”ハンター”と”サバイバー”


この距離ならば捕らえられる。そう判断し、視野が狭くなったのがいけなかった。
近付き、謝必安は狙いを定め黒傘を突き出す。だがその瞬間、物陰から別のサバイバーが飛び出してきた。
視線は無意識に動く対象を捉える。視界に映ったサバイバーの両手には、銃がおさまっていた。
「しまっ……!」
交代は間に合わない。振り上げた腕をかざして頭部をかばう。直後、鼓膜が破れそうなほどの爆音が轟いた。火薬の臭いと熱と衝撃が手首に撃ち込まれる。
「先生、助かったぜ!」
「早く逃げて!」
煙幕で霞んだ視界で人影がゲートの向こうへと消える。上がった息遣いと足音が横を通り過ぎていき、やがて耳鳴りすらしなくなる。
信号弾を受けた腕で煙を払い、頭を振る。視界が開けた頃には、案の定誰もいなくなっていた。
「辛勝、ですね……」
飛ばしたのは二人。脱出も二人。サバイバー側からすれば引き分けだ。
息をつき、ひとまず傘の具合を診る。先程は咄嗟に盾にしてしまったが、傘自体は無事なようだった。謝必安はよかった、と目尻を下げた。
ふと、何気なく下げた視線の先で白いものが目についた。ゲート前に落ちているそれに近付けば、なんてことはない。先ほどの一人がかぶっていた帽子だった。
彼女のものだ。謝必安は緩慢な動作で拾い上げ、ゆっくりとまばたきをする。瞼の裏には、つい先日に見た光景が浮かんでいた。


◆  ◆  ◆


おや、と口のなかで呟いたときには、既に彼女はこちらに気付いてひらひらと手を振っていた。
「白無常はん、こんにちは」
着物の袖口からたおやかな白い手を伸ばす女性に、謝必安は赤い絨毯の上を歩きながら微笑みを浮かべる。
「ええ、こんにちは。先ほどのゲームは、美智子さんがハンターだったのですね」
お疲れ様です、と労いの言葉を掛け、ふと目をしばたかせる。近付いたところで彼女の異変に気付いた。
「どうしました?」
髪と同様に艶やかなはずの黒い瞳が、謝必安と相対してもなお閉じられていた。礼儀をわきまえている彼女が、目を合わせずに話すのは珍しい。
尋ねると、美智子は困ったように眉を下げて苦笑いを浮かべた。
「目に硝煙が入ってもうたみたいで、開けとくと痛いんよ」
「信号弾ですか」
「そう。だからこのまんまで堪忍してや」
「それは構いませんが……大丈夫ですか?よければ部屋までお送りしますよ」
「ああ、それは大丈夫。ちょっと人を待っとるんよ」
彼女の言葉に、謝必安は訝しげに眉をひそめた。一体誰を待っているというのだろうか。
こちらが疑問を感じていることに気付いたのだろう。美智子はにっこりと微笑み、彼女の武器でもある扇子をとん、と手のひらで叩いた。
「呼び止められたんや。ゲームが終わったら、ここで待っとるようにって」
「ここで?」
「美智子さ、ん……」
問いかけは、発する前に喉でほどけた。
背後から聞こえてきた声に謝必安は身体ごと振り返る。が、誰もいない。しかし再びあっ、と怯えた声が耳に届いた。
もしやと思い視線を下げる。予想は的中し、謝必安の目線よりもずっと下に彼女はいた。
故郷ではあまり見ない類の、白い衣服と白い帽子。水色の短い外套のようなものを羽織った、小さな女性だった。
自分達とは根本的に違う、生きた人間。
「……サバイバー?」
「あなたは、白黒無常……」
震える口唇で彼女は呟く。それはハンターとしての己の呼称だ。美智子が「白無常」と呼ぶのもそのためである。謝必安”は”髪や衣服の大半が白いため、ハンター仲間からはその呼称で通っている。
しかし、サバイバー風情が何故こんなところに。ここに来るには、この先にある共用の待機室からハンター側のドアを通るか、一度居館を出てハンターが住まう館に回らなければならないはずだ。
「白無常はん、そないにじぃと見つめられたら、先生も怖くて近付けへんで」
ぽんと肩を叩かれてはっとする。身を竦めるサバイバーに失礼、と形だけ詫びて、ふと先程の美智子との会話を思い出す。
「もしかして、呼び止めた人というのは……」
「ええ。この人」
笑みを浮かべる美智子からは警戒の色はない。もう一度サバイバーを見る。彼女はあからさまに謝必安の存在に怯えながらも、ここから去るつもりはないようだった。
ふと少し離れたところからガチャ、とドアノブが回る音が聞こえた。ぽつぽつと人が集まる気配を捉える。次のゲームのために、サバイバー達が待機室に集いはじめたのだ。
彼女らのことは気になるが、自分もそろそろ部屋に入らなければ。謝必安は美智子に向き直る。
「では、私はこれで。美智子さん、お大事になさってください」
「おおきに。無常はんたちも頑張って」
ひらりと手を振る彼女に微笑みを返し、それから小さな彼女を一瞥して歩き出す。背後で、サバイバーが美智子に近付いていく気配を感じた。
「目の具合はどうですか?」
「痛くてかなわんわ。見えはするけど、まばたきするのも辛くてなぁ……」
「金属粉も入っているのかも……点眼薬の前に、まずは目を洗いましょうか」
ドアを閉める前に、そんな会話が耳に届いた。今のやりとりと、美智子の言った先生という名称。なるほど、彼女は医生か何かなのだろう。
納得して、しかし更に首をひねる。サバイバーでありながら、敵であるハンターを治療するためにここまで来たというのか。
しかも直前までゲームをしていたハンター相手に。恐怖に足を震わせながら、それでも治療をしに。
「随分とお人好しな……いえ、無謀な人ですね」
それが、謝必安が感じた彼女の第一印象だった。


◆  ◆  ◆


あのサバイバーが医生だと知ってから、ゲームでも彼女の姿を認識するようになった。
今まで認知していなかったのではない。サバイバーはサバイバー、甘言につられてのこのこと荘園にやってきた、ただの愚かで哀れな存在だという意識しか持ち合わせていなかったのだ。
それが初めて、謝必安の中で『医生のサバイバー』という個体として目に映るようになった。そうして観察してみると、彼女がいかに手を焼く相手かを身に沁みて実感することになった。
このゲームは鬼ごっこ、いわば『遊び』である。招待客はみな盤上の駒なのだと、謝必安は荘園に招かれてからの半月でそれを理解した。
鬼役であるハンターは、サバイバーを殺してはいけない。ただ痛めつけて、時限式のロケットチェアに拘束し、生きたまま荘園に帰すのがルールだ。
故にハンターは強制的に『手加減』という制限に縛られた上でゲームに参加している。つまり、基本は応急処置で動ける程度の怪我しか負わせられないのだ。
そのうえでの彼女の医術は、非常に厄介で手強い能力だった。



「今回はしてやられたな……」
年代物であるが作りのいい革張りの椅子にふかりと身を沈めながら、謝必安は深夜の待機室にぽつりと言葉を落とした。
サバイバーとハンターが入れ替わり立ち代わりに騒がしい日中と違い、静寂に包まれた広間は存外に心地いい。ふらりと館を彷徨っていた時にそれに気付いた謝必安は、以来自室ですら未だ慣れない洋館のなかで、しばしばここを訪れてはハンター用の椅子にくつろぎ、静かに時を過ごしていた。
「反対側のゲートに逃げていると思ったんだ。けど、読みが外れた。銃を持っているのも予想外だった」
焦らないで君と変わればよかった。そう言って謝必安は抱えていた黒傘を優しく撫でる。
この傘には二つの魂が宿っている。ひとつは謝必安自身の、もう一人は范無咎という、謝必安にとって無二の親友のものだ。
傘に入っている状態では視覚以外は遮断される。故に意思疎通は不可能だが、ゲームで感じた苛立ちや悔しさは同様のはずだ。
だからこれは謝必安の独り言ではなく、二人の反省会である。
「最初はいい調子だったんだけどな。すぐにサバイバーを見つけられたし、そのあと君があの兵士を捕らえてくれた」
だけど、と謝必安は背もたれに寄りかかって天井を見上げる。その後が不味かった。
すっと瞳を閉じれば、今日のゲームの内容が瞼の裏に広がる。チェアに縛り付けたあと、待っていたのは途中で匙を投げたくなる程のイタチごっこだった。
そのあとすぐ救助にやってきたのは、サバイバーにしては大柄な男だった。突進を避け、振りぬいた傘は男に当たるが、攻撃後の隙をつかれ拘束を解かれた兵士の男が逃げていく。追いかけてダウンさせた先は壊れた椅子ばかり。
ひとまず放置して移動した先にいた麦わら帽子の少女を拘束すれば、いつの間にか回復していた大柄な男がまた救助に向かってきた。煩わしくなり先に男を吊るしあげたら、今度は最初にダウンさせた兵士が完全に回復した状態で現れたではないか。
范無咎と交代しながら逃げる相手を拘束し、救助され、阻止し……それを繰り返した結果があの辛勝だ。
──監視者を持っていけばよかったな。
肩に寄りかからせるように抱えた黒傘から、そんな声が聞こえてくるようだった。謝必安は苦笑をこぼし、そうだね、と同意する。今回選んだ特質は異常だったのだ。
「それか……まずは医生を狙うべきだった」
ちらりと膝の上に置かれた白い帽子を見る。一枚の布をボタンで留めただけの、随分と簡素な作りだった。
救助の要にいたのは兵士と大柄な男だ。だが、そのしつこく往生際の悪い救助が脱出まで繰り返されたのは、医生の迅速な治療のおかげだろう。彼女を先に飛ばしていれば、あそこまでゲームは長引かなかったはずだ。
謝必安は椅子に肘をかけ、口唇に指を添えて熟考する。それに医生以外のサバイバーの能力も把握しておくべきだと実感した。人間相手だと高をくくっていたが、あそこまで異なる特技をもつ者達が集っているとなると、こちらも対策を講じなければならない。
ひとまず今日対戦した相手を、と再びゲームの振り返ろうとしたその時だった。
「──!、誰ですか」
下りた幕の奥から、カタリと物音がした。刹那、動揺に揺らめく人の気配を捉える。
謝必安は目を眇め、黒傘の柄に手を伸ばす。しかし手首に走った痛みに思わず柄を離してしまった。顔をしかめ、仕方なく左手に持ち変える。
立ち上がり、サバイバー側の待機室に視線を滑らせ──切れ長の瞳を丸くさせた。
「あなたは……」
こちら側からのみ透かして見える舞台幕の先には、長机の傍で硬直している医生がいた。
謝必安の声に捕捉されたと気付くや否や、小柄な体躯が弾かれたように出口へと駆け出す。傘を広げて追ったのは反射だった。
気付けば医生の背後に立ち、ドアノブに伸ばされた手を黒傘で阻んでいた。
背を丸め、囲い込むようにきっちりとまとめ上げられた頭の横に右手を置くと、青い上着に包まれた肩がびくりと跳ねた。
「人の静かなひと時を邪魔しておきながら、何も言わずに逃げるとは感心しませんね」
追うつもりはなかったはずだが、口からはさらりと皮肉が滑り出た。
思ったよりも刺々しい声が出たのは、先のゲームを思い返していたためだろう。彼女に撃ち抜かれた手首が、じくりと熱を帯びた。
長身の男と扉の間に挟まれた女性は、戦々恐々としながらこちらを振り向いた。恐怖に引き攣る面差しを、謝必安は無感動に見下ろす。
そのまま泣き叫んで助けでも呼ぶかと思ったが、予想に反して彼女はき、とこちらを睨みつけてきた。
「こ、ここは共用の広間です。密会をするのは構いませんが、誰かがここを訪れることは想定しておくべきではありませんか?」
震えて上擦った声音がそう指摘する。どのような言い訳が来るかと待ち構えていた謝必安は、それを聞いてはたとまばたきをする。
「……それもそうですね」
以外にもまともな反論が返ってきた。確かにと頷き、それから目を細める。
口角を上げ、ぐっと顔を近付ける。ひっと医生は殺しきれなかった悲鳴をこぼした。
「では、あなたは何のためにここへ?それこそ、どなたかと後ろ暗い話をするおつもりだったのでしょうか?例えば、敵であるハンターと」
焦げ茶の瞳が大きく見開かれた。はく、と口元が動くが、言葉は出てこない。
両腕に抱えている箱を強く抱きしめる姿に、謝必安は彼女に対する警戒を強めた。
酔狂な人物だと思っていたが、やはり何の魂胆もなくハンターを治療しにくるサバイバーなどいるはずもない。
美智子に忠告しておいた方がよさそうだ。いや、彼女が医生と繋がっている可能性もありうる。ならばしばらく様子を見るのが吉か。
口元に笑みを張り付けたまま、謝必安は眼前の女性を見つめる。さぁ、この後はどう出る。感情任せに違うと喚くか、見逃してくれと縋りついてくるか。それとも引き入れようとするか。
「……確かに、そう思われても仕方ありませんね。私があなたの立場でも、同じように疑うと思います」
だが、その唇からこぼれ出た言葉は、そのどれでもなかった。
心を落ち着かせるためだろう。医生は顔を下に向けて深く息を吐いた。頭上でまとめられた髪が呼吸に合わせてゆっくりと上下し、そして幾分か冷静さを取り戻した両の眼が真っ直ぐに見上げてくる。
「ですが、それは誤解です。私はただ忘れ物を取りにここに来ただけです。これを見つけたらすぐに戻るつもりでした」
す、と両手に抱えていたものを謝必安の視線まで持ち上げ、彼女は赤い箱を開く。その中に入っているものは。
「……救急箱?」
「夕食前に、ここで怪我人の手当てをしていたんです。最後のゲーム、丁度あなたとのゲームで負傷者が出て」
包帯や小瓶の入った箱を閉じながら、やや低めの女性らしい声音が理由を話す。燭台に照らされた青白い顔には、恨みがましい色が見え隠れしていた。
「ですから、いくら待ってもここには誰も来ません。もし来たとしても、私とは関係がありません」
腰をかがめたまま、謝必安は医生の顔をじっと凝視する。彼女も負けじと睨み返してくる。恐怖こそあるものの、伽羅に似た深い色の瞳は至って冷静だった。
「……そうですか。それは失礼を。なにぶん、ここにきて日が浅いもので」
謝必安はぱっと彼女から離れた。完全に信じるつもりはないが、救急箱を取りに来た経緯は真実なのだろう。ちらと見えた非難がましい視線は、仲間を負傷させたことに対するそれであった。
ならばこれ以上引き留めておく理由はない。ドアノブの横から傘を退け、囲っていた腕を外して後ろへ下がる。
しかし身を引いたにも関わらず、医生は一向にそこから動こうとしなかった。
「……出ていかないのですか?」
あきらかに安堵しながら、迷うように視線を泳がせる彼女に問いかける。目が合い、こちらの真意を探るような怯える視線に、ああと合点がいく。
「後ろを向いた途端、襲ってくることを危惧しているのですか?そんな真似はしませんよ。ゲーム外での暴力行為が禁止されていることは、あなたもご存じでしょう?」
謝必安が、このゲームが『遊び』だと言い切る理由のひとつだ。どんなに殺したい相手がいようと、荘園主は殺人という行為を許さない。生死のすべては荘園主の手の内にある。
そのルールを犯したとき、犯人は重い罰を受けるのだという。何かと世話を焼いてくれるレオが、苦々しげにそう言っていた。
「ええ……知っていますが、そうではなくて……」
煮え切らない返答に首を傾げる。一体何が彼女を躊躇わせているのか。
ドアの前で立ち竦んでいた彼女は、やがて意を決したように顔を上げる。まるで逃げてはいけないと、そう思わせるような表情をして。
「あなた、怪我をしていますよね。何の処置もしていないのでしたら、手当てをさせていただけませんか?」
「は……?」
告げられた言葉は、思いもよらぬものだった。
「手当て、ですか?」
「さっきから血の臭いがしているので……利き手で傘を持っていないのは、右手を負傷しているためでしょう?」
違いますか?そう問われ、思わず右手を見つめる。先ほど傘を手に取ったとき、傷口が開いたらしい。病的なまでに白い手首には、彼女の言った通りじわじわと血が滲んでいた。
「……よく見ていますね」
「これでも医者ですので」
「いえ、そういう意味では……」
呟いて、謝必安は首を振る。びくつきながら上目遣いに様子を窺ってくる女性に、つい素の苦笑いがこぼれた。何やら拍子抜けしてしまった。
その洞察力の鋭さは、こちらが警戒を解いたことにもいち早く気付かせたようだ。彼女はほっと肩の力を抜いて、改めて謝必安と目を合わせる。
「診せていただけますか?」
差し出された手に、謝必安は再び腰をかがめて手首を見せた。手のひらを辿り、手袋をはめた腕がこちらに伸ばされる。ちらちらと光る灯りのなかで、彼女の柳眉がひそめられるのがよく見えた。
「これは……もしかして、私が撃った信号弾の?」
「ええ……いえ、その前に椅子を直す際、確か鋭いものが刺さった覚えがあります」
傘越しに見た光景でしかないが、范無咎が突然手を離し、苛立たしげに壊れた椅子を睨みつけていた。おそらく負傷自体はあの時にしたのだろう。
「その傷を銃弾が深めてしまったみたいね……」
申し訳なさそうに眉を下げる医生を、謝必安は不思議な面持ちで見つめた。その視線に気付いた彼女は、身体を固くしながらも手を放そうとはしなかった。
微かに震える小さな手のひらは、ひやりと冷たい。恐怖で指先に血が巡っていないのだろう。その原因が己にあることに、少しばかりの罪悪感は湧く。
こちらへ、と手首を引っ張られ、長机へと誘導される。サバイバー用の小さな椅子に促されるままに座れば、随分と窮屈だった。座りのいい場所を探しているうちに、医生は立ったまま救急箱から小瓶や包帯を取り出していた。
もう一度手首を診せるように言われて応じる。軽く袖口を捲れば、軽く洗っただけで放置したままの傷口が燭台の灯の下にあらわになった。
「痛みはありますか?身体の怠さは?」
「鈍く痛む程度です。怠さは特には」
「感染症にはなっていないみたいですね。ひとまず傷口の消毒を」
手首の背に手を回し、ピンセットでつまんだ脱脂綿を患部に当てていく。つんとした消毒液の臭いが鼻についた。座ってもなお見下ろせる顔は真剣そのもので、やはり意外の一言が胸中に浮かぶ。
「……誤解なきよう言っておきますが、私も誰かと密談をしていたわけではありませんよ」
小さな容器から軟膏を取り出していた医生が、訝しげにこちらを見た。確かに話し声が聞こえたと、口にはしないが表情がそう物語っていた。
「彼と話していたんです。今日のゲームの振り返りを」
謝必安は存在を示すように抱えた黒傘を撫でる。忙しなく動いていた手は止まり、目の前の面差しは疑問から不審に変わる。
しかしそれも一瞬のことだった。何かに思い当たったらしい彼女は、あっと声を上げた。
「もしかして、黒い服を着た……?」
「その通りです」
やはり察しがいい。彼女の聡明さに満足するように、謝必安は微笑んで頷く。
「どちらかが表に出ているときは、もう片方の魂はこの傘に宿っているので」
「二重人格にしては、どうして服や顔の色まで変わるのだろうと思っていました。ああ、だから美智子さんはあなた”たち”と」
「ええ。私と彼は別の存在です」
答えると、医生の瞳が興味深そうに丸くなった。人間に恐怖や負の感情以外を向けられるのは久方ぶりで、無意識に肩の力が抜けていく。
「あなた方は、その状態で会話ができるんですね」
「いいえ。結局は一方的な独り言です。無咎と直接話せたら、どんなにいいか……」
言ってから、謝必安は途中で言葉を切った。
少し話過ぎてしまった。うっかりこぼれ出た本音に、しまったなと内心で反省する。
「すみません。詮無いことを。医生、治療を続けてください」
「いえ……」
医生はやや戸惑い気味に前を向いたが、それきり口を閉ざした謝必安を見て、ぽつりとそれだけ呟いて再び手を動かしはじめた。
痛まぬように、小さな手が手首にそっと触れてくる。指先は細く、爪は短い。自分とも、親友とも似ても似つかぬ繊手だ。
だのに、まだ人の身であった頃、こうして手当てをしてくれた、節くれだった手のひらを謝必安は思い出していた。怪我をするのは相手の方であったから、それは時々であったけれど。
(……無咎は)
もし今も会うことができたのなら、以前のように包帯を巻いてくれるだろうか。心配のあまり不機嫌になって、眉間にしわを寄せながら傷薬を塗って、無理はするなと叱ってくれるだろうか。
どうだろう。わからない。自分は范無咎に、償いきれない罪を犯してしまった。
彼は優しいから、きっと赦してくれている。けれどそれはあくまで謝必安の推測で、范無咎が本当にそう思っているとは限らない。
恨んでいるかもしれない。命を無駄にしてと軽蔑しているかもしれない。
それでも。謝必安は薄い布で見えなくなった傷口を見つめる。
耐えられなかったのだ。范無咎のいない現世で生きることが。彼の優しさに気付けなかった己が。
「……あなた方が入れ替わるとき」
するすると包帯を巻いていく手先をじっと眺めていた時、ふいに女性の声音が耳朶を震わせた。
思考の海に浸かっていた謝必安は、意識を浮上させて医生に視線を向ける。彼女は手首に視線を落としたまま、この静寂によく似合う静かな声で続ける。
「私では聞き取れない言葉が、時々聞こえることがありました。けれど、今あなたの言葉を聞いてわかりました。あれは、お二人の名前だったのですね」
ジジ、と火の音が鳴り、光量がひとつ下がる。傍にある燭台の蝋燭の一つが、芯を燃えつくして溶けていた。
「……無咎が、私の名を?」
驚きのあまり声が掠れた。尋ねられた彼女も目を丸くしながら、先ほどよりも自信なさげにおそらくですが、と口を開く。
「確か、『ピーアン』か、『ビアン』、と。そんな発音を」
謝必安は息を呑む。
たどたどしく紡がれた音は、拙いながらも確かに自身の名で。
それを知っている存在など、この荘園ではただ一人で。
黒髪を揺らす男の背が脳裏によぎる。長い黒髪を編み込んで垂らし、衙役の制服を身に纏った男が、雑多な街並みの真ん中に佇んでいる。
細身の男が振り向き、鋭い目つきにはめ込まれた黄金色が柔らかく細められる。
──必安、と。
歯を見せて笑う、その顔が。
「……そう、ですか。そう……無咎も……」
左腕に抱えた黒傘を、謝必安は泣き出したい気持ちになりながら抱きしめた。
呼んでくれているのだ。自分の名を。あの頃と変わらず。
知らなかった。初めて知った。そうだったらいいと願っていた。それを虫のいい話だと思っていた。
──なのに、君は、ずっと。
気の遠くなるような時の中、そうであればと描いていただけの夢想が、現実だった。
「あの、大丈夫ですか?」
気遣わしげな声が掛けられる。噛み締めるように閉じていた瞼を開けば、医生が少しだけ身を屈め、覗き込むようにして謝必安を見つめていた。
「何か、嫌なことを思い出させてしまいましたか?」
「いえ、そうではないのです」
彼女の言葉を謝必安は即座に否定する。嫌なわけがない。滲んでいた視界に首を振り、丸めていた背を治療に差し支えない程度に正す。
「ありがとうございます。あなたのおかげで、私は今の彼を知ることができました」
「え、いえ、そんな……私はただ、伝えただけですので……」
「伝えていただけたことが嬉しいのです。手当てのことも含めて、感謝いたします。”謝謝”」
心から礼を述べるが、彼女は終始困惑した面持ちだった。実際に相当戸惑ったのだろう。だがこの時の謝必安は、ただただ溢れる喜びに感謝を告げずにはいられなかった。
気付けば、手首には包帯が綺麗に巻かれていた。端をはさみで二本に切り、手のひらに近い場所できゅっと解けないように結ぶと、触れていた指先が離れていく。
ぬくもりが去っていくことを、少しばかり名残惜しいと感じてしまった。きっと誰かが己に触れることなど、彼方にある記憶以来だったからだろう。
「終わりました。ハンターは怪我の治りが早いとお聞きしているので、このまま一晩過ごしていれば大丈夫かと思います。念のため化膿止めを。朝になって、傷が熱を帯びていたら使ってください」
「いえ、これで充分です。助かりました」
差し出された薬を謝必安はやんわりと断る。彼女の言う通り、ハンターの身体は相当丈夫にできている。ならば折角もらっても無駄になってしまうだけだ。
医生も再び勧めることはせず、そうですか、と手を引いた。治療に使った器具を救急箱に戻していく横顔を何となしに見つめていると、医生は居心地が悪そうに紅を引いた唇をきゅっと引き結んだ。
そういえば、彼女はいつもこんな時間まで起きているのだろうか。だとしたらかなり遅い。
「それでは、お大事にどうぞ」
浮かんだ疑問は、けれど口から出る前にそちらの片付けが済んでしまった。医生は軽く頭を下げ、救急箱を手にサバイバーの館へと戻っていく。
朝日が昇れば、また陰謀がひしめくゲームが始まる。また己はハンターとして、彼女はサバイバーとして、二人は話すこともなく、追いかけ、逃げ回る日々を繰り返していくのだ。
離れていく華奢な背中を見送っていた謝必安は、ふいに胸に湧いた衝動に立ちあがった。
「医生」
呼び止める。けれど彼女は振り向かない。
医生、ともう一度呼び掛けながら肩に触れると、大きく跳ねた腕にぱしんと手を払われた。
「ああ、すみません。怖がらせるつもりは」
「ま、まだ何か?」
「いえ……またよければこうして、話をする機会があればと思ったのですが……」
彼女とこの場限りなのは、惜しい気がした。范無咎の話をもっと聞きたい。今の彼が何を話して、何を思っているのか。思い出をこねくり回してかたどった想像の友ではなく、実際に相まみえることのできる者から、現実にいる彼の話を。
だが彼女の怯えようを見るに、このまま頼んでも断られる可能性が高そうだった。そのことを瞬時に悟り、謝必安は眉を下げて身を引く。
「忘れてください。よい夢を」
両腕で黒傘を抱き、淡く微笑む。視線の斜め下に佇む彼女は、そんな謝必安を見てぐっと喉を詰まらせたような顔をした。
救急箱を胸の前で抱きしめ、栗色の双眸を右へ左へを揺らめかせる。何かを話そうと口を開き、けれど言葉にできずにまた閉じる。相当に迷っている様子だ。
「どうしました?」
謝必安はそれに気付かない振りをして尋ねる。できるだけ優しく、少しだけ寂しげに、そして怖がらせないように。
医生はちらりとこちらを見上げ、すぐに救急箱に視線を戻す。やがて彼女はひとつため息をつき、諦めたような面持ちでこちらを見上げてきた。
「……今日のように、会うことがあれば」
──かかった。
謝必安は内心でほくそ笑む。けれどそれをおくびにも出さず、ぱっと顔を輝かせて喜んだ。
「いいのですか?」
「ただし、日常的に会話をすることは避けさせていただきます」
「ああ、そうですね。あらぬ誤解を受けてしまいかねない」
「それと、ゲームに関するサバイバー側の情報も。もしあなたが探ろうとしてきたら、私は二度と接触しません」
「ええ、私だって仲間を売るつもりはありません。他にはありますか?」
少し思案してから、医生はいえ、首を振った。謝必安は改めて喜色を滲ませ、手を胸の前で合わせて礼をする。母国式の敬礼だ。
「ありがとうございます。あなたの厚意に感謝を」
その厚意につけ込んだのであるが、感謝は心からの意だった。彼女は相変わらず戸惑ったような悔いているような顔をしていたが、それでも色のない頬を僅かに緩めて微笑した。
「それでは、また」
「はい、また。おやすみなさい」
最後にそう言うと、医生もおやすみなさい、と挨拶を返し、今度こそ扉の向こうへと消えていった。遠ざかっていく足音を聞きながら、謝必安も踵を返し幕をくぐる。
「おや……」
ハンター側の椅子に戻り、謝必安はきょとんと目をしばたかせる。彼が座っていた椅子の端。黒地の座面の隅に、白い帽子がぽつんと取り残されていた。
「返しそびれてしまいましたね……」
けれど丁度いい、と唇を吊り上げる。会いに行く口実ができた。
謝必安は彼女の帽子を取り、うっすらと微笑みを浮かべる。彼の中から、この場所に座っていたときに感じていた苛立ちはすっかり消えていた。
友の宿る黒傘と異国の帽子を片腕で抱えながら、ふふ、と笑声をこぼす。
「この身体になってから、明日が待ち遠しいと思う日が来るなんて」
ましてや誰かと范無咎のことを話せるときが来るなんて、思いもよらなかった。
胸がうずく感覚に笑みを深めて、謝必安は静かな廊下を歩いていく。これまでと違う日々が待っている確信が、この時は楽しみで仕方なかった。
今の范無咎を知りたい。彼女の話を聞いて、変わらない彼を、変わった彼を知っていきたい。

医生に会いたいと思うはじめの動機は、本当にただそれだけだった。



あとがき
白黒にとって他者に興味をもつきっかけは、親友に関わることについてが多いんじゃないかなとかそんな妄想。誰からが白の/黒の話をしていたら興味の沸点が一気に低くなりそう。そして先生は巻き込まれる。


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