おおかみと赤ずきん 終わりの先延ばし





―――だから、わざと遠回りをした。



日中。ようやっと強くなりだした日差しに照らされ、葉に積もった霜が溶けてぽたりとその露が狼の頭に落ちてきた。透明な雫は煉瓦色の体毛をつつつ、と伝い、わずかに皮膚に触れる。そのひやりとした冷たさに、それまで目を閉じていた狼はゆるゆると瞼を上げた。
「………………」
地味に浸水してくる感覚にメイトは眉をひそめ、ぶるりと頭を振って水滴を飛ばした。チチチ、と上から鳥たちの鳴き声が聞こえる。どうやら彼らが枝に降り立った振動も重なって葉から雫が飛んだようだ。上空から奏でられる彼らの楽しそうな合唱は綺麗で澄んでいて、まるで彼女の歌声のようだと思い、次いでやってきた胸の痛みに赤茶の瞳は小さな陰りを見せた。

あれから、色々と考えた。お守り袋のこと、幼馴染みのこと、メイコのこと。……これからの自分の…自分達のこと。考えて考えて、ひたすらそのことだけに頭を集中させて。それでも結局大半のことは答えが出ないままで。けれどその中でただひとつ、わかったことがある。それは――――――、
「―――!」
がさがさと大きな音を立てて何者かがこちらへやってくる気配に、メイトは思考を一旦中断させた。もっとも、その足音だけで誰かなどすぐに気付いたのだが。
「―――、メイトっ!」
案の定、ひと際大きく茂みを揺らして現れたのはメイコだった。最早トレードマークと化している赤い頭巾は恐らく走った風速で外れ、乱れた胡桃色の髪が露わになっていることだろう。
「この間、メイトが変だったの、気になって…」
荒くなった呼吸を整えることもせず、メイコは息を切らしながら口を開く。その言葉に、ああやっぱり気付いていたか、とさして驚きもせず聞いていた。流石にそのまま喋ることはきつかったらしく、今度は息を整えてからそれで、と話しだした。
「タイトから聞いたの」
(タイト…?)
一瞬首を傾げるが、お守り袋の中身、とメイコが続けたことですぐに例の幼馴染に結びついた。今まで人の名前を出す時は大抵前後に説明を入れていた彼女がそれをすっとばすなど珍しい。余程頭に血が昇っているのだろうかと、まるで他人事のように思う。
「火薬だって…何でそんなものを?て聞いたら、『君を守るためだから』って。余計なお世話よっ!!」
憤然やるかたないという風に、メイコは地面を思い切り踏みつけ腹の底から吼えた。ビリビリと響く怒声に耳を震わせながら、メイトは目を伏せて俯いた。
―――……そうか…。
知ったのか。思いの外早かったなと、やはりどこか自分のことではないように思う。
「そうかじゃないわよ!いつまでも人を妹扱いして…メイトがどんなに優しいか知りもしないで…!」
怒りに任せてぶつぶつと呟かれる恨み事に紛れてとんできた褒め言葉にメイトは目を丸くし、すぐに頬を緩める。思ったことをそのまま言っているようだから、恐らく自分では気付いていないのだろう。胸に広がるあたたかさを感じながら、メイトは口の端を吊り上げて内心ツッコミを入れた。優しいのはどっちだ。
本当に、メイコの言葉も自分との距離も関係も、全て心地がいい。穏やかな光を湛えた褐色の瞳は、しかし次の瞬間には痛みを孕み、そのまま閉じられた。心地いい、けれど。
伝えなければ―――。
―――なぁ、メイコ
ひとしきり愚痴を吐きだした頃合いを見計らって語りかけると、何、とぶっきらぼうな言葉が返ってきた。大層ご立腹だな、と苦笑いしながらも、メイトは続ける。 ―――狼がどんな存在か、お前は知ってるだろ?
「…………」
すぅ、と彼女の纏う空気が変わった。今まで噴き出していた怒りが、宙に霧散するかのように消えていったのがわかった。
―――だから、そいつの言ってることは正しいんだよ。
「……ごめん、何言ってんのかわからな――」
―――嘘つけ。聞き取れてんだろ、全部
「―――っ…」
いつからか彼女は、自分の言葉に首をひねることも聞き返すこともなくなった。メイトがそれに気付かなかった訳がない。ただ敢えて言うこともなかったから、指摘しなかっただけだ。
―――お前たちの世界から見た俺は、そういう存在なんだよ
「…違う」
―――お前が違うって言っても、それは変わらない。それが常識ってやつだ
「違うっ!そんなこと…!」
間髪入れずに反論してきた少女は、しかし途中で言葉を詰まらせる。メイトはふ、と目を伏せて自虐的な笑みを僅かに浮かべる。はっきりと自分の意思を口にするメイコがいつものような凛とした声で断言しなかった。つまりは、そういうことだ。
―――それで、俺とお前は傍から見たらどう思われる?
「……いや、聞きたくない」
メイコは知っている。知っているから、きっと狼がこれから何を言うのかも、知っている。
―――…仲良しこよしには、見えねぇよな
「聞きたくないってば!」
恐らく顔を真っ赤にして叫んでいるのだろう。その拒絶が、少しばかり嬉しいと思っている自分が可笑しい半面、少々情けない。だって言葉を拒むのは、自分と同じ気持ちだから。
―――だから……わかるだろ?
「聞きたくない!!」
諭すように、あるいは宥めるように言葉を掛ける一方で、メイトは自身もその問い掛けに彼女とは別の意味でそうだなと頷いていた。
わかった。何で引き裂けそうな程痛いのか。押しつぶされそうな程苦しいのか。
俺は、こいつが…メイコが―――。
だから気付きたくなかったんだ。だから知らないふりをしたんだ。メイコと、いつまでも一緒にいたかったから。この奇妙で不思議で、だけど心地いい関係をずっと続けていたかったから。
でも、だからこそ、なおのこと。

―――もう、ここへは来るな。
「――――っ!!」
張りつめていた空気がひび割れ、砕け散った気がした。どさ、と何かが地面に落ちる音がして、次いでこちらに転がってきたきつね色の柔らかそうな丸いものを見る。あぁ籠が落ちたのかとぼんやりと思う。芳ばしい香りは、先日嗅いだあの焦げ臭い嫌なにおいとは大違いだった。
「…んで…メイト……だって…会って、話してくれるって……」
か細く、震える声に、胸がツキリと痛む。けれどもメイトはいつものように冗談だよとおどけることはできなかった。喉まで出かかった言葉を、しかし己の自制心を最大限に振り絞って留まらせる。きつく目を閉じて飲み下して、地面がえぐれる程握りしめた前足に痛みが走るのを感じながら、いつものように声に出さずに呟いた。
―――………悪い
あの時は本気だった。嘘をついたつもりはなかった。別にこのまま幹越しに背中合わせのままでも充分だったが、面と向かって話すのも悪くないなと、そう思っていたのだ。 けれど、それは自分が知らぬ間に現実から目を背けていたから言えたことで……。
このままではいけない。今後のことなんてほとんど霞みがかって見えないままだけれど、それだけはわかったから。だって、人間と共にいて、良いことなんて起こった試しがなかった。今回はもしかしたら、なんて。あるかどうかもわからない希望に掛ける勇気など持ち合わせていないから。だから――――



距離を取ろう。


それがメイトの結論だった。

「……の…、」
絶句していた少女がぼそ、と震える声で小さな言葉を零す。あ、これは。数年の間に何度か経験したことのある状況に、メイトは立てていた耳をパタンと伏せる。
「―――っっっ!!メイトの馬鹿ッッ!!」
予想通り、ありったけの声でそう叫んでメイコは踵を返して駆け出した。ワンパターンな奴、と皮肉を心の中で述べながら、その荒々しい足音が消えるまで、笑っているのか怒っているのかわからない表情で俯いたままずっと聴いていた。

―――『…鈍感』
「あぁ…確かにそうかもな…」
つい先日つかれた悪態を思い出して自嘲する。気付かなかった。わからなかった。恋情だったなんて。今だって信じられない。けれど、過去の経験が、その時の自分が、そうだと告げている。そして文句を言ったということは、恐らくメイコも――――。
くつりと笑って、顎を反らす。さほど時間の経っていない空は、相も変わらずじんわりと染み込むような日射しのまま森を照らし続けている。そんなことに気付いても、今更だけれど。………いや、いつ気付いても、結果は変わらなかった。自分が狼で、彼女が人間である限り。
「……悪い…」
もう一度、今度は堪えることなく声に出して、懺悔にも似た思いを言の葉とともに零す。尖った枝をゆっくりと突き刺されたかのような胸の痛みに自業自得だと嘲笑して、のそりと立ち上がる。未だ彼女の憤りが燻っている気がして、メイトは逃げるようにその場を後にした。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


巨樹の下、鳶色の剛毛に覆われた獣はぼんやりと森を眺めていた。空一帯を覆う厚い雲は、鈍色の光を木々の隙間から注ぎ、辺り一帯の動植物たちの輪郭を滲ませる。若葉を付けた木々や淡く控えめに咲く花が目に留まらなければ、まるで冬に逆戻りしたかのようだ。
その景色を、どのくらい見つめていただろうか。微動だにしなかった狼はやがて溜め息とともに肩を落とし、ゆるゆると首を振る。
日が、経った。その流れていった時間がメイトに重くのしかかる。いや、そんなことは生きている限り至極当然の現象だ。それが今更彼に不安と後悔と虚無感を与えたりはしない。そうではなく、時は間接的な要因で、直接的な要因は。
赤ずきんの少女が――メイコが、来ないこと。
「…ざまぁなぇな」
当たり前だ。突き放したのは他ならぬ自分だ。だのに、落ち込んで。この無様さはなんだ。滑稽にも程がある。
そう自分を罵倒しても、胸に降り積もる罪悪感は消えず、寧ろ比重が増す一方。こんなにも想っていたのか。こんなにも存在が大きくなっていたのか。……こんなにも、いることが当然のことと、受け入れていたのか。
「当たり前なんかじゃ、なかったのにな…」
ぽつり。呟いた言葉は地面に転がる。それにつられるように、鳶色の頭もこてんと前足に落とした。

――――ガサッ

「―――?!、」
刹那、突如として耳に入ってきた音に、メイトは弾けるように顔を上げる。ガサガサとこちらに近付いてくる音は、聞き覚えのある…いや、聞き間違いのないもの。
がさ、がさ。時々躊躇っているかのようにリズムを崩し、けれども戻ることをしない。それをメイトは、ただ目を丸くして聞くことしかできない。
何で。良かった。帰ってくれ。来てくれた。相反する感情がメイトの胸を行き来する。ああもうなんだってあいつは…!混乱を極めた頭を少しでも平時に戻そうと悪態をついてみるが、如何せん脳と身体はちぐはぐなまま上手く連動してくれない。そんなことを考えているうちに足音はどんどん近付いてくる。今にして思えばここで逃げるという選択肢が頭に浮かんでいれば、これから先の状況が多少なりとも変わっていたのかもしれない。

がさ。気配とともに草を踏みしめる音が止んだ。メイトは視線だけ幹の向こうへ向け、微弱な風に運ばれてきた慣れ親しんだ香りに一瞬だけ呼吸を忘れた。
「……こんにちは」
いつもより硬い、鈴を転がしたというよりも鳴らした音に近い、凛とした声。元の声音は変わっていない筈なのに、その違いに心臓が奇妙に跳ねた。
何か、返さなければ。そう思い必死に頭の引出しから言葉を引き出そうとするが、中々適当な台詞が出てこない。
間が空く。恐らくは僅かな時間だったのだろう。しかしメイトには、その沈黙が異様に長く感じられた。
そんな喉にものが詰まったような心地の悪い静寂を、ねぇ、と掛けられた声が破った。
「メイト、知ってる?私達人間はね、年齢で大人と子供を分けてるの」
―――……?
「生まれてから20年経ったら成人したってことになって、大人になるのよ」
―――………。
狼は無言のまま、メイコの話を静かに聴いた。
「あと結婚したら…あ、結婚ていうのは儀式みたいなものなんだけど…わかる?」
ある程度はと頷きとともに意志を伝えると、少しだけ安心した口調で良かった、と返ってきた。何となく、彼女の言いたいことが想像ついた。
「だから、それまでは子供なの」
面白いでしょ。そう繋げるメイコに、細長の顔をもう一度縦に振る。正直何が面白いのわからなかったが、不思議と同義だと考えれば頷けた。そしてその言葉で、予想が確信に変わった。ただ、それを聞いたら、自分は拒まなければならないなと思った。
「だから、だからね…、」
だって、それは恐らく――――。
「まだ…メイトと一緒にいても、いいかな…?」
大人じゃないから。子供だから。恋なんて知らないから。”子供の遊び”で済ませられるから。だから、だから――――
―――…………、
苦しい。その言葉に潜めた思いが、意識しなくても伝わってくる。
きっとメイコはわかっている。それを知っている時点で子供ではないことを。しかし、それを受け入れられるほど大人でもないことを。
それでもメイトと同じように考えに考え、悩みに悩んでようやっと思いついた苦肉の策が―――先延ばしにすることだった。
けれど、拒まなければ。それはダメだと。そんなのは屁理屈だと否定して、突き放して。だってそれは、叶えてはいけないこと。
余計辛くなるだけだ。苦しむだけ苦しんで、最後は心臓を抉り取られたかのような痛みに苛まれるだけだ。それが目に見えてわかっていて、何故メイコは願う?
……そして何故自分は、拒むことができずにいる?
「…だめ、かな…?」
駄目に決まってる。そう言うべきなのに、何故無言を貫く?
疑問を浮かべて、メイトはすぐに自嘲する。何を今更、わかりきったことを。そんなの簡単だ。
だってそれは、―――メイト自身も、望んでいることだからだ。
これから先のことなんて、ひたすら辛く険しいこと以外想像がつかない。無理やり目を逸らして作り上げた、限られた幸せに浸かって、迫りくる刻限にゆっくりと追い詰められる日々の何処に安らぎがあるのだろう。ほら、考えただけでも胸が詰まる。
…………けれど、
―――……そうだな…
今まで当然としてあった暖かさを楽しさを心地よさを全て切り捨てられるほど、強くもなくて。俺はこんなに情けない奴だったのか?と、答えなどわかりきった自問に歪な笑みを浮かべる。それでも意地でメイコに伝える意志だけは平常な自分を装った。
―――パン、今度は持ってこいよ
メイコがはっと息を呑む気配が伝わってきた。じゃあ…!と抑えきれなかった喜色を滲ませる声音に、暖かな熱が灯る。そして同時にやってくる胸の痛み。自分は今、どんな顔をしているのだろうか。
つかの間でもいい。辛くてもいい。ただせめて、彼女が大人へと成長するための時間を、自身の心が失っても強くあれるための思い出を、作れるだけでいいから。
―――立ちっぱなしじゃ疲れんだろ?今日は何を話すんだ?
わざと間違えた道を選んだ少女に、狼は正しい道を指し示さず、ともに道を歩むことを選ぶ。頭の片隅で、オオカミらしいじゃないかと嘲笑う自身の声が聞こえた気がした。










だってそれしか思いつかなかったんだ。



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