私の脚は、心を打ち砕く力を持っている。
誤解しないでもらいたいが、決して誰かにこうだと指摘されたわけではない。これまでの軌跡を振り返り、明確に浮かび上がった事実をただ述べただけのことだ。
私と共に走ると、必ずと言っていいほどそのうちの幾人かは競技の舞台から姿を消した。順位に関係なく、故障の話もないにもかかわらず、唐突に。
その理由は、言い回しは違えど皆一様であった。私の走りに自信をなくして走れなくなったのだ、と。
いつしか学園専属のトレーナー諸君も、自らの担当と私を走らせることを恐れるようになった。
私も並走相手は慎重に選ぶことを覚えた。レースもGⅠと、前哨戦として走るGⅡの二種のみに出走すると決めた。
私と同等か、もしくは無意識に放ってしまう重圧に耐えきれる相手を。経験した実力差をバネにし、成長できる者を。
そのような基準を定め、トレーナー君もその意を汲んで並走相手を探してくれた。
どうしても見つからない場合はメニューを変えるか、私自身が抑えて走った。それで練習になるのかと疑問に思う者もいるだろう。しかしこれもまた、充分に意義のある練習であった。
──過剰に力を出しきらず、相手に応じて最低限の能力で走る。
このさじ加減はレースにも流用できた。おかげでこれまでに大きな故障もなく、今も理想のために走り続けることができている。
だが、それでも怖がらせてしまうことはままあった。
怯えさせないように。威圧感を与えないように。
いつの間にかその戒めが頭のなかに居座るようになり、それを気にしなくていい相手は、私にとって非常にありがたい存在だった。
彼女もそのうちのひとりだった。私とまともに走ることができる、数少ない相手だと。
……そう、思っていた。
「なあブライアン。私はエアグルーヴに、何かしてしまったのだろうか?」
静まり返った生徒会室で、ルドルフはおもむろに問いを投げかけた。
ペンがさらさらと紙面を走っていく。黙々と書類業務をこなしていたルドルフの耳に、かすかな衣擦れの音が届いた。
「……知るかよ、そんなこと」
赤いソファに寝転がっていたウマ娘がのそりと起き上がった。生徒会副会長の一人、ナリタブライアンだ。
気だるげに背もたれに寄り掛かりながら、ブライアンはこちらを睨みつける。如何にも不機嫌そうな仕草だが、別段怒っているわけではない。
寧ろ身を起こしてくれたあたり、話くらいなら聞いてやる、ということなのだろう。不愛想ではあるが、何だかんだ面倒見がいいのだ。
「いくら探してみても、心当たりがなくてね。五里霧中、正直手詰まりなんだ」
「本人に聞けばいいだろ」
素っ気ない返しに、聞いてはみたんだが、とルドルフは眉を下げて微笑む。
「それが何でもないの一点張りでね。他の役員にもそれとなく尋ねてみたが、彼女らの前ではいたっていつも通りらしい。だから、君なら何か気付いた点でもないかと」
よかったら教えてほしい。そう頼めば、ブライアンはくあ、とひとつ欠伸をしてから、考え込むように黙った。
彼女の言葉を待ちながら、山にあったものとは別置きにしていた書類に目を落とす。
先ほどたづな秘書から渡された、地方レースと国外レースの戦績表だ。地方は主にスカウト目的の人材探し、国外は招待客が招かれる場合を想定し、定期的にまとめたものを彼女から受け取っている。生徒会で確認後、掲示板に貼り出すまでが恒例だ。
ちなみに生徒らにも好評のようで、貼り出したその日は掲示板に小さな人だかりができているのをよく見かける。
「……六月に入ったあたりか」
誰か目につく者はいないだろうかと眺めていると、ぼそりとした呟きを耳が拾った。顔を上げると、ブライアンはこちらではなく生徒会室の扉をじっと見つめていた。
「最近、ここに来るとよく昼寝ができる」
「うん?」
「前はすぐにとやかく言われてうるさかった」
おそらくエアグルーヴのことだろう。しかし話の意図が読めない。
大人しく耳を傾けていると、黄金色の瞳がくるりとこちらを向いた。
「その辺りじゃないか。エアグルーヴがアンタを避けるようになった原因は」
「……やはり避けられているのか」
そうだろうとは思っていたが、他人の口から改めて指摘されるとなかなか堪える。耳がぺそりと垂れるのを感じながら、ルドルフはううむと唸った。
ブライアンの言う通り、ひと月ほど前からエアグルーヴと接触する機会が減った。減らされていると言った方がより正しい。
表面上は変わりない。至っていつも通り、彼女はその敏腕を如何なく振るっている。
ただし、ルドルフに対する態度を覗いて。その一点のみ、明確な変化があった。
視線が合わなくなった。話し掛けると妙な間が空くようになった。心なしか表情を硬くさせて、どこかぎこちなくなる。
顕著なのは会話だ。業務上不可欠なことのみの、最低限のやり取り。これに尽きる。
ルドルフが休息を取らずに業務に明け暮れたり、つい興が乗って他者の分の仕事まで独占してしまったりすれば変わらず注意を受ける。だが、こんこんと諭すように叱られることはなくなった。いや、別に叱られたいわけではないのだが。
(……それが当たり前だと思うほど、私にとっては日常の一部であったから)
ルドルフは小さく息を吐く。何だろう、この奇妙な空虚さは。業務自体は問題なく回っているというのに。
仕事はきっちりとこなしてくれる。しかし生徒会室に留まらず、寮へ持ち帰ることが多くなった。
休憩を取るときは、何も言わずともお茶を淹れてくれる。けれどエアグルーヴ自身はそのままどこかへ行ってしまう。
──あきらかに距離を置かれている。
その現状が、ルドルフの胸に不可解な空洞を作っていた。
「本当はあるんじゃないか?」
「え?」
「心当たりだ」
そう指摘されて面食らう。じっとこちらを見据えるブライアンに、ルドルフはやがて苦笑いをこぼした。
「鋭いな……」
相変わらずの勘の良さに思わず舌を巻く。その野生じみた鋭い嗅覚があるからこそ、怪物と称されるほどの走りを可能にするのだろう。彼女は感覚型の天才だ。
軽く肩を竦めて見せ、ルドルフは白状する。
「君の言う通り、心当たりがないわけでもない。……が、その可能性は低いと思っている。だから他にないかと探しているんだ」
「……なら私にはわからん。他を当たれ」
きっぱりと言い切り、彼女は再びのそのそとソファに寝転んだ。
「これでいいだろう? もうひと眠りする」
「ああ、休んでいたのにすまなかったな。予鈴が鳴ったら起こそう」
「…………ああ」
ブライアンは苦虫を噛みつぶしたような顔をしたが、結局は頷くだけだった。
以前ここで授業をサボった際、エアグルーヴに見つかって特大の雷を落とされたらしい。ブライアンの反応を見るに、かなり効いているようだ。
彼女に気付かれないようひっそりと笑みをこぼしながら、ルドルフは再び書類と向き合った。
生徒会室に紙とペンの音が静かに響く。さらさらと文字を記す音は、しかしそう時間を置かずに止んでしまった。
扉の向こうで誰かが廊下を小走りに駆けていく音が聞こえる。その足音が去っていた頃、ルドルフは微かな吐息をこぼした。
(可能性は、限りなく低い。だが……)
決してゼロではない。
あり得ないと言い切るには、主観的な思考がやや入り込み過ぎていた。
楽観視。希望的観測。己に都合よく解釈することを、一般的にそう表現する。
ルドルフは、観察眼はそれなりに鋭い方だと自負している。ことレースに関わることであれば、特に。
エアグルーヴのことはよく知っているつもりであった。彼女の人柄、走り方、そしてレースに賭ける、苛烈なまでの情熱も。
どれほど達成が困難な目標であろうと、彼女は常に前を見据える。寧ろ立ち塞がる壁が高ければ高いほど、その精神は烈火の如く燃え上がり、笑みさえ浮かべて相手に挑戦状を叩きつける。
『不屈』という言葉がこれ以上なく相応しく、そんな彼女であればこそ。……しかし。
怯えさせないように。威圧感を与えないように。──壊してしまわぬように。
紙面に目を向けたまま、ルドルフは無意識に唇を引き結んだ。
◆ ◆ ◆
意図せず盗み聞いてしまった。
正面玄関を通り抜けながら、エアグルーヴはどんよりと額に手を押し当てた。用向きがあって生徒会室に赴いたのだが、逃げるようにそのまま踵を返してしまった。
まさか自分のことを話しているとは思わなかったのだ。ドアノブに手を掛けた瞬間、ルドルフがエアグルーヴの名を呼んだときは心の底から驚いた。
「しまったな、予想以上に気に病んでおられた……」
己の浅慮に呆れる。いっそのこと大樹のウロに叫びたい気分だ。しかし誰にどう聞かれてもまずいため、実際に行動に移すことなどできやしない。
あのルドルフが気に病まないはずがなかった。生徒たちが自分のことを頼ってこないと、それに対して本気で思い悩むような方なのだから。
だが、弁明していいのならエアグルーヴとてこうする他なかった。ひとまず距離を取る。それ以外の方法がどうしても思い浮かばなかったのだ。
「どうしろというのだ……」
恋情を自覚した心は、未だ藁すら掴めず動揺の海に溺れている。ルドルフの些細な言動や仕草、どころか名を呼ばれるだけでも挙動不審になりかける始末だ。
制止も聞かずに表に出てこようとするこれに、どう対処すればいいのかわからない。わからないから余計に焦る。
どうすれば隠せるのだろう。今まで普通に接していたことが不思議なくらいだ。
せめてもう少し、落ち着きを取り戻すまでは接触を避けていたいところであるが。
「あの様子だと、そうも言ってられそうにないな」
ではどうする。しばらく距離を置きたいと言えば、確実に追及が飛んでくる。正直に打ち明けることなどまず無理だ。
よしんば上手く誤魔化せたとしても、頭を冷やすのにどれほどの期間を置けばいいか見当もつかない。ほら見ろ八方塞がりではないか。
エアグルーヴは深いため息を落とす。本当にどうしたらいい。
どんな議題よりも難しい。そう悶々と頭を悩ませているうちに、がやがやと賑やかな声が聞こえてきて顔を上げた。いつの間にかカフェテリアの前に辿り着いたらしい。
今はこれ以上悩んでいても仕方がない。エアグルーヴは切り替えるように首を振った。続きは寮に帰ってからにでもしよう
「あ、エアグルーヴ」
「ヘイ! 席はこっちデスヨ!」
カフェテリアに入るや否や、掛けられた声に首を巡らせる。そこには友人のサイレンススズカとタイキシャトル、それから顔見知りの後輩たちがひとつのテーブルにまとまっていた。
「エアグルーヴ先輩、こんにちは!」
「あの、またお弁当作ってきたので、味見してください!」
「わ、私のもお願いします!」
こちらの姿を認めるなり駆け寄ってきて、小さな弁当箱を渡してくる。エアグルーヴにとっては馴染みの光景に、自然と表情が緩んだ。
「ああ、わかった。いただこ……」
そして色とりどりの袋に包まれたそれを受け取ろうとして、気付く。
「ぬかった……!」
「あら? エアグルーヴ、それって生徒会室に持っていくって言ってた書類じゃ……?」
手に持っていたファイルに気付いたスズカが、ぽそりと指摘する。その通りだ。そのために一旦スズカたちと別れたというのに。
何をやっているのだ。完全に存在を忘れていた書類を手に、エアグルーヴは思わず呻いた。
「あの……私でよければ持っていきます」
その様子を見かねたのか、弁当を持ってきた生徒の一人がおずおずと手を挙げた。
彼女は生徒会役員のひとりだ。役員相手ならば機密保持の点にしても問題がない。気兼ねなく任せることができる、が。
「それは助かるが……昼食はいいのか?」
「大丈夫です! もう食べ終わりましたから」
躊躇いがちに尋ねると、後輩はにこにこと笑いながら言った。表情を見るに、その言葉に嘘はなさそうだ。
「そうか……ならば、これを会長に渡してもらえるか? ご不在なら、私の名を添えて会長席に置いておけば問題ない」
「わかりました! ルドルフ会長にお渡しすればいいんですね」
「ああ。ありがとう」
力強い受け応えに、エアグルーヴは口唇を僅かに持ち上げて礼を言う。そして書類と入れ替えに彼女たちの弁当箱を受け取った。
「感想はまた返却時でかまわないか?」
確認すれば、「もちろんです!」と元気の良い応答が返ってきた。笑顔でカフェテリアの奥へと去っていく彼女らの、嬉しそうな表情が何とも微笑ましい。
「相変わらずモテモテですネ、エアグルーヴ! むぅぅ、ライバルがいっぱいデス!」
「何の話だ。彼女たちは私に味の感想を求めているだけだぞ」
向かいの席につきながら呆れ混じりに返すと、タイキは両手を上げながら大きく首を傾げた。
「そうデスカ? きっと皆さん、エアグルーヴのスマイルが見たい気持ちもあると思いマス! スズカもそう思いませんカ?」
話を振られたスズカも同意するようにこくりと頷く。
「そうね。そういう理由もあると思うわ」
「そうか……?」
「ええ。だってみんな……スペちゃんみたいにきらきらした目で、エアグルーヴのこと見ていたもの」
眩しそうに目を細めたスズカの瞳には、同室者であり彼女を慕っているスペシャルウィークの姿が浮かんでいるのだろう。可愛くて仕方がないといった表情で、彼女は柔らかく微笑む。
「ワタシもエアグルーヴのハッピーなスマイルが見たいデス! エアグルーヴ、レッツ!」
「急にできるか!」
勢いよく身を乗り出してくるタイキを制しつつ、受け取った弁当箱を開ける。中には一口サイズに作られたハンバーグやにんじんの和え物などが、小さなアルミカップにそれぞれ詰め込まれていた。
スカートのポケットからメモ帳とペンを取り出して横に置く。その場に留まっているときは直接感想を言うが、今日のような場合はこうしてメモを添えて返すのだ。
誰かが気を利かせて持ってきてくれた学食の箸を手に取り、まずはとごま和えを口に運ぶ。食感もほどよくて美味しいが、ごまが多くてにんじんの味が消えている。半量ほど減らしてもいいだろう。
「そういえば、二人とも次はどのレースに出るの?」
しばらく談笑しながら──といっても半分以上はタイキがひたすらに喋っていたが──昼食を食べていると、ふと思い出したようにスズカがそれを口にした。
「ワタシはスプリンターズステークスに出走シマス! 本能で駆け抜けマース!」
がたんと椅子を揺らしながら立ち上がり、タイキは声を張り上げる。周りの生徒らに驚きに満ちた視線を向けられ、エアグルーヴは額に手を当ててため息をつく。タイキはテンションが上がるといつもこうなのだ。
「座れ、タイキ。食事中だぞ」
「オウ! ソーリィ、レースが楽しみでついつい!」
「もう……でも、気持ちはわかるわ。……私も早く走れるようになりたいから」
「スズカはまだ調整中か?」
「ええ。夏合宿中には、勘を取り戻したいけれど……」
困ったように笑いながら、スズカは自身の脚を撫でる。去年の秋、彼女はレース中に骨折したのだ。
当時、医者からはレースへの復帰は絶望的だと言われていた。それほどに酷い怪我だった。
だが、スズカも彼女のトレーナーも、そして周囲の者たちも決して諦めなかった。そして今、根気強く続けた治療とリハビリ生活の末、スズカは再起に向けてゆっくりと歩を進めている。
「あまり無理はするなよ。私はあの時のような本気のお前と、また走りたいのだからな」
走りたくてうずうずとしているスズカに、エアグルーヴは軽く釘を刺しながら小さく笑う。逸る気持ちはわからないでもないが、急いでは事を仕損じるというものだ。
“異次元の逃亡者”。その異名を掲げたスズカが、再びターフに立つ。
その瞬間を、エアグルーヴは非常に心待ちにしている。だからこそ。
最高の状態で、最高の舞台で、共に競いたい。
そして今度こそ完全な勝利をこの手で掴み取ってみせるのだ。
「ふふ、わかってる。私だって同じ気持ちだもの」
「ヘイスズカ! ワタシも! ワタシもです! スズカとは、またベリーホットなレースをしたいですカラ!」
「もちろんよ、タイキ。去年のマイルチャンピオンシップの時みたいにはいかないから」
互いに宣戦布告をして、顔を見合せて笑う。各々の瞳には闘志の炎が爛々と燃え上がっていて、エアグルーヴはいっそう笑みを強めた。
「それで、エアグルーヴはどのレースに出るの?」
「ああ、私は──」
「ねえねえ聞いた? 今度の秋天、ルドルフ会長が出るんだって!」
言いかけた言葉は、聞こえてきた弾んだ声音に止まってしまった。
「そうなの⁉ 会長がレース出るの久しぶりじゃない? 見に行きたいなー!」
「私はもうトレーナーさんに休み交渉してきたもんね」
「えーいいなぁ! 私もお休み取っていいか聞いてみなくちゃ……!」
だったら一緒に行こうと約束を立てながら、はしゃぐ声は通り過ぎていく。学園の至る所でよく見るやり取りだ。
だというのに、エアグルーヴは生徒たちの会話に気を取られたまま動けなくなってしまった。
「エアグルーヴ……?」
スズカに声を掛けられ、ようやく我に返る。慌てて意識を引き戻せば、二人が訝しげな顔をしてこちらを見つめていた。
「あ、ああ、いや……次のレースだったな。とりあえず札幌記念に出る予定だ」
何とか取り繕ってそう答えると、タイキがぱっと笑顔を浮かべた。
「サッポロ! ファームもフードも素晴らしいと聞きマス! ホッカイドーのミルクは一度飲んでみたいと思っているのデス!」
「反応するところはそこか……」
「アハハ! ハーフジョークでス! エアグルーヴ、去年も走っていましたネ。またそこからGⅠに行くのですカ?」
「……ああ、そのつもりではあるが」
しかし安堵したのも束の間、別の方向から切り込まれて内心冷や汗をかく。普段は大雑把なくせに、どうして今日に限って目敏く気付くのだ。
「札幌記念……確か、前は……」
「──秋の天皇賞、その次はジャパンカップに出ていたな」
突如、耳慣れた声が聞こえてきて思わず肩が跳ねてしまった。しまった、と思うがもう遅い。
「すまない、驚かせてしまったようだな」
「いえ、こちらこそ……」
頭上から降ってくるよく通る声音に、エアグルーヴは身体を捻っておずおずと背後を見上げた。そこには、困ったような笑みを浮かべるルドルフが佇んでいた。
「会長さん! ハウディ!」
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
タイキたちの挨拶に視線がぱっと外れる。助かったとばかりに、エアグルーヴは無意識に詰めていた息を吐き出した。
ダメだ。どうしても気を張ってしまう。せめてこれだけでもどうにかしたいものだが。
強張った身体をどうにかほぐし、再び顔を上げる。ルドルフはまだ二人と会話を続けていた。
「会長さん、今日はこっちでランチですカ? 厚切りステーキおススメですヨ! ソーグッドでしタ!」
「いや、もう昼食は済ませてある。今日は箸を忘れてしまってね。食堂で借りたものを返しに来ただけなんだ」
「お弁当……作ってるんですね」
「ああ。そうすれば昼休み中に誰か来ても対応できるからね。……まあ、今日は結局、こちらに赴く羽目になってしまったが」
感心したようなスズカの呟きに、ルドルフは苦笑まじりに答える。
彼女は意外にも朝に弱い。エアグルーヴを含む、ごく一部の生徒のみが知る極秘事項だ。
本人も改善しようとあらゆる対策(弁当作りもその策の一つらしい)を講じているため滅多なことは起こらないが、彼女の寝起きの悪さはなかなかに手強い。エアグルーヴも視察や合宿の際に何度か対峙したことがあるが、あのブライアンでさえ呆れ果てていたほどだ。詳細は省くが、とにかく覚醒するまでに相当な時間がかかるのだ。
今日はその起床難が発生したのだろうか。そんなことを考えていると、赤紫の瞳がこちらを見た。
「エアグルーヴ、君は相変わらず後輩に慕われているね」
テーブルにずらりと並んだ弁当箱を眺め、ルドルフはゆるく微笑む。その穏やかな表情が直視できず、思わず視線が泳いでしまう。
「い、いえ、これは味見役としての部分が多いにあるので……」
「そうだろうか。君が美味しいと言って笑う姿は、また食べてもらいたいと思わせるような笑顔だ。それが理由で持ってきている娘も少なくないと、私は思うがね」
ルドルフがそう言って目を細めた途端、何故か周囲から声を押し殺したような悲鳴が聞こえた気がした。だがそれを確かめる余裕がエアグルーヴにはなかった。
「……あまりからかわないでください」
俯き、ようやくそれだけを呟く。顔が熱い。赤くなったところを見られてやしないだろうか。
これだ。言われた言葉はスズカたちとそう変わりないというのに、相手がルドルフというだけで心臓は性懲りもなく早鐘を打つ。例え世辞であろうと嬉しいと、そう感じてしまう。
厄介なことこのうえない。ほんのひと月ほど前は、こんなことはなかったのに。
まったく何故こんなものに気付いてしまったのか。いや自ら首を絞めたのだった。愚か者か私は。
「からかったつもりはなかったのだが……話を戻すが、君も天皇賞に出るのかい?」
顔を覆って嘆きたい衝動と必死に戦っていると、再びレースの話題を持ち出されて別の意味で心臓がぎくりと軋んだ。
「い、え……まだ決めあぐねていて……今回は天皇賞かジャパンカップの、どちらかに出走しようとは考えているのですが」
違う。本当は決まっていた。けれど、
「……そうか。秋の天皇賞には、私も出走予定なんだ。もし君も走るのなら、お互い良い勝負をしよう」
「……そうですね。その時はよろしくお願いします」
目を合わすことができなかった。虚偽を述べてしまった後ろめたさが、質量を持って頭上に圧し掛かる。
「ああ、そうだ。先ほど資料を受け取ったよ。いつも仕事は早くて助かる。あの件はまた定例会で詰めよう」
「承知しました」
「それでは、また放課後に」
毛艶の良い尻尾が目の前を通り過ぎる。エアグルーヴがようやく顔を上げた頃には、堂々としたその背中がカフェテリアから出ていくところだった。
(また、逃げてしまった……)
渦巻く後悔の念に、再び頭が下がっていく。細く息を吐いたエアグルーヴの向かいでは、スズカとタイキがそっと顔を見合わせて首を傾げていた。
◆ ◆ ◆
「天皇賞じゃなくて、ジャパンカップに出たい?」
トレーナー室で夏合宿のメニューを調整していた彼女は、担当ウマ娘が部屋に入るなりそう話を持ち掛けてきて目をしばたかせた。
まじまじとこちらを見つめてくるトレーナーに身じろぎしながら、エアグルーヴはああ、と頷く。
「エアグルーヴがそうしたいなら、もちろんいいけど……でも、」
「貴様の言いたいことはわかっている。もし予想が的中すれば面倒な事この上ないが……宝塚記念の結果が、あまり芳しくなかっただろう。少し長めに調整を行いたい」
それ自体は本当だ。六月下旬に開催された宝塚記念。そのレースで、エアグルーヴの成績は五着であった。入着はできたが、掲示板を射止めることはできなかった。
ならば次こそは完璧に仕上げ、一着を取りにいく。筋としては通っているはずだ。
──そう考えている時点で、これが言い訳だとは痛いほど承知しているが。
それでも、この理屈で覆い隠した手前勝手を通したかった。いや、通さなければならなかった。
「……わかった。どちらにしてもメニューはそれほど変わらないし、あっちの懸念についても何か考えておく。ジャパンカップで女帝の力を見せつけましょう!」
ぐっと拳を握って了承したトレーナーに、エアグルーヴはほっと肩の力を抜く。
「ああ。……すまない、突然」
「いいよ、全然。私はエアグルーヴを支えるためにいるんだから」
嫌な顔一つせずにそう言い切った彼女に、エアグルーヴはぱちりとまばたきをした。それから微かに表情を緩ませる。
「そうだったな……ありがとう。必ず結果で応えてみせる」
「期待してるね。それにもっと頼りにしてくれてもいいよ」
「ふっ、調子に乗るな」
「えー、前よりかは頼りがいが出てきたと思うんだけどなぁ」
笑いまじりに返ってきた軽口に、こちらも微かに忍び笑いをもらす。
互いに随分と気安くなったものだ。出会い初めを思うと今でも信じられないくらいだが、この現状にさほど不満もないのも事実だった。
そんなエアグルーヴを見て、トレーナーはさらににっこりと微笑む。
「ところでそれって、少し前にシンボリルドルフと並走したことが原因?」
「な──っ⁉」
そして緩んだ空気を突き破るようにして、笑顔のままそう切り込んできた。
完全に不意をつかれて絶句するエアグルーヴに、トレーナーはやっぱりね、と眉を下げる。
「宝塚記念の走りに少し違和感があったから、もしかしてとは思ってたけど……」
ぎしりとパイプ椅子を鳴らし、トレーナーは小さく息をつく。両肘をついて何事かを思案する担当を、エアグルーヴは言葉を失ったまましばらく凝視していた。
「……気付いていたのか」
「そりゃあね。あなたの走りは、誰よりも近くで見てきたもの」
衝撃から立ち直ってそうこぼせば、当然だというようにさらりと返される。その口調に、先程のような戯けた(おどけた)雰囲気はない。
エアグルーヴは情けなさのあまり目元に手の甲を当てる。気付かれないはずがない。それはエアグルーヴが一番よくわかっていたことではないか。
だからあの日も先に帰らせたというのに。どうしたものか。あれ以降、冷静さが欠けたまま戻らなくなってしまった。
こちらを見つめる視線が静かに先を促している。しばらく黙していたが、やがてエアグルーヴの方が折れた。
「……後方に、ずっと影がちらついていた。そのせいでレースに集中できていなかったのは、認める」
今さら言い訳をしたところで意味がない。ならば言える範囲で打ち明けたほうが賢明だろう。
己の走りが理想だと言い切った相手に、あのような走りを見せてしまったのだから。
宝塚記念のあの日。スタートを切ったときから、ルドルフの気配が常にあった。あの時と同じようにエアグルーヴの後ろに位置取り、こちらの様子を窺うように。
それが気になって仕方がなかった。レースに集中できていなかった証拠だ。トレーナーが妙に思ったのも当然だろう。
そして第三コーナーが目前に迫った瞬間、あの時と同じように影がぐんと飛び出してきた。
その動きに、エアグルーヴは反射的にスパートをかけてしまったのだ。
あの時より距離は200mほど長い。当然早すぎる仕掛けは緻密に計算していたペース配分を崩した。
エアグルーヴはゴール手前でスタミナ切れを起こし、後続の追い上げに呑まれかけた。
それでも何とか食い下がって入着はした。が、内容としてはあまり芳しくないレースとなってしまった。
「今の状態であの方と走っても、また同じ失態を繰り返す。その確信があるのだ」
それに、とエアグルーヴは口の中だけで呟く。
昼食時の生徒会室で、ルドルフは言っていた。心当たりはあるが、その可能性は低いと。
心当たりとはおそらく並走のことだろう。ならば彼女の言った可能性とは何か。
そう考えた時、ぽっと浮かんだ仮説にぞっと背筋が凍り付いた。
(もしかしたら、気付かれたのかもしれない)
あの日、エアグルーヴが自覚した想いに、ルドルフもまた。
ならば次に本気で競い合ったときは、と。それを想像して、たまらなく恐ろしくなった。
「もちろんいつまでも逃げるつもりはない。だが、今は……」
どうあっても抑え込める気がしない。日常生活でさえ制御できずに困り果てているのだ。
もしルドルフがうっすらと勘付いていたとしたら、きっと次こそ彼女は可能性を確信へと変えてしまう。
そんな絶望的な状況だけは、何としても避けたかった。
「エアグルーヴ……」
トレーナーがぽつりと己の名を呟く。呼びかけるというより、独り言のような声音だった。
重苦しい沈黙のなか、トレーナーは唐突に立ち上がった。そして無言で扉まで歩いていく。
「……おい待て、どこに行く?」
「シンボリルドルフに喧嘩吹っ掛けに」
「即刻却下だ戻れ」
不穏な気配を感じて問いかければ、とんでもない答えが返ってきた。
「ごめん言葉の綾です。ちょっと胸倉掴んでお話してくるだけだから」
「綾でも何でもないだろうが! 何をやらかすつもりだ貴様は!」
今にも飛び出していきそうな彼女の腕を慌てて掴む。ウマ娘の力に人間が勝てるはずもなく、しかしそれでも外に向かおうと必死に抵抗してきた。
「お願い十言くらい言いに行かせてエアグルーヴ! 大丈夫すぐに戻るから!」
「十言は多いわたわけがっ! 論点をずらすな!」
「ならせめて三言! じゃないと私の気が済まな──」
「貴様の行いで会長のコンディションを少しでも下げてみろ。その場で担当契約を切ってやる!」
「すみませんでしたそれだけは」
その言葉で噓のように制止した。しかも流れるような動作で正座をしたのち、床に手を付け頭を下げた。あまりにも綺麗な土下座だった。
呆気にとられてツッコむこともできなかったエアグルーヴは、理解が追いついてからため息をこぼす。
「……貴様が私を思っての行動だとは、一応理解している。だが暴走はするな。私たちの行動は、常に後輩たちの模範であらねばならないんだ」
「……そうだね。ごめん、私も頭に血がのぼってた。出会い頭にガン飛ばすくらいにしとく」
「さては反省してないな貴様?」
「うそうそ冗談ですジョーダン! いやほら気持ちが解れると思って!」
「くだらんことを言っている暇があったらさっさとトレーニングの準備をしろ!」
「はい只今ぁ!」
がばりと立ち上がって威勢のいい返事をする。機敏な動きで道具をカゴに詰めはじめたトレーナーを、エアグルーヴは複雑な心境で眺めた。
少しは頼りになってきたと思った矢先にこれだ。エアグルーヴの求める基準が厳しいというのも充分にあるが、トレーナー自身がその機会を逃していることも原因ではないかと思う今日この頃である。
だが、ひとまず希望は通った。延ばしたこの時間で、何とか対策を立てなければ。
エアグルーヴは気合いを入れ直してグラウンドに向かい──しかし着替え終わったところで合宿所の部屋割りを思い出して再び頭を抱える羽目になり、後からやって来たトレーナーに保健室に連行されかける事態になったのだった。
「うーん……こじれそう……」
というよりもうこじれてる気がしてならない。エアグルーヴが出て行った扉を見つめながら、トレーナーは顔をしかめてため息を落とした。
彼女が何に思い悩んでいるのか、ある程度察しはついている。けど、だからといって第三者が勝手に口を挟んでいい問題でもない。
相談さえしてくれれば、いくらでも力になる気はあるのだが。
「エアグルーヴは……多分、してくれないんだろうな……」
人一倍自立心が強いからというのもあるが、何より本人がその感情に対して否定的だ。
あの言い方はそうだろう。そうでなければ、あんな苦しそうな顔もしないはずだ。
確かにあの状態で天皇賞(秋)に挑んでも、あまりいい結果にはならないだろう。だからこそ自分も了承したのだが。
「あ~もう……だから……もぉぉぉ……!」
手近にあったパイプ椅子にもたれかかって大きく息を吐く。介入できないこの状況がもどかしい。
とりあえずとポケットからスマホを取り出す。本人に言えないのなら、担当にありったけの苦情をぶつけてやる。
じゃないとやってられんわ、と据わった目をして素早く文字を打ち込みはじめた。
『今夜21時に集合』
『やだ怖い……何されるの……』
『身に覚えがあるようで何よりです』
『身に覚えはないです』
『一蓮托生』
『連帯責任じゃないんだ』
『やっぱ察してんじゃないですか。四の五の言わずに来やがってください』
「うわぁ……」
怒ってる。かなり怒ってる。どうしよう逃げたい。
でも原因はこっちにあるからなぁ。ぐっと顔をしぼませながら、諦めて『わかりました』と返信を打つ。
話の内容的に助っ人を呼べるような状況でもなし。こっちの奢りってことにしたらちょっとは緩和されないだろうか。無理な気がする。
「どうかしたのかい?」
横を歩いていたルドルフが訝しげにこちらを見る。軽い打ち合わせをしたあと、今日のメニューをこなすために二人でジムへと移動しているところだった。
「うん……ちょっと……うん……」
「トレーナー君?」
多分あなたが原因だろうことで激しく叱り飛ばされそうです。なんて言えない。だって彼女に悪気はないし実際悪いわけでもない。原因ではあるけど。
それはともかく。心配そうな顔をした皇帝を見上げ、できるだけ真剣さが伝わるように顔を引き締める。
「ルドルフ、やっぱり今の状況でダジャレで和ませようって作戦は逆効果だと思う。やめよう。ダメ、絶対」
「む、しかし……」
「お願い私の命を守ると思って」
「待ってくれ、いつの間に君の命がかかるような事態に発展したんだ……?」
せめてさらに怒られそうな目の前の案件は何とかしておこう。今日は何時に帰れるかなぁと遠い目になりかけながら、必死にルドルフを説得しにかかったのだった。