"拒む手"と"伸ばす手”・後


雨が降っている。それから、大きな川の音。
ひどい土砂降りだ。大粒の雨が勢いよく地に叩きつけられ、跳ね返る飛沫で景色が霞んで見える。目を開けていられるのが不思議なくらいだった。
雨音以外の音が掻き消えるほどの悪天候のなかで、ここは、と辺りを見回す。見覚えのない風景だ。細い葉がしな垂れる並木も、微かに見える街並みも。
更に視線を移せば、ふと人影が視界に映った。人影は傘をさしたまま、ごうごうと荒れ狂う河川の前で呆然と立ち尽くしている。
大蛇のごとくうねる波間から、ちらちらと何かが見える。目を凝らせば、かろうじて『南台』という東洋文字のプレートがはめ込まれている。
おそらく橋なのだろう。大雨で増水した川に呑み込まれてしまっているようだ。
人影はその橋の近くに佇んだまま、うねる川の前で忙しなく首を動かしていた。まるで何かを探すように。
いえ、とエミリーは首を振る。よう、ではない。"彼"を探しているのだ。
「ぅ──、──っ!!」
泣きながら叫んでいた。大雨がその人の声を掻き消して、こちらには届かない。けれど彼が何と叫んでいるかはわかった。
わからないはずがない。その名を、エミリーは知っている。
ざざ、と風に吹かれて何かが足元に転がってくる。黒い、大きな傘だ。開いたまま雨に打たれる姿を見つめ、その傘を差していたはずの人物に再び目を向ける。
傘の主はいつの間にか膝を付いてうずくまっていた。土砂降りの雨のなか、白い衣服が泥水を吸って黒に染まっていく。
ゲーム中でも汚れを気にするひとなのに。
そんな思いがよぎり、胸が締め付けられる。丸まった肩が時折不自然に跳ねあがる姿が、とても痛々しく思えた。
曇天から降り注ぐ雨粒が次第に彼の姿すらも呑み込んでいく。水たまりで溢れる地になおも雨を降らす空を見上げて、エミリーは声になりきれない吐息をこぼした。
──これは、深い傷の断片だ。



鈍い痛みを覚えて目を覚ますと、天井に吊り下げられたシャンデリアが視界に映った。燭台の灯が揺らめき、部屋を照らしている。壁を隔てた先では、ざぁぁ、と雨の降る音がよく聞こえた。
シャワーの蛇口を思い切り捻ったような音を聞きながら、少しだけ雨足が弱まったかしら、とエミリーは思った。それから全身を包む柔らかい感触に、自分が今まで眠っていたことに気付く。
身体の右側がひりひりと痛んだ。先程感じた痛みはこれのようだ。左腕をもそもそと動かして右腕に触れてみると、さらりと包帯の感触がした。
前腕の半ばから肩にかけて、かなりの広範囲だ。だというのにきっちりと綺麗に巻かれている。どうやら慣れた人が手当てをしてくれたらしい。
あとでお礼を言わないと。そう思いながらやたらと気怠い身体を起こし、エミリーははたと目をしばたかせた。自室だと思い込んでいたが、ここは別部屋のようだ。
「……医務室?」
正確には館の一室を医務室にした部屋だ。内装自体はほぼ同じのため気付かなかった。
「エミリー?」
どうしてここにいるのだろう。首を傾げた瞬間、すぐ傍で名を呼ばれた。視線を滑らせれば、ベッドサイドの椅子に座って麦わら帽子を抱えた少女がぽかんとエミリーを見つめていた。
「……エマ?」
「エミリー!目が覚めたなの!」
名を呼び返せば、エマは帽子を放り投げてエミリーに抱き着いた。驚きつつも彼女を受け止めると、ぐす、と鼻をすする音が聞こえてきた。
「エミリー、ナワーブさんに抱えられて戻ってきて……すごくぐったりしてて、ずっと眠ったままで……」
「そう……ごめんなさい、心配をかけてしまったわね」
震える背中を撫でると、エマは肩に頭を乗せたままふるふると首を振った。
「エミリーのせいじゃないの。でもすごく心配だったの。よかったなのぉ……っ」
よかったと涙声で繰り返すエマに、エミリーは眉を下げて微笑む。
相変わらず優しい子だ。彼女の思いやりが嬉しいと同時に、これほど心配させてしまったことを申し訳なく思う。
抱き締められたまましばらく背を撫で続けていると、ガチャ、とドアが開く音がした。扉の向こうから現れたのは、記憶が途切れる前までゲームに参加していた仲間の一人だった。
「エミリー!目を覚ましたのね!」
エミリーの顔を見るや否や、マーサはぱっと顔を明るくして部屋に入ってきた。水差しとグラスを乗せたトレーを持ったまま、少女は喜色を浮かべてこちらに早足で向かってくる。
「マーサ……私は、ゲームの途中で倒れたのかしら?」
「ええ。……あの時のこと、覚えてる?」
「……そうね、謝……白無常に追いかけられて、それからのことはあまり」
「そう……うん、そうよね。そのあと色々あって大変だったわけなんだけど……その話は後回しでいいわね。とりあえず、具合はどう?何か食べれる?ていうかエマ、エミリー病み上がりなんだから、寝かせてあげなさいよ」
マーサはサイドテーブルにトレーを置き、エマの肩を引っ張る。しかしエマは「イヤなの〜!」と拒み、余計にエミリーにしがみついて離れなかった。
もう、と呆れたようにため息をつくマーサに、エミリーは苦笑いをこぼす。
「大丈夫よ。頭もすっきりして、体調も良いくらい」
そう返すと、マーサはほっとしたように表情を緩めた。
「そっか。まぁ丸二日も眠れば眠気も吹っ飛ぶわよね」
「私そんなに眠っていたの!?」
ぽんと何気なく飛び出てきた発言にエミリーは驚愕する。思わずマーサを凝視すると、彼女はコップに二人分の水を注ぎながら頷いた。
「パトリシアが言うには、魂の定着がどうとかって……ごめん、私もあんまりよくわかってないんだ。待ってて、今パトリシア呼んでくるから」
マーサはそうバツが悪そうに頬を掻いたあと、すぐさま部屋から出ていった。
「二日も……眠って……?」
ぱたぱたと廊下を駆ける足音に言葉をかけ忘れるほど驚いたエミリーは、空白の時間を思い、二日も……、と呆然と繰り返したのだった。


◆  ◆  ◆


こんこん、と扉を叩く音に意識が浮上した。折角微睡みに溶けていたのに。謝必安は億劫な思いでゆっくりと瞼を持ち上げた。
真っ暗な視界に、光が薄く差し込んでいるのが見える。布団の隙間から見える窓を見やれば、植物が雨に叩かれて枝を揺らしていた。眠っている間も相変わらず雨は止むことなく、ひっきりなしに降り続けていたようだ。
少しずれた掛け布を頭からかぶりなおせば、また暗闇の世界に戻る。枕と布団に耳を押し付ければ雨音も弱くなり、外の世界が遮断された気分になれた。
鎮魂傘を腕に抱える。大雨のせいで微弱になっているが、確かに范無咎の魂も感じとれた。謝必安は安堵し、再び目を閉じる。
夢を見ていた。あの雨の日。范無咎を失った時の記憶。このところ毎日のように見続けている。──同時に、その悪夢を見て安心していた。
──憶えている。無咎のことを。忘れていない。
そう確認できるから。まだ大丈夫だと、謝必安は目を覚まして呼吸をする権利を得られるのだ。
静かに息を吐いて、鎮魂傘に触れながら謝必安は自嘲する。
あの日の夢を見て安堵するなんて、なんという皮肉だろう。あの日を思い出すからこそ、謝必安は謝必安でいられる。
「忘れたら、いけないんだ」
憶えている。あの雨の日を、あの絶望を、自分は憶えている。
忘れてはいけない。なかったことにしてはならない。
そうでなければ、謝必安がここに存在している意味なんてないのだから。



「──ハンターとしてゲームに参加しはじめた頃のことだ。あの頃の私は復讐相手を殺すことしか頭になかった。……そのせいで、私は先生を殺めかけた」
ロビーと協力狩りに参加したあの日。レオは荘園主からの罰について語ってくれた。
彼が何を違反して、どんな罰を受けたのかを。
「場所は軍需工場だった。そのせいで余計に怒りで周りが見えなくなっていたのだろうな……工場の外で人影を見つけて、殴り飛ばした。倒れた相手を見て初めて別人だと気付いた。それが先生だった。慌てて工場の地下室に横たえておいて、あの人とはそれきりだ。そのあと彼女がどうしていたか、どうやって無事に荘園に戻ったのかはわからない。おそらくあの人自身も覚えていないだろう」
長くなる、と前置きをされ、二人はエントランスのソファに座った。普段であれば美智子やヴィオレッタがお茶と菓子を共に談笑していることが多いが、その日は珍しく閑散としていた。
美智子たちはロビーをあやすために奮闘していたのだろう。大きな泣き声とそれをなだめる女性の声が二階の方から漏れ聞こえていた。
「ヤツを探しているうちに、のろしのような煙が見えた。何かが燃えている。尋常でない叫び声も聞こえた。近付くと、別の人物がそこに立っていた。燃えるカカシが絶叫して転がる横で、誰かを探すように辺りを見回して……それが、私の娘だとすぐに気付いた」
レオは両手に持った小さな人形を見つめた。麦わら帽子を被り、緑色の前掛けをしたそれは、エミリーとよく共にいる庭師の少女と瓜二つだった。
「私はリサをどうにかして逃がそうとした。私自身がどうなってもかまわない。せめて娘だけでも、こんな狂った場所から逃がさなければと。だが……私の望みは叶わなかった。リサを逃がせないまま、私たちは荘園に捕らわれた」
そして、とレオは悲しそうに顔を歪めた。
「私はハンターとしてのルールを破り、罰を受けた」
異変に気付いたのはそのすぐ後だったそうだ。ゲームが始まると、レオの意識は飛ぶようになったのだとという。
「それは意識を乗っ取られる、ということですか?」
尋ねると、レオはやや逡巡したあとで静かに頷いた。
「そうだな。だが乗っ取るのは他ならぬ私だ。私の中の怒りと憎しみが、私を?み込む。レオ・ベイカーという人間を保てなくなるんだ」
彼の説明に、理解と同時に納得した。だからレオは、ロビーの補助を謝必安に任せたのだ。
「ゲーム中の記憶はある。その時の私は、まさしく憎悪に燃える復讐者だった。誰も彼もが憎くてたまらなくなるんだ。逃げ惑うヤツらをチェアに縛り付けて、花火みたいに飛ばすのが爽快で……目の前に誰もいなくなるまで捕まえなければ、気が済まなくなる」
「ゲームが開始すれば、強制的に理性を失うわけですか……」
逃走者である娘(サバイバー)を、狩人であるレオ(ハンター)が荘園から逃がそうとした。それはゲームとしてのルールも、荘園に訪れた客としての規則をも無視したことになる。
故にその罰として、彼は娘さえも容赦なく捕らえる復讐鬼に成り果ててしまった。
「……親なら、何よりも娘の幸せを願って当然だろう?リサにはどうか幸せになってほしいと、私はずっと……。その願いを奪われたどころか、私自身が娘の幸せをこの手で握り潰しているんだ。もう何度も……数えたくないほどに」
痛みに耐えるように歯を食いしばり、レオは持っていた人形を額に擦り付ける。その姿は、神に許しを請う人々によく似ていた。
呻くように呟いたレオを、謝必安は痛ましい思いで見つめる。
「それが、あなたの罰」
「ああ、そうだ。私にとって、これ以上の絶望はない」
拒否権もなく人格を奪われ、憎悪に乗っ取られた身体がサバイバー達を狩っていく。自分の意思ではないはずなのに、サバイバーを狩る悦楽を味わった記憶だけは残っている。
実の娘が自分に怯える姿も、そんな彼女を容赦なく、あろうことか愉しんで狩っている自分も。
それは、想像するだけでもあまりに惨い。レオの苦痛は察するに余りあった。
「フレディ……あの野郎は、当時の記憶を根こそぎ奪われたらしい。あの人がそう言っていた」
記憶の消去。それを聞いて心臓が不自然に跳ねあがった。
「記憶……」
無意識に繰り返した言葉をレオは拾い、ああ、と頷く。
「あの時のあいつは私を利用して、先生を殺そうとしていた。人殺しはルール違反だ。だから当時の記憶を消された。どんな事情があったのかは知らないが、あいつにとってはそれが最も失いたくないものだったんだろう」
そうレオは続けて話したが、謝必安は途中から彼の声が聞こえなくなっていた。ある最悪の推測が脳裏によぎったのだ。
氷のような冷たい塊が臓腑に落ちた錯覚を覚える。知らず口唇が寒気に震え、ならば、と謝必安は戦慄した。
絶望が罰。そうであるなら、己が受けるであろう罰は──。



こんこん。再びノックの音が部屋に響く。
まだいるのか。煩わしさが胸に湧くが、謝必安は起き上がろうとはしなかった。
使用人か、それとも美智子かレオあたりだろうか。面倒見のいい彼女らのことだ。謝必安を害するようなことは決してしないだろうが、今は話す気になれなかった。
そのうち諦めて帰るだろう。そう思って居留守を決め込んでいた。
だが、扉越しの気配は一向に消えない。流石に怪訝に思い様子を探り、謝必安は固まった。
この気配、いや、魂の色は。
ふいにドアが開く音がして耳を疑った。嘘だろう。予想を超える事態に頭が真っ白になる。
(無咎……!)
思わず謝必安は鎮魂傘に助けを求める。だが范無咎は反応を示さない。
しまった、と苦い気持ちで思い至った。大雨の日は范無咎は深い眠りにつく。そうなると入れ替わることもできなくなるのだ。
混乱しているうちに忍んだ足音が近付いてくる。どこか罰の悪そうな気配はゆっくりと、やがて謝必安が横たわる寝台の前でそっと立ち止まった。
「……謝必安、眠っているの?」
落ち着いた、理知的な女性の声。間違うはずもない。その声は。
あまりのことに強張った身体がかすかに震えた。それに気付いたのだろう、彼女は謝必安に話しかけてきた。
「美智子さんから、あなたがずっと部屋から出てこないと聞いて……様子を見に来たの」
心配の滲んだ声音に無性に泣きたくなった。
どうして。
どうして彼女はここまで自分に心を砕く。謝必安のせいで死にかけていながら、なお。
いや、わかっている。知っている。彼女は患者に対して分け隔てない。それが例えハンターであろうと、病んでいるのであればその医術の優れた手を差し伸べる。
けれど、これは。このままでは。
「少しだけ、顔を見せてくれないかしら?お見舞いに桃を持ってきたの。以前、好きだと言っていたでしょう?これなら食べられるかと思って」
──殺される。
彼女の慈悲に。医生としての使命感に。……謝必安を救おうと伸ばしてくる、頑なに引き下がらない手に。
そう思った瞬間、自分の内側で糸が切れる音がした。
「……う、……だ……」
「謝必安?」
聞き取れなかったらしい彼女が窺うように声をかけてくる。
「どうしたの?どこか辛い?……もしかして、私の魂を戻したせいで何か負担が──」
その声を、謝必安は強引に黙らせた。
短い悲鳴が聞こえた。構うことなく掴んだ腕を勢いよく引っ張る。
がたん、と大きな物音がしたが気に留める余裕もなく、謝必安はエミリーを引きずり込んだ。両手を寝台に縫い付ければ、ひどく驚いた様子の彼女の顔がよく見えた。
「エミリー」
困惑の色を浮かべた双眸が自分を見つめている。同じように見つめ返して、謝必安はゆっくりと口を開く。
「今、この場であなたを傷付ければ、あなたは私を嫌ってくれるでしょうか?」
そう淡々と告げてみせれば、焦げ茶の瞳が明らかに恐怖に凍り付いた。謝必安は冷酷に唇の端を吊り上げる。
ひとの傷付け方などいくらでもある。肉体的に、精神的に。貧民として生きてきた謝必安は、そんな光景を何度も目にしてきた。
傷を、痛みを刻んで、気を許したことを心から後悔するほどに、何もかも適わないことを思い知らせて、そうして。
「心の底から憎んで、顔も会わせたくないほど嫌ってくれれば……そうすれば私も」
躊躇うことなく、また彼女を狩れるだろうか。彼女に范無咎共々殺される前に。
そうだ、これまでの関係が元に戻る、ただそれだけのこと。狩る側のハンターと脱出者のサバイバーの一人に戻るだけだ。今までが異常だったのだ。
近付き過ぎた。好奇心が別のものに変わってしまうほどに、近く。
だから、今の関係を壊せば。
忌避され、敵視され、もう望みはないと諦められれば、きっと元に。
謝必安は青い上着に手をかける。ぷつりとボタンを外せば、半端にめくれあがっていた衣は彼女の肩から布団に落ちた。右肩に巻かれた包帯と同じくらいに白い肌が、謝必安の目の前にさらされる。
そのまま背中に片手を回し、襟首を探って小さな金具を見つける。それを指先で下に引っ張ると、彼女の身体はあからさまに強張った。
覆いかぶさったまま頭を下げれば、こくりと息を呑む音が聞こえた。次いで逃げるように顔を背けられる。
「謝必、ぁっ……」
金具を下げて露わになった首筋に吸い付けば、名を呼ぶ声は途中で切れた。唇を離せば白い肌にぽつりと赤い花が咲いた。その痕をゆっくりと舌で舐めると、傍にある丸い耳が花と同じ色にぱっと染まる。
は、こめかみのあたりに熱を持った吐息がかかる。真っ赤になった耳たぶを食むように唇で挟めば、怯んだように彼女は肩を竦めた。
そうしている間にも片手は素肌を這い、内側から服を開いていく。滑らかな肌の感触、へこんだ皮膚の下にある背骨を指でなぞれば逃げるように背が反れた。あばらの感触を確かめるように手のひらを前へと移動させれば、布越しにいっとう柔らかな感触が伝わってきた。
「やめ……やめて……!」
制止を訴える声音を黙殺する。謝必安と呼び掛ける彼女の、丁度心臓の真上あたりに爪を立てるようにして沈ませれば、早鐘を打つ拍動が指先を震わせた。
自身もじわじわと這い上がる熱を感じながら、謝必安は今度は下へと手を移動させる。これは恐怖を植え付けるための行為だ。気遣いなど必要ない。
言い聞かせるように胸の内で呟き、組み敷かれた身体に触れる。足に触れれば抵抗するように足が跳ねた。
素肌とも、包帯とも違う感触。薄い膜のような布を纏っているのだと気付き、それを取り去るために上へと手を這わせていく。肉の薄い脛から膝へ、曲がった膝をくだって大腿へ。より一層身を曲げて縮こまる四肢にかまわず、さらに奥へと手を伸ばす。
「い、や……!」
這った指先が衣の裾に辿り着いた、その瞬間のことだった。胸元に吸いついた唇がその震えを感じ取った。
思わず顔を上げ、エミリーの顔を見る。彼女は赤いのに真っ青な顔をして、固く目を瞑っていた。押さえつけた両手は強く握られていて、先ほど感じものと同じ震えが手のひらから伝わってきた。
怖がっている。嫌がっている。──自分を。
そこまでだった。そう理解した途端、熱でばやけはじめていた思考が、氷水をかけられたように一気に覚めた。謝必安は完全に動けなくなる。
「……謝必安……?」
恐る恐る声を掛けられ、謝必安は肩を震わせる。開いた双眸にはうっすらと涙が滲んでいて、半ば反射のように彼女から退いた。退いた自分に唖然とした。
「どうして……」
どうして手が止まる。身体が逃げる。そうしなければならないのに。なぜ彼女を傷つけられない。
自分は范無咎が何よりも大切だ。それは謝必安の中心に存在する公然とした事実なのだ。だから、范無咎を失わないためなら、どんな手段だって躊躇いはしない。
青い顔をしたエミリー目が合う。はだけた肩がはっきりと震えている。寒そうだと掛け布を掴んで、止まる。
──無理だ、できない。
既に両の手はもう一度彼女に触れることを拒んでいる。拒絶されることを恐れて、身動きができない。
「……例え私があなたを嫌っても、あなたは変わらないわ」
呆然とする謝必安に、ふとそんな声がかかる。視線を上げれば、髪も衣服も乱れたまま、けれどいつもの理知的な瞳がそこにあった。
「だって、あなたは優しいもの」
そうしてあまりにもそぐわない言葉を言われて、謝必安の思考は処理しきれずに停止した。一瞬で錆びついてしまった頭を何とか動かし、遅れて飲み込む。
ようやく理解して、謝必安が次に浮かべたのはいびつな笑みだった。
「何故そう言い切れるのです?あなたは私ではないのに」
何を言っているのだろう。今まさに己を痛めつけていた張本人に向かって。
口先だけの慰めだろうか。そんなものはいらない。ああでも、逃げるためにそう言ったのかもれない。ならわざとでも信じたふりをすればよかった。そうしたら、彼女は寝台から飛び降りて、助けを求めに行けたのに。
しかし予想に反してエミリーは謝必安に向けて腕を伸ばした。躊躇いなく向かってくる手に頬を触れられそうになって、謝必安は反射的に身体をのけぞらせる。
エミリーは見透かすような瞳で逃げる謝必安を見つめ、静かに口を開く。
「ええ、私はあなたではない。でも、私を襲ってもあなたは余計に後悔するだけなのはわかるわ。范無咎だって同じことを言うはずよ」
「違う、そんな……」
「私を殴れないのでしょう?今だって傷つけたくないと、そう思ってくれているから──」
「違います、ただ私は」
言いかけたところで手にあたたかなぬくもりを感じた。視線を下げれば、たおやかな手が二つ、骨と皮だけが残った手の甲に重ねられていた。
謝必安は思わず手を引いた。が、その行動を予期していたらしく、彼女は思いのほか強くこちらの手を掴んでいた。
「エミ……っ!?」
ぶらりと謝必安の手に吊り下がった彼女は、そう間を置かず力尽きて途中で手を離した小さな身体が降ってきた。避ける間もなく落ちてきた彼女は、そのまま固まった謝必安の首に腕を回した。
柔らかな肌と、さらりとした包帯の感触が首筋に触れる。消毒液と彼女の香りがぐっと強くなる。
「謝必安、聞いて」
「離──」
「私は生きているわ。特に後遺症もない。処置が早かったからだろうって、パトリシアが言っていたわ。あなたのおかげよ」
言い聞かせるような口調でゆっくりと彼女は言った。落ち着いた声音が耳朶に響き、逃げようとした身体がまた止まる。
違う。謝必安はくしゃりと顔を歪める。
「違う、私のせいで、あなたは……無咎も……」
「だけど、助けてくれたのだってあなたよ」
腕に力がこめられる。熱いと感じるほどの体温越しに、とくとくと心の臓が動く音が聞こえる。
「范無咎だってここにいる。あなたは何も失ってない」
違う。そんなことは安心していい理由にならない。許されていい理由にならない。
聡明である彼女がわからないはずがないのに、それでもその綺麗ごとを言い切るのか。
反論を口にしようとして、結局できなかった。平行線だと思ったからだ。
エミリーを引き剥がすこともできず、身体を強張らせたまま、謝必安は諦めたように唇を震わせた。
「……あなたは、私をどうしたいのですか?事実を突きつけて、こちらの本心を暴いて、私にどうしろと」
もう放っておいてくれ、と思った。これ以上惨めな姿を曝したくなかった。
あなたに何ができる。何もできないのならかまわないでくれ。自分なんて捨て置いてくれ。そんな暴言を吐いてしまう前に。
エミリーは迷うような素振りで息を詰めた。けれど謝必安からは離れようとはしない。
居心地の悪い沈黙が二人の間にぽとりと落ちた。普段は気にならない無音の時間が、今は呼吸ひとつ分でさえ異様に長く感じる。
「……私があなたをどうにかできる力があれば、きっと今のようになるまで悩んでいなかったのでしょうね」
謝ろうとしているのだろうかと、そんなことを考えていた矢先だった。独り言のように、彼女は囁くような声でそう呟いたのだ。
エミリーは腕を緩め、謝必安の顔を見上げた。彼女はどこか困り果てたような笑みを浮かべていた。
「ごめんなさい。追い詰めるような言い方をしてしまって。落ち着いてもらいたかっただけなの」
睫毛を伏せ、予想とは異なる謝罪を告げられる。
「私がこんなことを言う資格はないのかもしれないけれど……あなたが何に悩んでいるのか、それを教えてほしくて。私には無理でも、せめて范無咎に」
「……それは……」
「言いたくないことは言わなくていいわ。誰にだって踏み込んでほしくないことはあるし、あなたの苦しみはきっと、あなたにしかわからない。けれど、つらい思いをしているとわかっていて見過ごすことは、私にはどうしてもできない。……あなたをどうにかしたいのではなくて、これは私の性分ね」
彼女の腕がゆっくりと首から顔の方へを移っていく。小さな手のひらがやつれきった頬を包み、寂しそうな微笑みと向き合う。
「一緒に考えたいのよ。私も、范無咎も。謝必安、あなたの力に少しでもなれたら……って」
先程の自分とは大違いの、ただただ優しい触れ方だった。彼女の体温が冷えた肌にしみ込んでいく。
まるで凍えた心を解きほぐすように、じわり、じわりと。
視界がやけに滲んでいた。そう思っていたら、目尻から何かが伝う感触がした。
エミリーがふと心配そうな表情をしたかと思うと、謝必安の目元を親指でそっと撫でる。頬が濡れる感覚に、自分が泣いているのだと遅れて自覚した。
「……もう、いやだ……」
そのぬくもりを感じているうちに、自然と口唇がわなないた。
「いやなんです。毎日を怯えて過ごすのは。ゲームに出るたび、負けるたび……あなたを殴れなくなるたびに、朝を迎えるのが怖くなる。無咎を失ってしまわないか、無咎のことを忘れてしまっていないか……」
涙も言葉も、堰を切ったかのように溢れ出す。
ずっと不安で仕方なかった。今日は大丈夫だった。罰が下らなかった。でも、次に負けてしまったらどうなってしまうのだろう。
先日のように自制が利かなくなったら?今度こそ誰かの命を奪ってしまったら?
一度そういった疑問を抱いてしまったら、恐ろしくてたまらなくなった。
自分は知っている。范無咎がいない日々を。孤独のつらさを、寂しさを。
またそんな地獄を味わったら、"今度だって"耐えられない。
震える手のひらで頬を包む小さな手に触れる。無咎だってこんな風にあたたかかった。手を差し伸べてくれた。混濁する思い出に目眩がして、謝必安はすがるように顔を俯ける。
「もう、失いたくない。無咎のこと、無咎との記憶を……失ったら、僕は……もう僕は死ぬことすらできやしないのにっ!」
息が苦しい。けれどこの程度で死ぬことは決してない。既に自分は人の生を終えているのだから。この苦しさすら、人間の頃の記憶が生み出した錯覚なのかもしれない。
人外に成り果てた自分たちが、消えたらどこにいくのか。どこに行き着くのか。神や極卒も人の輪廻に戻れるのだろうか。
何もわからない。だからひどく恐ろしい。
そうして余計に身動きが取れなくなって、無様にうずくまることしかできなくなった。
「何もできない。僕一人では、何も……!」
あの時と同じだ。謝必安は歯をくいしばる。
助けようとして、結局助けられなかった。気付けば独り置いていかれた。
「失いたくない。失いたくないのに……僕は、どうしたら」
肝心な時に何もできない。何故こんなにも無力なのだろう。人の理から外れても、異能の力を手にしても意味がない。
謝必安が欲しかったのは、大切なひとを守る術だ。喉から手が出るほど切望して、なのに、もがいているうちに大切なものは水のようにこの手からこぼれ落ちていくから。
言葉に詰まり、謝必安はただただ涙を流す。静まり返った室内に、自分のすすり泣く音だけが響く。まるで自分一人だけのように思えるのに、頬をあたためる熱が傍らにいる存在を示して、その体温が余計に涙を止まらなくさせた。
「……もしかして、あなたも罰のことを知っているの?」
しばらくして、エミリーが躊躇いがちにそう尋ねてきた。謝必安は少し間をおいて、無言で頷く。
「そう、だから……」
呟いて、彼女は言葉を止めた。その間も涙がとめどなく落ちていく。明日は酷いことになりそうだな、と他人事のように思った。その矢先、顔に添えられた両手に力がはいったのを感じた。
俯いていた顔をエミリーが下から覗き込んできた。思わず顔をのけ反らせかけるが、そうしたらまた先程の二の舞だと気付いて中途半端に固まる。
何だろうか。じっとこちらを見つめる視線が気まずい。困惑しながら彼女の名を呼ぶと、気真面目そうな顔をしながらエミリーは口を開いた。
「目の下のクマがいつも以上に酷いわね」
「はい?」
そして突拍子もなくそんなことを指摘してきた。次いで気真面目なあの顔は医者の顔だと遅れて気付く。
「とりあえず寝た方がいいわ。ずっと眠れていなかったのでしょう?」
「え、いえ、それは……そう、ですが……エミリー?」
そうして突拍子もなくそんなことを言い、彼女は寝台の隅に追いやられ丸まっていた布団を引っ張ってくる。
膝立ちのまま布団を抱えて戻ってくるエミリーに、ひどく狼狽えながら問いかける。すると、彼女は謝必安を見上げて穏やかに微笑んだ。
「大丈夫。あなたは彼を失ったりしないから」
あまりにも確信をもって言った彼女に、謝必安は一瞬にして唖然とした。そうしているうちにいつの間にか布団を掛けられ、そのまま横になるよう促されたところで慌てて我に返る。
しかし、何故、と問う前に彼女が先に口を開いた。
「根拠ならあるわ。私の推測だけれど、間違ってはいないはず。あなたも納得してくれると思う」
「……本当に?」
「ええ。だから今は安心して眠って」
そうして微笑んだまま、彼女は謝必安の額に手を乗せた。まるで熱に浮かされた子どもに親が様子を伺うような手つきで、柔らかな手のひらはそのまま瞼へを下がってくる。
視界が再び暗闇に染まる。けれど先程のような冷たさはなく、人肌のあたたかさが謝必安の不安を溶かすように沁み込んでくる。
何故だろう。大丈夫だという理由を聞いてもいないのに、謝必安はまじないでも掛けられたかのように彼女の言葉に安心している自分がいた。
まずは疑うべきなのに。自分を宥めるためのでまかせではないか、何を企んでいるのではないかと、相手の裏を疑わなければならないはず、なのに。
──大丈夫。彼女がそう言うのなら、きっと。
謝必安の奥の奥にある心が、そう囁くから。
さざ波のように押し寄せてくる安寧に誘われ、目元に置かれた手に自分の手を重ねたまま、謝必安は久方ぶりに深い眠りに落ちたのだった。




あとがき
白がエミリーを傷つけられなかったのは、その方法では結局問題は解決しないことを白は無意識にわかっていたからで、本当にそれで解決できるという確信があったのならきっと実行したんじゃないか、というのを前提で書いています。前も言った気がしますが、白にとって黒は何物にも代えがたい存在で、きっと黒にとってもそれは同じで、ずっとお互いが一番大事なんだと思います。
背景推理やモチーフになった話を想うたびに何であんなことになってしまったんだろう…何で…二人とも何も悪いことしてないのにあんな…って気持ちが湧き上がってどうにか幸せになってくれないかと毎度頭を抱えます…。


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