もしもの物語-17-



空が紫色に染まっている。もう幾年、この空を見続けているだろうか。
ふと思考を巡らせて、鼻を鳴らす。考えても詮無い事だ。
アイフリードの狩り場。潮風にさらされながらも緑を失わない、海に面した崖道。
約千年前、その名の持つ伝説の海賊が大陸中を荒らし回った。その海賊が由来だといわれている。
嘘か真か。それは当時を生き抜いた者たちのみが知っていることだろう。
どちらにしても、己には関係のないことだ。

「―――以上が、事の顛末になります」
崖下から響く波の音の合間に織り込まれていた幼い声音が、その言葉を最後に止まった。
雄大な海にひたすらに目を向けていた獅子の憑魔は、真一文字に引き結ばれていた口をようやく開く。
「その風の天族の無力化は、いつまで期待できる?」
温度の感じない低音に、背後から再び少女の声が返ってきた。
「は…少なくとも、欠けた月が再び満ちるまでは」
「ひと月ほどか……あの狐はどうした?」
「それが…勝手に姿をくらまし、その後の消息も未だ掴めておらず……申し訳ありません」
「ふん…まぁいい。所詮は偶然拾った駒に過ぎん」、
導師の仲間達、赤髪の少女と風の天族の男に因縁があるというから利用した。結果は成功とはいえないが、導師の陪神の一人を戦線離脱させることができた。
相手もこちらを利用するつもりで配下に加わったのだろう。いや、配下にすらなった覚えはないと嘲笑いそうな男だ。惜しいとすら思わない。
冷徹な声でそう言い捨て、海から目を背けて振り返る。その先には、紫紺の少女が恭しく跪いていた。
「サイモン」
己の呼びかけに、はっ、と高い声が返答する。
その声に一瞬、別の景色がちらついた。
「…………」
鎧を纏い、武器を携えた騎士達。皆一様に、乱れなく整列して敬礼する赤服の騎士団。
勝者を迎える凱旋門。奥にそびえる巨大な城。赤の翼を旗に掲げ、人々の歓声を背に、金色の畑を勇ましく行く。
しかしその幻影はすぐに消え去り、目の前には己に忠誠を捧げる天族の娘がひとり。
よもや救いを求める弱者の迷信だとばかり思っていた存在が、今こうして我が配下となっていることを誰が想像しただろうか。
「ヘルダルフ様…?如何なさいましたか?」
「……いや、これを」
気遣わし気な表情でこちらを見上げるサイモンに首を振り、傍らの岩の陰からそれを放り投げた。
鈍い音を立てて目の前で呻くそれを、少女は目をしばたいて見つめる。
「この者は…」
「そこそこ力があった。お前たちの言う、高位天族とやらだろう」
これも偶然見つけたものだ。女の方はこの男に逃がされたが、些末なことだ。
なかなかに強い奇術を使った。何より我が領域にいながら、未だ天族の姿を保っている。
「……!?お前、は…!」
薄く目を開けた天族が、サイモンを捉えて瞠目した。
「拘束して戦場に縫い付けておけ。いい餌になるはずだ」
「御意のままに」
「何故、災禍の顕主などに……っ」
男は這いつくばりながら眼光を鋭くする。その視線を浴びながらも、少女はひどく冷めた表情で彼を見下ろした。
「このエゴだらけの世界に、嫌気がさしたからさ」
倒れ伏した男を一瞥したサイモンは、ヘルダルフに向かって丁寧な礼をするとその天族の男と共に消え去った。
「あとは、火蓋を切るのみか」
穢れの坩堝と化す戦場に霊力の高い天族を放り込めば、人を憑魔化させるよりもより大きな災いとなる。
不吉の象徴、そして恐怖の対象と今なお人々の恐れを抱かせる絶対的な存在―――ドラゴンという、実体化した災厄となって戦場を瞬く間に死地に追いやるだろう。
そして、現れるはずだ。戦争を、その災いを止めるために。
「さぁ、どう出る?」
災厄の時代を終わらせるため、災禍の顕主である己を鎮めるために各地を巡る、まだ未熟さの残る導師の少年が。
―――見せてみろ。あれから、どれほど力をつけたのか
「ドラゴン程度は倒せねば、話にならぬからな」
そう独りごちて、生えそろった犬歯を剥き出しにして嗤った。

人は、生きていくうえで穢れを生む。それは必然で、感情を持つ人間にとっては当然のことだ。
だが、人はそれを忌み嫌う。天族は毒だと避ける。
人は醜いものだと恐れ、救いを求める。天族は救いの祈りを糧として、穢れを祓う。
歪であろう、穢れに抗えば苦しむ世の理は。
ふざけているだろう、我らが生きる世界は。

だから、導師よ。
貴様も早く、その歪みに気付けばいい。
狂った世に必要なのは、破滅なのだと。


◆   ◆   ◆


人ひとり分の穴を掘って、掘り返した土をまた戻す。栄養の少ない硬い土を、今度は自分の手だけで。
壁にも見える石造りの塔から崩れ落ちた角石を広い、盛った土の上に乗せた。
「叱られちゃいそうだけど、これしかなかったから…ごめん、メーヴィン」
彼が愛用していたキセルを地面に刺して、その石に立てかける。
名は刻まない。一か所に留まっていられる人ではないから。
「…笑って、許してくれるよ。おじさんなら」
「……うん」
簡単に想像できる。一言二言文句を言われて、けれど仕方ない奴だなと白いひげを撫でながら笑ってくれる。
今の時代には珍しい探検家。天遺見聞録を背に、遺跡と街を渡り歩いていた旅人。
唯一彼を縛っていたものがあるとするなら、彼自身に流れる血筋だった。
――――『刻遺の語り部』。看取るもの(メーヴィン)の名を受け継ぐ一族。
ライラと同じように、メーヴィンも己に誓約をかけて生きていた者だった。長い時を孤高に、歴史を刻む世界を語り継ぐために生きていた。
「…………」
その誓約を、自分は破らせてしまった。禁忌である歴史に干渉させ、そして―――。
『後悔するために、そいつを死なせたのか?』
ふいに頭に直接声がかかった。スレイは弾かれるように顔を上げ、すぐに大きく首を振る。
『だったら立ち止まるな。進むって決めたんだろう』
「デゼル…」
『やりたいことがあるんだろうが。いつまでもくよくよしてると―――』
「俺の鎖で締め上げるぞ!」
『っ?!』
「だったよね、確か」
『……チッ』
絶句したデゼルがあからさまに舌打ちをする。デゼルの言葉を遮りそう言ったロゼは、にやっと意地悪く笑っていた。
「ま、あたしもデゼルに賛成だよ。うだうだしてたら、それこそおじさんに怒られちゃうしね」
まだ少し赤い目で茶化すように言ったロゼに、スレイは目を細める。
「…ありがとう、二人とも」
礼を言うと元気な声と無言の応答が返ってきた。
もう一度メーヴィンの眠る場所を見て、今度はしっかりと笑った。

ヘルダルフを捜しにグレイブガント盆地まで行ったとき、一人の女性に出会ったのが事のはじまりだった。彼女は雲の模様が描かれた服を身に纏い、必死の形相で盆地を彷徨っていたのだ。
手掛かりを探しにやってきたスレイ達と目があい、己のことが見えるとわかった瞬間、天族の女性は助けを求めてきた。
『ああ…あの人が……さらわれてしまったの!獅子の顔をした憑魔にっ!』
何か知っていたら教えてほしいと、ひどく取り乱した彼女の話を聞く限り、その憑魔は間違いなく災禍の顕主のようだった。どうやら地の試練神殿・モルゴースがあるアイフリードの狩り場にいたそうだ。
手掛かりは見つけたが、既に狩り場から離れているだろうという意見に落ち着き、再び手詰まってしまった。
また後手後手に回っていることに煮え切らない思いを味わい、そこでふと疑問が湧いてきたのだ。
ヘルダルフの目的は何なのか。それがわからないから、彼の行動が読めないのではないか。
―――知りたい。いや、知らなきゃ、ヘルダルフのこと
それを正直に皆に伝えた。そうしたら、主神であるライラが意を決した様子でこういったのだ。
『―――メーヴィンさんを捜しましょう』
理由は言わず、ただそれだけを。だが、彼女の覚悟を決めた表情に、スレイ達は皆頷いた。
そして塔の街・ローグリンでメーヴィンを見つけ、その結果が今、目の前の状況だ。

―――ありがとう、メーヴィン。おかげでオレたちは前に進める
知りたいと思っていた。もしかしたら、ずっと胸のうちで燻っていたものがようやく形になって浮かんできたのかもしれない。
なぜ今、世界がこんなことになっているのか。
そのはじまりはなんだったのか。
どうしてヘルダルフは、災禍の顕主になってしまったのか。
その疑問を、メーヴィンは教えてくれた。そしてスレイの出した答えを叶えるための覚悟を、示してくれた。
文字通り、まさしく命をかけて。
「……よし、行こう」
振り返り、仲間に力強く声をかけた。それぞれ応じる声を頼もしく感じながら、心の中でもよしと気合を入れた。


◆   ◆   ◆


ガラガラと砂を巻き上げて車輪が回る。ずっと床が揺れている状態が不思議な心地だと思いながら、スレイは馬と背丈のある男の向こうに見える風景を何となしに眺めていた。
「馬車だとこんなに速いものなんだな」
向かいから聞こえてきた声に視線を向ける。ミクリオは感心したように荷台から顔を覗かせていた。
「そりゃ歩くよりかはね。もしかして乗るのはじめて?」
「私は何度かありますわ」
「俺様もそうだな。意外と荷台の上が昼寝に最適なもんでな」
「そもそもここまで遠出しないわ。ダルいし」
「へぇー、二人はともかくライラは何か意外かも」
三者三様の返答に、ロゼは興味深そうに相槌を打った。
スレイは再び視線を戻す。馬を操る男は、相変わらず前方を向いて馬を走らせていた。
普段人前で天族と会話する場合は小声か、もしくは極力控えている。だが、今手綱を握る男はセキレイの羽の、そして風の骨の団員であるエギーユだ。事情を知っているから、気を遣わずに話すことができた。
彼はザフゴット原野を暴れまわる巨大な象のおかげで足止めをくらっていたらしい。それがようやく治まったと聞き、ローグリンまで商品を卸しにきたのだという。
その時に偶然鉢合わせて、渡りに船をばかりに乗せてもらったのだ。
「僕たちははじめてだな。なぁ、スレイ」
「ん、ああ…うん、そうだな」
「何だ、ぼーっとして」
流れるように過ぎていく原野を眺めながら生返事をすると、不満げなミクリオの声が飛んできた。顔を向ければ、しかめっ面の親友の顔。
「別にぼーっとなんか……」
「まぁまぁよしてやれよミク坊。導師殿は愛しのアリーシャ姫に会いたくて会いたくて仕方ないんだって」
スレイの反論が終わる前に、にやにやと片頬を上げてザビーダが横やりを入れてきた。
その言葉に周りの空気が変わった。不思議に思いながらも、スレイ自身も固まって動けなくなった。
――今、ザビーダは何と言った。
当の発言者本人は気付かないまま、やれやれと肩を竦めて話を続けている。
「刻遺の捜しに瞳石探し。思ったより随分とかかっちまったからな。あんな別れ方だったし、何してるか気になってしょうがないんだろ?いやぁいいねぇ。青い春と書いて青春とはよく言ったもん―――」
ぺらぺらと流暢に話す男の声が唐突に途切れた。代わりに鈍い音と奇妙な呻き、そして車輪のものとはあきららかに別の振動が馬車を揺らした。
「何をさらっと言ってくれてるんだザビーダ!」
「ザビーダさん!少しは空気を読んでください!」
長杖が大柄な男の背を押さえつけ、紙葉が褐色の肌に張り付く。整った顔をした少年と女性が柳眉を釣り上げて怒っていた。
「いてててて…何だっつーんだ…!ちょっとからかっただけじゃねーがっ!!エ、エドナちゃんそれマジでいてぇって!脇腹に刺さってる!傘が超刺さってる!!」
「当たり前でしょ。貫通させる気でやってるんだから」
「いやそんなことしたらいくら俺でも死んじゃうってぇぇ!」
傘の先を捻じ込むように突き刺しながら、エドナが冷たく見下ろす。その恐ろしい気配を感じ取ったのか、馬が怯えたようにいなないた。
「おぉっと…おいおい、馬車の中であまり暴れてくれるなよ」
「ごめん、エギーユ。ちょっとバカがいて。あーもう、自分で自覚するまで言わないようにしてたのに」
「は?あいっで!つつ…おいおい、そりゃ過保護すぎるっつーか―――」
「ちょっちょっと待って!」
ようやく硬直が解けたスレイが慌てて両手を振る。何故か汗がだらだらと流れて止まらない。
「愛しのって……アリーシャは大切な友達だよ」
胡坐をかいた膝の上で拳を握りながらそう訂正した。
確かにレディレイクに戻ると言って、切迫した顔でハイランドへと向かった彼女のことが心配だ。できるだけ思い出さないようにしていただけで、ずっとどうしているか気になっていた。
けど、それは仲間だから当然で。友達だから、離れていると不安なだけで。
そこでスレイは自分で自分に違和感を覚える。けれど探ってみても靄が広がるばかりだ。
知らず、問いただすように胸に手を置く。最近ずっとこんな調子だ。
猛攻がおさまり、わき腹を庇いつつ起き上がったザビーダはふんと鼻を鳴らした。
「それは今の関係が、だろ?お前の本音はどうなんだよ」
「ザビーダさん!」
「『導師は家族を作れない』」
低い呟きに、ライラがはっと息を詰めた。彼女の様子にザビーダは目を眇めてやっぱりな、と伸びるままにしている銀髪を掻いた。
「お前のことだ。今後のことも考えてなんだろうがよ。ちと守りすぎじゃねぇか」
「それは…」
「スレイの考えを尊重したいんだろ。そうさせてやりたいっつってる本人が選ばせないようにしてどうすんだ、ライラ」
黄昏色の双眸を細め、真剣な顔で諭すザビーダに、ライラは俯いてしまった。
『…別に好きでやってた訳じゃないだろ』
「そうだ。寧ろライラは、スレイとアリーシャのことを考えて…」
沈黙に耐えかねてか、デゼルとミクリオが二人の間に割って入る。二つの声を聞いたザビーダはそれもわかってるさ、と一転していつもの調子に戻った。
「でもよ、自分で気付くってえのは、こいつには無茶ぶりすぎねぇ?疎いっつーか、それ以前に知らないから自覚も何もないだろ」
再び馬車の中に沈黙が下りた。当のスレイだけは訳が分からず、疑問符を浮かべて周りを見る。
「まぁ…確かに」
「スレイだもんねぇ…」
「珍しく正論ね」
うんうんとしきりにうなずく仲間たちを見て、スレイは思わず顔をしかめる。
「…何かよくわかんないけど、褒められてないってことはわかった」
「だったら汚名返上するんだな。てことでだ」
ライラのことをちらりと一瞥して、彼女が微かに頷いたのを確認する。ザビーダは身を乗り出し、もう一度スレイに問いかけた。
「お前はアリーシャちゃんのことどう思ってる?傍から見た現状じゃねぇ、お前の気持ちを言ってみろ」
「オレ自身の気持ち……」
音になったかどうかの声で、ザビーダの言葉を繰り返す。
「アリーシャは…」
荷台に寄りかかっていた背を伸ばし、口を開いて、また閉じる。思ったより難しい。
事実じゃなくて、自分の気持ち。アリーシャのことを、どう思っているか。
ひとつ間をおいてから、スレイはゆっくりと、思い出すように言葉を紡ぐ。
「アリーシャはいつも一生懸命で、国や人のために何とかしようと頑張ってて…導師になったオレのことも、怖がらないで信じてくれて…」
ただの人間ではありえない導師の力を一番そばで見ていたのに、驚くことはあっても怯えることはなかった。
スレイが導師になっても、スレイをスレイとして見てくれることが嬉しかった。その眼差しに、態度に、何度安心したか。
「けど、危ないこともけっこう平気でするから目が離せなくて。少しは自分のことも大事にしてほしいなって思うのもしょっちゅうだし」
そう言ったら、向かいのミクリオから君が言うな、とツッコまれた。一瞬言葉に詰まるが、苦笑いで誤魔化されてもらうことにした。察しのいい親友で助かる。
「でもそんなアリーシャだから応援したくなるし、頼ってくれたときは嬉しくなる」
自分で何とかしようと思うのが彼女だ。そんなこと滅多に起きないが、だからこそ時々感じる信頼にもっと頼られたいという欲が顔を出した。
「笑ってくれたらもっと嬉しくてさ。アリーシャの笑顔って、見ると元気が出るんだよな。よく似合うから、ずっと笑ってればいいのに」
ふわりと、凛と引き締まっている顔が笑み崩れる。その瞬間に胸に満ちるあたたかい感情。
喜びとも楽しさとも、安心とも違って、逆に全部が合わさってこんこんと溢れ出てくるような。
遺跡の謎を解き明かしたときにちょっと似てるかもしれないと、片隅でふと思う。
「あ、でも最近はいろんな顔するようになって、それも嬉しいんだ。柔らかくなったっていうか、気を張らなくなったっていうか」
驚いた顔、はしゃぐ顔、気が緩んだときの顔。
いくつもの表情が頭の中で鮮明に浮かんで、心にざわめきを残しては消えていく。
胡坐の上で組んでいた両手に視線を落とす。そうだ。手を繋いだときにも、同じような気持ちになった。
「そんなアリーシャを見るたびにさ、知りたくなるんだ。オレのまだ知らないアリーシャのこと、もっとよく知りたい、て」
そこまで言って、ああそっかと一つ気付いた。
「一緒にいたい…のかな。一緒にいて、いろんなものを見て、触れて。笑ったり、泣いたりして」
どんなものを見せたらびっくりするんだろう。どうしたら楽しんで、何をあげたら喜んでくれるんだろうか。
考えるのが楽しかった。思ったとおりの反応が返ってきたら嬉しくて、予想外の返しがきたらこっちが驚いて、悲しませてしまったら自分も落ち込んだ。
不思議だった。何かしてあげたいのに、寧ろこっちが沢山もらっているような気分になる。
こうして思うだけで優しい気持ちになるのも、心臓が少しずつ速くなっていくのも。アリーシャのことを考えているときだけ。
「そういうの、もっとわかちあいたい。アリーシャと」
アリーシャも同じだったらいい。一方的じゃなくて、同じだったら嬉しい。そう思う。
けど、とスレイは内心で呟いて腕を組む。
「だからどうって言われると……うーん…」
だって、今までこんなことなかった。言葉にしてみても湧いた感情は知っているものなのに、こんな経験をするのははじめてだった。
まとめられない。ただこう思っているとしか。
「あーあーもういい、腹いっぱい。俺様砂吐きそうだわ」
それでもなお言葉を募らせようとすると、ザビーダがうんざりした様子で吐き捨てた。手の振りが完全にあっち行けの仕草だ。
「何だよ。言えって言ったのはザビーダじゃんか」
あまりの対応にスレイは口をへの字に曲げる。こっちは正直に話しただけだ。
「だからそっとしといた方がいいって言ったのに」
けれど同意は返ってこなかった。寧ろロゼがザビーダに向けて同情と迷惑がないまぜになった声をかける。
「あーロゼちゃんはそっちの意味で黙ってたのね…」
「もち。ま、ずっとこのままだったら蹴っ飛ばすつもりだったけどね」
そのままの意味ではないにしろ笑顔で物騒なことを言って、ロゼは投げ出していた足を左右に揺らす。決して居心地がいいとは言えない振動が続く状態でもリラックスしている姿は、流石に慣れていると感じた。
何となくそう思っていたら、馬車のそこかしこでため息を零す音が聞こえた。
「ここまでわかっていて、気付かなかったんですね…」
「一体どんな育て方したらこうなるワケ?」
「返す言葉もないな……聞いているこっちが恥ずかしいよ」
しまいにはミクリオにさえザビーダの肩を持たれて、スレイは機嫌悪く半眼になる。
「……何か、みんなして酷くないか?」
『お前の方が確実に酷い』
デゼルまでも。ついにスレイはがっくりと肩を落とした。ここまで責められると段々と自分に非があるように思えてきた。
「思ってること言っただけなのに……」
「落ち込まない落ち込まない。大丈夫、スレイがそういうヤツだって皆再確認しただけだから!」
「それ、フォローしてる?」
顔を上げる気力もなくて目だけをロゼに向ける。寧ろ追い打ちをかけられたような。視界の端でエギーユが肩を震わせているのが見えたから多分間違ってない。
「これから知ればいいってことよ。なぁスレイ?」
「別にいいよ、知らなくて」
不機嫌をそのまま声に出したら拗ねんなって、とザビーダに笑われた。誰が原因だよ、とスレイは胸のうちで愚痴をこぼす。
「まぁ年上の言うことは素直に聞いとけ。損はさせねぇから」
そのまま流そうかと思ったが、宥めるようにそう言われて渋々顔を上げた。そして自分に聞くように促した男を見て目を丸くした。
いつものようなからかい交じりの笑みではなく、穏やかな顔。街中で見かけた、要領の悪い子供を仕方ないなと笑う親のような、そんな表情。
スレイは無意識に姿勢を正した。それを見たザビーダは、さらに笑みを深めた。

「その想いのことをな、ひとは『恋』っていうんだと」

「こ、い…?」
一言。たった二文字で言い表した言葉を、スレイはたどたどしく紡いだ。
単語の意味は知っていた。本で見たことがある。読んだことがある。最近だったら、ラウドテブル王宮の書棚に置いてあったあの詩集に確か。
はじめにやってきたのは衝撃。雷に打たれたかのように一瞬頭が真っ白になった。
自分が、アリーシャに?アリーシャに抱いている感情が?
アリーシャのことが、二人でいた時間が、順序を無視して無造作に頭の中に散らばる。それに全て埋め尽くされかけたうちの隅の隅で、走馬燈ってこういうのなのかもしれないと思った。
どれくらい微動だにしなかったのだろう。とうとうミクリオに心配そうに大丈夫かと声をかけられ、ロゼには生きてる?と目の前で手を振られてしまった。
けれどその硬直は、ふいに解かれた。
ああそうか。この感情は、この気持ちが。
「恋、か…」
静かに、穏やかに、凪いだ声がぽとりと落ちた。
自分の声を聞きながら、スレイは緩やかに流れる清水のような心地を味わっていた。
好きなんだ。ジイジやイズチの皆に対する親愛とも、ミクリオ達に対する友愛とも似ていて、違う。
好きなんだ。何もかもを知りたくなるくらい、全部を向けてほしいと思うくらい、オレはアリーシャのことが。

「どうやら納得したみたいだな」
先程の同じ口調でザビーダがそう言った。目を向け、皮肉気に口角を上げながらも優しい色の浮かぶ黄昏の瞳にうん、と頷いた。
それにザビーダは満足そうな顔をして、しかしすぐに笑みを消した。
「酷だったか?」
何だろうと不思議に思った矢先に問われた。スレイは少し思案して、首を横に振った。
「ちょっとどうしようかなって思ったけど、知れてよかった」
真っ直ぐに見つめて、素直な気持ちを返す。ザビーダはどこかほっとした様子でそうかい、と小さく笑んだ。
「そいつをどうするのかはお前次第だ。せいぜいじっくり悩めや、青少年」
のっそりと立ち上がって、褐色の大きな手がスレイの頭をやや乱暴に撫でた。目が回りそうになりながらも、スレイはなんだか嬉しくなってわかった、と笑った。
「スレイさん」
頭が鳥の巣になったところで、静かな声音に名を呼ばれた。スレイは髪を放置したまま視線を動かす。
そこには、居住まいを正して真摯な目を向けるライラの姿があった。
「これはスレイさんの道です。スレイさん自身の生きる道です」
柔らかい声音に厳かな雰囲気を纏って、ゆっくりと己の主神は語り掛ける。
僅かに伏せられていた瞼がそっと持ち上がった。緑玉を嵌め込んだ双眸は相変わらず綺麗だ。
「ですから、スレイさんが幸せになれる選択を、どうかなさってください」
「ライラ……うん、ありがとう」
―――どうか、宿命にとらわれないで。
暗に含むその言葉が聞こえて、スレイはありったけの感謝を込めて礼を言った。
本当に、自分の仲間達は頼りになって、優しい。恵まれていると思う。大変で、辛いこともあったけど、出会えてよかった。
「それから、ずっと黙っていてごめんなさい」
「あ、いや、全然!気付かなかったのオレだし…」
「ああ、そうだ。そもそも自分で気付けないスレイが悪い」
「そしてそんな風に育てたミボも悪いわね」
「何でそうなるんだ!というか僕が育てた覚えは―――」
「おい、聞いたか!また戦争だってよ!」
「ああ。今度はローランスもハイランドも本気だ。すげぇ衝突になるって話だ」
いつもの言い争いに発展しはじめたとき、突然外から不穏な会話が聞こえてきた。
「エギーユ、止めて」
荷台から身を乗り出し言ったロゼに、エギーユは短く了解、と呟いて手綱を引いた。
「おじさん達、ちょっといい?今戦争がどうとかって聞いたんだけど…」
商人風の男達は一瞬不審な顔をしたが、ロゼとエギーユの顔を見てすぐに相好を崩した。
「何だ、セキレイの羽か。お前さん方ものんびりしてられねぇぞ」
「てことは、本当にまた戦争が?」
今度は隣にいた青年がそうだと頷く。
「戦場はまたグレイブガント盆地あたりだそうだ」
「っと、こうしちゃいられねぇ」
「ああ、食料に武器!」
「薬に棺桶!稼ぎ時だな!」
楽しそうに笑いあって、あんた達も頑張れよ、と足早に去っていった。
荷台の中で彼らの話を聞いていたスレイは、首筋に冷たい刃物を当てられた気分で呆然と呟いた。
「本気の戦争…!?」
嘘だ。確かにヘルダルフは世界を穢れで溢れさせようとしている。それが世界のあり方だと思っている。瞳石を、メーヴィンから過去を見せてもらってそれを知った。
だから戦争を起こすことがヘルダルフの狙っていることだと気付けた。
けど、それはないと思っていた。きっと食い止めてくれると。
だって、ローランスにはセルゲイが、ハイランドには――――。
「……っ!」
ぞわりと全身が総毛だった。震える手で思わず腕をさすった。
頭に浮かぶ顔がある。蒼い魚のような服。鳶色の髪。切れ長の鋭い瞳。妖艶に微笑する口。
その足元で蠢く、禍々しい深淵の闇。
「ぅわっ?!」
衝動のままに叫びが喉から出かかる寸前、頭に重い何かが乗ってきた。
驚いて目だけを動かすと、横には怖いほど真剣な顔をしたザビーダ。
「急ぐぞ。レディレイクに」
「……ああ!ロゼ、頼む!」
「当たり前!エギーユ、レディレイクまで全速で!」
「残念だがラストンベルまでだ。ラモラック洞穴を行け。入り口に馬車を手配しておく」
そのやり取りを聞きながら、スレイは祈るように額に両手を置いた。不安で胸が押し潰されそうだった。
「アリーシャ…っ!」
引き絞るような声音で囁いて、スレイはひとりの少女のことをただひらすらに思った。


◆   ◆   ◆


抜けるような晴天。すがすがしいくらいに良い天気だ。
嫌味なくらい、と内心で零した。ついに空にまで嫌われたのだろうか。
こんな日に。いっそ土砂降りになってくれたらよかったのに。
私室の椅子に座って、穴があきそうなほど青い空を眺めた。使用人が気遣って入れてくれた紅茶は、すっかり冷めきってしまった。
無意識にぐ、と力が入った手によって、己の手中におさまっている一通の手紙を嫌でも意識した。
もう、どうしたらいいかわからなかった。
もう、何をすればいいのかわからなかった。
だって、もう。だって、私には。

「―――アリーシャっ!」
突然、大きな音を立てて部屋の扉が開いた。聞きたかった声と共に。聞きたくなかった声と同時に。
名を呼ばれ、アリーシャはひどく緩慢に振り返る。
正面を向いたとき、目の前の少年が息を呑んだ。そんなに酷い顔をしているのだろうかと、他人事のように思った。
「スレイ……」
何でここに、とは思わなかった。自分は行き先を告げて、スレイ達とわかれたのだから。屋敷の者にも彼が来たら通すように伝えてあった。
後ろには、人とは違う存在が四人。無事なことに安堵しつつ、ひとつの事実を突きつけなければいけないことが辛くて、泣きたくなった。
椅子から立ち上がり、ゆっくりとスレイ達に近付く。今の自分が皆に寄っても大丈夫なのか、わからない。少しでも苦しそうにしていたら離れなければと片隅で思った。
言わなければ。きっともう、知ってしまっているだろうけれど。
「こんな結果に、なってしまったよ……」
ごめんなさい。私はこんなにも、無力でした。
力なく微笑みながら、アリーシャはひとつの封書を持ち上げた。
上質な紙で書かれたそれは、ハイランド国王が出した、総攻撃を命じる勅命だった。








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