叙事詩に恋う

第5話 麝香撫子


──私の理想は、母と、母が駆け抜けてきた花道そのものだ。

物心が付いた頃に、競技者としての母を知った。
映像越しであろうとなお色鮮やかに映る、ターフを駆ける美しい姿。激戦の末にオークスを制したあの日。新たな"樫の女王"が誕生した、あの瞬間。
心が震えるとはこういうことなのだと、幼心に思った。感動すらあとになってやってくるほどに、強烈な羨望が胸を貫いた。
その日から、大好きだった母は、目指すべき指針にもなった。

私は夢見た。自分もいつか、母のようにターフを駆けることを。
私は決意した。母と同じく、後進らが追い求める理想に自らがなることを。
私は誓った。輝かしく咲き誇る未来を体現するために、かつての母以上に己を磨き上げてみせると。

母のように走りたい。母のように生きたい。母に追いつきたい。母を超えたい。
その、全てを叶えるために。

私は名門と名高い、この学園の門戸を叩いたのだ。



「あ~美味しい! ご飯もデザートも絶品だわ~」
「はい。ビーフシチューもこちらのジェラートも、お母様が絶賛するのも納得の味でした」
空港をあとにし、半ば連行される形で母に連れてこられたのは、近隣に牧場があるこぢんまりとしたカフェだった。
自営店なのだろう。チェーン店特有の騒がしさや雑然とした雰囲気はなく、経営者の穏やかな気質が垣間見えるような物静かな店であった。
母はそこそこ通っているようで、店に入るや否や店主であろう老夫婦が笑顔で出迎えてくれた。特にご婦人の方とは随分と親しい様子で、席に案内されてからしばらく、二人は世間話に花を咲かせていた。
「ここね、隣の牧場と一緒に家族経営してるの。そこでお土産も売ってるから、あとで行きましょ。友達に牧場の牛乳買っていきたいって、あんたこないだ言ってたんでしょ?」
「ええ、まあ……」
満面の笑みでんじんジェラートをつつく母に、エアグルーヴは引き攣り気味に微笑んだ。そんなことまで話したのか、あのたわけは。
思わずつきそうになったため息を、すくったジェラートで喉の奥へと押し返す。人参の風味とミルクの優しい甘さが口の中に広がり、実際少しばかり溜飲が下がった。
冷たい生クリームを食べているような濃厚さだ。僅かに口元を綻ばせていると、吐息混じりの笑声が耳に届いた。
「どう? 少しは緊張も解れた?」
「お母様……ご心配をおかけしてすみません」
「謝らない! 娘の心配するのは、親の趣味みたいなものなんだから」
趣味。唇を尖らせて言ったその表現に、思わず苦笑いがこぼれる。同時にあたたかな安堵が胸に満ちていくのを感じた。
母はいつも、当たり前のように自分を気にかけてくれる。無条件に与えてくれる愛情が、どれほどありがたいことか。
寮で暮らし始めてからはより一層実感してしまう。じんわりと広がる心地良さに、自然と肩の力が抜けていく。
と、ふと脳裏によぎった横顔に、エアグルーヴは無意識に唇を引き結んだ。
(会長は、どうなのだろうな……)
ルドルフはこのような愛情を、親から注がれたことがあるのだろうか。
両親は共に、厳格な方だと言っていた。ルドルフはそんな二人を尊敬し、期待と厳しさをもって己を育ててくれたことを感謝していると。
その言葉に嘘はないのだろう。言葉は決して多くなかったが、両親について語る彼女は、誇らしげであったから。
だが、おそらくそれだけではない。少なくともエアグルーヴはそう思っている。
理由は至って些細で、しかし一度気付いてしまえば見逃せない機微だ。
エアグルーヴは時折、母のことを話題に出す。エアグルーヴ自身から話すこともあれば、ルドルフから促されることもあった。
その際、ルドルフはいつも楽しそうに、微笑ましげに耳を傾けてくれる。
しかしその時、彼女はほんの僅かに瞳を揺らすのだ。
見た者を意図せず射竦めてしまうほど、常に強いきらめきを放つあのマゼンダが。
どこか寂しそうに、羨ましげに。

「エアグルーヴ、どうかした?」
「……っ! あ、いえ……何でもありません」
母に呼び掛けられ、エアグルーヴははっと我に返った。慌てて顔を上げると、心配そうな母の顔がそこにあった。
「……やっぱり、宝塚記念から調子が戻ってないみたいね」
「──、そ、れは……」
「あんたって昔っから嘘つけない子だもの。『はい』って返事が来ない時点でわかったわよ。というか顔見た時からわかってたけど」
肩を竦めてそう指摘してくる母に、エアグルーヴは身を縮める。ぐうの音も出ないとはこのことだ。
「一体何に悩んでるの? お母さんに言ってみなさい。そのために貸し切りにしてもらったんだから」
「かっ……⁉」
驚きのあまり母を凝視すれば、彼女はなんてことはないように微笑むだけだった。
ああ、だから客が自分と母しかいなかったのか。これほど味の良い料理で、何故人気がないのだろうと口惜しく思っていたが。
店主と親しいとはいえ、何と思い切ったことを。いいや、それよりも。
(そうまでして、お母様は……トレーナーも……)
ぐ、とテーブルに乗せた手のひらを無意識に握りしめる。
情けない。超えてみせると宣言した母親に、ついてこいと先導してきた相手に、これほどまでに心配されるほど、不甲斐ない姿を見せていたとは。
しかし、とエアグルーヴは息をついて目を閉じる。
そう悔しさが募る半面、ひどく安堵している自分もいた。スズカと浜辺で話した時、もし話せるとしたら……と。思い浮かべたのは、まさしく母の姿であったのだから。
息を吸い、ゆっくりと瞼を上げる。本当は、望んでいたのかもしれない。この現状を、とにかく吐き出せる機会を。
意を決して、エアグルーヴは口を開く。
「……好きな、ひとが、できたんです」
呟いて、すとんと胸に落ちる感覚をさめざめと実感する。やはり好きなのだ。どうしようもなく。
「あら、いいことじゃない! ……なのに、何でそんな顔してるのかしら?」
「その……してはいけない相手、というか……」
「……え、あんたまさか妻帯者──」
「ち、違います! それだけは断じて!」
濁したせいでとんでもなく不名誉な語弊が生じてしまった。エアグルーヴは大慌てで弁解する。
「あはは! 冗談よ冗談!」
しかし最初から違うとわかっていたらしい。けらけらと笑う母に、思わず脱力する。不義を行う娘ではないと思われていることはありがたいが、からかわれたせいで素直に喜べない。
「ん~、事情はよくわからないけど……とりあえずお試しで付き合ってみちゃえば?」
「お、お母様……」
そして勧められた案がこれである。軽い。あまりにも軽い。
いや待て、母のことだ。己が至らぬだけで、もしかしたら何か深い意味があるのかもしれない。かもしれないが。
「……折角の助言ですが、それはいたしかねます」
「えー、どうして?」
「さっきも申し上げましたが、してはいけない相手で──」
「それって誰が決めたの?」
「え?」
こちらの言葉を遮るように尋ねられ、エアグルーヴは目をしばたかせた。組んだ両手に顎を乗せた母は、ただ真っ直ぐにこちらを見つめている。
「それがいけないことだって、誰が決めたのかしら?」
「それは……いえ……」
「ならいいじゃないの」
「いえ、ですが!」
思わず身を乗り出せばがたっとテーブルが揺れた。エアグルーヴは慌てて身を引く。
視界の端に映ったジェラートは、もう半分以上が溶けかけていた。いつもなら勿体ないと急いで食べきってしまうところだが、今は気にしている余裕もない。
「ですが……私は……」
あの方に懸想して、それが罪になる事実はない。それはその通りだ。
だが、違う。それとは別の理由がある。あるからこそ、母の言葉を受け入れることはできなかった。
何故なら、自分は。いいや、自分が。
「私は、お母様のようになりたくて、この世界に足を踏み入れたのです……!」
誰に言われたわけでもない。エアグルーヴ自身が、決めたのだ。
「いつかあなたを超え、あなたと同じく、誰かの理想となり得る存在になってみせる。その一心で、己を磨き上げてきました」
エアグルーヴにとっての理想は、母だ。幼い頃にターフを鮮やかに走る母に、一瞬にして魅せられた。女王として多くの者を魅了する姿に強く、強く憧れた。
自分も母のようになりたい。母のような道を駆け抜けたい。
夢そのものなのだ。母の生き様は。幼い頃からそうなりたいと、ずっと目指してきた指針なのだ。
「あなたのように強く、あなたのように美しく、あなたのように気高く……皆の憧れとなり、そして彼女らを導いていけるような、希望となれるような存在に。これから先も……そして、」
いつかは、と言おうとして、しかし意思に反して声が出なかった。驚きにまばたきを繰り返す。
「いつかは……っ」
もう一度試みるが、その先が何故か続けられない。
エアグルーヴは唇を噛む。おかしい。以前なら躊躇いもせずに、宣言できたというのに。

いつの頃からか、頭に響く声がある。
母のようになりたい、母を超えたい。そう決意したあの日か、それともこの名を自覚した時だったか。
母は言っていた。お母さんにもよくわからないと。ただその声は、誰かの大切な想いな気がすると。
──果たした夢、果たせなかった夢も全て、次代へと繋いでいきたい。
魂に訴えかけられるような、魂から響くような、そんな叫びが。

やがては自分も、レースを引退する日がやって来るだろう。そして競技者としての人生を終えたあと。
いつかは、と思っていた。母が目一杯の愛情を注いで、己を慈しんでくれたように、いつかは自分も……と。
幼い頃から、ずっと。だからこそ。

この恋心は、消してしまわなければならないのだ。

「……私は、これを芽吹かせるわけにはいかないのです」
結局続きを口にすることができず、エアグルーヴは仕方なしに結論を述べた。
そうだ。はじめてしまうなど言語道断。芽吹いてしまったのが何かの間違いなのだ。
これ以上成長する前にその根ごと、跡形もなく燃やしてしまわなければ。
理想のために。一刻も早く。
「……お母さんね、あんたがそうするって決めたことは、いつだって応援する気でいるんだけど……」
店内に、母の言葉が静かに響く。躊躇いがちに視線を向ければ、珍しく困ったような顔をして母は微笑んでいた。
「そんな涙いっぱい溜めて我慢してる娘の背中は、流石に押せないわよ」
「え──」
つ、と頬に何かが伝った。思わず指先で触れれば、濡れた感触が伝わってきた。
「あ……っ、」
泣いている。そう自覚した途端、堰を切ったように涙が溢れ出した。
エアグルーヴは慌てて目元を拭う。何だ、これは。早く止まれと拭えば拭うほど、しかしそれ以上に涙がこぼれ落ちてくる。一体どうしたというのだ。
「……ねえ、エアグルーヴ。あんた、自分が何で泣いてるのかわかる?」
エアグルーヴは少し考え、無言で首を横に振る。わからない。泣くつもりなどなかったのだから。
素直に答えれば、向かいから呆れまじりの、けれど優しいため息が耳朶を震わせた。
「心が拒否してんのよ。自分が言ったことに、耐え切れなくて泣いちゃうくらい」
「自分、の……」
「もう一度よく考えてみなさい。あんた"は"どうしたいのか。あんた自身の気持ちは、本当はどうなのか」
言いながら、伸びてきた手に頭を撫でられる。その感触が懐かしくて、ひどく安心して、なおさら涙が止まらなくなった。
母はいつも、明確な答えは示さない。まずは自分で考えろ、考えが及ばなければ確かめてこいと。
相変わらず優しく、そして厳しい。幼い頃から知っている。だからこそ憧れたのだ。
その母が言うのだからと、エアグルーヴは思考を深く沈めた。目を伏せた際、目尻からまた涙が伝う感触がした。
脳裏にルドルフの姿が浮かぶ。真っ先に思い出されるのは、つい先日の、痛みを孕んだ寂しそうな笑みだった。

──あらゆるウマ娘が幸福に過ごせる、理想の世界を創る。
いつだって前を見据え、果ての見えない理想を目指して突き進んでいく。その姿に、母と同様に羨望の念を抱いた。
その志を体現するかのように分け隔てなく手を差し伸べる姿に好感を、度が過ぎれば心配と呆れを。
何もかもを際限なく抱え込もうとする彼女を憂い、時には激怒したこともあった。
──何故幸福の世に、あなた自身を含めないのか。
ずっと、ずっと、ルドルフの理想に感銘を受けながら、エアグルーヴはそれが不満で仕方なかった。
きっとあなたは皆の幸せこそが己の幸せだと、なんの迷いもなく言うのだろう。それが心からの本心なのだということも理解している。
そんなことはわかっている。けれどエアグルーヴが聞きたい答えは、そうではないのだ。
あなたはどうなのだ。あなただけの幸福は、どこにあるのだと。
──あなた自身が幸せを掴み取ることを、我々は……私は、願ってやまないというのに。
「わたしは……」
屋上から写真をばらまいたように、様々なルドルフの姿が瞼の裏に散らばっていく。
生徒会室のドアを叩き、初めて言葉を交えた日。理想を語り合い、差し伸べられた手を取った時の、力強い笑み。
壇上に立って演説を行う威風堂々とした横顔。肌を刺すような威圧感を放ってレースを走る、皇帝の雄姿。閃いたダジャレを披露する際の自信に満ちた表情。
黙々と書類作業に没頭する真剣な顔つきも、やりすぎだと叱れば耳を垂らして苦笑する、少し情けない表情も。
そして。ひらひらと落ちてきた一枚を、エアグルーヴは空中で捕まえる。
年相応の少女らしく、無邪気に微笑むルドルフがそこにいた。時折見せてくれるようになったその一枚を、強く胸に抱きしめる。
幸せになってほしい。誰よりも。そのために力を尽くすこともいとわない。──そう願うのであれば、尚のこと。
自分は彼女を、諦めなければ。

──……嫌だ。
「……っ!」
ぽとり、とひとつ。どこからともなく落ちてきたその言葉が、胸の奥で大きく波打った。
強い感情を伴って次々と降ってくるそれに、エアグルーヴは愕然と目を見開いた。
嫌だ。嫌だ。
波紋が広がる。波はどんどん高さを増して飛沫を上げる。
──嫌だ。あの方を諦めるなど。自分では幸せにできないなどと。
わんわんと喚く声がさらに呼び水となって、収まりかけていた涙が溢れ出す。ぼろぼろと雫を落として、エアグルーヴは顔を覆って唇をわななかせた。
「す、き、なんです……私は、あのひとが……」
告げた言葉と共に、またはらりと涙がこぼれる。
ルドルフの、尻尾すら威厳を纏わせて進む、彼女の右側。半歩後ろから見る、美しい横顔。
そこは自分だけの特等席だと、思い始めたのはいつの頃だろう。
この場所に、自分以外の誰かが立つ。それを初めて想像して、想像だけで垂れていた耳が後ろに絞られた。
嫌だ。誰にも渡したくない。
何と身勝手な理由だろう。だからこそ尚更に諦めようとしたのに。
「諦め方が、わからないのです。どうしても……どうしたって、消えてくれず……」
消さなければ、さもなくば隠さなければ、と思った。けれど思うたびに、ルドルフへと向ける想いを目の当たりにするのだ。
知らぬうちに植わっていた種を。いつの間にか芽を出して、ありありと存在を主張するほどに大きく膨らんだ蕾を、まざまざと。
どう忘れろというのだろう。どうやって消せというのだろう。こんなにも傍にいたいと、触れたいと叫ぶ気持ちを。心が通じ合ったらどれほど……と、願ってやまない浅はかな己を。
「お母様……私は、どうすればいいのですか……?」
喉を引き攣らせ、か細い声でエアグルーヴは母に縋る。
もう、自分ではわからない。際限なく膨れ上がっていく想いが、何もかもを吞み込んでしまいそうで恐ろしかった。

「……何だ。もうあんたの中で、ちゃんと答えは出てるんじゃない」
「え……?」
静寂のなか、ふいに降ってきた声は、自身の見解とまったく真逆の言葉だった。
驚いて顔を上げれば、母は穏やかな眼差しでエアグルーヴを見つめていた。
「あんたってほんっと頭がカタいんだから! トレーナーさんが付いて、少しはマシになったかなぁって思ったのに、この子は……ふふ」
「お、お母様……?」
くすくすと顔を伏せて母は笑う。エアグルーヴはいくつもの疑問符を浮かべて呼びかけるが、彼女の笑いが止まることはなかった。
肩を震わせている母を、困惑しながら待つこと数分。やがて母は深く息を吐いて、笑声を止めた。
「──"女帝”エアグルーヴ」
途端、周囲の空気が急速に変わった。
びり、と肌を刺すような威圧感に、ぴんと耳が立ちあがる。自然と背筋も伸び、息を呑んだ。
おもむろに顔を上げた母は、嫣然とした笑みを浮かべてエアグルーヴを見据えた。
──女王だ。
画面越しに、何度も何度も憧れたその姿が、眼前にあった。
「女帝よ。貴様は欲しいものを目の前にして、ただ指をくわえて見ているだけのか弱い乙女だったかな?」
唖然と息を呑むエアグルーヴを、オークスの覇者が眇めた目で射抜く。
「貴様とてオークスを制した者だろう。何故怖気づく? 何故引くことを考える? 私が見てきた女帝エアグルーヴは、そのようなただ賢いだけの生き方はしていなかったはずだが?」
女王の言葉が鋭く、そして的確に胸を突き刺していく。
現役時代のこの人は、このように後輩に喝を入れていたのだろうか。頭の片隅でそんなことを思う。
「もう一度言ってやる。どちらも手にしたいと思うのなら、どちらにも手を伸ばせばいい。理想も願望も……欲しいと思うなら、全て勝ち獲ってみせろ」
同時に、空けられた風穴から光明が差すような、そんな感覚をエアグルーヴは味わっていた。
母を理想としたのは、それが必ず叶うものだと確信していたからか? ──いいや、違う。
(そう……そうだった。叶うかどうかで決めたのではない。叶えたいと強く願ったから、叶えてみせると覚悟を決めて、誓ったのだ)
どれほど苦難な道であろうと、道半ばで膝をつきかけそうになりながらも、それでも諦めてなるものかと。
そう、そうだ。ならば、欲しいと思うなら。
涙に濡れた手のひらをまじまじと見つめ、ぐっと握り込む。エアグルーヴを見つめていた女王は、それを見て満足気に口端を吊り上げた。
「自分で自分を縛るような真似は、せいぜいやめることだな。貴様には似合わん。……諦めきれないなら、諦めなければいいのよ。あんたはそうやって、ずっとストイックすぎるほど頑張ってきたじゃない」
だからね、と彼女はふいに目元を和らげる。
それは見慣れた、無邪気で明るいエアグルーヴの母の姿だった。
「誰も行きたがらない茨の道を、あんただけのバージンロードに変えてしまいなさい!」
びしっと指先を突きつけて母は言い切る。そのまま腕を伸ばし、面食らっているエアグルーヴの頬に触れて、柔らかく目を細めた。
「大丈夫よ、エアグルーヴ。あんたはちゃんと、素敵な恋をしてるわ」
「……っ、お母様……」
「だからしゃんと胸を張りなさい! 私の自慢の娘!」
手のひらと同じ、包み込むような声音だった。じわりと滲む視界に、エアグルーヴは唇を噛む。
本当は、不安で仕方なかった。これが本当に真っ当な想いなのか。こんな自分本位に暴走する感情を野放しにしていいのか。
母に太鼓判を押されて、そのことにようやく気付いた。
そうか。いいのか。これで、このままで。
エアグルーヴは母の手に、自分の手を重ねる。あたたかい、自分を育ててくれた、つよい手のひら。
母のようにと憧れた。母を超えてみせると誓った。ゆえに諦めなければと。
それは違った。逆だ。なればこそ、であったのだ。
道は間違いなく困難を極めるだろう。それぞれの立場、世間の目。何よりルドルフ本人の心が、未だわからずじまいだ。
それでも、成し遂げてみせよう。理想も、願望も、全て。
未踏の領域を切り開き、これが女帝たる己の道だと示せるほどに。
「……はい!」
迷いは絶った。それを証明するように母を見据え、エアグルーヴは力強く応えてみせた。
──カシャ。
刹那、この場の雰囲気に不似合いなシャッター音が突如として響いた。
何故急に。一体どこから、と目をしばたかせ……シャッター音の正体は目の前の母親であることに気付く。
「あの、お母様、今何を……?」
「ふっふーん! いい写真が撮れたわ~。トレーナーさんにもお裾分けしちゃいましょ」
「はっ⁉ ちょっ、お待ちください!」
「え、もう送っちゃったわよ?」
「お母様っ!」
思わずスマホを取り上げれば、無慈悲な一言が下される。「一歩遅かったわね~」とほこほこと笑っている母に、エアグルーヴは額に手を当てた。
と、母のスマホが震え出す。画面を見れば見覚えのあるアイコンが表示され、断りを入れるのも忘れて即座に通話ボタンを押した。
『ありがとうございます永久保存しました……』
「ふざけるなたわけが‼ 消せ! 今すぐに!」
『あれエアグルーヴ⁉ 何でっ⁉』

「ん~、ここのジェラートは溶けても美味しいのねぇ」
ぎゃあぎゃあと電話で言い争っている娘をよそに、すっかり溶けてしまったにんじんジェラートを口に運ぶ。これはこれでとても美味しい。甘くて濃厚なミルクのようだ。
「それにしても……ふふ、当てられちゃうくらいお熱じゃない」
ぱくぱくとスプーンでジェラートをすくいながら、彼女はゆるりと頬を緩ませる。
「夢すら天秤にかけて、それでも諦めきれないって……それくらいルドルフちゃんのことが大好きってことじゃないの」
ほんと我が娘とは思えないくらいアッタマかたいわー。前途多難な娘の恋路に、母はやれやれと肩を落とす。
ちらりと向かいの娘を見る。未だに消せごねるなふざけるな話を逸らすないい加減にしろと抗議を続けている少女に、かつての樫の女王は呆れまじりに、それでいて至極嬉しそうに微笑んだのだった。


◆  ◆  ◆


地下バ道の向こうから、人々のざわめく声が聞こえてくる。
気候などの関係で大規模なレースが少ない夏場、この季節では数少ないGⅡ級のレースである。夏の一大レースとも言われており、出走するウマ娘もGⅠレースさながらの面子が揃うことでも有名だ。この賑わいも当然であろう。
コツコツと蹄鉄の音を響かせながら、エアグルーヴは薄暗い通路をゆっくりと進む。その隣にはトレーナーバッジを襟に付けた、スーツ姿の女性が歩いていた。
「……貴様、あの写真はちゃんと消したんだろうな?」
「うぅ……消したよ、消しましたよ。エアグルーヴも確認したでしょ? ものすごく残念だったけど……」
「残念がるな、たわけ」
「だってあんな天使みたいに可愛い笑顔の激レアショット──」
「思い出すのもやめろ! ええい、さっさと忘れんかっ!」
その場で膝をつきそうな勢いで嘆くトレーナーにエアグルーヴは吼える。トレーナーともあろうものがレース前に担当の集中を乱してくるな。
「だってぇ……」
昨日からずっとこの調子だ。情けなくぐずぐずとしょげる彼女に、まったく、と大きくため息を吐く。何故写真一つでこれほどまでに落ち込むのか。
「……代わりに、明日の記事の一面をくれてやる。それで満足しろ」
少し間をおいて、告げる。肩を丸めていたトレーナーは、泣き真似を止めて顔を上げた。
一歩先で立ち止まり、エアグルーヴは己の担当を正面から見据える。あの時……天皇賞(秋)でスズカに挑んだときと、同じように。
「貴様に改めて誓う。今日の走りは……いや、これからのレースでも、だ。皆の……そして貴様の理想を、私は体現し続けてみせる」
トレーナーは、一瞬だけ懐かしむように遠くを見た。ゆっくりとまばたきをした彼女は、やはりあの頃と同じ真っ直ぐな眼差しでエアグルーヴを見つめる。
「じゃあ、私も改めて……信じてる。あなたはそれができるウマ娘だって、これからもずっとね」
「……ああ、信じていろ」
今か今かと待ちわびる歓声を聞きながら、互いに頷きあう。そしてトレーナーは、何を思ったのか恭しく頭を垂れた。
「さあ、いってらっしゃいませ。"杖"は、我が君の凱旋をお待ちしておりますゆえ」
やけに芝居がかった物言いに、思わず吹き出してしまった。何をするかと思ったら。それにしても全くもって似合っていない。
だが、いい具合に肩の力が抜けた。悪戯が成功したような顔をしてこちらを見上げるトレーナーに、エアグルーヴは勝気に微笑んでみせる。
「ああ……貴様に勝利のブーケをもぎ取ってきてやる」

八月末日。天気は晴れ。芝は良バ場。
秋のGⅠレースの前哨戦が今、ゲートの音を空に響かせてはじまった。


◆  ◆  ◆


1998札幌記念。8/23良

『エアグルーヴが先頭だ! エアグルーヴが先頭だ! やっぱり役者が違う! エアグルーヴ、女帝の貫録を見せつけましたぁー‼』

「よっしゃぁー! エアグルーヴ先輩やっぱカッケェー! おい、見たかよあの末脚!」
「見てたわよ、うっさいわね! でもほんと、流石エアグルーヴ先輩……コース取りも仕掛けのタイミングも完璧だったわ……!」
「先輩、すごい……! アタシも頑張らないと……ねえ、ライアン──」
「併走でしょ? もちろん受けて立つよ!」

熱のこもった実況者の声に、テレビの前に集まっていたウマ娘たちは一斉に歓声の声を上げて飛び上がった。
「Huuuuuuu‼ ナイスですエアグルーヴ!」
「よかった、エアグルーヴ……」
タイキシャトルと共に中継を見ていたスズカは、笑顔でカメラに手を振っているエアグルーヴを見てほっと安堵の息をこぼした。
夏前から悩んでいた親友は、どうやら何かをきっかけに吹っ切ることができたようだ。走りを見ればわかる。
精錬された、けれど力強いフォーム。最終コーナーで一気に飛び出してきたキレのある末脚。どれも彼女らしい、強いエアグルーヴの走り方だ。
いいなぁ、とスズカは目を細め、己の脚をさする。
あそこで一緒に走れていたら、きっととても気持ちよく走れたことだろう。
「また、一緒に走りたいわね……」
「イエス! ですが今はノンノン! レースの前にまずはパーティ! バーベキューの用意をしまショウ!」
「えっと……それ、逆にエアグルーヴに怒られないかしら……?」
ぽそりと呟いた言葉をタイキに拾われる。そしていつもと変わりない発言に困惑気味に首を傾げれば、ふふん、と彼女は自信ありげに微笑んだ。
「豪華にすればダイジョブダイジョブ! みんなで食べれば、きっとエアグルーヴもハッピーになりマース! スズカ、今日は山でキノコ狩りに、そして明日は海で貝拾いをしまショウ!」
「ぇえ⁉ 待って、私明日は丸一日トレーニングで……」
「オウ! そうデシタ! まずはトレーナーさんにお願いするところからデスネ!」
そういう問題じゃ、と止める前に、がしりと腕を掴まれた。彼女が立ち上がった勢いでスズカも立ち上がる。
「レッツ、ウィーゴー!」
「う、うそでしょー⁉」
腕を組まれたまま走り始めたタイキに、スズカは悲鳴を上げながらトレーナーの元へと連れていかれるのだった。

「よし、良い走り……!」
ロビーにあるテレビに集った生徒やトレーナーたちから数歩離れた場所で、エアグルーヴのレースを応援していたルドルフのトレーナーは、彼女の危なげない走りを見て胸を撫で下ろした。
よかった。彼女の作戦は功を奏したようだ。
(ちょっと良いお酒でも買っておいてあげようかな……)
どうせ合宿の最後の夜は、トレーナーたちで集まって慰労会をする予定だ。自由参加のそれに不参加でも問題はないし、二人でお疲れさま会をしても誰も文句を言う人はいないだろう。……飲んでいる酒が良い酒だとバレなければ。
よし、あとでこっそり買いに行こう。タイキシャトルに食材の差し入れをする体で、肉やジュースでカモフラージュすればとりあえず一目ではわからないはず。
うんうんとひとり算段を立て、トレーナーは隣に視線を向けた。復活を遂げたエアグルーヴの走りを見て、自分の担当も少しは安心したんじゃないだろうか。
そう思って見上げた先を見て、目をしばたかせた。
「……ルドルフ?」
その場にいた誰もが、エアグルーヴの勝利に笑顔で歓声を上げていた。女帝の勝利に、その圧倒的な実力に賞賛を。
しかしその中で、ルドルフは。
常に泰然自若とした態度でいるはずの皇帝は、画面の向こうで手を振る彼女を呆然と見つめ、凍り付いたように固まっていた。





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