もしもの物語-8-



背の低い木や草花が土を覆うように茂る、広大な大地。見渡す限りの平野に異彩を放って乱立する、ねじれ角のような螺旋を描いて傾く塔。
至る所に横たわる朽ちた建造物らしき欠片は、その塔から崩れ落ちたものだろうか。その中でもひと際薄い小さな欠片が、吹き抜ける風にからからと無機質な音を立てて転がっていく。
大陸中央部。大陸七不思議のひとつとして数々の書物に記された斜塔がそびえ立つこの平原を、凱旋(がいせん)草(そう)海(かい)と人々は呼ぶ。
草の海という名に違わぬ、見渡す限りに広がる草原の中で、若き導師の弾んだ声が響き渡る。
「すげぇ!なんか楽しそうなのに乗ってる!」
「楽しそう言うな!あいつらも立派な憑魔だ!」
「あの砲台から弾が出るから気をつけなよ!」
全身緑色の眼つきの悪い憑魔が操縦している砲台に、スレイは目を輝かせた。初めて見る憑魔だった。物語に登場する子鬼に似た獣人族の憑魔が、砲台の縁に片足を掛けて滑るように移動している。
ものすごく楽しそうだ。乗ってみたい。
抱いた感動をそのまま言葉にしたら、ミクリオとロゼの二人に思い切りツッコまれた。
「なぁ、あれ乗らせてくれないかな?浄化したら乗せてくれたりしないかな?」
「あたしの話聞けー!とりあえず乗り物から離れろっての!」
しかし砲台に夢中のスレイはかまうことなくはしゃぎ続け、堪えかねたロゼに怒鳴られた。一歩下がった場所に立つデゼルが呆れたように溜め息を吐く。
十体以上の憑魔に囲まれたこの状況で、緊張感がないにも程がある。
「油断するなよ。射程距離はボーガン程度だが、威力はそれ以上だ」
「へぇ!思った以上に本格的なんだな!なっ、ミクリオ!」
「なっ、じゃない!さも僕まで砲台に興味があるかのようにふってくるな!」
「弾の距離までわかるんだ…やっぱ同じ飛び道具だから?」
「お前の覚え方が大雑把過ぎるんだ!ペンデュラムをあんなふざけたガラクタと一緒にするんじゃねぇ!」
何とか場を引き締めようとデゼルは注意を促したが、真面目な顔でそう聞いてきたロゼに思わず吼えるように反論したことで寧ろますます空気が緩んだ。デゼルまでもが敵をそっちのけで、四人は口論を繰り広げはじめる。
背後から聞こえてくる会話を聞きながら、アリーシャは思わずくすりと笑みを零した。状況的には切迫している状態だというのに、まったくその気配がない。それどころか楽しそうだ。
彼らの戦闘中には不釣り合いな、和やかな雰囲気を安心して眺めていられるのは、一度臨戦態勢に入れば彼らの空気が変わることを知っているからだ。
切り替わった時の彼らの頼もしさは、この旅の中で充分に実感した。
『アナタはこっちね。イノシシの方』
ふいに頭から響いてきた少女の声にはっとして、アリーシャは未だ騒いでいるスレイ達から視線ごと意識を離す。
はいと歯切れよく返事をして身体を向けたその先には、彼女の言った通り通りの猪に似た獣がいた。鼻息を荒くして唸る巨大な猪の形をした憑魔に向けて、少女は睨むように長槍を構える。
実際の憑魔の姿がどうなっているのかはわからないが、イズチで見たウリボアに形は似ていると思った。大きさと迫力が桁違いだが。
『ボアは、見たまんまの猪突猛進憑魔よ』
再び可愛らしい、けれど落ち着いた声音が直接頭に響く。ボア、とアリーシャはその名を繰り返しながら、あの愛くるしさのある小さな猪を思い出す。名前も似ている。ひょっとしたらあのウリボアが成長すれば、これほどの大きさになってしまうのだろうか。それは少しばかり切ない。
スレイに聞いてみればわかるかもしれない。そう思いながらも、ボアとの間合いをはかる。
数は三体。それらを自分には見えない憑魔を相手にするスレイ達から遠ざけることが、この場の自分の役目だ。
「タックルに注意です。当たるとゥボアですわ」
「う、ゥボア…?」
『……ほら、来たわよボアが。横に跳んで避けなさい』
「は、はい!」
前足で地面を数回引っ掻いてから、その巨体からは出るとは思えぬ速度で突進してきた。勢いよくこちらに迫ってくるボアに目を瞠りながらも、エドナの言う通りに横にステップを踏んで攻撃を避ける。
どうやら走り出したら直進しかできないらしい憑魔は、そのまま彼女を暫く通り越したところで止まり、方向転換した。再び蹄で地面を抉りながら、鼻息荒くこちらを睨みつけてくる。
『ライラのギャグがつまらないから怒り狂ってるじゃないの』
「いえいえ、もしかしたら笑い転げてるのかもしれませんわ。ボアーっはっはと!」
『同じダジャレは前回よりもクオリティの高いものじゃないと盛大にスベるわよ。今みたいに』
「うっ…!今日のエドナさんはいつもより手厳しいですわ…」
心なしか呆れの滲んだ淡々とした声音と、その言葉にしゅんと項垂れるような悲しげな女性の声を聞きながら、あれはダジャレだったのかと遅れて理解する。あっと声を上げたアリーシャの反応からそれを察したらしいエドナがこっちはとんだボケ殺しね、とぼそりと呟かれた。
聞き慣れない単語に首を傾げるが、再度憑魔が驚くほどの速さで迫ってきたため、慌てて避けながら思考を切り替える。今はこの憑魔を倒すことの方が先決だ。
ふいに、ヒュッと空を裂いて何かが横から通り過ぎる。何だろうと思ったときには、地を踏みならすボアの足元に細長い紙が数枚突き刺さっていた。
刹那、音を立ててその紙束が赤く燃え上がる。突然現れた炎の壁に、ボアは耳につくような悲鳴を上げて後退さった。
「アリーシャさん、あの辺りにボアを集めることはできますか?」
一匹はあそこで足止めしておきます、と横から聞こえてくるライラの言葉に、彼女の炎により黒く焼け焦げた地面に視線を落とす。
引きつければいいのは二体。敵は勢いがついたら直線上しか走ることができない。ならば、二体同時に相手をして方向先を誘導すれば。
頭の中でどう動くべきか算段を立てながら、アリーシャは頷く。
「やってみます」
ウリボア狩りの時、スレイに狩りのコツを少しだけ教えてもらった。あの時は逃げる獣を追い込むやり方であったが、己の動きで相手を操るという点では逆でもそう変わりはないはずだ。
「誘導できましたら、すぐに離れてください。私の天響術で一気に浄化します」
『ボアっとね』
「あ、あぁぁぁ!エドナさん、酷いですわぁぁ…!!」
言おうと思ったのに…。先程の真剣な声音から一転、悲壮感を漂わせて嘆く火の天族の女性の声に苦笑いを零して、アリーシャは長槍を構えて平原を駆け回った。


ふぅと小さく息を吐きながら、刀身に纏わりついた穢れを払うように刃のない剣を一振りして、腰に差した鞘におさめる。
自分達を囲んでいた憑魔はもういない。周囲には、戦いでできた跡だけが残っている。
結局浄化したら、ゴブシューターという憑魔が操縦していた楽しそうな乗り物はただの木の板と化してしまった。どうやら植物系の憑魔と同じ類のものだったらしい。残念だなぁと名残惜しげに、何の変哲もなくなった木片をじっと見下ろす。
「スレイ、怪我はないか?」
カチャ、と金属同士が擦れる音と共に、凛とした声が聞こえてきた。振り返れば淡い髪色をした少女が、安堵の色を浮かべてスレイの傍にいた。
「大丈夫。アリーシャこそ平気?」
「ああ。今のところ、特に変わりはないよ」
そう答えて目を細めて笑う少女に、スレイもほっと表情を緩める。
声に力がある。よかった、いつものアリーシャだ。
「器として、大分身体が順応してきたみたいだね」
遅れて近付いてきたミクリオも口の端を上げてアリーシャに話しかける。声のした方向に視線を向けたアリーシャに、スレイは笑みを浮かべてミクリオはここら辺だよ、と彼の肩に手を乗せて眼の付近を指で示す。人のことを指差すなと肩に乗せた手ごとすぐに払われてしまったが、彼女は大体の位置は把握したようだ。
二人のやりとりに小さく笑いながら、ミクリオの顔辺りを見つめてはいと頷いた。
「この一週間で、少しは慣れてきたみたいです。以前よりずっと身体が動くようになりました」
「それはアリーシャの動きを見てても感じるよ。いつもの槍捌きに近付いてきてると思う」
感覚が戻ってきている証拠だと、淡く微笑みながら話すミクリオに、スレイも同意するようにうんうんと頷く。
「ホントよかったよ。ずっと辛そうにしてたし」
「ホントホント!」
「わっ?!」
三人の会話に、突然明るい声が入ってきたと思ったら、アリーシャが短い悲鳴を上げて前のめりになった。
咄嗟にスレイとミクリオが手を差し伸べるが、少女は一歩足を出して自力で踏みとどまる。二人して妙な体勢になったまま目を白黒させて驚くアリーシャを見ると、そこにはもう一人、声と同様明るく笑う赤髪の少女の姿があった。
「やっと目ぇ覚ましたかと思ったら、ぽこぽこ熱出してたもんねぇ」
同じくらいの背丈のアリーシャの肩に自身の腕を回しながら、ロゼはしみじみと言った。思い出しているのは、数週間前のラストンベルでのことだ。

エドナがアリーシャを器として彼女の中に入るようになったあと、彼女は数日の間ずっとベッドに伏せっていた。
目を覚ましてからも、日常動作だけですぐに熱を出して体調を崩していた。その度に彼女はすまないと申し訳なさそうにしていたが、自分達にとってはいい休暇と情報収集になった。
特にロゼは、セキレイの羽の新商品の展開や風の骨として新たな拠点の下見など、区切りのいいところまで行うことができた。度々調子を悪くしていたアリーシャには悪いが、そのおかげで助かっていた。
導師ではない者を器にすることはエドナもライラも初めてだったようで、それからは手探りの日々だった。
エドナの霊力を徐々に馴染ませていくために、最初は日常生活から。熱を出さなくなってきたら、今度はスレイやロゼと模擬戦。それにも慣れてきたら、街の近くで憑魔と戦闘。ある程度連戦しても、危なげなく戦えるようになったのが数日前。
それからラストンベルで準備を整え、今は野営をしつつペンドラゴに向けて凱旋草海を歩いている。
これまでの数日間を思うと、今の状態は飛躍的な進歩だとロゼは思う。
それに自分だったら、エドナが暫く取り憑くという時点で根を上げていた、絶対。伊達にトラウマを起こしていない。

「ろ、ロゼ…いきなり後ろからこられると、その、びっくりするんだが…」
すぐ傍で聞こえてきた戸惑ったような声音に、ロゼは現実に引き戻される。視線だけ向ければ、アリーシャが回した己の腕に触れながら、困ったように眉尻を下げてこちらを見上げていた。
「あ、ごめん。いつもトルやフィルたちにやってるみたいに癖でつい。……ていうかどしたの男子二人。変なカッコして」
あははと笑いながらあっけらかんと腕を離したロゼは、自分達の周りで手を伸ばした状態で固まっているスレイ達を交互に見て疑問を投げかける。その言葉に我に返ったらしい二人は、片や頭に手を回し、片や腕を組みながら、体勢を元に戻す。
「……別に…」
「はは…なんでも…」
アリーシャを支えようとしていたことを知らないロゼとアリーシャは、スレイ達の不自然な動きに揃って首を傾げる。
『カッコつけたいお年頃なのよ』
一体どうしたのだろうと不思議そうに見つめていると、ふいに自分達とは別の声が耳朶に響いた。
ひっとロゼが短い悲鳴を上げるなか、アリーシャから小さな光が現れ、小柄な少女の形を作る。
「だからカッコつけてなんかっ…!」
「あら、じゃあさっきアナタたちがやろうとしたこと、二人に教えてもいいのかしら?」
「ぐっ…!」
にやりと意地悪く笑うエドナに、ミクリオは言葉を詰まらせて黙りこむ。僅かに目元を赤らめた天族の少年と、その横で頬を掻きながらバツが悪そうに苦笑するスレイを交互に見て、気を取り直したロゼはああなるほどと納得する。
「男の子だねぇ」
エドナと同じくにやにやと笑いはじめたロゼに、ミクリオは尚も違う!と反論する。その反応さえ面白い。エドナが彼をからかう気持ちがわかる気がする。
ミクリオを適当にあしらい、エドナはスレイを意味ありげに見上げる。何だろうと目をまたたかせるスレイだったが、未だスレイ達の行動の意味がわからず小首を傾げているアリーシャのことをちらりと見たことで、彼女の意図に気付いた。
「アリーシャ」
少女の名を呼んで手を差し伸べると、彼女もその意図を察してスレイの手に触れた。
アリーシャが器になってから、いくつかわかったことがある。そのうちの一つが、先程の繰り返しの発熱。
そしてもうひとつが、天族が入っている間は導師を介さなくても天族の声が聞こえる、ということだ。
エドナの力のおかげか、アリーシャの霊応力が上がっているからかはわからない。どちらにしてもエドナの霊力をアリーシャの身体に通しているからだろうと、ライラたち年長者の天族はそう言っていた。
だから、エドナがアリーシャから出てきた場合は、またスレイかロゼと手を繋ぐ必要があった。
そして、その役目を担うのが、主にスレイだった。
従士でも手に触れれば天族と会話できること後に気付いてからは、ロゼもできるからと、気恥ずかしさもあってスレイを通して会話することを遠慮していたアリーシャであったが、ロゼに頼んだら悩む素振りすらなくいい笑顔で色々とメンドいからスレイがいない時限定で!と初っ端から断られてしまった。
あまりにも爽やかに一刀両断するものだから、思わずわかったと引き下がってしまった。
「アリーシャ。平気そうだからって、油断するんじゃないわよ」
スレイが見下ろす先を辿って、アリーシャもエドナがいるであろう場所に視線を向ける。面倒そうな、けれど真剣な声音が下から響く。
アリーシャを器にしてわかったこともあるが、それでもまだまだ未知のことばかりだ。これから彼女にどんなことが起こるのか、誰もわからない。
「街の周辺ならともかく、今はただっ広い平原のど真ん中なんだから、体調が悪くなったらすぐに言いなさい。言わない方が迷惑よ」
「エドナ、そんな言い方は…」
「事実を言ったまでよ。大事なことでしょう」
手厳しい言葉に、ミクリオがエドナをたしなめるが、どこ吹く風で彼の言葉をさらりと流す。その適当な対応に、ミクリオはむっと顔をしかめた。
確かに無茶をしがちな彼女だから、言っておくべきかもしれない。だが、もっと思いやって言葉をかけるべきだろう。
アリーシャは大丈夫だろうかとちらりと見遣る。しかし彼女はミクリオの予想に反して、驚いたことに柔らかく微笑んでいた。
「はい、わかっています。私が無理をすれば、エドナ様も危険な目に合わせてしまいますからね。不調があればすぐにお伝えします」
「…わかっているのならいいわ」
エドナも予想外だったらしい。平原の空を同じ色の瞳を丸くしてアリーシャのことを見つめていた彼女は、ふいに我に返ったかのように視線を逸らして傘を広げた。
そこでミクリオはもしかして、と思い至る。あの台詞は、エドナなりにアリーシャを気遣っての言葉だったのだろうか。
何気なくスレイを見れば、彼は初めからわかっていたようだった。人の洞察にかけては、スレイは本当に敏い。
穏やかに微笑む親友に、ミクリオもつられて困ったように笑った。突然笑い出したスレイをきょとんと訝しげに窺うアリーシャの横では、ロゼも同じように笑みを浮かべている。
こういう時、アリーシャも早く自分達の姿が見えるようになったらいいのにと思う。こうして一緒に笑い合えないことがいつももどかしい。
三人はしばらく笑い続けていたが、じろりとエドナが眼つき悪く傘を構えたところで慌てて口を噤んだ。
「えっと…そういえばエドナはどう?最初は力が通しづらいって言ってただろ?」
下から立ち上る不穏な気配を鎮めようと本能が動いたのだろう。スレイが咄嗟にエドナに話しかけ、話題の転換をはかる。そして言ってからそういえばそうだと気付き、知らず表情に真剣味が帯びる。
初めは胡乱げに彼を睨めつけていたエドナだったが、スレイが本心から言っていることにも気付き、溜め息をひとつ吐きながらも彼の話題にのった。
「力が通りにくいのは相変わらずよ。少しはマシになったけど」
「エドナ様ご自身に負担はありませんか?」
「特にないわ。今のところは」
スレイやロゼに比べると、まだまだ無理やり力を通しているような状態だ。穢れを帯びている訳ではないから、エドナ自身に身体的な負荷はない。初めのうちは力の調節にかなり神経を使って疲れたが、力加減も何となくわかってきた。
(でも、ね…)
傘の柄をくるくると回しながら、そっと自分達からやや離れた場所にいるデゼルまで視線を滑らせる。
おそらくではあるが、彼は数年単位でロゼのことを器として操っていた。復讐のために、そして彼女自身を守るために。
その結果、ロゼは驚くほど天族の力が通りやすい身体になった。元々の才能もあったのだろうが、あれほど簡単に身体を己の意のままに操れる人間は初めてだった。
今のロゼに、その力の通りやすさ以外に――これはこれでかなりの問題ではあるが――、これといって生活に支障が出ているようには思えない。だが、だからといってアリーシャが安全である保障にもならない。
「…どうなることかしら……」
傘を深く被って、誰にも聞こえないようぼそりと呟く。
エドナ?と訝しげなスレイ達の声を聞きながら、どのタイミングで顔を上げようかと様子を窺っていると、ボツッと鈍い音を傘が立てた。
空色の大きな目をぱちぱちとしばたかせて、近くにある斜塔だったであろう残骸に目を向ける。
灰黒色の材質のそれは、よく見ると所々水に濡れてまだら模様になっていた。
傘が再び鈍い音をいくつも立てる。うわっと驚いたような声が傍で上がった。
「雨だ。ついてないー!」
雨の冷たさに顔をしかめてロゼが叫ぶ。傘から手だけを出せば、なるほど、確かに冷たい雨だ。
「どうするの?ここからじゃどっちの街からも遠いわよ」
私たちはアナタ達に入るから濡れないけど、と付け加えて、スレイに問い掛ける。スレイはうーん…と腕を組んで唸るが、やがて顔を上げてエドナ達に話しかけた。
「このままペンドラゴへ向かおう。どっちにしても雨に濡れるんなら、先に進んだ方がいいと思う」
「わかった」
「こんなとき馬車があればなぁ…りょーかい」
スレイの言葉にそれぞれが了承の意を唱える。離れたところで崖の上にいる山羊について妙に盛り上がっていたライラとデゼルも呼んで、一行はローランスの首都へと急いだのだった。

◇   ◆   ◇   ◆

ざぁぁ……と天から落ちる水の音が、広大な平野に堪えることなく鳴り響く。辺り一帯が緑一色だった凱旋草海に比べ、次に土地は黄金色の畑が所々に広がる大地だった。
とめどなく降り続ける雨にさらされながら、スレイ達はローランスの食料庫と称される大陸最大の穀倉地帯、パルバレイ牧耕地に足を踏み入れていた。
先程よりも雨足が強くなった気がする。スレイは空を見上げ、全てを埋め尽くすさんばかりに覆う灰黒の雲を見る。この地の気候のせいだろうか、やけに雨が冷たく感じる。
緑の茂る草原を踏みしめるたび、ぱしゃぱしゃと足元で水が跳ねた。かなり長い間、雨が降り続いているのだろう。植物の根が水を吸収できる限界を超え、土が飽和状態でほぼ泥と化している。
雨の中、ぬかるんだ地面に足を取られないよう気を付けがら、小走りで牧耕地帯を駆け抜ける。
「…あれ?」
周囲に憑魔がいないか警戒していると、途中で見覚えのある影が目に入った。
何だろうと足を止めて顔を向けると、そこには積み上げられた麦の傍に、放り捨てられたかのように横たわる農作業具があった。
「クワが…忘れものかな?」
「なってないね。大切な仕事道具だろうに」
木でできた棒の先に長方形の鉄がついた道具を拾う背後で、憤然としたミクリオの声が届く。
イズチでは完全に自給自足をしていた。とはいえ、基本的にスレイ以外は皆、食事をしなくても生きることができたから、ほぼスレイのためにではあったが。
獣を狩り、畑を耕し、作物を育てた。食べることのありがたみも、育てることの難しさも、幼い頃からジイジに説かれ、身をもって学んできた。スレイ自身も農具の手入れを手伝っていたから、ぞんざいに扱われていることをよくは思わない。
錆ついたクワを悲しそうに握っていると、でも、と柔らかな女性の声が聞こえてきた。
「麦畑は見事ですわ」
「ええ、本当に…ハイランドでも、ここまで広大で立派な耕地はありませんね」
感嘆混じり呟くライラとアリーシャの言葉に、スレイも頷く。
「ああ、災厄の時代といっても、まだまだ豊かなところは残ってるんだな」
柵の向こう一面に広がる海にも似た金色の草原は、どこか浮世離れした光景のようだ。晴れていれば、もっと輝いて圧巻だったころだろう。
「一見、ね」
しかし、同様に麦畑を眺めていたロゼは、いつもより深刻な声音でそう呟いた。一見?と怪訝な表情で首を傾げると、デゼルは険しい顔で麦をよく見てみろとスレイにひと房の実を渡してきた。
戸惑いながらも手渡された麦をまじまじと見つめて、実に触る。触れた瞬間にぼろりと殻が崩れ、スレイ達はぎょっと目を瞠った。
「実が全然入ってない!」
「こっちも!モミの中はカビだけだ…。アリーシャ、そっちの実は?」
「こちらもです…何故こんな…」
「コガネカビだ。この一帯は全滅だろうな」
デゼルの声が、重々しい響きとなって濡れた地面に落ちる。
「全滅……」
「最近広がりまくってるの。この分じゃ、今年の収穫も期待できそうにないなぁ…」
「……クワを放り出すわけだ…」
ぐっと、中身のない麦をミクリオは強く握りしめる。
作物は、一晩や二晩で実るものではない。短くても数ヶ月、麦ならば半月ほどの月日を掛けて育てなければならない。
おそらくこの長雨のせいだろう。広がり続ける穀物の病。蔓延するカビの前に、どれほどの農夫が絶望に打ちひしがれたことだろうか。
「ライラ、これも…?」
スレイは悲しそうに、囁きに近い声でライラに問い掛ける。問われた女性は、麦畑から目を逸らすように眉尻を下げて目を伏せる。
「災禍の顕主が生み出した結果の、ひとつでしょうね…」
「これが…災厄の時代か」
口にするつもりはなかった言葉が、思わず零れた。意図せずして噛み締めるようになった声音に、スレイは白いグローブをはめた手を見つめる。
天災は、自然の摂理だ。その年によって変わる気候で、その年が豊作にも不作にもなる。それはある意味、当たり前のことだ。
けど、とスレイはぐっと手袋をはめた手で拳をつくる。
これは災禍の顕主が…穢れが生み出した、意図的な天災だ。
天災だけではない。『瞳(どう)石(せき)』という、過去の記憶を閉じ込めた宝石で垣間見た光景では、戦争にもあの者は関わっていた。
大きな災厄があった場所に、災禍の顕主の意図が必ず介入している。
どうしてこんなことをするのだろう。何故より濃く、強大な穢れを求めているのだろうか。
考えても考えても、今の自分にはわからない。ただ止めなければと、その思いだけが強くなっていく。
もう一度麦畑に目を向けて、この光景を焼き付けるようにまばたきもせずに見つめた。
またこの麦畑に、農夫が笑顔で収穫を喜ぶ光景が溢れるような未来を、心から願う。
「…ん?」
穴があくほどその景色を眺めていたら、とん、と左肩辺りに軽い衝撃がやってきた。
僅かな重みを感じて視線を向けると、大きな白い花のような形をした布がスレイの視界に飛び込んできた。
「アリーシャ…?」
目を丸くしてその布から目線を下にさげると、アリーシャの端麗な顔が目の前にあった。
それを認識した瞬間、何故か反射的に仰け反りかけ、何とか身体を動かさないように必死に堪えた。
「すまない…少し、身体が重くて…」
僅かに顔を歪ませて凭れかかってきたアリーシャは、そう言いながらスレイからゆっくりと離れた。
『あら、羽のように軽いワタシに向かって重いとは失礼ね』
「え、エドナ様!?ち、違うんです、そんなつもりは…!」
『ウソよ。スレイ、こんなところで立ち止まってる場合じゃないんじゃない?』
やや急かすように響くエドナの声。アリーシャの様子に気付いたロゼが、そっと寄ってきてちょっと失礼、と彼女の白い額に手を当てた。
「…うん、ちょっと微熱っぽい。熱が上がらないうちに、早く休ませた方がいいよ」
「えっあ…そう、だよな。ごめん、ペンドラゴに急ごう」
エドナ達の言葉に、スレイは数秒の間のあとに慌ててそう答えた。
先程よりも妙に速まった鼓動に首を傾げながら、それを誤魔化すようにアリーシャをロゼに任せて先陣を切るように平原を突き進む。降り注ぐ雨は寒いほど冷たいのに、どういう訳か身体の奥が熱かった。
「デゼル、ミクリオ。憑魔に会ったら、できるかぎりオレたちだけで対処しよう」
「ああ」
「わかった」
スレイの指示に頷いた二人は、彼の一歩後ろに並ぶ。各々の武器を顕現させていつでも敵に反応できるように構えた彼らを確認し、ライラ、と己の主神を呼ぶ。
「余裕があったら、アリーシャを天響術で温めてあげて」
「ふふふ…わかりましたわ」
頼みごとを快く了承した彼女は、後衛に控えるアリーシャ達の許へと下がる。
ライラの意味深な笑みが、よくわからないながらも居心地の悪さを感じて、それを振り払うようにミクリオ達と同じように剣を抜いた。





「あ、アリーシャ寒くない?このマント被る?」
「ちょっとスレイ。そのわさっとしたマントもめっちゃ濡れてるんだから意味ないって」
「そ、そっか…ごめん」
「いや…こちらこそ気を遣わせてしまって、すまない」
「エドナさん。お古の傘をお借りしてもよろしいですか?」
『仕方ないわね。特別に貸してあげるわよ。ミボが土下座してくれるなら』
「何で僕が!」
「あらそう。アリーシャの身体よりも自分のプライドの方が大事なの。 ミボったら冷たいわね」
「そもそもの条件がおかしいだろ!」
「仕方ない。ここはデゼルが代わって土下座を」
「おいロゼ。俺を勝手に巻き込むな」
「あ、じゃあオレが土下座するよ!」
「ま、待ってくれ!だったら私が土下座を…!」
「だから何でそうなるんだ!」
「土下座のオンパレードね」





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