もしもの物語-18-



―――嘘だ
スレイから話を聞いたとき、はじめに思ったことはそれだった。

完成したばかりの橋を駆け抜け、フォルクエン丘陵を抜ける。兵の行軍ルートを回避しつつ、できるだけ早く都を目指す。
(……違う)
馬を走らせながら、アリーシャは先程の思いを否定する。
違う、今だってそう思っている。
スレイを信じていないわけじゃない。嘘をつける人でも、質の悪い冗談を言う人でもないと知っている。
けど、
(けど、それはあまりにも……)
寒気がして、アリーシャは勢いよく首を振った。目深に被ったフードが外れそうになり、慌てて掴む。王宮に入るまで、できるだけ面倒事は避けたかった。
マントを手繰り寄せ、手綱を強く握って速度を上げる。
「…、あれは…」
ふと前を向くと、白い石造りの門が近くまで迫っていた。
呆然と眺め、しかしすぐに我に返って馬を引く。ゆっくりと歩む蹄の音を聞きながら、アリーシャは深く息を吐いた。

『お前は熱くなりすぎて、周りが見えなくなる癖があるようだ。そういう時は思い出すといい。自分が何のために行動しているのか。そのために、それが最善の道か』

凛々しくてやや低い、落ち着いた声音が耳朶に響く。
思い立ったらすぐに行動に移してしまう自分を、何度も諫めてくれた声。
旅の間も、何度も思い出した言葉。
「……師匠……」
大きな塊を飲みくだしたように喉が詰まった。滲みはじめた視界に気付いて、慌てて目元を擦る。
苦しい。スレイを疑いたくない。けど、信じられない。信じたくない。
だって、それは自分の半生を否定することと同義だから。
スレイにあの人の何がわかるんだと、そんなことすら思ってしまう。
「…醜いな、私は」
ひどく自分本位な考えに嫌悪感がこみ上げてくる。責めるように頭がじくじくと痛んで、思わずこめかみに左手を当てた。
でも、救われたんだ。屋敷の者以外で、初めての理解者だったんだ。

『―――見えているものが、現実であり事実。世界は変わらない。……己(おの)が変わらなければ』

眩しいほどに立派で、憧れで、道標で、いつか追い付きたくて。
あの人がどれほど私を支えてくれたのか、あの人がどれほど尊敬できる方なのか、スレイは知らないじゃないか。
そこまで考えて、自嘲する。
馬鹿なことを。スレイにだって救われて、返しきれないほど支えられているくせに。
「けど…」
それでも。それでもそれが事実だと、認めたくなかった。
もう一度深く息を吸って、呼吸を整える。気付けばもう、貴族街の入り口が見えていた。

馬をゆっくりと歩かせながら、華美な装飾の施された門扉に向かう。
「おいそこの者、止ま……?!あ、貴女様は…!」
警備をしていたハイランド兵のひとりに呼び止められ、しかし自分をアリーシャだと認識してあきらかに驚愕した。
随分と街を離れていたのだ。思い返せばあの戦争から消息を絶っていた。
当然の反応だろう。自身の行方を知っていたのは、一部の気の置ける者達だけだ。
「ハイランド国王女、アリーシャ・ディフダだ。今を持って帰還した。通してもらってかまわないな」
フードを外しながら、確認というよりも念を押す形で言い放つ。狼狽えながら急いで門を開ける兵士たちを尻目に、王宮へと向かう。
蹄の音がやけに響く。戦争の話題でざわめいていた市街地とは違い、ここは変わらない静けさを保っていた。
「行けばわかること。落ち着いて……」
言い聞かせるように呟いて、ふと自分の声が震えていることに気付いた。情けなさに内心で自分を叱咤しながら、意識して深呼吸をする。
馬から降りてマントを取り去る。王宮前では、先程と同じように兵がアリーシャを見てひどく動揺していた。
この中に入るならば、彼らのような姿を見せてはいけない。隙を見せては、つけ込まれてしまうから。

『常に冷静に、堂々としていろ。焦ればすぐに足元をすくわれる』

これも、あの人が教えてくださったことだった。
「マルトラン師匠にお会いしたい。取り次いでくれ」
彼らに近づき、アリーシャは兵たちが落ち着くのを待たずに毅然と言い放った。



◆   ◆   ◆


「―――結局、愚かだったのは、私の方だったようだ」
「アリーシャ…」
静まり返った室内にようやく声を落としたのは、部屋の主であるアリーシャだった。
肩を落としながらも何とか笑おうとする姿が痛々しい。スレイは伸ばしかけた手を握りしめ、堪えるように顔を歪める。
辛い思いをさせてしまうことは分かっていた。けど、やっぱりそんな顔をさせたくなかった。
「ハイランド国王の勅命……この封書を戦場に待機しているマルトランに渡せば、本格的に開戦するってことか」
苦々しげな表情で書状を持ち上げながら、ミクリオが呟く。戦場の記憶は未だ新しい。こんな手紙一枚で、あの凄惨な光景がまた繰り返されるのか。
「飽きもしないで何度も…本当にバカよね、人間って」
エドナが心の底から呆れたような口調で言った。質のいいベッドに座る小さな少女の指摘に、アリーシャは困ったような笑みを浮かべた。
「返す言葉もございません…」
「……別にあなたのことを言ったワケじゃないわ」
失言だと思ったのか、エドナは彼女の表情に一瞬虚を突かれた顔をして、気まずそうに視線を逸らした。
「けど、見ての通りです。戦争は……止められませんでした」
膝の上でぎゅっと拳を握って、アリーシャは苦しそうに告げる。彼女の細い肩が震えていることに気付いたが、スレイは何も言えなかった。
「それにスレイの言う通り、マルトラン師匠は……」
一度言葉を切って、少女は唇を噛む。
そう、アリーシャがレディレイクに戻った目的は二つあった。そのうちの一つははっきりと口にはしなかったが、きっとそうだろうと思っていた。だって、話したのは他ならぬスレイ自身だったから。
ひとつは二国の戦争を阻止すること。そしてもうひとつは。
「マルトラン師匠は……憑魔だった」
彼女の尊敬する師、マルトランが災禍の顕主と繋がっていることを確認するためだ。
「やっと気付いたか、と笑われてしまったよ。本当に…こんなに長く傍にいながら、気付かなかった。……私は一体、あの人の何を見ていたのだろうな」
「アリーシャさん…」
やけに明るく話すアリーシャに、胸が痛んだ。アリーシャは、もっとずっと痛い思いをしているはずだろうに。
敬愛する師は憑魔だった。祖国と隣国との戦争がまた始まる。
その火蓋を切るための勅命が、今彼女の手元にある。
畳みかけるように押し寄せてきた現実が、どれだけ重く辛いことか。ただわかるのは、彼女に圧し掛かっている痛みや苦しみは、スレイには推し量ることができないほどなのだということだけだ。
重苦しい沈黙が室内に満ちる。皆、アリーシャに何て声をかければいいか、わからなかった。

「それで?アリーシャちゃんは諦めるのかい?」
「え…?」
その空気を破ったのは、飄々とした声の持ち主だった。
いつの間に彼の手に渡ったのか、つまらなそうに王の書状をくるくると弄びながらザビーダがそう問いかけた。
「まだ戦争ははじまってない。なのにお姫様はもう諦めちまうのか?」
「っ!だって、どうしようもないではありませんか!」
男の言葉に、何かがはち切れたように少女は叫んだ。勢いよく立ち上がり、テーブルに置かれたカップから紅茶が零れた。
「ローランスを討てという王の命令―――勅命は、出されてしまったのです!」
「そんなもの握りつぶしちまえば?都合が悪いなら」
「…ザビーダ様、握りつぶすとはどういう意味でしょう?」
「そのままさ。命令書を隠しちまえってこと」
事もなげに言い放ったザビーダに、アリーシャは言葉を失った。
総攻撃の命令書を握りつぶす。王の書状を隠すこと、それはつまり。
一瞬真っ白になった頭が回りだし、その意味をようやく理解する。
「無茶な!」
「そうだ、アリーシャにできるはずがないだろう!」
彼の突飛な考えに、ミクリオも流石にアリーシャに加勢して声を荒らげた。
その行いは立派な反逆罪だ。以前の偽装工作と訳が違う。それこそ本当に極刑になってしまう。
だがザビーダは肩を竦めただけで、ただ一言付け加えただけだった。
「別に強制はしないよ。悲しみにくれる憂い顔も嫌いじゃないしな」
「……っ…」
からかうようにそう言ったザビーダをアリーシャは思わず睨み付ける。しかしすぐに眼光を緩めて、力が抜けたように椅子に座りこんでしまった。
組んだ両手を額に当て、昂った気を静めるように息を吐くアリーシャを、スレイは心配そうに見守る。未だにかける言葉の見つからない自分が歯痒かった。
「……騎士は、守るもののために……」
ふと、アリーシャが小さな声で何かを呟いた。全部は聞き取れず、何を言ったのか気になって耳を澄ませていたら、彼女が顔を上げてスレイを見た。
整った顔に浮かんでいるのは、まだ揺らいでいるが力強いもので、スレイは少し安堵する。
「スレイ、戦争をとめるには、ザビーダ様の言うとおりにするしかないようだ。また、力を貸してもらえないだろうか?」
「本当に、いいのですか?国に反抗することになりますわよ?」
ライラが気遣うように問い掛ける。彼女の台詞に一瞬躊躇いを見せたアリーシャは、けれどすぐに決意をあらわにして承知の上です、と頷いた。
「私の身一つで戦争を止められるのでしたら。どんな罰も受ける所存です」
「そんなもの受けないで、戦争を止めたらさっさと逃げればいいじゃない」
エドナの歯に衣着せる物言いに、アリーシャは硬い表情を少しだけ緩めて苦笑いする。
「一応、曲がりなりにも王族ですから。上に立つものがそれでは、示しがつきません」
「……ホント、バカ正直なんだから」
相変わらずの生真面目さに、少女は半眼になって溜め息を吐く。それを見たザビーダがエドナの慰めるように肩を叩こうとしたが、素早く傘で払われていた。
「アリーシャが覚悟を決めたなら、嫌とは言えないね」
そのやり取りを苦笑いしながら眺めていると、ミクリオがにっと笑ってスレイを見る。
「もちろん。アリーシャ、一緒に戦争をくい止めよう」
親友の言葉に答えて、スレイもアリーシャに笑顔を向けた。
「スレイ、ミクリオ様……ありがとう、ございます」
礼が途切れたのは自分とミクリオ、どちらに合わせるか迷ったからだろうか。
不自然に空いた間にミクリオと顔を見合わせていると、アリーシャも僅かな笑みを浮かべた。
それは悲しい色のない微笑みで、スレイは今度こそ安心した。
「ザビーダ様も。頼りにしてよろしいか?」
少しだけ目を鋭くして尋ねるアリーシャに、ザビーダは仰々しい態度で健気な姫のためとあれば、と答えた。
「泣きそうな顔より、ずっと好みだしな」
言いながら、にやりと口の端を吊り上げてひょいと彼女の手を取った。
スレイは思わずザビーダを止めようとして、けれどアリーシャがまた表情を緩めたのを見てやめる。
(アリーシャの元気が出るなら、いっか…)
胸の奥に湧いたもやもやしたものは治まりそうにないが、そう納得することにする。
その行動を読んでいたのか、遥かに年上の男は可笑しそうにこっちを見ていた。
スレイは思わずしかめっ面になった。自分のことをわかった上でやっているのだ。意地が悪い。
やっぱり止めてやると思い直した矢先、エドナが天族の男に容赦ない一撃を叩きこんでくれたので胸がすっとした。


◆   ◆   ◆


「そういえば、ロゼとデゼル様はどこに?」
グレイブガント盆地に向けて出発してから、少しだけ余裕が戻ってきたのだろう。ふとアリーシャがロゼ達の不在に気付いて問い掛けてきた。
「二人は今、エギーユと一緒にペンドラゴにいるんだ」
「ローランスの?一体……いや、何か訳があるのか」
「うん。ロゼ達にとっても、ハイランドにとっても大変なことが起こってて……」
スレイの言葉に首を傾げて、しかしすぐに思案しはじめた彼女に事情を話した。
レディレイクに向かう途中、ヴァーグラン森林で風の骨の一員であるアン・トルメに出会ったこと。負傷した彼から、風の骨にハイランド国による枢機卿暗殺の容疑をかけられたこと。
その背景にはルナールがいて、彼が帝国にその話をもちかけ、風の骨の仲間達を捕えていること。
「それは…」
スレイから語られた状況に、アリーシャは絶句する。
ローランスがハイランドとの戦争を起こすための口実。大義名分を手に入れるための偽装に、枢機卿の死と風の骨を使ったのか。
思わず強く唇を噛んでしまい、鈍い痛みが走った。
物資の不足に度重なる災害。それによる国民の不安や不満。
どちらの国の中枢も、それらを解消するために戦争を起こしたがっているのだ。
悔しかった。民の不安を消す力も、自国の大臣達を治める力もない自分が。
俯いていると、ふいに肩に手を置かれた。支えるような強さに顔を上げると、真っ直ぐにアリーシャを見つめる深緑の瞳とぶつかった。
「ロゼ達なら大丈夫だよ。きっと風の骨の皆を助けて戻ってくる。それにローランスのセルゲイも、停戦のために動いてくれてる」
「セルゲイ殿が…」
『ラストンベルで会ったんだ。街の人を避難させながら、開戦を何とか止めようとしてくれていた』
あの白皇騎士団の団長が。彼も自分達と同じ志をもって、奮闘してくれているのか。
『見事なもんだったぜ。浄化しなくても、ハイランドを憎む奴らの心を鎮めやがった』
愉快そうに語るザビーダの言葉に、冷え切っていた心に小さく火が灯る。
まだ和平の道を切り開こうとしている人がいる。信じようとしてくれる人達も。
「まだ、希望はついえていないのだな…」
ぽつりと零したアリーシャの言葉に、スレイが元気づけるようにうん、と頷いた。
「だからオレたちも頑張ろう。戦争を止めるんだ、絶対に」
「スレイ……ああ、必ず止めてみせる。多くの犠牲を出さないためにも」
じわりと広がりはじめた熱を閉じ込めるように拳を握りしめて、アリーシャは前に進んだ。
まだ、まだ諦めるものか。
国の為に、民の為に、私自身ができることを――――。
「――――ようやく来たか」
だが、突如響いた低い声音を聞いた瞬間、灯った火が瞬く間に消え去ってしまったように全身が冷え切ってしまった。


◆   ◆   ◆


(なぜ…なぜこんなことに……)
石の建造物と森の入り混じった遺跡を迷いなく進む蒼い背中を見つめながら、アリーシャは泣きそうになる気持ちを押し殺すのに必死だった。
グリフレット橋を渡った先で、今自分達の前を歩くマルトランが待っていた。
―――『お前が使者だろう。総攻撃を命じる勅命を渡せ』
表情一つ変えずそう告げられた。見たこともないような眼差しに身体を竦ませながらも、アリーシャは何とか首を横に振った。
するとならば力ずくで奪うと冷ややかに言葉を切り、こうして人目につかないボールス遺跡の奥までやってきている。
『ライラ、マルトランは何の憑魔なんだ?』
ふいに、頭の中でミクリオの声が響いた。警戒をあらわにした少年の声に、やや困惑混じりの声音が答える。
『それが……わからないのです。あの方は憑魔でありながら、その正体を抑え込んでいる』
ライラの言葉に、アリーシャはようやく気付く。自分の視界に映るマルトランは、人間の姿のままだ。
人間や天族だけでなく、穢れの影響を強く受けた存在は魔物のような姿に変貌する。霊能力の低い者には元々の姿にしか見えないが、スレイやミクリオ達にまで彼女が憑魔の姿に見えないことは異常だった。
『……わかるのは、手強いってことだけか』
『強い美人か。相手にとって不足はないね』
交戦をにおわす彼らの台詞に、ずきりと胸が痛んだ。
本当に、戦う以外に道はないのだろうか。話し合いも無駄なのだろうか。
―――だって、この人は、ずっと私のことを……

「……ここなら邪魔が入ることもないだろう」
ボールス遺跡の奥地で足を止めたマルトランは、ようやくこちらを振り返る。
「師匠……」
アリーシャの呟きに答えることなく、マルトランは手を前に掲げ、闇色の裂け目から漆黒の長槍を取り出す。
彼女の騎士服と同じ色の蒼い織布が飾られた、穢れに満ちた長槍。
水の試練神殿で奪われた、憑魔アシュラが人間だった頃に鍛えられた全てを断ち切る剣だ。
「大仕事が控えている。手早く終わらせよう」
禍々しい邪気を纏うそれを軽々と一振りして、アリーシャ達に向ける。
スレイ達が各々の武器を構えるなか、アリーシャだけは凍り付いたように動けないでいた。
「何故、です…師匠…」
「この期に及んでまだ問いを吐くかっ!」
「……っ!」
呆然と立ちすくむ少女に、背筋に伸びるような一喝が飛んだ。
自分が失態を犯してしまったときに、よく聞いた声。ただ違うのは、その表情には何のあたたかみもないことだけ。
反射的に俯けていた顔を上げる。目の前で武器を構える姿も、稽古をつけてもらうときによく見た光景だった。
けれど今は、失態を叱るためではなく、稽古のための構えでもない。
「今見えているものが現実であり……事実だ!」
「――っ!」
『アリーシャさん!』
刹那、目にも止まらぬ速さで間合いに入ってきたマルトランを、アリーシャは反射的に長槍で受け止めた。
金属と金属が擦れ合う音が周囲に響く。人並み外れた力に負けて、アリーシャは後退さる。
競り合いながら、マルトランは嘲りを隠そうともせず、冷え切った笑みを向けた。
「そんな基本もわきまえぬ者が民を導こうなど、笑止極まる」
「理解はしています。でも……!」
「では、悟っただろう。お前の青臭い理想など、一片の意味ももたないという現実を」
嘲笑混じりのその言葉に、谷底から突き落とされたような衝撃を受けた。
それを、あなたが言うのですか。一番傍にいてくれた、あなたが。
「国にとっても。民にとっても。もちろん私にとっても、だ」
その隙を見逃さず、マルトランは長槍で押し切ろうと動く。だが、寸でのところで儀礼剣が突如割って入ってきた。
小さく舌打ちをしたマルトランはそのまま後ろに下がり、再び槍を構える。
「…っ!だったら!どうして私を支えるフリをしたんですかっ?!」
誰よりも言われたくなかった台詞をその人に投げられて、アリーシャの脳裏は赤く塗りつぶされた。
頭がずきずきと鋭く痛む。左手で頭を押さえたまま、激昂した思いのまま叫んだ。
支えてくれたのに。信じてくれたのに。
あの優しさも、厳しさも、全て嘘だったというのですか。私に向けられた言葉も、行動も、全部、全部。
「……ふたつだけ、利用価値があったからだ」
対して、マルトランの声音は淡々と冷たいままだった。そしてアリーシャにとって更に残酷な言葉を続ける。
お前は、ハイランドとローランスを最大の力で衝突させるための道具だった、と。
「バルトロらを反発させ、暴走させる役には立った」
「せん、せい……」
長槍の柄を、痛くなるほど握りしめる。目の前の切っ先は、情けないほど震えていた。
その姿をただ静かに見つめていたマルトランは、ふいに迫ってきた気配に目を眇める。
キィン、と甲高い音が鳴り響く。
見れば、刃のない剣と強い眼差し真っ直ぐに向ける少年がいた。
「アリーシャの理想には、意味も価値もあるよ」
怒りを滲ませた彼の言葉を鼻で笑おうとして、しかし頭上に差した影に気付いて横に跳んだ。
今しがたいた場所に巨大な水球が勢いよく落ちる。その水が落ちる様を最後まで見る間もなく、飛んできた炎を纏った紙葉を槍で薙ぎ払った。
「ああ。少なくともスレイは信じてる」
「スレイさんだけではなく、もちろん私たちも」
いつの間に顕現したのか、四人の天族がアリーシャの前に立ち塞がっていた。
「愛弟子への最後の授業だ。邪魔しないでもらいたいな」
「邪魔が入るのが『現実』ってもんさ」
「そっちもよくしゃべるのね。この期に及んで」
天族の男と少女の皮肉交じりの台詞に、マルトランも同じように口端を吊り上げる。
「確かに。最早かわすのは刃だけで充分だ―――もうひとつの価値のためにもな」
一気に凄みの増したマルトランの闘気に、スレイ達は気圧されそうになりながらも武器を握りしめた。
「アリーシャは下がって」
「…………」
庇うように片腕を上げたミクリオに、しかしアリーシャは無言で長槍を構えなおすことで答える。
「……師匠は、いついかなる時も私の目標だった」
けど、とアリーシャは苦しげな顔のまま、師を見据える。
「師匠が戦争を起こそうと考えているのなら……私はあなたを止めてみせる!」
「…いいだろう。止められるものなら止めてみせろ!」
その怒号を合図に、ボールス遺跡に再び鍔迫り合いの音が響き渡った。



『マルトラン……先生?』
出会ったばかりの頃は、まだ本当に幼い無垢な子供だった。
小さな身体には大きい本を両腕で抱えて、たどたどしく名を紡ぐ幼い姫。打ち解けたきっかけは、彼女の持っていた天遺見聞録だったか。

「逆雲雀(さかひばり)!」
上空に舞い上がり、雷を纏う槍を振り下ろす少女をマルトランは受け止める前に懐に潜り込む。その技は力を溜める分、出がどうしても遅くなる。
「隙だらけだぞ、アリーシャ!」
「くっ…!」
「ロックトリガー!」
彼女の腹に槍を叩きこもうとした瞬間、足元が唐突に隆起する。岩の槍を避けながら、マルトランは術を放った地の天族に向けて衝撃波を放つ。
傘で受け止めた少女が、勢いを殺しきれずに吹き飛ぶ様を視界の端でとらえながら、飛んできたナイフの風切り羽を回転させた長槍で弾き飛ばす。
「ほう、アリーシャのナイフか。よもやそれが神器だったとはな」
「くっ……やっぱり強い…!」
地に落ちた見覚えのある形状のそれはすぐに消え去る。今度は青白い光の矢が降ってきた。

『また戦争がはじまるんですね。……先生も、行かれるのですか?』
不安そうに呟きながら己を見つめる小さき姫を、確かに護りたいと思っていたこともあった。
両親を失ってからも、前に進もうとする幼い背中を。一軍人でしかない自分を心配する、優しき心を。
この国の平穏と共に、そのために前線に立とうと。

夥しい矢の雨を弾いては避け、白い衣服を纏った少年に突進する。先程の攻撃の属性は水。ならば、
「滅昇雅(めっしょうが)!」
地に槍を突き立て引き抜く勢いで岩を隆起させる。慌てて上へ跳んだ導師に、すかさず三連の突きを入れる。
「させねぇっての!」
しかし貫く前に鉱石の武器が槍を弾き、もう一方のそれが導師の腕に巻きつき勢いよく引っ張られていった。
「……流石に鬱陶しいな」
人間と違い、こうも術を使う者が多いとやりづらい。
マルトランは槍を構えなおし、導師一行を見据えた。
「―――っ!スレイ、下がって!」
「遅いっ!」
その構えに何かを感じとったアリーシャが急いで叫ぶが、既に狙いは定まっていた。

『貴様さえいなければ…!没落寸前の騎士風情がぁあぁあ!!』
だが、進めば進むほど遠くなる理想に、この身をもって受けた人間の汚さに。
あの方の理想に触れてからより一層……人間など、このような世界など、一度滅びなければ変わらないのだと痛感してからは。
そんな想いなど、すぐに捨て去った。

「くっ―――、うわあああ!」
矢の如く導師の間合いに入り、天族共々周囲を薙ぎ払う。仰け反った彼らを打ち上げ、無防備になった身体に無数の突きを繰り出す。
「翔破!裂光閃(しょうはれっこうせん)!」
天族が痛苦の悲鳴を上げて倒れていく。導師も神依化が解け、呻き声を上げてうつ伏せていた。
「ぐ、ぅ…っ」
「スレイ、皆さん…!」
「ふん……」
彼らを無感動のまま見下ろし、マルトランは導師の頭に槍を掲げる。
そのまま振り下ろそうと力を入れた瞬間、横から気迫を感じて咄嗟に槍を盾にした。
刹那、白い槍が火花を散らして黒い槍と交差する。
「させませんっ…!」
引き絞るような声で叫んだアリーシャは、そのまま勢いをつけて槍を突き出す。
マルトランもそれに応じ、二本の長槍が弧線を描いてぶつかり合う。
マルトランが手首を返せば弟子が次の一手を読んで軌道を逸らし、アリーシャが重心をずらせば師は技を止めるために追いかける。
同じ動きを学び、同じ技を会得した師弟は、それぞれの癖も動きも熟知していた。敵に回してこれほど厄介な相手はいないだろうと、互いにそう思うくらいに。
何合も打ち合い、何度もかわされ、何手先もの読み合いが続く。
以前より格段に強くなったなと、マルトランは場違いな感慨を覚える。相当な場数を踏んだのだろう。導師との旅は、確実に彼女の糧となっている。
――――だが。
「まだまだ甘いな、アリーシャ」
いつまでも続くかに思えた均衡は、一瞬の隙で崩壊した。
「あっ!」
アリーシャの振り上げた槍を避け、よけざまに横に弾く。長槍に身体を持っていかれた少女は、二、三歩よろめいた。
体勢を崩したアリーシャと目があった。透明な翡翠が、やけにゆっくりと見開くのを見ていた。
「終わりだ―――」
名残惜しくもあるが、いつまでもこうしているわけにもいかない。
がら空きになった少女の懐に狙いを定め、マルトランは勢いよく刃を突き上げた。

『王宮に、国を想う者はいないのですか…!?』
姫の潔癖さと愚直さは昔の浅はかな己を見ているようで、だからこそ操りやすかった。
戦争を起こすため、その真っ直ぐで非の打ちどころのない正論は、後ろ暗いことをしながら国を導く評議会の者どもの反発心を大いに呼び起こしてくれた。
あとは物事が上手くいかずに気落ちする姫の味方になり、支えているだけでよかった。
自らの行いで身を滅ぼすか、自分と同じように絶望して憑魔に堕ちるか。どちらにしても時間の問題だった。
――――導師などという存在が、アリーシャの前に現れるまでは。

「―――うぉぉぉぉぉっ!!」
刹那、背後からけたたましい雄叫びと共に熱風が押し寄せ、マルトランは少女を貫くはずだった長槍を防御に回す。
つい先程まで倒れ伏していた導師が、巨大な剣を携え深紅の瞳をきらめかせていた。
「アリーシャ、こっちだ!」
「ミクリオ様!」
掛け声と同時にアリーシャの姿が気配もろとも消えたことに気付き、マルトランは苦々し気に目を眇める。また厄介な術を使う。
熱を放つ聖剣を振り払い、後退する。が、
「なっ…」
「へっ……やぁっと捕まえたぜ」
武器と腕に細い糸が巻き付き、飄々とした声が耳に届く。力任せに引き千切ろうとした矢先、地面が隆起して足が埋まった。
「くっ…!」
身動きが取れない。まさかここまで早く立ち直ってくるとは。これも天響術の力か。
「スレイ、やりなさい」
淡々とした少女の声に、マルトランははっと顔を上げた。
「『我が剣は緋炎!紅き豪華に悔悟せよ!』」
そこには、全身に闘気をみなぎらせ、深紅の炎を纏う導師の姿があった。
「『――――フランブレイブ!!』」
「―――――っ!」
蜃気楼すら立ち上る聖なる炎の熱に、光に、マルトランはなす術もなく呑み込まれていった。


「……っ、やった、か……?」
「マルトラン師匠……」
息を切らしながら、スレイ達は浄化の炎に包まれたマルトランを見守る。
だが、それ以上に彼女から溢れ出る穢れが、やがて浄化の炎を消しはじめていた。
「この方も…!ダメです、穢れが浄化の炎を上回っていますわ!」
ライラの悲痛な言葉に、皆息を呑んだ。
また、同じことを繰り返すことになってしまうのか。あの時の、枢機卿のように。
「ふふ…浄化など、されてたまるか……」
彼らの絶望を後押しするように、マルトランがよろめきながら立ち上がる。穢れを放ち続けながら、怪我を負ったその身体でアシュラの魔槍を手にする。
「っ!もうやめてください、師匠!!」
直後、彼女の耳に届いたのは泣きそうなその声だった。
揺らぐ視界で視線を向ければ、声と同じように泣きそうな顔で己を見る少女が目に入った。
「あなたは、災禍の顕主に騙されているんです…!!」
「…………」
その言葉にマルトランは一瞬目を見開き、そして静かに目を閉じて口端を上げた。
「……どこまでも優しいな」
ゆっくりと、ふらつきながらもマルトランはその少女に近づく。笑みをたたえたまま、アリーシャの元へ。
ああ、そうだ。お前はいつだって素直で、正しくて、優しい子だった。
俯いているアリーシャに、動きづらくなった腕を何とか伸ばす。
そっと、彼女の持つ白い槍に触れた。不思議そうに顔をして己を見上げる少女は、どこまでも白く、純粋な色をしていて。
「私は、そんなお前が―――」
曇りのない澄んだ双眸を見つめて、マルトランは優雅に微笑む。
――――そして、その槍で己の心臓を勢いよく刺し貫いた。
「あっ……―――っ?!」
「っ……、反吐が出るほど、嫌いだったよ」
翡翠の瞳をこれ以上なく見開くアリーシャに、マルトランは冷酷な言葉を告げた。
「せん、せぃ…っ…!」
唇をわななかせて震える彼女に、最後とばかりに愛おしそうにその頬に触れた。

―――だが、そんなお前の行く末を傍で見守っていきたいと、そう思っていたのも事実だったよ

その思いは胸に秘めたまま、マルトランは満足げにその場に崩れ落ちたのだった。








[戻る]