"東洋人"と"西洋人"・後
あの日、あの夜。
長いこと変わらなかった友の行動に、ひとつ、変化が生じた。
謝必安と入れ替わった経緯を医生の女に説明され、范無咎は眉間にしわを寄せた。本棚を背にして座りながら、大きなため息を吐く。
「そんなことで入れ替わったのか、あいつは……」
くだらない。あまりにもくだらない理由だ。サバイバーの体調なぞ気にしてどうする。
顔を片手で覆って首を垂れ、ちらと横に視線を向ける。指の隙間から見えたサバイバーは、すっかり困惑しきった様子で佇んでいた。
必安、お前こうなることがわからなかったのか。わかってやったのならタチが悪いぞ。
長い付き合いの片割れに、内心で文句を放り投げる。
「ファンウジンさん」
躊躇いがちに名を呼ばれ、ぎろりと女を睨んだ。余程恐ろしい顔だったのだろう。器量がいいと言っていい女の顔が、恐怖に引き攣った。
拙い発音だった。しかし気に障ったのはそこではない。
「その呼び方はやめろ、好かん」
「すみません、その、黒無常さん」
怯えながら言い直す医生に、違う、と首を振る。
「それは敬称を付けた言い方なんだろう。それをやめろと言っている」
「ですが、あなただけ呼び捨てにするのは……」
「やめろ、でないと今すぐ椅子に縛り付けるぞ」
それでもなおも言い募る相手に、范無咎はずいと顔を近付けて凄んだ。
敬称のついた名には嫌な記憶しかないのだ。自分があれらと同等の扱いをされるのが、例えただの呼称だろうが我慢ならない。高官など憎いばかりだ。
「あいつはあいつ、俺は俺だ。あいつがいいと言っていることに口出しをするつもりはないが、俺には使うな。不愉快だ」
床に手をつき、相手が下がった分だけ前に詰める。いいな?と念を押すと、女は息を呑んでこくこくと頷いた。
ようやく首を縦に振った医生に范無咎ふん、と鼻を鳴らし、再び本の詰まった棚に寄りかかる。
ここは階段をあがった上段のはずだが、それでもまだ天井は高い。上には豪奢な見た目をした明かりが吊るされている。裕福層の思想らしい、傲慢な作りだ。
どの国でも金持ちが考えることは同じだな。半円状の燭台を睨みつけて、ふと唐突に謝必安が自分と代わった理由を思い出す。
「おい」
「えっ──いたっ!」
何の断りもなく細い腕を引っ張る。医生は人形のように軽々と引き寄せることができた。
片手で頭を掴んで額を合わせる。ごつ、と鈍い音と同時に悲鳴が上がったが、それを無視して体温を測ると、高めの温度が皮膚越しに伝わってきた。
「熱いな。……何だ、頭痛もするのか?」
胡坐の上に座り込んで項垂れる医生に、范無咎は背を丸めて問いかける。
「あ、んなに、勢いよくぶつけられたら、当然です……っ」
「あの程度でか?」
痛みに耐える震えた反論に、思わず目をしばたかせた。軽く触れたつもりだったのだが、それでも強いのか。
軟弱な身体だな、と自分も元人間だったことを棚に上げてひとりごちる。そうしているうちに、女は額を押さえながらよろよろと立ち上がった。
「ご心配なく。私にはこれが平熱です。というより、あなた方の体温が低いだけかと……」
「別に心配なぞしとらん。あいつが気にしていたからだ」
そう、謝必安がこの女を気にしていたから。
ふと、范無咎はもうひとつ思い出す。丁度いい。足元から後ろに下がった女に再び視線を向ける。
「お前、謝必安に何を吹き込んだ?」
「吹き……?何のことですか?」
「お前と会ってから、手紙を寄越すようになった。お前がそう言ったのか?」
自分達がここに招かれて、半月ほど経った夜のことだ。
夜更けの待機室で寛いでいたときに、謝必安が偶然この女とかち合った。
入れ替わることはなかった。范無咎はただ傍観しているだけであった。
音も感覚もない、目だけがまともに見える傘の中で、それでも友がこのサバイバーを"衆"から"個人"として認めたことだけは手に取るようにわかった。現に今、彼女を気遣って范無咎と代わったのが何よりの証拠だ。
だからそう尋ねると、女はぱちりとまばたきをした。それからいいえ、と首を振る。
「あの時は誤解を解くこと以外、ほとんど話していません。あなた方が別の存在だと知った程度です」
胸の前で手を合わせ、青白い顔でこちらを見る。その表情に嘘はなさそうだ。
なら、あの手紙は謝必安の意思か。
理解し、首を傾げる。ならば何がきっかけだ。
こんなことは今までなかった。ならば謝必安の心情に何かしらの変化があったと思うのが当然だろう。
そしてある日を境に文机に現れた自分宛ての手紙を見下ろし、何事だと記憶をひっくり返して思い当たった原因が医生だったのだが。
顎に手を当てて唸っていると、医生が再び口を開いた。
「シャビアンさんは、あなたのことを知りたいと思っていました。だから手紙を書いたのでは?」
「あ?」
何を今さら。適当なことを抜かすなと思った。しかし、女は范無咎のその思考を見透かしたようにこう続けた。
「これまでのあなたではなく、今のあなたを知りたいと。だから時々私に会って、あなたのことを聞きたがっているんです」
「今の俺だと?」
どういうことだ。黒い眉間にしわが寄る。医生の言っていることの意味がわからなかった。
今の范無咎が知りたいとは何だ。例えそれが真実だとして、謝必安は一体何を考えてそう思ったのか。
答えを求めて小さい人間を見る。座ってようやく目線の上にきた顔が、青い顔をしながらも范無咎を真っ直ぐに見返した。
「私が話したのは、あなたの話だけです。ゲーム中に、あなたたちがお互いの名前を呼んでいると、それだけ」
「は……?」
思わず目を見開いた。ぽかんと口を開けた間抜けな面を医生に晒すことになる。
「それだけなのか?」
「ええ。あの時話せたのは、ほんの少しでしたから」
信じられない思いで、范無咎はのろのろと視線を動かす。親友の魂が宿った黒い傘が、本棚に立てかけられ静かに佇んでいる。
必安、お前。
「そんなことで、あいつはあんな顔をしていたのか?」
あんな、今にも泣きそうな、嬉しそうな顔を。
そんな当たり前のことで、謝必安は喜んでいたというのか。
愕然とした。本当に至極当然のことなのだ。范無咎にとっては息をするのと同じくらいに、友の名を呼ぶことなど。
だのに、あいつは。
(そんな些末なことを、嬉しいと思ったのか?)
范無咎の中で常識が音を立てて崩れはじめる。彼の常識であった"謝必安"という存在が、みるみるうちにひび割れて不透明になっていく。
必安はそんなことで喜ぶやつだったか。あいつの中で俺は名前すら呼ばないやつだと思われているのか。
待て、ならば今の必安はどんなやつだ?あいつの中の俺はどんな像だ?
あいつと俺は、互いにどんな存在を描いている?
深みにはまりかける思考の中で、范無咎はようやく片割れの心情を理解する。
そういうことか。
謝必安が泣くほど喜んだ理由。突然手紙を書きだした理由。
それはいま范無咎が感じている、不安の反動だ。
死に分かれたあの日から、長い年月の経過が、最も近くにいながら相まみえることはない歪な在り方が、想像と現実が寸分も違わず結ばれていた互いの像にズレを生じさせていた。
謝必安は以前からそれに気付き、范無咎は今の今まで気付かなかっただけで。
──馬鹿か、俺は。
奥歯を噛み、ああ馬鹿だったと額に手を当てる。いつだって誰かに指摘されるまで気付かないのだ。
指摘してくれていたのは、いつも謝必安だった。だからあれがいないと、阿呆なほどに気付くのが遅れる。
しかし、だとしたら不味いことをしている。何故なら、その手紙に──、
「もしかして、手紙の返事をしていないのですか?」
唐突に切り込まれた言葉に、范無咎は弾かれたように顔を上げた。しかしすぐに警戒心を剥き出しにして睨む。
「何故そう思った?」
医生は視線に怯んで一歩下がるが、自らを落ち着かせるようにひとつ息を吐くと口を開いた。
「あなたの反応を見てそうではないかと……私の発言にそれほど驚いたのなら、きっと本人に理由を訊いていないのだろうなと、でしたら手紙も返していないのかもしれないと、そう思っただけです」
思わず絶句する。何だ、こいつは。あまりにも的を射た返しに、范無咎は唸ることさえできない。
「私が言うことではないかもしれませんが……返事をしたら、シャビアンさんは素直に喜ぶと思いますよ」
「知ったような口を訊くな」
部外者に何がわかる。かっとなった勢いでそう言い放って、びくりと身を縮めた姿に我に返る。
「すまん」
八つ当たりだ。違う。向けるべき矛先は医生ではなく、己自身だ。
「いえ……ごめんなさい、こちらこそ差し出がましい真似を……」
「いや、お前の言う通りだ。図星をつかれてついな」
謝必安が今の己を知りたい理由はわかった。しかしだからこそどう返事をすればいいか、余計にわからなくなった。
何故なら。范無咎は眉間にきつくしわが刻まれる。
「……お前、手紙を書いたことはあるか?」
横で居心地が悪そうに身じろぐ女に声を掛ける。一階の両開きの扉を睨むように見つめていると、驚きと戸惑いが入り混じった視線が送られてきた。
「え?え、ええ……人並み程度には」
「そうか……」
范無咎は立ち上がり、傘を持つ。ちらりと医生を見やると、猫のように目を丸く開いて自分を見上げていた。
一足。歩み寄って片膝をつき、その身体を先程のように引き寄せた。女の悲鳴を合図に立ち上がる。
「な、なにを──」
「舌を噛みたくなければ黙っていろ」
もっとも、舌を噛みかねない状況になるのかは不明だが。何せ生きた人間を連れて使うのは初めてだ。
軽い身体を肩に担いで狙いを定める。場所はここより先の別館。当たりをつけ、傘を放った。
とぷん、という音が室内に響く。同時に視界が暗転した。
「──っ!」
水の中を揺蕩うような感覚の中、ふいに襟を引っ張られる。胡乱に顔を向け、頬に当たった腕が随分と固まっていることに気付いた。どころか手で触れる箇所全てが強張っている。
落ち着け、大丈夫だと、つい動物を宥める要領で小さな背をさするが、その四肢から力が抜けることはなかった。
流れに身を任せたまま揺られ、もう一度水音がした瞬間に視界が開ける。窓から差し込む光に照らされた室内は、間違いなく自分達の部屋だった。
「着いたぞ。……おい?」
医生がおりやすいように膝をつくが、一向に降りる気配がない。怪訝に思って視線を滑らせると、口も眼も固く結んでじっと耐えている横顔が見えた。
恐怖に硬直している様に、范無咎は医生を下ろすことを一旦諦める。担いだまま書斎机に手を伸ばし、引き出しから目当てのものを見つけて再び立ち上がる。
「医生、もう平気だ。降りていい」
先程と同じように背を撫でながら、できるだけ穏やかにそう告げると、華奢な身体が身じろいだ。途端、医生はばっと腕を突っぱねて范無咎のから逃れようと暴れだした。
反射的に力が入ってしまい、腕の中で医生が苦しそうに呻く。慌てて力を緩めると、今度はそのまま落としてしまった。
「お、おい」
大丈夫か?と声を掛ける前に、きっと涙を溜めた目に睨まれた。范無咎はぎょっとして思わず一歩下がる。
「いっ、いきなりはやめてちょうだいと、何度も言ってるでしょう……!」
「わ、悪かった」
いや俺は今初めて言われたんだが。そう思ったが、あまりにも必死な剣幕に押されて謝ってしまった。
医生は床にへたり込んだまま、大きく息を吐いた。丸まった背中がゆっくりと傾いていくのを何も言えずにただ眺める。自室だというのに、さっきまでいた書庫よりも居心地が悪かった。
「ここは……?」
何度か呼吸を繰り返していた医生が、ふと背を伸ばして辺りを見回す。落ち着いたか、とそっと息を吐いて、私室だと答える。すると再び身を固めてしまった。
「な、なぜあなたの自室に?」
先ほどの迫力はどこへやら。恐怖に震える女に、しかし范無咎は言葉に詰まる。
いや、言うべき言葉はちゃんとあった。ただ踏ん切りがつかないだけだ。
髪がほつれるのも構わず、がしがしと頭を掻く。
「お前に頼みがある」
一息で言い、医生の前に座り込む。何故か青い顔で縮こまる相手の前に、先ほど取り出したそれを突き付けた。
「手紙の、書き方を、教えてくれ」
自尊心やら羞恥やらの葛藤に耐えながら途切れ途切れにそう言うと、女の震えがぴたりと止まった。紙の束の向こうで、医生はきょとんとした表情をして、范無咎を見つめてまばたきを繰り返す。
自分のことなど、どう書けばいいのかさっぱりなのだ。
私信の手紙を書くのは、昔から大の苦手だった。
◆ ◆ ◆
廃墟と化した病院の離れにある、壊れた建物の外壁の隅。腰あたりにまで伸びた雑草を隠れ蓑にしながら、エミリーは逸る呼吸を鎮めながら身を潜めていた。
暗号機の解読は終わっている。が、通電したゲートは未だ開いていない。手に入れた五つの暗号を入力していたところで、ハンターが突如として現れたのだ。その時にエミリー以外の仲間は、ロケットチェアで飛ばされてしまった。
負けは確定。けれどまだ終わっていない。
ハンターの気配はない。エミリーはゆっくりと立ち上がり、壁から顔を覗かせる。周囲に動くものはカラス以外いなかった。
今がチャンスだ。くっと息を止め、壁の横を走り抜ける。
──が、次の瞬間、音もなく飛んできたものがあった。
「あ……っ!」
開いた黒い傘が近付いてくる。どくん、と心臓が大きく跳ね上がった。
無我夢中で足を動かすが、水から何かが上がってくる音が耳に届いた直後、背中に大きな衝撃が走る。気付いたときには地面に転がっていた。
「無咎の読みが当たったようですね」
廃墟には不釣り合いな、穏やかな笑声が耳朶を震わせる。腰辺りに何かを巻かれたと感じた時には、エミリーの身体は宙に浮かんでいた。
軽い眩暈に苛まれながら瞼をこじ開けると、長い三つ編みと背に垂らした男が微笑んでいた。捕まってしまったのだ。
悠長に歩き出す謝必安に、エミリーはせめてもの抵抗に暴れた。が、彼は椅子をそのまま通り過ぎていく。
エミリーは動きを止めて、意外そうに謝必安を見つめた。
視線に気付き、赤い光を帯びた双眸と目が合う。
「ハッチは確かあちらにありましたね」
つまり、逃がしてくれると。だったら吊らずに逃がしてくれてもよかったじゃない、と思ったが、声に出すのはやめておいた。
おやそんなに飛ばされたかったんですかではご希望通りにとでも言われて、笑顔のまま踵を返されかねない。何となく垣間見えてきた謝必安の性格を、エミリーは正確に分析していた。
「……珍しいですね」
代わりに別の言葉を口にすると、彼は口端を吊り上げて、ええ、と機嫌よく肯定した。
「勝ちは確定ですし、たまにはいいかと思いまして。それに、あなたにお礼を言いたかったんです」
お礼。心当たりのあったエミリーは、思わず苦笑いをこぼす。
「手紙の返事が来たんですね」
斜め下の横顔がはい、と頷き、嬉しそうに口元を綻ばせた。瞳が異常に赤く光ってさえいなければ、彼がハンターであることさえも忘れてしまいそうな笑顔だ。
「『久しぶりにお前の茶が飲みたい』、と。あなたが外出禁止時刻ギリギリまで無咎に付き合ってくださったおかげですね」
まさかこんなに早く返事が来るとは思わなかったと笑う謝必安に、ほぼ半日近く范無咎に付き合っていたエミリーも同意するしかなかった。
短い一言だが、それを書くためにかなりの時間を費やしたのだろう。小一時間筆が動かず、書きはじめたかと思ったら暖炉にくべていた彼を思い返して、一体どれだけの紙を燃やしたのかしらとつい考えてしまう。
「よければえみりーもいかがですか?お礼も兼ねて、あなたにも振る舞いたいのですが」
朗らかな表情のままそう尋ねてきた謝必安に、まさか誘われるとは思っていなかったエミリーは言葉を詰まらせる。
「それは……」
「私たちの部屋であれば、他のサバイバーに見つかることはないかと。昨日の無咎のように、傘を使って移動すれば」
確かに、それなら見つかる可能性はぐっと低くなる。傘だけが見えたとしても、まさかエミリーも共にいるとは誰も思わないだろう。
けれど、またハンターの館に向かうのは。
「ちなみに私の国のお茶は、薬膳としても使われる類のものなのですが」
その言葉に、エミリーはぴくりと指先を動かす。
ちらりと見上げる細い面差しは、楽しげにこちらを見つめていた。明らかにこちらの心情を把握したうえでの発言に、エミリーは思わず半眼になる。
その言い方は卑怯だ。
揺らいだことを敏感に感じ取った謝必安は、さらに畳みかけるように続ける。
「帰りもきちんとお送りさせていただきます。見つからないように、細心の注意を払いますから。私の索敵能力は身をもってご存じでしょう?」
「ええ、それはもう……」
ふわふわと風船で吊られながら、深い深いため息を吐く。ぶらりと手足を投げ出したまま、エミリーは諦めたように彼を見下ろした。
一度灯った好奇心は、なかなか消えてはくれないのだ。
「……それに加えて、身の安全を保障してくださるのでしたら」
そしてもう一つ条件を出す。つまり了承の意だった。
謝必安はこちらの意思を違わず汲み取り、切れ長の瞳をさらに細めて笑った。
「元よりそのつもりです。では、腕によりをかけてもてなしますね」
その『もてなし』がどれほどなのか想像もつかず、エミリーは半ば無意識にお手柔らかにお願いします、と呟いた。ハンターにもてなされるサバイバーなど、自分が初めてなのではないだろうか。
ゆっくりと歩を進めていた謝必安は、やがて地面に生えた鉄板の前に辿り着く。ハッチと呼んでいる地下室への抜け穴は、既に重そうな鉄の扉を開いてエミリーたちを待っていた。
「それと、これを」
ぷつん、と紐を切る音がした瞬間、支えを失った身体が落下する。が、地面に落ちる前に長い腕に受け止られ、ぼそりと耳元で囁いたかと思うと手袋の中に何かを潜ませた。
くすぐったさに思わず耳を押さえて彼を見上げる。やや非難めいた顔をしてしまったのは仕方がない。
「あとで読んでください。ささやかではありますが」
しかし謝必安は気にする様子もなく、エミリーをハッチの前に丁寧に降ろした。
これで話は終わりということなのだろう。謝必安はにこにこと笑みを浮かべたまま、それ以上は喋ろうとしなかった。
気にはなったが、これ以上ゲームを長引かせるわけにもいかない。尋ねることを諦め、エミリーは地下へと続く穴を見下ろした。底の見えない暗闇に息を呑み、覚悟を決めてハッチへと飛び降りる。
重力に従って落ちていく。全身にまといつく浮遊感にぎゅっと目を瞑った。
やがてぼすんっと柔らかな物に受け止められ、地階に着いたことを知る。おそるおそる目を開け、クッションを巨大化させたようなマットから身を起こす。
ふわふわと歩きにくいマットの上をよろめきながら降り、ようやく床に降りて一息つく。身なりを整えながら辺りを見回し、人気がないことを確認して右手の手袋の中に指を差し入れた。
「……手紙、かしら?」
そこから出てきたものは、小さく折りたたまれた紙だった。エミリーは首を傾げながらそれを開き、燭台の近くに移動して読みはじめる。
「……これって」
文字を追っていた目が見開く。反射的にハッチの出口を振り仰ぐが、もちろん謝必安の姿など見えはしない。
エミリーは少しの間遠くに見える四角い光を見つめていたが、ぱたぱたとこちらに近付いてくる足音に気付いて腰に吊り下げた救急セットの中に紙をしまった。
「エミリー!」
「エマ」
急いで駆け寄ってきた麦わら帽子の少女に、ほっと笑みを浮かべて彼女の方へと歩く。走る少女はそのまま勢いよくエミリーに飛びついた。
「エミリー、大丈夫?ケガはないの?」
「ええ、運よくあっちが見逃してくれたの。あなたも怪我はなさそうでよかった」
「エマは全然平気なの!なかなか帰ってこないから、心配だったの」
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくるエマに、エミリーは苦笑しながらその背を優しく撫でる。
「安心して、私も大丈夫だから。迎えに来てくれてありがとう」
戻りましょうか。優しく声を掛けると、うん、と小さな声と共に麦わら帽子がかさりと上下した。
背に回っていた腕が離れ、エマの顔がようやく見える。不安そうな表情をしていた彼女は、ふとまばたきをして首を傾げる。
「エミリー、何かいいことがあったの?」
「え?」
「嬉しそうな顔をしてるの」
今度はこちらが目を丸くする番だった。思わず片手を頬に当て、そんな顔をしていただろうかと焦る。
「えっと……ええ、そうね。相手の気まぐれで、何とか全滅にならずに済んだし……それにエマがここまで来てくれたのが嬉しかったから」
嘘ではないが真実ではない事実と、自分に心を向けてくれたことへの喜びを織り交ぜてそう告げる。訝しげにしていたエマは、その言葉に一度きょとんとした表情をして、それから照れたようにえへへ、と笑った。
「もうそろそろお昼ご飯なの!エミリー、一緒に食べようなの」
「ええ、もちろんよ」
内心でほっと安堵の息をこぼしながら、伸ばされた手に引っ張られて上へを戻っていく。伝わってくるあたたかなぬくもりに、やっぱりあの人たちの体温は低いのね、とほんの片隅で思う。
前を向くエマから視線を外して、エミリーはちらとポーチに入った紙片を見る。俯いた小さな唇に、じんわりと笑みが滲む。
『お礼と言ってはなんですが、図書館に私たちが翻訳に使っている二種の辞書を置いておきました。先日お会いしたとき、中医学に大変興味を示しているように感じられたので。
場所は階段をのぼった先の右から三番目の本棚、『本草綱目』の横に差し込んであります。よければ活用してください。
それでは"えみぃ"、また。もし本を読んだら、あなたの見解をお聞きしたいものです。』
──この人は、私から医学書を取り上げようとしない。
エミリーにとって、そんな男性は初めてだった。
ああ、早く読みたいわ。内側から湧き立つ好奇心が、今にも表に出てそわそわと走り出してしまいそうだった。
名前のスペルが間違ったこの手紙を燃やさなければならないことを、何故か少しばかり惜しいと思った。