叙事詩に恋う

第3話 大紅団扇


ざぱ、と水を掻いた腕の横から息継ぎをすれば、眩しいほどの陽射しが肌を焼いた。
何度目かになる折り返し地点に到達し、深く潜ってくるりと身体の向きを変える。スタミナトレーニングは、ペースを崩さずに長時間行うことが肝心だ。一定の速度で、同じフォームで、ひたすら泳ぎ続ける。それが心肺機能の強化に繋がる。
足を動かしつつ浮力に任せて水面から顔を出したその時、甲高いホイッスルの音が離れた場所から響いた。
エアグルーヴは耳を揺らしてその場で一旦制止する。顔を向ければ、浜辺からこちらに向かって大きく手を振る人影が見えた。
軽く目を眇め、エアグルーヴは再び海の中へと潜った。そのまま滑るように浜の方へと泳いでいく。
浅瀬まで辿り着き、立ち上がる。海中に足を付ければ、細かい砂が指の間をすり抜けていく感触がした。そのまま胸のあたりまである水をかきわけて砂浜へと向かう。
「お疲れ様、エアグルーヴ!」
「ああ……」
ぽたぽたと髪から滴ってくる海水を払っていると、駆け寄ってきたトレーナーにタオルを渡された。軽く顔や髪を拭いていると、ペットボトルも差し出された。
ボトルを受け取り、キャップを開けて口を付ける。こくりと嚥下すれば、冷えた水が心地よく喉を通りすぎていった。
スポーツドリンクの甘みが丁度良く感じる。水分をかなり消耗した証拠だ。
水中トレーニングは身体に負担が少ないところが長所だが、その分夢中になりすぎて気付かぬうちに脱水になってしまう危険がある。特にまだトレーナーのついていない生徒は、体調不良に気付かず倒れてしまうことが多い。
今日は特に気温が高い。今一度、生徒会から注意喚起すべきか。
つらつらとそのようなことを考えつつ、エアグルーヴはペットボトルの中身をゆっくりと飲み干していく。
「午前のノルマはこれで終了! 軽くダウンして、一旦お昼にしましょう。いつも通り十三時半から再開でいい?」
「問題ない」
確認を取り合ってからストレッチをし、水気を含んだタオルを交換してもらってからその場で別れた。エアグルーヴは真新しいタオルで残りの水滴を拭き取りながら、砂浜を歩き出す。
夏合宿中、昼食を共にする相手は日によって異なる。というより、学園にいるときとそれほど変わりない。
エアグルーヴが友人や後輩の誘いに応じることもあれば、トレーナーの希望で食事をしつつミーティングを行うこともある。今日はトレーナーの方が意見交換会に参加するため、各々でとることになっていた。
来週には札幌記念が迫っている。三日後には合宿所を発つため、その前に情報収集をしておきたいのだそうだ。
この強化合宿で大きく成長する生徒は多い。そして彼女たちは、秋のレースで目を瞠るほどの活躍を見せる。
ジャパンカップは十一月下旬とまだ先のことであるが、エアグルーヴとしても出走する可能性のある相手を知っておきたいところであった。
だが、それはそれとして。エアグルーヴは砂浜に目を落とす。
「私も吹っ切れたいところだな……」
ここひと月半ほどを振り返り、嘆息する。トレーニングに関する事柄ではない。どこまでも個人的な案件だ。
合宿も終わりに差し掛かっているというのに。何の改善も見られない現状に、悪態でもつきたい気分だ。
「おーい、エアグルーヴー!」
唐突に聞こえてきた明るい呼びかけに、ぴくりと耳が揺れた。
さくさくと砂を蹴る音に振り返り、そして強張る。もはや条件反射だった。
「テイオー、会長も……」
「お疲れ様、エアグルーヴ」
小走りに駆けてくるテイオーの後ろからルドルフが片手を上げる。タオルを握りながら、お疲れ様です、とエアグルーヴは会釈した。
「エアグルーヴもこれからお昼でしょ? 一緒に食べようよ!」
「……いや、遠慮しておく。私は今からシャワーを浴びてくるから」
「じゃあ待っててあげるよ。宿泊所に戻るんでしょ? ボクとカイチョーは、入り口のソファでおしゃべりでもしてるからさ」
無邪気に誘ってくるテイオーに、エアグルーヴは視線を泳がせる。そのように言われると断りにくい。
「いや、だが……」
「テイオー、それではエアグルーヴを急かせてしまうだろう? 今回はやめておこう」
どう言えば引き下がってくれるものか。そう思い悩んでいるうちに、向かいから助け船を出された。
助かった、と内心で安堵する。テイオーは不満そうに唇を尖らせていた。
「え~! カイチョーまでぇ……」
「休憩時間も限られている。また今度誘えばいい。すまなかったな、エアグルーヴ」
「いえ……」
眉尻を下げて微笑む彼女に、エアグルーヴは小さく首を振る。
「さあ行こう、テイオー。海の家のお勧めを、私に教えてくれるのだろう?」
「……うん」
渋々ながらもこくりと頷いたテイオーの頭をひと撫でし、ルドルフは歩き出す。
離れていく背中をぼんやりと見送っていると、顎下あたりから強い視線を感じた。目を向ければ、テイオーがじと目でこちらを見上げていた。
「ねえ。カイチョーとケンカでもしたの?」
声を潜めてかけられた問いにどきりとした。緩みかけていた緊張がぴんと張りつめる。
「別に喧嘩をしているわけでは……」
「じゃあなんで二人ともヘンな感じなのさ? みょーによそよそしいっていうかさぁ。カイチョーも何か元気ないし」
「それは……」
指摘されて口ごもる。気のせいだ、などと誤魔化せない圧を青空の瞳は放っていた。
まさかテイオーにまで見抜かれるとは。いや、どちらかというとルドルフが普段と違う様子に気付いて、といったところだろうか。
しかし詮索されるのは避けたい。必死に思考を巡らせて選んだ言葉は、自然と突き離すようなものになってしまった。
「お前には関係ないだろう。いちいち首を突っ込んでくるな」
「あーなんだよもぉー! ヒトを子ども扱いしてー!」
だがテイオーはその程度で怯むようなウマ娘ではなく、どころか頬を膨らませて両手をぶんぶんと振りながら憤慨してきた。子ども扱いしたわけではないが、その怒り方が既に子どもっぽい。
「そんなこと言うならはやく仲直りしなよ! ボクが首突っ込まなくいいようにさ!」
「そもそも突っ込んでくるんじゃない、まったく……」
「だって!」
「テイオー?」
テイオーが声を張り上げたその時、聞こえてきた涼やかな声音に二人してぎくりと顔を向ける。少し離れた場所でルドルフが振り返り、不思議そうに自分たちの様子を窺っていた。
「まだ粘っているのか? あまりエアグルーヴを困らせてはいけないよ」
「う、うん! わかったよカイチョー!」
テイオーは焦った様子で返事をする。首を傾げていたルドルフは、しかし近くを通りがかった生徒に挨拶されてすぐにそちらを向いた。
ルドルフの視線から逃れ、エアグルーヴは内心で胸を撫で下ろす。テイオーも安心したようにはぁー、と息を吐いた。
「……行かないのか?」
なかなか動こうとしない彼女に声をかける。テイオーは恨みがましそうにこちらを見上げたが、すぐにしょげたような顔をして俯いてしまった。
「だって……二人がギクシャクしてるの、何かヤなんだもん」
ぽろりとこぼされたその台詞に、エアグルーヴは言葉を失う。
やや強引に誘ってきたのは、もしかしなくともそれが理由だったのだろうか。テイオーなりに、自分たちを慮って。
何も言えずにいると、テイオーはくんと顔を上げた。明るい青の瞳を半分ほど隠し、むっすりとした表情で口を開く。
「エアグルーヴのいくじなし」
「なっ……⁉」
「ふーんだ! エアグルーヴがいじいじジメジメしてるうちに、ボクがカイチョーのこといっぱい独り占めしちゃうもんねー!」
べーっと舌を出し、尻尾もポニーテールも大きく揺らして走り去った。テイオーは駆け寄ってルドルフの腕に飛びつき、苦笑されながらもそのまま海の家へと向かっていく。
しばらくそのまま立ち尽くしていた。二人の姿が見えなくなった頃、ようやくエアグルーヴは息を吐いてかくんと首を垂らした。
「何をやっているんだ、私は……」
言い返せなかった。
テイオーがこちらの事情を見透かしてそれを指摘したわけではないのはわかっている。しかしその言葉は、存外深いところに突き刺さった。
現状を言い表すには、あまりにも的を射ていたから。
脚の内側に何かが触れる。見れば、己の尻尾が情けなく丸まっていた。
これは耳も下がっているのだろうな。エアグルーヴは頭からタオルかぶり、そのままシャワー室へと向かっていった。


◆  ◆  ◆


水平線の彼方でゆっくりと夕日が沈んでいく。トレーニングを終えた生徒たちが合宿所へと戻っていくなか、オレンジ色に染まった砂浜を未だ駆け続けている二つの影があった。
長い尻尾を真っ直ぐにたなびかせ、柔らかな砂を力強く踏みしめて走り抜けていく。並び合った二人は、互いに前を譲らないままゴールに到達した。
浜辺に刺さった赤いフラッグを通り過ぎたあと、彼女たちは徐々に速度を落として立ち止まる。肩を上下させながら呼吸を整えていると、横から二つの声が飛んできた。
「ナイスラン! 二人ともお疲れ様!」
「お疲れさん。ほれ、軽くストレッチしたらそこの氷水バケツに足突っ込んどけー」
「はっ……、ああ」
「ふぅ……トレーナーさん、ありがとうございます」
エアグルーヴとサイレンススズカは顔を上げ、各々のトレーナーに頷いてみせる。見れば、折りたたみ式の簡易椅子が二つ、氷水がなみなみと注がれたバケツの傍に置かれていた。
「怪我とかは……うん、なさそうね」
「当然だ。レース直前に怪我などするものか」
「スズカも、痛みや違和感はないか?」
「はい。大丈夫です」
「そうか。ならよかった」
二人の状態を確認すると、トレーナーたちは断りを入れてから砂浜を巡り始めた。
学園所有のビーチとはいえ、グラウンドのように専属の整備士はここにはいない。つまり片付け忘れたトレーニング器具や、ガラス瓶などの危険物が転がっている可能性があり得るのだ。
そういったものが砂に埋もれていた場合、ウマ娘たちの故障に繋がりかねない。ゆえにウマ娘もトレーナーも、常にこうして注意を払うよう心掛けている。ちなみに朝は生徒会主導で、合宿参加者全員でビーチを見回ってから練習を開始するのが日々の流れだ。
足元を確認して回るトレーナーたちを横目に、エアグルーヴとスズカは指示通りクールダウンをしてから氷水にゆっくりと足を浸けた。かなり冷たいが、丸々半日走り続けて火照った脚には心地よかった。
「すまないな、スズカ。遅くまで付き合わせて」
「ううん、気にしないで。私もまだ走り足りなかったところだったから……」
丁度よかったわ、とスズカは目を細める。そのまま彼女はバケツの中で足を確かめるように動かした。
「……脚の調子もよさそうだな。走り方が以前のお前に近くなってきている」
「うん。いい感じ。もう少しで前みたいに走れそうって気がするの。あとはレース本番で、どれだけ走れるか……」
「そこは実戦で取り戻していくしかないだろうな。何、お前のことだ。すぐに掴めるさ」
「そうだといいんだけど……でも、そうね。絶対に取り戻してみせるわ。あの景色を誰にも譲りたくないもの」
「その意気があれば大丈夫だな。まあ、だからといって一着を譲る気はないが」
「ふふ、そう言っていられるのも今のうちよ?」
「ほう、言ったな?」
ちり、と絡んだ視線に火花が散り、互いに不敵な笑みを浮かべる。けれどそう長くは続かず、ふっと目元を緩めてどちらともなく吹き出した。
ひとしきり笑ったあと、再び静かな浜辺が戻ってくる。視線を海に向ければ、頭だけを出した夕焼けが水平線のうえに浮いていた。あと数分ほどで宵がやってくるだろう。
スズカを真似て自分も足を動かす。がらがらとぶつかりあう氷の音に耳を傾けていると、横からやや躊躇いがちの声が届いた。
「エアグルーヴ」
「何だ?」
「その……会長さんと、何かあった?」
小さく尋ねられた言葉に、ばっと勢いよく振り返る。スズカは気遣わしげな表情でエアグルーヴのことを見つめていた。
絶句したまま数秒。呆気にとられたエアグルーヴは、やがてゆるゆると頭を下げて、深いため息をこぼした。
「お前にまで気付かれていたのか……」
「ええ……合宿の前に、カフェテリアで会長さんと会った日があったじゃない? そのときエアグルーヴの様子を見て、変だなって思って……」
「ならば、タイキも?」
確認すればこくりと頷かれた。エアグルーヴは思わず天を仰いだ。
そんなにもあからさまに態度に出ていたのか。案外と人のことをよく見ているタイキはともかく、スズカまで。いや、テイオーに指摘された時点で今さらだろう。
情けない。片手を額に押し当て、ため息を吐く。
「何かあった、わけじゃない。問題があるのは私の方なんだ。会長は何も悪くない」
選んだ言葉は、結局曖昧なものになってしまった。事実を隠せばそうならざるを得ない。
それでも、スズカ相手でも打ち明けることができなかった。タイキでも無理だ。
できるとしたら、おそらく。エアグルーヴはかざした手の裏で、瞼を伏せる。
「そう……早く解決するといいわね」
しかし、スズカはそれ以上追及してくることはなかった。あまりにもあっさりとした返しに、エアグルーヴは思わず彼女を凝視した。
「……訊かないのか?」
「誰にでも言いたくない悩みはあるもの。エアグルーヴだって、私が話したくないときは何も言わずにいてくれたでしょう? 私、そういうあなたの優しさがすごく嬉しくて……ありがたかったの」
「スズカ……」
そう言って柔らかく微笑んだ彼女に、胸にこみ上げるものがあった。
スズカは普段から、悩みをあまり口にしない。物静かで周囲に頓着しない性格のために孤立しやすく、そういった環境に慣れてしまった故か、一人で考え込んでしまう節があった。
エアグルーヴとしてはもどかしく感じている部分だ。だがスズカは問い質されること自体が嫌だろうと、その都度こらえて彼女が口に出してくれるのを待った。
その選択は正しかったのだ。少なくともスズカにとっては。
思いもよらぬ形で親友の思いを聞き、じんわりと湧いた安堵と喜びを嚙みしめる。
「だから、私にはあなたが何に悩んでいるのか、わからないけど……」
がらら、とスズカの足元で氷水が音を立てる。椅子に座ったまま、彼女は真っ直ぐにこちらを見つめた。
「何か、できることがあったら遠慮なく言ってちょうだい。エアグルーヴが元気になれるなら、私もタイキも喜んで手伝うから」
そうして告げられた真摯な言葉は、涼風のように静かで優しく。彼女らしい音を奏でて、エアグルーヴの耳を震わせた。
「……変わったな、スズカ」
「え?」
「以前のお前なら、そういったことをあまり口にはしなかっただろう?」
例え思っていたとしても、ここまで踏み込んでくることはなかった。顔には出ていたから気持ちは伝わっていたが、そんなスズカを見てきたからこそ意外だった。
思わず口をついて出た台詞に、スズカはきょとんとした表情でエアグルーヴを見た。それからふうわりと目を細める。
「……そうね、そうかも。きっとスぺちゃんや、あなたのおかげね」
「私も、か?」
「ええ。それにタイキや……ファンの皆も。……言葉にするから励まされることもあるって、教えてもらったから」
彼女はそっと水に浸かった腿を撫でる。ターフを駆けるウマ娘にとって、命と同等に大切な両の脚。
つい数ヶ月前までは、その左足にはギプスが巻かれていた。その白く固定された脚には、彼女の復帰を願う言葉がびっしりと書かれていたことを思い出す。そのひとつに、エアグルーヴが書いた文字もあった。
きっとそのことを言っているのだろう。エアグルーヴは彼女と同じように目を細め、ふとまばたきをする。
何故だろう、と思った。
目の前のスズカのように、自分を気にかけてくれる相手は他にもいる。エアグルーヴだって彼女たちを大切だと思っている。気の置けない友人であり、負けたくないライバルだと。
──ルドルフだけは、何故その枠から飛び越えてしまったのだろうか。
「うーん……でもエアグルーヴは素直じゃないから、ちょっと違うかしら?」
「は……?」
「タイキも言ってたわよね。確か……ツンデレ?」
「なっ、違う! 変な単語を覚えるな!」
ばしゃんっと大きく水が跳ねる。次いでがらがらと騒がしい音が響く。勢いあまって振り上げた脚は、見事にバケツの中身をひっくり返した。
あっと同時に声を落とす。色を濃くした砂浜の上に転がった氷が、みるみるうちに溶けていった。
「くっ……お前が妙なことを言うから」
「ほら、そういう照れ隠しが……」
「スズカ!」
声を張り上げて諫めるが、まったく動じない。ころころと鈴の音のように笑うスズカに、エアグルーヴも毒気を抜かれてため息まじりに笑みをこぼした。
波音の合間に、騒がしい声がちらほらと聞こえてくる。トレーナーが見回りを終えて戻ってきたのだろう。
スズカ、ともう一度呼び掛ける。年下の親友は、軽く首を傾げてこちらを見返した。
「……ありがとう」
噛み締めるように告げれば、スズカは柔らかく目を細めて頷いた。
やはり打ち明けるには覚悟が足りない。この感情を、何故よりにもよってルドルフに抱いてしまったのかもわからない。
けれど、自分を慮ってくれる友人がいる。そのこと自体が、エアグルーヴには心強かった。


◆  ◆  ◆


宿泊所の部屋割りは五人一部屋ということもあり、寮部屋とは異なる組み分け方をする。基本的にはクラスごとに五人のグループを作り、その一組ごとに部屋を割り当てる形だ。合宿中の模擬レースやカレー作りなどのレクレーションも、その五人がチームとなって行動する。
ただし、生徒会はその例から外れている。部屋のメンバーが皆生徒会役員であれば、細かな連絡や情報共有が円滑に行えるというのが主な理由だ。
この強化合宿の運営を担っているという立場上、他の生徒たちとはスケジュールが合わせづらいというのもある。そういった効率的な面や運営側の事情もあり、生徒会は役員同士でまとまっている。
そして更に例外なのが、生徒会会長と副会長の部屋割りだ。エアグルーヴたちは、基本は五人で使う部屋をその三人のみで利用している。
特別待遇でも何でもない。これもまた合理性を求めた結果だ。
合宿中、自分たちは合間を縫って生徒会の日常業務も変わらずこなしている。そうでないと合宿後、目も当てられない事態になるのは目に見えているからだ。
当然なかには機密性の高い案件もある。故にこの部屋割りは妥当で、エアグルーヴも今まで不満に思ったことなどなかった。

(それが、部屋に入ることさえ憂鬱に思う羽目になるとはな……)
洗面用具を抱えたまま、エアグルーヴは扉の前で静かに息を吐く。時刻はあと三十分ほどで消灯時間に迫っていた。
浴衣の襟を整えながら気合いを入れ直し、ノックをする。物腰の柔らかな声が予想通り返ってきて、失礼しますと断りを入れてから中に入る。
「お疲れ様です、会長」
「ああ、君もお疲れ様」
やはり業務に勤しんでいた横顔に声を掛ければ、浴衣姿のルドルフは書類から目を離してこちらを振り向いた。
「今日も遅くまでトレーニングに打ち込んでいたのだな。君の粉骨砕身ぶりには恐れ入るよ」
「レースも近いですから。気は抜けません」
「ふふ、流石は我が学園が誇る女帝だ。現地には赴けないが、応援しているよ」
「は、い。ありがとうございます」
ゆるりと微笑む彼女からそっと視線を外し、誤魔化すように部屋を見回す。
「ブライアンはまだ戻ってきていないのですか?」
「そのようだね。一応連絡は入れてあるから、そろそろ戻ってくるとは思うのだが」
「あいつ……」
耳が後ろに伏せたのを感じた。エアグルーヴは眉間を指先で押さえる。
生徒会としての自覚が足りないにもほどがある。戻ってきたら一喝入れてやると心に決めながら、入浴中に乾燥機にかけておいた洗濯物をバッグにしまっていく。
(いつ戻ってくるかわからんから、この時間まで粘ったというのに……!)
これでは意味がないではないか。こんな時間までどこをほっつき歩いているのだ、あいつは。しかも会長の手まで煩わせおって。
不在のブライアンに文句を募らせつつも手際よく明日の支度を整えたエアグルーヴは、ポーチをしまい終えたところでこっそりとため息をついた。
どれだけ愚痴を言っても現状は変わらない。もうしばらくの間、この部屋にいるのはルドルフと自分だけというわけだ。
この一か月半、幸いにも懸念していたほど二人きりになることもなく、一安心していたところだったというのに。気が緩んだときに差されるのは、レースも生活の場でも同じらしい。
そのまま布団に潜って寝てしまえばいいのだろうが、ルドルフが業務を行っている横で眠れるほど図太い神経は持ち合わせていない。ブライアンならともかく。
就寝時刻になれば、それを理由に切り上げさせることもできるのだが。エアグルーヴは壁に掛けられた時計を見上げる。
(あと二十分ほどか……)
こんなことならトレーニング時間をもう少し延ばせばよかった。いやしかし、今回はスズカも一緒だったのだ。彼女に無理などさせられない。
ああだからトレーナーはスズカを併走相手に誘ったのか。なるほど。文句を言う相手がもう一人増えた。
「エアグルーヴ、少しいいかな?」
「っ、はい」
据わった目をして決意を固めていると、ふいに呼び掛けられた。耳をぴっと立たせて振り向けば、ルドルフは顎に手を添えて考え込む仕草をしていた。
浴衣の裾を踏まないよう立ち上がり、小さなテーブルの前で姿勢正しく正座する彼女に歩み寄る。隣に座ると、テーブルに置かれた一枚の紙を手渡された。
「明日の模擬レースのことなんだが、運営側のローテーションに少々変更が生じた。出走予定者に欠員が出てしまってね。その穴を生徒会役員で埋めることになったんだ」
「ああ……今日も熱中症で倒れた者が数名いましたね」
「うむ。彼女たちはどうしても出たいと言っていたが……無理をしては、故障に繋がりかねない。練習とはいえレースならば尚更、意気軒昂(いきけんこう)な状態で臨まなければ、実を結ぶものも結ばない」
「……もしや、会長が自ら休むように説得を?」
手書きで書かれた役割分担表を確認していたエアグルーヴは、その口振りにぴんときてすかさず尋ねる。ちらりと視線を向ければ、赤紫の瞳があからさまに泳いだ。
「うん、まあ……いや、彼女らはまだトレーナーが付いていないから、止める者がいなくてね。見舞いに行ったときに、つい」
「まったく……あなたは過保護すぎます」
彼女の深い博愛精神については心から尊敬しているし恐れ入るが、何事にも限度というものがある。デフォルトが限界突破していることをいい加減自覚していただけないだろうか。
担当トレーナーがついていなくとも、保健医や教官はいるのだ。生徒が無茶をしようとすれば、それこそ強制的に休ませるだろうに。
額に手を当ててそうこぼすと、ルドルフは鹿毛の耳を垂らして苦笑いを浮かべた。
「すまない……どうしても心配が勝ってしまって」
「だからといって……っ!」
更に言い募ろうとしたところで、声が途切れた。ルドルフがひどく穏やかな眼差しをして、こちらを見ていたのだ。
どっ、と鼓動が強く飛び跳ね、思わず息を呑む。慌てて視線を逸らし、目に映った時計の時刻を見て安堵した。
「そ、そろそろ就寝時刻です。もう休みましょう。明日のローテーションも、私の方は問題ありません」
お返しします、と顔を伏せたまま紙をルドルフに差し出す。顔を見られる前に、素早く布団に潜ってしまわねば。
視界に伸びてきたルドルフの手が映る。細長い指先は、しかし書類ではなくエアグルーヴの手首を掴んだ。
予想だにしなかった事態に大きく肩が跳ねた。反射的に腕を引くが、逃がさないとばかりに力を込められてしまう。
一体何が起きている。何故こんなことに。
ルドルフの手はひやりと冷たい。その温度差で触れられていることを余計に意識してしまう。心臓、が。
「か、会長、あの……?」
「君は最近、私と目を合わせようとしてくれないな」
そして遮るように言われた言葉に、頭の中が一瞬にして真っ白になった。
弾かれるように顔を上げれば、申し訳なさそうに眉を下げるルドルフの姿があった。
「日中に一度、君と会ったろう。聞くつもりはなかったのだが……仲直りしろ、と君に迫るテイオーの声が耳に入ってきてしまってね」
脳裏に昼間の光景が瞬時に甦る。丁度テイオーが声を荒らげた時だ。
聞かれていたのか。しかしどうして今その話題を。上滑りした思考は処理を放棄しただただ疑問をばらまいていく。
「喧嘩をした覚えはないが……君と今まで通りに戻りたいと、私は思っている。君の気を悪くさせてしまった原因は何だろうか。どうか遠慮なく言ってほしい」
「いえ! 会長に問題など何も……!」
「ならば何故、私を避けている?」
混乱する頭で何とか反論すれば、間髪入れずにそう返された。
ぐっとルドルフの顔が間近に迫る。近い。ふわりと掠めた彼女自身の香りに目眩がしそうだった。
同時に問われた内容に冷や汗が流れる。
何故? そんなこと、当の本人に答えられるわけがない。
「時間が解決してくれないか、と思っていた。だが君は、一向に私の前だと顔を強張らせる。それどころか、以前より更に距離を置かれているような気がしてならないんだ」
その台詞に、ルドルフも敢えて距離を置いていたのだと悟る。次いで自身を罵倒したい衝動に駆られた。
何が幸いだ。偶然でも何でもない。他ならぬルドルフが、自分と二人きりにならずに済むよう配慮してくれていただけのことであったのだ。
「先ほども、目が合った途端に顔を逸らした。私に問題がないというのなら、何故?」
「そ、れは……」
再度尋ねられた問いに、エアグルーヴは答えに窮する。
ありのままを白状することなどできない。適当な言い訳も思いつかない。
何と答えればいい。どう言い繕えばいい。どうすれば。
「……すまない。これでは尋問だな。強談威迫(ごうだんいはく)をして、君を追い詰めたいわけではないんだ」
唇を噛んで必死に思考を巡らせていると、目の前の威圧感がふいに和らいだ。
ひとつ嘆息をこぼして、ルドルフは肩を落とす。俯き、自嘲めいた笑みを浮かべた彼女は、ゆっくりとまばたきをしたあとに顔を上げた。
「ただ、ひとつだけ。これだけは問わせてほしい」
有無を言わさぬ訴えに、反射的に身体が強張った。手首からそれが伝わったのか、ルドルフは微かに柳眉を潜めた。
その躊躇いを振り切るように、形の良い唇が意を決したように開かれる。

「エアグルーヴ、私と走るのが恐ろしいかい?」

穏やかな問いかけだった。けれどもこちらの核心をついた、鋭い問いだった。
心臓がこれ以上なく大きく跳ねる。どくどくと嫌な音が煩いほどに耳朶に響いた。
マゼンダの瞳が静かにこちらを見つめている。エアグルーヴまばたきもできずに、その双眸に囚われて動けなくなった。
何か、何か答えなければ。そう必死に思考を巡らせても、やはり一向に何も思い浮かばない。
いや、違う。問いに対する答え自体は明確にここにある。わからないのは。
こめかみを汗が伝う。かち、こち、と秒針の音がひどく遅れているように感じて、いつまでこの状況が続くのかと絶望的に思った。
けれど、ふ、と。
鮮やかな赤紫色の眼差しが寂しげに緩み、その時間は終わりを告げた。
「……そうか」
そうして、ひとり納得したようにルドルフはぽつりと呟いた。
何に納得したのか。疑問はすぐに解け、さっと顔から血の気が引いた。
──シンボリルドルフは、ひとの顔色の変化にとても聡い。
「突然、手を掴んでしまってすまなかったね」
「かい──」
「少し、頭を冷やしてくる。君は気にせず先に寝ているといい」
違う、と告げる前に冷たい手のひらが離れた。
痛みに堪えるような顔をして、ルドルフは扉へを向かっていく。伸ばした手は、しかし尻尾にすら触れられず空を切った。
ぱたん、とドアが閉まり、浴衣を着た後ろ姿が見えなくなる。
ルドルフが消えていった扉を呆然と見つめていたエアグルーヴは、やがてのろのろと膝に額を押しつけてうずくまった。
「何を、やっているんだ、私は……」
日中の浜辺に落とした言葉が、再び口をついて出た。
ぐらぐらと目頭が熱くなる感覚に、きつく目を閉じて両膝を抱える。やめろ。たわけ。泣くんじゃない。泣いていい立場ではないことくらいわかっているだろうが。
こんなつもりではなかったのに。あんな顔をさせたかったわけではなかったのに。
こみ上げてくる涙を必死に押し留めていると、廊下から足音が聞こえてきた。
まさか、と急いで目元を拭って顔を上げる。同時に部屋のドアが無造作に開かれた。
「……まだ起きてたのか」
現れたのは運動着の上からだらしなく浴衣を羽織ったウマ娘だった。結い上げた黒鹿毛を雑に解きながら、彼女はづかづかと部屋に入ってくる。
「ブライアン……」
「会長じゃなくて悪かったな」
「……一言も言っていないだろう、そんなこと」
「耳、垂れまくってるぞ」
指摘されてはっと耳を立たせる。下手な取り繕い方を鼻で笑われるかと思ったが、予想に反して嘲笑は飛んでこなかった。
「伝言だ。会長はマルゼンスキーたちのところに今日は泊まるんだと」
「は……?」
「いや、あれは連行だな」
洗面用具らしき巾着袋を雑にバッグに詰め込みながらブライアンは告げた。途中でルドルフと会ったのか。というか連行とは何だ。
どんな顔をしていたか。他に何か言っていなかったか。言い募ろうと口を開いて、やめる。
「そうか……」
「そんな顔するくらいなら、引き留めておけばよかっただろ」
あからさまに呆れた声音にかっと頭が熱くなった。
「事情も知らずに……!」
「聞いてほしいのか?」
しかしブライアンの冷静な返しに、エアグルーヴはすぐに二の句が継げなくなった。しばしの沈黙のあと、やはり反論など浮かばずにふるふると首を横に振り、再び顔を膝に埋める。
「おい、私はもう寝るぞ」
「勝手にしろ」
「……ったく、面倒だな」
大きなため息と共にそんな愚痴をこぼされ、ついでに電気も落とされる。次いで暗闇の向こうから何か大きなものを投げつけられた。
慌ててそれを剥がして顔を上げる。暗がりに慣れてきた視界で手に持っていたのは、合宿所の夏掛け布団だった。
「おい、いきなり何をするんだ!」
「おやすみ」
「ブライアン!」
「消灯時間過ぎてるぞ。近所迷惑だ」
どの口がほざくか。けれど静かにしなければならないのは事実で、エアグルーヴは言いかけた説教をぐっと吞み込んだ。
わかっている。これがブライアンなりの気遣いなのだということくらい。
どれほど研鑽を積んでも、レースに出走できなければ意味がない。体調管理は基本中の基本。特に食事と睡眠は重要だ。
「……すまん」
小さく謝罪を口にする。返事はなかったが、夜目のなかで黒鹿毛の耳が揺れたのを確認した。
息を吐き、のろのろと自分の布団へ横になる。果たして寝つくことができるだろうか。
時計の音を聞きながら、エアグルーヴは憂いを帯びたあの表情を思い出す。
(……恐ろしいのは、あなたではない)
違う。違うのだ。恐ろしく思っているのはルドルフのことではない。恐ろしいのは。
(瞳に射抜かれた、あの時、)
──綺麗だ、と。
その目元に手を伸ばしたい衝動に駆られた、自分自身だ。
あの状況で、あの方の肌に触れて、それから何をするつもりだった。
エアグルーヴは布団の中でぶるりと震える。
危うい橋とわかっていながら、渡ろうとした。そんな己に愕然とした。いよいよ制御が利かなくなってきている。
元に戻りたいのは自分だって同じだ。寧ろルドルフ以上に願ってやまない。
どうしたらいい。どうすれば以前のように戻れる。
いっそのこと全て打ち明ければいいのだろうか。しかし、その後のことを考えると愚策にしか思えなかった。
玉砕するだけならまだいい。それでこれまでの自分たちに戻れるのなら、それでも。
──だが、もしそうならなかったら?
相手はあのルドルフだ。全てのウマ娘を幸福に導くと、そんな博愛主義が極まったような果てない理想を本気で掲げるような、あの。
想いを告げたあと、応えられないルドルフが、そのことに関して自分に気を遣うような態度を取ったら。そのような最悪の事態になるのは心の底から御免だった。
まるで生き地獄ではないか。気遣いなどいらない。博愛心などいらない。
庇護も。恩情も。そんなものを与えられるくらいなら、憎まれ嫌われた方がはるかにマシだ。
いらない。そんなもの。私が欲しいのは。

──同じ感情で、同じ深さで想いを返してくれる、そんなあなただけだ。

そう、ますます欲深くなっていくだろう自分を確信できる。できてしまった。
そんな己が、ひどく恐ろしいのだ。
自身の腕を抱きしめたまま、エアグルーヴはもそりと丸くなる。窓の向こうから虫の鳴き声がよく聞こえる。やはり今日は寝付けそうにないが、身体だけでも休めなければ。
(会長は、どうしてあのようなことを……)
自分と走るのが恐ろしいのかと。何故そう訊ねたのだろう。
はじめはこの恋情に気付かれたのかと思った。だから何も言えなかった。
だが、違う。おそらく何か別の誤解が生じた。
あの痛ましい表情を見た時にそう気付いた。それにエアグルーヴの想いに気付いたのならば、何かしらの返答をされていたはずなのだ。
だとしたら、何故。
ルドルフは、どういった意図をもってその問いを投げかけたのか。何故あのように悲しげな、痛み苦しむような顔をしたのか。
わからない。手短なやり取りでも意図を汲み取れたはずの彼女の心は、今は霞みがかっていて何も見えなかった。
ただひとつだけ、わかることは。
──自分はルドルフを、深く傷付けてしまった。
悔やんでも悔やみきれない、その事実だけが、エアグルーヴの胸に重く残っていた。






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