"敵"と"味方"
「あんた、ハンターのヤツらも治療してるんだってな」
待機室の扉に手を掛けたと同時に、奥からそんな声が聞こえてきた。
先客がいたかと、謝必安はドアノブに伸ばした手を引っ込める。が、続いて困惑をあらわにした女性の声を耳にして、返しかけた踵をぴたりと止めた。
しばし思い悩み、結局再びドアノブに手をかけてゆっくりと回した。音を立てぬようにするりと中に入れば、二脚の質のいい椅子が鎮座した薄暗い広間が現れた。
「……だから、私の治療は受けないと?」
「ああ。敵と内通してるヤツなんか信用できない」
声の方向に視線を向ける。一方的な透かし幕の向こうに、ここ最近で急速に見慣れてきた気弱そうな(けれどその実意外にも頑なである)横顔と、ゲーム中に会うと少々げんなりする顔が向かい合って佇んでいた。
「内通なんてしていないわ」
「口先だけならどうとでも言える」
「……そうね、その通りだわ。けれど本当に、ただ怪我の治療をしているだけよ」
「それで回復したハンターが、毎日俺たちを殴り飛ばしてるわけだ」
いつも目深にかぶっているフードを外し、褐色の髪を後ろに束ねた男は、はっと嘲笑混じりに肩を竦めた。明らかに友好的とはいえない態度に、どうやら相当に間の悪い時に来てしまったらしいと早々に察する。
謝必安は閉まるぎりぎりのところまでドアを戻し、気配を殺してそっと様子を見守る。
何も聞こえなかったことにして戻るのが適切であるとわかっていたが、話題が話題であるだけにどうにも見過ごすのは躊躇われた。何せ、自分も『彼女に治療を受けているハンター』の一人なのだ。
いつも下がり気味の眉を更に下げて、エミリーは小さくため息をつく。
「疑っているならそれでもいいわ。とにかく、今は治療をさせてちょうだい」
「断る」
それでも男は頑なだった。治療を拒否する青年に、救急箱を持った彼女は悲しそうに首を傾げた。
「どうして?」
「あんたが傷口に、薬じゃなくて毒を塗らない保証がどこにある?」
確か、彼は傭兵だったか。警戒心が強いのも頷ける。戦場で生き残るうえでは非常に役に立つ能力だ。
だが、今はそれが仇になっているように思えてならない。少なくとも彼女相手には。
「毒なんて……そんなことをするはずがないじゃない」
困り果てた横顔がゆっくりと首を振るが、彼は野犬のようにエミリーを威嚇し続けている。
取り付く島もない様子に、どうしたものかと謝必安も眉を潜めた。
彼女が内通者ではないことは、他ならぬ自分達が知っている。美智子も同様だ。
ピエロや狩人とて、進んで誤解を解くために動くことはないだろうが、問い質されれば違うと答えるだろう。リッパーとジョセフは面白半分に揺さぶりをかける可能性もある。が、それを即座に否定し正すことは謝必安にもできる。
しかし今の状況で、ハンターである自分が出ていって擁護しても意味はない。どころか火に油を注ぐだけなのは明白であった。謝必安が今できる最善は、二人に気付かれぬよう気配を消すことだ。
しかし、このままでは。
「なら、何であんたはここにいるんだ?はみ出し者の溜まり場みたいな、こんな場所に」
刃物のような鋭利な声に、エミリーが目を見開いて凍り付いたのを見た。謝必安は無意識に傘に力をこめる。
「そ、れは……」
「毒を盛らないような真っ当な医者が、こんな血なまぐさいゲームに参加してるとは思えないな」
掠れた声でエミリーは喉を震わせるが、傭兵はふんと鼻を鳴らしてさらに追い打ちをかけて彼女の言葉を掻き消した。
(……正論。けれど、それはあまりにも……)
完全に言葉を失った彼女に、もう用はないとばかりに傭兵は踵を返し、さっさと待機室から出ていった。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす彼女と、それを傍観していた謝必安のみ。
ちらと己の左肩を見て、それから俯く女性に視線を戻す。赤い箱を抱きしめて丸まる背中は、寄る辺のない子供に似た哀れみを感じさせて痛ましかった。
しばらく様子を窺っていたが、閉じられた扉を見つめたまま、彼女は石のように固まって微動だにしなかった。
謝必安はため息の代わりに天井の豪奢な燭台を振り仰ぎ、やがて静かに傘を開く。
視界が真白に覆われる直前、ふいに途方に暮れた声音が耳朶を震わせた。
「……私だって……」
悲しみを音にして響かせたようなそれは、けれどほんの一粒だけを謝必安の耳に落とし、残りは雨音に紛れて消えてしまった。
◆ ◆ ◆
黄土色の地面に生い茂る雑草。業務用のドラム缶や壊れた木箱の傍には、開けたまま遺棄された段ボールや工具がいたるところに転がっている。
およそ動物が生息できるような環境ではなく、唯一佇んでいるのは積まれた土嚢の上できょろきょろと首を回すカラスのみ。
ミネルヴァ軍需工場。この場所は、そんな退廃的な環境が再現された庭だった。
鉄とオイルの臭いが入り混じった工場内に、甲高いモールス信号の音が響き渡る。その音に隠された暗号を一つずつ聴き取りながら、エミリーは周囲を警戒しつつ解読を急いでいた。
残る暗号機は二台。脱落者はゼロ。
「……怖いくらいに順調ね」
枠だけが残った窓の向こうをちらりと見てそう呟くと、隣からそうね、と静かな同意が返ってきた。
「ここまでハンターと遭遇しないなんて珍しい。彼がずっと引き付けてくれてるのかしら?」
「ええ……」
フィオナの言葉に相槌を打ちながら、エミリーは腰に下げた機器を手に取り蓋を開く。
懐中時計によく似たそれは、開くと真っ黒な画面がガラスに覆われている。上部についているクラウン(リューズ。龍頭。懐中時計の出っ張りを、英語圏ではcrowm(かんむり)という)を押すと、画面の中央に白い光がぽつんと灯った。次いで左上にも同じものが現れてちかりと光る。
ゲームの際、サバイバー達に小型の通信機と共に配布される発信機だ。今のようにクラウンを押せば発信者の位置情報が画面に表示され、通信機と合わせて使えば離れた仲間と連携が取れるようになっている。
仕組みについては、おそらく遠隔操作が可能な自立人形を独学で作り上げたトレイシー以外、サバイバー内では理解できる者はいない。そんな現代の技術水準を遥かに越えた代物だ。
(位置情報は送っているけれど……やっぱり来ないかしら……)
エミリーは蓋の裏に描かれた四つの円を眺め、ふと悲しげに目を伏せた。円には小さな棒人間が一人ずつ描かれており、そのうちの一つだけが横半分に光っていた。発信機の持ち主がハンターに負傷させられた証だった。
ハンターを治療していることを打ち明けたあと、仲間達からは一部を除いて距離を取られていた。その中でも特に顕著なのが彼──現在負傷状態であり、通信も位置情報も絶っている、ナワーブ・サベダーであった。
あんたは信用できないと宣言されて以降、彼はエミリーのことを尽く避け続けている。
(取り付く島もないし、大怪我でもしない限りしばらくは様子を見ようと思っていたのだけれど……)
流石にゲームですらこうでは、他の仲間達にも迷惑がかかる。せめてゲームの時は協力してほしいと進言した方がいいかもしれない。
それに。
エミリーはキーボードを操作しながら、静かにため息をつく。
気になっているのは、彼だけではない。
「大丈夫、みんな突然のことで戸惑っているのよ」
その時、機械音に紛れて聞こえてきた声に思わず顔を上げた。灰をかぶったような色ばかりを映していた視界に、紫と赤の鮮やかな色が広がる。
「フィオナ……あなたは、私を信じてくれるの?」
「私はただ見ているだけ。扉の鍵を通して、ありのままの世界を。ここは色んな因果を背負った者が集っているから、とても見えにくいけど」
細い眉を寄せ、苦手な機械を懸命に操作しながらフィオナは続ける。
「だけど、あなたが治療に対して誠実なことは、あなたの患者になればわかること。誰だってそう。困惑という深い霧が晴れれば、自然と見えてくるものよ。それでもなお疑うのであれば、疑わざるを得ない何かが己の中にあるのでしょう。もしくは、何か後ろめたいことがあるのか」
紅を引いた唇から謳うように紡がれる言葉は、どこか浮世離れしたものを感じる。彼女自身の神秘的な雰囲気も相まって、余計にそう思えるのだろう。
けど。エミリーは淡く目元を綻ばせた。フィオナが自分の行いを認めてくれていることは充分に伝わってきた。
「ありがとう、フィオナ。おかげで心が軽くなったわ」
礼を言うと、フィオナはこちらに顔を向け、ふと柔らかく微笑んだ。そして暗号機から手を放し、重ねた両手で額と胸に順に触れ、十字を切るのとは異なる祈りの仕草をした。
「感謝なら我が主に。すべては神の導きによるもの」
流れるような優雅さで出てきた台詞に、タイプライターを打ちながら思わず苦笑いをこぼす。エミリーが感謝を告げたかったのは他ならぬフィオナ自身であったのだが、彼女にとってはそれが当然の理なのだろう。堂々巡りになりそうな予感に、エミリーはそう、と曖昧に言葉を濁すことにした。
その時、工場の入り口から勢いよく飛び込んできたものがあった。二人は急いで暗号機から離れ──目に捉えた侵入者に足を止めた。
「サベダーさん……」
「追われてるの?」
「……いや、撒いた」
腹部に手を当てながら肩で息をする彼は、エミリーを一瞥すると露骨に顔をしかめて踵を返した。エミリーは慌てて彼を引き留める。
「待って、怪我をしているでしょう。治療を──」
「必要ない」
途中で切り捨てるように拒まれる。それでも諦めず駆け寄ると、今度は明確な敵意をもって睨まれた。
フードの奥から放たれる冷たく切るような視線に怯み、エミリーは踏み出した足を止めてしまう。
どうして、と以前に呟いた疑問を息ごと呑み込み、これ以上近付けばすぐにでも逃げ出しそうな彼を見つめた。
どうして?答えは明白だ。警戒されているから。信用されていないからだ。
医師ならばまず解かなければいけない患者の心を、頑なにさせてしまったのは他ならぬ自分だ。落ち度はこちらにある。
けれど、怪我人を放っておくことなどできない。自分に治療されること自体が嫌なのなら、フィオナに応急処置をしてもらえないだろうか。
「あなた、何を恐れてるの?」
もう一度説得しようと、口を開いたその時だった。
綱の上に立っているような緊迫した空気の中に、ぽつりと疑問が落とされた。
エミリーとナワーブは同時に同じ方向を向く。ガシャン、と大きな音を立てて制止した暗号機の前で、フィオナは表情の読めない瞳でナワーブを見ていた。
「……俺はオカルトには興味ない。他を当たれ」
「威嚇は怯えと表裏一体。彼女の何が、一体あなたを怖がらせているの?」
「何だと?」
「フィオナ、いいから」
矛先が彼女に向けられたことに気付き、エミリーは急いで二人の間に割って入る。
「わかったわ。私が嫌なら、フィオナに治療をしてもらって──」
『ハンターが近くにいるっ!し、白黒!白黒の黒い方!』
しかし、突如として耳元から響いた悲鳴に三人の顔つきは一変した。
いち早く動き出したしたのはナワーブだ。片耳に手を当て、襟のマイクに口を寄せて話し出す。
「トレイシー、今どこだ?」
『どこ?えっとえーっと小屋!小屋のあるゲート側の──うわぁぁぁっ!』
エミリーは発信機の蓋を開ける。人型の一つが、完全な円を描いて丸く光っていた。フィオナが後ろから覗き込み、ダウンね、と目元を険しくさせた。
「──チッ、」
「あっ、待ちなさい!救助なら私が──」
駆け出したナワーブを引き留めるが、既に遅かった。伸ばした手は上着の裾を掠めるだけに終わる。
見る見るうちに小さくなっていく後ろ姿に、エミリーはああもう!と叫びたい気持ちを必死にこらえて肩を落とした。
「暗号機はあと一台……どうする、エミリー?」
「……応答からダウンまでの時間を考えると、解読していた暗号機の近くにトレイシーは拘束されるでしょうね……」
呆れ混じりのフィオナの問いに、しわを寄せた眉間を手の甲でぐっと押さえながら答える。そうでもしないと本当に叫んでしまいそうだった。
ただでさえ疑心暗鬼になりやすいこの環境下で、自分は己の意思を通したいがために余計な不信感を抱かせてしまった。
だから彼が警戒して避けるのも無理はない。仕方のないことだ。
仕方がないと、そう思ってはいるが。
──この状況については、文句の一つくらい言ってもいいだろう。
そっちがその気なら、こちらにだって考えがある。
深く息を吸い、息を吐く。顔を上げ、傍らにいるフィオナに向き直った。目が合った途端、彼女は何故かぴっと固まって背筋を伸ばした。
「フィオナ、協力してちょうだい。このまま負けるわけにはいかないわ」
◆ ◆ ◆
「もぉぉおおお負傷したままバカみたいに突っ込んできてバカみたいに吸魂くらってまんまと何もできないでダウンとか何やってんだよバカぁ──っ!」
子どもの癇癪のような絶叫が、吹きさらしの廃墟に当たって反響する。
チェアに縛られたままじたばたと足をばたつかせるトレイシーに、彼女の足元で膝を付くナワーブはがんがんと響く甲高い声にたまらず声を張り上げた。
「うるせぇお前こそ一発でやられて捕まってんな!どうせ窓越えしたところを狙われて顔面から落ちたんだろ!鼻血拭け!」
「両手縛られてる状態で拭けるわけないだろバカ!もぉぉバカバカ!ナワーブのせいで一気に形勢逆転じゃんか!」
トレイシーの反論に言葉に詰まり、ナワーブは奥歯を噛みしめる。確かにその通りだ。自分がここでトレイシーを救助できていれば、上手くいけば全員脱出の可能性も充分にあった。
しかし、結果はこのザマだ。言い訳の余地もない。
「随分と賑やかですね。元気があり余っているようで」
悔しさに呻いていると、ふいに別の存在に声を掛けられた。
喚いていたトレイシーがひっと悲鳴を上げる。背後から掛かった声に首をひねって睨み上げると、壁際に佇む白いハンターが余裕のある表情でこちらを傍観していた。
「よぉ、さっきぶりだな、白黒無常。さんざん追いかけ回してたヤツをやっと倒せてよかったな」
「ええ、まったくです。あれほど手こずったのが嘘のような呆気なさでした」
「そいつは悪いことをした。待ってろ、そろそろ起き上がってやるから……」
「おや、おかしいですね」
地面に手をつけて立ち上がる仕草をすると、白黒無常は不思議そうな声色をわざとらしく響かせて首を傾げた。
「あなたは負傷しても他のサバイバーより長く動き回ることが可能ですが、受けた傷が消えたわけではない。無理を押して動いている故か、人一倍復帰が遅かったと記憶しています。一体いつからそれほどの治癒力を身に付けたのですか?」
うっすらとした笑みを浮かべて語る白黒無常に、ナワーブは内心で舌打ちをした。
はったりが効かない。こっちの能力を完全に把握されている。
「へぇ、全部お見通しか。スパイから仕入れてるネタは相当正確なんだな」
口でまで負かされるのが癪で、片頬を吊り上げてそう皮肉を告げる。すると、肉の薄い顔から腹の立つ笑みが消えた。
「我々ハンターが、特定のサバイバーからあなた方の情報を受け取っていると?」
余裕綽々の表情が崩れた。それが見れただけでも胸がすく思いがした。ざまぁみろ、とナワーブは唇を歪めて笑う。
「違うのか?ああ、そういえばこの前裏庭にいたよな。シーツなんてのは口実で、本当はあの女の医者に会いに来たんじゃないのか?」
「ナワーブ、君エミリーのことそんな風に思って……!」
「なるほど、彼女が私たちと繋がっていると。ああ……ふふ、だからそんな無謀な行動に出たんですか。それはそれは……」
眉を吊り上げて身を乗り出したトレイシーの言葉を遮り、白黒無常はくつりと笑った。
彼は耐え切れないとばかりに片手で顔を覆い、高い背を曲げてくつくつと肩を震わせる。その薄気味悪さにトレイシーは再び椅子の上で縮み上がり、ナワーブも首筋にちりちりとした痛みを感じて身構えた。
不気味な笑い声が、ぴたりと止む。
「──大変心外ですね」
刹那、心臓に銃を突き付けられたかのような恐怖がぞわっと全身を駆け巡った。
「我々は、獲物であるサバイバーからわざわざ情報を請わなければ、その程度のことすら気付けない無能の集まりだと。そう思っているわけですか。まったく、馬鹿にするのも大概にしてほしいものですね」
ヤバい。本能が竦み上がる。どうやら本格的に怒らせたらしい。いつもと明らかに違う雰囲気に生唾を呑む。
とん、と黒い傘が地面を叩く。白黒無常は顔を覆っていた手をゆっくりと外して、今まで笑い声を上げていたとは思えない表情の抜け落ちた顔をナワーブ達に見せた。
「問いましょう」
傘を振り上げ、細長い腕が横に薙ぐ。常なら壊れるはずのない壁が、その一振りでがらがらと音を立てて崩れる。
うそ、とトレイシーが細く声をこぼした。ナワーブも胸の内で嘘だろと呟く。ハンターに吹き飛ばされて当たってもびくともしなかった壁が、クラッカーでも砕いたかのように呆気なく瓦礫になった。
飛び散った小さな破片が頬に当たる。その微かな痛みから、じわりと恐怖が肌の奥に染み込んでくるかのようだ。
そうだ。何故そんな当たり前のことを忘れていたのだろう。
いつの間にか麻痺していた感覚が、急速に身の内に戻ってくる。
「あなた方は、"何"を相手にゲームをしているか、きちんと理解していますか?」
ゆっくりとした口調で、目の前の何かが自分達を見つめる。
そう、"何か"なのだ。理解ではなく思い知る。
自分達が追われているモノは、人ではない。人ではあり得ない力を持った、得体のしれない存在なのだと。
毒のように全身を巡る恐怖が喉を塞ぐ。地獄を色にしてはめ込んだような二つの紫紺から視線を外すことすらできない。
──このままだと、?まれる。
息苦しさに胸を押さえ、足の震えも抑えきれなくなったその時、白黒無常の目元がぴくりと動いた。
「咎無」
そう呟いてハンターが溶けたのと、壊れた壁の影から人影が飛び出してきたのはほぼ同時だった。
「エミリー!」
トレイシーが泣きそうな声で叫ぶ。彼女に向かって、白い帽子を被った女は一直線に走ってくる。
しかし、椅子に届く前にからん、と大きな鐘の音が響いた。刹那、脳を直接揺さぶられるかのような衝撃がナワーブ達を襲う。
「いって……!」
ダウンした状態でこれはキツい。吐き気を催すほどの激しい目眩に襲われながら、かすむ視界で何とか周囲を見回す。
そして目を上げた先の光景に、ナワーブは顔を歪ませた。黒い男の傘が、エミリーの背に当たったところだった。
「エミリー!」顔を青くしたトレイシーがもう一度名を叫んだ。前のめりになった彼女は、しかし何とか踏みとどまってチェアまで辿り着く。
トレイシーを拘束する縄を解き、椅子から立ち上がった少女は駆け出す。
「っ!避けろ、トレイシー!」
胸に広がった安心は、瞬く間に押し寄せてきた次の危機に吹き飛ばされる。白黒無常の長い腕が、今度はトレイシーに狙いを定めていた。頭を押さえたままナワーブは叫ぶが、後ろを向く余裕などない彼女はそのまま真っ直ぐ走っていく。
次に殴られて倒れれば、彼女は脱落する。
未だ立ち上がれない己にくそ!と悪態をつくが、どうすることもできない。振り上げられた傘が、小さな背中に降ろされる。
しかし、その攻撃は突如として割り込んできた身体に阻まれた。
「ちっ……!」
「エミリ……!」
「私のことはいいから!早く逃げて!」
「う、うん!ゴメン、ありがとう!」
痛みに唇を噛みしめながら、傘をその身に受けた彼女はトレイシーに向けて叫んだ。振り返り足を止めかけたトレイシーは、その声に背を押されるように壁の向こうへと消えていった。
これで今すぐ捕まるということはなくなった。だがまだ油断はできない。
何とか逃げてくれ、とぐらつく頭で思っていると、細長い身体の向こうから先ほど殴られたばかりの彼女がやってきた。
「何を……」
「鎮静剤を打つわ。腕を出して」
「させるか!」
三度(みたび)、目の前の身体が傘で殴られる。そのまま横に倒れ、けれどまた起き上がってナワーブの腕を掴んだ。彼女が注射器を取り出す。しかし再び傘がその背を叩きつける。
「おい、やめろ……何で」
「私がこの状態で逃げてもすぐに捕まるだけよ。あなたを回復した方が──うあっ……!」
「させんと言っている」
無意識にこぼした疑問を医者の女は拾い、答える。そう言ってナワーブに伸ばされた手が、しかし異形の男は苛立たしそうに傘で払いのけられる。唇を噛んで苦痛に耐えながら、それでも彼女は諦めずに注射器を握りしめる。
目の前にいる二人を、ナワーブは信じられない思いで見つめた。
お前らはグルだったんじゃないのか。ならこれは、自分を騙すための演技なんだろう。
頭に拭えない疑念が浮かぶ。けれど先ほどの白黒無常の言葉が、傘を振り下ろす容赦のない音が、痛みに顔を歪ませる女の顔が、眼前の現実がその猜疑心を否定していく。
ようやく針が腕に刺さった。だが彼女ははっとしてすぐに手を離し、そしてまた鈍い音と短い悲鳴を上げて打たれた。
ずしりと、蹲った頭と背中に重みがかかる。耳元にかかる苦しげな呼吸と呻く声。生温かい温度と、血の臭い。
人の身体だ。嫌なほど何度も経験した、生身の人間の──、
全身が総毛立つ。気付けば腹の底から声を出していた。
「何やってんだ、早く逃げろっ!オレのことはいい!さっさと見捨てて──」
「怪我人は黙ってなさいっ!」
支えようとした身体は、しかし予想外に素早い動きで起き上がる。そして肩に手を置かれ、厳しい表情をした相手に同じくらいの声量でぴしゃりと怒鳴られた。
は?と思わず間抜けな声が漏れる。普段からは想像もつかない有無を言わさぬ物言いに、ナワーブは目を白黒させて言葉を失う。結果的に彼女の言うとおりに口を噤んだナワーブの腕に、エミリーは鎮静剤を入れていく。
ふと、ナワーブは足元の影に違和感を覚えた。何だと反射的に顔を上げ──ぞっと背筋に悪寒が走った。
苛立たしげにエミリーを見下ろす、白黒無常の右腕。その手に持った傘が、カタカタと震えているのだ。
まるで自分達をいたぶって、楽しんでいるかのように。少なくともナワーブにそう見えた。
この野郎。ナワーブは歯を食いしばる。白黒無常がこちらを見据え、腕を頭上まで持ち上げる。白い手袋をはめた手がようやく注射器を触れた。
容器の中の薬がじれったいほどゆっくりと腕の中に入っていく。まだ足は動かない。早く効け、早く──!
「──っ、ちぃ……!」
その時、予期せぬ好機が訪れた。
真っ直ぐに振り降ろされた傘が、しかし彼女には当たらずに肩を掠めるだけに終わったのだ。継ぎ接ぎの顔が忌々しげに歪む様をナワーブは捉える。
そしてその直後、目眩と足の痺れが急速に治まっていくのを感じた。
(今だ──!)
足裏に力を込めて立ち上がり、近場の壁に触れて勢いよくその場から離れた。肩越しに後ろに視線をくべれば、地面に倒れ付したエミリーに白黒無常が手を伸ばしていた。
『ナワーブ、聞こえる?』
ザザ、とノイズ音がしたと思った途端、フィオナの声が耳に届いた。ナワーブは後ろを警戒しながら走り続ける。
『そのまま聞いて。小屋の中に扉の陣があるわ。陣をくぐった先に私があなたを立ち上がれる程度まで回復する。そうしたら、少しでいいからハンターを牽制して。その間に私がエミリーを助けるから』
「いや、俺はいい。そのまま救助に向かってく──」
『それと、エミリーから伝言』
予想外の言葉に、伝言?と思わずオウム返しに尋ねた。一度言葉を切った彼女が、再び息を吸う。
『『プロの傭兵なら、戦局を見極めて最善の行動を取りなさい』、だそうよ』
「────、」
がつん、と頭を銃の柄で殴られたような錯覚に、思わず足を止めかけた。しかし戦場で磨き抜かれた本能がかろうじて足の速度を落とすことをしなかった。
『トレイシーが今、私が途中まで解読していた暗号機を引き継いでる。サポートするから、通電までの時間を稼いで』
フィオナとの通信機がぷつりと切れる。呆然としながら、それでも足だけは彼女の指示通り小屋の中まで走っていった。ぼろぼろの小屋の中に、ぼんやりと青白い光が見える。
「……クソッ!」
──何やってんだ、俺は!
青い一つ目のような模様の描かれた陣の前でようやく我に返ったナワーブは、自分をぶん殴りたい衝動に駆られながら陣の中へと飛び込んでいった。
◆ ◆ ◆
「ナ・ワ・ーブっ?」
ゲートから回り込んで荘園に戻った瞬間、マネキンによく似た人形がナワーブ目掛けて飛び蹴りをする光景が初めに飛び込んできた。
フードの奥にある顔に鉄足の蹴りが見事に決まる。蹴られた彼はそのまま数mほど吹き飛び、ごろごろと赤い絨毯に転がっていった。
「と、トレイシー……?」
「あ、エミリー!さっきは助けてくれてありがとう!」
人形を操作するためのリモコンを両手に持っていた彼女は、エミリーを見て怒りの形相をころりと変えて笑顔になった。
「最後にまた捕まっちゃったけど、エミリーたちは逃げきれたし。ナワーブのバカのせいで一時はどうなることかと思ったけど、勝ててよかったね!」
「え、ええ、そうね。ところでサベダーさんは大丈夫なのかしら?」
「え、へーきへーき。このくらい痛くもかゆくもないでしょ」
「ふざけんな普通に痛ぇよ」
あっけらかんと手を振るトレイシーに文句が飛ぶ。むくりと起き上がったナワーブが、座り込んだまま半眼でこちらを見ていた。
エミリーは彼の具合を診ようと近付くが、足を踏み出したところで制された。
「いい。さっさと行け」
「ナワーブ、君まだ……」
「あんたも怪我してるだろ。先に自分の治療をしろ」
言い募るトレイシーを遮ってそう言った彼に、エミリーはきょとんと目をしばたかせた。リモコンのレバーに握りしめていたトレイシーは、それを聞いてぎょっとこちらを振り向く。
「そうなの?エミリー、大丈夫?そういうことならもう休みなよ」
「え、いえ、でも……」
「ナワーブの手当てなら僕がやっとくからさ」
「お前が?悪化するだけだ──ろっ!?」
「ほら、この子もいるし、ちゃちゃっと終わらせちゃうよ。だからエミリーは自分の手当てして」
たった今ナワーブの後頭部を殴ったその子が、任せろと言わんばかりにカタカタと親指を立てた。本当に大丈夫かしら、と一抹の不安が過ぎる。
「私が見ておくわ。それで少しは安心できない?」
エミリーと共に帰ってきたフィオナが、横からひょこりと顔を覗かせてそう提案した。フィオナを見つめ、もう一度ナワーブを見る。
痛そうに頭をさすっていた彼は、エミリーの視線に気付くと視線を逸らしながらもやはり無視はせずに手を払う仕草をした。行けということらしい。
「そういうことなら……ありがとう。お先に休ませてもらうわね」
眉尻を下げて礼を言うと、トレイシーもフィオナもお大事に、と笑顔で見送ってくれた。彼女らの気遣いに感謝しつつ、エミリーは食堂へ繋がるドアへ向かう。
「なぁ、あんた……」
ドアノブに手をかけた時、呼び止める声がかかった。振り返ると、ナワーブが迷うような眼差しでこちらを見ていた。
何かを言おうと口を開く。だが結局開いたまま何も言わずに閉じられ、彼は諦めたように首を振る。
「いや、いい。行ってくれ」
言うと、彼はのそりと立ち上がってエントランスの二階に上がっていった。それをトレイシーが文句を言いつつ、器用に救急箱を持った人形と共に追いかけていく。後に残ったフィオナがエミリーと顔を見合せて肩を竦め、それじゃあ、と彼らの後についていった。
エミリーも自室に向かうためにドアノブを回して、ふとその手を止めた。指先を唇に持っていき、ちらりと二階を見やる。
しばし逡巡していたエミリーは、意を決したように口元の手を握り、ドアから離れて待機室へと入っていった。
今日はこのゲームで最後だ。ゲームがなければ、この広間は基本的に閑散としている。がらんとした部屋には、すっかり短くなった蝋燭が寂しげに火を揺らしていた。
広間の隅に向かい、脇幕からおそるおそる幕の奥を覗き込む。ハンター側の待機室にある革張りの椅子には、やはり誰も座っていなかった。
幕の袖から手を放してそっと足を踏み入れる。薄暗い室内には、二人用かと思うほどに大きな椅子が二脚、それから自分と同じくらいのサイズの不気味な人形が無造作に転がっていた。何度かここをくぐったことはあるが、毎回まるで自分が小人にでもなったかのような気分になる。
柔らかい絨毯の上を歩き、ハンターの館へと繋がる扉の前に立つ。そろりと手を伸ばした刹那、突然ドアノブが勝手に回り、エミリーはびくりと慌てて飛びずさった。
「そこにいるのは誰ですか?」
幕の袖に隠れようとしていたエミリーは、聞こえてきた声に足を止める。ほっと胸を撫で下ろし、再び扉の傍まで寄る。私ですと答えると、返事の代わりに静かにドアが開いた。
音も立てずに中に入ってきた背の高い男の名を、エミリーは声量を抑えて呼ぶ。
「シャビアンさん」
「気配がしたので、もしやと思いましたが……」
やはりあなたでしたか。呆れたようなため息が落ちる。
「何をしているのです。ハンターの館に踏み入ろうとするなど、サバイバー達に尚更疑いを掛けられるだけでしょう」
「やっぱり、あなたは私が疑われていることを知っていたんですね」
「……薄っすらとですが。確信したのは先程のゲームです」
嘘だ。だったら突然エミリーを避けるわけがない。ここ最近、会いにくるどころか治療にまで来なかったのだ。
あれほど范無咎のことを聞きたがって何かと口実をつけては何の前触れもなく姿を現していた彼が、唐突に交流を絶ったことを疑問に思っていたが、そういうことだったのかと納得した。
一体いつから気付いていたのか。問いたくなった疑問を、けれどエミリーは飲み込んだ。今はそれよりも気になることがある。
「丁度良かった。あなたに聞きたいことが──」
「ええ、私もあなたに言いたいことがあります」
青白い白黒の顔が間近に迫る。突然のことにエミリーは驚き、反射的に後退った。
しかし長い腕がそれを阻むように両肩を掴んだ。細長い指が腕を圧迫し、先程打たれた箇所に鈍い痛みが走る。いつもと正反対な荒々しい手つきに、身体が恐怖を感じて委縮する。
「もう二度と、あのような真似はおやめなさい」
ぞっとするほど冷たい視線が注がれる。その奥に揺らめく感情を、エミリーは痛みに歪めた目で捉えた。
彼が付けている香が強く香る。言い含めるような口調で、彼は淡々と続けた。
「我々はあなた方を殺めてはならない決まりに縛られていますが、加減を誤ることなど充分にあり得るのですよ。現に無咎はそういったことが苦手なのです」
鼻先が掠めるほどの距離で、燭台に照らされた紫の双眸が様々な色を宿す。
怒っている。呆れている。それから──心配、している。
「あれは戦略などではない。ただの自殺行為です。死にたいんですか、あなたは?」
「ご、ごめん、なさい」
真剣にこちらを見返す瞳に、エミリーは素直に謝った。流石に無謀だった自覚はある。それでもあの時は、あれが唯一の勝利の道筋だと思ったのだ。だからフィオナに協力してもらい、通信で捕まっているトレイシーに指示を出しつつ実行した。
誰もいない待機室に、重苦しい沈黙が降りる。穴が空くほど見つめてくる眼差しに無性に顔を背けたくなったが、向けられた思いに対して不誠実なようでできなかった。
心臓に悪い静寂に、やがてため息がひとつ落ちる。
「……背中は、痛みますか?」
「え?ええ……少しだけですが」
先程の冷淡さはなくなり、いつもの声色に戻った。ようやく伏せられた瞳に安堵しながら問いかけに答える。
しかしそれも束の間、何の前触れもなく身体をくるりと反転させられ、エミリーは呆気にとられた。後ろを振り向こうとして、それより早く背中に手のひらが触れてくる感触に更に困惑する。
「え、あの──っ?」
「ああ、やはり赤くなって──」
襟元に指が触れたかと思うと、信じられないことに背中のファスナーを下ろされた。突然の事態に混乱している隙に、冷たい指先が労わるように直に肌をなぞる。傘で何度も叩かれたせいで腫れているだろう背中に、ちりり、とひりつくような痛みが走った。
ぞくりと肌が粟立つ感覚に、かっと顔が熱くなった。
「やめてっ!」
ばっと勢いよく身体を捩り、彼の腕から逃れて幕を上半身に巻き付ける。ぽかんと忙しなくまばたきを繰り返す謝必安を、エミリーは目元を赤らめたまま睨みつけた。
「わ、私は子どもではないのですよ。それともあなたの国では、女性の肌を覗き込むのは普通のことなのですか?」
「い、え……いいえ、違います。すみません、ご無礼を」
自分が何をしたのか、エミリーの言葉で初めて気付いたらしい。はっと目を見開き、人外の男は気まずそうに手で口元を覆った。
「大事がないのならいいのです。それでは」
「あ、待って、まだ聞きたいことが」
視線を泳がせて去っていこうとする謝必安を慌てて引き留める。こちらの用事が済んでいない。どうやら彼もそれなりに動転しているらしいと知る。
目を合わせないまま振り向く謝必安に、エミリーは急いで身なりを整えてから彼に近付いた。
「シャビアンさん、どこか具合が悪いところはありませんか?」
尋ねて、ようやく視線がぶつかった。彼はきょとんと目をしばたかせ、不思議そうにエミリーを見つめる。
「何故です?」
「いえ……何となくそう思って……」
何故と問われると具体的に答えられない。何となく違和感があっただけだ。医者としては抽象的すぎる理由を、今さらながらに恥じる。
言葉に詰まるエミリーに、謝必安はふむと口元に指を添え、気難しそうな表情で首を傾げた。
「先程のゲームが散々だった私たちへの皮肉でしょうか?」
「い、いいえ、そんなつもりでは……」
「ふふ、冗談です。確かに反省点の多いゲームでしたが、体調不良だったわけではありません。それよりも、あなたはご自分の心配をなさい」
眉間に寄せていたしわをぱっとを解いて、謝必安はくすくすと笑う。中性的な印象を持たせる彼の顔は青白く痩せこけてはいるものの、本人の言う通り特に不調をきたしている様子はない。何故そう思ってしまったのだろうと、エミリーは内心で首を傾げる。
「それでは、どうかお大事に。誤解も早く解けるといいですね」
「ええ……」
「それと、本当にもうああいったことはなさらないように。無咎もあのようなゲームは二度と御免だと思います」
「そう、ですね。今思い返してみると、あまりにも浅慮でした」
あの相手が彼らではなく、もっと力加減を知らない、もしくは嗜虐嗜好のあるハンターだったら。そう考えると今更ながらぞっとする。レオやリッパーあたりと当たっていたなら、この程度の怪我では済まなかっただろう。
心から反省していると察したらしい謝必安は、わかればいいのです、と安心したように微笑み、もう今日は休むようにともう一度念を押してから踵を返した。
(……気のせい、だったのかしら?)
去っていく細い背中に、やはりどこか引っかかりを覚えながらも理由を見つけ出せず、エミリーは揺れる白い三つ編みをただ見送るしかなかった。