかしら?」
そして次に聞いた言葉に目をしばたかせ、それからはっと嘲笑した。この期に及んで、結局それが狙いか。そう感じた心のままに侮蔑を乗せる。
「あの夜のように、お前があいつを救うとでも言うつもりか?」
「救えるかどうかはわからない。でも、あなたたちの力になりたいと思ってる」
「──それで!」
声を張り上げると同時に拳を横に振るった。拳に当たった墓石ががらがらと音を立てて砕けた。戻ってきたばかりのカラスが、慌てて空へと羽ばたいていくのが視界の端で見えた。
「必安が壊れでもしたらどうしてくれる!貴様の命一つで贖えるものではないぞ!」
腹の底から怒りが込み上げた。同時にまたあの夜の繰り返しかと、空虚な思いが胸にあく。人間というのは、痛い目を見ないと過ちに気付かない。そんな輩を幾度も見てきたというのに。
こいつを信じた俺が馬鹿だった。范無咎は怒りのまま医生を睥睨する。
だが医生は、あの時のように怯えることも動揺することもなかった。地にしっかりと足をつけ、范無咎を真っ直ぐ見据え、そうして、
「それでも!このまま放っておいたらいずれ壊れてしまうわ!」
范無咎に負けないほどの声量で、聞いたこともないような強さで医生は叫んだのだ。
あまりの事態に范無咎は声を失って女を見下ろした。肩で息をしていた女は、一度深く呼吸をして冷静な表情に戻る。
「だからお願い、范無咎。あなたに力を貸してほしいの」
「なん……はぁ?」
続いた台詞に余計に混乱した。そんな自分を、医生は伽羅の瞳で見上げて話す。
「医者は万能ではない、ましてや神に対して完璧な治療なんて、私には手に負えない範囲のことだわ。私にできるのは──」
青い上着の前にある手がぐっと握り込まれる。力強い眼差しは、そのままの強さで注がれる。范無咎は立ち尽くしたまま、その眼差しを呆然と見つめ、そして気付く。
そこに宿るのは傲慢でも、驕りでも、ましてや打算でもなく。
「目の前にいる人に手を差し伸べて、真摯に向き合い寄り添うこと。ただそれだけよ」
誠実さと誇り。それらに満ちた医者の顔だった。
「だから助けてちょうだい。謝必安から話を聞くことができれば、それをあなたに伝えることもできるでしょう?」
あなたなら何か糸口を見つけられるんじゃないかしら。顎に指を添えて独り言のように医生は呟く。だが続く言葉を、范無咎は聞いていなかった。
女の言葉に嘘はない。取り繕っているわけでもない。本気でそう思っている。
こんな、得体のしれない存在に、非力な人間風情が、真っ向から。
「……お前」
真剣な表情で未だ知恵を巡らせているその女をまじまじと見つめ、そして范無咎はようやく一言呟いた。
「人にものを頼むにしては態度がでかいな」
「え……えっ?そんなつもりじゃ……」
「上から指示を出すことに慣れたやつらの物言いだ」
「ご、ごめんなさい。そんな……そう、なの……?」
思いもよらない返しだったのだろう。素っ頓狂な声を上げ、大いに狼狽えて目を泳がせた。先程の威勢はどこへやら、いつもの頼りない姿に戻った女に、范無咎は思わず俯いて肩を震わせた。
「范無咎、その、怒っているの?」
「……くっ」
おどおどとこちらの様子を伺う医生に、とうとう范無咎は耐え切れずに吹き出した。
馬鹿だ、と思った。元々馬鹿だと思っていたが、どうしようもなく馬鹿だと思った。頭が回るくせに、こんな馬鹿は見たことがない。
初めてだ。これほどまでに愚直で、強情で──なのに信じたいと思ってしまうような馬鹿は。
ぽかんと間抜けな顔をした医生が、声を上げて笑い続ける范無咎を見て次第に機嫌を損ねていく。それに気付いていながら、笑いを止めることができなかった。その顔が余計に笑いを誘った。
仕方がない。范無咎は自分で自分に言い訳をする。だってそうだろう。自分達に手を差し伸べるような酔狂な奴に、死後に出会うと誰が予想するか。
こんなに笑ったのはいつ振りだろうか。それほどに、范無咎は腹がよじれるほどに笑ったのだった。



「ところで、よく俺たちの正体に気付いたな」
ひとしきり笑ったあと、范無咎はおもむろに口を開いた。視線を下げれば、医生は未だに機嫌を損ねたままだった。「悪かったと言っただろう」そう付け足すが、「笑いながら言われても誠意を感じないわ」と一蹴される。
だが答える気はあるようだ。館へと戻る道を歩きながら、医生は少しの間思案する様子を見せた。
自力で范無咎と謝必安が異国の神だという事実に辿り着いた相手は、まだ不機嫌さを残したままこちらを見上げた。怜悧さを宿した伽羅の瞳を、今は嫌だとは思わない。
「あなたはあの時、私のことを人間と言ったわ。まるで自分たちが人ではないように」
「そんなこと、お前はとっくに知っていたろう」
「ええ、そうね。でもあなたたちがどんな存在なのか、私は考えたこともなかった」
だから知ろうと思ったの。女はそう言って前を向く。広大な森のなか、木々の隙間から館の尖塔の先がちらちらと見え始めていた。
「ベイカーさんや道化師は報道で見たことがある。それにリッパーさんも。黄衣の王は以前読んだ小説の神とよく似ているわ。そうしたら、フィオナがその小説のモデルとなった存在が、黄衣の王(ハスター様)だっていうんだもの。まさか本当に存在していたとは思わなかったし、そんな相手に追われるなんて夢にも思わなかったけれど」
何で彼はここにいるのかしら?と遠い目をする医生に、気まぐれじゃないか、とは流石に返しづらかった。気まぐれで恐怖の底に叩きつけられていたらたまったものではないだろう。
だが、少なくとも半分はそうではないかと范無咎は思っている。古今東西、神とは時に理不尽で時に突拍子もない存在だ。人の理の範疇を超えた存在が神だとも言える。
范無咎がそう考えているうちに気を取り直した医生が、それで、と話を続ける。
「そこまで考えて、とある憶測が思い浮かんだの。実際に図書館を調べてみたら案の定だったわ。この荘園には、あなた達ハンターに繋がる手掛かりがいくつもあった」
ふいに近くでがさりと音がした。衣の裾を掴んできた医生を庇うように前に出る。がさがさと揺れる木を注意深く見ていると、飛び出してきたのは数羽のカラスだった。
何だ、と肩透かしを食らう傍らで、ほっと息をついた医生が自分から離れる。その時、范無咎は妙な違和感を覚えるが、その正体を掴む前に医生が話し出したことで意識がそちらに向いた。
「考えてみたら当たり前よね。あなたたちの存在を知っていなければ、荘園に招待することはできないもの。それに荘園主は、招待客とその周辺の人間関係を入念に調べているようだし」
呟いた医生が一瞬、複雑な表情を浮かべた。范無咎はその刹那の変化に気付いたが、あえて触れることはしなかった。
「だから俺たちの情報も、何かしらの本として残されていないか、と?」
代わりにそう尋ねれば医生は頷き、それから躊躇いがちに口を開いた。
「最初は悪魔に関する書籍を調べたのだけれど、あなたたちと似た存在は見当たらなかった」
「あくま?」
「ええと……人に災いをもたらしたり、契約を結んだ人間の魂を食らうもの。そう呼ばれている存在ね」
つまり妖怪や悪霊の類か。范無咎は思わず眉間にしわを寄せる。
「気を悪くしないでちょうだい。決して悪気があったわけじゃないのよ」
「いや……あながち間違ってはいないからな」
罪人の魂を捕らえて地獄に引きずっていく。それが極卒の役目だ。そういう意味では、この国の悪魔という存在とそう大差ない。
だが、そもそも自分達は異国に知れ渡るほど有名な神ではない。ならばどうやって掴んだのかと聞けば、范無咎たちの祖国の人間が記した書物を読んだのだと医生はあっさりと答えた。
「お前が俺たちの国の言葉を読めるとは知らなかった」
意外だと目を丸くすれば、医生は前を向いたままふ、と目元を和らげた。微笑みを浮かべたその横顔に、范無咎の何かがまた引っかかる。けれど継いだ言葉に霧散してしまう。
「謝必安が貸してくれた辞書のおかげね。まだ分からない言葉もあるけれど」
「……そうか」
そういえばそんなこともあった。まだ医生と謝必安が互いを認識したばかりの頃。そして范無咎が医生に助力を請いながら、謝必安に初めて手紙に返した頃。その後の返事に、嬉しそうな筆跡でそんなことが書いてあった。
そして、その辞書を医生に渡した謝必安は、今は苦悩の渦に呑まれかけている。
范無咎は立ち止まる。気付いた医生が訝しげに自分を覗き込んだ。
医生に向き合い、范無咎は胸の前で手を組む。医生を目で捉えたまま、一呼吸おいて口を開いた。
「頼む。必安を救う手立てを、共に考えてくれ」
渦に呑まれて、息を殺してもがいている友を、そこから引き上げるために。
いつも二人だけだった。分かち合えるのも、寄りかかれるのも、全て。
伽羅の瞳が大きく見開く。しかしそれも束の間、医生は姿勢を正し、強い眼差しで頷いた。
范無咎は微かに微笑んで、祖国式の礼で感謝を告げた。



あとがき
弊荘園の黒エミは何故か少年漫画みたいなことになります。
黒は口下手で不器用で体を動かすことの方が性に合ってそうだと勝手に思ってますが、それはそれとして観察眼はすごく鋭いんじゃないかと思います。物事の本質を見極める才があるというか。少なくとも生前に大員が本当に求めている者は自分と白のどっちかが犠牲になることだと察する程度には核心をつける人だったんじゃないかなと。でも心の些細な機微はわからないし相手が本当に隠したいことはわからなそう。つまり直感が鋭い。

エミリーは医者として動いてる時が一番輝いてそう。きっと開業したばかりの頃みたいな気持ちには戻れないんだろうけど、それでも。そんなエミリーが好きです。往昔の頃はものすごく目をキラキラさせながら医学を学んでたんだろうなぁ…あの時代だと差別もあって辛い思いもしながらもあんな可愛い笑顔で頑張ってたんだと思うとちょっと現代に呼び寄せたくなります。


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