もしもの物語-19-



師匠は、私の憧れだった。
あまり自分のことを話してくれる人ではなかったが、騎士の家系ではあるが地位のある家ではなかったと一度だけ聞いた。だから自分が騎士になるしかなかったのだとも。
それでも自らの力で功績を積み重ね、騎士や国民からの信頼を勝ち取り、様々な欲と陰謀が渦巻く王宮のなかで、いつでも凛と前を向いていた。
その姿は、誰よりも輝いて見えた。誰よりも立派だと思った。
私もあんな風になりたいと、その姿を見て何度も夢見た。
……だから、世界を壊すと語る人が、人間は滅ぶべきだと叫ぶあの人が、同じマルトラン師匠だと信じられなかった。
そんなことをマルトラン師匠が言うはずがない。だったら騙されているんだと思った。災禍の顕主が師匠を唆したのだと。
だからもうやめてと叫んだ。正気に戻ってほしかったから。尊敬してやまない、マルトラン師匠に戻ってほしかったから。

――――なのに、
頬に降ってきた指先は、氷のように冷たくて。
囁かれた言葉は、刃のように胸を抉って。
「これが現実だよ……アリーシャ」
認めたくないと叫ぶ私に、認めろと優しく諭したその人の表情は、紛れもなく師匠の顔で。何度も見てきた、出来の悪い弟子を仕方がないと言い聞かせる師の顔で。
考えるよりも先に心が師匠なのだと理解した瞬間、目の前の身体がぐらりと揺れた。
声を出すこともできなかった。ゆっくりと傾いでいくマルトラン師匠を、私はただひたすらに眺めることしか、できなかった。



「…ぁ…っ…!!」
仰向けに倒れたマルトランの前に、アリーシャは膝から崩れ落ちた。スレイは慌てて駆け寄るが、彼女はそれに気付かず、唇をわななかせてただ呆然としていた。
がらん、と長槍がアリーシャの手から地へと落ちる。軽く転がり静止したその槍には、清く白いその色とは正反対の鮮やかな紫色の液体が不気味にしたたっていた。
「あの方の理想に、身を捧げた証―――」
胸の穴から同じ色のものを流すマルトランは、どこか満足気な声でそう呟く。
「後悔は……ない」
独り言のように囁いて、ほんの僅かに彼女は微笑んで切れ長の瞳を閉じた。
その言葉を合図に、彼女の身体から紫色の霧が一気に噴き上がる。
また穢れが、と身構えて、スレイはいや、と内心で首を振る。穢れが湧いているのではない。彼女の身体が霧へと気化しているのだ。
「マルトランさん……」
マルトランの身体は、感慨すら与えないとばかりに、手も、足も、服すらも見る見るうちに霧に変わっていった。まるで彼女の意図を汲んでいるように、彼女の身体が消えていく。
やがて薔薇に似た色の髪まで紫の霧に変わり、そうしてマルトランは跡形もなく消えていった。
「…あ……」
それまで微動だにしなかったアリーシャが、急に肩を跳ねさせた。そしてマルトランがいた場所から立ち昇る、もう僅かになってしまった紫煙にのろのろと手を伸ばす。
「…せん…ぃ……」
しかし、グローブに包まれたその手は何も掴めない。立ち昇る紫煙にすら触れられなかった。
ただ、流れた血も消え去ったただ少女の伸ばした腕だけが、そこで震えていた。
「ああ、ぁ…!」
少女身体が大きく震え、それから見開かれた瞳から雫がこぼれた。それを拭うこともせず、アリーシャは言葉にならない声を漏らしてぼろぼろと涙を流す。
スレイからは後ろ姿しか見えていない。けれど、顔を見なくてもわかった。彼女が膝をつく乾いた土の上に、丸い跡がとめどなく落ちていくから。
何より華奢な背中が、痛いと叫んでいる。悲しいと、辛いと訴えている。
「……っ!!」
「あっ!」
スレイはたまらず手を伸ばして、しかしその手が肩に触れる前にアリーシャは遺跡の入り口へと駆けて行ってしまった。
「っ、アリーシャ!」
掴み損ねて彷徨う手をぐっと握りしめ、スレイは考えるより先にアリーシャを追いかけた。



居ても立っても居られなくなって、無性にあの場から離れたくなって、気付いたら息が切れるほど走っていた。
消えた。マルトラン師匠が。霧になって。影も形も。私の師が。何もかも。跡形もなく。憧れの人が。何も残さずに消えて――――。
沸騰しているように熱い頭の中で、同じ言葉がぐるぐると回る。喉も痛い。口の中から塩気以外に鉄の味がした。
「はっ…!」
何も、なくなった。なくなってしまった。
支えてくれた腕も、叱ってくれた声も、追いかけていた背中も、優しく見つめてくれた瞳も、何もかも。
「…何で…!」
何で。何でこんなことに。
「っ、うぁ…!」
ずきん、と頭が痛くなる。脳が揺れるような痛みに、思わず目を瞑って立ち止まる。閉じた目の端から涙がまたこぼれたのがわかった。
痛い。いたい。頭が、身体が、心が、全部。
「……マルトラン…師匠っ…!」
身を引き裂かれるような痛みに、アリーシャは己の身体を抱きしめる。もうどこが痛いのかわからないほど、全身が悲鳴を上げていた。
なんで。どうして。何で。
答えを出そうとしない問い掛けが頭の中を埋め尽くす。頬を伝う雫が、鎧を伝って地にぱたぱたと落ちていく。

――――……!……、…!……

「…あ…!」
ふいに聞こえてきた微かな音に、アリーシャは涙を流したまま顔を上げた。
これは、人の声。多くの人間が地を踏み鳴らす音。それに、鼻を掠める、何かが焦げたようなこの臭いは。
「戦、争が…」
はじまる。もう一刻の猶予もない。
「急がないと…」
そう口では呟くが、アリーシャの身体は一向に立ち竦んだままだった。先程まで全速で駆けていたのが嘘のように、身体が動かない。
行かないと。もう一度呟く。それでも足は動かない。震えも、痛みも止まらない。
涙だけは止まることを知らずに流れ続ける。こんなに泣いたのは久しぶりだった。
―――マルトラン師匠、どうして…
―――こうしている間にも戦争が、急がないと
―――殺してしまった、私の槍で
―――早く止めないと。開戦したら多くの死者が出てしまう。
―――尊敬していたのに、信じていたのに
―――バルトロだって何を企んでいるかわかったものではない。事態は一刻を争うんだ!
頭の中がぐちゃぐちゃだった。止めなければと思っているのに、いつもだったらすぐに駆け出しているのに。
「……でも…!」
―――でも、もう支えてくれる人もいないのに、私が何をしたって、もう…!

「――――アリーシャ……」
ふと、自分とは別の誰かの声が聞こえてきた。
悲しそうな声音。けれど優しい、穏やかな。

「……っ!」
その声の主が誰か理解した瞬間、アリーシャの中で何かが弾け飛んだ。
「もう、いやだ…っ…」
勢いよく振り向いたアリーシャは、困惑した顔で佇んでいるスレイの胸に思い切り飛び込んだ。
白いマントが視界の端で大きく揺れた。けれどスレイは一歩後ろに下がっただけで、倒れることはなかった。
「アリー―――」
「嫌だ!嫌だ!家に帰りたい!知らないよ!戦争も国も民も!」
幼子のような拙い叫びが取り留めもなく溢れ出る。それは出てきてはダメだと、きつく蓋を閉めて底に沈めていた心の叫びだった。
ずっとどこかに、誰かに、この降り積もった痛みをぶつけたかったのだと、傷だらけのそこがもう嫌だと泣き叫ぶ。
突然のことにスレイは戸惑っていたが、やがてゆっくりとアリーシャの背に腕を回して、抱き留めてくれた。
その腕の力強さが全てを受け止めてくれる気がして、余計に心の箍が外れた。
「陰口を言われるのも、意地悪をされるのも!もうたくさん…!」
泣きじゃくりながら、アリーシャは悲痛な声を上げる。
ずっと耐えていた。何を言われても、どんな扱いを受けても、屈せずに生きてきた。ここで諦めては駄目だと。私がやらなければならないのだと。
けど、何故それほどまでに今まで頑張ってきたのか、何の為に前に進んできたのか。今まで理由にしていた言葉を当てはめてみても、どれも虚しく思えてしかたなかった。
もう本当に、何が何だかわからなかった。わからなくなって嫌気がさした。
「王女も騎士もやめる!バルトロでも誰でも、勝手にすればいいっ…!!」
望んで王女になったわけじゃない。いじめられたくて騎士になったわけじゃない。権力に目が眩んだわけでも、評議会の座を脅かそうとしたわけでもないのに。
何故こんなにも、苦しい思いをしなければならない。
ぽたぽたと、涙がとめどなく頬を伝う。伝い落ちる雫が、途中で青いシャツに吸い込まれていく。濡らしてしまったと片隅で申し訳なく思ったが、それでもスレイは何も言わずに抱きしめてくれた。
「みんなのためにって頑張っても……いいことなんかなかった…なにも……」
頑張ったんだ。何が一番国の為になるか。民の為になることは何か。
それでも返ってきたのは、嘲りと中傷ばかりだった。
もうやめたっていいはずだ。誰も咎めはしない。寧ろ邪魔者がいなくなったと喜ぶだろう。
―――なら、いいじゃない。私が戦争を止めなくたって。そのあと国が、祖国の民がどうなったって……
頭の中で囁く声がする。それもまた、自分の中の本心からの囁きだった。
しばらくの間、自分のすすり泣きの音だけが聞こえていた。
その間、スレイはずっと無言でアリーシャの背をさすってくれていた。幼い頃に帰った気がして、アリーシャは安心感に身をゆだねる。このまま、何も考えず目も耳も塞いでしまいたかった。
「……なのに」
けれど、気付いたら自身の口からはまた、ぽつりと言葉がこぼれていた。
「なのに……それなのに……」
もう放り出してしまえばいいと言う自分がいる。辛い思いも、苦しい思いももうしたくないと訴える自分も。
――――なのに、心の奥底で響く声がする。

「……思っちゃうんだよな。戦争を止めたいって」
そんな自分の思いが、スレイの口から放たれたかのようだった。
背中を撫でる手と同じくらい優しい声に、アリーシャははっとして顔を上げる。
何故と疑問符を浮かべたまま見上げた先に、陽射しのように明るくにっと笑う、スレイの顔があった。
「何か、オレも同じカンジだから」
「同じ…」
スレイも。口の中で繰り返し、アリーシャはふと俯く。
響く声がある。いやだと駄々をこねる自分のとは別の、もっと低く、気高く、凛とした声音が。
「―――『騎士は、守るもののために強くあれ。民のために優しくあれ』」
その声に合わせて、アリーシャは息をするように言葉を唱えた。
声に出した途端、ツキツキと胸が痛みはじめる。同時に、言いようのない安堵もどっと押し寄せてきて、また涙が落ちた。
もういないのだという実感。確かにいたことを示す記憶。
そっと預けていた身体を離す。俯けていた顔を上げて、おずおずとスレイのことを見る。
呆れられてしまうかもしれない。けど、スレイだったら受け入れてくれる気がしたから。
「師匠の言葉が、耳から離れないんだ」
こんな状態でも、ずっと師匠の声が響いていた。教えてくれた様々なことが。忘れまいと胸に刻んだ言の葉たちが。
「きっと、私を騙すための言葉だったのに…」
全て、自分を操るための虚言だったろうに。
そうわかってはいても、やはりマルトランはアリーシャにとって紛れもなく唯一の師匠だった。憑魔でも、利用されていたのだとしても。それをまざまざと痛感する。
「…オレはさ、マルトランさんのことをよく知らないから、あの人の本音がどこにあったのかはわからないけど」
久しぶりに声を聞いた。そんな気がしてしまいそうなほど、スレイはようやく口を開いてそう前置きをした。
胸の前で握りしめていた両手を解くように、優しく触れられる。自分よりも一回りも大きい手をなんとなしに見つめていると、穏やかな声が降り注いだ。
「あの人が嘘を言ったとしても、アリーシャが受け止めた気持ちは本物だろ?」
深い暗闇に、一筋の光が差し込んだように思えた。
アリーシャは弾かれるように顔を上げた。自分よりも濃い深緑の瞳をただ真っ直ぐに向けて、導師の少年はそれで、と続ける。
「今ここにいるアリーシャは、間違いなく現実だよ。オレが保証する」
その言葉を示すように、スレイは包み込んだアリーシャの手をしっかりと握り込んで、晴れやかに笑った。
「…っ、はは……みっともない現実を、見せてしまった…」
まだ唇がわなないいて、うまく話せない。それでもアリーシャは泣いたまま笑った。笑えたことに驚いて、また笑えることができたのが嬉しかった。

―――そうだ。私がこれまで何を信じて、これからも信じ続けても、私自身が嘘になるわけじゃない

そうすんなりと思うことができた。胸に仕えていた棘が、すっと溶けたような気分だった。
自分の手を包む手がはめる、導師の紋章が描かれた手袋に視線を注いで微笑みを浮かべる。
本当に、スレイは導師になるべくしてなった人だと思った。
スレイのような人が、導師でよかったと思った。
手に力を込める。大きな手は、意図を察して静かに離れた。
目元をごし、と擦って、アリーシャはスレイに笑って見せた。
「スレイ、ありが―――」
―――――その、次の瞬間。
「アリーシャ!」
身体がよろめくほどの地響きが突如として駆け抜けた。体勢を崩したアリーシャをスレイが慌てて引っ張り、再び彼女を抱き留める。
「この揺れは一体…」
「それに、この息苦しさ……ライラ!」
『残念、俺様だ』
喉が詰まるような感覚に己の主神を呼ぶと、予想外に低い男の声が聞こえてきた。
「ザビーダ?何で…」
『ちっと感動しすぎて言葉が出ないんだと。それよかやべぇぞ』
二人して首を傾げていると、ザビーダは珍しく急いだ様子で話しを続ける。
『盆地の方から強力な穢れが漂ってきやがる。多分戦争がはじまった』
「戦争が…!?けど、書状はアリーシャが…それにハイランド軍の指揮はマルトランさんのはずだろ!」
「……バルトロ卿だ。彼が何か細工して、開戦させたのだろう」
ザビーダの話を聞いて思案していたアリーシャが、険しい表情で呟く。泣き腫らした目が痛々しい。
「前もって書状を二つ用意して部下に渡させたか、王に私が裏切ったと進言したか……どちらにせよ、初めから戦争を起こすように企てていたというわけだ」
「くっ…!」
スレイは悔しげに盆地の方を睨み付ける。ここまできて、結局間に合わなかったのか。
ぎり、と奥歯を食いしばる。思わず手に力を込めると、スレイ、と名を呼ばれて我に返った。
「あ、ごめん!痛かったよね」
焦って勢いよく腕を離す。しかしアリーシャは気にした様子もなく、凛とした表情でいや、と首を振った。
いつものアリーシャだ。そのことに安心して、無性に嬉しくなった。
「大丈夫だ。それよりスレイたちは穢れの浄化を。私はハイランド軍を何とかする」
「アリーシャ…」
「最後まで、青臭く足掻いてみせるよ」
離した右手を掴まれて、祈るように胸の前でぎゅっと握られる。導師の手袋をはめた手に向かって、何かを念じるようにしていたアリーシャは、少しの間のあとふいに顔を上げた。
「それが私だから!」
それが誇らしいと言わんばかりに、アリーシャは言い切った。
太陽を浴びた花のように、美しくきらめく笑みを顔いっぱいに浮かべて。
彼女の笑顔に一瞬見惚れていたスレイは、じわりと自分の口の端が吊り上がっていくのを感じた。
熱く湧き上がってくる感情と衝動。笑おうとしなくても頬が緩むのが自分でもわかった。
「え……」
アリーシャの言葉に応えようとした。けれど気付いた時には、熱く湧き上がってきた衝動に任せて小さな額に唇を押し当てていた。
「す、スレイっ!?」
「へへ…オレも元気もらいたくなっちゃって」
瞬時にして顔を真っ赤にしたアリーシャに、照れ臭そうに笑いながらスレイは頬を掻いた。
「だからって…」
「あ、ごめん。アリーシャは嫌だった?」
「い、いや!そんなことは…!」
しゅんとなって落ち込むと、アリーシャが勢いよくぶんぶんと両手を振って否定する。あまりの慌てようにスレイは目をしばたいて、それから安心したように微笑んだ。
「そっか。ならよかった」
「え、え…?」
「うん、何か頑張れる気がしてきた!アリーシャ、絶対に戦争を止めよう!」
「あ、ああ…も、もちろんだ!」
急に話題を変換して拳を握るスレイに、アリーシャは翻弄され訳が分からぬまま同意するしかなかった。

『……おいミク坊、何だあれ…無意識か?意図的か?』
『すまない……』
『お、思わず涙も引っ込んでしまいましたわ…!』
『バカ通り越しておっそろしいわね…』
ずっと黙ったまま、彼らの様子を眺めていた天族たちは思った。純粋で真っ直ぐな奴ほど怖いものはない、と。


◆   ◆   ◆


強い穢れの気配がして、目が覚めた。
「…っ、う…」
一体ここは…?考えるよりも先に飛び込んできた光景に、天族ゴウフウは言葉を失った。
夥しい数の人間。赤と青の鎧を纏った人間達が、手にした武器で互いを殺し合っている。
―――戦だ。そう認識した途端、全身が途方もないような激痛に見舞われた。
「ぁぐ、ぅ…!」
あまりの苦痛に、反射的に身体をくの字に折った。
毒を吸うような生易しいものではない。人の怒りが、痛みが、悲しみが、憎しみが、全てが凝縮して体内に入り込み、悪意を持って内臓を引っ掻き回しているかのようだ。
これほどの穢れを生む場所にいたら、穢れに呑まれてしまう。
そうなったら全てが終わりだ。穢れにさらされ続けた天族の末路を見てきたゴウフウには、それが容易に想像できた。
だが、この場から離れようとして、目の前に壁のようなものがあることに気付く。
「何だ、これは…っ!」
鼓動に合わせるように痛みの波がやってくる。息もできないほどの痛みのなか、ふいに幼い少女の笑い声が脳裏に甦った。
「あの娘か…!」
おそらく災禍の顕主についていたあの少女が結界を張ったのだろう。朦朧とする意識の中、閉じ込めておけ、という獅子の男の言葉を聞いたのをおぼろげに覚えている。こういうことだったのか、とゴウフウは歯を食いしばる。
苛み続ける痛みに耐えながら、ゴウフウは天響術を障壁に放つ。けれど軽く震えただけで、ヒビひとつ入らない。
消費した霊力の分だけ、また穢れが身の内に入り込む感覚がした。途端、人間の恨みの声と激痛が全身を駆け巡り、ゴウフウは膝をついた。
胃から何かがせり上がってきて、耐え切れず吐き出す。嫌な音を立てて落ちたそれは、黒に近い紫の鉄臭い何かだった。
「何故…んな、目に…っ!」
何故、何故自分がこんな目に。もう自分はただの天族になった。もう枷も使命もなく、誰にかかわることもなく生きていたのに。ただ静かに暮らしていたかっただけなのに。何故。
ゴウフウは震える腕で壁を叩く。手に紫の血液が付着していたらしく、透明な障壁に毒々しい色のそれがこびり付いた。それでも結界が壊れることはない。
ここで死ぬのか。自分は。『天族ゴウフウ』は、ここで。
―――会いたい、彼女に
ふいに、そんな思いが湧き上がってきた。一度思った感情は堰を切って溢れ出したかのように、ゴウフウの目を滲ませた。
会いたい。もう一度。お願いだ、会わせてくれ。
痛みとは別の思いで、涙が落ちる。最後に見たのは、逃がそうと海に突き飛ばしたときの絶望した顔だった。あれからどうしているだろうか。
無事な姿を確認したい。世を捨てた自分に、ずっと付き添い歩んでくれていた彼女に、もう一目だけでも。
「……、うっぐ…っ…、がっ――――!!」
紡ごうとした彼女の名は、しかし空を割くような絶叫に変わってしまった。
―――会いたかった。最後に、もう一度だけ……
己の身体が別の何かに変化していくのを感じながら、ゴウフウは苦しみの底で意識を手放した。







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