叙事詩に恋う

第1話 雛芥子


脚がもつれる。呼吸もままならない。身体のどこもかしこもが悲鳴を上げていた。
一バ身、二バ身。離される。ゴールはもうすぐそこだ。
届かない。追いつけない。悔しい。腹立たしい。
そして、───。
息も絶え絶えに走り続けながら、エアグルーヴはぐっと奥歯を噛み締めた。


ノックをして生徒会室に入れば、そこには既に二人のウマ娘がいた。
一人は生徒会長であるシンボリルドルフ。もう一人はエアグルーヴと同じく副会長のナリタブライアン……ではなく、入学当初からルドルフを慕っているトウカイテイオーだ。片やテーブルに広げた書類を仕分け中、片や遊び道具が散らかったソファで足をぶらつかせている。
扉の開閉音に気付いた二人がこちらに目を向け、三日月にも流星にも見える白い前髪を揃って揺らす。一方は困ったような苦笑いを、もう一方はげっと呻き声を上げながら顔をしかめた。
入って早々、エアグルーヴはため息を落とす。そしてすぐさま眉尻を吊り上げた。
「テイオー! 生徒会室を散らかすなと何度言ったらわかるんだ!」
「ぴえぇやっぱりぃ!」
叱り飛ばせば、テイオーはぴゃっと大袈裟に飛び跳ねた。彼女のその反応に、「だからエアグルーヴが来る前に片付けろと言っただろう」とルドルフが向かいで眉を下げて笑う。会長に促されていながらこの始末か。眉間に寄ったしわがいっそう深くなる。
叱られるのがわかっていて何故こうも繰り返すのか。エアグルーヴは呆れながらソファの上で縮こまる彼女を見下ろす。
「いい加減、その大量の私物を持ち帰れ。ここはお前の部屋でも、ましてや遊び場でもないんだ」
言いながらテーブルの横にある大きめの箱を引き寄せる。邪魔になると思い用意したものであったが、いつの間にかおもちゃ箱として活用されるようになってしまった。非常に不服である。
ほら、と押し付ければ、渋々といった表情で遊び道具を箱に入れていく。トランプにボードゲーム、ボールにグローブにドローンに……ちょっと待て生徒会室で何をする気だった。
「むぅぅ……そーゆーエアグルーヴだって置いてるじゃんか」
「何……?」
しかしツッコミを入れるよりも先にテイオーが口を開いた。不満を露わにして言ってきた彼女だが、エアグルーヴに心当たりなどない。
「あの花! エアグルーヴが持ってきたんでしょ。ボクと同じじゃん!」
そうして彼女がビシっと指差したのは、台座の上に乗せられた花瓶だ。
何かと思えば。とんだ難癖に思わず半眼になる。
「あれは部屋を彩るために飾っているんだ。お前のように私情で持ち込んでいるわけではない」
「ボクだって会長が笑ってくれるから持ってきてるだけだもんね! 全然シジョーなんかじゃないよーだ!」
「それを私情というんだ!」
「じゃあエアグルーヴは違うって言うの? カイチョーが喜んでくれたらなーとか、全然思ってないワケ?」
「それは……」
丸い頬をぷくりと膨らませたテイオーに、エアグルーヴは言葉を詰まらせた。
そういう理由ではない、わけではない。定期的に花を飾っているのも、そもそもルドルフが花を見て和らいだ表情を見せていたのがきっかけなのだから。
新しい花を持ってくるたび、彼女は賞賛の言葉をかけてくれる。少々大袈裟すぎることもあるが、ルドルフの表情からそれが嘘偽りのない本心だともわかっていた。
丹精込めて育てているからこそ、それらの賛辞が嬉しくないわけがない。次はどんな花が飾られるか楽しみだと、和やかに微笑む姿を目の当たりにしては、最早選択肢などないに等しかった。
いやしかし、だからといって玩具と花を同列に扱われるのは納得がいかない。というよりその言い方は卑怯だろう。しかも本人の前で。
そう反論しようとしたが、それまで成り行きを見守っていたルドルフが苦笑まじりに口を挟んだ。
「まぁまぁ、二人とも落ち着け。私はどちらの気遣いも嬉しいよ」
「カイチョー……!」
「会長……」
甘やかしすぎだと言外に告げると、わかっているとでも言うように視線を返され、彼女はテイオーに向き直る。
「だが、テイオーは少しばかり持ち込みすぎかもしれないな。この調子では、寮で遊べるものがなくなってしまうのではないか?」
諭すような言葉に、テイオーはうっと耳を伏せた。
「確かにこの前、オセロがなくって困ったけど……」
「だろう? ならばここに置いたままにするのではなく、その都度寮から持ってきた方が合理的だと思うぞ」
「うん……わかった」
ぺしょんと耳を垂らして頷くテイオーの頭を、ルドルフが「いい子だ」と目を細めてぽんぽんと撫でる。まるで仲の良い姉妹……というより、もはや親子だ。
ルドルフがちらりとこちらを見上げた。そっと微苦笑を浮かべた彼女に、エアグルーヴも似たような笑みを向ける。
と、ふいにノック音が生徒会室に響いた。どうぞ、とルドルフが応じると、低い声が聞こえたと同時にドアが開く。
「ああ、やっぱりここにいたか」
ひょっこりと顔を出したのはトレーナーバッジを襟に付けた男だった。三人とも見覚えのある顔に、まず反応したのはテイオーだ。
「トレーナー?」
「テイオー、ちょっと来てくれないか? トレーニング前に話し合いたいことがあるんだ」
「えー? まだ来たばっかなのに……ここで聞くんじゃダメ?」
口をへの字に曲げて駄々をこねるテイオーに、エアグルーヴはため息を吐く。
「ダメに決まっているだろう。さっさと行ってこい」
「別に私は構わないぞ」
「会長!?」
「シンボリルドルフが言うなら俺もかまわんが……いいのか、テイオー? 相手に手の内を見せることになるわけだぞ?」
そう返して、ルドルフとトレーナーは密かに視線を交わし合う。テイオーは気付かず、エアグルーヴだけがそれを目撃していた。
「うっ……ぐぬぅぅ……! それはダメ……」
「ならトレーナー室に行こうな。お前の好きなはちみつクッキー買ってきてあるから」
泣いたカラスがなんとやら。生徒会室に居座ろうとしていたテイオーは、トレーナーの一言にぱっと目を輝かせた。
「ほんと⁉ それを早く言ってよー! 行く行くスグ行く!」
「待て、行く前にきちんと片付けろ」
「もぉ~わかってるよぉ……ほんとエアグルーヴってお母さんみたいだよね」
「誰がお母さんだ!」
ぽいぽいとおもちゃを箱に詰めるや否や、テイオーはぴょんと跳ねるようにソファから降りてトレーナーの元に駆け寄っていく。
「それじゃあねカイチョー、また来るからねー!」
「ああ、またな」
「今度から私物はちゃんと持ち帰れよ」
「はーいお母さん」
「だから違う!」
「あはは! お母さんが怒った~!」
そう言い残してテイオーは笑いながら去っていく。トレーナーはこちらに謝罪してから、急いで彼女のあとを追いかけていった。
ぱたん、と扉が閉められ、ようやく室内が静かになる。エアグルーヴがため息をつけば、すぐ傍から軽やかな笑声が聞こえてきた。
「いつも元気がいいな、テイオーは」
「元気が良すぎて困ります。もう少し落ち着きを持ってほしいものです」
「冷静沈着なテイオー、か……なかなか想像できないな」
「そうやって会長が甘やかすから、余計に拍車がかかるんですよ」
「ははは……まあそう言ってくれるな。あの明朗快活な性格は、彼女の長所でもあるのだから。なぁ、お母さん?」
最後の一言にぴくりと耳が跳ねた。鼓動まで何故か不自然に跳ねて、エアグルーヴは半ば誤魔化すようにソファに座っている彼女を睨む。
「……会長」
「冗談だ。私にとっての君は、聡明な右腕で大切な同志だよ」
言いながら彼女はくすくすと笑う。今日は一段と機嫌が良い。テイオーがやって来たからだろうか。
それとも……それとも、何だというのだろう。無意識に考え始めた何かに内心で首を傾げるが、答えが出てこない。
そのうちにルドルフがこちらを窺うように呼び掛けてきた。あらぬ方向に飛んでいた思考を慌てて引き寄せる。
「やめてください、会長まで……ただでさえ一部の生徒から不本意に呼ばれているのです」
頭の痛い話を思い出し、思わず額に手を当てる。何故だ。ヒシアマゾンのように寮生の弁当を作っているわけでも、スーパークリークのように誰彼構わず甘やかしているわけでもないというのに。
先程のテイオーに加え、友人のタイキシャトルにも時たま呼ばれることがある。同室のファインモーションに至っては日常茶飯事だ。最早ツッコむことにも飽きた。
悶々と考えていると、再び控えめな笑声が耳に届いた。
「いや、何だか肩肘を張っているようであったから……力は抜けたかな?」
そう指摘され、エアグルーヴは顔を上げて目をしばたかせた。
「そう、でしたか? 自覚はなかったのですが……」
「そうか?」
今度はルドルフが不思議そうに首を傾げた。ぱちぱちと、互いにまばたきを繰り返す妙な間が空いた。
「テイオーのトレーナーが来たあたりで、君の表情が一瞬硬くなったように感じたのだが……私の思い違いだったかな」
すまない、と軽く耳を垂らして苦笑する彼女に、いえ、と慌てて首を振る。
「そのお気持ちが嬉しいです。お気遣いいただきありがとうございます」
そう続ければ、ルドルフはそうか、と穏やかに目元を緩めた。その様子にほっと安堵し、彼女の隣に腰掛ける。
「手伝います。テイオーの相手をしていて、あまり進んでいないのでしょう」
「はは……君にはお見通しか。ありがとう、助かるよ。昼休み中に全て整理しておきたかったんだ」
礼を言う彼女に頷き、エアグルーヴはいくつもある山の一つに手を伸ばす。二人で黙々と作業をし続けた甲斐もあり、ブライアンがふらりと生徒会室にやってきた頃には、書類の山はすっかり片付いていた。


◆  ◆  ◆


──今日はやけに疲れた。
ベッドに身を横たえたまま、エアグルーヴは細くため息をつく。だというのに眠れない。ベッドサイドに置かれた時計は、既にいつもの就寝時刻を過ぎていた。
原因はわかっていた。日中の生徒会室で、ルドルフに言われたことが一日中引っかかっていたのだ。
未だ居座っている胸のつかえに、エアグルーヴはそれを掴むように胸元を押さえる。
珍しく寝つきが悪いのは、自分自身でもそれが気のせいではないと感じているからだろう。他ならぬルドルフに、そう指摘されたがために。
(会長は、ひとの顔色の変化に聡い)
彼女は視野が広く、そして目にしたもの全てを興味深く観察する。時折その思考がやや突飛な方向に飛ぶこともあるが、観察眼が非常に鋭いことは確かだ。
深層心理はともかく、表面に浮き出たものに関してはすぐさま気付く。エアグルーヴも隠していた疲れや体調不良を、あの紅梅の眼に何度見抜かれたことか。
ルドルフ本人は、度が過ぎて悪癖になりかけていると自嘲していたが。どうしても四角四面になってしまう。くだけた会話ができない、と。
「癖になるまで身に染み付いた、か……」
ぽつ、と喉を僅かに震わせて囁く。いつだかの休憩中、ルドルフがほろりとこぼした言葉だ。
常に対局を見据えることを、呼吸と同じくらいに当たり前に行う。それを身に付けるために、ルドルフはどれほど幼い時分から研鑽を積んでいたのだろう。
間違いなくエアグルーヴのような幼少期を過ごしていないことだけはわかる。あまり自分のことを話さないのは、そのためだろうか。
胸の前に置いていた手のひらを、半ば無意識に握る。今の才気溢れる彼女になるまでの経緯を想像すると、エアグルーヴはいつも心臓が締め付けられるような錯覚に陥るのだ。
同情か、と思った時期もある。しかしそうだと言い切るには違和感があった。
息を詰めながら瞑目し──けれどはっと目を開けた。
そうだ。あの時、それと似た感覚がよぎったような。
テイオーのトレーナーがやって来たときだ。ルドルフはそれに気付いて、エアグルーヴを慮ったのだろう。
ならばそれを突き詰めていけば答えが得られるのではないだろうか。そう思い立ち、日中の出来事を思い返す。
(トレーナーが訪ねてきた時点では、特に何も抱かなかった)
そもそもあのトレーナーが生徒会室に来ること自体、珍しいことでもない。それほどテイオーはあの場によく居座っているのだ。はた迷惑なことに。
生徒会室は休憩所ではないというのに。いくらエアグルーヴが叱り飛ばしても懲りずにやってくるのだ。
まったくあいつは、と眉を潜めたところで我に返る。違う。今はテイオーの奔放ぶりについて頭を悩ませたいわけではない。
額に手を当てて仕切り直す。ルドルフはトレーナーが来たあたりで様子が変わったと言っていた。そこから順を追って、あの場のやり取りを思い出していく。
トレーナーはテイオーを探しにやって来た。トレーナー室に来てほしいと告げてきた彼に、テイオーはまだ生徒会室に居たいと渋っていた。
(その時も何も……これ以上駄々をこねるようなら摘まみ出してやるとは考えていたが)
それも日常茶飯事の光景だ。それで自分の様子がおかしかったとはルドルフも思わないだろう。
ならばどこだ。さらに記憶を掘り進めていく。
ここで話せばいいと提案したテイオーに、ダメだと返したのは自分だ。しかしルドルフは構わないと許可を出し、そしてテイオーのトレーナーは……──。
瞼の裏に思い描いた光景を目にした途端、エアグルーヴはばっと枕から頭を上げた。
心臓がどくどくと嫌な音を立てている。暗闇のなかにうっすらと浮かぶクリーム色の壁が、やけに不気味に見えた。
「……いや」
思い至ったある可能性を、エアグルーヴは呆然としながら否定する。
(まさか……まさか、な)
違う。そうに決まっている。
そう思いながらも、脳裏によぎった仮説が頭にこびりついて離れなかった。


◆  ◆  ◆


翌朝。気分は最悪だった。結局あれからも眠ることができず、ようやく睡魔が訪れたと思った頃には朝日が昇っていた。
何とか朝練には間に合ったが、完全に寝不足だ。頭がぐらぐらする。
「おはよう、エアグルーヴ。寮で君に会えなかったから心配していたよ」
朝食もそこそこにレース場に赴くと、先に来ていたフジキセキが声を掛けてきた。早朝の空気にも負けない爽やかな笑顔に、エアグルーヴは相手をじろりと睨み上げる。
「うるさい。寝つきが悪かったんだ」
「なるほどね。でもそれなら、今日の朝練は休んだ方がいいんじゃないかい?」
「愚問だぞ、フジ。この程度で休むものか。コンディションが悪くとも、レースには出ざるを得ない場合とてあるのだからな」
その訓練だと思えばいい。これくらいでへばってなどいられないのだ。
ふんと鼻を鳴らしてそう返せば、フジキセキは朗らかな笑い声を響かせた。
「流石は誰もが憧れる気高き女帝様だね。逆境でこそ美しく輝く姿は、まさに戦場に咲き誇る一輪の花だ!」
「その気障ったらしい言い回しをいい加減やめろ」
「ふふ、残念。 ポニーちゃんたちにはけっこう好評なんだけどなぁ」
エアグルーヴのそっけない返しに、フジキセキは困ったように眉を下げる。だがすぐに笑みを浮かべて、ぴんと人差し指を立ててみせた。
「でも、あまり無理はしすぎないようにね。私もだけど、何より君のトレーナーや会長がとても心配するから」
不意に浮上した呼称に心臓がぎくりと跳ねた。内心の動揺を悟られぬよう、エアグルーヴは睨むようにフジキセキを見る。
「……何故そこで会長の名が挙がる?」
「おや? 自覚がないのかい?」
何を、と呟こうとした唇は、しかし返ってくる答えが己の望まないものであったらと思うと声に出せなかった。
明るい青色の瞳が悪戯っぽく光る。
「我らが会長さんは、けっこう過保護なところがあるじゃないか。そんな彼女の前で君が元気のない姿を見せたら、きっとありったけの差し入れとお見舞いの品を購買で買い占めてしまうに違いないからね」
そうしてにこにこと続けられた台詞に、ああなんだ、と胸を撫で下ろす。
(そういうことか……)
いや、そもそも話の切り口からして察せられるものだっただろう。やはり睡眠不足で頭が回っていないようだ。エアグルーヴは指先で眉間を揉む。
「いくらなんでも大袈裟だ。テイオー相手ならともかく」
「あはは! そっちも間違いない!」
そう笑ってから、フジキセキは腕を大きく回しながらグラウンドを見渡した。エアグルーヴも身体を解しがてら、同じように朝練を始めている生徒たちをなんとなしに眺める。
「……ウマ娘の走りは、まるで鏡のようだね」
しばらく無言で傍観していると、ふいにフジキセキがそんな言葉をこぼした。足のストレッチをしつつ訝しげな視線を向けると、彼女はにこりと口端を吊り上げてから走っている生徒らを指し示す。
「例えば、スカーレットとウオッカ。併走しているわけじゃないけど、お互いに競い合っているような走り方だ」
手前と奥側の直線で、それぞれダッシュ走をこなしている二人を見る。ダイワスカーレットもウオッカも、トレーニングには集中しているが時折ちらりと相手の走りを窺っているのが端から見ていて丸わかりだ。
「マックイーンは常に長距離を想定したペースで走っているね。それに同期のライアンと……最近はテイオーも意識してるのかな?」
一番大外のコースを走っているメジロマックイーンは、ひたすらストイックに走り続けている。前を見据える姿は一着以外に興味がないように見えて、背後に誰かがいるかのような走り方も時々見せた。
「ほら、こう見ると彼女たちの燃え上がる情熱にきらめく、初々しくも美しい心を、その駆ける姿が映し出しているようじゃないか」
「……まあ、確かにそう言えなくもないか」
相変わらず言い方は芝居がかっているが、フジキセキの表現はよく的を射ている。己の中に明確な意志や決して負けたくない相手がいる者は、走り方に迷いがなく力強い。逆に目標が漠然としていたり、恐れや躊躇いがあればどこか鈍く見える。
その様相はまさに、本人の心情を如実に表しているとも言えるだろう。フジキセキの言葉をそう落とし込んだエアグルーヴは、ふいによぎった思考に勢いよく立ち上がった。
「そうか……!」
「エアグルーヴ?」
「フジ……いや、お前では無理か」
「いきなりなダメ出しだね!?」
「脚質と距離を加味するならウオッカの方が……ん? ほう、オグリ先輩も来たか」
「え……ちょっと、急にどうしたんだい?」
困惑するフジキセキをよそに、エアグルーヴは善は急げとばかりに森のある方角から現れたオグリキャップの元に駆け出していく。
「おはよう、フジキセキ。丁度良かった、あなたの担当少し遅れるって……どうかしたの?」
「ええと……どうやら君の担当にフラれちゃったみたいで」
「はい?」
ぽかんと口を開けるエアグルーヴのトレーナーに、フジキセキは苦笑いをこぼした。


◆  ◆  ◆


その日の夕刻。トレーニングを終えて帰っていく生徒たちの目をかいくぐる様にして、二つの影がグラウンドに入っていった。
「まさか、君から併走を申し込まれるとは思わなかったな」
「突然すみません。無理に予定を空けさせてしまって……」
「何、それほど強引に空けたわけではないよ。生徒会業務も、以前に比べて随分と余裕ができたからね」
皆が優秀なおかげだ。そう言って口の端を上げ、ルドルフは頭の上から肘を押して肩を伸ばす。光栄です、とエアグルーヴも微笑しながら、軽く足首を回して身体の状態を確認する。
互いに練習後だ。まだ身体は温まっている。疲れは多少残っているが、特に問題はない。
「何より、君と走る機会は滅多にないから。その点でも断りたくはなかったんだ」
「そうですね。並走するにしても、お互い同期や後輩と走ることが多いですから」
デビュー時期の違いもあるが、どちらかというと路線の違いが主な要因だろう。クラシック三冠を目指す者はルドルフに、ティアラ路線を目指す者はエアグルーヴに教えを乞いにくることが多く、彼女たちに応えることが我々の役目だという自負もある。誰かを教え導くこと、それは互いが目指す夢に繋がっているのだ。
そういった理由もあり、自分たちが並走することはほとんどない。一体いつぶりになるのだろうか。
「さて……コースは芝2000m右回り。それでよかったかな?」
「はい。こちらに合わせていただく形で、大変申し訳ないのですが……」
「気にしないでくれ。私だってこの距離は走る。それにこれは、君が何かを掴むための併走なのだろう?」
「……ええ」
「ならばなおのこと、遠慮など不要だ」
ルドルフは片手を差し出す。エアグルーヴは僅かに躊躇ったあと、意を決してその手を握り返した。
「今日は胸をお借りします」
「ああ。全力で挑んできてくれ」
握手をかわし、スタート地点に立つ。合図はスマホのアラームだ。タイムを計る必要はないのだから、それで事足りる。
互いのトレーナーは先に帰らせていた。エアグルーヴがそう要望したのだ。
他の者には見られたくなかった。例え担当相手でも。いや、自分をよく知る担当だからこそ。
「アラームを起動させます。10秒後にスタートです」
「わかった」
左足を引き、構える。緊迫した空気、それから隣から伝わってくる気迫。高まる緊張感に、自然と手のひらを握り込んだ。
静寂が降りるグラウンドに、無機質な機械音が響いた。

地面を蹴ったのはほぼ同時。エアグルーヴが前に、ルドルフはその後ろにつくように位置取った。まずは互いに様子見の姿勢を取る。
彼女は全力でと言っていたが、二人とも現状で既にオーバーワークの一歩手前だ。全力を出すにしても限度がある。
それでも背後から放たれる威圧感は尋常ではなかった。ルドルフの気迫にびりびりと叩かれ、頬が強張るのを感じる。逸りそうになる気持ちを抑え、どのようにレースを運ぶか思考を巡らせる。
──ウマ娘の走りは、心を映す鏡。
早朝、フジキセキが走り込むウマ娘たちを見てそう言い表した。エアグルーヴも一理あると納得し、そうして思ったのだ。
(会長と走れば、きっとわかるはずだ)
昨夜抱いた疑念が、杞憂かどうか。そのためにも。
(全力でなかろうと、ぬるい勝負にするつもりはない──!)
ぎっと前方を睨みつけてエアグルーヴは走る。掛かったら終わりだ。体力は圧倒的に彼女の方に分がある。
いつ仕掛けるか、いつ仕掛けてくるか、それを見極めるためにも焦ってはいけない。
一コーナーを過ぎて二コーナーを回る。向こう正面時点でまだ後ろに動きはない。互いに終盤で追い上げるのは同じ。問題はどのタイミングで勝負に出るかだ。
第三コーナーの手前。息は切れていない。脚力も充分残っている。
(会長が仕掛けてくると同時に……いや、それでは遅い。ならば……っ⁉)
ぞわりと首筋に悪寒が走った。次いで背後から熱が迫る。
「くっ──⁉」
──読まれた。
こちらの意図を逆手に取って、ルドルフは普段より随分と早い頃合いで仕掛けてきたのだ。
エアグルーヴも慌てて強く土を蹴った。ペースを一気に上げるが、それよりもルドルフが最高速度に達する方が早かった。
最終コーナーを曲がりきってラスト400m。直線に入ったところで凄まじい圧力が横に並ぶ。徐々に離されていく距離に、エアグルーヴも負けじと追い縋った。
(くそっ、ペースを乱された……!)
脚がもつれる。呼吸もままならない。余力があったはずの身体は、たった数秒でどこもかしこも悲鳴を上げていた。
前を走る背中を追いかける。しかし見る見るうちに離されていく。彼女の纏う気迫が残滓として目の前で散っていく。
一バ身。二バ身。ゴールはもうすぐそこまで迫っている。届かない。追いつけない。
くそ、と内心でまた悪態を吐く。まざまざと見せつけられた実力差に、腹の底が煮え滾るようだ。
悔しい。腹立たしい。
息も絶え絶えに走り続けながら、エアグルーヴはぐっと奥歯を噛み締めた。
そして、──綺麗だ。
綺麗だ。とても。たなびく毛並みが美しい。凛々しい姿に目が眩む。頭の先から足の先まで、精錬されたフォームに圧倒されてしまう。
それに。それに……────、

ゴールを切った後、徐々に速度を落としてから足を止める。
思うように呼吸が戻らない。2000mであったはずなのに、まるで長距離コースでも走らされたかのように下肢が震えていた。
しばらくは互いに無言であった。先に息を整えたのは当然だがルドルフで、エアグルーヴは膝に両手を乗せたまましばらく肩を上下させていた。
エアグルーヴがようやく落ち着いた頃合いで、さり、芝を踏む足音が聞こえた。赤いシューズが目線の先に現れて、頭上から耳触りのいい声音が降り注ぐ。
「私の仕掛けに焦ったようだね、エアグルーヴ。ラストの直線で足音がかなり乱れていた」
「っ……、ええ、不甲斐ないところをお見せしてしまって……」
「ああいや、謝らないでくれ。君なら私に言われずとも気付いているだろうに……失言だった」
今日はテイオーと併走していたから、ついね。そう言い添えた彼女のよく通るはず声が、今はやけに遠かった。
「それで、掴むことはできたかい?」
鎮めたばかりの鼓動が大きく跳ねた。そのまま早鐘を打つ心臓に無意識に手をやって、エアグルーヴは必死に冷静さをかき集めてこくりと頷く。
「……はい」
掴みたくなかった事実を。それは言わずに。言えるわけがなかった。
追い越されたときに感じた悔しさ。己に対する腹立たしさ。駆け抜ける姿を綺麗だと思った。そこまではいい。
それは友人であり、好敵手でもあるサイレンススズカにも感じることだ。ゆえにそれだけであれば、ただの杞憂だったのだと安心できた。
スズカ相手と同じように、前を行く強者にただ対抗心が燃え上がっているだけ。それで済んだのだから。
けれど、違った。
それだけではなかった。なかったのだ。
──どうして、こんなものを。いつの間に。
身体が限界を迎えはじめた最後の直線。本能が理性を上回るあの状況下で、ふいによぎったのはレースに関係のない疑問と欲求だった。
前を走るルドルフは今、どんな顔をしているのだろう。どんな表情で、どんな眼差しで、どんな景色を。
その横顔が見たい。
彼女の瞳に映り込みたい。
誰よりも近く、誰よりもそばで眺めて、そして。
──あなたに触れたい。
それを許される立場が欲しいのだと。鏡に映した胸の内は、まざまざと本心をさらけ出してエアグルーヴに訴えた。
「そうか。ならばよかった。また何かあったら遠慮なく声をかけてくれ」
「……ありがとう、ございます」
きっと頼むことはないだろう。そう思いながらも、エアグルーヴは俯いたまま礼を述べる。
理解してしまったのだ。はっきりと。決して悟られてはならない事実を。
だからこそもう、走れない。それほどまでに。

(──私はあなたに、どうしようもなく恋焦がれている)

口にできないその想いが、青い芝を踏む足元にぽとりとこぼれ落ちた。





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