"拒む手"と"伸ばす手"・中


ふとした拍子に壊れていくのが人間だと、痛いほどわかっていたはずだったのに。


ぽつ、と微かな音が耳を掠め、謝必安は瞼を持ち上げた。
枯れ枝のような足と大理石の床がぼやけた視界に映る。焦点を合わせているうちに、また何かが葉を叩く音を聞く。
革張りの椅子に座ったまま緩く頭を振り、視線を巡らせる。窓に目を向ければ、ガラスに水滴が飛び散っていた。どうやら小雨が降ってきたらしい。
ぽつ、ぽつ、と絶え間ない音を聞きながら、いやだな、と口の中だけで呟く。この程度であればゲームは開催する。
どうせなら土砂降りにでもなればいいのに。そんな詮無いことを考えて、謝必安は自嘲する。憎いほどに雨が嫌いな自分がそれを願うとは。
「滑稽だな」
思ったことを口にすれば、思いの外よく響いた。
誰もいない待機室に、雨音がしとしととが忍び寄る。静寂に包まれた室内を、水の音が徐々に場を支配していく。そんな錯覚をおぼえ、謝必安は半ば無意識に喉元を指の腹でこすった。
「あ、次は病院ね」
「どっちだ?」
「聖心。よかったわね、ナワーブ。さっきの教会より走り回れるわよ」
その雨音をかき消したのは、唐突に現れた複数の声だった。サバイバー達が集まってきたのだ。
「頼もしいね。引き付け役はマーサとナワーブに頼んでも大丈夫かな?」
「ああ」
「任せて。その代わり最初にハンターが誰か教えなさいよ、イライ」
「もちろん。ということで、私たちは解読を頑張りましょう、先生」
「そうね。でも、怪我をしたらいつでも呼んでちょうだい」
謝必安は無意識に動きを止める。一度深く呼吸してから、意を決して幕の向こう側を覗き見た。
「え──」
思わずこぼした声に気付いて、慌てて口を塞ぐ。けれど視線だけは外せなかった。
エミリー。喉まで出かかった名前を口の中で打ち消す。
長机の端の席、衣の白と上着の薄青が薄暗い部屋でもよく見えた。線の細い横顔が、談笑する仲間を微笑ましく眺めている。
見つめているうちに胃に重石が落ちたような感覚に襲われ、謝必安は呼吸を促すようにふー、と深く息を吐いた。
「ついてないな……」
こういう日は何をしても悪い方面に転じやすい。"雪上加霜"──弱り目に祟り目とはよく言ったものだ。
姿勢を崩して背もたれに寄り掛かる。だらりと首を仰け反らせて天井を見つめながら、謝必安はくつりと歪な笑みがこぼした。
今更じゃないか。吉日なんてずっと来ていない。
(無咎は怒っているかな)
赤の教会で荒れていた友を思い出す。きっとそうだ。無咎は大の負けず嫌いだから。
「……無咎、あの日は彼女と何を話したんだい?」
エミリーと。鎮魂傘に触れて、喋ることがないとわかっていて尋ねる。ズルい問いかけだ。案の定、傘は椅子に寄り掛かったまま微動だにしない。聞こえていないのだから当然だった。
聞きたい、けれど聞きたくない。おそらく自分のことだから。
シャンデリアの蝋燭がちろちろと揺れている。謝必安は一度瞑目し、ゆっくりと瞼を上げた。
(できるだけ、彼女には会わない。彼女と無咎も会わせない)
范無咎はあの時、エミリーに頭を下げていた。謝必安の予測が正しければ、范無咎はエミリーに自分のことについて何がしかを頼み、エミリーもそれを了承したのだろう。
ならば、エミリーは謝必安と接触を図ろうとするはずだ。范無咎が彼女を見つけた場合、意図的に自分と入れ替わる可能性もある。
逃げている、とわかっている。けれど避けたい。今はまだ、考える時間が欲しい。
「……僕はいつも、君に迷惑ばかりかけてしまうね」
ごめん、と傘の柄についた紅玉に触れる。范無咎はきっと、自分のせいだと責任を感じている。あの大雨の日のことを思い出して、謝必安が病んでしまったのだと。
違うのに。けれど、誤解を解く勇気を謝必安は持ち合わせていない。
昔からそうだ。自分はとんだ臆病者で、ただその場でうずくまって、いやなことが過ぎ去るのを待つばかりの人間だった。そんな自分を引っ張り上げてくれたのが范無咎だった。
──僕が最も恐れるのは、あの頃からずっと変わらない。
だから、自分で何とかするしかない。
とにかく勝たなければ。最低でも引き分けにする。
謝必安は一度深く呼吸をする。いつも范無咎へ掛ける言葉を、今日は掛ける気にはなれなかった。



◆  ◆  ◆


『相手は白黒無常だ。みんな早く逃げて』

マップに足を踏み入れた直後、イライの通信がすぐに入ってきた。エミリーは廃墟と化した院内に入りながら、了解、と短く返答する。
『天眼』、というらしい。彼はどんなに広い場所でも、相棒のフクロウの眼を借りてハンターの位置や姿を捉え、仲間に知らせてくれる。ハンターから逃げながら暗号機を解読しなければならない自分達にとって、イライの不思議な力は非常に心強い。
だが、その分制限もある。視えるのは五秒、そして姿は影のような輪郭がぼんやりとしているのだという。それでも強力なことには違いない。
「二階に隠れた方がいいかしら……」
早く逃げて、とイライが言ってきたのは、奇襲に注意しろ、という意味だ。白黒無常──謝必安と范無咎は、初手にいきなり現れて奇襲をかけられることが多い。
自分が現れた位置からサバイバーの位置を割り出し、そしてどの暗号機をまず解読するかを予測して傘で飛んでくる。見えているのかと思うくらいの正確さで不意をついてくるのがあの二人だ。
もし解読中に奇襲を受けたら、逃げるための手段が少ないエミリーまず負傷してしまう。いつでも逃げられるように病院の二階で待機し、待機場所を仲間に知らせてから物陰にしゃがみ込んだ。
じっとしていると、荒れた院内が嫌でも視界に入ってくる。明らかにまともではない設備、それを使った形跡が至る所にある。床に転がる薬品のラベルの表記を読んでしまい、エミリーは目を逸らした。
模造された庭とはいえ、正直あまり長居はしたくない。エミリーは無意識に鎮痛剤を握りしめる。
心音を落ち着かせているうちに、通信から高い声音で『ハンターが近くにいる!』と知らせを受けた。それと同時にエミリーも動き出す。
『ごめん、速攻で見つかった。もう、雨で視界が悪いったら!』
マーサ、とエミリーはいち早く声を掛ける。
「このまま院内に来る?」
『ううん、ちょうど壁と板があるから、ここで時間を稼ぐわ。そのまま解読してて』
『フクロウはいるかい?』
『大丈夫!とっておいて!』
それを最後に通信はすぐに切れた。本格的に逃げ始めたのだろう。代わりに発信機を開けば、彼女の位置を白い点で知らせていた。
エミリーは階段を下り、小さな半円状に出っ張った窓際の暗号機に触れる。電源を入れると、ほどなくしてモールス信号の無機質な音が鳴り始めた。
キーボードを叩きながらちらりと前を見る。細かい雨が霧のように立ち込めて、視界に映るのはぼやけた影ばかり。この状況ではお互い見えづらいだろう。身を潜めやすい分、ハンターが近付いてきても気付きにくい。
マーサたちの位置を把握しつつ、しばらくは黙々と暗号を解読していた。機械から出てくる紙が舌のように長くなってきた頃、ふいに遠くから銃の発砲音が響いた。
エミリーは手を止めて後ろを振り返る。当然、視界に映るのは薄汚れた廃墟の壁だけだ。
「謝必安、范無咎……」
無意識に呟いた言葉に、エミリーははっとする。呆れるように額に手を当て、急いで解読に戻る。
今の二人はハンターだ。そして自分はゲームに参加したサバイバー。向こうの心配をしている場合ではない。
例え彼らの調子が悪くても手を抜いてはいけない。負けてデメリットをこうむるのは、自分だけではないのだから。
ザザ、と通信機から音が出る。小さなノイズのあと、イライです、と低い声音が聞こえてきた。
『先生、こちらの解読が終わりました』
「私ももうすぐ終わるわ」
返答しながら、エミリーは発信機で解読の終わった暗号機の位置を見る。
「クラークさん、次は小屋の暗号機を任せてもいいかしら?」
『わかりました──おっと?』
通信機にまたノイズが混じる。砂が落ちるような音が消えると、彼とは別の声が届いた。
『俺はマーサのフォローに入る。あいつそろそろ限界だろ』
「なら、私はサベダーさんの暗号機を引き継ぐわ」
『頼んだ、先生』
襟に付けたマイクのスイッチを切り、エミリーは発信機を持って駆け出す。
医者の自分が焦ってはいけない。これ以上謝必安の容態が悪くならないことを祈ろう。
今自分にできるのは、それだけだ。



ガン、と目立つ音が教会辺りから聞こえてくる。またどこかで暗号機の解読が終わった。謝必安は再び捕らえた空軍を椅子に拘束しながら、四回目のその音を聞いた。
すぐに振り向いて残りの暗号機に目を配る。こことは大分離れた場所でアンテナが大きく揺れている。
あれでは救助したタイミングで通電されてしまうだろう。謝必安は無意識に口唇を噛む。
やはりひとりでゲームをこなすのは厳しい。エミリーでなければ無咎に代わっているが、サバイバーを視認してから諸行無常を使うため、どうしてもタイミングが限られてくる。
おまけにこの霧雨だ。いつもの立ち回りができないせいで、余計に調子が崩れている。
「ねぇってば!ちょっと無視?いくら余裕がないからって、それはないんじゃない?それともその尖った耳はただの飾り?」
解読間近の暗号機を睨んでいると、ひときわ大きな喚き声が背後から突き刺さった。謝必安はひとつ息をつき、冷ややかな眼差しを向ける。
「先程からうるさいですね。ゲーム中、敵に話すことなどありますか?」
無表情のまま皮肉を言えば、強気な顔をした少女は呆れたような表情をして謝必安を見上げてきた。
「あんた、本当にエミリーとそれ以外とじゃ態度が全然違うのね」
彼女の名を上げられ、ぴくりと眉が跳ねる。謝必安はざわついた内心を悟られぬように首を振り、口元に笑みを貼り付ける。
「そんなつもりはないのですが……どうも騒がしい人は苦手で、つい今のように態度に出てしまうのです」
話しかけてきたのはこちらの気を逸らすためだろう。耳鳴りがしている。誰かが救助に来ているのだ。
「あら、それは失礼。エミリーの前じゃいつも楽しそうに話しているから、てっきりおしゃべりが好きなのかと思ったわ」
空軍は鼻で笑いながらこちらの皮肉を皮肉で返す。見られていたのか。
それもそうだ、と謝必安は思い直す。ハンターとサバイバーの交流が増えてからは、特に隠すこともしていなかったのだ。誰が見ていてもおかしくない。
目撃されても問題ないと思っていた。あの頃は。もう、彼女を追い詰める状況にはそうそうならないだろうと、思っていたから。
(今は僕の方が、……!)
謝必安は思考を中断する。足音が聞こえてきたのだ。
病院の出入り口から人影が飛び出す。それが誰か認識した瞬間、謝必安はぎくりと肩をこわばらせた。
「マーサ!」
「エミリーこっち!手を貸して!」
エミリーが息を切らせて走ってくる。謝必安は生唾を飲み、意を決してこちらに向かってくる彼女に傘を構える。
「くっ……!」
だが、やはりそれ以上腕が動かない。奥歯を噛み、切り替えてチェアの傍に戻る。彼女を狩るのが無理なら、空軍を確実に仕留めなければ。
これ以上は負けられない。負けて段位が落ちたら、もう後がないかもしれないのだ。
謝必安の息が浅くなる。すぐに空軍を脱落させて、それからゲートへ向かって傭兵と占い師を追う。引き分けを狙うにはそれしか手はない。
エミリーが拘束を解いた。すかさず椅子から飛び降りた空軍に向かって傘を突く。狙い通り、傘に当たった身体が衝撃によろけた。
が、やはりその直後に通電のブザーが鳴り響いた。
最後の気力を振り絞るように空軍が再び立ち上がる。もう一度狙いを定めて謝必安は傘を構える。
悔しそうに歪んだ顔を目が合う。そのまま少女目掛けて大きく振り上げた傘を振り下ろす。
その時、空を裂くような速さで何かが謝必安の横を通り過ぎた。それが鳥だと気付いたときには、振り下ろした傘を妙な力で受け止められていた。
「フクロウ……!」
「ナイスイライ!」
まだ使い鳥の加護が残っていたか。完全に失念していた。傘を握りしめ、三度空軍を追いかける。
だが、その攻撃の隙がさらに戦況を不利にした。後ろにいたエミリーが、自分の足元をすり抜けて間に割り込んできたのだ。
「マーサ、早く逃げて!もう一度捕まったら飛ばされてしまうわ!」
「……っ、ありがとう!」
空軍が前を向いて更に速度を上げる。逃がしてなるものか、と足を踏み出すが、突然目の前で板が倒れてきた。
「いっ……!」
まずいと思ったときにはもう遅かった。衝撃に瞼の裏に火花が散り、一瞬視界が白くなる。
逃げていく足音が遠のいていく。頭を振り、急いで板を割って前方を見れば、既に二人の姿は見えなくなっていた。
額に冷や汗が流れる。このまま逃げられてしまえば。
焦燥感が全身を支配していく。
「……いやだ」
謝必安は反射的な反応で己の魄(はく)を外に散らす。密度の低くなった身体が浮き上がり、風のような速度で宙を駆ける。
いやだ。いやだいやだ。
足跡を辿れば、すぐに逃げる二人の姿を捕らえた。振り向いた顔は驚きに目を見開いている。
負けたくない。負けてはならない。
彼女らに向けて手をかざせば、淡い光が小さな体を縁どるように現れた。糸のように伸びて自分の手に吸い込まれていく。逃げる背にどんどん近付いていく。
「嘘でしょ!?」
「あの板まで……!」
眼前の人間が焦りながら何かを叫んでいる。距離はそろそろ間合いに入るところまで縮まっていた。
あと少し、あと少しで──!
ぐっと左手に力を込める。浮遊する身体がさらに加速した。
范無咎の宿る傘が震え出した。何かを訴えるように震える鎮魂傘に、しかし謝必安は気付かなかった。とにかく目の前の人間を狩ることで必死だった。
速度に比例して、碧い糸がどんどん手中に吸い込まれていく。寄り集まって、縒(よ)り合わさって、やがて形を成した、と思った──その時。
どさ、と何かが地面に落ちる音がした。
「エミリーっ!」
彼女の名を聞いた瞬間、ぱちん、と自分を覆っていた膜が弾けた感覚がした。
謝必安ははっと我を取り戻す。ぼやけていたことすら気付かなかった視界が、冷えた空気を感じると共に明確になっていく。雨はいつのまにか霧雨から秋雨に近いものに変わっていた。
散っていた魄(はく)が自身に戻ってくる。浮いていた足が地についた。全身に雨が纏わりつくなか、左手だけがやけにあたたかい。
そこは中央にある、二階建ての建物付近だった。壊れかけた柵のそば。ちょうど板と柵の間に、倒れているのは。
「エミリー?ちょっとどうしたの、エミリー!」
走り続けていた空軍が途中で立ち止まり、引き返してくる。地面に投げ出された手首をとって触れ、息を呑んだかと思うと急いで口元に手をかざした。強気な容姿をした少女の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「息が……?エミリーっ!」
みんな!と空軍がひどく慌てた様子で叫んだ。ほどなくして他のサバイバー達も集まってきた。
「マーサ、どうした?」
「これは……」
異変に気付いた二人も彼女に近付き、横たわった身体を軽くゆすりながら呼び掛ける。だが、いくら周りが騒がしくても彼女は依然として動かない。
謝必安も同様に動けなかった。サバイバーが足元で無防備に背中を見せていながら、視線は彼らの中心にいる存在に釘付けだった。
細い手足は力なく地に落ちている。雨でぬかるんだ土が彼女の白い衣服を容赦なく汚していた。冷たいだろうに、ぐったりと瞳を閉じたまま一向に開こうとしない。
謝必安にはわかった。あれはがらんどうだ。精巧に作られた人形と変わりない。──何故?
足元から寒気が這いあがってくる。息が苦しい。
あれは誰?あれは……あの人は、彼女、は。
「────、」
ようやく追いついた理解に、謝必安は呼吸を根こそぎ奪われた。
「エミリーっ!?」

「きゃあ?ちょっ、ナワーブこいつ押さえて!」
「無茶言うな!クソっ、手伝えイライ!」
「わかってるさ!」
塞がった喉から無理やり声を出せば絶叫じみた叫び声になった。エミリーに手を伸ばして、けれど他のサバイバーが腕に飛びついてきて阻まれた。
「ちっくしょ……何でこんな怪力なんだよハンターどもはっ……!」
「離しなさい!」
「落ち着くんだ白無常──うわっ!」
横薙ぎに腕を払えば、目隠しをした男が耐え切れずに地面に落ちた。傭兵はしぶとくしがみついてきたが、何度も振っているうちに離れていった。
「エミリー、エミリー!」
倒れた身体に近付き、抱き上げる。彼女は目を覚まさない。
泥を拭うように頬に触れる。あたたかい、けれど。謝必安は息を呑む。
「魂魄がない……」
魂も魄もなくなっている。彼女を彼女たらしめるものが。
あまりの事態に絶句していると、勢いよく飛んできた何かが額にぶつかった。痛みというよりも衝撃に驚き、謝必安は思わず目を向ける。
「戻しなさいよ、白黒無常……」
何かを投げた体勢のまま、怒りに満ちた眼で空軍が謝必安を睨んでいた。
「あんたがやったんでしょ!早くエミリーを元に戻してよ!」
「私が……」
のろのろと呟き、謝必安は大きく目を見開いた。先ほどの記憶がよみがえってくる。
普段の謝必安は、意識して力を制限している。それは范無咎も同様だ。
謝必安は精神を司る魂(こん)を吸い取り、精神が不安定になったサバイバーに幻覚を見せる。范無咎は肉体を司る魄(はく)を鐘の音で揺さぶり、身体の制御を効かなくさせる。
魂魄のうちの魂だけに、魄だけに、それぞれどちらかだけに影響を与えるよう制御していた。そうすれば器である宿体に残った片方が、片割れを引き戻そうと作用するからだ。──だというのに。
「エミリー……っ!」
そうだ。自分がやった。逃げる彼女らを狩るために、おそらく抑制なしの力を使って、そして。
肉体という器から、魂魄を完全に吸い取ってしまった。
眼下の彼女は動かない。謝必安に力なく全てを預けている。
何故こんなことに。こんなつもりではなかった。ただ恐ろしかった。負けたくなかった。だから、なのに。
「僕、は、また……」
ぱたぱたといくつもの雫が彼女の顔に落ちる。冷たい雨は、彼女の体温を容赦なく奪いとっていた。その事実が喉を締め付け、謝必安はたまらず喘いだ。
また、繰り返すのか。同じ過ちを。
震える喉が無意識に彼女の名を呼ぶ。その直後だった。

──私はもう、逃げたくない。

「エミ……──っ!?」
聞こえた、と思った刹那、鈍器で殴られるような頭痛が謝必安を襲った。
何かが、頭の中に入り込んでくる。
レンガ造りの家、異国の人間、見慣れない筆跡。見たこともない景色が、濁流のように迫る。
割れるような痛みに翻弄されているうちに、それら全てが混ざるようにぐにゃりと歪んだ。
──私は、大きな過ちを犯してしまった。
「えみ、り……」
落ち着いた、成熟した女性の声が頭に響く。やはり、これは彼女の声だ。
眩暈すら覚えるほどに目まぐるしく溢れる風景の中で、彼女の声が隙間を縫うように落とされていく。
──幼く、臆病で……私の弱さのせいで、患者を置いて逃げ出してしまった。我が身可愛さに、助けられたはずの患者を見捨てた。
ばっ、と薄暗い部屋が視界に映る。棚に並んだ薬品の瓶。妙に脚の高い無機質な寝台。銀色の深皿。黒い液体に浮かぶ何か。
──だから、今度こそ。取り返しがつかなくなる前に。
また景色が変わる。白い壁。広い部屋にぽつんと置かれた椅子。周りには見たこともない機械と繋がっていて、その椅子には幼い少女が座っていた。
──私は、彼女を治したいの。
ぶつん、と突如目の前が真っ暗になり、謝必安は弾かれるように顔を上げた。
「今のは……」
エミリーの記憶。もしくは彼女の意思だろうか。混乱する思考のなかで、しかし謝必安は一筋の光明を見た。
つまり、だとしたら。
ほつほつと未だ降り続ける雨を受けながらエミリーを見る。それから己の左手を見つめ、そこにあるものを感じ取った。
──いる。
まだ、ある。ここに。彼女の魂が。
「エミリーを戻しなさいって言ってるのよ!このっ──」
「マーサ、ストップ!抑えて!し、白無常、とにかく今は館に戻って……白無常?」
まだ間に合う。そう確信した謝必安はエミリーを抱えたまま、ぐっと左手に意識を集中する。
手遅れにはさせない。絶対に。
先ほど入り込んできた彼女の意思を頼りに自分の中を探っていく。魂魄は、命そのもの。いわば生きる力の源だ。謝必安の持つ力とは全く違う。
ならば異質な力を見つけて、引っ張り出せばいい。地獄へと送り出す時のように。
足跡を辿るように彼女の気配を探る。落ち着いて探せば、辿るのは容易かった。それはあたたかい光を放っていたから。謝必安が好ましいと感じた彼女そのものだ。
水中を泳ぐようにかき分けていけば、すぐにひときわ強い光を見つけた。そのぬくもりを抱え、自分の中から引き上げる。
やがて左手から碧い光がふわりと飛び出した。それは丸い輪郭を保ちながら、ちろちろと火の粉のように光を散らしている。
謝必安はゆっくりと左手を移動させ、片腕に抱えるエミリーの傍へその光を寄せる。
「戻りなさい、あなたの宿体へ」
あなたはまだ死ぬ時ではない。あなたの死に場所はここではない。だから。
「あなたはまだ、やるべきこと、やり遂げたいことがあるのでしょう?さぁ、早く」
語りかけながらそっと左手を離す。彼女の魂魄は少しの間その場に留まっていた。どこか躊躇うように浮かんでいた光は、やがて意を決したように宿体へと吸い込まれる。
その場にいた全員が固唾を呑んで見守っていた。
「エミリー」
魂魄が完全に身体に戻ったあと、謝必安は力を込めて名を呼んだ。彼女を彼女たらしめるための言霊を。
気の遠くなるような時間を待った気がした。雨の音だけが響く庭で、じわりと迫る絶望感に折れそうになった、その時だった。
「……ぅ、……っ」
小さな呻きと共に、抱えた身体が身じろぎをした。苦しそうに眉を潜めた彼女は、しかしすぐに眉間のしわをほどいて動かなくなった。
いや、ゆっくりと肩は上下に動いている。口元に手を当てれば、あたかい息がかかる。
それは、魂魄が戻ったあかしだった。
「エミリー!」
空軍が歓喜の声を上げた。飛びつくほどに勢いよく駆け寄ってきた少女は、放心しかけていた謝必安からエミリーを奪い取るように彼女に抱き着いた。
「生きてる!よかった、よかったぁ……っ!」
言いながら少女は涙ぐむ。謝必安に吹き飛ばされていた傭兵と占い師も、二人の元に近付いていく。息を吹き返したエミリーを見て、彼らも安堵した表情を浮かべた。
「何とかなった、ってことか?」
「そういうことだね。本当によかった。白無常、あなたのおかげで……って、おや?」

──ハンターが投降しました──

イライが声を掛ける前に、庭中にそんなアナウンスが流れた。視線を滑らせれば、そこで膝をついていたはずの白無常がいない。
「あいつ、さっさと逃げて……!」
「まぁまぁ。とにもかくにもゲームは終わったんだ。先生を早く休ませてあげないと」
半泣きのまま眉を吊り上げたマーサを宥めつつ、イライはエミリーの状態を確認する。
「……一先ず呼吸は落ち着いているね。念のためパトリシアに診せよう。流石にこんな状況は初めてだから」
「なくて当たり前よ!……これでエミリーが目を覚まさなかったら、ハンター館に殴り込みに行ってやるんだから」
「同感だ。マーサ、先生乗せるの手伝え」
マーサが横に付き添い、ナワーブはエミリーを抱えて歩き出す。ゲーム中は遠くが見えないほどに濃かった霧は、ゲートの位置が目視できる程度には幾分か晴れていた。
館へと戻る道を歩きながら、イライはふと立ち止まって振り返る。エミリーが倒れていた場所には、ひと一人分の水たまりができていた。
しばらくそれをじっと見つめていたが、徐々に粒が大きくなる雨に気付いて視線を上げた。
「嵐になりそうだな」
厚い雲の覆う空を見上げて小さく呟き、イライは速足でナワーブ達に合流したのだった。





あとがき
白黒の吸魂揺魄について自己解釈しています。吸魂揺魄の説明が好きです。魂(精神の気)と魄(肉体の気)を白黒は操れるって思うとすごい能力だなと思います。白は魄を散らすから肉体に影響が出て軽くなるだろうなとか、肉体の気を揺さぶるから黒の鐘の音で身体の制御が利かなくなるんだなとか、そういうの考えるのが面白いです。フレーバーテキスト大好き。

ゲーム待機室の床の素材って何なんでしょうね。白黒の床=大理石って安直さで大理石にしたけど。美術設定資料集こっちでも販売してくれないですかね…あわよくば翻訳版がほしい。


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