もしもの物語-15-
一瞬、何が起きたのか、デゼルはわからなかった。
誰かの悲鳴が空を裂いた。誰かの嗤う声がいやに耳に残った。誰かの焦った声が飛んできた。
誰かに名を呼ばれ、複数の手に強く身体を引っ張られた。
耳が捉えた音を素通りさせていく、なすがままに動かされる身体をそのままに、デゼルはただ呆然と目前の光景から目を離せないでいた。
巨大な一つ目の憑魔が光を放った。一時視界が真っ白に染まるほどの強烈な光。
その、一瞬。
息を呑んだだけの、たった数回の瞬きの間。
―――なのに、
徐々に思考が現実に追いついてくる。風読みの感覚も戻ってきた。同時に、身体に衝撃が駆け抜けた。
目の前には一つ目の憑魔。太い触手が、何かを貫いている。
黒いジャケット。桃色のフード。背に携えた短い双剣。血よりも鮮やかな、深紅の髪。
見間違えるはずもない。そこにいるのは、紛れもなく。
「―――ロゼぇっ!!」
先程まで己が神依の器としていた少女が、今まさに憑魔に取り込まれようとしていた。
ライラの元へと連れていく途中、デゼルが突然少女の名を叫んで暴れ出した。彼を支えていたスレイとミクリオは驚きながらも、慌てて彼を止めようとした。
「デゼル、ダメだ!」
「落ち着け!今飛び込んでもロゼの二の舞になるだけだぞ!」
「離せ!ロゼ、ロゼっ!!」
スレイ達の言葉ごと跳ね返して、普段の彼とは別人のようにひどく取り乱す。
自分達よりも一回りは大きい青年を必死に押さえていると、くつりと笑う声がした。
スレイは思わず視線を鋭くして後方を振り返る。
漆黒を纏う幼い少女が想像通りの笑みを浮かべて佇んでいた。キツネ男のルナールは、アリーシャに負傷を負わされてからいつの間にか姿を消している。
「デゼル、今は態勢を立て直そう!」
少女から目を引きはがして、スレイはデゼルに負けないくらい声を張り上げた。このまま闇雲に行動しても、いたずらにロゼを危険にさらすだけだ。だが、デゼルは半狂乱のままスレイ達を振り払おうとする。
スレイは苦しげに目を眇め、意を決して拳を握った。このまま風の能力を使われて吹き飛ばされるよりかはマシだ。
「――――え?」
青年の脇腹に拳を叩き込もうと腕を引いたとき、パンッと軽快な音と共にデゼルの顔が勢いよく横を向いた。
「申し訳ありません、ご無礼を。ですが、どうか落ち着いてください」
呆気にとられたスレイ達の傍で、凛とした声色が静かに響く。振り下ろしただろう右手を胸の前で握りこんで、声音と同じ色を浮かべた翡翠がデゼルを見据えていた。
その腕が微かに震えていることに、スレイは気付いた。
「……姫、さん…」
「ロゼは憑魔に捕らわれる直前に、デゼル様との神依化を解いたのです」
ロゼが……と、驚くほど力のなくなった青年の声が小さく落ちる。
「あの時な、ロゼちゃんも目ぇ覚ましてたみたいなんだよ」
スレイ達は目をしばたかせた。そこでアリーシャの肩にかかる褐色の腕にようやく気付く。軽く目を瞠って視線を滑らせると、明らかに満身創痍のザビーダが彼女に支えられていた。
「光線は何とか堪えたんだがな…そのあとの爆風でお前らを離しちまった」
悪いと謝りながら、背中から硝煙が立ち上るのもそのままにザビーダは語る。
―――カワイコちゃんの指示でもあったのか、単純に力の強い方に引き寄せられたのかはわからねぇ。あの一つ目は俺に目もくれず、真っ直ぐにロゼちゃんたちの方へ向かったんだ。そん時にロゼちゃんが神依化を突然解除してお前が吹っ飛んだ。俺が起き上がった時にはこの状況よ
合間に呼吸を乱しながらも、ザビーダはそこまで一気に説明した。そこまで語ると軽く息を吐いて、厳しい目つきで立ち尽くすデゼルを睨み付けた。
「ここまで説明すりゃ、流石にわかるだろ?何でお前が無事なのかがよ」
釘を刺したザビーダの言葉に、デゼルの身体が大きく震えたのが腕越しに伝わってきた。
スレイは瞼を伏せて俯く。守り続けていた少女に窮地を救われた事実は、彼にどれほどの衝撃を与えているのだろう。
「俺は……」
「……とにかく、一旦ライラたちと合流しよう。二人なら、もしかしたら何か打開策を知っているかもしれない」
「…そうだな」
ミクリオの台詞にスレイは同意し、アリーシャを見る。彼女は悔しそうに唇を噛んでいたが、視線に気付いて慌てて頷いた。
「伏せてくださいっ!」
どうしたのかと尋ねる間もなく、ライラの鋭い叫びがスレイ達を反射的に動かした。
立ち尽くすデゼルをミクリオと二人がかりで屈ませる。刹那、頭上を白い閃光が駆け抜けた。
「障壁、集く、肉叢(ししむら)に―――バリアー!」
続けざまに向かってきた光弾が、鈴の音のような声と同時に現れた透明な壁に衝突して消える。
顔を上げれば、目の前に凛と佇む二つの後ろ姿があった。
「ライラ、エドナ!」
スレイは顔に安堵を浮かべて彼女らの名を呼ぶ。負傷したザビーダに駆け寄ったライラは淡い微笑みを返し、
エドナはちらりと一瞥しただけで背を向けた。
「ライラ、ロゼを救出する方法はあるか?」
「…それは……」
しかし、ミクリオの問いに彼女はすぐに沈鬱な面持ちで顔を俯かせた。
暗く落ち込んだライラの声色に、デゼルの身体が再び強張る。いや、それはスレイも同じだった。
「ロゼさんのあの負傷…例え穢れを浄化しても、その際にかかる負荷に耐える体力はおそらく残っていませんわ」
辛そうに話すライラの言葉に、スレイ達は息を呑んだ。既に察していたのか、エドナとザビーダは目を伏せてただ耳を傾けているだけだった。
四人が凍り付いたように固まるなか、いち早く硬直が解けたミクリオが身を乗り出すように言い募る。
「だが、あのままだとロゼは完全に憑魔に…!」
「ふふ…その通りだ」
ふいに割り込んできた笑い声に、全員が一斉に視線を向ける。国旗のはためく柱の上に、薄笑いを浮かべた天族の少女がそこにいた。
「まぁ、あの怪我ではその前に命が尽きるだろうがな。どちらにしてもあいつに取り込まれるだけだ」
そう言って、愉しそうにパタパタと足を揺らした。天響術で黒い光を出した彼女は、二つの光を掲げて両腕を広げる。
「さぁ、道は二つだ。決めたまえよ」
自らで作った天秤に浮かぶ光を一つずつ消して、少女はスレイを見下ろした。
嘲りの混じったその視線と言葉に、息が詰まるほど大きく心臓が跳ね上がった。
乱れそうになる呼吸を必死に抑えようと、マント越しに胸元を押さえる。
「導師は時に決断を迫られる……そうだろう?」
「お黙りなさいっ!!」
彼女の芝居がかった台詞に、今までに聞いたことのないほど激昂したライラの怒声が場を切り裂いた。
「自棄を起こすのだけはやめてくれ、導師よ!それでは折角ここまで整った舞台が台無しだ!」
少女はそれすらも愉悦とばかりに受け流して、闇に溶けるように消えた。どうやら幻影だったようだ。
「どうすれば…っ!」
からからに乾いた喉からようやく声を絞り出して、スレイはマントにしわができるほど強く握りしめた。
どうすればいい。どうしたらロゼを助けられる。
鈍器で殴られたような鈍い痛みが頭にがんがんと響く。考えがまとまらない。答えが出てこない。
「……?」
ふいに、カツン、と鞘とは別のものが石畳を叩いた。
その音に目を動かしたのは、まさに藁にも縋る思いだったからだろう。
誘われるように視線を落として、床の上で揺れる物にスレイは目を見開いた。
「ジークフリート…」
おもむろに木と金属でできた銃を拾い上げて、スレイはそれを凝視する。
ザビーダから譲り受けた銃。その能力は、確か。
「ザビーダ!」
ばっと勢いよくもうひとりの風の天族の男に顔を向けてスレイは尋ねる。
「この銃は、穢れとの結びつきを絶つことができるんだよな?なら、これで憑魔を撃てばロゼを助け出せるんじゃないか?」
以前の持ち主であった男に、期待の眼差しが降り注ぐ。
縋る思いでじっと返答を待った。だが、ザビーダは複雑そうな顔をしてその希望を打ち砕く。
「俺と初めて会ったときのことを忘れたのかよ。今ロゼちゃんはあの一つ目に取り込まれかけてる。弾の威力が伝わっちまうのがオチだ」
言われて、天を突きあげるほどの高い山脈の景色が脳裏によぎる。思い出してぐっと奥歯を噛んだ。
そうだった。あの時襲われた憑魔は、ザビーダの撃った弾で穢れもろともとり憑かれていた天族の命すらも消滅させてしまったのだ。
亡骸のない墓を作った土の感触を思い出して余計に手に力がこもった。そのまま石畳に叩きつけたい気分だ。
「……その銃弾に、意思があったとしたらどうだ?」
ふと、低い声音が重い沈黙を破った。視線を彷徨わせれば、いつの間にか起き上がっていた風の天族の青年が視力を失った眼でザビーダをひたと見据えていた。
「デゼル…?」
「おい、どうなんだ?」
「…おいおい、俺様にはザビーダっつーナイスでクールかつ紳士的な名前が――――」
「ふざけるな。いいから俺の質問に答えろ」
肩を竦めておどけた男をにべもなく一蹴して見据える。青年の様子に、ザビーダはからかうために吊り上げていた口端を引き結んで、やがて諦めたようにため息を吐いた。
「……可能性はある」
「…そうか」
重さのある低音から聞いた答えに、デゼルは短く相槌を打った。
「デゼル、ザビーダ…?」
ただそれだけの応酬。にもかかわらず、そのやりとりにスレイは首の後ろに寒気が走った。
スレイ、と落ち着いた声でデゼルが自分を呼んだ。声音と同じく、怒りも執着もない静かな表情で彼はこちらを見ていた。
ザビーダの傍でライラがはっと口元を手で押さえた。エドナは相変わらず、無言のまま障壁を築いている。
頭の中で警鐘が鳴り響く。早鐘を打つ鼓動が耳まで伝わってきてうるさい。
再び、デゼルがゆっくりと口を開いた。どくん、とひと際大きく心臓が跳ねる。
「俺がソレの銃弾になる。俺自身を攻撃として撃ち出せ」
いっそ穏やかにも思える淡々としたデゼルの声は、真っ直ぐにスレイの耳に突き刺さった。
「それはただの特攻だ!」
いち早く彼の言葉に異を唱えたのはミクリオだった。肩を怒らせて、その提案をしたデゼルを睨み付ける。
「そいつも言っていただろう。可能性はある。俺の力にその銃弾の力を上乗せすればいけるはずだ」
「何を根拠に…」
「憑魔と同化しつつも、意思のある攻撃となって繋がりを見つけて、そこにのみ打撃を与えられる……確かに、可能性としてはゼロじゃないわね」
「エドナまで何を!」
ずっと黙っていたエドナが呟いた言葉に、ミクリオが声を荒らげる。その小さな背中は溜め息とともに軽く肩を下げただけで、何を思っているのかわからなかった。
「―――駄目ですっ!」
裏返った叫び声が聞こえてきたのは、数秒の間の後だった。
頭の中が真っ白になっていたスレイは、その声に我に返る。見上げた視界に、鋭い視線を送る少女の姿が映った。
「別の方法があるはずです。ロゼを救える方法が他に…!」
両手を強く握りしめて、アリーシャはデゼルにそう言い放った。翡翠の双眸には、強い拒絶の色が浮かんでいた。
彼女の急な変わりように戸惑いつつも、スレイも同じ思いだった。
デゼル自身を力と変えて、ジークフリートで撃ち出す。そんなことが可能なのかと思ったが、その銃を所持していたザビーダ自身ができると言った。
ならば撃ち出されたデゼルは、そのあとどうなる。
ザビーダは、銃弾は”最後の一発”だと言ってスレイにジークフリートを託した。つまり、そういうことだ。
その結末を知っていて、彼を撃ちたくなどない。
(撃ちたくなんかない…けど…)
けれど幾分か平静を取り戻していた思考が、自分の意思とは別の答えを弾き出そうとしていた。
ライラがアリーシャを見て、端麗な顔を辛そうにゆがめながら口を開く。だが、デゼルは彼女が話し始める前に視線で制し、アリーシャに向けてゆっくりと首を横に振った。
「これしかない。あったとしても、見つけ出す時間はない」
はっきりと否定するデゼルに、アリーシャはぐっと押し黙って唇を噛んだ。傍から見ても痛そうだと思うほど、強く。
スレイは口を開いて、しかし何も言えずに口を噤んだ。アリーシャとデゼルから放たれる雰囲気が、二人以外の者を拒んでいるような気がした。
「……置いて…いくのですか?」
無音で押し潰されそうな空間に、震えた声を零したのは少女の方だった。
「全てを隠したまま、ロゼのことを置いていくおつもりですか…?」
顔を上げたアリーシャを見て、スレイは目を見開いた。
怒っているのかと思った。けれど違った。先程までの彼女とは程遠い、寄る辺のない子供のような顔だった。
これほどまでに明らかな怯えを宿した彼女ははじめてだった。
「姫さん……」
「知りたいと思っても、デゼル様でなければわからないんですよ。デゼル様の思いはデゼル様以外、誰も伝えられないんですよ…」
感情をそのまま吐き出したような声がスレイの胸に突き刺さる。気道を塞がれたような息苦しさに、自然と呼吸が浅くなりはじめる。
ふと、思い出した。まだ彼女が仲間になったばかりの頃のことだ。
「教えてほしいことも、話したいことだってこれからきっと増えるのに!なのに…っ」
王宮ではあまり境遇がいいとは言えない彼女が嬉しそうに、そして少しだけ寂しそうに話してくれた、ひとつの思い出話。
幸せだったと言っていた。大好きで、尊敬していたと語っていた。
「そう思ってももういなかったら!残された側が、何を思うと思うんですかっ…!」
今にも泣きそうな顔で少女は懸命に訴える。そんなアリーシャを、ライラが悲しそうに見つめていた。
「アリーシャ…」
そうだ。彼女は幼い頃に、自分の両親を失っていた。
「……ああ、そうだな」
短く、デゼルが静かにそう呟いた。
その一言だけで、スレイは悟ってしまった。
アリーシャは大きな瞳が落ちそうなほどに目を見開く。涙はこぼさなかった。けど、わなないた唇が泣きたいのを必死に堪えているのだとわかった。
その姿に言葉にしきれない何かがこみあげてきて、思わずスレイはアリーシャに手を伸ばした。一瞬躊躇って、そっと触れた肩はやはり華奢だった。
「…スレイ、銃を」
その言葉に、身体が慄くように跳ねた。その震えは自分と彼女、どちらのものだったのだろうか。
歯を食いしばって、アリーシャ越しにジークフリートを渡す。息を呑んだ音とともに白いグローブの手に腕を掴まれたが、止められることはなかった。
手渡してから、デゼルを見上げた。自分よりも背の高い青年は、僅かに、本当に僅かに微笑していた。
「デゼルっ…!」
わかるだろ、と無言で訴えられた。
ありがとう、とも言われた気がした。悪い、と謝られた気分だった。
鼻の奥がつんと熱くなる。滲みはじめた視界を慌てて拭う。もう一度デゼルと目を合わせて、しっかりと頷いた。
自分の覚悟が足りないせいで、もう間違いたくはないから。
だから、決めた。デゼルの覚悟ごと背負う覚悟。他の誰でもない、自分自身で。
「頼むぜ……しくじるなよ!」
滅多に見せることのなかった笑顔を浮かべたまま、デゼルは最後の弾で己のこめかみを撃ち抜いた。
◆ ◆ ◆
―――どこだろう、ここ?
浮遊感を味わいながら、ロゼはふと疑問に思った。
地に足がついていない。身体の感覚もぼんやりとしている。意識して夢を見れば、こんな感じなのだろうか。
そっか、じゃあこれは夢なんだ。どうりで何かフワフワしてると思った。
―――ロゼ……
ひとり納得していると、どこかで名を呼ぶ声がした。首を傾げていると、もう一度ロゼ、と呼ばれる。そこで自分が目を閉じていることに気付いた。
視界に移ったのは、何もない空間。暗くはない。あたたかな光が降り注ぐ、如何にも夢らしい場所。
ふいに頭上に影が落ちた。何だろうと上を向いた瞬間、軽い何かが顔に落ちてきた。
「わっぷ!一体何…!?」
慌てて手に取って見てみれば、それは見慣れた黒いシルクハットだった。何度も縫い直した跡のある、けれどとても大切に使い込まれた古めの帽子。
「ロゼ」
帽子に巻かれた丸い金属の装飾品に触れたその時、再び低い声音が耳朶に響いた。
ばっと勢いよく顔を上げれば、黒衣を纏った青年が目の前で同じように浮いていた。
「デゼル…」
よかった、無事で。
そう言いかけて、そういえばこれは夢の中だったと思い出す。いや自分の推測だから夢とは限らない。しかしだったらこの不思議空間は一体何なのだろう。
眉間にしわを寄せて悩んでいると、小さな笑い声が聞こえてきた。
珍しい、あのデゼルが笑うなんて。やっぱりここは夢なのだろうか。
「俺は謝らなきゃならん。俺のせいでお前を……風の傭兵団を不幸にした」
すまなかった、と続いてデゼルは頭を下げた。その拍子に長めの前髪が彼の表情を隠した。
いきなりのことにロゼは目をしばたかせる。だが、すぐに呆れたような顔をして溜め息を吐いた。
「言いたかったのはそれ?」
おそらく不幸というのは、五年前のあの事件のことだろうとは察しがついた。だが、人の夢に出てきてまで言うことだろうか。
そう暗に含ませて言った。だって本当に謝罪なんて求めてなかった。そもそも未だによくわかってないのに、一方的に謝られても困る。
デゼルが顔を上げ、訝しげにこちらの様子を窺ってきたところで笑いかける。
「ハタから見たら不幸ってことになるかもだけど、あたしはぜんっぜん、不幸とか感じたことないよ」
それでもわからないなりに、ロゼはロゼの想いをデゼルに伝えた。
「五年前のあの出来事で、あたしたちはバラバラになってもおかしくなかったのに……風の骨、セキレイの羽としてまた一緒に旅ができた」
あのエドナに負けず劣らず生意気な天族の少女が言っていたことが真実なら、今の自分達があるのはデゼルがきっかけを作ってくれたおかげだ。例えそれが復讐のためであったのだとしても。
「…嬉しかった。感謝してるよ、あたしは」
操られて出来上がった組織だったとしても、それを決めたのは個々の意思だ。エギーユもトルメもフィルも、いつも無口なロッシュだって。
胸に宿っている決意も覚悟も、自分で決めた自分だけの想いで、それが集まって家族の絆になっている。
それが本物だと、何よりも自分自身がわかっている。
だから、それでいい。今自分が立っている道に、後悔なんてない。
俯いたまま黙りこくるデゼルに、段々と照れ臭くなってきて茶化すように肩を叩いた。
「ほーら!なんとか言えって!何か恥ずかしいじゃん」
ばしばしと遠慮なしに叩くと、一回りほど大きな身体が軽くよろめいた。肩を押さえて呻いていたデゼルにちょっとやりすぎたかと苦笑いしながら謝る。
「……俺は半端もんだ。結局、何も碌にできなかった」
ようやく口を開いたデゼルが、そう呟いた。
夢のデゼルはやけにネガティブだと口がへの字に曲がった。だけど聞こえてくる声はいつもと正反対に優しくて、微妙にくすぐったい気分になる。
「けど、たったひとつだけ、ちゃんと出来たよ。そのたったひとつをやり遂げたことが、本当に嬉しい」
「やり遂げたこと…?」
何のことだろう。でも、耳に届く声音は本当に満足気だ。
自分の顔の筋肉も緩んだのがわかった。いつだって不愛想でだんまりを決め込んで、自分のことをあまり話さない天族だったから、心からの本音を言ってくれていることがロゼも嬉しかった。
「俺も…感謝してる」
やがて、デゼルはゆっくりと顔を上げた。
「サンキュな」
少しだけ照れ臭そうにそう言って、彼は穏やかに微笑んだ。
「デゼル…?」
だが、ロゼは何故かその顔に不穏なものを感じていた。ざわつきはじめた胸を抑えるように、デゼルの帽子をぎゅっと抱きしめる。
「スレイたちに、お前らとの旅、悪くなかったって言っといてくれ」
「へ?何でいきなりそんなこと…」
ふわりとデゼルの身体が上がりはじめた。ロゼは慌てて手を伸ばすが、ジャケットの端に指が掠めただけだった。
ざわり、と気持ち悪い感覚が再び身体を撫でる。
「あいつらがもし悩んでたら…お前ら、やりたいことがあるんだろうが!いつまでもくよくよしてると、俺の鎖で締め上げるぞ!って、ケツを叩いてくれよ」
「そんなのデゼルが自分で言えばいいじゃん!いなくなるわけじゃ、ないん…だし……」
自分で言った言葉に、ロゼは固まった。
凍り付いた表情のままデゼルを凝視する。デゼルはただ黙って、静かに笑っただけだった。
その瞬間、全身に鳥肌が立ちそうなほどの寒気が駆け巡った。
「ちょっ…と待って。デゼル、あんた話してくれるって言ったじゃん」
全てが終わったら話してくれると。黙っていたことを教えてくれると。
そう約束した。デゼルはわかったと了承した。
「ねぇ、ちょっと…」
「じゃあな、お前は…」
「待ってってば!」
「お前は、そのままでガンバレよ」
なのにデゼルは笑って、何も言わないまま自分の前からいなくなろうとしていた。
「――――ふっ……ざけんなぁぁぁぁ!!」
頭の中で何かが切れた。全身が沸騰するように熱い。溢れる激情に腕がぶるぶると震えている。
そんな言葉が聞きたかったんじゃない。そんなことを知りたかったんじゃない。
「あんたはよくてもあたしはよくない!あたしは!デゼルから何も聞いてない!」
ロゼはあらん限りの力を振り絞って声を張り上げた。
ふざけんな。ふざけんなふざけんな。あんたは何も言わないけど、ウソはつかないヤツだった。だから知りたかったけど待つことにしたんだ。
なのに、あたしとの約束でそれをひっくり返すなんて。
「あたしが教えてって言ったのはデゼルなんだよ!デゼルが教えてくれなくちゃ意味ないの!わかるでしょそれくらい!」
喉が痛い。目も痛い。頭だってガンガンする。こんなのひどい裏切りだ。
それなのにデゼルは困ったように笑っただけだった。それだけで、こっちには戻ってこない。
頭の中で自分の意に反して今までの記憶がどんどん思い浮かんでくる。常にちらつくのはデゼルの姿だった。
「っ、勝手に…!」
やめろ。何終わらせようとしてんの。あたしは全然納得してないんだから縁起でもないことすんな。
知ってるから。わかってるよ。そういうことなんだってもう気付いてる。
でも、こんなのってないじゃん。ずっと隠されて、知らないままで。
強引に踏み込めばよかった?そうしたら話してくれた?もっとよく見てたら気付けてた?
ヤなくらいそんな後悔ばっか溢れてくる。
だから、言うだけ言わせてよ。まだ終わらせないで、あと少しだけ。
「勝手に自己満足して終わらせんなバカ野郎ぉ―――!!」
ここまで言わないと、お礼のひとつも出てきそうにないから。
しゃくりあげそうになるのを必死に堪えて、ロゼは声が裏返るほどになりふり構わず叫んだ。
◆ ◆ ◆
「ライラ様、ロゼは…」
「……大丈夫です。意識がないだけですわ」
石畳に横たわる少女の状態を診ていたライラが、そう言って硬い表情を崩した。彼女の言葉に、アリーシャもほっと胸を撫で下ろした。
その表情に僅かなぎこちなさを感じて、スレイはそっと視線を逸らす。手放しで喜べないことが、自分も苦しかった。
硬直していた事態が動いたのは、一つ目の憑魔が大きく震えたしたのがはじまりだった。
抗うように痙攣しだした憑魔が突如風船のように膨らみ、目の眩むほどの光を内側から放って破裂した。
溶けるように触手がどろどろと液状化しはじめたのはその直後だった。束縛していたものが消え、爆風で宙へと放り出されたロゼをザビーダが受け止めてスレイ達の元へ運んだのだ。
憑魔に貫かれていた腹部に外傷が見当たらなかったことが不思議であったが、大事にならなくて何よりだった。
そう思いながらスレイも安堵の息を吐き、そしてふと一つ目の憑魔がいた場所に目を向けた。
そこには、最早憑魔の成れの果ての何かに変わりつつあった。飛び散ったかけらが散乱し、大きな塊は元の球体の影も形もない。スライムがもっと醜く溶けたような、ゲル状の物体がそこにあった。
スレイは痛みに堪えるようにきつく目を瞑った。気を抜くと嗚咽がこぼれそうだった。
「―――彼の死を、どう思う?」
ふいに、何処からともなく幼い少女の声が聞こえてきた。口にしたくなかった言葉を直球に投げかけられて、身体がぎくりと軋んだ。
背後の空気が一瞬にしてぴんと張り詰める。その気配を感じ取っているにもかかわらず、声音はさらに愉しげなものに変わった。
「なぁ、導師。どう思う?彼のように人に惹かれるほど…加護を与えれば与えるほど、人を不幸にする天族は、存在してはならないのだろうか」
夜闇に浮かび上がる白い顔が、にぃっと笑みをたたえて尋ねてきた。
「彼の存在自体が悪で、滅されるべきなのだろうか」
はじめの一言に動揺していたスレイは、しかし続く彼女の問いかけに眉をひそめる。
何故、彼女はそんなことを聞いてくる。揺さぶりをかけているのかと思ったが、それだけではない気がする。
じっと少女を凝視する。紅と紫が混ざり合った瞳の奥に何が潜んでいるのか。
しかし、視線が交差する前に少女の目が別の方向に動いた。
「そんなワケ、ない…」
自分よりさらに奥を意外そうな表情で見ていることに怪訝に思っていると、背中から小さな声音が聞こえてきた。
勢いよく振り向けば、意識を失っていたはずの少女がいつの間にかスレイの後ろに立っていた。
「ロゼ―――」
「デゼルの存在が悪なんて、そんなワケない!」
ふらつく身体をライラに支えてもらいながら、ロゼはそう強く言い放った。
「吠えるなぁ、娘よ」
今にも飛びかからんばかりに睨み付けてくる彼女に、少女は再びおかしそうに笑って、ゆるりと目を細めた。
「貴様も一時は同じ理由で、導師を葬ろうとしたというのに」
少女の遠慮のない指摘に、ロゼははっと目を見開いて言葉に詰まる。
そんなことまで知っているのか。押し黙るロゼをちらりと一瞥して、スレイは漆黒の少女を見据える。
「お前は一体、何者なんだ?」
自分達を監視していたような物言い、揺さぶりをかけて穢れを生み出そうとした行動。
何が目的なのだと、問い掛けたはずだった。
「我が名はサイモン。彼と同じく業を背負った、憐れな天族だよ」
それを知ってか知らずか、少女はふわりと宙に浮いてゆったりと微笑んだだけだった。
―――今は悼んでやりたまえ
その言葉を残して、サイモンと名乗った天族は溶けるように姿を消した。
静まり返っていた街に、やっと自分達以外の音が戻ってきた。木々のざわめきや風の音は、これほど大きいものだったのだろうかと思わず空を仰ぐ。
雲一つない綺麗な夜空。首が痛いほど見上げて、スレイはくしゃりと顔を歪めた。
間違いはしなかった。そっちを選ばなかったら、最悪の結末になっていたはずだ。
だが、このやるせなさはなんだろう。悔しい。虚しい。何かを成せた気がしない。
円よりも欠けた月がぼやける。この苦しさを、スレイは知っていた。
脳裏によぎる顔がある。民を、国の行く末を憂え、その思いが行き過ぎて人道を外れてしまった人の。
「オレ、また…」
口をついて出そうになった呟きを呑み込んだ。ぐぅっと喉が引き攣り、唸るような声を漏らして俯く。
いつの間にか、しまい込んだジークフリートに手が触れていた。途端に銃を構えたあの感触が甦ってきて、慄くように手を引いた。
緩慢な動作で、銃に触れた手の平を見つめる。自分の手は、情けないほど小刻みに震えていた。
「……っ」
撃つ前に覚悟を決めた。だが、それだけでは足りなかったのだと思い知る。
いつも背中や横顔ばかり見ていた青年の姿が瞼の裏に浮かんでくる。
――――重い。
これが、ひとりのヒトを背負うということ。
見えない重圧に押し潰されそうだ。決めた矢先から、この重みから逃げ出したい衝動が湧いてくる。
逃げたくない、置き去りたい。忘れたくない、なかったことにしたい。
ともすれば溢れ出そうになる後ろ向きな思いを止めたくて、両手をきつく握りしめる。
身体の芯まで冷たさが侵食してくる。そのまま凍り付いて、動けなくなってしまいそうだ。
こんな思いをしたのだろうか、あの時のデゼルも。
「オレ…は……っ!」
握る感覚すら麻痺しはじめたそのとき、ふいに手の甲に柔らかな感触が触れた。
反射的に離れようとした手は、しかし逆に包まれるようにぎゅっと掴まれた。驚いて目を向ければ、鈍色に光る鎧から覗く、白いグローブの両手がそこにあった。
「アリーシャ…?」
下を向いて、無言でアリーシャは手を握る。戸惑いながらも、身体から段々と力が抜けていくのをスレイは感じていた。
不思議だった。彼女が触れてくれるだけで、凝り固まっていたものが解れていくような気さえする。
「…スレイまで」
小さく彼女が呟いて、ようやく形のいい頭を上げた。
「スレイまで、どこかに行ってしまわないで…」
か細い声で告げられた言葉に、呼吸が止まった。
そんなことを思わせてしまうほど自分は危うく見えているのだと、アリーシャに言われてようやく知った。
固まった思考が動き始めたと同時に、冷え切っていた全身にじわりとあたたかさが染み込んでくる。
「…ごめん。大丈夫、どこにも行かないよ」
気付いたら、片手で彼女を引き寄せていた。触れた肩は、自分と同じくらい強張っていた。
縮こまった背中にそっと腕を添えて、スレイは視線を前に向ける。その先にいるのは、ロゼとザビーダを中心に佇む仲間の姿。
そうだ、オレはひとりじゃない。
そのことに少しだけ落ち着きを取り戻す。改めて実感できることが、すごくありがたかった。
けど、とスレイは握られた手に力を入れる。
ライラもミクリオも、痛みに堪えるような顔をしている。エドナはいつものように無表情だが、纏う空気に影が差しているように思えた。石畳に座り込んでいるロゼとザビーダも、疲労の濃い顔をしていた。
無意識に彷徨いだす視線に、はっと我に返って下を向く。
いつもだったら、皆と数歩距離を置いた場所で佇んでいるはずの人影がない。見えないのではなくて、本当にいない。
「……る…」
声にするつもりのなかった言葉が口から零れ出た。瞬間、申し訳程度に肩に触れていた頭がぎくりと怯んだ。
どうやらアリーシャには聞こえてしまったらしい。
腕にまで震えが伝わってきた。思わず謝ろうとして、けれど出てきた言葉は別のものだった。
「デゼル…っ!」
もう一度出てきた名前に自分で驚いた。次いで堰を切ってこみ上げてきた感情に、息が止まりそうなほど喉が引き攣った。
アリーシャの言った通りだ。いなくなってから、いつかいつかと思っていたことが溢れ出てくる。
もっと話せばよかった。もっと知ればよかった。もっと、沢山。十分だと思うくらいに。
『―――――――何だ』
ふいに耳朶に響いた低い声音に、スレイの頭は真っ白になった。
「デ、ゼル…さま…?」
『……だから何だ』
もう一度、弱弱しい声であったが今度はしっかりと耳に届いた。
ようやくその声が誰であるか理解して、スレイは勢いよく顔を上げた。ほぼ同じタイミングでアリーシャも振り返る。
先程目にした光景を変わっていなかった。ただ、各々が浮かべる表情は変わっていた。
皆一様にスレイと同じように驚いた顔をしているなか、ひとりだけ別の表情を浮かべている人物がいた。
スレイと目が合うと、おどけるように親指を立てた。
「引きずりおろしてきちゃったぜ」
そう言ってロゼは、疲れ切った顔でにしし、と笑った。
「―――っ、デゼル様っ!」
「デゼルさぁぁん!」
「うわっちょっあだだだだタンマタンマ!鎧とか金属当たって痛いし二人とも力強すぎだっての!」
感極まった様子でアリーシャとライラがへたり込むロゼに飛びついた。悲鳴を上げて二人を引き離そうとする少女の後ろで、複数の溜め息が落ちた。
「まったく…心配させてくれるよ」
「ホントよ。あと少しで号泣するところだったじゃない。ミボが」
「誰が号泣なんてするか!」
「しないの?そんな薄情な子だったのね」
いつもの小競り合いに勝つのはやはりエドナで、ミクリオは唸りながら口を噤む。
アリーシャが離れたときの態勢のまま呆然とその光景を眺めていたスレイは、騒ぐ彼らに堪えかねてうるさい!と叱るデゼルの声を聞いて、やっと上げていた腕をおろした。
「よかったな。あいつも、お前も」
いつの間にいたのか、横を向けば口の端を釣り上げてにっと笑うザビーダがいた。
ザビーダの言った言葉の意味を、スレイはちゃんとわかっていた。だから、答えるために頷いた。
「…うん、よかった…」
よかった。生きていた。生きていてくれていた。
一気に日常が戻ってきたような心地になりながら、スレイはその風景をただ泣きそうに笑って見ていることしかできなかった。