もしもの物語-3-



ぴちゃん、と雫が顔に落ちてきた。?に落ちた水は、重力に任せつつつと伝い、眠る少年の口元へと下りてゆく。
「…っ、ぅ……」
その冷たい感触にスレイは瞼を震わせ、ゆるゆると目を開けた。
ここは、と呟いて辺り見渡す。森、だろうか。長い年月を掛けて独特の形に成長を遂げた巨木が至る所に根を下ろし、それらに絡まるように長い蔦(つた)がぶら下がっている。夜ゆえか、鬱蒼(うっそう)とした印象を与える森林だと思った。
川辺を見ると、向こう側は切り立った崖だった。自分の服が水気を含んで重くなっている事に気付き、どうやら川に落ちたらしいと理解する。
「っ、そうだ!」
締め付けられるように痛む頭をゆるゆると振りながら、スレイははっとして顔を上げる。
皆は、どこに。
険しい顔で敵を睨み付けていたミクリオは。神依(かむい)を強制解除されて弾き飛ばされたライラは。背後で怯えながらも武器を構えていたエドナは。
そして、夥(おびただ)しい数の兵士たちから膝をついた自分を必死に守ろうとしてくれていた、アリーシャは。
ミクリオ!と親友の名を叫ぶ。だが、返事も傍にいる気配もない。あの時と同じだった。
「あの獅子の男…一体何をしたんだ…」
スレイ達によって、ハイランド側に傾きはじめた戦場に突如として現れた、呼吸すら困難なほど禍々しい穢れた領域を作り出した男。
物怖じする姿を見た事のなかったエドナが恐怖に喉を震わせ、常に冷静であろうとしているミクリオが身体の震えを必死に抑えて、驚愕に目を見開いたライラがまさか、と悲鳴じみた声を上げた、その者の正体。
―――災禍(さいか)の顕(けん)主(しゅ)。
導師(どうし)と因果を共にし、穢れの源泉とされる者。
その存在が、丘の上で堂々とした風貌(ふうぼう)で臓腑が押し潰されそうなほどの穢れを放っていた。
それからだ。バカげていると思っていた戦場が、凄惨(せいさん)な殺戮の場へと変貌を遂げたのは。
間違っていると思っていたけれど、それまでは自国のため自民のためにと、己が正義を振るっていたのだ。それが彼らの中で消え失せて、この場所はただの無差別殺人の空間に成り果ててしまった。
兵士たちは憑魔(ひょうま)に取り憑かれ、正気を失った彼らは敵味方関係なく刃を振り回し、狂気が、憎悪が、怨差(おんさ)が、至る所で湧き上がり、より濃厚な穢れを生み出していた。
倒れかけたスレイを支えようと寄り添ってくれたアリーシャの肩にぐっと力を込めて立ち上がりながら、止めなければとそのことだけがスレイの頭の中を埋め尽くした。
しかし、災禍の顕主と対峙したその時、スレイにとって予想外の出来事が起こった。
ライラ達が―――天族(てんぞく)の姿が突然、消えたのだ。
一瞬だった。まさにまばたき一つの間で、災禍の顕主の前にはスレイとアリーシャの二人のみになった。そして、現れた時と同様、その獅子の男は唐突に姿を消した。
そしてスレイ達の周りには、男の代わりだと言わんばかりに、両国の兵士達が狂気を宿した眼(まなこ)で自分達を取り囲んでいたのだった。

その後のことは、よく覚えていない。ただ倒れる間際に、必死に自身の名を呼ぶアリーシャの叫びと、目の前に現れた黒い人影だけが記憶に残っていた。
もう一度彼らの名を呼ぼうとして、しかし僅かな物音を感じて咄嗟に口を閉じる。
「……足音……」
一瞬、仲間達の顔が思い浮かぶ。が、スレイはすぐさまそれを否定した。
ミクリオ達のものだとしたら、彼らの声も聞こえるはずだ。ミクリオにしろライラにしろ、天族の声はほとんどの人間には聞こえない。自らの呼び声で兵士たちに見付かる危険を気にしなくていいのだ。
アリーシャひとりが此方に向かってきている可能性も、聞こえてきた複数の地を蹴る音になくなった。だとしたら、最もあり得る候補は。
「追手か…!」
険しい表情で音のした方向を睨みつけると、視界を掠めた赤い色にまばたきをする。目線を下へとずらしていき、スレイはあっと声を上げかけて飲み込んだ。
闇に溶けるような漆黒の服。以前アリーシャを、そしてスレイを襲った、暗殺者の出で立ちだ。
慎重に歩み寄って、仮面の取れた面差しを見る。肩口で切り揃えられた髪を見て、先程視界に移ったのはこの色かと納得する。
「助けたくれたのか…」
その顔には見覚えがあった。セキレイの羽の、エギーユと共によく見掛けた少女だ。
何故彼女が…と訝しんだが、段々と近付いてきた人の気配に考えることを止める。とにかくここを離れなければ。
スレイは謎に満ちた暗殺者の少女を抱えて、闇夜のなか森の奥へと歩き出した。


独特の形をした巨木が生い茂る。鳴いているのは、野鳥だろうか虫だろうか。イズチの近くにも森はあったが、ここは随分と土が湿っぽい。近くに川があるためだろうか。
時折ずり落ちそうになる少女を抱え直しながら、かめにんから買った地図とこの森を頭の中で照らし合わせて歩く。
盆地の崖から落ちて、流れ着いた川岸は巨樹に囲まれた森。何よりも先に不気味そうな印象を与えてくるが、よく観察するとマーリンドに生える樹と似ているものも多くあった。ということは、生態が変わるほど遠くまで流された訳ではないだろうと予測を立てる。
「てことは……ヴァーグラン森林辺りかな…」
周りだけで判断しているので正確にはわからないが、あの辺りの川と繋がる森と言ったらそこの筈だ。身の安全の確保が先だが、周囲を探索してみればある程度の目星は付くだろう。
「う……」
「あ…目が覚めた?」
耳元からくぐもった声が聞こえ、スレイは立ち止まって背負った少女の様子を窺(うかが)う。のろのろと瞼を上げた少女は、スレイの顔を見つめ、すぐにバツが悪そうに目を逸らした。
「君が暗殺団の頭領だったんだな」
「……びっくりした?」
気まずげに口を開いた少女に、まぁねとスレイは苦笑いを零した。
それはそうだろう。あんなに明るく快活とした、いかにも商団の看板娘らしい女の子が有名な暗殺ギルドの頭領だったなんて。驚いて当たり前だ。
スレイは彼女に話しかけようとして、ふと自分が少女の名を知らないことに気付く。
何と呼べばいいのか聞くと、今更かというように苦笑した少女がロゼでいいと答えた。
「ねぇ、スレイ。何で放っとかなかったの?」
話しかけられた静かな問いに、スレイは訝しげに首を傾げる。
その質問には、以前答えたはずなのだが。
「目の前で倒れてたら、助けるでしょ?」
「それが、暗殺者ギルドの人間でも?」
そう返されて、スレイは更に首を傾けた。人が倒れていたら手を差し伸べる。当たり前のことだと思っていたのだが、それはイズチの中だけだったのだろうか。
そんなやや的外れな事を思いつつもうーんと唸ってから、スレイは逆にロゼに問い掛ける。
「それじゃ、ロゼはどうしてオレを助けてくれたんだ?暗殺ギルドの人間なのに?」
「わかんない。助けて良かったのか、これから判断する」
助けてから良いのか悪いのか決めるのか。意外に思いながらふうんと相槌を打って、けれど案外そうでもないことに気付いた。
とりあえず触ってみる、押してみる、動かしてみる。良し悪しはその後の結果で決める。幼い頃、ミクリオと共に遺跡を探検していた自分がよくやっていた方法だ。
おかげで罠にはまるわ、穴に落ちるわでしょっちゅうミクリオに助けてもらってたっけ、と小さく笑った。今は学習して触る前に調べることを覚えたが、あの時は何度ミクリオに怒鳴られても同じ失敗を繰り返していたものだ。
(ミクリオ達…どこ行っちゃったんだろうな…)
あの時、何処かへ吹き飛ばされたというよりも、忽然と消えたように思えた。災禍の顕主が何か術の類いでも使ったのだろうか。
それに、アリーシャのことも気になる。敵味方の区別がつかなくなった兵士達が、彼女をハイランド国の王女として認識できる者が残っていたとは思えない。
(皆、無事だといいんだけど…)
未だ慣れない暗闇から周囲を探ろうと気を配りながら、スレイは仲間達の無事を願った。
そんな物憂げな少年の横顔を見つめながら、ロゼは小さく息を吐いた。
「……いい人なのは確かなんだよね…」
ぽつりと地面に落とすように零した少女の言葉を、自分の思考に浸っていたスレイは聞き逃してえ?と彼女に視線を向ける。
しかし、ロゼは突然不穏な気を漂わせて目を眇めた。彼女の変わりようにやや驚くも、遅れてスレイもその気配に気付く。ロゼか声を潜めてスレイ、と話しかける。
「誰かが見てる」
「……ああ」
先程感じた人物と同じだろうか。耳を澄ませば、僅かにいくつかの足音が聞こえてきた。
背後に意識を向けるスレイに、ロゼが北へ向かえと指示を出した。
「そこにあたしたちが隠れ家にしてる遺跡があるんだ」
「え、でも…」
追手に隠れ家がばれてもいいのだろうか。思ったことを口に出すと、大丈夫大丈夫、と陽気な声が小さく返ってきた。気を失っていたので心配していたが、案外元気そうだ。
「てゆっか、もう下ろすよ?」
大丈夫そうなら下ろしてもいいのではないだろうか。そろそろ腕が痺れてきた。
「そのまま行こ。その方が油断させられるし」
そんなスレイのことなどお構いなしに、ロゼは背中から下りようとしなかった。心なしか楽しそうに囁いた彼女は、そのままくてっと身体を弛緩させる。
寝た振りをした少女にちぇ、と口を尖らせながらも、確かにそれも一理あると思ったスレイは再び森の中を歩きだしたのだった。

◇   ◆   ◇   ◆

追手かと思っていた人影は、敗残兵狩りをしていた年端のいかない子供達だった。
彼らは渡したお金の入った袋を抱えて、まろぶように走り去っていった。いたたまれないよ、と哀しそうに呟いたロゼの台詞に、共感すると同時に意外にも思った。そして合流した風の骨のメンバーが繰り広げる会話に、やっぱりいい人達ではあるんだろうなとも思った。
彼らのやっている行いが、善なのか悪なのかはまだわからない。だが、少なくとも盆地で行われた戦争とはまた違うように思えた。
それでも、最後に導師が邪悪な存在とわかったときは躊躇なく殺すと、深い青の双眸に鋭く睨まれて思わず笑顔が引き攣ったが。
「俺達は他に追手がいないか、辺りを見てくる」
前髪を上げ、黒髪を後ろで括った不愛想な男が進んで役を担った。ロゼは礼を言って、彼の言葉に甘えて見回りを彼らに任せる。片手を上げたロゼに男達は頷き、三人とも散り散りに去っていった。ただそれだけの短いやり取りで、彼らの信頼関係が窺えた。
隠れ家はこっちだと少女が指差した方角には、森の木々とは全く違った石造りの柱が点々と建っていた。おそらくこれが彼女の言っていた遺跡なのだろう。音もなく駆け抜けていく彼女に、ようやっと夜目に慣れてきたスレイは半ば必死でついていく。
遺跡由来の建造物がそこかしこに見えてきた頃、ロゼはいきなり立ち止まり、嬉しそうに明るい声を上げた。
「メーヴィンおじさん!」
彼女の後ろからひょっこりと顔を覗かせれば、そこにはひとりの老人が立っていた。
「久しぶりだな、お嬢」
皺の刻まれた顔をくしゃりと緩ませた老人は、年季の入った声音で再開を喜んだ。白い毛皮のついた水色の上着を身に付け、黄色いスカーフを巻いた彼の姿は、暗い中でもよく目立っていた。
「そっちは……今、話題の導師か?」
その言葉に驚きながら、スレイは自己紹介をする。何故導師だとわかったのかと、目を見開きながらメーヴィンに尋ねると、老人は白い白いひげを撫でつけてにやりと口端を吊り上げた。
「お嬢が戦場で張ってたって聞いたからな。カンさ」
思わずロゼを見ると、少女もメーヴィンを同じく悪戯ざかりの子供のような笑みをスレイに見せた。
「この人はメーヴィン。ギルドの一員じゃないけど、恩人なんだ。今時珍しい探検家よ」
「へぇ!」
「気ままに旅してこれの足跡を追うのが、気に入ってるだけだ」
楽しそうに頬を緩ませたメーヴィンが、背負った本型の鞄から見慣れた物を取り出して見せた。
銀色の金具の付いた焦げ茶の表紙、金色で箔押しされた独特の紋章。そして側面からでも相当読み込んだのだとわかるほど色褪せて波打った紙を見て、スレイはぱっと目を輝かせた。
「天遺(てんい)見聞録(けんぶんろく)!」
歓喜の声を上げて、自分も荷物から本を取り出した。彼と同じように中の紙がよれた本を両手に、老人と顔を見合わせて笑った。天遺見聞録を知っている人間と会うのは、これで二人目だ。
思いがけぬ出会いに感動すら覚えながら、ここにアリーシャとミクリオがいたらと、そんな思いがふとよぎった。
いてくれたら、きっと手を取り合ってこの喜びを分かち合うことができたのに。
そう考えて、いや、とスレイは首を振る。ミクリオはともかく、アリーシャは都に住んでいたのだから、きっと天遺見聞録を知っている者なんてよく見かけただろう。
(あ、でも、探検家っていうのには感動しそう…)
いつか、この本に書かれた遺跡を旅するのが夢なんだ。天遺見聞録を呼んだものは皆口々にそう言ったと、かく言う自分もそのうちの一人だと、アリーシャは語った。少し照れたように夢を語った少女の笑みが脳裏に浮かんで、スレイは思わず口元を緩め、しかしすぐに引き結んだ。
最後に見たのは、憑魔にとり憑かれた兵士と必死に対峙する彼女の姿だ。
怪我を追っていないといい。早く無事であることを確認したい。レディレイクに連れ戻されていなければ……と、そう思うのは流石に我が儘がすぎるかもしれない、と内心で苦笑いを零す。

「お嬢、戦争が始まったと聞いて、気になってたんだが……問題なさそうか?」
メーヴィンの真剣味を帯びた声が耳に入ってきて、スレイは思考の海から一気に引き戻される。途端、何とも言い難い、どこか胸に穴が空いたような感覚を覚えた。
心地の悪い感覚に思わず顔をしかめていると、隣の少女が今のアジトを捨てるとメーヴィンに伝えていた。何で、と眉を潜めて、先程老人が言った言葉が甦る。
「もしかして、オレのせい?」
戦争がと、メーヴィンは言っていた。自分が両国の戦に介入したせいで、何か不味い事になってしまったのだろうか。
不安げに問い掛けてきた少年に、メーヴィンはぽかんと口を開け、そして可笑しそうに吹き出した。
「導師が暗殺ギルドの心配か?変わったやつだな」
「そうなのよ」
大きく何度も頷いて同意するロゼとメーヴィンを交互に見て、スレイは困ったように頭を掻く。やはりというか何というか、会う度に言われる自身の評価にそろそろ慣れてしまいそうだ。
もう行くとするか、と旅立とうとするメーヴィンに、ロゼはもう?と残念そうな声を上げる。寂しそうに眉尻を下げた少女に、メーヴィンはその赤髪をぽんぽんと撫でてから二言三言交わした。
その姿に、自分の育ての親であるジイジと自分の姿が重なる。まだそれ程月日は経っていない筈なのに、随分と長い間イズチを見ていない気がする。
今は難しいかもしれないが、ほとぼりが冷めたら一度杜(もり)の皆に会いに行きたい。できたら、アリーシャも天族の姿が見えるようになってから。そうすれば、改めてジイジ達を紹介する事ができる。ライラの声が聞こえただけでも、綺麗な翡翠の瞳をきらきらと輝かせてとても感動していたのだ。イズチの皆を見たら、こんなに沢山の天族の方々が…!と驚嘆しすぎて目を回してしまいそうだ。
想像して、笑いかけて、溜め息が出る。再びやってきた感覚に、スレイはあぁ、とその感情の正体を知った。
その光景はすごく微笑ましいのに、当の本人が今ここにいないから。何だか叶えられないことを夢見るような、そんな空虚なものに思えて、かなしいのだ。

「スレイ。折角ここに来たんだ。奥にある遺跡の謎を解明してみせな」
少女との会話を済ませたらしいメーヴィンは、やがて挑戦的な笑みを少年に向けた。え、と目を丸くしたスレイに、メーヴィンはティンタジェル遺跡って言うんだが、と話を続ける。
「ここは、天遺見聞録に載ってない。他にもいくつかそんな遺跡や伝承がある。そんなに発見が困難なワケじゃないのに、だ。何か、裏があると思わねぇか?」
顎ひげを撫でて細長い瞳をきらめかせる老人の台詞を、スレイは腕を組んでそのひとつひとつを考える。
ヴァーグラン森林に遺跡がある。かめにんの地図には印がついていたが、それは確かに天遺見聞録には載っていなかった。そして、そんな遺跡が他にもある。発見が難しいものでもないのに。
そこにある、暗に記された意図、とは。
(……記す必要がなかった?それとも、敢えて隠されていた?)
考えて、スレイは首を振る。これだけの情報ではわからない。記された本だけでは、老人の示した言葉だけでは。
実際に行って、調べてみないと――――。
そう思った瞬間、スレイは弾かれたように顔を上げる。
「……自分の目で確かめたときにこそ、伝承の本当の意味が見える…」
力強い光を宿した深緑の双眸をじっと見つめて、メーヴィンは満足そうににやりと片側の頬を吊り上げる。
「上出来だ」
そう言ってがたいの良い老人は、また会おうと再開の約束をして去っていった。

「あー疲れた!今日はもう寝る!」
石造りの床の、ぽっかりと空いた大きな穴に、年月を感じさせる遺跡とは不釣り合いな黒い鉄製の梯子を下りて早々、ロゼは腕を大きく伸ばして息を吐き出すようにそう言った。
「スレイも、適当に奥のベッド使って」
あっけらかんと客人を迎え入れるロゼに、スレイは礼を言った。地面に寝転がっていたおかげで身体の節々が固くなっていたから、ベッドを使えるのはありがたい。
「勝手にどっか行くなよ」
安堵して笑うスレイに、まだ安全かどうかわかんないんだし、とロゼが釘をさしてきた。さっぱりとした笑顔なのに、海のような双眸がそれを裏切り剣呑にきらめいていることに気付いて、スレイは自身の笑みが引き攣るのを感じた。今日は大人しく休んだ方がよさそうだ。
さっさと行ってしまったロゼの後を追うようにティンタジェル遺跡の中へと入ると、何十人もの人々がそこに滞在していた。
未だ多くの人間が集まる場所が珍しいスレイは、思わず感嘆の声を上げる。どことなくレディレイクの市場のような雰囲気を感じるのは、商人の服装をした者やそこかしこに置いてある木箱のせいだろうか。
セキレイの羽の服装をした人以外にも、全身黒ずくめで仮面を被った、暗殺者の出で立ちをした者もいる。和気あいあいと話している様子は、どちらも仲間であるのに何とも言えない奇妙な感覚を覚えた。
色々な意味で珍しい遺跡内をキョロキョロと目移りしながらうろついていると、暗殺者の服を着た女性にこっちよ、と声を掛けられた。その言葉に素直に従って女性のいる小部屋まで歩を進めると、いくつものベッドが並べられていた。どうやらここが寝室のようだ。
好きに使ってと、ロゼと同じことを言われ、スレイは顔の見えない女性にありがとうと感謝を述べて左端のベッドに横になった。
気を遣ってくれたのだろう。仰向けになると同時に女性が部屋から出ていき、小部屋にはスレイひとりだけになった。
―――あのまま激化すると思ったけど、意外と……
―――両軍とも引いたわ。当然駐留部隊は……
―――裏で交渉があったのか、まだ開戦の準備が……
静まりかえった部屋から聞こえてくる彼らの会話に、スレイは無意識にその声を拾っていた。
どうやら戦争はその日のうちに終わったらしい。心配していたことのひとつが解消され、知らず安堵の息が漏れる。
災禍の顕主の穢れにあてられ、正気を失っていた兵士達も我に返ったことだろう。ひどい動揺もあっただろうが、両軍とも撤退したのなら最悪の事態は免れたはずだ。
目を閉じながら、思考を切り替えてこれからのことを考える。
まずはアリーシャ達を探そう。メーヴィンがこの遺跡を探索してみろと言っていたが、皆を見つける方が先だ。
それに、災禍の顕主も放っておくことはできない。何よりもそれが導師の使命だと、ライラが言っていたのだから。
(どっちにしろ、手掛かりを見つけなきゃ……)
瞼の裏に、赤茶の岩肌が露出した荒野が思い浮かぶ。様々な出来事が起こった、あの盆地。もしかしたらそこに行けば、何か掴めるかもしれない。
そのままゆっくりと睡魔がやってくるのを感じながら、スレイは身体の力を抜いてベッドに身を沈めた。

『まったく、スレイのヤツ……もうちょっと警戒するもんだろう…』
ふいに、聞き慣れた声音が頭の中に響いてきた。驚きのあまり固まるスレイをよそに、今度はたおやかな女性の声が耳に入る。
『声が届かないのって、本当にもどかしいですわね…』
「みんな!」
思わずがばっと起き上がって叫ぶと、再び馴染みの声が驚いたようにスレイの名を呼んだ。
自身の身体からふわりと出てきた白い光がベッドの横まで移動し、二つの人影を作る。
現れたのは、予想通り水の天族の幼馴染と、己の主神である火の天族の女性だった。
「元に戻ったのか?」
やや狼狽しながら心配そうに問い掛けてくるミクリオに、スレイは頷く。彼が自分たちを目で捉えていることに、ライラは満面の笑みを浮かべて嬉しそうな声を上げる。
「本当、よかったですわ」
「いなくなったのかと……すげー焦った!」
両手を合わせて目を細めた彼女に、スレイも笑顔を向けて再開を喜ぶ。ミクリオとライラを交互に見て、そしておや、とスレイは首を傾げた。
「あれ……エドナは?」
地の天族の小さな少女が見当たらない。いつからかはわからないが、ミクリオ達が自身の中に入っていたのなら、彼女もそうだろうと思っていたのだが……。
隠れているのだろうかと、薄金の髪と彼女のトレードマークである傘を探して視線を彷徨わせるが、どこにも見当たらない。
「エドナさんは―――」
辺りを見回すスレイに、ライラが安心させるように話しかける。だが、その刹那――――、
「ベッドを用意してくれ!それから薬も!」
就寝のために静まりはじめた遺跡内に、男の鬼気迫る低い声が突き抜けた。途端にざわめきを取り戻した広間に、急患だ!と先程の男が叫んだ。スレイ達は顔を見合わせ、寝室から飛び出す。
「何が――――、」
ミクリオと同時に広間に出て、しかし目にした光景に、二人して足を止めて硬直した。
「酷い高熱を出している。水も用意してくれ」
静かな、それでいて焦りを含んだ黒髪の男の言葉に、彼のもとに集った者の数人が駆け出す。先程、敗残兵狩りの少年らを捕まえた暗殺者の一人だ。
背後でライラが短い悲鳴を上げて息を呑んだ。その音に、凍りついたように固まった身体がぴくりと動きはじめる。
騒がしくなる周囲の声が、段々と遠のく。ただ、自身の浅くなった呼吸が、大きく跳ねる鼓動が、煩いほど頭に響く。
だって、そこにいたのは。そこに、いるのは。

「―――っアリーシャ!!」

長身の男に背負われて、喘鳴を繰り返しながらぐったりと意識を失ったアリーシャの姿に、スレイは引き攣れを起こしかけた喉を無理やり振り絞って彼女の名を叫んだのだった。





「アリーシャ、アリーシャっ!」
「おい、落ち着けスレイ!僕が天響術で回復を…」
「ミクリオさん待ってください!こんな大勢の中で天響術を使ったら、お二人が怪しまれてしまいますわ」
「ハイハイどいたどいた!」
「ロゼ、アリーシャが…!」
「大丈夫、あたしらが何とかする。だからとりあえず引っ込んでて。邪魔」
「でも…うわっ!」
「フィル、手伝って!アリーシャ姫をベッドに運ぶから」
「…ロゼさん、一刀両断ですわね」
「…事実だけど、容赦ないな…」






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