"東洋人"と"西洋人"・前


「おい」
廊下を歩いていると、その一言で呼び止められた。声音だけで誰かを察し、エミリーは無意識に身体を強張らせる。
悟られないよう静かに息をついてから振り返る。予想通り、眼鏡をかけた気難しそうな男性がこちらに向かってきていた。
「ライリーさん……何かしら?」
「図書館に行くんだろう。ついでに返してきてくれ」
白いワイシャツから伸びる腕が数冊の本を差し出す。どうやら小説のようだ。本の背には、同じ著者の名前が綴られている。
「わかったわ」
本を彼の前に出すと、その上に本を乗せた。両腕にかかるずしりとした重みに本を抱えなおしていると、向かいの男が小さくため息をついた。
「そんなに怖い顔をするなよ。俺に頼まれ事をされるのがそんなに嫌か?」
肩を竦めながらそう指摘され、エミリーの心臓はぎくりと跳ね上がった。
「えっ、いえ、そんなつもりは……ごめんなさい、考え事をしていたものだから」
「別に嫌われていても構わないが、ゲームの時はそういうのはなしにしてくれよ。ただでさえハンターも、こっちの能力を把握して小賢しくなってきているんだ」
フレディは言葉を区切り、一度唇を湿らせてから高慢に続ける。
「相手は化け物だ。互いに協力しなければ、勝利は手にできない。お前ならそれくらいわかっているだろう」
「ええ、もちろんよ。ごめんなさい、本当にそんなつもりはなかったの」
エミリーは眉を下げて彼に謝る。声はいつも通りだろうか。手は震えていないだろうか。そんなことばかりが気になって仕方がない。
「お、おいメガネ野郎!ど、どこに行きやがった!今日のふ、風呂掃除は、お前も当番だぞっ!」
その時、どもり気味の怒鳴り声が廊下に響き渡った。メガネ野郎、という名称に思わず目の前のフレディを見る。彼は忌々しげに舌打ちをしたところだった。
「何でこの俺がアイツなんぞと仲良く掃除しなければならないんだ」
「フレディー!サボりはズルいだろ!」
「筋肉馬鹿まで一緒か……」
そう呟いて、挨拶もなくフレディは浴室とは真逆の方へと向かう。どうやら掃除をする気はないらしい。
それを咎める度胸はなかった。彼が去っていく姿に、エミリーはようやく肩の力を抜く。
広い廊下を歩いていく猫背気味の背中をそろりと盗み見る。パンツのポケットに手を入れて歩いていく背からは、気怠げな雰囲気以外は何も感じ取れなかった。

──オレはお前のことを許さない!マーシャを殺したお前を、絶対に!どんな手段をつかっても、お前だけはいつか地獄に堕としてやるっ!

降り積もった憎悪を一気に吐き出したかのような、喉を引き裂かんばかりの叫びは、あれ以来聞いていない。射殺さんばかりの眼差しも、殴りかかろうとした拳も。
あの日に見せた憎悪が、再び相対した時にはきれいさっぱりなくなっていた。あの出来事が夢であったかのように、けれどエミリーの胸の内には恐怖が鮮明に焼き付いていて、だから強烈な違和感を拭い去ることなどできなかった。
故に問診と称して、エミリーは彼の記憶を探らせてもらった。そうして気付いた。
(あの時に関わる記憶が、完全に抜け落ちている)
覚えていないのだ。こちらの正体に気付いたことも、まんまと彼の口車に乗せられた自分を、復讐者を利用して殺そうとしたことも。
フレディ・ライリーが、エミリー・ダイアー……いや、『リディア・ジョーンズ』に殺意を抱いて起こした行動の記憶が、彼の中からすっぽりと消えていた。
何かされたのだ。誰かに。
おそらくは、未だ姿を見せない荘園の主に。
あり得ない。意図的かつ部分的な記憶の改竄など。少なくとも今の医療技術では不可能だ。
けれどそのあり得ないことが、目の前の人間で起きている。その事実に、エミリーの背にぞっと寒気が走った。
(荘園主の目的は何?人を集めて、ゲームをさせて、閉じ込めて……裁くでもなく、殺すわけでもなく、かといって逃がすつもりもない。……これじゃあ、今の私たちの状況は、まるで──)

──飼い殺し。

脳裏によぎった単語に息を呑み、本の縁を握りしめる。脈打つ鼓動を、エミリーは鎮めようと意識して呼吸を繰り返した。
小刻みに震える両腕をさすっていると、聴覚が近付いてくるピアソン達の声を捉えた。
どこ行きやがった、とピアソンの粗暴な口調を耳にして、エミリーはふるりと頭を振り、切り替えるように図書館へと向かっていく。
昼間だというのに、自らが立てる足音すら恐ろしく感じた。



◆  ◆  ◆


悪名高きエウリュディケ荘園は、噂以上に広大な敷地であった。自分たちが宿泊している館も、ゲームのために用意された庭も、何もかもが広い。
その例にもれず、ここの書庫も相当な大きさだった。
ありとあらゆる分野の本が揃った、数えきれないほどの夥しい蔵書数。エマと一緒に館内を探索していたときにここを見つけ、そのあまりにも立派な佇まいに驚嘆と呆れの念を込めて皆『図書館』と呼んでいた。

館の奥まった場所にある、大きな両開きの扉。細やかな装飾の施されたそれを開けると、しんと静まり返った大きな書庫が姿を現した。
停滞した空気と、紙の匂い。それから少しの埃っぽさ。止まった時計の多い館だが、ここは本当に時が止まっているかのようだ。
「小説の棚は、確かあの辺りだったわね」
この広さだ。きっと司書を雇って管理していたのだろう。部屋に壁にと立ち並ぶ本棚の数には辟易するが、本自体はジャンル毎にある程度まとめられているため、広さに比べて探すのにさほどの苦労はない。
ここを見つけて以来、元来の本好きの虫が騒いで足繁く図書館に通っていたエミリーは、いち早くその法則に気付いた。今では分野ごとの棚は大体把握している。
記憶通り左側列の一角から目当ての棚を見つけ出し、ぽっかりと穴の開いた箇所に本を詰めていく。彼が読んでいた小説は、数年前に刊行された人気の推理小説だった。
とある名探偵の冒険譚を綴ったそれを、あの人もこういったものを読むのね、と片隅で思う。さり、と本の背に指を添わせながら、思考の大半は先程の謎を探っていた。
(……おそらく一定のルールがあるのだわ。そのルールを破ると、彼のような目に遭う)
その一つが殺人なのだろう。ハンターが自分達を殺さずにただ荘園に返すのと同じように、サバイバーもこの荘園で人を殺めるのは違反行為となる。
結果、フレディは記憶の一部を消された。まるで木炭で描いた絵を、パンの欠片で意図的にすり消すように。
(忘れたい記憶を消してくれるのなら、どんなにいいか……。でもきっと、そんな都合のいいものじゃない)
本をなぞっていた指先を丸め、手のひらを握りしめる。
気を付けなければ。都合のいい操り人形にされるなど、たまったものではない。

「医生」
「ひっ?」
直後、頭上から降りかかった声に、エミリーは比喩ではなく本気で飛び上がった。
ばっと勢いよく振り返れば、白い風変わりな衣服に細長い紙が貼られた黒い傘。恐る恐る上へと辿ると、青白い肌に黒い痣のような模様が刻まれた細い顔があった。
「すみません。驚かせるつもりは」
「き、急に声を掛けないでください」
「一応、気配は消していなかったのですが……何か考え事でも?」
「ええ、まぁ……」
どくどくと耳に響く心音に息をはいて、エミリーは緊張で一気に強張った力を抜く。随分と高い位置にある顔を見れば、ハンターは黒傘を片手に切れ長の瞳をすいと細めた。
「こんにちは。またお会いしましたね」
「……そうですね。ゲームでは何度もお会いしていますが」
そして尽く飛ばされている。特にナワーブやウィリアムと組んでいるときは真っ先に。おかげで近頃は「先生は解読する前にとりあえず隠れてくれ」と言われる始末だ。
「あなたの医術の腕は脅威ですからね。これも戦略です。ところで、最近の無咎はどうですか?」
フレディ曰く小賢しくなったハンターの一人、白黒無常はさらりとそう言いながら黒い彼のことを尋ねてきた。エミリーは未だ小走りに駆ける心臓を抑えながら、人当たりの良さそうな笑みを浮かべる男に対して眉を下げる。
「新しく話せるようなことはありませんよ。いつものように、不機嫌そうにサバイバーを追いかけています」
「何か言っていたりは?」
「特には……唸っているか、交代するときに時々あなたの名前を呼ぶくらいです」
いつかと同じ言葉を伝えると、彼はそうですか、と微かに頬を緩ませた。細くなった紫の双眸にも、隠しきれない喜色が滲む。
たったそれだけの情報を嬉しそうに噛みしめる姿を、エミリーは不思議な面持ちで見つめた。それだけの情報が彼にとっては希少で、重要な事柄なのだろう。
どれほど黒い相手のことを大切に思っているのか、その表情だけで理解できる。
(本当は、こんなつもりではなかったのだけれど……)
ハンターと意図的に接触するなど危険極まりない。それでも負傷者は放っておけない。故に治療はするが、それ以上の接触はしないと決めていた。
だからあの時、美智子と同様に怪我の治療以外では会うつもりなどなかったのだが。

──ありがとうございます。あなたのおかげで、私は今の彼を知ることができました。

そう、感極まった表情で、声音で告げられた感謝に、つい魔が差してしまった。
本当によかったのだろうか、と承諾したあと後悔に苛まれたが、エミリーが出した条件を、意外にも彼は律義に守り続けている。だからこうして会うのも既に四度目になっていた。
二度目の邂逅で返してもらったナースキャップに無意識に触れる。余談だが彼の纏っている香り(お香というものだとのちに知った)が帽子に移っていたらしく、その翌日のゲームで人一倍嗅覚の鋭いウィラに危うく気付かれそうになるという、ちょっとした事件未遂の出来事があった。冷や汗をかいたのはエミリーだけで、原因である彼自身は知る由もない。
「そちらの本は借りていくのですか?」
相手の視線がさらに下がり、抱えている本を指さす。エミリーはいえ、と首を振る。
「これは返すために持ってきた本で」
「どちらに?」
「医療関連の書籍なので、二階の本棚に……きゃっ?」
突然、長身の身体が屈んだかと思うと、エミリーは軽々と抱き上げられた。視線が一気に倍ほどの高さになり、思わず白い肩を掴む。
「ち、ちょっと、あの……?」
「お連れしますよ。ここの本棚は高いですからね」
首が凝りそうなほど高い位置にあった顔がすぐ下で微笑む。こちらの動揺など気にせず、白黒無常はそのまま中央にある階段を上っていく。
「自分で歩きますから、降ろしてください」
「落とすようなことはしませんよ。ああでも、風船に吊っている時のように暴れられたら当然危険ですので、大人しくしていてください」
有無を言わさぬ物言いに少しだけむっとしたが、眼下の景色に寒気がしたのは確かなので腕の中でじっとせざるを得なかった。視界の高さにはしゃげるような歳はもうとっくに過ぎている。
抵抗することを諦めてちらりと眼下の人物を見る。その細身のどこに力があるのか、自分ひとりを持ち上げていながら涼しい顔だ。
(手慣れている……それか、子どもか何かだと思われているのかしら……)
少なくともこの歳の女性にいきなりすることではない。エミリーは内心でため息を吐く。
「それにしても、医学書ですか。どこの医生も勤勉家なのは一緒ですね」
前を向く横顔が、こちらに向けてなのか独り言なのか曖昧な口調で呟いた。歩くたびに身体が上下する不安定さに、肩を掴んだままの両手をぎゅっと握りしめながら、エミリーは彼の言葉に遠慮がちに問いかける。
「その、以前から気になっていたのですが、『イーシャン』とは?」
「イー……?ああ、あなたのことを呼んでいたのです」
「私の?」
「"医生"。あなたの職業のことを指します」
その説明にようやく合点がいった。なるほど、彼は『医師』と呼んでいたのか。
「差し支えなければ、名前をお伺いしてもよろしいですか?いつまでも医生では不便なので」
「名前、ですか」
警戒心が首をもたげる。ハンターに、人ならざる者に名前を教えてもいいのだろうか。
躊躇っていると、彼は誤解を解くように穏やかに続けた。
「名前を知っても特に何もできませんよ。それに吸魂をされている時点で今更かと」
言われてみればそうだ。エミリーはゲーム中の白黒無常を思い出して思わず身を引く。が、すぐに危ないですよ、と支えらえている腕に元の位置に戻されてしまった。
コツ、と細長い足が階段を上りきった。どちらですか?と見上げてくる視線に右から三番目にある棚を指差し、彼は再び歩きはじめる。
「エミリー・ダイアーです」
少しだけ思案してから、確かに今更かと判断して自身の名を口にする。前を向いていた横顔が、不思議そうな表情を浮かべてエミリーを見上げた。
「えみりー、だい?」
「エミリーです。エミリー・ダイアー。ファーストネームがエミリーで、ファミリーネームがダイアーと言います」
「ああ、なるほど。そういえばこちらの方々は後ろに苗字が付くのでしたね。えみー…えみりーですね」
少しだけ訛りのある発音で自分の名を呼び、何度か口の中で呟くような仕草をしたあと、彼は納得したように頷いた。それからこちらを見上げ、弧を描いた口唇を開く。
「私は謝必安と申します。謝、必安」
「ええと、シェ、さん?」
黒い白黒無常の呼びかけと今の彼の言葉から察するに、おそらくそちらがファミリーネームだろうと呼んでみる。呼ばれた相手は、けれど虚を突かれたような顔をした。
「そう呼ばれるのは初めてですね……呼び捨てでかまいませんよ」
「ですが」
「その方が呼ばれ慣れているんです。ですから謝必安と」
「……では、シャビアンさんで」
悩んだ末の妥協だ。謝必安は困惑気味の、座りの悪い顔をしていたが、こちらが譲らないことを悟って肩を竦めた。
「Mr.という言葉が付くのが、どうも慣れないのですが……仕方ありませんか」
歩くたびに伝わっていた揺れが止まる。彼から視線を外せば、目的の本棚が目の前にあった。
丁度抱え上げられた目線に自分が抜き取った跡があり、エミリーは礼を言いながらそのまま抱えていた本をしまっていく。
最後の一冊を隙間に収めたとき、そういえば、と謝必安はおもむろに口を開いた。
「こちらの傷薬は色がついていないのですね。私の故郷では赤い色をしていたので」
「そうなんですか?」
エミリーはぱちりとまばたきをした。東洋の薬など、これまでに一度も見たことがない。
異国の話を呟いたハンターは、興味深く光る視線を受け止めてええ、と頷く。
「紫根(しこん)という植物の根です。傷やひび割れによく効くんですよ」
「あなたの国では、生薬が主流で?」
「私の知っている時代では、ですが。少なくとも百年以上は経っているので、今はどうでしょうね」
百年以上。あっさりと落とされた情報に驚くも、今は薬に対する関心の方に軍配が上がった。エミリーは頭の中にある本棚から、一冊の記憶を引っ張り出してページをめくっていく。
「いえ、名前だけなら聞いたことがあります。確か、中医薬、漢方でしたか」
探していたページを見つけ、そこに書かれた文字を読む。医学校にいた頃、講義の余談として聞いた話だ。
効能のある植物や鉱物などを採取し、乾燥または粉砕して加工したものを、ひとつ、または複数を組み合わせて処方する薬。煎じて飲むのが主流で、こちらの医学とは思想自体がかなり異なるのだったか。
「流石ですね。ご存知でしたか」
「実際に見たことはありません。座学の知識です。あなたが今おっしゃったシコンという植物も初めて聞きました」
「私もここに来て初めて見るものばかりですから……ああ、ここには中医学の本も揃っているのですか」
切れ長の瞳が本棚の上段を見上げ、そして丸くなる。
「『[[rb:本草綱目 > ほんぞうこうもく]]』まで。ここの主は本当に様々な事柄に精通していますね。一体どのようにして入手したのでしょう?」
長い指先がずらりと並んだ古びた書物のひとつを手に取り、糸で綴じられた冊子をぱらぱらとめくる。文字を追うその瞳は好奇心に輝いていて、彼も本が好きなことをひとつ知る。
「ありました。これです、先ほどの植物は。この根を紫根と言います」
大きな手のひらが開いた本のページを、エミリーも覗き込む。バランスを崩さぬよう、もう片方の腕がさり気なく身体を支えるが、それ以上に異国の医学書が気になって仕方なかった。
色褪せた紙にはいくつもの植物が描かれていて、細長い指がさし示した絵には『紫草』という文字が他よりも大きめに書かれていた。
どうやらそれが植物の名前らしい。細長い葉に囲まれて咲く小さな花は、勿忘草の花弁に似ていると思った。
「『紫草』とは、直訳で紫色の草という意味ですね」
「紫草……だから根を使った薬は赤いのね」
「その通りです。鮮やかな色なので、染め物にもよく使われていました」
「まぁ、まるでサフランみたいな植物ですね」
「おや、そのような植物があなたの国にも?」
謝必安の問いにこくりと頷く。軽快なリズムで交わしあう会話の心地よさに、エミリーは笑みさえ浮かべて言葉を続けた。
「ええ。主に使われているのは香辛料としてですが、染料や薬にもなって──、」
そうして、気が緩んだところを狙いすまして、それは唐突にやってきた。

──お願いします。助けてください……!

直後、縋りつくような声が脳裏をよぎり、するすると言葉が滑り出ていた喉が一瞬で凍り付いた。
「ぁ……」
心臓が叩かれたように大きく脈を打つ。同時にくらりとした目眩に襲われ、咄嗟にこめかみを押さえた。
「えみりー?」
ぐらつく視界を何とかやり過ごそうとしていると、たどたどしく名を呼ばれた。さっきまで近くで聞こえていたはずの声が、いやに遠い。
「どうしました?」
「い、え……なにも……」
労わるような声音に、それだけしか返せない。ハンターが自分を気遣うなんて、と驚く余裕すらなかった。
頭の中では先ほどの声を皮切りに、代わる代わる悲痛な声音がこだまする。それはずっと頭にへばりついて離れない、呪いにも似た訴えだ。
助けて。
彼女たちは口を揃えて言った。
助けて。もう無理なの。気が狂いそう。日に日にお腹が膨れていくのが怖い。
お願いします。お金ならいくらでも。こんなのいらなかったの。欲しくなかったの。だから。
──そう、だから。
(彼女たちは助けを求めていた。私にしか救えなかったの。だから、)
だから、私は、"治療"を────、

「……っ?」
その時、ひやりとした感触が額に触れた。冷たい、けれど人肌だとわかる温度に、エミリーは驚いて肩を震わせる。
見開いた目に映ったのは、理知的な光をたたえた二つのアメジストだった。
「え、あの……?」
「……随分と熱いように感じますが、あなたはこれが平熱なんですか?」
「え、ええ。いえ、そうではなくて。その、これは?」
「気分が優れないようでしたので」
あまりにも至近距離にある紫の瞳を目が合い、当惑しながら受け応える。冷たい体温は、謝必安が額を合わせているからだと遅れて気付き、離れようとするが、後頭部に回された手のひらがそれを阻んだ。
「あの、別に体調が悪いわけでは……」
大丈夫だと口にするが、相手の眼差しには疑念が浮かんだままだ。けれどそれ以上の判断が付かないのか、細い眉を潜めて思案している様子だった。
「私もそこまで詳しいわけではないですから……ああ、そうだ」
失礼、と断りを入れて腕の中から降ろされる。ついでに本も渡され、エミリーは首を傾げて彼を見上げた。
「少し待ってください。無咎と代わります」
「え?」
「無咎は風邪の対処に詳しいんです。彼が大丈夫だと判断してくれた方が、私としても安心できる」
「ち、ちょっと」
「ちなみに無咎は范無咎と言います。きっと自分からは名乗らないと思いますから、先に教えておきますね」
「違うの、待っ――」
思わず普段の口調が飛び出した。が、それよりも早く彼は傘の中に溶けてしまった。
白い水が傘に収まり、あとには宙に浮く傘が残る。くるくると回転する傘の下からちゃぷ、と再び水の音が耳朶に響いたかと思うと、今度は黒い水が大きく盛り上がった。
水が人の形をなしていく様子をただただ立ちすくんで眺めることしかできない。固唾を呑んだその瞬間、謝必安とよく似た、けれど服も雰囲気も全く正反対の男が目の前に現れた。
「……おい、一体なぜ呼ばれた?」
──そうなるわよね。
不機嫌そうに眉根を寄せてこちらを睨む黒い方の無常に、エミリーは頭痛を覚えてため息をついた。
「その、話すと少し、長くなるのですが……」
おずおずと呟き、相手の様子を窺う。彼は嫌そうに顔をしかめたまま、けれどそこから動く気配はなかった。
とりあえず話は聞いてくれるようだ。
小さく安堵の息をこぼし、エミリーは謝必安から渡された本を片手で抱えながらこれまでの経緯を説明しはじめる。どうしてこんなことになったのかしら、と頭の隅で思うが、もう諦めるしかなかった。

その時、耳元に絡みついて離れなかった声が知らぬ間に消えていたことに、エミリーは最後まで気付くことはなかった。



あとがき
弁護士に関してねつ造があります。というより世界観自体をねつ造というか。初期組があの後も生存していて、なおかつフレディがエミリーを殺さず共にゲームに参加しているのだとしたらこうかなと、そんな感じで考えてみました。あくまでこのシリーズ内ではの話です。鯖もハンターも全員いて元気に毎日ゲームしながら時にはピクニック言ったり夏祭りエンジョイしたり月餅を食べあったりハロウィンで仮装して楽しんだりしてるような仲良し荘園が好きなんです!全然仲良ししてないけど!!
正直泥棒も相当ヤバいことになってる気がしますが…ギリギリのところでマジシャンもびっくりなイリュージョン見せてそのあと半泣きになりながら先生に治療してもらえばいいと思います大丈夫泥棒逃げ足早いからいけるいける。

サフランはパエリアとかのサフランライスに使われる一方で、婦人薬にも使われるそうです。その一つとして通経薬にもなるとか。ハーブ系も同様にそういうのを思い出すから、先生は後天的にハーブティー苦手になってそうだなって思いました。
ところで私はむじょエミで抱き上げる構図が好きすぎるみたいです。先生がかわいいし白も様になるから仕方ないね。



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