もしもの物語-14-




ヒュッと冷たい風が広大な土地の上を滑り抜ける。柔らかな土から生える黄金色の小麦が、その風に煽られてさらさらと揺れた。目を閉じてみれば、それは波の音にも聞こえた。
今はまだ市街を整えることが優先で手が回りきっていないようだが、いつかはこの小麦畑も元の豊穣の大地を取り戻し、新しい種がまかれて今よりも一層金色に輝く草原が再び見えることだろう。雨が降っていたころに比べて、風が格段に穏やかだ。
「……のに、何やってんだかねぇ…」
呆れ混じりのため息は、誰に向けてものか。零れた独り言は、そのまま夜の冷えた空気に溶けていく。
忍び寄る夜気の気配に欠伸をひとつもらしながら、男はふいに口の端を吊り上げた。
「……来たか」
仰向けに空を眺めていた男は半身を起こし、巨大な城壁の方へと目を向ける。現れた人影に、その者の足音を隠すように男は風を吹かせた。
互いの意志を賭けた勝負をした。自分が負けて、道を譲った。そこに文句などひとつもない。本気でぶつかり合った以上、邪魔はしない。
――――だが、それでも。
「このまま丸投げってのは、夢見が悪いもんでな」
やがて夜の暗がりでも姿が見えるほど近付いた姿に、風の天族はにやりと笑って立ち上がった。


◆   ◆   ◆


「…うん、もういい時間だね。行こう、スレイ」
ペンドラゴに来る度に世話になっている宿屋の一室で、じっと時計を見ていたロゼが真剣な眼差しをスレイに向けた。その視線にベッドに腰かけていた少年は頷いて静かに立ち上がる。
「じゃあ、行ってくるから」
振り向いた先にいるのは、部屋の端に置かれた椅子に座る少女。背筋を伸ばしてスレイ達を眺めていた彼女は、心配そうな色を瞳に浮かべながらも力を込めて首を振った。

先日トルメとフィルから聞いた風の骨の依頼は、ローランス帝国の秘書官からのもの。代理人ではなく、直接本人から依頼内容を聞くと言ったのはロゼだ。
つまり、スレイ達は必然的にローランス帝国の中枢に潜り込むことになる。
アリーシャは末席ではあるがハイランド国の王女だ。幸いにも王族では下位の地位であるゆえ、ローランス国民に彼女の顔を覚えている者は今までいなかった。だが、中枢ともなると話は別だ。
もしもその場にアリーシャの正体を知っている者がいたとしたら。最悪の結果を招くことになるのは想像に難くない。
そのため、今回アリーシャは宿屋で待機することになった。アリーシャは思いつめた表情をしながらも、その危険性を重々承知してかすぐに頷いてくれた。

「今夜は城内で、教会と騎士団が集う二者協議会が行われていると聞いた。おそらく城内の警備は相当厳しいものになっているはすだ…くれぐれも気を付けて」
透明な翡翠の瞳が真摯に向けられる。強く輝くその双眸に何故だか目を逸らしそうになりながらも、スレイはぐっと力を込めてアリーシャを見つめ返した。
「うん。アリーシャも、危険だと思ったらどこかに隠れてて」
「…ああ」
僅かな間をおいて、アリーシャがもう一度首を縦に振る。それを確認してから、スレイ達は夜の市街地へと踏み出した。


しん、と静まり返った室内で、小さく息を零した。思いの外大きく響いた音に、無意識に腕を擦った。
「……あと少しで、明日ね…」
残された少女はひとり、ぽつりと独り言を零す。淡い笑みを浮かべていた口元は、既に固く結ばれていた。
宿屋の燭台が一瞬、風にあおられるかのように大きく歪む。ひしゃげた灯の影が、意向の凝らされた壁にシミを作る。

それが元に戻った頃には、部屋には誰もいなかった。
夕方まで暖かい光を灯していた明かりは、まるでこれから起こる出来事を暗示しているかのように、やけに怪しく揺らめいていた。


◆   ◆   ◆


石畳の床をブーツがコツコツと音を立てる。ひんやりとした空気が服の隙間から入ってくるようで、少し肌寒い。
スレイは導師のマントを引き上げながら、夜の街を静かに歩いていた。
「…そういえば、ムルジムさんは大丈夫かな?」
城に行く前に下見がしたいというロゼの希望で街を回っていたスレイは、ふと脳裏に白くてそれはそれは丸い猫の姿がよぎる。向けた視線の先にあるのは、ペンドラゴ教会神殿だ。
ムルジムとは、ペンドラゴ周辺を加護する高位天族だ。以前この街で巨大な虎獣人の憑魔と化していた彼女を、スレイ達が浄化して天族に戻した。その際にこの街の加護をさせてほしいと、自ら願い出てくれたのだ。
今はペンドラゴ教会神殿の黒い碑文の前で人々の祈りを受け、加護領域を展開してくれている。
ペンドラゴだけではない。今までスレイ達が訪れた街や村には、様々な縁が重なって高位天族が加護天族となって領域を展開している。そのおかげでスレイは自分のなすべきことに専念できている。
「大丈夫なんじゃない?ちゃんと加護領域は展開してるし」
軽い口調で返すエドナの言葉に、ライラも同意して口を開く。
「ムルジム様は強い加護をお持ちの方です。例え中枢に憑魔がいたとしても、寧ろ弱ってしまうのは憑魔の方ですわ」
「なるほど…ジイジの領域と同等の力ということか」
ミクリオが納得したように頷いていると、その隣でデゼルがフン、と鼻を鳴らした。
「好都合だ。その方が仕留めやすい」
「……デゼル…」
気が高ぶっているのか、いつもよりも好戦的な声色で話す青年をスレイは悲しそうに見つめた。しかしすぐに首を振って顔を引き締める。
(結局オレは、デゼルの気持ちを変えることはできなかった…)
自分が説得するには、デゼルの復讐に対する想いはあまりにも深く強固だった。
そう思って、違うと首を振る。
説得できるだけの力や経験が足りなかったのだ。デゼルを変えることができるほどに彼に歩み寄り、重く頑強な心を開くことはできなかった。
だが、彼が己の手を血で染めようとすれば、止めたいという意志は今もある。
けど、それでも無理だったら、その時は――――。
スレイはそっと腰元を探り、冷たく固い感触を見つけて握りしめる。
ザビーダから受け取ったジークフリートという名の銃。もしもデゼルを止められない場合は、これを使えと言われた。
ならば、覚悟をしなければならないことは、きっと……。

「これはこれは頭領……ようこそ」
突如届いた聞き覚えのある声に、スレイ達は足を止めて振り返った。
くつくつと人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべる、猫背の男。病的なまでに白い顔には、切れ長の瞳から覗く金にも赤にも見える色。背に大きく流れるくすんだ黄金色の髪。
「お前は…!」
スレイはきつく拳を握りしめて、鋭く男を見据えた。
覚えている。この男は、友であるマイセンを殺し、そしてアリーシャを狙っていた―――。
「ルナール!うちらの掟を破っておいて、よく堂々と顔を見せられたもんね…!」
キツネを彷彿とされる相貌の男に、ロゼは怒りの滲んだ声音でかつての仲間の名を呼んだ。
「あんたその姿…憑魔?」
常人とは違う、細長く尖った耳とその肢体から立ち上る濃紫の欠片に少女は顔を険しくする。その表情を見て、ルナールは愉快そうにククッと喉を鳴らした。
「おお、怖い。いい目だなぁ!頭領!」
言いながら、ルナールはふいに身体をかくんと傾けてロゼに迫った。
静寂に包まれた街に、耳に残るような高い金属音が反響する。
「おい、今ここにいる憑魔はお前だけか?」
「へっ、相変わらずお前さんも美味そうだ。いい怒りだ」
「答えろ!今てめぇにかける時間はねぇんだよっ!」
ルナールが距離を縮めるよりも早くロゼの前に滑り込んだデゼルが、食い込んだ爪ごとペンデュラムを薙ぎ払いキツネ男を吹き飛ばした。
チッ、と舌打ちをしたキツネ男は大きく後退する。己の腕を眺め、それから忌々しげに彼方を睨んだ。
「領域とやらか…チクショウ、うざってぇ…!」
加護領域のことだろう。ライラ達の言う通り、彼女の力は相当なもののようだ。
「どうやら、ワタシたちがここに来ることがわかっていたみたいね」
「あの双子は、こいつに偽の情報を掴まされたという訳か」
傘と長杖を構える天族二人の会話に、赤髪の少女は奥歯を噛んで男を睨む。
「あいつ、何が目的なの…!」
「ライラ!」
スレイは己の主神の名を呼んで目配せをする。その視線を受け止めたライラは静かに頷いて、彼と呼吸を合わせる。
しかし次の瞬間、言いようのない違和感がスレイ達を襲った。
「何、この感覚…?」
張り詰めたエドナの声音が、やけに大きく響く。何かに覆われたような、不可思議な感覚。
それに、とエドナは猫のような瞳を細めて視線を巡らせる。
無音だ。自分達の発する音以外、木々の擦れや獣や虫の鳴き声、夜のさざめきさえも消えた。
まるでよく似た別の空間のようだ。
「クッソ…!」
キツネ男が更に不機嫌そうにあらぬ方向を睨めつけたのをエドナは見逃さなかった。
「―――余計なことはしないでもらおうか」
刹那、子供のように甲高い、けれど落ち着いた声が市街に響いた。
その高音には似つかわしくない妖しさを孕んだ声色に、スレイ達はさらに警戒を強めて周囲を見回す。
そのなかでひとり、動きを止めて立ち尽くす者がいた。
「この、声は…!」
「デゼル?」
愕然と、掠れた声で小さく零した呟きを拾ったロゼが、訝しげにデゼルを見上げた。
「うるさい!俺の邪魔しようってか?」
「キツネ、お前の役目は彼らを誘うことであろう」
宙に向かって叫ぶルナールに、再び大人びた少女の声が耳に届く。
「余計なマネをして、あの方の怒りを買ったらどうしてくれる!」
落ち着いた声音から一転、憤りをあらわにして責め立てる声に、ルナールは先ほどの勢いを潜めてうっと呻く。
スレイはルナールの視線を辿るが、その先にはただ星が散る夜空が広がるだけで声の主はいない。
「どこにいるんだ…?」
そう小さく呟きながら目を動かす。おおよその居場所すらわからない。真っ直ぐではなく、壁に反射したように反響して聞こえるからなおのこと見当がつかなかった。
「待て!」
吼えるようなロゼの張り上げた声にスレイははっと視線を戻す。戻した視界では、ちょうどルナールが街の中心部へと姿を消したところだった。
「スレイ、行くぞ!」
「わかってる!」
先にキツネ男を追っていったロゼとデゼルに遅れて、スレイも慌てて町中へと駆け出した。


多分、そうなんだ。
夜闇でも目立つ赤い髪を見失わないようにしながら、スレイは確信に近い推測を抱いた。彼女の横を走る黒衣の青年は、こちらに目もくれずに敵を追う。
子供のような高い声が響いた瞬間、デゼルの身体が硬直した。握りこまれた拳が、零れた声が震えていた。
「あの声の主が、デゼルが探していた憑魔…」
友を殺し、『風の傭兵団』に濡れ衣を着せて犯罪者集団に仕立て上げた。彼が五年もの間、復讐という激情を抱き続けた仇敵。
けど、とスレイは目を細める。
「ライラ、気付いてる?」
確認のための問いかけに、己の主神は戸惑いを浮かべた表情ではい、小さく肯定する。
「この領域は、穢れをもっていませんわ」
やっぱり。スレイは内心で独りごちる。
天族でも憑魔でも、強い力を持つものは己の力を発揮する空間を作り出すことができる。それが領域だ。
天族ならば加護を人々に与えてくれる。対して憑魔は領域内の穢れを強め、さらなる穢れを呼ぶ。疫病の街と化したマーリンドがまさにその状況だった。
だが今感じている領域は、ペンドラゴの地の主であるムルジムの加護領域に近いものだ。
穢れの領域ならば、胸を押し潰されるような圧迫感を伴うはず。
デゼルは憑魔と言っていた。だが、穢れの領域は感じられない。
「……どうなってるんだ?」
疑問ばかりが増え続ける。繋がらなくなった線が矛盾を生み、それが霧となって心にもやがかかる。
嫌な感じだ。
本能がぽつんと小さく、けれど確かな声で警鐘を鳴らした。
「ルナールっ!」
ロゼのよく通る怒声がスレイ達の耳に届いた。次いで閑散とした夜に似つかわしくない、眩い光がその方向から現れた。
仲間達と顔を合わせて頷き、暗い空間にぼんやりと見える教会神殿を目指して速度を速めた。

「娘よ。なかなか良い怒りだった。それが憎悪として芽吹けば、あの方も喜ばれよう」
スレイが辿り着いた先には、ルナールの代わりにひとりの少女がいた。
見た目はエドナと同じくらいの少女だろうか。古めかしい口調からして、エドナと同様に実年齢は外見を遥かに上回っているのだろう。
人形のように大きな黒紫の双眸に、深い切れ目が四方に入った漆黒の服。彼女の病的なまでの細さを際立たせている、首と手足に巻かれた首輪のような太いベルト。
夜の闇が形になったような髪をふわりと揺らし、雪のように白い顔にうっそりとした笑みをたたえて佇んでいた。
やはり穢れは感じない。纏う雰囲気に警戒心が湧くが、彼女は天族だ。
「待ちわびた…!」
「機は熟したろう?お互いにな」
どこか鼻につくゆったりとした物言いで、少女は愛らしく小首を傾げた。犬歯を剥き出しにして踏み出そうとするデゼルに気付き、スレイは慌てて引き留めた。
「待て、デゼル!こいつは憑魔じゃない!」
「関係あるか!ダチを憑魔にし、風の傭兵団を貶めたやがったんだ!絶対に殺す!」
激情のままに怒号した青年を、少女は笑みを浮かべたまま見つめていた。
周囲は変わらず、自分達以外の生物の音が消えたままだ。
「……何言ってんの、デゼル?」
絶妙に空いた間に、静かな問いが落ちた。
視線をずらせば、海の色をした双眸を瞬かせるロゼがいた。困惑を露わにした眼差しに、スレイは身体が強張るのを感じた。
その向こうで、ほう、と愉楽を滲ませた感嘆が零れる。
「この娘にはまだ語っていなかったのか」
「…………」
無言は、時としてどちらかを告げるよりも明確に答えを浮き彫りにする。
くっ、とこらえきれない笑いが静かな街中に落ちた。
「いい。実にいい!最高のお膳立てではないか!」
幼い顔に似つかわしくない愉悦に満ちた表情で、少女は高らかに笑う。
最悪だ。スレイはぎり、と奥歯を噛みしめた。
デゼルが彼女に向ける殺意を強めたのをいち早く感じ取り、掴んだ左腕をさらに強く押さえつけた。
「デゼル!やめるんだ!」
「離せ!俺はこの時のためだけに生きてきた!!」
「ちょっと!いい加減感じ悪いぞ!スレイ、デゼル!何なワケ?!」
まったく訳のわからない状況に耐えかねたロゼが、ついに怒りを滲ませて彼らを問い詰めた。
当然だろう。隠されていることが自分も関わっていることだと暗に伝えられては、流石に黙ったままではいられない。
だがこの状況が、スレイの口をつぐませる。彼が押さえている天族の青年も無言で漆黒の少女を睥睨していた。
「娘、私が教えてやろう」
その間を、逡巡の隙をつくように少女がゆっくりと弧を描く口を開いた。
「この者は死んだ友との絆の証である、風の傭兵団の存続を願うあまりに、霊応力の高いお前を時に操り、利用して、お前たちを暗殺集団という闇社会の住人に仕立て上げた」
先端がバラの蕾を模しているワンドをすいとデゼルに向けて、とつとつと語る。
「そして、憑魔を殺すために神依の力に目につけ、全ては友の仇を討つためと言い聞かせ、お前に干渉し続け、復讐の器となるよう仕向けた」
「……なに、言って」
「そうだ!貴様への復讐!そのために俺は、全てをなげうつ!」
呆然と目を見開くロゼを遮るように吼え、デゼルはスレイの腕を振りほどいた。ペンデュラムを構え、先端の水晶が彼の感情に呼応して輝く。
「ここまで言っても思い出さぬか…」
「お前がすべてを壊した。その事実だけで充分だ!」
「…よくこれほどまでに、自己肯定の幻に溺れたものだ」
教会へ繋がる階段の上で、少女は哀れみに満ちた顔で見下ろしてきた。明らかな同情を向けられて、デゼルの怒りは最高潮に達した。
「絶対に殺す!それこそが俺の存在理由!」
「デゼル!!」
引き留めようと伸ばした腕が空をかく。スレイはくそ、と顔を歪めて暴走する青年を追いかけた。

その状況を見かねたライラが、何もない空間から一枚の紙葉を出現させた。
「仕方ありませんわね…」
そう呟き、厳しい顔つきで半透明な紙葉の上に指を滑らせる。だが次の瞬間、零れ落ちそうなほどに目を見開いて驚愕の表情を浮かべた。
「契約破棄っ?!」
「契約って……まさか、陪神契約のか?!」
悲鳴じみた声に、ミクリオも信じられない思いで主神である彼女に問いかける。こめかみから流れ落ちる汗をそのままに、ライラは同じ表情で首を振った。
「これでは、主神の命でデゼルさんを拘束することができませんわ…!」
ライラ達ははじめから、デゼルが仲間になった理由を知っていた。そのうえで仲間に迎えたのは、いざとなれば主神である自分が彼を止めることができるという算段があったからだ。
それがまさか、こんなことになるとは。
唇を噛みしめるライラを横目に、幼い顔に険を滲ませた少女が石畳を傘で叩いた。
「…随分と面倒なことしてくれるじゃない、あのバカ坊や」
苛立ちを露わにしてそう吐き捨てたエドナは、先ほどから微動だにしないロゼを呼ぶ。
「アナタもいつまでぼーっとしてるつもり?ワタシはお守りなんてご免よ」
「わ、わかってる!わかってるけど…!」
それまで呆然と立ち尽くしていたロゼは、身体を大きく震わせたかと思うと視線を泳がせて俯いた。
「ロゼ、混乱するのもわかるが今は…」
「それもわかってるってば!」
それでも謎めいた少女から告げられた言葉が、それを肯定したデゼルの叫びが頭の中を回り続けて離れない。
風の傭兵団の頃からデゼルは自分たちの傍にいた。崩壊してからも、自分を利用して風の骨を作り上げた。
ロゼは大きくかぶりを振る。違う、そんなことない。ここにいるのは自分の意志だ。自分が選んだ道だ。
……その、はずだ。

「言葉では思い出さないのなら…別の方法を使わせてもらう」
痛いほどの殺意を感じる先で、不穏な気配がふいに広がった。
少女が大きな黒い瞳をかっと見開いた瞬間、華奢な身体がいびつに膨れ上がった。
「うわっ…!」
身体の中に重石を投げ込まれたような感覚がロゼを襲う。
咄嗟に胸を押さえて視線を上げる。そこには少女の面影など一切掻き消えた、ヘドロを押し固めたような
一つ目の怪物が大量の穢れを噴き出して蠢いていた。
「突然憑魔に!?何故…?!」
「やっと正体を現しやがったな!」
「デゼル…?―――っ?!」
いつの間にか、デゼルが傍に立っていた。黒ずくめの輪郭がぼやけ、若草の光と変わる。
同時に意識を彼方に追いやられる感覚がした。身体の自由がきかない。
「デゼル!何をするつもりだ!」
ミクリオの余裕のない叫び声を最後に、ロゼは完全に意識を手放した。


「スレイ、ロゼを止めろ!」
目の前から忽然と消えたデゼルを探して視線を彷徨わせていたスレイは、背筋が粟立つような寒気に剣を構えた。
刃の交わる音と共に翻る深紅の髪。少女から立ち上る激しい殺気に、思わず柄を強く握りしめる。
「ロゼ、一体何を…!」
『邪魔をするな!用があるのはそっちの憑魔だ!』
「この声は…」
返ってきたのは唸るような低い声音。胡乱気な表情で彼女を見返していると、頭の中から声が響いてきた。
『デゼルに身体を乗っ取られたのよ、この子』
『止めてください!私との陪神契約は破棄されました。今のデゼルさんに浄化の力はありませんわ!』
「何だって…!」
スレイは対峙するロゼに視線を向ける。海色の瞳は昏くよどみ、ひたすらに強い憎悪を滾らせている。
自分越しに燃えている明確な殺意に、背中に冷たい汗がつたった。
『どけぇっ!』
「しまっ―――!」
僅かに怯んだその一瞬をつかれた。ロゼの全身から風が吹き荒れ、スレイは奔流にのまれた。
「がっ!」
『スレイさん!』
吹き飛んだ勢いのまま柱に叩きつけられ、ずるずると崩れ落ちながら呻いた。背中が軋む音がした。
「デゼルは…っ」
無理やり吐き出された空気を取り戻そうと呼吸を荒らげながら顔を上げ、視界に映った光景に歯を食いしばった。
白い衣装に金の髪。背中に浮かぶ羽根のように折り重なる緑の剣。
姿を変えた少女が、一つ目の憑魔に向かって疾走していくのが見えた。
「止めないと…!」
ミクリオ!と親友の名を叫ぶ。スレイの意図を正確に捉えた彼は、しかし即座に否定の言葉を口にした。
『僕の神依じゃ無理だ。この距離じゃデゼル相手じゃ避けられるし、一撃で憑魔を浄化するほどの矢を撃つには力を溜める時間がない!』
「じゃあどうすれば…」
立ち上がろうと床に手をついたとき、ふいに手に何かが当たった。瞬きをして何気なくそこに視線を向けて、スレイははっと目を見開いた。

―――『こいつが憑魔を殺すのを止められねえ時は、こいつを撃て。これの力なら、穢れと結びつくのをしばらくは防げる』

頭に響いたもう一人の風の天族の言葉。同時に瞼の裏に閃光が走る。
ポケットから飛び出した柄を掴み、スレイはジークフリートを構えた。
「おっと。最後までやらせてやりたまえ」
だが、弾を撃ち出そうとした瞬間、楽しげな声と共に現れた少女がスレイの前に現れた。
「お前?どうして」
彼女は自分達の前で、あの一つ目の憑魔に変貌したはずだ。にもかかわらず、変わる前と寸分違わぬ姿で今、両手を広げてゆったりと笑っている。
「スレイ、構ってる場合じゃない!」
「先に行ってください、スレイさん!」
「ああ!」
顕現したミクリオ達に少女を任せ、スレイはその場を駆け抜ける。だが、走り抜けた先で再び少女が目の前に立ち塞がった。
速い。行く手を阻む彼女が一人だけだったのならばそう思っただろう。
「どうなってるんだ…!?」
同じ姿で同じように不敵な笑みを浮かべる少女が、数十人も現れなければ。
くすくすと妖しく笑う少女が、歌うように語る。
「私は他者の感覚に作用し、惑わすことができる」
「では、突然憑魔になったように見えたのも…」
「察しの通り。あの憑魔は本物だがな」
丸い身体から生えた触手で神依化したロゼと応戦する憑魔を、まだ丸みを帯びた顎で差し示す。
「お前は何が狙いなんだ!」
風の骨を利用してここにおびき寄せ、デゼルを暴走させた意図は。
ジークフリートを収め、儀礼剣を再び構えるスレイに、少女は漆黒の瞳をついと細めて彼を見返す。
「導師、貴様は知るべきなのだ」
「何?」
スレイは訝しげに連なるように並ぶ少女の一人に目を合わせる。嘲笑の混じった色が消え、凪いだ闇夜の双眸が少年に向けられる。
「彼は、自分の力で正しく加護を与えていたにすぎない」
だが、と静かに言葉は続けられる。淡々と語られる口調の中に、堪えるような何かが込められていることが気になった。
「天族の加護とは、人にとって幸であるとは限らない」
白い指先がゆっくりと持ち上がり、闇に浮かぶ。
その先で、ロゼの身体を奪ったデゼルが憑魔に刃を突き立てようとしている姿が映った。
「見せてやろう。『彼』という天族の業を……」
刹那、目が眩むほどの光がスレイ達を包み込み、視界を真っ白に染め上げた。


身体を巡る血液が沸騰しているかようだ。
怒りと憎しみで身体が高揚する。身に降りかかる穢れなど埃に等しかった。
やっとだ。ロゼの唇が小さく震える。
『やっとだ…!やっと貴様を殺せる!』
獣の咆哮にも似た叫びが、無音の空間を切り裂いた。
自分のものよりも一回りも小さい手のひらを横に薙ぐ。
現れた風の刃が蠢く憑魔の周囲に突き刺さり、両脇に生える触手が石畳に縫いとめられた。
『遅ぇんだよ!』
身動きのとれなくなった憑魔に、デゼルは勢いをつけて跳躍する。
風によってさらに押し上げられる。刃の羽根でその場に浮かんだ。
真下には醜悪な姿をした憑魔。どれほどの穢れを取り込んだらこのような姿になるのか。
けれど、やっと。
歯が覗くほど口の端が吊り上がる。四肢が歓喜に打ち震えた。
この機会を、どれほど待ちわびたことか。
どれだけ願ったことか。望んでいたことか。
ようやく果たせる。やっと、やっと―――!
『死ねぇ!』
これでやっと、全てが終わる。
手を上に掲げ、無数の風のナイフを出現させる。
ぎょろりとした赤い眼が、こちらを向いた。
その腕を振り下ろそうとした、その刹那。
憑魔の一つ目が唐突に閉じ、にちゃりと気味の悪い音を立てて再び目を開いた。
『……なっ?!』
それは、ひとの顔だった。
どす黒い膜を突き破るかのようにせり上がってきたそれは、決して穏やかとは言えない男の顔。
細い瞳をこれ以上ないように見開き、今にも絶叫が迸りそうな苦悶に満ちた表情がこちらに向けられている。
『何、故…お前が…お前は…!』
デゼルはその顔を知っていた。
いや、忘れたくなかった。忘れるはずもなかった。
『――ラファーガっ!!』
背後から襲い来る眩い光に目もくれず、デゼルは男の顔に手を伸ばしたのだった。


―――思い出せ。お前が本当は、何を望んでいたか
―――あの時、友をどうして、何故失ったか……
―――憑魔を殺したあと、その穢れがどうなるのか……

―――よく思い出せ。友を失ったのは、本当に『私』のせいか?


◆   ◆   ◆


「野郎ども!宴の準備だ!」
「ヤロウども!はたらけ!」
「はたらけはたらけ〜!」
見渡す限り緑の広がる草原に、低い声と甲高い笑い声が響き渡る。
骨太の偉丈夫の足元で、小さな子供たちがくるくると楽しそうにはしゃいでいた。
「みんながんばれ〜」
「お前は男だろうがトルメ!働いてこい!」
「ええええ何でフィルとロゼはいいのさ!さべつだよ〜!」
「てめぇ、余計な言葉だけは一丁前に覚えやがるな…」
己の腰にも満たない赤毛の少年の反論にげんなりと肩を落とす男を見て、周囲の人間は笑い声を立てた。
「団長、あまりロゼとフィルに乱暴な言葉を覚えさせないでくれ。女の子なんだぞ」
「だったらお前が教えればいいだろ、エギーユ。お前が世話役なんだからよ」
苦笑交じりに忠告してきた男に、団長と呼ばれた男ははっと豪快に笑って言葉を返す。
「エギーユ、遊ぼ!」
近寄ってきた髭のはやした男に気付いた赤髪の子供が、ぱっと顔を輝かせてエギーユの背をよじ登った。素早い動きで肩を掴んで乗ってきた少女に軽くよろめきながらも、男は少女をしっかりと背負う。
「おっ勝利の小女神が現れたな!何かお供えいるか?」
「お供え?」
「今欲しいものだ」
「お腹すいた!ごはん食べたい!」
「小女神様がご所望だ!飯の準備をしろ!」
野太い号令に、既に野営の準備を始めていた傭兵達がもうやってますって!と呆れ混じりの反応が一斉に返ってきた。
それから間もなく、どっと沸き上がる笑い声が草原に響き渡った。

(ここは…?)
遠目から見える光景を、デゼルは首を傾げながら見守っていた。何故今、自分はこの景色が見えているのだろうか。
「あいつらとの旅は、本当に楽しい…」
思わず零れ出たような小さな呟きに、デゼルの意思に関係なく視界が動く。隣で自分と同じように眺めていたらしい男がこちらの視線に気付き、ゆっくりと顔を向ける。
黒いジャケットに黒いパンツにブーツ。毛先に行くにつれて緑がかった銀の髪の上に乗っているのは、円形の金属の装飾品がついた黒い帽子。ジャケットの下に着た白いラインの入った緑のシャツが、唯一鮮やかな色を見せている。
デゼルと同じ服装の男。だがその表情は、彼とは正反対に柔和な印象だ。
「冥利に尽きるだろ?」
「ああ。感謝してる」
唇は、震えていると思った。だが思いの外自分はしっかりと言葉を返していた。
そこでやっと思い至る。
(夢か…俺の、昔の記憶…)
懐かしい景色。穏やかな風。兄貴分のように慕っていた友。
彼らを見守っているのが楽しかった。友とこの気ままな旅についていくのが心地よかった。
失いたくなかった日常が、そこに広がっていた。


「これは…?」
『私の生み出した幻影だ』
突然様変わりした風景に戸惑うスレイ達の耳に、少女の声がどこからともなく響く。
『といっても、現実に起こったものだがな』
「…何故そんなものを僕たちに見せる」
くつくつと笑う少女に、ミクリオは整った顔に険しさを乗せて彼女に問いかける。
『言っただろう。知るべきなのだと』
なぁ、導師。最後にそう付け加えられて、スレイは青い空を睨み付ける。
「てことは、この景色はデゼルの過去なのか?」
『ご名答。彼が復讐の念に囚われてから、ずっと心の奥底に埋められていた記憶の、な』
どれだけ探っても少女がどこに潜んでいるのか見当がつかない。気配は感じるのに、完全に見失ってしまった。

「―――大陸一の風の傭兵団を、是非ともローランスに連ねたいのです」
ふいに景色が一転し、厳格な風貌の城壁が取り囲む庭へと変わった。
スレイ達が振り向いた先にいたのは、先ほどよりもぐんと成長した赤髪の少女と上質な衣服を纏った男性だった。
赤い髪の少女は見覚えがある。少しだけ幼いが、海を思わせるその瞳はいつも見ているものだ。
「ロゼ…と、ローランス兵が後ろにいる男の人は…?」
「さぁ…城内ということは、相当身分の高い奴だと思うが…」
笑い混じりに話す少女の言葉が、やけに不気味に響く。
『さぁ、はじまるぞ…平和が瞬く間に崩れ落ちる、悲惨な劇の幕開けだ』


「あたしがコナン皇子と婚約?夢みたい!」
やや上擦った少女の嬉しそうな声音に、身体が強張っていくのを感じた。
だが己の感覚に反して、頬を紅潮させて喜ぶロゼの姿をデゼルはそっと眺めていた。
ローランス帝国が風の傭兵団の実力を認め、正式に国の戦力として召し抱えられることとなった。その時の出来事だ。
当時、あまりにも唐突な展開に言葉も出なかったことを覚えている。現に過去の自分は、ただ茫然と立ち尽くしていた。
風の傭兵団がローランスの傘下に入る。つまり、その意味するところは。
「よかった。旅が終わっちまうのは残念だがな」
すぐ横で、穏やかな祝福の声が聞こえた。動いた視線の先で、寂しげな、けれど心の底からの安堵と嬉しさを滲ませたラファーガの顔が目に飛び込んできた。
そこでようやく、過去のデゼルが拳を握りしめた。
そう、それは己にとって限りなく満たされていた日常の……旅の終わりを告げる、残酷な通達だった。

―――……イヤだ

その声は、過去のデゼルと重なった。
いつまでも続くものだと思っていた。彼らが生き続ける限り、自分が見守り続けている限り、ずっと。
団長も、エギーユも、成長した双子もロッシュも、皆が皆喜んでいた。心からロゼとコナン皇子の婚約を祝福していた。
だが、その時のデゼルには見えなかったのだ。
ただひたすらに恐怖した。彼らの旅が終わること。今までの日常が消えること。
己の平穏が、音を立てて崩れていく。
濁りはじめた若草の瞳には、それ以外映されていなかった。
「……っ…、」

―――終わらないでくれ……

気の置けない友であるラファーガにさえ口にできない言葉を必死に胸の奥にしまい込みながら、デゼルは唇を噛みしめていた。
耳の奥でくつりと、嘲笑うような声音が聞こえた気がした。


「……ぬかるなよ」
再び変わった景色とともに、男の息を潜めるような声が耳に届いた。
スレイが声のした方向に顔を向けると、そこにはカーテンの閉められた豪奢な部屋で兵士と会話しているコナン皇子の姿があった。
行かぬか!と鬼気迫る顔で指示を出した彼に、兵士達は慌てて部屋を後にする。
「……何だか雲行きが怪しいわね」
ぽつりと零したエドナの言葉に、スレイも無言で頷いた。
部屋中に不穏な気配が漂っている。先程のあたたかな風景とは大違いだった。

「コナン皇子、団長がいないんです!」
バンッ、と勢いよく開いた扉から、焦燥感をあらわにしたロゼが現れた。
それに続くようにデゼルとラファーガが駆け付ける。
息を乱したまま私室に入ってくる少女に、コナン皇子は緩慢な動作で振り返り、にやりと笑った。
「その子に近付くんじゃねぇ」
人を見下した眼差しで笑う皇子を不審に思ったのか、過去のデゼルがロゼを庇うように前に出る。
デゼルはそのまま手を前にかざし、ラファーガの制止も聞かず風の塊を皇子に投げつけた。
おそらく脅かす程度だったのだろう。軽く吹き飛ばして、不可思議な力が使えると怯えさせるつもりで天響術を使った。
「フン…」
「なっ…!」
だが、コナン皇子はつまらなそうな顔で無造作にそれを払った。
それだけに留まらず、これまで自分達を見向きもしなかった男は、細長い瞳をさらに細めて真っ直ぐにデゼルを睨み付けたのだ。
「…私に指図する貴様は何者か」
途端、男の全身から陽炎のようなものが立ち上った。
黒紫の霧、黒い欠片。皇子の身体とダブるように見える異形の姿。
「こいつ…既に憑魔に…!」
「え、誰に話して…?」
ラファーガとロゼの固い声音が重なる。その声に反応するかのように、コナン皇子が人とは思えない形相でにたりと嗤った。

「……何故、これほどの短期間で憑魔と化したのだろうな?」
ふいに投げ落とされた別の高い声に振り向いて、スレイは目を見開いた。
「あいつは!」
窓際に腰を掛けてこの状況を静観する小さな身体。
その姿は紛れもなく、今まさに幻覚を見せている少女だった。
「スレイさん、違いますわ。今見えている方は、おそらくは過去の人…」
『ああ、その通りだ』
窓際に座る少女とは別のところからまた声がかかる。
『私もこの悲劇の場に居合わせていた。ゆえにあの風の天族は私を仇だと怒り、殺そうと執着している』
「他人事のように…!コナン皇子を憑魔にしたのはお前なんだろう!」
ミクリオの怒りを滲ませた叫びに、けれど少女は心底おかしそうに口元をゆがめた。
『ふっふっふ……さて、その答えもこれからわかることだろう…』


あの時の悪夢が今、寸分の狂いもなく繰り返される。

「皇子!俺たちが第一皇子を殺しただと!?何の冗談だ!」
「衛兵!逆賊がここに!」
「エギーユ!ち、ちょっと待ってよ…!」

「エギーユ。ねぇ、団長は……?」
「……処刑された」
「……う、そ…」
「ふ…先ほどこの者が言っていただろう。自分らが皇子レオンを殺したと…」
「っ、コナン皇子…!罠にかけたな…俺たちをっ!」
「さて、何のことやらわからんなぁ……はははは!」

「何故、こんなことに…」
両腕を拘束され、衛兵に引き摺られていくふり絞るような叫び声をあげるエギーユを眺めながら、ラファーガが途方に暮れた声を漏らした。
「なるほど…そういうことか」
ふいに、この荒れた室内に似つかわしくない落ち着いた声音が響いた。
その声にラファーガとデゼルはようやく少女の存在に気付く。
己を警戒して臨戦態勢に入る風の天族二人に少女はゆったりと笑いかけ、窓の縁から皇子の私室へと降り立った。
「わかるだろう?コナン皇子が憑魔と化し、我欲に従い、邪魔者を除こうと考えたからだ」
ガシャガシャと鉄が擦れ合う音が大きくなる。すぐ傍まで迫ったそれはロゼ達を、そしてデゼルとラファーガを取り囲んで槍を突き出した。
「こいつらも見えているのか…!デゼル、お前はあの少女を警戒しろ」
「ああ、あいつらのことは頼む」
ふわりと浮くように書棚へと飛び乗り、顎を手に乗せてこの惨状を見下ろす少女をデゼルは睨み付ける。
「こいつは貴様の仕業か!ロゼ達をどうするつもりだ!」
草原の海原に似た双眸を怒りに燃やして武器を構える青年を、少女は不思議そうにまばたきをし、それから耐え切れないと言わんばかりに笑声を立てた。
「く、ふふ…!まさか気付いておらぬとは…いやはや、憐れとはこのことだな」
「てめぇ…何がおかしい!」
「まぁ聞け。天族は、加護という力で人や自然に影響を与えることができる。それは知っておろう」
デゼルの射抜くような視線を意に介さず、口元に指を添えて笑う少女は楽しげな顔のままゆっくりと語り出す。
「だが、稀に人に不幸をもたらす加護を持つ天族もいる。例えば、加護を与えた相手に苦難をもたらし、一気に地の底へと転がり落としたり…な」
「…?それがなんだと―――」
その話が一体、今と何の関係があるのか。そう一蹴しようとしたデゼルは、途中で言葉を切った。
デゼルの心情を察したように妖しく弧を描く唇に、どっと冷や汗が溢れる。心臓が殴られたような痛みを伴ってどくどくと鼓動を速めた。

自分は、何を願った?この傭兵団に、旅の終わりに、何を思った?
―――オワラナイデクレ……
「――――っ!!」
雷に打ちぬかれたような衝撃が駆け巡る。まさか、まさかそんなことが。

「こんのぉぉぉぉっ!!」
「っ!おい、やめろ!」
空を裂くような雄叫びが硬直したデゼルを動かした。
憑魔と化した兵士を必死に応戦するラファーガの先で、ロゼがコナン皇子と対峙しながら双剣を抜いた姿を捉える。
溢れ出る穢れを垂れ流しにするコナン皇子が、冷酷な笑みを浮かべて手を掲げた。
くっと歯を噛みしめてデゼルは走る。コナン皇子は憑魔だ。ロゼが彼を殺せば、その体内に巣くった穢れが新たな器を求めて彷徨う。
より濃い穢れに誘われて…あるいは、穢れに染まれば強靭な憑魔になることのできる、霊応力の高い器を求めて。
ロゼの双剣が、皇子の胸を一閃する。聞くに堪えない醜い絶叫が空気をつんざいた。
―――間に合ってくれ…!
己の身さえかまわず、捨て身で疾走した。
だが、デゼルよりも早く二人の間に割り込んだ者がいた。
「うおおおあ!」
「ラファーガっ!?」
断末魔を上げるコナン皇子から噴き出る穢れが、一斉にラファーガに注ぎ込まれていた。
「ぐ、うぅぅああっ!!」
悲痛な叫び声上げ続けるラファーガの身体が、歪に膨れ上がる。骨の折れる鈍い音が耳に叩きつけられる。
人の心の淀みを集めたようなどす黒い球体。その中心に裂け目のようにあいた大きな赤い一つ目。何かを求めて彷徨う両端の長い触手。
そのひとつ目と、視線が合った。
「がっ…ぁあああ!!」

瞬間、両眼に激痛が走った。目の前が一瞬だけ赤く染まり、そのまま暗転する。
いつも隣に並んでいた肩が、いつまでも敵わなかった広い背中が、自分とは違い人付きの良さそうな顔が、跡形もなく変わり果てた。
友は殺されたのではない。皇子の穢れにとり憑かれ、憑魔と化したのだ。
「意志とは裏腹に、加護を与えた人間に不幸を招く」
がくんと膝をつき、目の前にある惨状に呆然としていたデゼルの耳に、再び少女の声が忍び込んできた。
「そのような加護を持つ天族を、人はなんと呼ぶか知っているか?」
静かにゆっくりと、一語一語を覚え込ませるように、子供のような高い声音がとつとつと語る。
これも、過去の記憶だろうか。それとも今の少女が語り掛けているのだろうか。
それすらも、今まで抱え込んでいたものを覆された事実に動転するデゼルには判断がつかなかった。

「―――『疫病神』だ」

告げられた言葉に、全身が大きく震える。
目を押さえていた両手を離す。目の前で己の血に濡れているはずの手のひらは、真っ暗で何も見えなかった。
「…俺の、せい……だった…?」
自分自身の言葉に、更に絶望の淵に叩き落とされたその瞬間、どこか遠い場所で何かが砕ける音がした。


◆   ◆   ◆



「うっわああああ!!」
パキン、と陶磁器が割れるような音を耳が捉えたと同時に爆風が吹き荒れ、構える間もなくスレイ達は吹き飛ばされた。
「エアプレッシャー!」
鈴の音に似た少女の声が響いた途端、自分達を囲むように現れた重力場に宙に浮いた身体が一気に落下した。
石畳に激突する前に術が解除され、よろけながらも無事に着地する。
薄暗い視界に、厳かに佇む教会神殿が映る。どうやら少女の幻影が解けたようだった。
先程までの惨事に半ば唖然としていたスレイは、そうだ、とはっと顔を上げる。
「ロゼとデゼルは!」
最後に見た現実の彼らは、憑魔に襲い掛かっている姿だった。あれから一体どのくらいの時間が経っているのか、それすらもわからない。
視線を彷徨わせ、ひと際穢れの濃い場所を探す。
「えっ?!」
「なっ?!」
憑魔を見つけて映った光景に、スレイとミクリオは目を剥いた。
何で。どうして。一体いつから。
「「アリーシャ?!」」
その姿が見えているにも関わらず、二人は信じられない思いでロゼを抱えて尋常でない速さで疾走する少女の名を叫んだ。


「ロゼ、ロゼ!聞こえるか!」
鞭のようにしなる触手を転がるように避けて、アリーシャはロゼの肩をゆすった。
普段とは異なる草原に似た色の瞳は色を失ったまま焦点が合わない。ここまで感情の抜け落ちた表情の彼女ははじめてだった。
『すべて…俺の……』
『ダメだアリーシャちゃん。そこにいるカワイコちゃんに何かされちまったらしい』
いつになく真剣な低い声音が脳内に響いたと同時に、ロゼを支えている身体が勝手に動き出す。それに驚きも抵抗もせずになすがままになっていたアリーシャは、やがて視界にやや離れた所でこの場を傍観する幼い少女が映った。
「なら、あの者を倒せば…」
「それは無意味だな」
夜を体現したような少女を見据えて長槍を構える。だが、アリーシャの推測は他ならぬ少女自身に否定された。
「私はその天族に己の過去を見せていたに過ぎない。彼はただ、全てを思い出しただけだ」
「全てを…?」
「そう。友の死も壊れた居場所も、その元凶が自分自身であるとな」
凄絶な笑みを浮かべた少女から語られた言葉に、アリーシャは瞠目した。
デゼルと風の傭兵団の過去を、自分達は少しだけ知っている。それゆえに彼が復讐に燃える理由も。
ならば、この少女が言った内容はおかしい。しかし、だったら今のこの状況は。
思わず神依化したロゼに顔を向けようとして、けれど思うように動かなかった。代わりに抱える腕に力が込められる。
「ザビーダ様…」
『とりあえずスレイたちと合流だ。ライラに頼みゃあロゼちゃんに結界くらい張ってくれんだろうよ』
己の内から聞こえてくる声に、アリーシャは同意を示して頷く。
そうだ。自分達は敵を倒すためにここに来たわけではない。
『行くぜ、全力疾走だ!』
「はい!」
再び自分の意思とは別に動き出した身体に、アリーシャは身を任せる。ロゼを抱える腕に力を込め、脚がぐっと屈められる。足首を中心に、風が纏わりつくのを感じた。
少女は未だ不敵な笑みを浮かべたまま佇んでいる。その表情が、何故かひどくいびつに感じられた。
「させるかよっ!」
「わっ!」
ふいに耳鳴りのように響いた怒号に身体がその場から跳び退いた。刹那、自分が今までいた場所に大きな青い炎が落ちてきた。
ごうごうと音を立てて燃えさかる炎にわずかに息を呑む。ザビーダが咄嗟によけてくれなければ直撃していた。
「もう一人憑魔が…!」
「せっかくこんな愉快なことになってんだ。邪魔しないでくれよ、なぁ」
『チッ、あっちもあの嬢ちゃんに手こずってやがる。こりゃ俺らだけでなんとかするしかないみたいだぜ、アリーシャちゃん』
「えっ…?!」
その声と共に、彼の風に運ばれてスレイ達の余裕のなく競り合う音が耳に届いた。重なり合うように聞こえてくる少女の声に困惑するが、すぐに平静を取り戻した。おそらくあれが彼女の能力なのだろう。
「クククク…いいのかい、俺のことばっか見ててよぉ?」
口が裂けて見えるほど口端を吊り上げて笑う男を訝しげに睨んでいると、唐突に身体に悪寒が走った。
ほぼ反射的な反応で地を蹴ると、風圧と共に大きな触手がしなるように彼女の僅か横を通り過ぎた。
黒い物体が巨体を引き摺って近づいてくる。赤い眼がアリーシャを、それから意識を失ったままのロゼをぎょろりと見据えていた。
「そいつもその美味い飯を食いたくて食いたくて仕方ないってよ!」
『挟み撃ちかよ…』
じりじりと間を詰めてくる双方の憑魔にザビーダが舌打ちをする。アリーシャちゃん、と名を呼ぶ声が聞こえ、間をおかず背後にひとが現れる気配がした。
「アリーシャちゃん、ちと二手に分かれよう。ロゼちゃんとデゼルは任せてもいいかい?」
「…いえ、ロゼとデゼル様はザビーダ様が」
少しだけ逡巡したアリーシャは、けれどその言葉に首を振った。
「巨大な憑魔の方は動きがやや鈍いようです。ザビーダ様でしたら、きっと二人を抱えても振り切れます。キツネ男は私が足止めを!」
「ちょっ、おい!」
言うが早いか、ザビーダの制止もきかずに少女は長槍を構えて憑魔に突っ込んでいった。
半ば唖然としながらつかみ損ねた腕を戻して、残された男はため息をつく。
「おしとやかそうな顔してかなりの鉄砲玉よね、アリーシャちゃん…」
あとで導師殿に殴られるかもしれねーなぁ…とがりがりと長い銀の髪を掻きながらぼやく。
いや、ここに連れてきた時点で確定だろうか。もちろん弁解の余地はある。けれど問答無用でエドナ辺りにはどつかれるかもしれない。
硬い石畳の上で横になった少女の背中と膝裏に腕を通して、軽々と彼女を抱える。
「……おい、デゼ坊。てめぇまた目と耳塞ぐつもりか」
未だ焦点の合わない瞳を見つめながら、ザビーダは静かに呟いた。
彼女の姿に、怯えて身を縮める幼い少年の姿が重なる。この青年がかなぐり捨てたもののひとつだ。
「忘れたかったんだろ。無理やり何かを糧にしなきゃ、どうしようもなかったんだろ?…別にそれでいいじゃねぇか」
腕の中でぐったりとしている彼女から返事はない。それでも、ザビーダは彼に諭すように語りかける。
記憶を自分の都合よく書き換えた。それを何の疑問もなく受け入れるほどに、辛かったのだろう。耐え切れない現実だったのだろう。
だから誰かのせいにした。その誰かを討つことを生きる目的とした。
だってなぁ、とザビーダは内心で呟く。彼の中に、それとは別の考えがひとつ浮かんでいた。
「それくらい、お前はまだ生きたかったってことだろうが」
ぐっと脚を曲げて、ザビーダは跳躍する。その下を太い触手が風を起こしながら通り過ぎた。
裏を返せばそういうことではないか。無自覚だろうと、復讐を己の使命と戒めるほどにデゼルは生きたかったのだと。
若草の双眸に、まだ光は宿らない。だが、少女の指先が僅かに動いたのを感じた。
その微かな反応に、ザビーダは口の端を上げる。
「そりゃ何でだよ。何で生きたかったんだよ。思い出せよ、なぁ。じゃなかったら気付け」
理由があったはずだろう。生きるためのではなく、生きたいと強く思ったわけが。
背に回した腕で肩を掴み、強く揺さぶった。
「お前が本当に生きたかった理由は何だ!デゼル!」
もう一度、今度は確かに指がぴくりと動いた。彼の問いに応じるように、唇が震えた。
思い出せ。気付け。傍から見てもわかりやすかったんだ。その感情が全てだろ。
怒りも辛さも使命感もすべて取っ払って、その先にあるひたすらに純粋な願いは――――。

『―――ロ、ゼ…』

少女の口から、彼女のものではない掠れた声が漏れた。
「へっ…やぁっと目ぇ覚めたか、お坊ちゃんよ」
ようやく輝きの戻った瞳を見て、ザビーダは安堵をごまかすようにおどけた。
「ったく……俺の周りは、どいつもこいつも世話が焼けんなぁ」
こっちの身にもなれってんだ、と様々な感情がこみ上げてきて思わず胸の内で毒づく。
徐々に彼が意識を覚醒していく様子を眺めていると、ふいに目が合った。
『っ、離せ!ロゼに触るんじゃねぇ!』
「うぉっ、暴れるなって!助けてもらっておいてその態度はねぇだろ?」
腕の中でもがく少女を押さえながら、デゼルに対して呆れた声を出す。
目覚めて二言目にそれか。ザビーダはいっそ清々しささえ感じた。
今度は隠さずに思い切りため息をつく。
「ホント何も覚えてねぇのな。昔はあんなに懐いてたっつーのに…」
『知るか!勝手に俺の過去をねつ造するな!』
「あーあーわかったわかった。わかったからとりあえず落ち着けって。とりあえずお前はロゼちゃんを何とか―――」
「ザビーダ様!危ないっ!」
しかしアリーシャの悲鳴じみた叫びに、ザビーダとデゼルは言い争いをやめて同時に視線を向けた。
『なっ――?!』
振り向いたその瞬間、高熱を帯びた巨大な光線が向かってくるのを認めて息を呑む。
「くっそ…!」
油断した。あの憑魔は遠距離の攻撃も可能だったのだ。
ザビーダは少女を庇うように抱え込んで駆け出す。だが、光線はもう目前まで迫っていた。
白い閃光に目を眇めながら、二人を喰らわれるように光に呑み込まれていった。









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