もしもの物語-13-



金色の稲穂が広がる大草原に、雨が降り注ぐ。
ゴドジンからバイロブクリフ崖道を下り、数日ぶりに戻ってきたパルバレイ牧耕地は、相変わらず黒ずんだ雨雲が空を覆っていた。
「スレイ?」
水飛沫を上げながら牧耕地を駆け抜けているさなか、ふいに前衛にいたスレイが足を止めて空を見上げた。
唐突に立ち止まった彼を、アリーシャは訝しげに声をかける。後ろを走っていたロゼも、周囲の敵を警戒しつつスレイに近付く。
「…ミクリオ。確かこの雨って、穢れてるんだよな」
問い掛けると、ああ、と短い肯定が返ってきた。
『しかも前に感じたものより、明らかに穢れが強くなってる』
彼の不愉快そうな声音を聞きながら、スレイはそっか、と相槌を打つ。
「どしたん?」
ロゼの問い掛けに、少年は上を向いたままいや…と生返事をする。
「さっきまで、晴れてる場所にいたからかな……何か、かなしい雨だなって…」
『君にしては随分と感傷的な台詞だな』
おどけるようなミクリオの言葉に、スレイは顔をしかめてちゃかすなよ、と唇を尖らせる。
「よくわかんないけど、何となくそう思ったんだよ」
『ワタシからしたらただのハタ迷惑な冷たい雨だけど』
「エドナたちは中に入ってるからまだマシでしょ。あたしらなんてずぶ濡れよ?」
もうブーツ重いし気持ち悪い、と付け足して、ロゼがうんざりと言わんばかりに肩を竦める。だが、かけられた労わりの言葉はそれはゴシューショーサマ、と見事に棒読みだった。
羨ましさと悔しさがない交ぜになって、赤髪の少女はむぐぐ、と唸る。
『アリーシャさん、体調は大丈夫ですか?』
脳内にもうひとつ、今度は落ち着きのある女性の声が聞こえてきた。名を呼ばれた少女は、平気です、と口の端をつり上げる。
「ライラ様の護符と、エクセオ様から授かった加護のおかげですね」
どうやらエクセオの力は、彼女にしっかりと加護をもたらしているらしい。
軽く微笑してしっかりと受け答えをしたアリーシャに、スレイもほっと内心で安堵する。
和やかな雰囲気が漂いはじめたなか、不満げに頬を膨らませていたロゼがひとつ大きなくしゃみをした。
「うぅぅ〜さむっ!とりあえずペンドラゴに向かおうよ。こんな雨の中突っ立ってたら風邪引いちゃう」
身体を震わせて腕をさするそう訴える彼女に、スレイとアリーシャはそれもそうだと顔を見合わせて苦笑いする。
『行くぞ。時間をかけるほど、フォートンが罠を仕掛ける余地も広がる』
デゼルの言葉に改めて気を引き締めたスレイ達は、前方にぼんやりと見えるペンドラゴの城に向けて、くすんだ黄金色が広がる麦畑を駆け抜けていった。


◇   ◆   ◇   ◆


教会神殿の奥は、枢機卿に出会ったときと同じ強力な穢れの領域が張られていた。
それを秘力が上乗せされた力で何とか打ち破り、普段通りに動くことができるようになったスレイ達は、さらに奥を目指して薄暗い教会の中を探索していた。
「『我、ボリス・ストレルカは、フォートン枢機卿の異端儀式を目撃す。枢機卿は教会神殿で邪法を用い、ペンドラゴに降りやまぬ雨を降らせている』、か…」
「それは…先程の、セルゲイ殿の弟君の…」
アリーシャの言葉に、スレイはうん、と短い返事をする。この教会に潜入調査をしていたという、セルゲイの弟であるボリスの手紙の内容だ。


ペンドラゴについて早々、白皇騎士団がニセ導師に加担したという濡れ衣を着せられ窮地に立たされていることを知ったスレイ達は、休むこともままならないまま騎士団塔へ向かった。
騎士団塔の扉を開けると、今にも教会神殿へ乗り込む気でいたセルゲイとその部下たちの姿があった。強面の顔を更に険しくさせて騎士たちを率いていたセルゲイに事情を聞くと、きっかけはこれだと言われ、この手紙を渡されたのだ。
「人が…憑魔が天候を操ることができるなんて、考えたことなかった」
スレイが思わずそう呟くと、並んで歩いていたアリーシャも私もだ、と同意する。
エドナによると、天族にも大陸を動かせる程の力を持った者が存在するらしい。この雨といい、火の神殿で聞いた火山の噴火といい、天響術というより最早天変地異だ。
「だが、それが真実なら雨に穢れが混じっていたことにも納得がいく」
教会神殿の複雑な構造のせいかそれとも別の理由か、神殿に入ってからやや苛立った空気を発していたデゼルが、唐突に口を挟む。
そう、枢機卿がペンドラゴに雨を降らせていたのだとしたら、雨に穢れが帯びていることにも繋がる。
枢機卿を浄化すれば、この雨を止ませることができるかもしれない可能性がさらに大きくなった。
『皇帝も、セルゲイたちの言葉に耳を傾けてくれるといいんだけどな…』
耳朶に直接響く声はミクリオのものだ。今は霊応力の底上げというよりも、今後授かるだろう加護のためにアリーシャに入っている。要は受け皿を広げるためだ。
彼の不安そうな台詞を聞いたアリーシャは、やや思案してからミクリオに話しかける。
「教皇様に対する信頼もありますが、白皇騎士団についても、皇帝陛下はそれなりに信を置いたうえで親衛隊に任じていらっしゃるのだと思います。その団長であるセルゲイ殿の進言を、流石に聞かないで無下にはしないかと…」
そこで区切って、そう信じたいです、と目を伏せる。

教皇の行方とその意思を伝えた後、勢い勇んで枢機卿と戦うと息巻く彼らを何とか宥めて、やっと落ち着きを取り戻したセルゲイ達にある提案をした。
自分達が枢機卿について、真偽を確かめに行く。セルゲイ達は、白皇騎士団が無実だと皇帝を説得しに行く。
最初は巻き込む訳にはいかないと渋っていたセルゲイだったが、あくまで調べに行くだけだと言い張り、最後にはスレイ達の意図を察しながらも申し訳なさそうにしながらも了承してくれた。
ゆえにスレイ達は今、ペンドラゴの教会神殿にいる。

白皇騎士団は皇帝の親衛部隊ということもあり、政治的発言力が大きいと地位にある聞いたことがある。だが、一年前に教皇が失踪し、枢機卿が勢力と強めてきているのが現状だ。絶対とは言い切れない。
重苦しい沈黙の中、小さな石板をかざして閉ざされた扉を開け、地響きのような音が静まってから、スレイは口を開く。
「今は信じよう。セルゲイたちのことも、皇帝陛下のことも」
騎士団の存続は、セルゲイの信用と皇帝陛下の人柄に、託すしかない。
『……そうだね。僕たちは僕たちで、やるべきことをやるしかないか』
ミクリオの言葉に頷いて、スレイは突然襲いかかってきたリザードプリーストを一太刀の元に鎮める。
司祭の衣装を纏っていた憑魔は青い炎で包まれ、消えたと同時に憑魔と同じ服装の人間が現れた。その人を廊下の端に避難させて、さらに進む。
狭い通路を抜け、やや広い室内に出ると、そこには群れをなした憑魔がぞろぞろと彷徨っていた。
「数が…皆、分散して戦おう!」
スレイの号令に各々が頷き、武器を構えて憑魔に向かって駆け出した。
「旋(せん)狼(ろう)牙(が)!」
中身がない鎧の懐に入り込み、儀礼剣で切り上げて蹴り飛ばす。大きく吹きとんだ鎧――リビングアーマーは、床に沈んだままバラバラに散らばり、動かなくなった。
詠唱を始めたリザードプリーストを視界に捉え、その憑魔目がけて一陣の風となり、強烈な一突きで術が発動する前に浄化する。
ふいに背後から獣の断末魔が響き、振り返ろうとした瞬間、背中にとん、と何かが当たる。
「スレイ、一個いい?」
聞こえてきた声に、先程の憑魔を倒したのはロゼだと知る。戦闘中によく聞く、冷静でどことなく冷たい声音に、何?と問い返した。
「教皇に会って思ったんだけど、戦争の手続きを進めたのは、フォートン枢機卿だと思う。あの村長に開戦の決断は無理だろうしね」
本に登場する悪魔に似た女の憑魔が放ってきた術を、ロゼは鏡のような霊力の盾で防御する。彼女の特技、『幻(げん)針(しん)・水鏡(みかがみ)』だ。
ロゼの推測に、スレイは頷きかけ――――ふと、彼女がそれを自分に言った理由に、思い至る。
「それって、ロゼは――――」
「スレイは浄化したいんだよね?枢機卿のこと」
枢機卿を、と続きを口にしようとしたら、ロゼに途中で阻まれた。
スレイは戸惑いながらも、真剣な表情でああ、と肯定する。
「憑魔になっちゃったけど、あの人の責任感は本物だって信じたい」
「だから、浄化すれば救えるかもしれない」
今度は長い槍を構えて飛んできたデビルという名の憑魔の攻撃を、スレイが剣で受け止めて弾き返す。
「そう…っ、思ってる!」
「―――…しき緋弾(ひだん)、ブリッツフレイム!」
そのままライラが発動させた天響術の範囲内に押しやり、渦巻く炎に巻き込まれた他の憑魔達と共に浄化する。
黙々と憑魔を鎮めながらスレイの意思を聞いていたロゼは、少しの間を置いた後にわかった、と声を上げた。
「やってみよう。あたしもフォローするからさ」
肩越しに振り返って、力強い笑みを浮かべる少女に、スレイは目をまたたかせる。
「ロゼ…」
あたしはあたしでどうするか決めるから。そう言われると思ったのに。
何か口にしようとしたスレイは、けれど再びロゼによって声をかけずに終わった。
「何も言うなって。そういうことだから」
どこか決意したような、そんな表情で笑って、ロゼは残りの憑魔に向けて走り出していった。
黒いジャケットから薄桃のフードが揺れる背中を追いかけながら、スレイは穏やかに微笑んだ。
何となく、ロゼが変わった。どこが変わったとは言えないが、だから自分の意思を汲んでくれたのではないかと思う。
「…わかった」
だから小さく、感謝を込めて呟いて、ロゼと同じように駆け出した。


―――だが、現実は無情にも、スレイの中で膨らんだ希望と決意を打ち砕くことになる。


◇   ◆   ◇   ◆


教会神殿の深奥、マオテラスの紋章が掲げられた広間で、様々な轟音が木霊する。
「っ、うぉぉ!」
スレイが雄叫びを上げながら、儀礼剣を渾身の力で振り上げる。目前にいた蛇と人の混ざったような憑魔は、彼の薙いだ切り口から生まれた青白い炎に包まれて倒れる。
「――――っ!導師いぃぃ…!」
怒りと怨差の入り混じった声が、スレイ達の耳に届く。
人を石にする力を持つ憑魔、メデューサ。この者がペンドラゴ周辺に止まぬ雨を降らせていた。
皇帝に戦争の開戦を申し出た、フォートン枢機卿のもうひとつの姿だった。
「穢れ…じゃない…!私は民のため!国のためにこの身を捧げてきた!」
荒い息遣いの合間に、引き絞るような声で枢機卿がそう訴える。
「フォートン枢機卿…」
床に伏しながらも、必死に足掻く彼女に、アリーシャはぎゅっ、と拳を握りしめる。
その様は、狂っているようで、執着しているようで、もがいているようで……何故か、哀れに見えた。

恐怖で民の心をひとつにし、追いつめられた民衆の力を導いて、帝国に勝利をもたらす。
剣を交える直前、枢機卿は雨を降らせているのはそのためだと言っていた。
だから自分の邪魔をするものは帝国に反する者だと。己の意思に従わぬものには裁きが必要なのだと。
広間で匠が作った彫刻のように固まった人間に視線を送りながら、枢機卿はそう高らかに告げたのだ。
(…けど、何かが…)
憑魔の姿のまま、尚も立ち上がろうとする彼女を見下ろしながら、アリーシャは思う。
違和感がある。
自分ではなく人を幸せにしようとして、けれど幸せにする方法を誤っている。
方法も規模も違えど、それはスランジがゴドジンのために行っていたことと似ているような気がした。そして彼も、確かに自らの心から穢れを生み出していた。

誰かのために何かをしようとするだけで、こんなに穢れてしまうものなのか。
その方法を間違えるだけで、憑魔になってしまうのか。

胸の内で自問自答をして、その二つの問いをアリーシャは否定する。
そうだとしたら、自分はもうとっくに憑魔になっているはずだ。
ならば、彼女は何故こんなに苦しんでいるのだろう。何を必死に否定しているのだろう。
何故、憑魔になり異質な力を使っていてもなお、穢れていないと――――。
答えの見えない迷路から、ひとつの可能性に思い至ったアリーシャは、はっと目を見開いて枢機卿を凝視した。
「枢機卿…もしかして、あなたは…」
「アリーシャ!?」
「近付いたら危険だ!」
まるで誘われるようにふらりと枢機卿に近付いたアリーシャに、スレイとミクリオが慌てて呼び止める。
しかし彼らの声が聞こえていないのか、アリーシャは足を止めずに更に近寄り、彼女に向けて問い掛ける。
「あなたは、気付いているのではないのですか?民を救うために、民を苦しめている矛盾に」
矛盾していると感じているから、その罪悪感や不安が、穢れとなっているのではないか。
自分は間違っていると気付いていながら、正しいのだと無理矢理思い込んだ、その歪が穢れを生んでいるのではないだろうか。
「そのことに気付いているから。だからあなたは、穢れて――――」
「私は穢れてなどいないっ!!」
「アリーシャっ!」
さらに言葉を連ねようとしたアリーシャに枢機卿は突如として目を見開き、彼女の言葉を拒むかの如く蛇によく似た瞳孔の細長い瞳を輝かせた。
枢機卿の急襲にいち早く気付いたスレイはデゼルを身に纏い、不測の事態に動けないアリーシャの前に出てメデューサの眼から庇う。目の見えないデゼルは、石化効果のあるゴルゴンアイの攻撃が効かないのだ。
「浄化できていない!?」
背後でミクリオの驚いた声を上げた。未だうずくまっているフォートンから、スレイとアリーシャはじりじりと後退し、仲間達のとこまで戻る。
「私は…導く者の責務をっ!果たすっ!!」
よろめきながら、蛇の体躯で起き上がり、彼女は叫ぶ。まるでその声に呼応するかのように、枢機卿を取り巻く黒い靄が一層濃さを増した。
「生み出す穢れが多すぎる…」
アリーシャをロゼに任せたスレイは、己の主神がそう零したのを聞いた。
絶望的なその声音を振り払うように首を振って、無意識に呟く。
「何とかとめないと…」
「それには、枢機卿が自らの心を改めなければ…」
「無理だよ、それ」
だが、ライラのその言葉を、ロゼは険しい表情で容赦なく否定する。
「そんなこと…!話し合えば、今からでも遅くは――――」
「なら聞くけどさ。正義の心が穢れを生むとしたら、どうすればいいと思う?」
反論するアリーシャに、ロゼは静かな眼差しでそう問い掛けた。
「それは…」
彼女のあまりにも表情のない顔に、スレイもアリーシャも言葉に詰まる。
苦しげに目を伏せた彼らに諭すように、この人がそうなんだよ、とロゼは淡々と言葉を紡ぐ。

「世界の正義と自分の正義を一緒にしちゃってる、『悪』」

悲痛そうに顔を歪める二人から視線を外して、ロゼは息も絶え絶えな憑魔を睨みつける。
正義の心…自分の選択が正しいと思う心。誰かを苦しめていると知りながら、それは平和のためだからと思いこむことで生まれる穢れ。
これで本当に正しいのか、間違ってはいないか。湧いてくる疑問も、正義のためだと片付けて、自分を正当化する。
だから枢機卿は自身が穢れを生んでいることにも気付かず、憑魔になってしまったのか。
「殺すしかないだろうな」
「―――っ、ですが!」
デゼルの冷たく言い放たれた一言に、アリーシャは諦めきれずに首を振る。
例え道を踏み外しているのだとしても、枢機卿は自分のためではなく、民のために尽くしていたのだ。
民のため。その想いは、スランジ村長も、枢機卿も……そして自分も、変わらない。
故に彼女は教皇に次ぐ地位に任じられ、司祭らの、そしてローランスの民の信を得てきたのではないのか。
だから今ここで改心ができないようならば殺すべきだと、そう判断することがアリーシャにはできなかった。
「殺す…?私が死んだら、帝国を誰が導くというの?」
デゼルの発言が聞こえたらしい。フォートンは首を傾げながらそうせせら笑い、しかしすぐに恐ろしい形相で身を乗り出して叫んだ。
「幼帝や騎士団に、政治の何がわかる?導師が心を救えば、飢えが凌げるのかっ!?」
枢機卿の罵倒が、スレイの、そしてアリーシャの心に突き刺さる。
彼女の主張は正論で、それだけに痛かった。それはもしかしたら、彼女が長年言えないまま降り積もらせてきた本音なのかもしれない。
「私は責務を―――!?」
積年の思いを全て吐き出さんばかりに言い募っていた枢機卿は、突然潰れたカエルのような声を漏らして天井を仰いだ。
「私が!救いをっ!ひひゃひゃ!私が!導ぐっ!!」
狂ったように笑いながら、同じ台詞を繰り返す。
あまりの変わりように、仲間達は皆、息を呑んで彼女の狂言を聞き続けるしかなかった。
「心が壊れてしまった…」
「…もう人には、戻れない」
悲しそうな女性の、そして無機質な少女の声が、高笑いに混じって耳を掠める。
「フォートン枢機卿……」
今にも泣き出してしまいそうな、そんな声音に、スレイはようやく我に返った。
視線を向ければ、声色と同じ泣きそうなアリーシャの顔が見えた。
「…敵意が、穢れを強めてしまったのか」
ミクリオが零したその言葉に、スレイは身を強張らせる。
その敵意を向けた先は、紛れもなく。
「オレたちへの…」
顔面を蒼白にしたスレイは、悔しげに顔を俯けて、痛いほど両の拳を握る。
眉間に皺を寄せて、悲しそうに目を伏せていたスレイは、やがて意を決した様子で顔を上げて枢機卿に近付く。
仲間達の制止の声も聞かず、スレイ達の攻撃でもう立つこともままなわない彼女の前に跪く。
「スレイ、まさか…!?」
アリーシャの驚きに満ちた声音を背中で聞きながら、笑いながら泣いている憑魔に向けて、懐にしまっていたナイフを静かに持ち上げる。
精神が崩壊して、焦点が合わないはずの双眸と、何故か目があったように感じた。
ごめん。
くしゃりと顔を苦しげに歪めながら、スレイは心の中で彼女に謝罪する。
「こんな答えしか出せなくて――――ごめん」
ごめん。ごめん。
手遅れにしてしまって。浄化することができなくて。
その苦しみを取り去ることができなくて……生かしてあげられなくて、ごめん。
胸中で謝り続けながら、スレイはきつく眼と瞑って握りしめたナイフを勢いよく振り下ろした。

――――ドスッ

肉を立つ鈍い音が、神殿に響く。
「…………?」
だが、スレイ自身にその感触は伝わってこなかった。
不審に思い、恐る恐る閉じていた目を開いた瞬間、スレイは驚愕する。
自分と枢機卿の間に、ロゼがいた。ロゼが、自分の手首を掴んでナイフを止めていた。
そして、もう一方の手は……枢機卿の、心臓に。
「――――――っ!!」
枢機卿は細長の瞳をこれ以上ないほど見開き、半開きの口から声にならない悲鳴を上げて倒れた。
憑魔であった身体が、徐々に人間に戻っていく。それは、彼女が命を失った証でもあった。
「……眠りよ。康(こう)寧(ねい)たれ」
誰もが呆然と言葉を失ったなか、彼女の真紅の髪色と、その静かな声が、頭の中に鮮明に焼き付いた。


◇   ◆   ◇   ◆


普段であれば夜の静寂があたりを包んでいるはずの夜半、外からは楽しそうな賑わう声が聞こえる。
誰かの笑い声、グラスのかち合う音、肉の焼ける香ばしい匂い。窓から眺めなくても、彼らの喜びようが伝わってくるほど、街中の人たちが参加する祝杯は今なお盛り上がりを見せていた。
長らく止むことのなかった雨雲が、ようやく街の上から退いたのだ。彼らはどれほどこの瞬間を待ちわびていたことだろう。
そんなことを思いながら、ペンドラゴの宿屋を当てもなく彷徨っていたアリーシャは、食堂でひとりくつろいでいるロゼを見つけた。
「あ、アリーシャ。まだ寝てなかったんだ」
「ロゼ…何だか、目が冴えてしまって…」
声をかけるか否か迷っているうちに、先に彼女の方から声をかけられた。
とりあえず座りなよ、と向かいの席を促され、遠慮せずに椅子に座る。雨の上がったペンドラゴは、装備を外した状態でも暖かかった。
「まだ外で大騒ぎしてるね。さっきちらっと見に行ったけど、街中大宴会状態」
一年ぶりのお天道さまだもんねー、と嬉しそうに目を細める少女に、アリーシャもそうだな、と頷く。
「それほど嬉しかったのだろう。来年から、また良い麦が育つのだろうな」
いつもは左側にきっちりと纏め上げられている長い髪を、ふわりと下ろした少女をじっと見つめていたロゼは、ふとやや呆れ気味の笑みを零す。
「怖い顔」
「なっ…」
「眉間にシワ、寄ってるし」
肩肘を突きながら額辺りを指差され、慌ててそこに手を当てる。その焦りようがおかしかったのか、ロゼが吹き出して笑った。
くすくすと目の前で笑声を立てる少女に、アリーシャは顔をしかめて唇を尖らせる。
「そんなに笑うことはないだろう…」
「いや、何かツボって」
ごめん、という風に片手を上げて、その手をそのまま菓子の器に伸ばしてアリーシャの方へ寄せる。詫びのつもりなのだろうか。
不満げな顔をしながらも、目の前のきつね色に光る美味しそうな焼き菓子の誘惑に抗いきれず、少女は素直にマドレーヌに手を伸ばす。
貝殻の形をした柔らかな焼き菓子は、一口食べた瞬間、バターと砂糖の甘さやバレンシの爽やかな酸味が香りと共にやってきた。そのあまりの美味しさに、思わず口元が綻んだ。しっとりとした触感は、口の中で溶けるようにほろほろと消えていく。
菓子職人が作ったのではと思うほど精錬された味なのに、どこかほっとするようなあたたかさが手作りなのかと驚かせる。一体誰が作ったお菓子なのだろうか。
ひとしきり笑いがおさまりその様子を楽しそうに眺めていたロゼは、小首を傾げてそれで?とアリーシャに問い掛ける。
「聞きたいこと、あるんでしょ?」
マドレーヌに夢中になっていたアリーシャは、彼女の問いの意図がわからず怪訝な顔として、しかし言い添えられた言葉にはっと目を見開く。
聞いて、いいのだろうか。


―――『眠りよ、庚寧たれ』
それは、暗殺ギルドで名を馳せる風の骨が、その姿を見せない代わりに残していくメッセージだ。
風の骨が何者なのかひとつも悟らせない彼らが、まるで自分達は確かに居ると、その存在を知らしめるかのように。
そのおかげで、枢機卿の件は風の骨による暗殺という形でおさまったわけであるが。

それがあの時――枢機卿を、ナイフで貫いたあと、聞こえてきた。
他の誰でもない、彼女の心臓を止めた、ロゼ自身の声で。

思わずちらりと様子を窺うが、ロゼは特に気負っているようでもない。
だったらと、アリーシャは意を決して口を開く。
「その、ロゼが風の骨だというのは…」
「うん、本当だよ」
躊躇いがちにそう尋ねると、驚いたことにロゼはあっさりと肯定した。
あまりにもすぐに回答されて思わず固まり、我に返ってから慌てて周囲の気配を探る。人の目を気にしていると気付いたロゼは、大丈夫、と笑いながら人はいないと言い添えた。
「…セキレイの羽の方々は、皆そうなのか?」
「そう。森の遺跡にいた人は全員。エギーユもトルもフィルも。アリーシャのことを助けたロッシュもね」
「スレイを狙っていたのも、ロゼたちだったのか?」
「うん。あの時はまだ、導師が一体何者で、何しようとしてるのかわからなかったから、監視してた」
「私を暗殺しようとしていたという人物も?」
「ルナールのこと?確かにあたしたちの仲間だったけど、それはアイツの独断でしたこと。その件で一回シめたんだけど、それきりどっかいった」
だから今は違う、と付け加えたロゼの海を連想させる瞳は、影を落として暗くなっていた。
その双眸を間近で見たアリーシャは反射的に怯みかけるが、ぐっと唇を引き結んで気を取り直す。
「…誤魔化さないんだな」
「誤魔化す?何で?」
剣呑さを帯びていた表情から一転、きょとんと目をしばたかせて逆に尋ね返してきたロゼに、アリーシャの方が面食らう。
「何故って…私がこのことを誰かに報告して、風の骨を捕らえようとするとは思わないのか?」
「それ言っちゃってる時点で、アリーシャはそうしないってことだよね」
小さく吹き出されながらそう指摘され、アリーシャは目を泳がせる。確かにその通りだと思いながら、もしもの話だ、と無理矢理押し切る。
すると一応それで納得してくれたのか、ロゼはそうだなぁ…と呟きながら椅子に凭れかかり、天井を仰いだ。

「確かに、王宮にいた頃のアリーシャだったら絶対に話さなかった。アリーシャ、密輸とかワイロとか、そういうの許せない人でしょ?」
ロゼの率直な物言いに、アリーシャはやや躊躇しつつも無言のまま首肯する。だから大臣達の手腕は認めても、彼らの行いを決して真似るものかと思っていたのだ。
「でも、スレイを利用しようとした大臣たちのこともゴドジンの村長さんのことも、悪いことしてるってわかってて見逃した」
「それは、大臣達が今まで、国にとって有益な政策をしていたことも事実だったからで…スランジ殿のことも、スレイの言葉がなければ……」
「それで充分。そういう考え方もできるんなら、話しても大丈夫だと思ったんだ」
まぁ、バレないに越したことはなかったんだけどね。そう言ってロゼは、少しだけ苦い笑みを浮かべる。
アリーシャは未だに納得できない顔をしつつも、ロゼに信用されたということが少しだけ嬉しかった。
緩みかけた頬をアリーシャはすぐに表情を引き締めて、膝の上に置いた手の平に力を入れながらだが、と言葉を零す。
「人の命を奪うことは…」
「許せない?」
ロゼの言葉に、一度考えてからそれもある、と頷く。
「けど、何よりしてほしくない、というのが本音だ」
共に旅をするようになって、王宮にいた頃よりも更にロゼのことを知っていった。彼女の人となりを知ったからこそ、仲間として暗殺なんてことをしてほしくない。
正直な気持ちを吐露すると、ロゼは一瞬ぽかんと口を開けて、それから何故か困ったような笑みを見せる。
「そうくるか…」
「ロゼ?」
ロゼの小さな呟きが聞こえず尋ね返すが、彼女はその表情のまま何でもない、首を振った。
「でもさ、あたしはこれが必要だと思ってる」
「…………」
「これから先、きっとこんなこと何度もあるよ」
真剣な顔でそう断言したロゼに、目を伏せていたアリーシャははっと顔を上げた。
「世界と自分の正義を混ぜて考えてる人、周りなんて見ないで自分が正義だと思い込んでる人。そんなヤツ珍しくもないし、誰でもそうなる可能性を持ってる。あたしやアリーシャだってそう」
ロゼの淡々とした口調が、やけに重々しく感じる。
きっと彼女は、そういった人物を何度も目にしてきたのだろう。商人として、暗殺ギルドとして。
そして自分だって、いつそうなるかわからない。
アリーシャはその言葉に、知らず自身の腕を抱きしめる。
ロゼに言われるまで、そのことを自覚しきれていなかったことが、今になって怖くなった。

「で、さ。今日みたいに、スレイじゃ浄化しきれない人間だって、そのうち出てくる」
ロゼは色のなかった声音に少しだけ感情を滲ませて、話を続ける。
「スレイは底抜けに優しいから。まだ、人を殺す覚悟ができてない。だからこの先、枢機卿みたいな人がいたら、あたしが何とかする」

―――『スレイの仕事は生かすこと。あたしの仕事は殺すこと、でしょ?』

枢機卿を討ったあと、ロゼがスレイに向かってそう言っていたことを思い出す。
あの時は彼女の壊れた姿が、命がついえた瞬間が衝撃的で、他のことを考える余裕がなかったけれど。
「それがあたしなりの、従士としての在り方」
強く輝くその瞳を見て、ようやく理解した。
ロゼはあの時、決意したのだ。興味本位や、恐らく風の骨として導師として見定めていたスレイを認め、支える決断を。
スレイにはできないことを、自分が代わりに行うと。
「…それが、ロゼの覚悟なんだな」
「覚悟っていうか、こういうのはあたしが一番慣れてるからさ。適材適所ってだけだよ」
そう言って屈託なく笑うロゼが、アリーシャにはやけに眩しく感じられた。
「私も、何かできることはないのだろうか…」
翡翠の瞳を伏せて、小さく呟く。
スレイ達と共に各地の試練の神殿を回っていけば、もしかしたら従士になれるかもしれない。そうすれば、自分も彼らと同等に、憑魔を鎮めることができる。
だが、それ以外に何ができるだろう。戦力として力にはなれるだろうが、果たしてそれだけで、導師を支えていると言えるのだろうか。
「ん〜…アリーシャはさ、そのまんまでいいよ」
「え…?」
思考の海に入りかかっていた頭に突然そんな声が降りかかってきて、アリーシャは顔を上げる。
「自分にも何かできないかっての。そのままのアリーシャで、できることをやればいいよ」
両腕を机に乗せて、目の前の少女はにっと口端を吊り上げて笑う。その顔が、何故か妙に大人びて見えた。
「てか、あたしだってできることやるだけだし」
言いながらバタークッキーをひとつつまみ、彼女がいつも来ているジャケットの掛かった背もたれに寄りかかった。
サクッと軽やかな音がこちらまで届く。味はどれほどのものか、ロゼの幸せそうな表情を見ればすぐにわかった。先程食べたマドレーヌと同じ人が作ったのだろうか。
「そのままの私で、できることを…」
そういえば、自分にできることは何か、考えたことはなかった。
いつだってどうにもならない現状に嘆いて、悔やんで、そんな自分に落胆して。どうにかしたいと、その一心でただがむしゃらに突き進んだ。
だから、立ち止まることはあっても、振り返ることはなかった。
今の自分に、できることとは何だろう。
スレイのために、そして国のために、自分ができることは―――

「ここにいたのか」
ふいに、そんな声が聞こえてきて振り向けば、銀に水色を刷いたような不思議な色合いの髪を持つ少年が腕を組んでこちらに視線を向けていた。
「ミクリオ様!」
「アリーシャ、ちょっといいかい?」
食堂と寝室を繋ぐ扉の前で、しかつめらしい顔で少女のことを呼んだ。
アリーシャは彼の言葉にはい、と了承の意を示して席を立つ。
「ロゼ。君のことを、少しでも教えてくれてありがとう」
「うん?別にお礼を言われるようなことじゃないけど…とりあえずどういたしまして!」
心底不思議そうに首を傾げるも、わからないなりに感謝を受け止めるロゼに、アリーシャは笑った。
しかし、少女は薄茶の髪を揺らして、すぐに顔を曇らせる。
「だが、やはり私は…」
人を殺すことを、許すことができない。例えそれが仲間であったとしても…いや、仲間だから尚更。
苦しげに、けれど素直な気持ちを伝えると、ロゼは穏やかな表情でそれでいいよ、と告げた。
「いいよ。別にアリーシャに許して欲しいから話したワケじゃないし。あたしたちがやってることが『社会』としてどういうことなのか、理解はしてるから」
瞳の奥に覚悟を決めた光を宿し、肌を凪ぐ風のような眼差しで、ロゼはそう言った。彼女の言葉にアリーシャは悲しそうに顔を歪めるが、ゆるゆると頭を振って気を取り戻し、わかったと頷く。
それが、彼女達が決めた道なのだろう。
「あ、アリーシャ。あたしからも一コ質問」
「何だろうか?」
ミクリオの元へ向かう途中、ロゼが今思い出したかのように声をかけてきた。
「アリーシャがさ、屋敷の自室で時々呟いてた言葉遣いって、もしかして素の口調?」
振り返れば、彼女は口の端をにやりと上げて、青い瞳をきらりと光らせてアリーシャを見ていた。
ロゼの問いに、アリーシャは訝しげに眉を寄せる。何のことだ、と呟く前に彼女の言葉を理解し、少女の白い頬は火がついたように真っ赤になった。
「―――っ?!し、知らないっ!」
「え、まっ、どこ行くんだアリーシャ!」
聞かれていた。今では知る者も古くから屋敷に仕えている使用人くらいである、自分の本来の言葉遣いを。
そうだ。ルナールという者の独断とはいえ、それまでに自分やその周辺をくまなく調べられていたはずだ。風の骨に……ロゼに。
恥ずかしさのあまり沸騰したように熱くなった頬をおさえ、アリーシャはミクリオがいることも忘れて笑い声が聞こえる食堂の扉を勢いよく閉めたのだった。


◇   ◆   ◇   ◆


「ぷっくく…!あーかわいい。からかい甲斐あるなぁ」
食堂に取り残されたロゼは、再び机に突っ伏して笑っていた。あれほど動揺していたということは、おそらくあっちの方が素なのだろう。今の堅苦しい口調は、大臣らに侮られないためのものだろうか。
「マドレーヌ、美味しそうに食べてたよ。よかったね、お姫様の口に合って」
ひとしきり笑ったあと、ロゼは誰もいないはずの食堂で、彼に向けて言葉を投げかけた。
すると、少女から白い光がひとつ、やや躊躇うように現れて人型を作る。
「…別に、俺は王宮のお抱え料理人になりたいわけじゃない」
金と銀の装飾がついた黒いシルクハットを目深にかぶり直しながら、ずっと自分の中に入っていた風の天族は憮然とした顔で言い返してきた。けれど、どこかまんざらでもなさそうに感じる。それなりに嬉しいのだろうか。
デゼルは不愛想で近寄りがたい印象を与えるが、付き合ってみると意外と感情豊かだ。彼の人柄や口癖を知っていけば、案外とわかりやすい性格をしていると思う。
「別に隠れる必要なかったのに」
「…姫さんはお前に話があったんだろう。俺がいても話しづらくなるだけだ」
「えー、そんなことなかったと思うけどなぁ」
確かに無言で無表情な青年が傍に座っていたらそれなりに威圧感はあるが、正直もう慣れた。自分より前にデゼルと仲間になっていたアリーシャだって同じはずだ。
「てか、だったらどっか行ってればよかったんじゃん」
そもそも隠れなくてもよかったのではないか。そこに思い至り、ロゼは疑問をそのまま口にする。
背もたれに身を預けてまま、首を仰け反らせて彼の方を向くと、デゼルは無言のまま俯いた。
一秒、二秒、三秒…カチコチと壁時計の音が耳に飛び込んでくる。そろそろ鳩が飛び出す時刻だろうか。
「…こういう時、ひとりでいたいタイプじゃないと思ったんでな」
これはだんまりかな、と諦めかけた矢先、ようやくデゼルが口を開いた。
ぼそりと呟かれた彼の指摘に、ロゼは勢いよく彼を振り仰いでまじまじと凝視する。
「…何だ?」
「いや…何でわかったんだろうって思って」
アリーシャと同じように髪飾りを外した深紅の髪が、青年を見上げてさらりと頬にかかった。
じっと見つめてくる少女に居心地の悪さを感じたのか、デゼルは目を隠すようにさらに帽子のつばを下げる。
「……何となくだ。お前の家族とやらを見ていたら、な。お前たちはバラバラに行動していても、常に互いに寄り添おうとしている…ように見える」
「……そっか」
彼の観察眼に、ロゼは感嘆の息を漏らす。いや、眼ではなく風で読んでいるのか。どちらにしてもデゼルの推察が的を射ていることには変わりない。
「ね、デゼルの目ってさ、いつから見えなくなったの?」
それは、ほんの数時間前に知ったこと。長い前髪と黒い帽子に隠れた彼の双眸は、光と色が宿っていないのだという。普段そのような素振りを一度も見せたことがなかったから、まったく気付かなかった。
「…なぜ今それを聞く」
「だって、まるでずっとあたしのこと見てきたみたいにドンピシャだったんだもん」
だから前にどっかで会ってたのかなって。そう言ってからからと笑うと、どことなくデゼルが困惑したような空気を纏った。
それもそうか。デゼルは旅をしてからの自分を見てそう思ったのだから、言われても困るしかないだろう。
ただ、気付かれてしまったせいだろうか。この際だからと、気まぐれに自分のことを話してみたくなった。
「…いつもはさ、仕事が終わってアジトに戻れば、誰かしらが出迎えてくれてたんだ」
ロゼの口から、独り言のようにぽつりぽつりと言葉が零れる。脳裏によぎるのは、人気のない遺跡や森でひそやかに暮らしていた時の記憶。
それは情報収集に向かっていたエギーユであったり、黙々と帳簿を整理しているロッシュであったり…とにかく、アジトに帰れば気の置けない家族の姿がそこにいた。
「真面目な話もするけど、それと同じくらいくだらないことも喋って、目一杯ご飯食べて、眠くなったら寝て…そうしたら、朝になれば自然と気持ちが切り替えられた」
お疲れ様という労いの言葉。その日の食事当番が温め直してくれた食事。皆で机を囲んで談笑する時間。
今はそれぞれの仕事をこなして、各地を駆け回っている家族のことを思う。情報交換のために数人ほどには定期的に会っているが、普段に比べたら格段に離れている時間の方が多かった。
だから今、身に沁みて実感している。
「それが当たり前だったから…そんなことないのに、そう思っちゃってたんだなぁって」
エギーユ達との日々は、確かにロゼにとって当然のように目の前に横たわっていた日常であった。けど、いつでもそこにあるわけではないのだ。
ひとつ仕事を片付けた、この瞬間になってやっとそれを”思い出した”。
「誰かに話を聞いてもらうのって、こんなにも大事なことだったんだね」
本当は自分も、いつもだったら既に眠っている時間だった。今日は妙に寝付けなくて食堂で手持無沙汰にしていたら、アリーシャがやってきた。
「だから、さっきアリーシャと話せて、ちょっと安心した」
彼女と話して、今日自分がやった行いをようやく受け止めることができたように思う。
今思うと、こうして人と話して受け止めてもらうことで、いつも自分の心を整理していたのかもしれない。
「以上!まぁそんな感じ!」
言うだけ言ってすっきりすると、今度は徐々に気恥ずかしさがやってきて、ロゼはおどけるように話を切った。
無口なのにはもう慣れたが、相槌のひとつもないのはちょっと何とかしてほしいと思う。我に返ると何か気まずい。
「…そうか」
その心情を察したのか否か、ロゼが話し終えるまでずっと黙って聞いていた当のデゼルは、やっと小さく一言呟いて大きな手の平をポン、と赤毛の上に置いた。
「デゼル…?」
彼の意外な行動に声を掛けてみても、やはり無言のまま。やや雑に、けれど優しく頭を撫でられる。
思ってもみなかった事態にロゼは固まるが、やがてゆっくりと肩の力を抜いて穏やかな表情で身を任せた。
「…デゼルってさ」
大きくて無骨な手の平は、グローブ越しでもあたたかい。頭越しに伝わるそれは、まるで自分の全てを許容してくれているような安心感をロゼに与えた。
その感触を、覚えている訳でもないのに、その存在と重ねた。
「何か、お母さんみたい」
「……誰が母親だ、誰が」
ピタ、と手の動きが止まり、複雑そうな声音に顔を上げれば、苦虫を数十匹噛み潰したような顔があった。
そんなデゼルが可笑しくて、ロゼは声を出して楽しそうに笑った。


◇   ◆   ◇   ◆


スレイは広い部屋にひとり、ベッドの上に腰かけていた。
ゆらゆらと、燭台の灯りが揺れる。日中に宿に入り、食事をして、気付けばいつの間にか、既に深夜を過ぎる時刻になっていた。
一定のリズムを刻んで鳴り続ける時計を見遣って、白いマントを外した少年は溜め息をつく。
何度布団に潜って、寝付けなくてまた起き上がってと繰り返しているのだろう。こんな夜更けまで起きているのは久しぶりだった。
野営の時はミクリオやライラ達が寝ずの番をしてくれていたから、夜は安心して寝ていられた。天族は基本的に、人間のように睡眠を必要としないのだ。
「ミクリオのヤツ…どこ行ったんだろう…」
セルゲイが用意してくれた部屋は、天族含め二人に一部屋という何とも贅沢なものだった。しかも二人部屋にしては相当広い。一体いつも泊っている宿代の何倍の客室なのだろう。
ここまでしてくれなくていいのに、と思う半面、彼の心からの計らいが嬉しかった。
――――そう、いつもなら思うはずなのだが。
「今日は、大部屋の方が良かったかな…」
膝の上に腕を乗せて、スレイは自嘲気味の笑みを浮かべる。いつもは透き通るような光をもった深緑の双眸も、今は暗い影を落としていた。
ひとりだと、色々と考えてしまうのだ。
セルゲイには悪いが、皆と一緒だった方が、気が紛れた。
「っ!あ、はい」
手を組んだ上に額を乗せて瞑目していると、ふいにドアをノックする音が聞こえてきた。
突然のことに思わず素っ頓狂な声で返事をすると、扉の向こうから私だ、と凛と響く声が耳に届いた。
「アリーシャ?」
「夜遅くにすまない。…入ってもいいだろうか…?」
「うん。どうぞ」
律義に許可を取る彼女に小さく笑いながら、スレイは入るように促す。
そっと開いた隙間から、おずおずと部屋に入ってくる。申し訳なさそうに、どこか気を張った面持ちで扉の前に佇む彼女を見て、スレイは逆に自分の身体からするすると力が抜けていくことを感じていた。


とりあえずお茶でも、と客室に備えられていたポッドとお茶菓子を取りに立ち上がろうとして、アリーシャに慌てて引きとめられた。
ただ話したかっただけだ、もう寝るだけだから大丈夫だと説得され、それもそうかと納得して元いたベッドに座る。
「アリーシャも、ここ座って」
「は…えっ!?」
ぽんぽんと自分の隣を手で叩いて示すと、アリーシャは何故か目を白黒させてさらに慌てた。わたわたと焦る少女を不思議そうに見つめていると、しばらく悩んだのち、やがてその場所にちょこんと収まってくれた。
その行動がどことなく警戒しながらも近付いてくる小動物を彷彿とさせて、思わず頬が緩む。
「それで、アリーシャの話って?」
「その、ミクリオ様から…スレイと喧嘩したという話を聞いて」
スレイの様子を窺いながらそう言ったアリーシャに、スレイはああ、と苦笑いを浮かべた。
「ケンカっていうか、『一度自分の顔を鏡で見て来い!』って一方的に怒られたっていうか…」
「一方的に?」
「うん。いつもみたいに部屋で過ごしてたら、いきなり」
部屋で明日の準備をして、読書をして、時々雑談をして…本当に、いつも通りに過ごしていた”はず”だった。
鋭いよな、と思う。けど、逆の立場だったら、多分気付いたのだろうなとも。
「…スレイは、ミクリオ様が怒った理由は…」
「うん、わかってる」
だからスレイは、アリーシャの問い掛けに静かに頷いた。
「ミクリオはさ、言わなくても、オレがどう思ってるのかわかってくれるんだ。だからつい甘えちゃうんだよな」
困ったように笑って照れ混じりに頬を掻くと、隣に座るアリーシャも淡く微笑んだ。
その絆はスレイにとって誇らしいものだ。だが今のように時々、寄りかかりすぎているのだと思い知ることもある。
一言二言でお互いに伝わるから、言葉を連ねなければならないときに、何を話していいのかわからなくなってしまう。
あの時の……枢機卿を討った後だって、悔しいと、その一言だけで汲み取ってくれて――――

「……レイ、スレイ、大丈夫か?」
ふいに、気遣わしげな声音と共に、細長く繊細な指がスレイのこめかみ辺りに触れた。
その思いの外ひんやりとした感触に、その言葉に驚いてぎくりと肩が跳ねた。
「え…と、何で?」
「…その…とても辛そうな顔を、しているから」
心配そうに眉尻を下げて告げられた言葉に、スレイは大きく目を見開いた。
「そんなこと…」
ない、と言おうとして、言えなかった。そう指摘された瞬間、それが合図だったかのように唇がわなないて、言葉が紡げなくなった。
まるで、嘘をつくなと本能が自身を諫めるように。
「…オレ、そんな顔してるんだ?」
自分でも酷い顔をしているとわかっていながら無理に笑ったら、アリーシャの秀麗な顔もつられるように悲しげに揺れて、こくりと頷く。
自分と同じで、嘘をつくことが苦手な彼女の正直な答えに、そっか、と小さく呟く。
ひとりでいた時と同じ静寂が、再び室内に満ちる。秒針の小さな機械音が、やけに大きく響いた。
「……スレイ」
途方もなく長く感じる沈黙を破ったのは、アリーシャの方だった。
無造作に置かれた己の手をやや冷えた細手で触れ、意を決した 様子で少女はスレイを見上げた。
「私はミクリオ様のように、スレイの気持ちを完全にわかることはできない。だから、教えてほしい」
ふ、と長い睫毛を伏せて、一呼吸置いてから再び、翡翠の双眸がスレイを射抜く。
「スレイが今、辛そうに悩んでいる理由を」
「アリーシャ…」
真っ直ぐにこちらを見つめる曇りのない透き通った眼は、スレイの中で無意識に凝り固まったものをみるみるうちに溶かしていく。
スレイは、ミクリオが彼女をここに連れてきた意図がようやくわかった気がした。


「…枢機卿のことが、頭から離れないんだ」
片方の手の甲を一回り小さな両の手に握られたまま、スレイはぽつぽつと話しはじめた。
既に昨日になりつつある、憑魔化したフォートンと対峙した時を思い出す。
あれほど哀しい顔をした憑魔を見たのは、初めてだった。
「ロゼの気持ちを無下にするつもりはないんだ。けど、あれでよかったはずがないって、そんな思いが消えなくて…」
スレイの代わりに、ロゼが枢機卿を討った。自分のためにロゼが人を殺す罪を背負ってくれたのだと、わかっている。
だが、それでも息が詰まるほどの後悔が、頭の中を支配していた。
「だって、あれしか選べなかったんだ。あの方法しか、残ってなかったんだ」
心が壊れてしまった彼女には、その命を絶つことしか方法はなかった。
そこまで追いつめてしまったのだ。他ならぬ、自分が。
「…オレ、あの時言ったのに。心を救う方法があればいいのにって」
秘力を手に入れて、ゴドジンを発つ直前。確かにその時は、救えたらと本気で思っていた。
なのに、とスレイはギリリ、と痛みを感じるほど手に力を込める。
「枢機卿と戦った時は…浄化すれば救えるんだって考えてた」
「スレイ…」
震えるほど力の入った拳にそっと触れながら、アリーシャがスレイの名を呟く。途方にくれたような声が、胸にツキリと刺さる。
困らせたい訳じゃないのに、一度口から零れ出した心はとめどなく溢れだして、もう自分ではどうしようもなくなっていた。
「わかってたつもりになってただけ、だったんだ。浄化の力で穢れを祓うだけじゃ、人の心を救うことは出来ないんだって……枢機卿が倒れてから、やっと思い知ったんだ」
確証なんてどこにもなかったのに、心のどこかで秘力があるからと信じ切っていた。
その根拠のない自信によって、彼女の心を救う道を、自ら断った。そう思えてならない。
もうやり直せない、取り戻せない命を、自分が絶たせてしまった。
「救えなかったんだ、オレは。ロゼに人殺しなんてしてほしくなかったのに、オレのせいでそうさせて…っ」
鼻の奥がツンと痺れて、耐えるように奥歯を噛む。
「オレは何もっ…何もできなかった…!」
無力だった自分が、悔しくて情けなくて……救えなかった事実が、すごく苦しい。
「…っ、スレイ…!」
アリーシャの泣きそうな声が耳に入り、同時に俯けていた頭に細手が触れて、そのまま引き寄せられた。
後頭部に回された腕が、彼を守るように抱え込む。
ふわりと柔らかい、あたたかな温もりに、目頭から熱い雫が溢れだした。
「ごめん、ごめん…!」
震えながらアリーシャの背に手を回して、縋りつくように抱きしめる。

ごめん。救えなくてごめん。追いつめてごめん。殺させてごめん。命を奪ってしまってごめん。

一気に堰を切ってぼろぼろと零れでる涙と感情のままに、スレイは優しく抱きかかえてくれるアリーシャの身体にぎゅうと顔を押し付けて、ひたすら謝り続けたのだった。


◇   ◆   ◇   ◆


二人しかいない広い部屋に、再び静寂が舞い戻ってきた。声の代わりに、すんと鼻を啜る音と僅かな衣擦れの音だけが、室内に落ちる。
「……アリーシャ…」
ふいにくぐもった声に名を呼ばれて、アリーシャはそっと腕を緩めて下を向く。何だろうか、と返事をすると、もぞりと身じろぎをして顔を上げた。
目を泣き腫らして見上げる少年は、いつもよりもっと幼くて、怯えた子供のように見えた。
「オレ…穢れてない?」
そのような顔でそんなことを聞いてくるものだから、アリーシャは思わず吹き出してしまった。
「アリーシャ?」
「ふふ…すまない」
笑いながらそう謝って、大丈夫だと安心させるように優しく声を掛ける。
「苦しくはないから、平気だよ。……ええと、ただ…」
そこで言葉を区切り、アリーシャはスレイから目を逸らした。スレイから怪訝そうな視線を感じて、反射的に肩に置いた手に力が入ってしまう。意識をそちらに向ければ向けるほど、顔がどんどん熱くなるのを感じた。
「この体勢が、少々苦しくて……」
できるだけ何気なく言おうとしたが、結局気恥ずかしさの方が勝ってしどろもどろになってしまった。速く叩く心臓の音が聞こえていないことを切に願う。
「……―――っ?!うわぁぁぁご、ごめん!」
彼女の言葉にきょとんとしていたスレイは、しばらくアリーシャを見つめて、それからようやく今の状況に気付いたようだ。
背中に回されていた腕がばっと引かれたと思うと、彼の身体も勢いよく離れた。室内の灯りに照らされたスレイの顔は自分に負けず劣らず真っ赤で、それにつられて更に頬が熱くなった。
「こ、こちらこそ、いきなりすまなかった…!」
「お、オレも、あの、泣きついちゃってゴメン…」
ベッドの上で、二人ともあらぬ方向を向きながらあわあわと身振り手振りで謝りあう。
私の方こそ、いやオレだって、元はと言えば私が、そもそもオレが……そう何度も何度も繰り返される謝罪の応酬に、自分の頭の隅に追いやられた冷静な思考が何だろうこれは、とツッコミが入る。訳が分からないまま言葉が尽きた頃、やっと視線が重なり合った。
目前にあるのは、疑問符を大量に浮かべて顔を赤らめたスレイの姿。きっと自分も同じ顔をしているのだろうと思ったら、急におかしさが込み上げてきて、ふにゃりと口元が緩んだ。
それはスレイも同じだったようで、お互いに顔を見合わせて、それから示し合わせたかのように同時に笑いあった。

「そういえば、何故あのようなことを聞いてきたんだ?」
「え?」
「自分が穢れていないか、という…」
身体が腹痛を訴えるまで笑ったあと、先程スレイが不安げに尋ねてきた問いを聞き返すと、ああと思い出したように声を上げた。
「今まで見てきた穢れを生んでた人たちって、絶望とか後悔とか…そういう思いをした人が憑魔になってたからさ。オレもさっきので穢れを生んじゃったかなって、不安になって」
先程よりもずっと落ち着いた声音で話されたことに、アリーシャはなるほどと合点がいった。そして彼と同様に疑問に思う。
人間の負の感情が昂って生まれるのが、穢れ。その秩序に則るならば、スレイは穢れを生んでいるはずだ。
それに自分だって、何度後悔をして、何度失望したことか。それとも見えていなかっただけで、己も穢れをうんでしまっていたのだろうか。
無意識に顎に指を添えて思案する。その拍子に、動かした腕がひやりとした部分に触れて、アリーシャはぱちぱちと目をしばたかせた。
身に着けている黒いブラウスに手を乗せると、胸元辺りが湿っていた。思わず小首を傾げるが、その理由にすぐに思い至ってまた頬の熱がぶり返す。先程の、スレイの涙だ。
ぱっと服から手を放して、はたとひとつの推測が頭をよぎった。
「…泣いたから、ではないだろうか?」
「泣いた、から?」
おうむ返しに問い掛けるスレイに、アリーシャはこくりと頷く。
「思い切り泣いた後は、胸がすっきりするだろう?それまで思っていた嫌なことや悲しいことが、まるで少しだけ軽くなったように」
決して起こってしまった出来事が変わるわけではないけれど、心を覆いつくした激情を不思議なほど穏やかにしてくれる。
「水は穢れやすいと、以前ライラ様からお聞きした。だから、泣くことで穢れが流れて、身体から消えていってしまうのではないかと…」
怒りや悔しさや罪悪感も、そこから生まれる穢れも、とめどなく溢れる涙が一緒に流してくれる。
だから穢れないのではないだろうか。
自信はないながらもそう説明して、アリーシャはおずおずとスレイを見上げた。隣に座る少年は、腫れぼったい目を丸くしてぱちぱちと目をしばたかせていた。
それは根拠も何もなくて、限りなく想像に近い憶測だ。
憶測、だけれど。
「そっか…うん、そうかも!」
深緑の双眸がゆるりと細められて、元気な肯定が返ってきた。不安に気が滅入りはじめていたアリーシャは、彼のその声にぱっと表情を明るくする。
「水は穢れやすいと、以前ライラ様が仰っていたし、涙に穢れが移っている可能性もなくはないと思うんだ」
「だとしたら、人は浄化の力なしでもある程度は穢れを浄化できるってことも考えられるよね」
「ああ、そうだったらいいと思う」
少年の言葉に、アリーシャは翡翠の瞳を細めて笑う。
そうだったら素敵だと思う。
だってそれは、人間が穢れを生むばかりではないということだから。
「……もしかしたら、これが災厄の時代ってことなのかな」
二人してその推測から更に想像を膨らませて、会話を弾ませたあと、ふいにスレイが真剣な顔をしてぽつりと呟いた。
「それは…本来なら自分自身で浄化できる穢れが、浄化できなくなってる状態が、ということか?」
アリーシャも表情を引き締めて確認するように問い掛けると、少年は首を縦に振って肯定した。
「多分、今の状態は普通の世界じゃないってことなんだと思う。元がどういう世界なのかまでは、わからないけど」
スレイの見解に、はっと驚いたように目を見開く。
「確かに、私も今の災厄の時代以外の世界を知らない…」
人の常識を超える災厄に見舞われるようになったのは、ここ十数年程だといわれている。
自分もスレイも知らなくて当然と言えば当然であるが、だからこそ彼の考えは盲点だった。
そして、ならばもうひとつ、問題が浮かぶ。
「スレイ、もし今の世界が異常だとするなら、それは…」
自然、深刻さが声色に滲んだ。それを感じ取ったのか、スレイは口元を真一文字に引き結んでうん、と頷く。
「ヘルダルフのこともだけど、今の世界を普通に戻さないと、きっと災厄の時代は終わらない」
「スレイ…」
「でも逆を言えば、災厄の時代がはじまったきっかけを知れば、元に戻せるかもしれないってことだよね」
何か頑張れる気がしてきた!そう晴れ晴れと笑うスレイに、アリーシャは思わず目を白黒させた。
世界を戻す。それはとても壮大で、途方のないことのはずだ。
なのに隣にいる導師は絶望も悲嘆もせず、力強い表情ですでに未来を見据えている。
さっきまでの落ち込んでいた様子から一転、楽しそうに今後のことを語る少年に、アリーシャはついつい苦笑いを零す。
「…スレイは、本当にすごいな」
心の底からそう呟くと、スレイは何故か意外そうな顔でへ?とアリーシャを見つめた。
「すごいのはアリーシャの方だよ」
「え…?いや、私は何も…」
「今こうしていつも通りに話せてるの、アリーシャのおかげだからさ」
言ってから、スレイは何かに気付いたようにあっと声を上げた。そういえば言うの忘れてたね、とばつが悪そうに頬を掻いて、身体を動かしてアリーシャと向かい合う。
「ありがとう。枢機卿のこと、アリーシャのおかげで立ち直れた」
輝きそうなほどの笑顔で礼を言った少年に、呆然と見つめていたアリーシャは、やがて彼につられるように華やかに微笑む。
「本当に、君は気持ちのいい人だ」
そして、君のような人が、本物の導師で本当によかった。
彼と出会って、世話になって、その別れ際に言った言葉を少女は再び口にしたのだった。
「そうすればさ、少なくとも浄化しきれない憑魔はぐっと減ると思うんだ。そうしたら浄化の力で救えると思うし…」
「ああ、それで思い出した。ロゼのことなのだが―――」
それから、ミクリオが部屋に戻ってまだ起きていたのかと叱り飛ばされるまで、スレイとアリーシャはこれからのことやとりとめのないこと、そんな様々なことを語り合っていた。

◇   ◆   ◇   ◆

ペンドラゴに、眩しいほどの陽射しが降り注ぐ。
天高く昇る太陽の下、相変わらず旅の者は少ないが、表に出た住人達は皆一様に明るい顔をしていた。
大きな音を立ててしばらくたたんでいた店の引き戸を開ける店主。買い物中に鉢合わせした主婦の井戸端会議。その周りを甲高い笑い声を上げて走り回る小さな子供達。
活気を取り戻しはじめた街の様子を、嬉しそうに目を細めて眺めていたロゼは、背後から近付いてきた複数の気配ににっと口端を吊り上げた。
「やっと起きた」
「寝過ぎちゃったよ」
「すまない、まさかお昼まで寝過ごしてしまうとは…」
ぽりぽりと頭を掻いて苦笑う少年と申し訳なさそうに謝る少女に、ロゼは軽く笑って平気平気と答える。
「昨夜はお楽しみ…ってのは、ライラが訊いて不発に終わってそうだからやめとくわ」
「な、何でわかったんですか?!」
きょとんとするスレイとアリーシャの後ろで、ぎょっと目を剥いたライラがロゼに言い募る。
「いや、わかるでしょ普通」
「わかりやすすぎるからな」
「読め過ぎて寧ろやらないかもって勘繰るほどよ」
「そ、そこまで一斉に言わなくても…!」
ロゼだけでなくエドナとデゼルにまで立て続けに指摘されて、ライラは意気消沈してがっくりと項垂れる。
「それで、ロゼたちは何見てたの?」
両手の指をつんつんと合わせながら落ち込むライラに苦笑してから、スレイは先に起きていたロゼとデゼルに問い掛ける。
「ん、ちょっと街の様子をね。あとは、こっち」
そう言ってロゼは視線を街の正門に向ける。彼女にならって柱の向こうを覗き見ると、そこには白皇騎士団が規則正しく背筋を伸ばして整列していた。
鎧を身に付け、引きしまった顔で並ぶ騎士団の前で、彼らの団長であるセルゲイが雄々しく声を上げる。
「皇帝陛下は御親政の決意をされた。だが、枢機卿が束ねていた強硬派が、それぞれ怪しげな動きをみせている」
「戦争をしたい奴らか…」
彼の言葉に、ロゼは声をひとつ落として呟く。彼女の独り言を耳にしたスレイ達は、それぞれ険しい顔で俯く。
「まとまりがなくなった分、対処が難しいかもしれないね」
ミクリオの冷静な声が針のように突き刺さる。盆地で起こったような戦いを、再び起こそうというのか。
「また人が…」
「そうはさせない!」
たくさん死ぬ。言いかけた台詞は、気迫のこもった声にかき消された。
驚いて顔を上げれば、騎士団に声をかけていたセルゲイがスレイ達に向かってづかづかと近付いてきた。
「戦争は必ず止めてみせる。スレイたちの努力を無にしないために」
セルゲイのその言葉が、胸を打つ。彼の真摯な態度と頼もしさに、喜びと安心感がじわじわと広がる。
「頼んだよ、セルゲイ」
自然と笑みを形作った口でそう伝えれば、セルゲイは強面の顔に更に影を乗せて、ああ、と力強く頷いた。
「巡回ルートは、先程騎士団塔で確認した通りだ。全員、速やかに配置に付け!」
低く良く通る声が騎士たちに指示を出す。ガシャン、と音を立てながら彼の命令に声を上げて一斉に応じた。
彼らと共に市街地へと向かったセルゲイを見送ってから、一度大きく伸びをする。
思いっきり腕を青空に向けて伸ばしてから、よし、と気合を入れてアリーシャに視線を送る。スレイの視線を受け止めた少女は、陽の光で透き通るように輝く翡翠の瞳を向けてこくりと頷いた。
「ロゼ、ちょっといいかな?」
「うん?何、改まって」
昨夜、二人でひとつ、決めたことがある。
首を傾げてこちらに身体を向けるロゼに、アリーシャは真剣な表情で口を開く。
「ロゼ。私はやはり、人の命を奪うことを許すことはできない」
「…そっか。うん、そりゃそうだよね」
少しだけ、ロゼは寂しそうに瞳を揺らす。だが、すぐにいつもの表情に戻り、うんうんと大きく頷いた。
それに気付いたのは、目が見えない筈のデゼルのみであったが、彼は無言で帽子のつばを下げるだけだった。
「でも、それは許せなくてもいいって、昨日も言ったでしょ?別に無理に認めさせるつもりは――――」
「だから」
明るい口調で昨夜と同じ台詞を繰り返す少女を、アリーシャは己の声で遮った。
「だから、私がそうさせない」
昨夜と同じ台詞を明るい口調で返す彼女に、しかしアリーシャは遮ってそう告げた。
目の前で背筋を伸ばして佇む少女の言葉を聞いたロゼは、ぽかんと口を開けては…?と声を零す。
「私たちが、ロゼに誰かを殺させない」
目を皿のように丸くするロゼに、アリーシャは重ねて繰り返す。強い眼差しで宣言する少女の隣で、今度はスレイが口を開く。
「オレも、ロゼにそうさせなきゃいけなくなる前に、憑魔を救う方法を探す」
そうオレたちで決めたんだ、と力強く穏やかに笑う。未だ呆然としているロゼを見て、一呼吸置いてからだからさ、と彼女に声をかける。
「ロゼの仕事、オレの仕事とかじゃなくてさ。全部一緒に考えよう」
「スレイ…」
スレイの言葉にようやく我に返ってきたらしい少女を、アリーシャはそっと前に出て凛とした笑みを向ける。
「ロゼが、スレイや私たちのために罪を背負おうとしてくれたのはわかった。だが、私たちは仲間なのだから、共にその責を背負わせてほしい」
一緒に考えて、悩んで、泣いて笑って、進んでいく。仲間だから、喜びも痛みも責任も、様々なことを分かち合い、助け合っていきたい。
その言葉に誓いを立てるように、胸の前に片手を添えてそう言ったアリーシャを、それから一歩後ろで静かに頷くスレイを、ロゼは瞼を忙しなく動かして交互に見遣った。
「あんたら…」
そう何かを呟きかけてふいに俯いて、海色の双眸が隠れて鮮やかな赤い後頭部しか見えなくなる。僅かに肩を震わせる彼女に段々と不安になりはじめた少年少女は、けれど唐突にぷっと吹き出した音が聞こえてきて同時に首を傾げた。
「あはは!やっぱあんたたちって面白い!」
言いながら、ロゼはいきなり腹を抱えて笑いだした。驚いてぱちぱちと目をしばたいているアリーシャの傍で、スレイはまた言われた、と遠い目をする。一体これで何度目だろうか。
「ふふ…うん。でも、ありがとう」
笑いがおさまってから、ロゼは顔を上げて礼を述べた。
「わかった、ひとりで勝手にやろうとしない。その代わり、スレイとアリーシャの悩みとかそういうのだって、あたしにちゃんと背負わせろよ!」
腰に手を添えて強気に告げる少女に、スレイとアリーシャは嬉しそうに大きく頷いた。
「うん。頼りにしてるよ、ロゼ」
「私も。これからもよろしく頼む」
「おう!」
片手を上げてそう応えたロゼの表情は、いつも以上に清々しくて明るい笑顔できらめいていた。


「理想ばかりの甘い考えね」
「同感だ」
彼らの様子を少し離れたところで見守っていたエドナは、呆れ混じりにぽつりと呟いた。一回り以上小さい彼女の台詞に、デゼルも同意する。これが『青い』というものだろうか。
太陽を遮るように大きな傘を差した少女に、姿勢正しく佇むライラが柔らかな微笑みを浮かべてそうかもしれません、と声を放つ。
「けど、理想があるからこそ、それを目指して変わってゆけるのでしょう」
「僕もライラの意見に賛成だね。夢を追うから、成長できるんだと思う」
例え高い理想でも、届きそうにない夢でも、叶えるために努力することは決して無駄ではない。
一歩一歩近付くたびに、僅かにでも変わっていける。それを積み重ねていけば、大きな進歩になるはずだ。
「流石ミクリオボーヤ。言うことが違うわね」
薄紫の瞳を細めて頷くミクリオに、エドナのひと際棒読みの言葉が投げられる。
「…一切褒められていない気がするのは気のせいか?」
「ミクリオさんは思春期真っ盛りですからねぇ」
「思春期は関係ないだろ!」
「いや関係あるだろう」
「みんなー、そろそろ昼飯にしない?オレもう腹ペコ」
いつもの(圧倒的にミクリオが不利な)言い争いに発展しかけたなか、どこか情けなさが漂う少年の声がそれを遮った。
腹部をさすってこちらに近付いてくるスレイを、ミクリオ達は呆れ顔で見つめて苦笑いを零す。
「そうだな。宿で腹ごしらえしよう」
ミクリオの言葉を聞いたロゼは、よっしゃ!とガッツポーズをして喜びの声を上げる。
「待ってろあたしのドラゴ鍋ー!」
「また汁を服に付けてシミにするんじゃないぞ」
一目散に駆け出した少女に、溜め息と小言を零しながらデゼルが早足でついていった。
くるくると傘を回しながら、エドナがその後をゆっくりと追う。
「今日はシンプルにハイランドステーキでも食べようかしら」
「では私は冷奴をいただきましょう」
「…ライラ、昨日もかなり食べてたよな…。冷奴、好きなのか?」
心なしか声を弾ませて歩くライラに、げんなりとした様子でミクリオが疑問を口にする。今日は何皿いくつもりなのだろう。
ガラガラと音を立てて荷馬車が通る。晴れたかな天気のせいか、馬車を引く馬もどこか嬉しそうに走っているように思えた。
がやがやと賑わう街に、スレイはふいに足を止めて教会神殿があるだろう方向に目を向ける。
ぐっと拳を握り、導師の手袋をはめた左手を胸の前に祈るように置いて、目を閉じた。

あなたの死は、一生忘れないから。
あなたの死を絶対に無駄にはしないから。
もしまた、あなたのような人がいたら、今度こそ必ず救ってみせる。

「…スレイ?」
ふいに、心配そうな少女の声が耳に届いた。その心地の良い声音に促されるように目を開けて、己の様子を窺うアリーシャに微笑みかける。
「大丈夫、ちょっと祈ってただけ」
「…枢機卿へ、か?」
小さく尋ねてきた彼女に、スレイは穏やかな表情のままうん、と頷いた。その返答に、アリーシャは少しだけ思案してから、先程のスレイと同じように教会神殿に向けて、両手を組んで祈りをささげた。

―――昔のフォートンは、誰より責任感が強く、熱心な信徒でした。その彼女が、何故…?

アリーシャのその姿に笑みを浮かべて見守っていたスレイは、ふと元教皇であるスランジが呟いていた言葉を思い出す。
スランジは、枢機卿が憑魔になっていたことを大層疑問に思っていた。その口ぶりでは、天族の事も恐らく信じていたのだろう。
彼からそれほどの高い評価を受け、司祭らや民衆から信頼されていたであろう枢機卿が何故、周囲を顧みず己の正義を頑なに信じきってしまっていたのだろうか。
まるで、何かに傾倒していたかのように――――

「――――っ?!」
「デゼル?」
フードを引っ張られて落ち着けと窘められていたロゼは、急に傍を歩くデゼルが殺気だったことに目を丸くした。
「どうしたの?」
「……いや、気のせいだ」
街の正門を振り仰ぎ、必死に何かの気配を探ろうとしていたデゼルは、やや間を置いてロゼの問いに返答した。
視力を失った両目を隠すように帽子を目深に被って顔を伏せ、無言のまま歩きだす。
(確かに奴の気配がしたと思ったんだが……一体どこにいやがるんだ)
この場所で己の親友の命と、風の傭兵団の居場所を奪った、あの天族は。
ぎりり、と奥歯を噛みながら、未だ不審げな顔でこちらを見てくるロゼに何でもないと言い添えて、デゼルは宿の中へ入っていった。



「私の気配に気付くとは…鋭いな」
スレイ達が宿に入ってから暫くして、石造りの門の上に音もなく現れたひとりの少女がいた。
その顔は幼いながらも妖艶さを孕み、黒い衣服から覗く肌は健康的とは言えないほど細く蒼白だ。
ざわざわと人々の騒がしい生活音が広がる街で、そこだけは切り離されているかのように静かだった。
「しかし、あの風の天族、確か…」
病的に細い、けれど子供らしく丸い輪郭の顎に指を添えながら、ぼそぼそと呟く。
人外の美しさを放つ少女は、やがてくつりと笑う。
それは、幼い容貌らしからぬ妖しげな笑みだった。
「これは使えるかもしれないな…」
くつくつと喉を鳴らしながら、少女は無造作に宙に浮き、漆黒の髪をふわりと揺らしてその場から姿を消したのだった。





「ちょっとそこの坊や二人、肉ばっか先に取らないで」
「あ、ごめん、お腹すいちゃってつい」
「エドナなんか肉だけじゃないか。それに、僕は人より多く食べないと いけないんじゃなかったっけ?」
「ワタシが言ってるのは食べる順番を考えて食べなさいってことよ。背に飽き足らず器まで小さいのね、ミボは」
「ぅぐっ…!」
「出た!エドナの鍋奉行」
「ロゼ、お前もだ。野菜を食え」
「うわっ、とばっちり来た!」
「デゼル様、アク取りは私が代わりに……」
「いや、気にするな。食べてろ」
「あ、じゃあデゼルの分はあたしが盛っとくよ」
「…おい!何だこの盛り方は。雑すぎる」
「あーはいはい。お腹に入っちゃえば全部同じだって」
「あ、アリーシャ、この焼きトマト食べてみなよ。すっごい美味しいよ!」
「そうか、ではひとついただくよ。ありがとう、スレイ」
「冷奴が絹ごしでぷるぷるとなめらかで大変美味ですわ〜!」





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