もしもの物語-20-



むせ返りそうなほどの穢れが、そこに広がっていた。

グレイブガント盆地に辿り着いたスレイ達は、眼下にあるあまりにも凄惨な光景に絶句した。
盆地にいる数えきれないほどの人間が、次々と動かなくなっていく。そこかしこで阿鼻叫喚が聞こえてくる。
蜘蛛の子を散らすように、赤青入り乱れて逃げ惑う人々。窪んだ地面には血のこびりついた潰れた鎧。黒ずんだ大地に焼け焦げた人の山。未だ絶えることのなく続く地響き。
あえて言葉で表すとしたら、地獄絵図。それしか言いようがなかった。
そしてその中心に、あり得ないほどに巨大な影。
ああ、と小さく、悲嘆に暮れた声がこぼれ落ちた。
「生まれてしまった…」
ライラの震えを抑えきれない声音が、ひび割れた地面に吸い込まれていく。
その声を聞いて、スレイはようやく乾いた喉から声を出した。
「ドラゴン…」
伝承として人々の間で語り継がれる、破滅の象徴。
今や伝説上の存在として認識され始めていたその存在が、悲鳴が飛び交う二国の戦場に君臨していた。


「あんな化け物…!どうにかできるか…!」
「ははは!終わりだ!世界はもう!」
「ああ…助けて……母さん……」
「……見えてるのね」
「ああ。完全に実体化してる」
入り乱れる兵士らの間を縫うように進みながら、エドナがぽつりとこぼした呟きに、ミクリオが肯定する。
武器を放り捨てて戦場から逃げ出す者、狂ったように高笑いする者に、絶望を覚えてその場にうずくまる者。
上から見た光景以上の惨状だった。前の戦争のときより、ずっと。
「スレイ、大丈夫か?」
ミクリオの案ずる声に、半ば呆然としながらもスレイは頷く。
「なんとか。身体が重くて全然動けないってことはない」
前みたいに、という言葉は口に出す前に飲み込んだ。気にしすぎかとは思うが、それでもいいと思い直す。エドナを悲しませないことに越したことはない。
「それよりも憑魔が…」
数が尋常ではない。先の戦争でさえ比べ物にならないほど、多くの憑魔がはびこっていた。
ハイランド軍かローランス軍の鎧を身に着けている憑魔はまだいい。負の感情が暴走して、理性を失っているだけだ。
まだ生きている。浄化すれば元の人の姿に戻すことができる。
だが、骸の戦士や実体のない術師は、もう。
「スレイさん」
俯いた頭に、ライラの声が響いた。安心させるようなその穏やかな声音に、スレイは我に返ったように顔を上げる。
「ハイランド軍のことは、アリーシャさんにお任せしましょう。大丈夫です。アリーシャさんならきっと」
「ローランス軍だってセルゲイが何とかしてくれるさ。今だって絶対に食い止めようとしてる」
ミクリオもライラに続き、一旦言葉を区切ってからもう一度口を開く。
「アリーシャもセルゲイも、僕らのことを信じてくれているんだ。なのに君がそんなことでどうする」
呆れたような声音にスレイは目を見開き、それからゆるゆると苦笑いを浮かべる。
「……そっか、そうだよな」
「まったく君は…いつも同じところに嵌まるその癖、そろそろ直した方がいいんじゃないか。いい加減馬鹿呼ばわりされても否定できないぞ」
「うっせー」
痛いところをついてくる親友に悪態をつきながら、両手でパンッと音が鳴るほど頬を叩いた。ひりついた痛みに顔をしかめるが、おかげでごちゃごちゃとしていた頭がすっきりした。
「行こう!止めるんだ、絶対に!」
気合いを入れるように声を張り上げて、スレイは緩急のある丘を駆け上がった。
近付くにつれて地響きが大きくなる。怒りと憎しみと、どこか苦しんでいるような咆哮が鼓膜を震わせた。
「止める、ねぇ…」
何かを含めたその声音に、スレイは走りながら眉を吊り上げる。
「ザビーダ、言っとくけど…」
「わぁってるよ。勝手な真似はしないって。てかジークフリートはお前が持ってるわけだしな」
ただ、とザビーダは声を落としてスレイに語りかける。
「覚悟はしておけよ。刻遺のの時みたいに少しでも躊躇ったら、今度こそ俺たちはオダブツだ。てめぇの中の”流儀”と”甘さ”を混同するな」
「……ああ、わかってる」
珍しく真面目な顔で警告してきた風の天族に、スレイは神妙な顔で頷いた。
最近になって、ようやくわかってきたように思う。『ひとりの導師』というのが、どういうことなのか。
仲間や理解者がいることはまた別の、導師は孤独だという意味に。
迷ったら終わりなのだ。自分が、世界が、そしてここにいる人達が。
ぐっ、と自然に手足と腹に力が入る。
何とかできるのかは正直わからない。けど、やるしかない。
「ドラゴン……オレたち、いや、オレは奴を乗り越えなければならない!」
そうでなければ、自分は本当の意味で、誰かを救うことなんてできないのだから。


◆   ◆   ◆


グロロロロ…と低い唸り声が自分の頭の遥か上から聞こえてくる。見上げた先には、理性の窺えない濃紫の瞳がそこに佇む人間を見据えていた。
「…っ、くそ…」
顔に一筋の傷跡を持つ男は、肩で息をしながら手下の傭兵二人と共に後退る。
嘘だろ、と、初めはそう思った。
岩のように硬い金色の鱗、頭部と背に生える禍々しい黒い角に、大地を造作もなく抉る太く長い爪。
白昼夢でも見ているんじゃないかと、そっちの方が現実味があるとさえ思った。
それが逃避だと気付いたのは、仲間の身体がそれに半分食われたときだった。
絵画や石像でしかみたことのないその獣の腹が、ゆっくりと膨らんでは縮む。ぞろりと生えそろった牙から、血生臭い唾液がぼたりと滴った。
生温かい液体が己の足元に落ちるのを視界の端でとらえながら、木立の傭兵団の団長・ルーカスは噴き出る汗を流すままにして口の端を上げる。
「…ここまでか……」
笑みで誤魔化そうとした声は、無様なほど震えていた。それでも部下の手前、そして自分自身のプライドが、情けなく泣き叫ぶことを許さなかった。
そういえば前にも似たようなことがあったな、とルーカスは口の中で呟き、記憶を思い起こす。
それは、そう。以前も同じように、成り行きでハイランド国に雇われた時だ。
明らかに劣勢な場所に配置され、倍どころではない数のローランス兵に囲まれて、死を覚悟した。
だが、それでも自分達は助かった。いや、助けられたのだ。
(何してんだろうな…あいつは……)
不思議な模様の描かれた白いマントが脳裏にちらつく。脅しをかけられた少年に助け舟を出すつもりで戦争に参加して、逆に命を救われた。
にもかかわらず、その時に見た人間ではあり得ない力に、ルーカスは恐怖した。自分の顔を見た少年が、無事でよかった、と言って寂しげに去っていく時でさえ、何も言葉をかけることができなかった。
「礼と、それから謝るくらいはしたかったんだがな……」
あの時は悪かった、と。
あの後自分達を戦場から避難させた、ハイランド国の騎士姫。少年と変わらない年頃のあの少女と会話を交わして以降、次に会ったときはそう言おうと思っていた。
自分自身で出した答えを、今目の前にいるドラゴンの禍々しい気迫を肌で感じて、ルーカスはより確信する。
あいつは……スレイは、人を救うために導師の力を振るっていた。
「今更か……こりゃ、罰が当たったのかもしれねぇな」
つい柄にもないことまで考えて苦笑する。そう思ってしまう程度には心残りだった。
使っていた者がスレイならば、その力を恐れることなど何もなかったのに。
ドラゴンが、遂にルーカス達を捉えた。近づいてくる巨大な頭部に、背後にいる部下がひっと短い悲鳴を上げた。
牙の生える口が大きく開かれ、血の臭いが彼らに迫る。それを見たルーカスは、潔く目を閉じた。

「――――諦めるなぁぁぁぁっ!!」
その瞬間、突如真上から聞こえてきた雄叫びに弾かれるように顔を上げる。
ルーカスが目に映ったのは、刃のない剣をドラゴンの額に叩きつけるあの日の少年の姿だった。


刃のつぶれた剣が、少年の身体ほどもある額に叩きつけられる。開いた口を無理やり閉じられたドラゴンは、天に向けてつんざくような悲鳴を上げた。
「走って!!」
砂煙の向こう、白いマントを羽織った少年がこちらに背を向けたまま大きく叫んだ。悶えるドラゴンに間髪入れず剣を振るう様を呆然と眺めていたルーカスは、その必死の呼び掛けに弾かれるように仲間の二人を立ち上がらせてその場から逃げ出した。
急な斜面を勢いに任せて駆け降りる。しかし先程まで固まっていた身体は思うように動かず、途中で足がもつれて平坦な場所まで転げ落ちた。
「いっつ…」
「人が降りてきたぞ!」
擦った腕を摩りながらうずくまっていると、付近でそんな声がした。
「衛生兵、こっちだ!」
「大丈夫か?おい、しっかりしろ!」
「負傷者三名発見、全員意識あり!」
複数の足音と共に、自分たちの周りで矢継ぎ早に言葉が交わされていく。会話からして、どうやら軍の者らしかった。
兵士達の話し声を聞きながら、ルーカスは肩を大きく上下させて息を吐いた。
悲鳴ではない、普通の声だ。
彼らの声が、ルーカスの胸にどっと安堵が押し寄せてくる。
助かった。さざ波に様にやってきた実感に、強張っていた身体からようやく力が抜けた。

「貴殿は、木立の傭兵団の……」
頭上で飛び交う会話の中に、ふいに凛とした女性の声音が混ざった。この混沌とした場におよそ不似合いな、けれど聞き覚えのある、よく通る声。
未だ息が整わないまま、ゆっくりと顔を上げる。視界に映ったのは、やはり戦場には不釣り合いに思うほど澄んだ眼をした少女だった。
「…久しぶりだな、アリーシャ姫」
「ええ。まさか最後に別れた場所で、またルーカス殿にお会いできるとは思いませんでしたが」
「同感だ。行方不明と言われていたあんたと、こんな所で再会できるとはな」
奇しくも重なった偶然に、疲弊しきった顔で何とか片頬を上げる。ハイランド国の王女も、ルーカスにつられて僅かに微笑した。
表情はやや強張っているが、以前よりも張り詰めていた気が緩んだように思う。こんな戦場の中で落ち着き払っているのがいい証拠だ。
彼女の佇まいに、今度は自然と笑みが浮かんだ。行方をくらましている間に、どうやら随分と成長したようだ。
「団長!」
「あんた生きてやがったか!」
「流石、相変わらずしぶてぇなぁ!」
ふいに彼女の後ろから飛び出してきた面々に、ルーカスは面食らう。
ハイランド兵ともローランス兵とも違う、統一感のない出で立ちをした複数の男達。自分の率いる、木立の傭兵団の仲間達だ。
「お前ら……はは、その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
自分の無事を我がことのように喜ぶ団員に、鼻を擦りながら憎まれ口を叩き返す。あの状況でよく生き残ってくれたものだ。
「俺たちはハイランド軍に助けられたんだ。こっちの奴らはローランス軍にな」
腕に包帯を巻いた傭兵がそう言って、アリーシャ達のいる後ろを示す。
落ち着いて眺めてみれば、青い騎士団に混じって赤い服装の兵士もいることにようやく気付いた。それにアリーシャの横に立つ大男は、明らかに階級が上のローランス兵だ。
待てよ、とルーカスは眉をひそめる。自分はこの男を知っている。その勲章に、羽を模した装飾。
そして大振りの両手剣。確か、白皇騎士団の。
「皇帝親衛隊の団長まで…こいつはまた、とんでもない組み合わせだな」
「自分は伝令役に事情を聞いてここに来たのだ。断じて戦争に白皇騎士団が投入されたわけではない」
呆気にとられたルーカスに、口を真一文字に引き結んだその団長が答える。生真面目さが滲み出ている男の言葉に、隣にいるアリーシャも肯定の意を示して頷く。
「私とセルゲイ殿の独断ではありますが、ハイランド軍とローランス軍は一時的な協力体制を作りました。今は両国とも、負傷した兵の救助のために動いています」
「もはや戦争などをしている状況ではなくなった。貴公らもすぐに各軍の天幕へ向かってくれ」
駆けつけた衛生兵に応急処置を施されていたルーカスは、セルゲイの指示に頷こうとして、はっと顔を上げる。
「待ってくれ、上にも人がいるんだ!」
「何…?!しかし、あの上には…」
「嘘じゃない。そいつのおかげで俺達は逃げることができた」
驚きの声を上げるセルゲイの言葉を遮り、ルーカスは上を見上げる。斜面に遮られて姿は見えないが、聞こえてくる衝撃音がそこにいることを知らせてくる。
「おそらく今も戦っている。ドラゴンと…スレイが!」
ルーカスの言った名に、周囲が一瞬でどよめく。その中でアリーシャだけは、動揺することもなく彼の言葉を受け止めていた。
「ほ、本当だ…」
後方にいた兵士のひとりが、恐怖と驚愕の入り混じった声を漏らした。その呟いた一言に、次々と兵士らは丘の上を見られる場所まで下がり、皆一様にこれ以上ないほど目を見開いた。
恐ろしい咆哮を上げるドラゴンの周囲を飛び回る影がある。その鋭い前足や牙を避けながら、隙をついて後ろ足や頭部に剣を振り下ろしていた。
蹂躙されているのではなく、戦っていた。
あの化け物に対して、人間の少年がただ一人だけで。
「勝てないのか……導師の力をもってしても」
悔しげに唸るセルゲイの声がこぼれた。確かに、ここから見ていても少年の方が押されているのがわかる。
だが、それでも。
「立ってるだけでも奇跡だ…」
少年がドラゴンの額にまた剣を叩きつけてる様を見ながら、誰かがそう言った。その言葉に、ここにいる全員が声には出さず同意した。
「何で、戦えるんだ…?」
途方に暮れたような声音がまたこぼれ落ちた。これも皆同じ思いだった。
何故戦えるのだろう。あれほど強大な化け物に対して、臆することなく立ち向かっていけるのか理解できなかった。
こうしている間にも、少年とドラゴンとの戦いは続いている。天高く吼えるドラゴンの叫びが、下にいる彼らの鼓膜にも響く。
「これが、導師か……」
また、ぽつりと声が落ちた。やけに大きく耳に届いたその言葉が、やけに腑に落ちた。
そうか、導師だから。だからドラゴンと渡り合える力を持っているのか。
納得と安心と、それから恐れ。様々な感情を伴って、その言葉はそこにいる者に浸透していく。
特別な力があるから、ドラゴンを前にしても怖気づかないのだ。
人一人分の力しか持っていない、自分達と違って。
「……いや、違う」
だが、それを否定する低い声があった。
兵士達の、傭兵団の視線が、その声の主に一斉に注がれる。その中心には、変わらず導師とドラゴンの戦いを見続けるセルゲイとアリーシャの姿があった。
こんな状況でありながら、二人は微笑みすら浮かべていた。
彼らには理解できなかった。けれどその笑みと瞳に宿る思いだけは、驚くほど容易にわかった。
二人のうちの一人が、ゆっくりと目をまたたいてからルーカス達を見る。
ハイランド国の騎士姫は、ここが戦場であることを忘れさせるほどに、そっと美しく微笑んだ。

「これが、スレイなんだ」

信頼と情のこもった穏やかな、けれど強い決意を秘めた翡翠がそこにあった。
「導師だからじゃない、スレイがスレイだから。だからドラゴンと戦える」
アリーシャは振り返り、呆然と佇んでいる彼らを見渡す。長槍を地に突き刺し、少女は真っ直ぐに言葉を重ねる。
「だが、それはスレイが特別だからというわけではない。兵を志した貴方達にだってあるはずだ。何かを守りたいと、誰かを救いたいという想いが」
「け、けど!想いだけでドラゴンに勝てたら、こんなことになってないだろ!」
ローランス兵の一人が恐怖に引き攣りながらも声を上げる。自国の姫に向けての雑な言葉遣いにハイランド兵がおい!と彼を咎めた。だが、内心は彼らも同意見だった。
想いだけで勝てるのなら、あれほど多くの死者は出なかったはずだ。それこそ戦争だって起こっていなかっただろう。
守りたいものはある。救いたいと思ったことだって、何度も。
だが、そう思っているからこそ、力がないと守れないことも、ここにいる者達は痛いほど知っていた。
単身で戦場に乗り込んできたとはいえ、所詮世間知らずの姫の理想論か。そう思ったが、アリーシャは変わらず強い意志の込められた眼で、迷うことなく彼らを見据えていた。
「確かに、スレイのようにドラゴンと直接戦うことはできない。だが、私たちには私たちなりの戦い方がある」
「俺たちなりの戦い方って…」
「……ああ、そうか。そうだな」
そんなものが一体どこにあるというのか。そう言い募ろうとした兵士は、しかし納得したようなルーカスの声に遮られた。
「団長…?」
「俺たちには弓がある。両国には投擲機も。力では負けるが、不幸中の幸いに人の数もそれなりにいる。そういうことだろう、姫さん?」
身体についた砂を払いながら言う彼の言葉に、まさか、と誰かが声を漏らした。
おい。それって。もしかして。兵士たちは口々に呟き、次第にざわめきが広がっていく。
驚愕に震える空気の中で、ルーカスは不敵な笑みをアリーシャに向ける。
男の確認に近い問いかけに、少女は力強い笑みを浮かべて頷いた。
彼女の顔を見たルーカスは、参ったと言わんばかりに肩を竦めた。
そのやり取りに、憶測は確信に変わる。そしてハイランドの騎士姫の、木立の傭兵団の頭の、そして白皇騎士団の団長の表情を見て、本気だと悟った。
傭兵団の団長たるルーカスがこちらに向き直り、いつものように怒号した。
「そういうわけだ、野郎ども!怪我したこいつらを運びがてら、ありったけの人と武器をかき集めてこい!」
「飛び道具を持っていない者は、彼らと共にハイランドの陣営地に向かってくれ。至急援軍を呼んできてもらいたい!」
「ローランス軍もだ!渋るようであれば私の名を出してかまわん!」
各々の気迫のこもった指示に、国を問わず全員が戸惑いながらも一斉に応じる声を上げた。
「本当にやるのか…?」
「賭けというか博打だぞ、これは…」
未だ動揺の隠せない兵士達は、顔を見合わせて囁き合う。
けれど互いの顔を見た瞬間、彼らは面食らい、思わず呆れ混じりに苦笑した。
笑いたくもなる。口では狼狽えつつも、全員が既に心を決めた顔をしていたのだから。
どうやらいつの間にか、感化されてしまったらしい。この状況でなお絶望しない彼らの上司に。
何より、今なおドラゴンと戦い続けている、導師スレイの姿に。
兵士達の顔つきが変わったことに気付いて、アリーシャは微笑む。そして表情を引き締め、再び声を張り上げた。
「私にも貴方達にも、失いたくない大切なものがある。それを守るために皆の力が必要だ!どうか共に戦ってほしい!」
「そのっとーり!さっすがアリーシャ、良いこと言うじゃん!」
しかし、彼女の言葉に兵士達が応じる前に、そんな声が横から入ってきたのだった。


◆   ◆   ◆


ルーカス達を逃がしたスレイ達は、持てる最大限の力をもってドラゴン――ティアマットと対峙していた。
近付けばより一層穢れを強く感じた。少しでも気を抜けば、一気に飲み込まれそうだった。
何より、どれだけ浄化の力で穢れを祓っても一向に鎮まる気配がないのだ。その現状に辟易していた。
「しぶとい…!」
「穢れを食べているのです。自分を恐れる、人間たちの…」
ライラの言葉にティアマットを見れば、確かに穢れがその巨躯に誘われるかのように吸い込まれていた。
スレイは痛みに耐えるように、ぐっと奥歯を噛む。ドラゴンは、天族が穢れに染まった姿なのだ。力の源になったとしても、苦痛になるのではないだろうか。
「流石、質が悪い……」
いつも余裕の表情をしているザビーダでさえ、笑ってはいるが肩で息をしている状態だ。
ここまで先が見えない戦いははじめてだった。けれど、ここで引くわけにはいかない。
「ミクリオ!」
『ああ!』
スレイは大きな弓を構え、霊力を込めてティアマットに矢を放つ。十二本の矢は青白い弧を描き、その顎目掛けて直撃する。
強制的に閉じた口がまた開き、ティアマットがつんざくような悲鳴を上げた。
仰け反った長い首が、更に後ろに傾いて硬直する。ザビーダがペンデュラムを巻き付けたのだ。
(今なら…!)
怯んだ隙を見計らってスレイは陣を展開する。
周囲から穢れを取り込んでいるのなら、それを上回る力で一気に浄化すれば。そう考えたのだ。
足元から冷気が漂い、スレイの周りだけ空気が変わる。砂埃が水を吸って地に落ちていくのがはっきりとわかった。
水の気配と霊力が内に高まっていくのを感じながら、その力をティアマットに向けて放つべく腕を前にかざした。
「スレイ、避けろ!」
「え―――」
『なっ――うわぁぁぁ!』
だが、術が完成する前にスレイの身体は大きく吹き飛ばされた。
ティアマットがザビーダの操る糸を引きちぎり、巨大な尻尾を振り回したのだ。
ミクリオとの神依が解かれ、なすがまま地面に叩きつけられる。肺が潰れそうなほどの圧迫感に、一瞬視界が暗くなった。
「っ、げほ…」
じゃり、と何か細かいものを噛んでしまい、反射的に咳き込んだ。どうやら落下した際に口の中に砂が入ったらしい。
「スレイさん!」
近くでライラの声が聞こえた。だが、まともに打撃を食らったスレイは、それに応えることができなかった。
倒れた地面から直接地響きが伝わってくる。次第に大きくなっていく振動に、スレイは必死に身を起こそうとする。
「ま、だだ…!」
脳がぐらぐらと揺れる。身体が麻痺して思うように動かない。
ズシン、と重い音がより近付いた。
歯を喰いしばしながら、震える腕を何とか突っ張って上半身だけでも地から離す。
誰かの叫ぶ声が聞こえた。頭上に突然、大きな影ができたのがわかった。
人ではない、獣の唸り声が生暖かい風と共に耳に届いた。未だ霞む目で見上げれば、ドラゴンがもう間近に迫っていた。
「このっ、動け…!」
掠れた声を絞り出すようにして己を叱咤する。だが、意に反して足が言うことを聞かない。
負けられない。負けるわけにはいかない。

ライラに聞いた。導師は穢れを浄化できる力を持つことを。
瞳石が教えてくれた。災禍の顕主は、ドラゴンをも倒せる力を持っていることを。
メーヴィンに見せてもらった。はじまりの地、カムランでの出来事を。その事件により、マオテラスは今、災禍の顕主と結びついていることを。
そして、大陸中を旅して知った。
導師は、自分一人だということを。

ドラゴンが長い首を傾けてこちらを窺ってきた。正気を失った瞳と視線が交わる。少しでも抗うために、スレイは儀礼剣を握りしめた。
だからここで、終わるわけには。
「――――落星凍雅(らくせいとうが)っ!」
ドラゴンがスレイを食らおうと口を開きかけた、その瞬間。
空を裂いて巨大な頭に落下してくる影があった。
その声に、その姿に、スレイは驚きのあまり呼吸を止めた。
「アリー―――」
「―――ってぇ!」
自身の前に降り立ったアリーシャに、ようやく我に返ったスレイが声を掛けようとして、けれどアリーシャが先にスレイのその先に向けて叫んだ。
刹那、無数の弓や石つぶてがドラゴンの頭に土砂降りの雨のように降り注ぐ。その全てを浴びせられたドラゴンは、首に矢が刺さったまま大きな悲鳴を上げた。
「『地精浄撃!フェアリーサークル!』」
呆気に取られているうちに、突如スレイを中心に半透明の蓮の花が咲き誇る。淡い光が身体にふわりと吸い込まれ、途端に先程までの痛みが嘘のように引いてきた。
「安心・安全・迅速がモットーのセキレイの羽、ただいま参上!」
『使い古された感満載の決め台詞ね』
『常套句と言え』
「スレイ、生きてる?」
背後から聞こえてきた声に振り向けば、そこには左右に巨大な岩の拳を携えた、快活そうな少女。
彼女の姿に、スレイはぱっと顔を輝かせる。
「ロゼ!デゼルも…来てくれたんだな!」
「あったり前!こっちは何とか決着ついたし、今度はそっちの仕事、でしょ?」
神依化により金に染まった髪をたなびかせて、ロゼはにっと笑う。その笑顔の頼もしさに、つられてスレイも笑った。
「サービスでアリーシャも拾ってきたしね!」
「人を物扱いしないでほしいな」
「やだなぁ、言葉のアヤだってば」
相変わらずおカタイんだからと軽口を叩くロゼに、ドラゴンを見据えていたアリーシャが溜め息をつく。彼女らのやり取りに穏やかな気持ちになりながら、スレイは思い出したようにあっと声を上げた。
「アリーシャ、そういえば今のは一体…」
「ああ、それは―――」
「撃て―――!!」
その疑問にアリーシャが答える前に、再びドラゴンを目がけて大量の武器が飛んでいく。今度は彼女ではない、男の号令だった。
その声に、スレイは聞き覚えがあった。
「セルゲイ…下にいるのか?」
「ああ、それにルーカス殿も」
言って、アリーシャは下の景色を見るように丘の向こうを見つめた。スレイも同じように視線を動かして、セルゲイやルーカス達の姿を思い浮かべる。
「スレイ、私たちも戦う」
膝をついたままのスレイに、アリーシャは手を差し伸べてそう言い切った。
力強かった。その言葉も、アリーシャの声も、表情も。
ぽかんと呆けていたスレイは、慌てて口を引き結んで俯いた。
胸の奥から湧いてきた感情を堪えるために、頬の内側を噛む。そうでもしないと、ミクリオ辺りにだらしない顔だと言われてしまいそうだった。
突風のようにやってきたそれを何とかやり過ごして、スレイはやがて彼女と同じような笑みを返してその手を取った。


◆   ◆   ◆


「恐れるな!ドラゴンなど!」
「でかいトカゲだ!」
「「「おおおおおお―――っ!!」」」
セルゲイの掛け声に、ルーカスの怒号に、兵士達全員が応じる声を上げる。最早彼らに、敵国という概念はなくなっていた。
丘の上で、白い長槍が空に向けて真っ直ぐに伸びる。それを捉えたと同時に、その場にいた全員が息を潜めた。
前に出ているハイランド軍が武器を構えた。セルゲイとルーカスは、瞬き一つせずに長槍とそれを持つ人影を見つめ続ける。
それとは別の二つの人影が、ドラゴンに向けて飛びかかる。どうやら首を攻撃されたらしいドラゴンは、大きな咆哮を上げて頭を振り回しはじめた。
「今だ!」
刹那、掲げられていた長槍が振り下ろされ、ルーカスは号令をかける。前衛が放った矢や投石は、放物線を描いてドラゴンの身体に降り注ぐ。
「矢が尽きた者から下がれ!ハイランド軍と入れ替わりにローランス軍が前へ!」
「アリーシャ姫の合図が出たらまた一斉攻撃だ!気は抜くなよ!」
ルーカスの言葉に、兵士達がまたおおっ!!と威勢よく答える。張り詰めた空気の中で、闘気を漲らせる彼らを横目で見て、ルーカスははっと笑い混じりに息を吐く。ちらりと盗み見たセルゲイも、似たような顔として兵士達に指示を飛ばしていた。
彼らの声には、もう恐怖や絶望はすっかり消え去っていた。

「はっはー!いいノリだ!」
下から噴き上げるように聞こえてくる雄叫びに、ザビーダは心底愉快気そうに口端を吊り上げる。
「調子よすぎよね。人間って」
「まったくね」
呆れ返ったと言わんばかりのエドナの台詞に、ミクリオも同意する。本当に、先程まで敵対しあっていた者同士とは思えない団結力だ。
だったら最初から争わなければいいだろうに。勝手に自分達で境界線を作り上げて、同族同士で権力を奪い合う人間の感覚は、未だミクリオには理解できない。
「けど、これが……」
「はい。人の強さなのですわ!」
力強くそう言ったライラに、ミクリオは天響術を放ちながら無言で頷いた。
そう、理解できない部分はある。けど、スレイだけでは知ることのできなかったこともある。
人間は、自ら穢れを生み出した穢れにしまうほどに弱い。けれどそれを打ち消して立ち上がれるほどに強いのも、また人間だ。
「スレイ、ロゼ。もうじき兵士達の攻撃が止まる。私の合図で飛び込んでくれ!」
「ああ!」
「りょーかい!」
ひとりでは無理でも、今この時のように手を差し伸べる誰かがいれば。そして支え合える誰かがいれば、彼らは大きな力を生み出すことができる。
それがきっと、彼ら人間の強さなのだ。
「ライラ!」
「はい!」
「『フォエス=メイマ』!」
「エドナ、あたしらも!」
「はいはい」
「『ハクディム=ユーバ』!」
「――――今だ!」
スレイがライラを、ロゼがエドナを呼び寄せ、神依化する。先程まで疲弊していたとは思えないほど、強い輝きを放っていた。
ドラゴンの周りを縦横無尽に飛び回り、息をつく暇すら与えずに二人は交互に剣と拳を振るい続ける。この場でのミクリオの役割は、彼らの連携が止まらないように空いた隙間に術を放つことだ。
飛び掛かっていく彼らを眺めながら、ミクリオは轟音の中で耳を澄ます。
自分達を支えるように響く人間達の声は、どんな祈りにも勝る想いのように感じた。
「これでぇっ!」
「決めるっ!!」
そうして、導師と従士、その場に集った多くの人々の力で、ドラゴンはついに大地に倒れ伏したのだった。


大きな音を立てて横に倒れるティアマットを視界に捉えながら、スレイは更に上の丘に降り立った。
穢れの供給も途絶え、荒い呼吸を繰り返しながら、それでもドラゴンは起き上がろうとしていた。
「スレイ…」
隣に並んで立つロゼが、静かに声を掛ける。彼女の意図が、スレイにはもうよくわかっていた。
戦って理解した。気付いてしまった。戦場で生み出された穢れが、ライラの、そして自分の浄化の力を上回っていることを。例え全てを浄化できたとしても、ドラゴンの実が耐え切れそうにないことも。
武器を片手に持ち替えて、空いた手で腰の横に下がっている中に触れる。
『スレイさん、それは…』
「…わかっている。ここでこれは使えない」
ジークフリートを使えば、穢れを人間や天族から分断することができる。それに、メーヴィンに教えてもらったのだ。それはドラゴンも例外ではなく、災禍の顕主に対しても有効だと。
だが、それは以前にデゼルがロゼを救うためにやったことと同じ。天族を意志ある攻撃にして、ジークフリートで撃ち込むという、いわば捨て身の方法だ。
メーヴィンを看取った時に皆で決めたのだ。その最終手段は、災禍の顕主を鎮めるために使おうと。
もう片方の手首を返して、今度は己が持つ武器を見つめる。
清浄なる炎にも無垢な羽根にも似た、波打つ形状をした両刃の大剣。穢れを浄化し、憑魔を正気に戻す剣。
けれど、武器は武器なのだ。何度も刃をぶつければ、渾身の力を叩きこめば、その者は――――。
「待って!!殺さないで!」
「え…ってぅわっ!?」
ふいに聞こえてきた叫び声と背中に受けた衝撃に、スレイは体勢を崩すまいとたたらを踏んだ。
自分の足元からぱらぱらと音を立てて小石が落ちていく。もう少しで落ちるところだった。
一体何なんだ。不審に思いながら振り返って、スレイは驚きに目を瞠った。
「あなたは…」
「お願い、あの人を…、ゴウフウを殺さないでっ!」
スレイに縋りつくその人を、その場にいた全員に見覚えがあった。
はじめは、アイフリードの狩り場で。二回目はここ、グレイブガント盆地で。
もしかして、とミクリオが信じられないような声音で呟く。
「あのドラゴンが、君の探していた…」
スレイにしがみつく地の天族の女性が、震えながら頷く。その事実に言葉を失ったスレイ達に、女性は必死に殺さないで、と繰り返す。
「彼は何も悪いことなんてしていないわ。ただ静かに暮らしたいって、そう思っていただけなの…!」
泣きながら、振り絞るようなその言葉に胸が詰まった。ミクリオとライラ、それにロゼとザビーダも居たたまれないような表情で彼女を見つめていた。
ロゼの中に入っているエドナも、そんな顔をしているのかもしれない。
自分も同じ顔をしてるのだろうと思いながら、スレイはやるせなさから耐えるようにぎゅっと目を閉じる。
確かにそうだ。ドラゴンになってしまったのは、戦争によって生み出された人々の穢れのせいで、ここに彼を閉じ込めたヘルダルフのせいだ。穢れに呑まれてしまったのは、彼の非ではない。
スレイは痛いほど唇を噛んだ。けれど、彼女に伝えなければ。
「……ごめん、あの人には罪はないけど、オレは…」
剣を握りしめて呟いた少年にしがみついていた女性は、今まで以上に大きく肩を振るわせた。のろのろと上げた顔を蒼白にしてそんな、と声をこぼす。その姿が痛々しくて、スレイはごめん、と謝ることしかできなかった。
騒がしかったはずの戦場が、やけに静かに感じた。頼もしく背中を押してくれていた兵士たちの声も、今はどこか遠い場所からのものに思える。
下で未だ横たったままの“彼”の呻く声だけが、やけに耳に残るように響いた。
「―――、これは…ジークフリート?」
そのまま泣き崩れるかに見えた女性は、しかしスレイの腰に下がる銃を見て呆然と呟いた。
彼女からその名を聞くとは思わなかったスレイ達は驚きに目を見開く。
「この銃を知ってるの?」
「なら、これは本当にジークフリートなのね」
装飾が施された銃に触れながら、女性は涙に濡れた瞳でまじまじとそれを見つめる。
そしてスレイが二の句が継げないうちに、彼女は決意を固めた表情で再び口を開いた。
「お願い。私を銃弾にして、この銃で撃って」
その言葉に、スレイ達はまたしても絶句した。
「……その意味がどういうことか…って、その口振りならわかってんのか」
ようやく口を開いたザビーダは、そう言ってガシガシと長い銀髪を掻いた。天族の女性は後ろを振り返り、ええ、と静かに肯定した。
「ゴウフウに教えてもらったの。今はどこにあるかはわからないけど、ずっと昔にそんな銃があったって」
「ったく、余計なことを教えたもんだな…本当によ……」
ザビーダにしては随分と弱弱しい声音だった。片手で顔を覆った彼に真実だと確信した彼女は、再びスレイを見て自分と撃ってくれと願う。
「スレイ、お前が決めろ。今の持ち主はお前なんだからよ」
彼女の懇願に困惑したまま動揺しているスレイに、ザビーダは深く溜め息をついてそう言った。
スレイは弾かれたように彼を見る。どこか諦めたような男の声に、丸くしていた目を徐々に伏せて、やがて導師の少年は口を引き結んでうん、頷いた。
ザビーダの言葉に、スレイの返答に、異を唱える者はもういなかった。
『…………』
「エドナ?どうしたの?」
神依化している少女の雰囲気がどこか変わったように思えて、ロゼは誰にも聞こえぬように小声で問い掛けた。
自分の中に入った彼女が息を呑んだ気がした。いつも誰かの言葉を軽くあしらうエドナにしては珍しいと思った。
『別に、どうもしないわ』
「そう?」
が、それはほんの一瞬で、返ってきた声音も雰囲気もいつもの淡々としたものだった。
『それより、まだ悩んでるようなら足止めしとかなきゃマズイんじゃないの?』
「あ、それもそうね。ならあたしらはアリーシャ達と時間稼ぎでもしますか」
やや引っかかるものがあったが、エドナの言うことももっともだったため、首を傾げながらも気のせいだったかな、とそう結論付けた。未だ考え込んでいるスレイの代わりにライラに言付けて、ロゼはエドナと共に飛び降りていった。
「……ま、そりゃそうだわな…」
唯一、彼女の心情をある程度察したザビーダは、白い衣服に身を包んだ少女の背中にぽつりと自嘲じみた声をもらした。だがそれ以上は何も言わず、スレイに宣言した通りに黙って事の成り行きを見守っていた。
再び下から轟音と地響きが鼓膜と足元を震わせた。だが、以前のように続くわけでもなく、見ればドラゴンの周囲を隆起した岩が壁のように囲んでいた。
「……あなたは、それでいいの?」
言葉を選ぶような、未だ答えを出しあぐねている問いが落ちた。
その問いかけに仲間の視線が一斉にスレイと天族の女性に注がれた。
目元を赤く腫らした女性は、未だ涙に濡れた目をしばたかせて年若い導師を凝視した。
再び沈黙がスレイ達を包み込む。しかし、今度のそれは長いこと続くものではなかった。

「私は、彼以上に大切なものなんてないわ」
目を細めて、女性は幸福ささえ滲ませて穏やかに笑った。
それが、答えだった。


―――下がれ
岩の壁を壊そうと足掻くティアマットに応戦していたら、唐突に男の声が低く響いた。
愛想の欠片もなく、必要な言葉すら省かれた一言。だが、ロゼにはそれだけで彼の意図を察することができた。
傍らで同じようにドラゴンを見張っていたアリーシャを、有無を言わさず下がらせる。こういう時神依化した身体は便利だ。文句さえ右から左へと素通りさせておけば、問答無用で引きずっていくことができるのだから。
そんなことを思いながらいきなり何をするんだと抗議の声を上げるアリーシャを、ロゼは説明は後だと引っ張っていく。
タンッ、と先程まで自分達のいた場所に、人影が降り立った。白い衣服に身を包んだ姿ではなかった。白いマントを被った、いつもの姿だった。
彼の姿を目にした途端、アリーシャもすぐに抵抗を止めた。ロゼと同じように気付いたからだ。
翻るマントの奥に見えた銃を握る手に。覚悟を決めた、その背中に。
スレイが何かを掲げるようにして、銃を構えた。そこでようやくスレイの存在に気付いたドラゴンが、岩にぶつかるのをやめて彼を見た。
緩慢な動作で、少年とドラゴンの視線が交わっていく。彼らが見つめ合い、数秒。
いつまで続くのかと焦れはじめた瞬間、大きな破裂音と共に、ドラゴンとスレイはおろか、ロゼとアリーシャさえ巻き込む大きな突風が吹き荒れたのだった。



◆   ◆   ◆


「……う…」
ぴちゃん、と冷たいものが頬に当たる感触に、スレイはゆるゆると目を開いた。
今までにないほど重たい瞼を何とかこじ開けて、目にした光景は歪んだ景色。ちゃぷちゃぷと涼しげな音を立てて浮遊する水の球。
「へ?ちょっ―――!」
ヤバイ。そう理解したときにはもう遅く、その水球は容赦なくスレイの顔面に落とされた。
ばしゃん、と騒がしく水が顔を叩く。案の定、水は目が一気に冴えるほどよく冷えていた。
「ミクリオ〜…」
「ごめんごめん。でも、そろそろ移動しないとまずいからさ」
「まぁ、おかげで目は覚めたけど…」
そう不満げに言いながら、何とか痛む身体を起こした。鬱蒼と茂る木々と湿り気のある空気に、ここがヴァーグラン森林だとすぐにわかった。
辺りをぐるりと見回す。ミクリオにライラ、エドナにザビーダにロゼ。デゼルもおそらくいるだろう。皆それぞれ疲れ果てた表情で座り込み、スレイと目が合うと軽く手を上げた。
スレイも笑いながら手を振り返し、また視線を巡らせる。すると、すぐ傍に見知らぬ天族の男性が横たわっていた。
スレイは彼をやるせない思いで見つめながら、硝煙の立ち昇る方向へと顔を向けた。その先で、両手を組んで祈りを捧げているアリーシャの姿を見つけた。
「消えたな。穢れの気配」
「……ああ」
ミクリオの声に相槌を打ちながら、スレイは立ち上がる。重い足を何とか持ち上げてアリーシャの隣に立ち、彼女に習って右手を胸の前に置いて黙祷する。
戦場で失われた命へ思いを向けていると、やや間を置いてからスレイの横に誰かの気配がした。横目で見やれば、赤い髪の少女がスレイやアリーシャと同じように目を閉じていた。
視線を感じたのか、それからすぐに青い瞳を覗かせた少女は、にっといつものように口の端を上げてスレイ達に身体を向けた。
「ちょっと疲れたね。さすがに」
そう言って、休むために元アジトに行かないかと提案するロゼに、スレイは力の抜けたような笑みを僅かに浮かべてうん、と頷いたのだった。
そんなスレイの横顔を、小さな少女は座ったまま、表情の読めない空色の瞳で静かに見つめていた。








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