叙事詩に恋う

第6話 白粉花


──天皇賞(秋)。
URAが主催するGⅠレースの一つであり、中央レースでは唯一、年に二回開催されているタイトルでもある。クラシック五大レースと有馬記念、そして春の天皇賞と合わせて八大競走とも称されるほど、重賞の中でも格式の高いレースだ。
天皇賞はその八大競争のなかでも特に長い歴史をもち、伝統と品格に置いてもトップクラスだと評されている。その評価点の一つとして挙げられるのが、優勝杯がトロフィーではなく"盾"であるということだ。
しかもただの盾ではない。細やかな装飾が彫り込まれた木製の盾は、皇室から直々に下賜(かし)されたものなのだ。
見事天皇賞を優勝したウマ娘だけが、皇室の紋章である菊花御紋が輝く「御紋付楯」を賜ることができる。栄誉ある盾の勲章。天皇賞制覇を夢見てレースの世界に足を踏み入れるウマ娘は、毎年後を絶たない。

しかしそのような神聖で厳粛なレースには、ひとつ、不穏な噂がつき纏っていた。
原因は未だ謎に包まれている。科学的な根拠など何もない。いうなればただの迷信だ。
だが連綿と紡がれてきた天皇賞(秋)の長い歴史が、皮肉なことにそれがただの噂でないことを粛々と物語っていた。
一笑に付すには見逃せない、芝生の上に横たわる奇妙な事実。その不気味極まりない偶然に、いつしか観客たちはこう囁くようになった。

──府中には"魔物"が棲みついている、と。



本日の東京競バ場は、去年の天皇賞(秋)と負けずとも劣らない熱気に包まれていた。
パドックへと順々に登場してくるウマ娘たちを眺めながら、エアグルーヴは人々の喧騒に近い歓声に軽く耳を伏せる。
「すごい人混み……会長さんが出走すると、いつもこんな感じなの?」
「ああ」
「そう……流石会長さんね」
「……お前の時も大概こうだぞ?」
「え?」
そうだったの? と小首を傾げるスズカに、エアグルーヴはため息をこぼす。相変わらずこの友人は、走ることになると周りに目がいかなくなる。だからこそただひたすらに前を駆ける姿に、人々は憧れ惹き付けられて止まないのであろうが。
いや、それよりも。エアグルーヴは気を取り直して友を見遣る。
「スズカ、大丈夫か?」
騒がしさに対しての気遣いではない。スズカは、去年の秋にここで大怪我をしたのだ。
故障により休養を余儀なくされたウマ娘は、誰しもが復帰までに思い悩まされる。特に怪我の原因となったレースとなれば、何も思わないわけがないだろう。
今日のレースを観に行くと告げたとき、自分も行くとスズカが手を挙げたことに少なからず驚いた。同時に一抹の不安もよぎったのだ。
「ええ、平気よ。思ったより、怖いとは感じない……寧ろ、今度こそちゃんと走り切りたいって、思う気持ちの方が強いわ」
しかしスズカはこちらの杞憂を払うかのように、レース場を見つめて穏やかに微笑んだ。
虚勢でないことがその笑みから伺えて、エアグルーヴもようやく張っていた緊張を解く。
「そうか……それを聞いて安心した」
「ふふ、エアグルーヴってば、本当に心配性なんだから」
「スペシャルウィークのお前への献身ぶりには負けるさ」
口の端を上げてそう返せば、スズカは苦笑いをこぼす。怪我をしたばかりの頃の話だ。彼女の同室であるスペシャルウィークの過保護ぶりは、それは凄まじかった。
憧れであるスズカがまた復帰できるよう、一緒に走りたいと強く願うがゆえの彼女の暴走は、彼女自身のレースにまで影響が及んだ。友人らの咤激励によって今でこそ持ち直したが、当時は自分やルドルフもどうにかならないかと気を揉んでいたものだった。

『注目の1番人気、17番シンボリルドルフ──』

刹那、ざわめいていた観衆がわっとひと際大きな歓声を上げた。思わず両手で耳を塞ぐ。
目を眇めながらパドックを見れば、観客に向かって小さく手を振っているルドルフの姿が見えた。
「……会長?」
調子はそれなり、といったところだろう。しかしそれとは別に、奇妙な違和感を覚えた。
その正体を探ろうとじっと凝視していると、ふいにルドルフがこちらに顔を向けた。
ぱちりと目が合う。しかし彼女はまばたきをひとつして、何気ない風を装って視線を外しそのままパドックの裏へと消えていってしまう。
「……エアグルーヴ……」
「……ああ、目を逸らされたな」
「えっと……」
「慰めはいらんぞ。この間も言ったが、ここ最近はずっとあの調子だからな」
エアグルーヴは小さく息をついて肩を竦める。
合宿から戻ってからというもの、どうにもルドルフに距離を置かれている。
視線はまず合わない。合ったとしても今のようにすぐに逸らされる。生徒会の業務でさえ、エアグルーヴと二人にならぬよう調整している節がある。
間違いなく合宿での一件が尾を引いているのだろう。が、まさか避けていた相手に、今度は避けられる羽目になるとは思わなかった。
他の生徒会役員に、そうとは気付かないように采配しているところは流石というべきか。個人的には姑息だと詰りたいところではあるが。無論同様の行為を行っていた己も含めての批判だ。
いや、原因を作ったのはエアグルーヴ自身だ。それはもちろんわかっている。わかっているが。
(こうもあからさまに避けられていると、な……)
──いい加減、その胸倉を掴んでその腹を割ってやろうかという気になってくる。
「いかんな、トレーナーの血の気の多さがうつったか……?」
そこまで考えて我に返り、エアグルーヴは首を振る。つい強硬的な手段が浮かんでしまった。一応いざという時の候補程度に留めておく。

「──なあ、お前はどう思う? 皇帝が”魔物”に食われるかどうか」
ふと、笑い混じりの声音が耳に届いた。聞き慣れないかつ不穏な台詞に、エアグルーヴは柳眉を潜めて視線を滑らせる。
「おいやめろよ、縁起でもないこと言うなって」
「何だよ、競技っつーのはそういうスリルも楽しんでこそだろー? ちなみに俺は食われるに一票だ」
話していたのは二人の男性だった。外見からして大学生くらいだろうか。一方は嫌そうに顔をしかめ、一方は相手のその反応すら愉しむように指を一本立てていた。
今回の天皇賞(秋)は、『打倒皇帝‼』などといった煽りで大々的に宣伝されていた。売り文句に違わず、出走メンバーはマイル・中距離路線を勝ち抜いてきた強者揃いだ。
しかし今日の出走者に、”魔物”という異名を持つウマ娘はいただろうか。
彼等の会話に耳をそばだてながら、エアグルーヴは今日の出走者リストを頭に思い浮かべる。が、やはり”魔物”と称されるような存在は記憶にない。
「あのルドルフだぞ? そう簡単に食われるとは、俺は思わないけどな」
「けどよ、あの噂ってかなりマジモンぽいじゃん。あのサイレンススズカだって──」
「カイチョーが勝つに決まってるよっ!」
どうも話の全容がつかめないと首を傾げたその時、甲高い声音が彼らの話に割って入ってきた。
「テイオー……?」
エアグルーヴは思わず小柄の少女の名を呟く。弾丸のように飛び出してきた彼女は、しかし自分たちには気付かぬまま、目尻を吊り上げて男二人を睨み上げていた。
「カイチョーは強くて速くてスゴいんだぞ! そんなよくわかんない魔物なんかに負けるもんか!」
「な、何だよこのチビ?」
「バッカお前……! トウカイテイオーだよ! 知らないのか⁉」
「そうだぞテイオー様だぞ! さてはキミってばニワカだな? だからカイチョーが負けるだなんて、そんなしょーもないこと言うんだろ!」
「はぁ⁉」
「……何をしているんだ、あいつは」
きゃんきゃんと二人に向かって吠えるテイオーに、思わず半眼になる。観客相手に喧嘩を売ってどうする。
窘めるべく声を掛けようとして、しかしその前に再び人影が飛び出してきた。
「テイオーさん! もう、いきなり一人で先に進まないでください! ……って、これは何事ですの?」
「うお、メジロマックイーンじゃん!」
「あー! なぁぁんでボクは知らなくてマックイーンのことは知ってるんだよぉー!」
「何でって、よくゴールドシップにからまれてる子だろ? ついでに覚えちゃったんだよな」
「なっ⁉ よりにもよって私をゴールドシップさんのおまけ扱いで覚えないでくださいます⁉」
余計に騒がしくなった。エアグルーヴは額を押さえる。メジロマックイーンなら、テイオーを止めてくれるかと期待したのだが。
ため息をひとつつき、腹を括って彼女らの元に向かう。テイオーが絡んでいる男はともかく、巻き込まれているもう一方の観客が哀れだ。
「テイオー、その辺にしておけ。他の観客にも迷惑がかかるだろう」
「あれ、エアグルーヴ?」
「女帝エアグルーヴっ⁉ と……う、うそだろ、サイレンススズカまで……⁉」
「あ? サイレンススズカって、あの沈黙の──」
「だぁぁぁやめろお前これ以上喋んなマジで‼」
友人が彼の頭を掴んで無理やり下げさせる。こちらの空気が冷えたことを察したのだろう。友人は気の毒なほどに真っ青な顔をしていた。
「ホントこいつが色々とすんません! すぐに消えますんでっ!」
そして言葉通り、逃げるようにして去っていく。二人が人混みに消えていくのを待ってから、エアグルーヴは未だ臨戦態勢のテイオーに向き直った。
「テイオー、あの程度のことで観客にいちいち突っかかるな」
「だってあの人! カイチョーが負ける方に賭けるとか言ったんだよ! そんなの聞き逃せるワケないじゃん!」
「言わせておけばいいだろう、ただの雑談だぞ」
「言わせておくのもイヤだったんだよぉー!」
叫びながら彼女は腕を大きく振って猛抗議する。これは叱った方が早いだろうか。
額に手を当てて悩んでいると、テイオーは急に耳を垂らして俯いてしまった。
「カイチョーは強いんだ……だから、絶対負けるワケないんだもん……」
「テイオー……?」
どうも様子がおかしい。ここに来る前に、何かあったのだろうか。
テイオーから視線を外し、マックイーンに無言で問いかける。すると彼女は戸惑ったように目を泳がせた。心当たりはあるらしい。
マックイーンはちらりとスズカを一瞥し、おずおずと口を開く。
「その、実は……──」
「何だ。騒がしいと思ったら君たちか」
「おい、姉貴……」
聞き慣れた声音が聞こえたと同時に、周囲にどよめきが走った。四人は意図せず揃って振り返る。
そこには、観客の視線を背に、白と黒の対照的な二人の姉妹が佇んでいた。
「ビワハヤヒデ先輩……?」
「ブライアン……お前も来ていたのか」
「……姉貴に連れてこられたんだ」
「ほう? 今日は随分と素直について来たものだから、てっきり最初から来るつもりだったのかと思ったのだがな」
ビワハヤヒデがからかい混じりに指摘すると、ブライアンは顔をしかめてチッと舌を打った。否定しないあたり図星なのだろう。
「おい……あそこにいる子たちって……」
「え、うそ……!」
ざわめきと共に視線が自分たちに集中する。この顔ぶれが揃えば目立つのも当然だろう。
こんなつもりはなかったのだが。どうこの場をおさめるべきかとエアグルーヴが思案していると、ビワハヤヒデが先に動いた。
「皆さん、今日の我々は貴方がたと同じく、レースを観に来た側の者です。今後の糧とするためにも、どうか観戦に集中させていただければと思います」
観客の注目を集めるように前に出て、周囲を見回しながら語る彼女の真摯な態度に、観客たちも納得してくれたらしい。各々頷き、そのままコースへを顔を戻した。
「ハヤヒデ先輩、ありがとうございます」
「何、これも年長者としての務めさ。ところで、君たちはどうして騒ぎの中心に? 私たちは少し離れた場所にいたのだが、そこからでもテイオー君の声がよく聞こえてきたぞ」
「実は私とスズカも、その辺の理由がわかっておらず……今から事情を聞こうと思っていたところです」
小さく首を振ってから、エアグルーヴはテイオーとマックイーンを見た。気遣わしげな表情を浮かべるマックイーンの傍で、テイオーは相変わらずむっすりとした顔をして俯いていた。
「……テイオー。お前、あの時の併走を見ていたんだろ?」
彼女に最初に声を掛けたのは、意外にもブライアンだった。
ため息まじりの言葉に、テイオーはぴくりと耳を揺らす。数秒の沈黙のあと、彼女はこくりと頷いた。
「何か知っているのか?」
驚いてエアグルーヴが問えば、ブライアンはふんと鼻を鳴らして腕を組んだ。
「知ってるというか……アイツとこの前、併走したんだ」
「会長と?」
「ああ……だがまったく覇気のない、らしくない走りをしやがってな。おかげでこっちは不完全燃焼だ」
「何だと……?」
「ホントだよ。ボクも見てたから」
訝しげに眉を潜めていると、それまで黙っていたテイオーがようやく口を開いた。
「あの時のカイチョー、本当にヘンな走り方してて……いつもなら絶対仕掛けてくるはずのタイミングで仕掛けないし、途中で何度もフォームが崩れそうになるし……たまたま調子が悪かっただけだって、そう思いたいのに。秋天の話を聞いてから、ずっと頭の中でぐるぐるしちゃって……だから……」
「そういうことか……ならば、テイオー君があの噂を気にして激怒してしまうのも、仕方がないとも言える」
泣きそうな顔でぽつぽつと打ち明けられた話に、納得したように頷いたのはビワハヤヒデだった。エアグルーヴは彼女に視線を向け、再び尋ねる。
「ハヤヒデ先輩。先ほどの彼らも言っていましたが、噂とは何なのですか?」
「さっきの人たちは、私の名前を出していましたが……それと何か、関係があるんですか?」
「……そうか。君たちは知らないのだな」
呟き、ビワハヤヒデは目を伏せるが、すぐに意を決したように自分たちを見つめた。目元だけ見ればよく似た姉妹だと、稲穂色の瞳に見据えられながら思う。
「君たちは、秋の天皇賞の歴代の戦績結果を知っているかな? ……正確には、1番人気に選ばれたウマ娘が、どのような結末に至ったのか」
「1番人気、ですか……?」
彼女の問いかけに、エアグルーヴは顎に指先を添える。ここ数年程の戦績を記憶から手繰り寄せ、当時の注目を浴びていたウマ娘をひとりひとり浮かべていき──ぞっと背筋が凍りついた。
エアグルーヴは親友を、そしてブライアンとビワハヤヒデを見る。
彼女たちは皆、天皇賞(秋)に出走した者たちだ。ともに1番人気に選ばれ……そして、1着を獲ることが、叶わなかった。
「……その反応を見るに、エアグルーヴ君は気付いたようだな。嫌な偶然だろう? 私はオカルトじみた話を信じるタチではないのだが……噂が立つのも、わからなくもない」
肩を竦めて苦笑するビワハヤヒデを、エアグルーヴは複雑な表情で見つめる。
彼女は天皇賞(秋)に出走するまで、必ず2着以内に入っていた実力者であった。しかしこのレースで初めて5着に落ち、さらには左足に屈腱炎を発症して引退かという騒ぎまで起きたのだ。
続く妹のブライアンも、春に右股関節炎を発症して以降不調が続き、1番人気に推されつつも結果は12着の惨敗に終わった。
そして、去年。
自分と共に、天皇賞(秋)を走っていたスズカは──。
「”葦毛の怪物”と称されるオグリ先輩でさえ、秋の天皇賞は一着を逃している。……そういった経緯があるがゆえに、ファンの間ではまことしやかに囁かれているのだよ」
一旦言葉を切った彼女は、眼鏡のテンプルを持ち上げて東京競馬場のコースを睨むように見た。
「──『府中には"魔物"が棲んでいる』、とね。その魔物は、ファンの期待を最も背負うウマ娘を妬み、呪いをかけるのだと……」
エアグルーヴは弾かれたように大スクリーンに視線を向ける。
ゲートインが完了したルドルフの顔は、スターティングゲートに隠されて見ることができなった。


◆  ◆  ◆


彼女に失礼な態度を取ってしまった。
見て見ぬふりをしてしまったことを今更ながらに悔い、ルドルフは瞼を閉じる。パドックで耳が垂れた瞬間を、観客に見られていないことを祈る。
聡明な右腕のことだ。おそらく自分が敢えて目を逸らしたことには気付いているだろう。
否、今日だけではない。あの併走以降、エアグルーヴには迷惑ばかりかけてしまっている。
(折角、調子を取り戻してくれたというのに……)
言い訳をしていいのなら、彼女が見に来てくれるとは、正直思っていなかったのだ。ゆえに驚いてしまった。自分を恐れているのなら、その走りを見るのも嫌だろうと……そう思っていたから。
(それとも、あのレースで恐怖すら乗り越えたのだろうか……いや、それこそ私に都合が良すぎる解釈だな)
夏合宿の最終週。画面を通して見た光景が、瞼の裏によぎる。
彼女が不調であったことは気付いていた。宝塚記念のレースを、ルドルフも見ていたから。
けれど、札幌記念のあの日。彼女はこれまでと同じ、いいやそれ以上の走りでレースを圧倒してみせた。力強くも美しい、彼女らしいレースをみせてくれた。
(鎧袖一触(がいしゅういっしょく)、万邦無比 (ばんぽうむひ)、彼女はこれから、さらに強く咲き誇るだろう)
復調したこと自体は非常に喜ばしいことだ。本来なら自分も彼女の元へ赴き、賛辞と安堵の言葉を惜しみなく掛けていたことだろう。
しかし、実際はどうだ。今に至るまで、まともに顔も合わせていない。
不調の原因を作ったのがルドルフだという負い目が、エアグルーヴとの距離感を覚束なくさせてしまった。
君の調子が戻って良かったと、それすらも口にすることもできずに。
「……皇帝の名が、聞いて呆れるな」
内心で自嘲し、ルドルフはゆっくりと空を見上げた。
秋晴れの涼しい風が頬を撫でる。実に良い天気だ。芝の状態も良い。走れば痛快無比なことこの上ないだろう。
そう、思いはするのだが。
「ルドルフ選手」
ふいに名を呼ばれ、はっと我に返る。首を巡らせれば、緑色ジャンパーを身に付けた人物が困ったような顔をして自分を見ていた。
「その、そろそろゲートインの方をよろしいですか……?」
おそるおそるといった体で促してくるスタッフに、ルドルフは苦笑いを浮かべる。
「ああ、申し訳ありません。すぐに入ります」
頭を下げると、スタッフはほっとした様子で表情を緩めた。ルドルフは重々しい鉄製の仕切りの中へと入り、静かにスタートの合図を待つ。
『ゲートイン完了。出走の準備が整いました』
己の不甲斐なさに落ち込んでいようと、今の自分は“皇帝”だ。その異名の通りに王道を駆け上がり、ターフの上で絶対の力を見せてきた、絶対の王者なのだ。
王の勝利を願って投票してくれたくれた者たちがいる。応援しているウマ娘が皇帝を打ち勝つ瞬間を待ちわびる者たちも、また。
そしてその誰しもが、己に圧倒的な強さを期待しているのだ。
応えなくてはいけない。それが七つの冠を戴き、この玉座を奪って見せろと示した己の使命であるのだ。

『ゲートが開きました! 各ウマ娘、一斉にスタートです』

ガシャン、と大きな開閉音と共に前方が開き、ルドルフは飛び出す。後ろから聞こえる歓声に背を押され、青々とした芝生に地響きのようなけたたましい足音が響いた。
(少々出遅れたか……だが、この程度であれば持ち直しは可能だ)
東京競馬場、芝2000m。このコースにおいて、大外枠の17番は特に不利な枠番だ。
スタート後の直線が短く、すぐに第二コーナーに入ってしまう。そのようなコースゆえに、大外からのスタートだと余分にスタミナを消費する羽目になるのだ。
ルドルフは出走者全員をさっと一瞥し、それから全体に視野を広げる。
(間違っても斜行を取られぬように……となると、あのルートか)
ふっと息を詰め、彼女たちの間を縫うようにして細い通路を通っていく。後々の戦況に響く前に、好位置を取っておかなければ。

『さあ第二コーナーのカーブから向こう正面の直線。シンボリルドルフ、後方から6番手の位置につきました』

よし、とルドルフは呼吸を戻す。目当ての位置にはつけた。あとは現状を維持しつつ、好機を待つのみ。
息を入れながらそう思案し、いや、と目を細くする。
(彼女たちは私と真っ向から勝負するつもりで、このレースに挑んできた。であれば、”皇帝”を討つために、万々先々の試行錯誤を重ねてきたはず)
記者会見時、彼女らは目指すは打倒皇帝だと堂々と宣言していた。それが誇張でも虚勢でもなく、本心からの言葉であるならば。普段の戦法で行けば、相手の策に嵌められるのは自分の方だ。
(なればこそ、仕掛けるなら──!)
──今。ルドルフはもう一度ぐっと膝を曲げる。
体勢を軽く前傾姿勢に変え、ためた脚をバネのように伸ばして地を蹴った。

『おおっと! シンボリルドルフ、ここで前に上がってきた!』
『普段より速いペースですね。最終コーナーから差し切る彼女にしては珍しいように思います』

歓声とどよめきに耳朶が震える。周囲のウマ娘たちの息を呑んだ音がよく聴こえてきた。悔しげに唸り、焦る声も。
逃げていたウマ娘を追うようにして、そのままペースを維持していく。ひとまず奇襲は成功したようだ。
しかし、とルドルフはちらと後方の様子を窺う。
一人、いや二人か。乱れた足音のなかで、冷静な脚運びをしている者がいる。
流石はここまで登りつめて来た猛者たちだ。胸に湧いた高揚を、しかし唇を引き結んで打ち消す。
気を抜いてはいけない。レースにおいて当然の心得だが、今のルドルフには別の意味を伴っていた。
ここから、とルドルフは胸の内で呟く。
(ここからだ。残り400m、その先から……)
芝2000m。右と左の違いはあれど、何という偶然か。

『大ケヤキを越え、四コーナーへ。先頭は見合ったまま! これは直線勝負になるか⁉』

直線の向こうにあるゴール板を見据え、ルドルフは一気に飛び出す。
あの時は、こうなるとは思いもしなかった。当然彼女とて予想だにしていなかっただろう。

『さあ、ここでシンボリルドルフが外をついてぐんぐんと上がってくる! ルドルフ、ついに先頭に出た!』

このまま安全圏まで駆け抜ける。腕を大きく振り、さらに脚に力を込めた、その時。
「くっ……!」
──やはりこうなるか。突如として前方に現れた人影に、ルドルフは口元を歪ませた。
視線を上げた先で、黒みがかった鹿毛の尻尾がたなびく。同色の髪の上では金の細い装飾と黄色いリボンがしゃらりと揺れ、この場にそぐわない赤いジャージが鮮明に目を焼いた。
(エアグルーヴ……!)
あの時併走を頼んできた彼女が、今、ルドルフの目の前を走っていた。
わかっている。これは幻だ。しかし、それでも。

『これはどうしたことでしょう⁉ シンボリルドルフ、脚が伸びてこない!』
『序盤のペースアップで、スタミナ切れを起こしたのでしょうか? これはどうなるかわからなくなってきましたね……!』

エアグルーヴが不調から回復した。札幌記念を見たあの時、ルドルフは心の底から安堵し、そして心から喜んだ。
ああ、よかった。彼女は問題なく走れている。立ち直ってくれて本当に良かったと──胸を撫で下ろした次の瞬間に、思ったのだ。
もし自分が、再び彼女と走ったら……その時はどうなるのだろう?
今回の復調に、ルドルフは関わっていない。つまり立ち直るまでに至った経緯を知らないのだ。
彼女が立ち直ってくれたことは幸運だった。本心からそう思っている。
ゆえに、恐ろしい。

『おおーっと⁉ ここでさらに外からウマ娘が追い込んできた! 5番、5番の彼女ですっ!』

横から強い風と振り絞るような叫びが耳を震わせる。猛烈な勢いで誰かが迫ってきているのが後ろを見なくてもよくわかった。
このままでは差される。未だ前方にはエアグルーヴの幻が立ち塞がっている。
更に速度を上げなければ。しかし。
──今度こそ己の脚が、彼女を踏み砕いてしまったら?
心臓がぎしぎしと軋む。──もう怖がらせたくなどない。脚がやけに重たい。──折角立ち直った彼女を。目の前の景色が彼女以外霞む。──次も大丈夫だという保証など、どこにもないというのに。
怯えさせたくない。壊したくなどない。それでも、この脚は。
その可能性が少しでもあるのなら、あると知ってしまったから。
(エアグルーヴを失ってしまえば、私は、また……──っ!)
意図せずよぎったその思考に、ルドルフは大きく目を見開く。
その瞬間、外から強い風が髪を乱して通り抜けていった。


◆  ◆  ◆


『5番、ゴール手前で差し切ってゴォーール‼ 何という大仕事を彼女はやってのけたのでしょう! 天皇賞(秋)の勝者は、“皇帝"でも"マイルの皇帝"でもなかった! これは大番狂わせです!』

「カイチョー……そんな、何で……」
マジかよ。あの皇帝が。やっぱりあの噂って。
動揺のざわめく声が観客席に広がる。否応なしに入ってくる声を耳で払いながら、エアグルーヴは食い入るようにルドルフを見つめていた。
何だ、今のレースは。あのような走り、まったくあの方らしくない。
(……いや、途中まではいつも通りだった。緻密に計算されたコース取り、周囲の思惑を読んだうえで仕掛けた奇襲……だが、最終コーナー後にいきなり……)
まるで不可視の壁に阻まれているかのように、崩れた。

『いや~、まさにあっと驚くような衝撃の展開でしたね。まさか皇帝が後ろから差し切られるとは、正直私は思いもしませんでした』
『ラスト400mを切ったあたりですかね。あの辺りで苦しそうに走っていたので、やはりスタミナ切れを起こした可能性が高そうです。しかしそれでも2着に入ったのは、流石皇帝といった……──』

いいや、それは違う。この距離でルドルフがスタミナ切れを起こすはずがない。普段より速かったとはいえ、それとて暴走と呼べるようなハイペースな走り方ではなかった。
「一体何が……」
軽く流していたルドルフがようやく足を止める。肩で息をする彼女は、呆然とした様子で目を見開いていた。
その様子に、エアグルーヴは眉を潜める。やはりどこかおかしい。
やがて彼女は軽く首を振って、いつものように泰然とした表情に戻った。観客の誰かが、流石は負けても皇帝だと皮肉交じりに感嘆する。しかしエアグルーヴには、その姿が必死に取り繕っているようにしか見えなかった。
見事一着をとったウマ娘に歩み寄り、恐縮する相手と彼女は笑顔で手を差し出した。握手をして言葉を軽くかわしたかと思うと、ルドルフは静かに地下バ道へと消えていった。
「会長……っ!」
居ても立ってもいられず、エアグルーヴは人混みをかきわけるようにして駆け出した。
「エアグルーヴ⁉ ま、待って、ボクも一緒に──ぎぇっ⁉」
「テイオーさん⁉」
「お前はここにいろ」
エアグルーヴの後を追おうしたテイオーは、しかしブライアンに首根っこを掴まれて止められる。
「離してよブライアン! エアグルーヴ、カイチョーのとこに行くんでしょ! ボクも行くんだ!」
「だからだ。やめておけ」
「私もブライアンと同意見だ、テイオー君。心配なのはわかるが、君は行かない方がいい」
「な、何でさ?」
「君が会長に憧れているからだ」
ビワハヤヒデの答えに、テイオーはむっと眉間にしわを寄せる。それがどうしてルドルフに会っていけない理由になるのだろうか。
納得がいかない。それに、それを言うなら。
「そんなのエアグルーヴだってそうじゃん! エアグルーヴはよくてボクはダメなんてワケわかんないよ!」
吠えるように反論すると、ブライアンが仏頂面のまま顔をしかめた。
「面倒なとこをついてくるな……」
妙なところで鋭い。血は繋がっていないはずだが、こういうところはルドルフにそっくりだ。
「ブライアン、そうなのか?」
「いや、女帝殿は少し違う」
小声で尋ねてきたビワハヤヒデに、ブライアンも囁き声で否定する。次いでちらりと視線を投げた。
──何とか誤魔化してくれ。
妹の意図を悟ったビワハヤヒデは、ぱちりと目をしばたかせたあと、落ち着き払った様子で眼鏡に触れる。
「ふむ……スズカ君、君の意見はどうかな?」
水を向けられ、スズカはやや顎を引いて考え込んだ。少しの間を置いてから、彼女は顔を上げる。
「私は……二人の意見に賛成です」
「スズカまで⁉」
「エアグルーヴも、確かに会長さんに憧れているけれど……テイオーとはちょっと違う気がするわ。同志として尊敬してるって、前に言っていたから」
それに、とスズカはテイオーを真っ直ぐに見つめる。穏やかな眼差しは、どこか別の景色を見ているかのように澄んでいた。
「私もね、すぐ傍にスペちゃんがいるから、少しわかるの。自分を憧れだって言ってくれる子に、カッコ悪いところは見せたくないなって」
何かを思い返すように胸に手を当て目を閉じ、ゆっくりと開いてからスズカは微笑む。
「きっと会長さんも、同じだと思うわ。テイオーには、いつでもカッコいい自分でいたいんじゃないかしら」
「カイチョーも……」
「……テイオーさん、ここは皆さんの意見を聞き入れましょう」
それまで事のやり取りを見守っていたマックイーンも、毅然とした態度でテイオーを見つめた。
「マックイーン……」
「ルドルフ会長は、一度の敗北で折れてしまうような方ではありませんでしょう? でしたら大丈夫です。次にお会いするときには、いつもの会長に戻っているはずですわ」
「……うん」
後押しするように促せば、テイオーは渋々とながらも頷いた。それを見て、マックイーンたちはそれぞれ胸を撫でおろす。
「あー! でもまだモヤモヤするー! マックイーン、帰りに駅前のカフェに寄ろうよ! ボクあそこのパンケーキが食べたい! にんじんクリームたっぷりのやつ!」
「なっ、あ、あなた、私がその……制限中だと知っているでしょう……! 絶対行きません! 断固拒否ですわ!」
「いいじゃん。マックイーンは食べなければいいんだから」
「無理に決まっているから行きたくないんじゃありませんのっ!」
「え~ボクのストレス解消に付き合ってよー! スズカも一緒に!」
「えっ、わ、私も⁉」

「……何だ?」
子犬のようにじゃれ合っている三人を何となしに眺めていると、横から視線を感じた。
じろりと睨み上げた先で、昔を思い出すような笑みを浮かべて姉が自分を見下ろしていた。
「いや、お前が生徒会に馴染んでいるようで、何よりだと思ってな」
安心したよ、と嬉しそうに微笑む姉に、ブライアンは口をへの字に曲げる。
「別に、後々厄介ごとに巻き込まれるのが嫌なだけだ」
「ふふ、そうか」
これ以上笑われるのも癪で、話は終わりだとばかりにそっぽを向く。逸らした視線の先には、偶然にもウイナーズサークルがあった。
眉を寄せ、舌打ちをする。そこにルドルフの姿がないことに、自分でも意外なほど違和感を覚えた。
「……ひとつ貸しだぞ」
どっちもな。ルドルフが去った地下バ道の入り口を見つめ、ブライアンは秋の風に紛れるような声でぼそりと呟いた。





補足「府中の魔物」について:1987年からの12年の間でファンによって名付けられた迷信ですが、2000年代に入ってからはそうでもなくなり、今では本当にただの迷信になりつつあるようです。

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