もしもの物語-2-
「ライラはんたち、もう行ってしまわはるんか〜?」
アリーシャの話から何故か遺跡談議にまで発展して盛り上がるスレイ達に、下から子供のような声が寂しげに響いた。
視線を大分下に降ろせば、そこには金色の兜(かぶと)を被った不思議な生き物が小さな手足を揺らして、悲しそうにこちらを見上げていた。
「アタックさんもお元気で。頼りにしていますわ」
ライラは彼に視線を合わせて、春の日差しのような柔らかな微笑みを向けた。彼女の言葉を聞いたアタックはよほど嬉しかったのか、顔が溶けそうなほどへにゃりと笑ってくるくると踊りだした。
テディベアとリスを足して二で割ったようなこの生物は、『ノルミン天族(てんぞく)』というライラ達と同じ天族の仲間だ。その力は特殊で、他の天族の高めてくれる能力を持つ。
今回もスレイや、そしてマーリンドの地(ち)の主(ぬし)となったロハンに力を貸して、疫病に苛まれていたこの街を救う手伝いをしてくれた。ちなみにノルミン天族は世界に五十人ほどおり、そのうちの四十九人がライラを好いているという。さらに余談ではあるが、エドナとノルミンの間にはただならぬ因縁があるらしい。
「俺も頑張ってみるよ。もうこの街に災厄を招かないためにもな」
「ありがとうございます。私たちもロハン様を二度と憑魔にさせぬよう、尽力を尽くします」
「ああ、頼む。まだ大樹に祈りを捧げる人間もいるみたいだしな」
ロハンと呼ばれた男は、穏やかな表情でここからやや離れた場所に視線を送る。
目元のしわを更に深めて笑うロハンのように、アリーシャも彼らを見て嬉しそうに微笑んだ。
数こそ少ないが、そこには大樹に向けて両手を組む人々の姿があった。
「いい街だね。マーリンドって」
隣のスレイが、目を細めてそう言った。その一言が、アリーシャにとって無性に嬉しかった。
「ああ。我が国の誇りだ」
この街は、きっとすぐに立ち直る。
彼らの姿を見て、アリーシャは確信に近い思いを抱いていた。
また来てな〜!と間延びした声を背中越しに聞きながら、スレイ達は大樹の元を後にした。
「スレイ」
前を歩くスレイに、アリーシャは声をかける。ん?と振り返る少年に、さっきよりもずっと吹っ切れた顔をした少女が、少し待ってくれないかと願い出た。
「マーリンドの件についての報告を、騎士団の者に頼んでくる」
あと司祭様にも、と付け加える。自分がここに留まらないのなら、今後の対応を別の者に任せる必要があった。
街のことは、代表であるネイフトが戻ってきたから大丈夫だろう。彼に対する住民の信頼は大きい。
だからアリーシャはせめて、彼らの復興が円滑(えんかつ)に進むよう物資の支給や兵の派遣を申請しようと考えたのだ。
「私の名が、どこまで通用するかはわからないが……多少の支援はしてもらえると思う」
体よく王宮から追い出すための口実だったとはいえ、マーリンドへの出動命令を下したのは他ならぬ大臣達だ。少なくとも部外者だからと一蹴(いっしゅう)されるようなことはないだろう。
そう説明すると、スレイはわかったと快く頷いた。
「あ、じゃあ司祭にはオレたちがお願いしてくるよ」
「い、いや、大丈夫だ。スレイ達の手を煩わせる訳にはいかない」
「平気平気。それに、地の主のことはオレから言うべきだろうし」
ね、ライラ。白銀(はくぎん)の女性に同意を求めるように視線を向けると、そうですね、とライラは微笑みを返した。
「ふた手に分かれた方が、効率がいいしね」
賛同の意を示すミクリオにほら、とアリーシャを見る。しかし、彼女が要領を得ない顔をしていることに気付いてあっと頭を掻いた。
そうだ、今のアリーシャは天族の姿も声もわからないのだ。
「ライラもミクリオもその方が良いって」
「そうですか…ありがとうございます」
「エドナもいいよ…あれ?」
近くを見回すが、エドナの姿が見当たらない。何処に行ったんだろうと探す範囲を広げてみれば、数m離れた先に少女はいた。
「はは……エドナもかまわないってさ」
苦笑いしながら、エドナの場所を指で示す。既に教会の方向へとことこと歩き始めている彼女に、アリーシャは声を張り上げて感謝を述べた。どういたしまして、という意味だろう、傘の横から出てきた小さな白い手がひらひらと面倒そうに舞っているのが見えた。素直じゃないなと呆れる声はミクリオのものだ。
「スレイも、ありがとう。よろしく頼む。」
「うん。宿屋辺りで待ち合わせしよう」
「ああ」
お互いに手を振って、アリーシャは店が並ぶ道へと踵を返した。スレイは彼女を見送りながら、ふと上げていた手を下ろし、まじまじと見つめる。
導師の手袋に包まれた骨ばった手の平を凝視し、難しい表情で唸る。
「……ずっと手を繋いでた方が楽かなぁ」
自分が、というよりもアリーシャが。そうすれば、自分が目を閉じさえすればすぐにライラ達の声が聞こえる。
全く聞こえないよりかは不便ではない筈だ。流石に憑魔の跋扈(ばっこ)する外では無理だが、安全な街の中でなら繋いでいてもさして問題はないように思えた。
「まぁ!スレイさんたら…」
目を輝かせて頬を染めたライラに、スレイは目を丸くして首を傾げる。
「え、え、何?」
彼女が何に反応したのかわからないと疑問符をまき散らすが、当の本人は両手で頬を挟み自分の世界へ旅立ってしまっていた。何故だろう、ライラの周りに花が舞っているように見える。
「……スレイ、それはやめておけ…」
世間にとんと疎い親友に、ミクリオはがくりと肩を落として盛大な溜め息を吐いた。
ロハンを正式に祀(まつ)ってほしいと頼むと、聖堂の司祭は恐縮しながらも快く応じてくれた。幸いにもここの教会の者たちは導師(どうし)や天族を信じてくれているようで、早速大樹の元へと祈りを捧げに向かっていた。
これでマーリンドの加護はそうそう消えることはないだろう。ロハン達も安心できる筈だ。
「…ん?」
アリーシャと合流しようと宿屋に向かっている途中、街の出入り口の方からざわざわと不穏な空気を感じた。何だろうと様子を窺(うかが)っていると、そのざわめきがどんどん近付いてきた。その中心となっている者の姿を認めて、スレイは息を呑んだ。
「で、伝令……緊急だ!」
振り絞るような声で叫び、馬からずり落ちそうになるのを必死に耐えるハイランド兵に、スレイは駆け出して近寄った。間近で見ると、至る所に赤黒いシミができていた。酷い傷だ。
「どうした!しっかり!」
彼の身体を支えて、何とか体勢を持ち直させる。ぜぇぜぇと荒い息を吐く兵士は、その合間を縫って帝国が…と言葉を紡ぐ。
「…ローランス帝国が、攻めてきた」
聞こえてきた報せに、背筋に冷たいものが緊張と共に駆け巡った。
なんだって、と思わず漏れ出た声は、誰の耳に入ることもなく地に落ちる。
「戦争がはじまるのか……」
静かな、それでいて硬い声音でひとりごちたミクリオが、険しい表情で口元に手を当てる。
戦争。意味として知っていただけで、今まで縁のなかったもの。王のもとに民が命を賭(と)し、国の盛衰(せいすい)興亡(こうぼう)を決する戦い。ただそれだけの事象として捉えていたものが、今現実に迫っている。
胃の辺りに重石(おもし)が入ったような感覚を覚えて、無意識に拳を腹に当てた。
「マーリンドの者たちには君が報せてくれ…自分は都に…!」
ふいに肩に置かれていた手が離れ、蹄(ひづめ)の鳴る音が聞こえた。スレイは我に返り慌てて彼を引き止める。その身体で行こうというのか。
「ケガしてるのに!無茶だよ!」
「一刻(いっこく)の猶予(ゆうよ)もないんだ!!」
余裕なく切迫した兵士に、スレイは気圧される。それほどまでに状況は悪いのか。
スレイは思わずライラを見て、代わりに自分たちが行くことができないか目で伝える。
しかし、ライラはかなしそうにゆるゆると首を振った。やっぱりだめか、と悔しそうに顔を歪める。
ネイフトの時と同じだ。誰か一人に導師の力を使えば、他の者もその力に頼るようになる。それが縋(すが)るようになってしまえば、きりがない。
ゆっくりと馬を歩かせながらふらふらとよろめくその姿を見つめながら、はっともう一度自身の主(しゅ)神(しん)を見る。
だったら、他の者にばれないように手助けをすればいいのではないか。
先程とは違うスレイの瞳の色に、意図に気付いたライラは静かに頷き、神(かむ)依化(いか)する。
「気をつけて」
外に向かう兵士を呼び止め、スレイは手を差し出す。差し伸べられた少年の手を、兵士は無碍(むげ)にすることもできず、肩で息をしながら何とか掴んだ。その瞬間、スレイは回復術を発動させる。
痛みが見る見るうちに引いていくのを感じて、兵士が唖然としながらスレイを凝視した。
「くれぐれも、無茶しないで」
「……ありがとう」
けれど、スレイが何も触れようとしないことを察したのか、問うような視線を解いて感謝を述べた。
掛け声とともに手綱(たづな)を引き、馬を走らせた兵士の姿を見送ってから、仲間達を振り返る。
「アリーシャには悪いけど、先に街の人たちに伝えてこよう」
一刻も惜しいと、命懸けで馬を走らせて来てくれたのだ。その時間を大切にしなければ。
「事情が事情だ。アリーシャだって同じ行動をとっただろうさ」
「ええ、そのはずですわ」
ミクリオの言葉に、ライラも微笑して同意する。
「さ、みんなに報せましょ」
傘をぽんと肩に掛け、来た道を戻るエドナに追いつきながら、スレイはふと表情を曇らせる。
さっきから胸の内がざわざわとする。いつものように脈打つ心臓の鼓動が、少しだけ不快に感じる。
奥底からじわりじわりと這い上がってくる感情。深手を負い、鬼気迫る雰囲気を纏っていたあの兵士の姿。
スレイは『戦争』というものに、得体のしれない恐怖を感じていた。
◇ ◆ ◇ ◆
街の住民と、どこから聞きつけたのか既に戦場に赴く気でいたルーカス達を何とか説得して、スレイ達はマーリンドに居た者たち全員、避難するように頼みこんだ。
本当はスレイも戦争に参加する気でいたのだが、それはライラとエドナに止められた。導師が戦争に介入する。そのことはつまり、手を貸した側に勝利をもたらすことになる。それは、世界のありようと大きく変えることだと。
だったらと考えた別の案が、マーリンドの住人を安全な場所まで避難させてほしいと木立(こだち)の傭兵団に依頼する、というものだった。
「……グリフレット川を越えた先まで避難しよう」
折角疫病から救われたこの街を壊される訳にはいかないと渋っていたルーカスが、悩んだ末にそう決断した。
先程までの熱意を吐き出すようについた溜め息が、大気へと還る。
「悔しいな。ようやく活気が戻ってきた、この街を見捨てるのか」
名残惜しげに、哀しそうにマーリンドを見渡すルーカスに、やっぱり良い人だなと、緊迫した空気に冷えてしまった心がじわりとあたたかくなった。
この街のために尽力を尽くしたのは、彼だって一緒だ。ボールス遺跡から戻って来たとき、街中で聞いた彼らの評判。それが彼らの功績を物語っていた。
スレイはその呟きに同意しながら、口を開く。
「大事なものは、はっきりしてる」
街は……人がつくったものなら、故郷を思う心と志がある限り何度でも復興できる。けれど、人の命は戻らない。
何を優先するべきかなんて、考えなくても当然のことだった。
「……へっ、かなわねぇな。導師殿にはよ」
スレイの真っ直ぐな視線をしばらくく見返していたルーカスは、やがて腰に腕を当て、参ったと言わんばかりに苦笑いした。
野郎ども!と声を張り上げて指示をだすルーカスに礼を言うと、お前もしっかり準備しとけと返ってきた。
「橋もまだ完全には復旧してない。しばらく川辺で野営になるかもしれんからな」
長らく旅をしてきた経験だろう。その忠告をありがたく受け取り、スレイ達はその場を後にした。
「とりあえず、アリーシャと合流しなきゃ」
「そうですわね。随分お待たせしてしまいました」
駆け足で宿屋へ向かい、白い石碑の立つ所で立ち止まって辺りを見回す。
「あれ…アリーシャ?」
キョロキョロと周囲を確認するが、騎士の装いをした少女の姿は見当たらない。別れてから大分時間が経っているから、彼女の用事はもう済んでいる筈だ。
「待ちくたびれちゃったのかな…」
困ったように頭を掻くスレイに、エドナが宿屋にでもいるんじゃないと声を掛けた。
「はっきりと場所を指定しなかったし。中で休んでるんじゃないかしら」
彼女の指摘にそっかと素直に納得する。そういえば曖昧(あいまい)にしか指定しなかった。イズチだと森や門の前くらいで通じたものだから、ついいつもの感覚で言ってしまった。
がちゃ、と木製の扉を開けて、中に入る。
店内を見回してアリーシャを探すが……やはりいない。
「どこにいるんだろう…」
「アリーシャさんが、約束を忘れて何処かに行ってしまわれるとは思いませんが…」
ライラの呟きに同意しながら、うーんと唸っていると、宿屋の店主に誰かお探し?と声を掛けられた。
「あ…と、おばさん。ここにアリーシャって子、来なかった?この間オレと一緒にいた女の子なんだけど…」
「ああ、アリーシャ姫ね。来たわよ。誰かを待っているようだったから、中で待っていたらどうかって勧めたのよ」
「ほんと!」
その返答にぱっと顔を輝かせる。しかし、それも束の間。婦人の表情が曇り、けど、と言いづらそうに口を開く。
「暫くして騎士団の方がいらしてね。その人達と一緒に出てってしまわれたよ」
「え…」
「何か文書のようなものを渡されてね。そうしたら姫様の顔色がみるみる悪くなっていって、そのまま……あっ、ちょっと!」
「スレイ!」
店主の声も、幼馴染の制止も聞かず、スレイは背を叩かれるような衝動のままに宿屋を飛び出した。
「スレイ、待て!アリーシャが何処に行ったのか、見当がついているのか!?」
「連れていったのは騎士団なんだろ?だったら決まってる!レディレイクだ!」
周囲の人々が訝しむのも構わず、スレイは叫ぶ。気にする余裕なんてなかった。
アリーシャに、何かあったのだ。でなければスレイ達を待たずどこかへ行ってしまうなど、驚くほど生真面目で律義な彼女がする筈がない。
早く見つけないと。それだけが、頭の中を埋め尽くしていた。
『スレイさん、一旦落ち着いてください。気が急いでいては、出来ることも出来なくなってしまいます』
「でもっ…!」
『別に行くことを止めやしないわ。冷静になれって言ってるのよ』
いつの間に入ってきたのか、頭の中から響く二人の声にぐっと唇を噛む。怒鳴るでも慌てるでもなく、淡々と諭(さと)す彼女達の声が、血が上った頭を冷やす。確かに、その通りだと思った。
スレイは一度足を止め、深く息を吸って、時間を掛けて吐いた。幾分(いくぶん)か落ち着いた鼓動を確認して、再び街を駆け抜ける。
『都(みやこ)に行くのだとしたら、橋は必ず経由するはずよ。まずはそこを目指すべきね』
『それ程遠くまでは行っていないはずだ。急げば多分、間に合う』
「わかった。……ありがとう」
徐々に冷静を取り戻してきていたスレイは、自身の唐突な行動に反省する。焦り過ぎだ。
これから頑張るからと、ついさっき言ったばかりではないか。
宣言するだけでは早々変われないなと、スレイは自嘲(じちょう)と苦笑いを織(お)り交(ま)ぜた表情を浮かべた。
それでも、自分を宥(なだ)めはしても止めずについてきてくれる仲間達に心から感謝して、連れていかれたであろうアリーシャの元へと急いだ。
◆ ◆ ◆
グリフレット川の岸辺。未だ復旧作業中の橋の前に、探していた人はいた。
「アリーシャ!」
「―――っ!スレイ?!」
数人の兵士に囲まれて歩いていたアリーシャはスレイの声に肩を跳ねさせ、驚愕(きょうがく)の表情でこちらを振り向いた。
拘束をされている訳ではないとわかり、安堵しながら彼女に駆け寄る。
近付いてきた少年に兵士たちが武器をかまえるが、アリーシャが止めろと剣を下ろさせる。どうやら怪我もしていないようだ。そのことに少しだけ緊張が解けた。
「どうしてここに…」
「宿屋のおばさんに聞いて。それよりこれは…」
「それは……」
スレイが尋ねると、アリーシャは言葉を濁して俯いた。彼女のただならぬ様子に、スレイは心配そうに彼女の名をもう一度呼ぶ。
自分達と別れている間に、一体何があったというのだろうか。
眉根を寄せて瞼を伏せる彼女を不安げに窺っていると、未だ修繕途中の橋の向こうから複数の足音が聞こえてきた。
「―――何やら騒がしいようだが、何事だ」
聞こえてきた声に視線を向けると、軍を引き連れた男が、黒馬に乗ってこちらを不審げに見ていた。
「あなたは…!」
「ほう、これはこれは。アリーシャ殿下ではないですか」
青い鎧にいくつもの勲章(くんしょう)を飾った巨漢が、馬と兵を止めてその隻眼の瞳で見下ろしてきた。
御機嫌はいかがですかの、と白々しく聞いてくる男に、アリーシャは眉を吊り上げ、二対の翡翠(ひすい)でぎっと睨みつける。それを受け止めた男は、しかし大して堪えることもなく鼻で笑った。明らかに小馬鹿にした態度に、スレイは眉間(みけん)にしわを寄せる。
「ところで、殿下。導師は何処(いずこ)に?未だマーリンドの街に留まっておるのですか?」
「…オレです」
一歩、アリーシャを庇うように前に出て、スレイは名乗り出る。
「貴様が…?」
胡乱(うろん)な表情を浮かべて、じろじろと値踏みするような視線をぶしつけに送られる。
居心地の悪さに更に顔をしかめそうになった時、不穏な空気を纏わせた気配を背後から感じた。それも複数。
ちょっと物騒だな、と内心苦笑いを零す。けど、少し気が楽になった。
「おや、ランドン軍師(ぐんし)団長(だんちょう)。導師にご用でこの隊列か?」
ふいに耳に入ってきた覚えのある口調に、スレイは思わず振り返る。
「ルーカス!」
褐色の肌を持つ強面の男は自身の名を聞いて、にやりと人の悪そうな笑みを浮かべた。良い人だということはわかっている。ただ単に笑いかけてくれただけだ。
「早いな。もう避難の準備ができたのか?」
口元に手を当て、呟いたミクリオの言葉をスレイが代わりに尋ねると、ルーカスは先遣隊だと答えた。
「先に野営地の目星をつけときたかったんでな。お前さんの方こそ早くないか?」
「それは…」
「貴様は木立の傭兵団、ルーカスだな。…丁度いい、貴様も聞け。アリーシャ殿下の件だ」
何と説明するべきか言いあぐねていたスレイに、ランドンと呼ばれた男はさらに言葉を連ねる。
アリーシャの件。無意識に彼女に視線を送る。隣にいたアリーシャは、ランドンの台詞に身を強張らせ、堪えるように唇を噛んでいた。
ランドンが背後に目配せすると、傍に控えていたハイランド兵が数歩前に出て、懐から取り出した真新しい書状を広げた。ただそれだけのことに、スレイは嫌な予感を覚えた。
「アリーシャ殿下の、導師を利用した国政への悪評の流布(るふ)と、ローランス帝国進軍の手引をした疑いにより、その身を拘束する」
よく通る、しかしどこか機械的に感じる声で読み上げたその内容にスレイは瞠目し、声を荒らげた。
「アリーシャはそんな事してない!間違いだ!」
その剣幕に気圧されたのか、怒鳴り声を上げたスレイに、兵士が怯む。アリーシャも驚いたのか一瞬呆気にとられたように目をしばたかせ、しかしすぐに慌てて憤(いきどお)る少年を宥めた。
「これは逮捕ではなく容疑だ。導師」
流石は手練れの軍師団長というべきか、それともこちらを軽んじているだけか。ランドンは先程と同様、少年の気に呑まれることなくただ淡々と告げた。
男の言葉を、少し距離を置いたところから聞いていたエドナは、訝しげに細い眉を潜める。
不穏な空気が漂いはじめている。
「なんだか雲行きが怪しくなってきたわね」
傘の柄をいじりながら言った彼女の言葉に、隣にいたライラは何か考え込むように顔を伏せた。
ランドンの野太い声は、尚も響く。
「導師スレイとアリーシャ殿下、両人が力を振るい、この戦に勝利をもたらせば、その疑いを晴れるであろう」
つまらなそうに述べた男の台詞に、スレイ達は絶句し、目を見開いた。
「バカな!」
「ランドン軍師団長っ!何ですかそれは!それではまるで、脅迫ではありませんか!」
ミクリオの言葉にアリーシャの声が重なる。まさに彼女の言葉通り、それは脅(おど)し以外の何物でもなかった。
しかし、それを口にしたランドンは白々(しらじら)しく人聞きの悪い、と体格の良い肩を竦めた。
「こちらはローランスに不意をつかれ、既に多くの犠牲者が出ているのです。それを、戦に勝利すればお咎(とが)めはなしにすると述べた大臣たちの命は、寧ろ温情(おんじょう)措置(そち)というべきものではありませんか?」
「でしたらなぜスレイを…!彼は無関係です!」
「その者にも、共謀の容疑が掛けられているのです」
眉尻を吊り上げて尚も言い募る少女に、ランドンは鬱陶(うっとう)しさをありありと顔に浮かべながら、酷薄に言い放つ。
「まぁ、殿下が罪を認め、ひとり責任を取るという手もありますがな…」
「……人質ね…」
侮蔑(ぶべつ)を込めた目を向けながら、エドナがぽつりと呟いた。
「…っ……!」
息を呑む音にそっと目を向ければ、大きな瞳を零れんばかりに見開いて、震えるほど強く手を握りしめているアリーシャの姿があった。
当たり前だ。濡れ衣な上に、認めれば極刑(きょっけい)の罪。言葉を失わない方がどうかしている。
身動きのとれない……いや、封じられた彼女を見つめて、スレイは奥歯を食いしばる。
ダメだと言われたはずだと、内側から自分の非難がましい声が聞こえた。そうして、非難だと思った時点で自分の意志が逆を向いていることに気付く。
気付いたけど、我慢ならなかった。
「……ライラ、オレ」
周りにさとられないよう、小さな声で主神に声をかける。その固く、そして揺るぎなさを感じる真っ直ぐな声音に、ライラは困ったように眉尻を下げて沈黙する。
「……………」
「仕方ないんじゃない?もしこのまま、アリーシャが命を落としたら…」
「……そう、ですね…」
一度、目を閉じて息を吐く。どこかやる気のないような、けれど彼女なりの気遣いが乗せられた旧友の言葉に、意を決したように顔を上げる。
「スレイさん、受け入れましょう」
「……ありがとう」
謝ることはしない。間違っているとは、思わないから。
スレイは本日何度目かになる感謝を口にして、ランドンを睨みつけるように見上げる。
一歩前に出たスレイの、深緑の瞳から強い光を感じ取ったアリーシャはまさかと彼を呼び止める。しかし、それは僅かに遅く、彼女が動く前にスレイが口を開いた。
「オレが戦えば、アリーシャの容疑は晴れるんだな?」
「スレイっ?!」
彼の言葉を聞いたランドンは、その意図するとことを読み取り、どこか気に食わなさそうな表情を浮かべて否を唱えた。
「勝利をもたらせば、だ」
恐らく、スレイ達が途中で逃げないようにするためであろう。あくまで勝つことを条件として挙げてきた。
「俺達も行くぜ」
ずっとスレイ達のやり取りを聞いていたルーカスが、彼らに加勢するように参加表明する。
自身の行動に目を丸くした少年達に、ルーカスはにやりと不穏に笑って腕を組んだ。
「やっぱ、戦いもせずに逃げることはできねぇよ。俺達には数々の戦いで得た誇りがあるんだ」
細長い目に闘志を宿し、胸を張って言いきる。そんな彼をじっと見下ろしていたランドンは、やがてフンと鼻を鳴らしよかろう、と承諾した。
「指揮官は私だ。それを忘れるなよ」
戦場で待っている。その言葉を残して、ランドンは戦列を引き連れて去っていった。
ざざざざざ、と川の流水音が耳朶(じだ)を響かせる。
ひたすらうねりを上げて流れていくその音を、今初めて聞いた気がして、スレイは思わず息をついた。どうやら張りつめていた緊張が解けたらしい。
「スレイ、すまない…やはりまた巻き込んでしまった…」
憔悴(しょうすい)して肩を落とすアリーシャに、スレイは慌ててアリーシャのせいじゃないと否定した。
「それに、今回巻き込んじゃったの、オレの方だし…」
ランドン軍師団長の――――正確には大臣たちの狙いは、確実にスレイの……導師の力だった。アリーシャは利用されたにすぎない。
餌をちらつかせてこちらに引き入れようとしたが叶わず、しかし疑っていた力が真実であった事を知った彼らは、今度は脅してでも従わせるという手段に出たのだ。彼女が謝ることではない。
「なーに、俺達がいれば、導師の出番なんかないって」
互いに項垂れる二人に、そんな陽気な声が聞こえてきた。顔を上げれば、すぐ傍にルーカスが立っていた。
「ルーカス殿も、申し訳ない。貴殿の傭兵団まで、戦争に参加させてしまって……」
「別にあんたのためじゃないさ。さっきも言ったろ。逃げるのは性に合わねぇって」
肩を竦めて口端を吊り上げる彼に、アリーシャも僅かに笑った。
「ま、あわよくばお国さんから報酬の一つくらいはいただきてぇなとは思ってるけどな」
「…考えておきます」
「へぇ…わかってきたじゃねぇか、姫さん」
「おかげさまで」
おどけるように軽口を叩くルーカスに、スレイもアリーシャも表情を緩める。それを満足げに眺めた彼は、軽く手を上げて踵(きびす)を返し、自身の部下へと怒鳴るように指示を飛ばしにいった。
わざと明るく振る舞ってくれているのだろう。人を気遣い、場を盛り上げようとする彼の行いは、なるほど流石は傭兵団の団長を務める人物なだけはある。だからこそ、彼の周りに人は集まっているのだ。
「スレイさん」
呼びかけに振り返れば、端麗な面差しに憂いを滲ませたライラがそこに佇んでいた。彼女はスレイを見て、それからちらりとアリーシャを一瞥する。その意図に気付いたスレイは、ルーカスの背を見送っていた彼女を呼ぶ。
「どうした、スレイ」
「ライラがオレとアリーシャに話があるみたい」
「ライラ様が…?」
早足で駆け寄ってきた少女に、スレイはそう言って手を差し伸べる。アリーシャは一瞬首を傾げるも、素直に従い、彼の手の平に自分のそれを重ねる。グローブ越しにそのあたたかさを感じながら、スレイは目を閉じた。
二人の耳朶に、穏やかな、しかしどこか固い声音が響き、彼らの名を呼ぶ。
「スレイさん、それにアリーシャさん。戦場は、想像を絶するほどの惨状です。そして、そこから生まれる穢れは一段と重厚で、禍々しい」
天族の寿命は、人間のそれより遥かに長い。繰り返される歴史を、幾度となく見てきたのだろう。
「あの場所は、人の感覚を麻痺させます。善も悪も、あそこにはありません。……あるのは、生と勝利への執着だけ……」
その景色が脳裏によぎったのか、言いながら、ライラは一度言葉を切った。
スレイは、戦争というものを、史実の中でしか知らない。ただそこに記された当時の事実を、きっかけと終わりと結果のみにまとめられ、淡々と語ったものを読んだだけにすぎない。ただ胸にあるのは、周囲の緊張感と恐怖に感化された感情だけ。
僅かな沈黙の後、その声が再び耳に届く。
「だから、スレイさん、アリーシャさん。自分の内にある、正しいと思う気持ちは見失わないでください」
目を閉じていても、力強い眼差しで見据えられるのがわかった。
その視線を見返せない代わりに全身で受け止めて、頷く。
知らず、握った掌に力が入った。それはアリーシャも同じだったようで、頷く気配を感じたと共に、握られた手の圧迫感が増した。
「そんな辛気臭い顔をするな。大丈夫だ。僕たちがついてる」
両手どころか肩にも力の入ったスレイに、ミクリオはぽんと手を乗せる。
「バカ正直に戦争に付き合うことはないわ。面倒だし。適当に終わらせましょ」
不敵な笑みを浮かべた親友と、いい加減な台詞を口にする少女が容易に想像出来る。少しでも自分達の気を軽くしようと、それぞれが見せてくれる気遣いにささくれていた心が癒されていく。スレイは微笑してそうだなと頷いた。
「ライラ様たちも、こんな事態になってしまって申し訳ありません……」
心の底から申し訳ないと気落ちするアリーシャに、そんなに気にしなくて大丈夫だよと声を掛けようとして、しかし喉まで出かかった言葉は別の声に遮られる。
「本当よ。反省しなさい」
いかにも不機嫌とばかりの口調で咎める少女に、アリーシャが肩を竦めたのが繋いだ手越しに伝わった。ああこれはと、スレイは出かかった苦笑いと溜め息を胸の内に留める。短い間で知った、エドナの悪い癖だ。だって表に出ている感情の裏に、面白さが潜んでいる。
要はいじり倒しである。
「は、はい…申し訳ありません…」
「お詫びにノルミンダンスを踊りなさい」
「ま、またその踊りですか…!」
「出来ないの?反省し――――」
「そのくだりはもういい!」
エドナが飽きない限りエンドレスになることを察したのか、小さく身を縮めるアリーシャを不憫に思ったのか。
多分そのどちらもであろうミクリオのツッコミで、スレイはとうとう我慢しきれず吹き出した。思わず開けてしまった目に飛び込んできたのは、翡翠の瞳をまん丸に見開いて呆気にとられているアリーシャの顔。
「す、スレイ…?」
「ぷ、はは!ごめ…アリーシャがあんまりにもエドナのからかいに、真剣に返すから……」
「そ、そんなに笑うことはないだろう…」
目元をほんのりと赤く染めて、むっとした表情で睨むアリーシャに、ごめんごめんと繰り返す
。困った。ツボに入ってしまった。
「…でも、おかげで肩の力が抜けたみたい」
ひとしきり笑って、はぁーと深く息を吐いた。強張っていた身体が、ほぐれた感じがする。
「よーし!何か頑張れる気がしてきた!」
「あんまり頑張りすぎたらダメなんじゃない?」
「じゃあ、ほどほどに頑張る!」
「何かしまらないな、それ」
折角燃えてきたやる気をさっさと鎮火させるかのように水を差してくる声に、スレイは眉根を寄せて唇を尖らせる。
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
にやにやと口端を吊り上げてこちらを見ている天族二人に、振り向いてしかめっ面で文句を言うと、傍で小さな笑声が聞こえてきた。ぱちぱちと目を瞬かせて顔を戻せば、今度はアリーシャが可笑しそうにくすくすと笑っていた。
「ふふ…すまない、スレイの言葉と表情で、エドナ様とミクリオ様が何ておっしゃっているのか、想像できてしまって……」
「アリーシャまで…」
口をへの字に曲げる少年に、アリーシャはこれでおあいこだと楽しそうに言った。
渋い顔をしていたスレイは、けれど口元に手を添えて柔らかな笑みを零す少女につられて、再び笑った。
「導師殿!アリーシャ殿下!」
和やかな雰囲気が漂いはじめたところに、焦りを帯びた声音がその空気を裂くように響いた。
顔を向けると、見覚えのある二人がこちらに向かってきていた。身体ごとその方向に動かせば、自然と繋いでいて手が解ける。
小走りに駆け寄ってきたひとりが、やや乱れた赤髪を整えることもせずにまくし立てる。
「聞いたよ。ひどすぎ!戦争なんて放っといたら?」
なんだったら協力すると、スレイとアリーシャを交互に見遣る。彼女の所属する商団、セキレイの羽は国境をまたいで商う行商団だ。自分達の立場を偽り、大臣たちの手の届かない場所まで逃がしてくれることもできるだろう。
けど、とスレイは首を横に振る。
「やっぱり、行くよ」
逃げたとしても、この戦争が終わる訳でも、何かが解決する訳でもない。それは自分たちが戦争に参加しても変わらないかもしれない。けれど、少なくともアリーシャの居場所を守ることはできる。そう思っている。
レディレイクはアリーシャにとって故郷だ。例え大臣たちに疎まれ、蔑(さげす)まれる環境でも。あの街で生まれ育った彼女にとって、そこは守りたいと願う場所であり、帰る家だ。
自分のイズチがそうであるように、失いたくない、失ってはならない居場所だ。
「けど…」
渋る少女の肩に、もうひとりの人物が無骨な手を乗せる。目線だけで彼女を宥める彼の姿は、上司と部下というよりも親子のような親しさを感じた。
「アリーシャ殿下の事は、俺達みんなが濡れ衣だってわかってる。これからレディレイクに行って直談判してみるさ」
真摯な眼差しで語るエギーユは、マーリンドの住人も皆同じ気持ちだと言い添えた。
「評議会(ひょうぎかい)も流石にこれだけの民の声を黙殺はできないだろうって、ネイフトのおじいちゃんも言ってた」
「そうか…ネイフト殿が…」
少女を介して伝えられた老人の言葉に、アリーシャが少しだけ瞳を潤ませて、感じ入るように胸に手を当てて微笑した。
ランドンの、大臣たちの言葉ではなく、スレイ達とともにマーリンドを奔走した自分という存在を見て、信じてくれる人達がいる。
それだけで重く苦しかったものが、溶かされて軽くなっていくように思えた。
「…ねぇ、本当に行くの?」
スレイ達の返答に納得がいかないのか、少女は念を押すように問い掛ける。彼らを推し量るような、鈍く輝く深い青の双眸。マーリンドで出会った時の瞳と同じ眼差しだった。
二人は、その眼差しを正面から受け止めて、力強く頷く。
彼らをじっと見つめていた少女は、数秒の沈黙の後、諦めたように溜め息を吐く。
「これ、餞別」
カリカリと赤髪を掻きながらぽんと投げられた物を受け取り、スレイは目をしばたかせる。
「ホーリィボトル?」
「そ。旅商人の必需品。戦場行って、暴走した獣に襲われて怪我しましたーなんて、笑えないっしょ?」
おどけたように肩を竦める少女はそう言って、真剣味を帯びた顔でスレイ達に強気な笑みを見せた。
「セキレイの羽自慢の商品!宣伝効果の報告、待ってるからさ」
「…わかった。じゃあ、今度会った時に伝えるよ」
「ありがたく使わせてもらう。ありがとう」
「おう!」
元気よく片腕を上げて笑う少女に、スレイとアリーシャも自然と口の端が上がった。
お二人ともご無事で。心配と励ましの込められたエギーユの言葉に見送られ、スレイ達はグリフレット川を後にした。
向かうは、戦場。グレイブガント盆地だ。
「あ、あとこれもあげる。マーボーカレーまん!」
「マーボー…カレーまん?初めて聞くなぁ」
「そりゃね。あたしが考えたオリジナルメニューだし。まだ試作品だけど」
「何というか…その…斬新な料理だな…」
「あはは!腹が減っては戦ができぬってね。騙されたと思って食べてみなって!」
「導師殿とアリーシャ殿下のお墨付きがあれば、いい宣伝になるしな」
「流石商人…ちゃっかりしてるな」
「ちゃっかりついでに私たちもいただきましょう」
「スレイ、これだけじゃ足りないって言いなさい」
「無茶を言わせるな!」
?
◇ 三 ◆
―戦場 グレイブガント盆地―
一歩。踏み出せばそこは、別世界だった。
目の前に広がる喧騒(けんそう)。交じり混じり合う青と赤。
金属音を鳴らしあう刃も、轟(とどろ)くような絶叫も、地を揺らす鎧の足も、鉄臭く焦げ付いたような臭気も。
そこに存在する何もかもが響き、うねり、捻じれあうように混ざりあって、異質で歪な世界をつくりあげていた。
これが、戦争…。思わず零れた少女の掠れ声が、耳に入ってきた。
これが、と、自分も上の空で同じ台詞を呟く。漏れ出た声まで彼女と同様、震え乾いたものだった。
矢が飛び、剣が振るわれ、槍が突き出され、怒号(どごう)が飛び、悲鳴が響き、断末魔(だんまつま)が次々と上がる。
人が、人を殺す。人が、人に殺される。
―――間違ってる。
何かはわからない。だが、何かが間違っている。強くそう思った。
――――――けれど。
間違っていると、思っていた何かすら、間違っていたのだと思い知った。
◇ ◆ ◇ ◆
赤と青の鎧が、荒野一帯を覆う。
大地を震わせるほどの雄叫びと足音を合図に、ハイランド王国とローランス帝国の戦争は開始した。
迫りくるローランス兵を退きながら、スレイ達はグレイブガント盆地を駆け抜けていた。
「この風景だけは、昔も今も変わりませんわね…」
兵士たちに不審がられないようにスレイとアリーシャを援護していたライラは、悲しげな声音でぽつりと零した。
彼女の言葉にミクリオも険しい表情で、人が人でなくなるみたいだ、とぼやく。
「事実そうよ。英雄とか豪傑(ごうけつ)とか呼ばれた連中って、大抵は憑魔(ひょうま)なんだから」
「そうだったのですか?!」
表情の見えない顔で何気なくそう呟いたエドナに、アリーシャは目を白黒させて驚いた。英雄と憑魔なんて、相容れない対極のような存在だと思っていた。
「戦場ほど穢れを生み、人がそれを受け入れてしまう場所もありませんから」
ライラが言葉を紡いだ刹那、怒号とともに複数の兵士がスレイ達に迫ってきた。
間合いに踏み込まれる前にアリーシャが槍を振り上げ、衝撃波を飛ばした。彼女の放った魔(ま)神剣(じんけん)に動きを止めた兵士を、スレイが瞬迅(しゅんじん)剣(けん)で一気に間合いを詰め、儀礼(ぎれい)剣(けん)で叩きのめす。
スレイとアリーシャの攻撃に呻きながら倒れた兵士を一瞥して、ミクリオは遠方で武器を振り回す両軍の兵士たちを遠い目で見つめた。
その紫水晶の瞳には、人間”以外”のものも映っている。
「そんなところで名を残した者が英雄…か。憑魔だと言われれば納得だね」
商人の娘からもらったホーリィボトルの効果のおかげで近づいてこそ来ないが、兵士の中に紛れて憑魔がうろついている。いや、兵士の何人かが憑魔になったと言うべきか。
今まさに鬼気迫る表情で鍔迫(つばぜ)り合(あ)いを行っている兵士から湧くように浮かぶ、形のない黒紫(くろむらさき)の気体。それに周囲に漂っている不気味な黒い粒子。
天族(てんぞく)と導師(どうし)、そして憑魔にだけ視認できるそれを、『穢(けが)れ』という。
穢れは人間から生まれ、そして天族にとって毒となるものだ。
ミクリオ達は今、スレイという純粋な器に宿っているおかげでその穢れから護られている。従士契約をしていないアリーシャが平気なのは、おそらく魔を寄せ付けないホーリィボトルの効果だろう。
だが、人間を含め守る術もなく穢れの影響を強く受けた生物は、『憑魔』という異形の獣に変貌する。
異形の姿は天族と霊(れい)応力(のうりょく)の高い人間にしか見ることはできないが、憑魔になると徐々に理性が壊れ、負の感情に囚われ暴走していく。それを浄化できるのは、『浄化の力』を持った天族と輿入(こしい)れをした導師だけだ。
「……スレイ、下を見て」
上からの方が戦場を見渡せるだろうと崖の上を目指して登っている途中で、エドナがスレイのマントをくいと引っ張った。その小さな手に止められて、スレイは素直に崖下を見下ろす。
そして、そこで繰り広げられる光景に見知った人物を見つけて、目を見開いた。
「ルーカスたちだ!」
ざんばらな髪を一つに括った強面(こわもて)の男の名を、スレイは叫ぶ。彼を中心に、装備に統一感の見られない兵達が軽く倍を超える数のローランス兵に囲まれながら戦っていた。
「ランドン軍師(ぐんし)団長(だんちょう)…!あれほどの数を、彼らだけに任せたというのか!」
かろうじて隊形を保っているようなルーカス達を見下ろしながら、アリーシャは眉尻を吊り上げて憤(いきどお)りの声を上げた。
戦場に赴く前、テントで指示をだしていたランドンの姿がアリーシャの脳裏に浮かび上がる。
ランドンの指示により、木立(こだち)の傭兵団は奇襲(きしゅう)部隊(ぶたい)に配置されたと彼自身から聞いていた。
ランドンは、マルトランと同じく歴戦を潜り抜けてきた騎士だ。ローランス兵の数もその実力も、ある程度は把握していたはずだ。にもかかわらず、ルーカスらをあの場所に配置した。
騎士として未だ一般兵並みの知識しか持ち合わせていないアリーシャでさえ、その意図するところが嫌でもわかってしまった。
「スレイ、すぐに引き返して彼らに加勢を!」
このままでは彼らが危ない。アリーシャは怒りを滲ませながらスレイに声をかける。眉間にしわを寄せて険しい表情をするスレイは、ルーカス達を見つめたままうん、と頷く。
「でも、回り道してる時間はない」
「しかし、それ以外に道が――――」
「頼むぞ、みんな!『ルズローシヴ=レレイ』!」
「へ?わっ!」
アリーシャの言葉を遮るようにそう声を張り上げたかと思うと、何の前触れもなくスレイはアリーシャの膝裏と背中に腕を回して軽々と彼女を持ち上げる。
「ス、スレ―――」
「しっかり掴まってて!」
言うが早いか、アリーシャをしっかりと抱きかかえたまま、スレイはかなり高さのある崖から飛び降りた。
予想だにしていなかった彼の行動に、アリーシャは叫びそうになる口を必死に閉じて思わずスレイの首にしがみつく。
「なっ、何だ貴様らは!?」
「お前ら…!」
スレイは危なげなく着地して、アリーシャをそっと地面に降ろしてくれた。ほとんど衝撃もなかったことに胸をなでおろしながら、アリーシャは驚愕(きょうがく)とざわめきの渦中(かちゅう)で長槍を構える。
しかし、彼女の前にスレイが一歩出てきて、アリーシャと兵士たちを阻むように立ち塞がった。
「スレイ?」
「アリーシャ、ここはオレたちに任せて」
後姿しか見えない彼が、静かな声音でそう頼んできた。
「わ、かった…」
同時にピリッとした小さな痛みが頬を叩いて、アリーシャは気圧されるように一歩下がった。不意をついて敵が襲ってきても対処できるように、構えは解かない。
「何だこいつ…長剣一本で……」
不審げな視線を隠すことなく送ってくる兵士に、アリーシャは内心で違う、と否定する。
アリーシャにも見えないが、今のスレイはきっと、大きな弓を携えている。そしてそれは燃え盛る聖剣にも、巨大な岩の拳にもなる。
その力は、人と天族が心を通わせることで成せる、異能の力。
導師と契約した者達のみが使える、特別な能力。
並みの兵士が束になっても、その力に勝てはしないだろう。
それに、何より。
(スレイ…)
この全身に突き刺ささるような空気を、アリーシャは知っている。それはつい先程、グリフレット川でランドンとスレイが対峙したときのこと。
――――怒っている。
顔は見えない。けれど、確かに彼の背中は、静かで激しい怒りを放っていた。
退け、退け!と、悲鳴混じりの号令がかかり、赤い鎧の兵士達はクモの子を散らすように撤退していった。
己と敵対しようとする者がいなくなったことを確認して、スレイは神依(かむい)を解いて儀礼剣を鞘に納める。近くで腰を抜かしていた兵士も、視線を向けただけでひっと短い悲鳴を上げて逃げていった。
「ルーカス、大丈…夫…」
助けようした人物は無事か。確認しようと振り返って、スレイは言葉を失った。
自分たちに気さくに話しかけてくれていたルーカスが、息を呑んで固まっていた。その表情は硬く強張り、細長い瞳には、明らかに怯えた色を浮かべて。
あぁ、と。スレイはやっと理解した。
天族が見えない人にとって、導師の力はこのように映るのか。
「…アリーシャ、ルーカス達を、安全なところまで案内してくれないかな?」
「あ、ああ…承知した」
スレイはきゅ、と口を引き結んでから、無理矢理口角を上げて悲しそうに笑う。
「本当に、無事でよかった」
「あ、スレイ!」
そう言って、アリーシャの制止も聞かずに、その場から逃げるように踵を返した。
ルーカス達を囲んでいたローランス兵達を、スレイは天族の力を借り、圧倒的な力でねじ伏せていった。
殺さぬよう弓で射る霊力の塊を最弱にして放ち、襲い掛かる兵士たちの足元を隆起させて吹き飛ばし、射られた無数の矢を敢えて弾き返さずに、浄化の炎で燃やした。
その人数では太刀打ちできないのだと、為す術もないほどの脅威だと思い知らしめるように。
そうして、ようやく退却した兵士らの後に残されていたのは自分と、呆然と硬直していたルーカス達だった。
「スレイ、彼らもいつかわかってくれる」
意気消沈するスレイに、ミクリオが労わるように言葉を投げかける。ライラもそうですわ、と柔らかな声音で同意してくれた。
「ありがとう…気休めでも、今は嬉しい」
彼らの気遣いがじわりと痛む胸に広がって、スレイは泣きそうな顔で礼を言った。
しかし、何が不満だったのか、親友は容赦なく己の頭をはたいてきた。
「いった!何するんだよ、ミクリオ!」
「誰が気休めだなんて言った?君はもう、レディレイクやグリフレット川でのことを忘れたのか?」
むっとした表情で問い掛けられた言葉に、スレイははっと目を見開いた。
「そっ、か…そうだな…」
レディレイクでライラと出会い、多くの人々の前で導師となって浄化の力を振るったとき。グリフレット川で、神依の力をネイフトに目撃されたとき。
今と状況が異なるが、導師の力を受け入れ、激励をしてくれる人達もいる。自分の言葉を信じてくれた人間がいる。
己の力に怯える者達を目の当たりにして、そのことをすっかり忘れかけてしまった。
「それに、アリーシャさんのことも」
「アリーシャはスレイが導師になってからも、君に対する態度を変えたことはなかっただろ?」
「……うん」
そうだ。アリーシャは、怖がることなく自分と一緒にいてくれている。
そういう人がいてくれる。それだけで可能性はゼロじゃないんだと思えて、つい目頭が熱くなった。
「…泣いてもいいけど?」
傘をたたんだエドナが、そっと覗き込むようにスレイを見た。
丸い大きな空色の双眸に彼女なりの気遣いを感じて、けれどスレイはごしごしと目元を乱暴に拭って首を振った。
「ううん。まだ、終わってないから」
ランドンが掲示した条件は、この戦争でハイランド軍の勝利をもたらすことだ。一部の兵を退けるだけでは、きっとランドンは頷かない。
「…皆、あともう少しだけ、頼む」
スレイは痛みに耐えるように眉間にしわを寄せて、ぐっと唇を引き結んだ。
◇ ◆ ◇ ◆
遠くから、空を裂くような轟音(ごうおん)と絶叫が耳に届く。アリーシャは背後の戦場を振り返るが、すぐに前方の光景へと視線を戻す。憂いを帯びた表情をキッと引き締めて、連なり立つ青い天幕のひとつに向かう。
「ここまでくれば安全です。傷の手当ては、そちらの天幕へ」
「あぁ…」
怪我を負った仲間に肩を貸すルーカス達を、自身も負傷兵を支えながら救護室へ案内する。苦し気に呼吸をする傭兵を横たえ、衛生兵に彼らのことを任せる。
「悪いな。助かった」
「いえ…こちらこそ、あなた方には大変な無礼をはたらいてしまいました」
申し訳ありません、とハイランドの騎士服に身を包んだ少女はルーカスに深く詫びる。
ランドンの独断とはいえ、ルーカス達を捨て駒のように扱ってしまった。彼の行いは、同時にハイランド軍の行いでもある。
しかし、ルーカスは頭を下げるアリーシャに苦笑して気にするな、とひらひらと片手を振った。
「俺達は傭兵団だからよ。こういう扱いには慣れてる」
そう、どこか諦めの滲んだ声に、アリーシャは思わず顔を上げる。
大人しく衛生兵に手当てをされている彼を見て、アリーシャは端麗な面差しをくしゃりと歪める。
「慣れている、なんて……あなた方は、それでいいのですか?」
それは、自分達を軽く見られているのと同じことではないのか。
憤りの滲んだ声音で、少女は問い掛ける。その真っ直ぐな眼差しを受け止めて、なおもルーカスは笑った。
「確かに頭にはくるさ。だが、俺達だって伊達に数々の戦場を生き抜いてきた訳じゃない。今回だって覚悟の上だったさ」
「覚悟…」
「それくらいの気概(きがい)でなきゃ、傭兵団なんつー生業(なりわい)なんてできねぇよ」
だから、あんたが気にする必要はない。
暗にそう言われた気がして、アリーシャはぐっと唇を噛む。
それでも、雇った兵士だから、自国の民ではないからと、そんな線引きで取捨選択をすることが、そしてその考え方が常識として浸透していることが漠然と許せない。
何より、そういった場を作ってしまった、わが国に。
「…報酬は後ほど、必ずお渡しします」
「お、おい、どこに行く気だ?」
「スレイの許へ向かいます。まだ、戦争は終わっていませんから」
もう一度、深々と礼をして、アリーシャは踵を返す。未だ地響きが断続的に続いている。
おそらくスレイはまだ、戦場の渦中で戦っているのだろう。
「ちょっと待て!なぁ、あんたは怖くないのか?」
ピタリと、彼の言葉に止めるつもりのなかった足が止まる。
ルーカスが怖いと思ったのが誰のことか、名を呼ばなくてもわかった。
だから、アリーシャは前を向いたままはっきりとに答える。
「怖くはありません」
「何故だ?あんな力……人間じゃねぇって、思うだろ?」
ルーカスの口調からはおどけた雰囲気が消え失せ、代わりに怯えたように声音が震えていた。
臆することもなく戦争に参加すると啖呵(たんか)を切った、何物にも物怖じしそうにない彼が。
それは驚きというよりも、悲しみの方が強かった。
「スレイはひとりで戦っているのではありません。天族の方々がスレイに…導師に力を貸しているのです」
「天族…って、教会の奴らが祀ってる?そんなお伽(とぎ)噺(ばなし)の存在が、本当にいるっていうのか?」
信じられないとでも言いたげな声に、また胸が締め付けられるように痛む。
「はい。私たちには見えなくとも、天族は存在します。人と同じように、どこにだって」
化け物、と。恐慌(きょうこう)状態でそう叫んだ兵士らの声が、こびりついてしまったかように耳に残っている。
現実はこれほどまでに、導師に厳しい。
「確かにあの超常的な力は、見る度に圧倒されます。自分にはできないようなことを、簡単にやってのけてしまうスレイを、時々遠い存在のように感じることもあります。……ですが、」
けれど、アリーシャは知っている。
スレイが人のために力を貸していることを、天族のために心を砕いていることを。
「それでも怖くはないのは……きっと、導師が彼だからなのだと思います」
導師がスレイだから。自分は彼の優しさを、その純粋さと人の良さを知っているから。
「どれほど人間離れした力を持っていたとしても、スレイだったら怖くはない」
胸の前で白いグローブに包まれた手の平を握り、淡く微笑む。
胸の内にある、スレイの言葉や行動は、ただひたすら心地の良い思い出として刻まれている。
そう思わせてくれるひとだ。彼という導師は。
戦場に向けていた身体を、アリーシャはくるりと反転する。正面から向き合うルーカスは、唖然とした顔でアリーシャを凝視していた。
ルーカス殿、と凛とした声で木立の傭兵団の団長に声を掛ける。
「私ははじめ、貴方の人柄を疑ってしまいました。人の命と金を天秤(てんびん)にかけるような人物なのかと……けれどスレイは、最初から貴方の本質を見抜いていました」
ルーカスの傭兵団に対する誇りや絆、マーリンドが戦火に巻き込まれると知って憤った人情の厚さ。
スレイは初対面でそんな彼のことを理解し、そして信用した。今になって思えば、その信頼は同じ街を護りたいという、共通の思いを感じ取ったからなのではないかと思う。
その想いに、違いなどないはずだ。
「ですからルーカス殿も、目に見える力に惑わされず、スレイ自身を見ていていただきたい」
そう一方的に伝えて、ルーカスの返事を待たずにアリーシャは戦場へと駆け出した。
今ではなくとも、どれほど時間がかかってもいい。
導師ではなく、『導師スレイ』がどんな人物なのかを知ってほしい。
知ればきっと、わかってくれるだろうから。
今抱いている恐怖心なんて、陽光に照らされた氷のように、とけてしまうのだと。
◇ ◆ ◇ ◆
「…終わったわね」
悲鳴を上げて逃げ去っていくローランス兵を無表情で眺めながら、エドナは静かに呟いた。
神依化を解き、金の長髪と紅の双眸からいつもの焦げ茶の短髪と深緑の眼に戻ったスレイは、疲れたような顔をして首肯する。
「あとは、ここに生まれてしまった憑魔を鎮めないと」
「スレイさん…」
頬を掠めた刃物の傷口を手の甲で拭いながら歩き出すスレイを、ライラが悲しげに見つめる。
兵士達の悲鳴が、罵声が、どれほど彼の優しい心を傷付けたことだろう。にも関わらず、まだ導師になったばかりの少年は弱音も泣き言も吐き出さない。
きゅ、と口を閉じて、ライラは祈るように胸の前で両手を組む。静かすぎることが、逆に不安で仕方ない。
「…ま、今回はとことん付き合ってあげるよ」
スレイのことをじっと見つめていたミクリオは、呆れたようなため息をひとつついてから、彼の肩に手を置いて苦笑交じりにそう告げた。気分がまったく晴れないのは、自分も一緒だった。
「…ありがとう。ミクリオ」
友の心遣いに、スレイは眉尻を下げたまま笑った。彼はいつだって、自分の意図を正確に汲み取ってくれからありがたい。
自身の起こした砂煙がようやく収まった頃に、一度深く深呼吸をする。少しだけ気持ちが切り替わり、よし、と気を引き締めた。
――――その、刹那。
「う、っぐ!」
突然、空が禍々(まがまが)しい紫色に変わったかと思うと、一気に内臓が締め付けられるような苦痛がスレイ達を襲った。
「この領域…今まで感じたどれよりも…」
あまりの息苦しさに、胸を押さえて膝から崩れ落ちるスレイの耳に、怯えたようなエドナの声が届く。
スレイと同じように膝をついたミクリオが、冷や汗をたらして冗談じゃない、と苦し気に言い放つ。
「これは…穢れ、なのか…?」
いまだかつてないほどの圧迫感に、スレイは途切れがちに疑問を口にする。身動きが取れないほどの穢れなど、今まで感じたことはなかった。霊峰(れいほう)レイフォルクでドラゴン化したエドナの兄、アイゼンが織りなした穢れの領域よりも、ずっと強い。
「この程の穢れ……まさか!」
呆然と空を見上げていたライラは、ふいに何か思い至った様子で緑玉の瞳をこぼれんばかりに見開いた。その整った横顔は、驚愕と恐怖に彩られている。
良くないことが起こっていると、そのことだけは理解できた。
「スレイっ?!」
ともすれば飛びそうになる意識の中、聞き慣れた凛とした声が耳に飛び込んできて、スレイは目を剥いた。
「アリーシャ…?!」
歪みはじめた視界を上に向けると、そこには先ほど別れたはずの少女の姿があった。
ここにいたら危険だと叫びかけて、彼女が特に苦しんでいる様子がないことに気付いて目をしばたかせる。何故、アリーシャはこれほどの穢れの領域の中にいて平気なのか。
「大丈夫か?!どこか怪我を…」
「大、丈夫。これは、穢れが…」
心配させまいと立ち上がろうとして、よろめく。それを見たアリーシャは慌てて彼の傍に駆け寄り、腕を自身の肩に回してスレイを支えた。途端、スレイは呼吸が楽になるのを感じて目を丸くした。
「なんで…」
「どうした?」
「あ、いや…アリーシャこそ、平気なの?」
間近で揺れる色素の薄い髪から彼女の顔に視線を移して、問い掛ける。アリーシャの顔色は、やはり調子が悪いようには見えない。心なしか、寧ろ全身が薄く輝いているように……。
(…あ、そっか)
そこまで考えて、気付いた。戦地に赴く前、セキレイの羽の少女からもらったホーリィボトルを、アリーシャに使ってもらったのだ。
もしかしたらその効力のおかげで、アリーシャはこの穢れの領域内でも動くことができているのかもしれない。
「私は大丈夫だ。だが…」
言って、苦しそうな表情で瞼を半分ほど伏せた。
「兵士達が、敵味方関係なく戦いはじめて…」
「何だって…?!」
遅れて立ち上がったミクリオが、驚愕の声を上げる。スレイも驚きのあまり言葉を失った。
一体何が起こっているというのだろうか。
「っ、スレイさん、気を付けて!」
突如、ライラの叫び声が空を裂き、スレイは反射的にアリーシャを背中でかばうように前に立った。
「スレイ?!いきなり、どうしたんだ?」
「ライラが、気を付けろって…」
注意深く辺りを見回し、スレイは息をひそめた。ミクリオとエドナがスレイ達を囲むように身を寄せ、周囲を警戒した。
穢れがじわじわと身体を蝕むなか、努めて呼吸を整えながら耳を澄ます。
やや離れたところから聞こえる怒号と絶叫、武器同士がぶつかり合う音。その合間に、とても人が発したとは思えないようなおぞましい声も届いた。
スレイは険しい表情をさらに苦しげに歪ませる。人の恨みや絶望が、憑魔を生んでいる。
「……何なの、あれ…」
ふいに、小さな手がスレイの服の裾を掴み、震える声でぽつりと言葉を落とした。
いつもは何事にもあまり動じないはずのエドナの怯えように、スレイは恐る恐る彼女の目線を追っていく。
そして、視線の先に、ひとつの影があった。
「…新たな導師が現れていたとはな」
「やはり貴方は、災禍(さいか)の顕(けん)主(しゅ)…!」
「こいつが…」
余裕のないライラの声が放ったその名に、スレイは獅子の憑魔を凝視する。
はじめに目についたのは、金色のたてがみだった。薄暗い空間に光り輝く剛毛に、獅子の顔。勇ましい体躯にコートのような黒い衣を纏い、手足には黒水晶に似た鋭い爪が闇に溶け込んでいた。
まるでこの戦場に君臨した、王のようだ。激しい目眩に襲われながら、スレイは本能的にそう感じた。
「―――っ!ミクリオ、エドナ!アリーシャを頼む!」
「スレイ!?おいよせ!」
その暴力的なほど圧倒的な力に呑まれそうになって、スレイは勢いよく首を振りライラの名を叫んだ。
「『フォエス=メイマ』!」
彼女の真名を叫び、神依化したスレイを、災禍の顕主はほぅ、と感心した素振りで少年を見た。
「うおおおおっ!」
自らを奮い立たせるように雄叫びを上げて、身の丈以上ある聖剣を憑魔に向けて振り下ろす。
しかし、災禍の顕主はいともたやすく大剣を受け止め、骨のような白い顔をにやりと歪めた。
「目映(まばゆ)いばかりで無垢よな。お前は誰よりも良い色に染まりそうだ」
地を這うような低い声が楽しそうにそう呟いて、造作もなくスレイ達を投げ飛ばした。
『きゃああっ!』
頭の中で聞こえるライラの悲鳴と共に、スレイはライラの力が自分の中から消えていくのを感じた。地面についた顔で辺りを見回せば、すぐ近くで横たわるライラの姿があった。神依化が強制的に解除されたのだ。
「スレイっ!」
「アリーシャ、ダメだ!」
「バカね!今のこの子にはワタシたちの声が聞こえないのよ!力ずくで止めなさい!」
スレイの許に駆け寄ろうとするアリーシャを、エドナは地の天(てん)響術(きょうじゅつ)を放って行く手を遮る。突然隆起した地面に足を止めた隙に、ミクリオが彼女の腕を掴んで引き止めた。
「っ!?エドナ様とミクリオ様ですか…?!行かせてください!スレイが!」
「落ち着いて!あいつは、君が勝てる相手じゃ――――」
ない。聞こえないにも関わらず宥めようと話しかけた声は、ふいに轟いた獅子の咆哮によってかき消された。
刹那、さらに強さを増した穢れの領域に、ミクリオは目の前がひしゃげた。
身体の奥から、すべての力を根こそぎ奪い取られているかのようだ。
「スレイっ!」
「しまっ…アリーシャ…!」
その力が緩んだ一瞬をついて、ミクリオの拘束を解いたアリーシャが駆け出していった。
「スレイ!大丈夫か、スレイ!」
「ぐっ…うぁ…!」
内臓をかき回されるかのような感覚に、スレイは思わず胃からせりあがってくるものを吐き出した。すぐ傍で息を呑む音が聞こえ、次いで労わるように背中をさする手の平を感じて、少しだけ冷静さを取り戻す。
嘔吐の波が去ってようやく顔を上げると、そこには先ほどまで君臨していた獅子の男の姿がなかった。
見失ったと慌てて辺りを見回すが、どこを見ても災禍の顕主はいない。
一体どこに、と考えはじめたとき、何処からともなくあの声が響いてきた。
―――我が名はヘルダルフ。若き導師よ…生き延びて見せられるか?
その言葉と低い笑い声を最後に、ヘルダルフと名乗った憑魔は完全に気配を消した。
「一体、何なんだ…」
スレイは立ち上がり、呆然と空を見上げる。災禍の顕主がいなくなったことで押し潰されそうなほどの穢れは消えたが、未だ空は穢れの影響で薄暗い。
「ごめん、アリーシャ。心配かけて」
「いや、それはかまわないが…もう平気なのか?」
「うん、大丈夫。ミクリオ達も、ごめ……ん」
アリーシャを安心させるように笑いかけて、それからミクリオ達にも詫びようと振り向いて、スレイは固まった。
「…ミクリオ?」
ミクリオ達の姿が、ない。返事も、気配も。
「おいライラ!エドナ!」
心配そうにスレイを見つめるアリーシャの傍らで、スレイは焦燥感に駆られて彼女らの名を叫ぶ。
いない。ミクリオもエドナも、先ほどの災禍の顕主の攻撃で怪我をしていたライラも。
まさか、とスレイはざっと血の気が引いた。まさか皆、災禍の顕主に捕らわれてしまったのでは。
じわじわと這(は)い上(あ)がってくる絶望に身を震わせるなか、ざり、と地を踏む足音が聞こえてきて、スレイはぱっと顔を輝かせる。
「ミクリオ?」
「スレイ、危ない!」
親友かと思って振り向いた先には、無言で剣を振り上げる鎧の兵士がいた。
完全に隙だらけだったスレイに剣が振り下ろされる寸前のところで、アリーシャ間に割り込んでその剣を受け止めた。
「…っ何だ、この力は…!」
人間とは思えないその重い一振りに、アリーシャはきつく歯を食いしばる。本当に人間の力なのだろうか。
「こいつら…いつの間に…」
思わず後退さると、踵(かかと)に妙な浮遊感を感じて振り返って目を瞠った。いつの間にこんな崖まで追いやられていたのだろう。しかし、それが隙となった。
ヒュ、と空気を切る音がして反射的に視線を元に戻せば、一人のハイランド兵がスレイに飛び掛かってきていた。
咄嗟に儀礼剣を前に出して受け止めるが、その力は導師の力を得た自分でさえ化け物じみていた。
「『フォエス=メイマ』!」
僅かな希望に縋って、スレイはライラの真名を叫ぶ。もしスレイの領域内にいるのなら、神依化できるのではないか。
しかし、その思いは虚しく空を切る。
「……っ、『フォエス=メイマ』!」
何度呼んでも、ライラはスレイの声に応えてくれない。
そうしている間にも、周囲の兵士がスレイとアリーシャを追い詰めるように近づいてくる。
「ぐっ…!」
兵士との刃の競り合いに、とうとうスレイは膝をつく。もう腕は痺れて、ほとんど力が残っていない。
スレイ!とアリーシャが自身の名を叫ぶ。その声も、兵士らと対峙する姿も遠くに感じる。
そうだ、せめて彼女だけでも、ここから逃がさなければ。
「アリーシャ、逃げ…っ…」
意識が朦朧(もうろう)としかけながらも、何とか渾身の力を振り絞って立ち上がろうとする。
再び力が拮抗しはじめた、その瞬間。
「……、え…?」
ふいに上からのしかかる圧力が消えた。恐る恐る見上げて、スレイは息を呑む。
そこには、先程まで己を襲っていた兵士の首に、一振りのナイフが突き刺さる光景があった。
ハイランド兵の肩に乗って、鎧の隙間を縫ってナイフを突き刺していた黒ずくめの人物は、身軽に跳躍して兵から離れる。首から血飛沫を上げて事切れた兵士を、スレイはぼやける視界で見つめる。
それと同時に、緊張の糸が切れたのか、意識がこの場から遠のいていくのを感じた。
―――まったく!何で!
気を失う直前、そんなひどく憤ったような、どこか困惑した声が聞こえた気がした。