もしもの物語-24(終)-
人と天族が、共に手を取り合って暮らす世界が見たい。
そんな世界に憧れたのは、小さい頃ジイジが誕生日にくれた、一冊の分厚い本を読んでからだった。
その本は、オレの知ってる世界が実はものすごく狭くて小さかったことを教えてくれて、オレの暮らしているここは他にはない唯一の場所だってことも教えてくれた。
今でも離さず持ち歩いてる、天遺見聞録。そのなかに古の時代の人と天族について書かれていたことが、共に生きる世界に憧れたきっかけだった。
本当にすごいと思ったんだ。神代の時代に作られた遺跡や建築物は、天族と人間がつくった遺跡なんだってことが。
たくさんの天族と人間が力を合わせれば、こんなすごいものがつくれるんだって。
それに気付いたときはものすごくわくわくして、そのままミクリオと朝まで語り合ったっけ。そのあとジイジのカミナリを思いっきりくらって、折角もらった天遺見聞録を一日で没収されそうになって焦ったのも懐かしい。
けど、育ての親であるジイジはことあるごとにこう言っていた。
今の時代は、力のある人間以外は天族のことが見えない。天族も人とあまり関わろうとしない。
天族のことを信じない人が増えていって、人間のことを信用しなくなった天族も出てきてるって。
そんなの悲しいって思った。だって、イズチのみんなはこんなにも優しいのに。オレとミクリオは、種族は違っても一番の友達になれたのに。
でも、ジイジたちはオレがその手の話をする度に人間と関わるなっていつも言ってきた。人間は災いをもたらすから。人間は自分達の勝手な都合で、この平穏を壊しにくるからって。
イズチにいた頃はずっと納得できなかった。だって、オレだってジイジたちが嫌ってる人間だ。
まるでオレまで否定されてるみたいで、何かイヤだった。何でそんなに嫌がるんだろうって、不思議で仕方なかった。
……今なら、ジイジ達が人と関わりたくなかった理由も、災いだって避ける理由もよくわかる。
オレは、何も知らなかったんだ。優しいみんなが、辛かったり苦しいことから、オレを護ってくれてたから。
けど、色んなことを知った今でも、オレの夢は変わらない。いつまでも変わらないんだろうなって、そんな風に思ってる。
だってオレは、人間は悪い人ばかりじゃないことを知ってる。
導師や天族のことを信じてくれる人たちがいることも、そんな人たちに心を動かされた天族がいることも。
それを知ることも経験することもできたのは、同じ夢を抱いてる女の子に出会えたことがはじまり。
隣に並んで、その世界を一緒に歩きたい。そんな風に思える子に、オレは出会えたから。
だから、前に進む。
オレの出した答えをぶつけるために。
その先に、伝承で見た世界があると信じて。
◆ ◆ ◆
幼い頃から遊び場になっていた遺跡の、隠された道の更に奥を抜けた先。
そこは、無残に壊された家が点々と散らばった廃村だった。
力任せに折られた柱、真っ黒に炭化した家だったなれの果て。以前は敷き詰められるように生えていたはずの草花は、荒れた砂利まみれの大地になっていた。
切りたった崖の谷間から見えるその向こうに、燃えるような真っ赤な空が浮かんでいる。穢れの影響か、夕暮れのように薄暗かった。
どこか重たい風が吹いているのも相まって、胸に重苦しいものがずんと落ちてくるような不快感があった。
「ここが、カムランか……」
スレイは眉をひそめながら、見覚えのある廃村をゆっくりと見回した。マビノギオ遺跡よりも更に穢れがひどく、思わず腕で口元を覆う。
「初めて来るのに知ってる場所なんて、何かヘンな感じ」
「そうか…ロゼたちは見たのだったな。過去のカムランを」
「うん。こうなる前は、比べ物にならないくらいのどかそうな村だったよ」
アリーシャにそう返しながら、ロゼは遠い目をしてカムランを眺めていた。
彼女の言うとおり、出来たばかりの過去のカムランは新緑の空気が村全体に満ちていた。
平和を絵に描いたような、そんな印象を与える村だった。
「……何だか時が止まってるみたいだ」
ミクリオの言葉に、家の焼け跡や残骸を見てスレイも同感に思う。
確かに、メーヴィンに見せてもらった過去のカムランと、あまり変わりがないように見える。
あれから少なくとも十年以上は経っているのだ。にもかかわらず、柱や木材の風化はみられない。
「実際そうなのかも。マオ坊のあのバカみたいな力を考えればね」
彼らの疑問に答えたのはエドナだった。マオテラスの暴走した力が、神殿の手前にあるカムランにも影響を及ぼしているのだろうと。
時空を歪めるほど強大な力を持っているのかと息を呑む半面、マオテラスが大地を器にして穢れを浄化していたという事実に妙に納得した。かの五大神の筆頭は伊達ではない。
ふと、壊れた家の傍に横倒れになった石碑を見つけた。
何となく気になって近付き、石碑の前で膝をつく。まだ新しいそれについた砂埃を手で払うと、石碑に刻まれた文字が見えた。
『この村から始めよう』
古代語ではない、現代の言葉で綴られた文字を思わず凝視する。
―――この村から始めよう。だから、『始まりの村』。
見開いていた目をやがて穏やかに伏せて、砂を払っていた手をそっと石碑に置く。
「カムラン開拓の記念碑か」
「うん……『災厄の時代が始まった』って意味じゃなかったんだな」
「……そうだな」
ミクリオの声に、どこか安らいだ雰囲気を感じとった。スレイも胸の内に広がる安堵に、無意識に強張っていた肩からふ、と力が抜ける。
「希望がこもった名前だったんだね」
「私もそう思うよ。きっと先代導師様の、そして村人全員の願いが込められた名前なのだろうね」
ロゼとアリーシャも彼らの言葉に同意する。希望、夢、理想、平和……カムランと開拓したミケルの、人間と天族に対する想いの一端を少しだけ感じとれた気がした。
じわりと嬉しさが身体に沁みこんできて、スレイは白い石の表面を優しく撫でる。
「……ここで亡くなったのですね」
ぽそりと、小さく紡がれた声を聞いた。スレイは視線を滑らせ、両手を胸の前で組んで目を伏せる女性を見遣る。
「ライラ、大丈夫か?」
先代導師に想いを馳せているだろう彼女に、スレイは気遣うように声を掛ける。だが、ライラは思っていたよりもずっとしっかりとした表情でスレイに微笑んだ。
「ありがとう、スレイさん。もちろん大丈夫ですわ」
その声音も、虚勢を張っているそれではない。その言葉を受け止めたスレイも安心して笑みを浮かべる。
自分も成長したように、彼女もこの旅で乗り越えたものがあったのだろう。火の試練神殿のときのような不安定さは、もう今のライラには感じられなかった。
「しっかし、おっそろしい量の穢れだな。スレイがいなけりゃドラゴンになってるぜ」
がりがりと頭を掻きながら、ザビーダが大袈裟にぼやく。
彼のおどけたような調子はどこにいても変わらないようだ。いや、こういう場所だからこそ変わらないのだろう。
「マオテラスが発しているのか…マオテラスに流れ込んでいるのか……とにかく、この穢れがマオテラスを憑魔にしている原因なんだ」
「あの子が遺跡で待ち伏せしてたのも納得。この穢れじゃ近付けないわ」
顎に指を添えて呟くミクリオに、ちらりと視線を後ろに向けてエドナが言った。
彼女の言葉に、スレイは眉尻を下げて悲しそうに後ろを振り返る。未だ遺跡の奥から、ヘルダルフに従順に仕えていた少女の泣き声が聞こえてくるようだ。
「…サイモンってなんか憐れ。業とかいうのに、ホント苦しんだんだね」
「ヘルの野郎に仕えることで、やっと自分の存在意義を感じられるぐらい、な」
マビノギオ遺跡の隠し扉を開けた瞬間、スレイ達はサイモンの結界に包まれた。彼女の幻術により広大な砂漠を延々と歩き、襲ってくる憑魔やスレイとロゼの分身と剣を交え、そしてついにサイモンを追いつめたのだ。
濃い穢れの中で充分に力を発揮できなかったサイモンは、最後は自ら手を下そうとスレイに武器を向け、しかし力を使い果たした彼女の力では適うはずもなく地に伏した。
「あんなすごい力を持ってるのに、自分を信じられなかったんだ」
憐憫を込めてロゼは言葉をこぼす。超人的な力を得て、身のほどをわきまえずに力を振るう者達は何人も目にしてきたが、サイモンはそんな奴らとは真逆だ。
『違うな』
彼女のことが理解しきれずに呟いた言葉は、同じ業を背負う天族によって否定された。
『あんな力を持っているからこそだ。制御できない力は、てめぇひとりで背負える覚悟がなけりゃただの重荷でしかない』
重々しく、けれど彼自身はどこか吹っ切れた様子でデゼルは言い切った。過去、復讐に身をゆだねることで己の力を否定した彼の言葉は、確かに説得力があった。
そうか、ひとりで背負うしかなかったから。共に支えてくれる仲間がいなかったから、サイモンは。
「……伝わったかな。オレ達の言いたいこと」
以前、サイモンが問い掛けた。存在するだけで不幸をもたらす業を持ったものは、存在自体が悪なのか、死ぬべきなのか、と。
その問いの返答を、スレイは去り際に答えたのだ。
―――どんなヤツだって居てもいい。みんな幸せになる方法、きっと見つけるよ。
善人でも悪人でも、人間でも天族でも。存在しているだけで死ななければいけないひとなんて、それこそ存在しない。
大罪人だと人々から責められる人もいる。英雄だと讃えられる人物もいる。
だがそれは結局、全て周りが決めた評価なのだと、そう気付くのに時間はかからなかった。
それはスレイが旅の末で導き出した答えで、その実自分の奥底に常にあった思いだった。最初からロゼのことを決して悪いやつではないと感じていたのは、ひとえにその考えがスレイの根幹にあったからだろう。
だが、答えを聞いたサイモンは泣いていた。残酷だと、今まさに自分は彼女の幸せを奪っているのだと悲嘆に暮れていた。
スレイは悲しみと不安の入り混じった表情をして、手のひらをぎゅっと握りしめる。
あのまま、サイモンが立ち上がれないままだったら。
「わかりません……ですが、耳は傾けていましたわ」
もっと言葉を重ねていればと俯くスレイに、ライラが静かに声を掛けた。
「今はそれだけで充分ではありませんか?あとはサイモンさん自身が考えて、自分なりの答えを見つけるはずです」
「そうそ。スレイが全部教えちゃったら、それこそヘルダルフと同じことになっちゃうしね。依存する先がスレイに変わるだけ」
言って、ロゼはスレイの背中をぽんと叩く。
「あたしもスレイもアリーシャも。あたしらはいつだって自分で考えて道を決めてきた。でしょ?」
腰に手を当ててロゼはにっと得意げに笑う。その隣りで、アリーシャも力強い笑みを浮かべて頷いた。
「……そうだよな。答えを見つけるのは、サイモンだ」
彼女たちの言葉と笑顔に、スレイは口元を緩めた。胸につかえていた重石がころん、と取れた気分だった。
そういえば、とふとひとつ思い出して、スレイはアリーシャを振り返る。
「アリーシャは大丈夫だった?辛かったり、怖い夢を見させられたとか……」
スレイを動揺させるためだろう。サイモンの術によって、アリーシャだけが一時的に引き離されたのだ。
幻術が解けたと同時に目を覚ましたからよかったものの、サイモンの後ろで目を閉じて倒れている彼女を見つけたときは背筋が凍ったものだ。
「いや、情けないが私はただ眠らされていただけだ」
「本当に?」
「本当だ」
念を押して尋ねるスレイに、苦笑いをしながらアリーシャは大丈夫だと口にする。
「寧ろ懐かしい夢を見ていたような……もしかしたら、アイゼン様のコインが護ってくれたのかもしれないな」
少女はごそりと懐から小さな袋を取り出して、その中から一枚の金貨を出してみせた。
綺麗に磨かれて輝く金貨には、表と裏に髪の長い女性と男性(アイゼン曰く女神と魔王だそうだ)が描かれている。その昔、アイゼンが穢れから身を守るために器としていたものらしい。
パワントの装飾品の一部が壊れた代わりとして、彼自身から渡されたものだ。
「かもね。そのコインはお兄ちゃんですら宿せた大物だし。そのままもらっちゃえば?」
「ふふ、それはできません。アイゼン様に全てが終わったら返すように言われていますから。もちろんエドナ様経由で、と」
「……心配性」
ほそりと呟かれた悪態に、アリーシャは楽しそうにくすくすと笑う。
彼女らを眺めていたスレイは、その様子を見て穏やかな気持ちになる。少しだけ、アリーシャがエドナに対して遠慮がなくなったように感じる。それは決して敬意が薄らいだわけではなく、もっとずっといい方向に。
視線に気づいたのか、アリーシャとはたと目が合った。互いに目をしばたかせ、顔を見合わせてやわらかな笑みを浮かべる。
―――この笑顔を見るためなら、何だって。
そんな気さえ湧いてきて、スレイの拳に力が入る。
「いよいよ決戦だ。みんな、最後までよろしく頼む」
スレイはカムランを背に、何度も口にした言葉を仲間達にかける。
「そうだけど、気負いすぎはノーサンキュー!忘れんなよ?あたしもスレイも今まで通り、でしょ!」
腰に手を当ていつものように強気に言いきったロゼの傍でライラが同意するように微笑む。
「スレイさん。あなたの後ろには、私たちが居ますわ。それを忘れないで」
「そういうことらしいわ」
「そういうことらしいな」
「そゆことそゆこと!だからスレイは、あたしらにかまわず思いっきりやっちゃって!」
まるで他人事のように肩を竦めるザビーダとエドナに続き、ロゼがうんうんと頷いて晴れやかな笑みを向けた。
スレイは仲間を見渡しながらゆっくりと目を閉じて、やがて同じくらい時間をかけて新緑の瞳を露わにする。
「ありがとう。みんな」
ただ一言。けれど万感の思いを込めて感謝を伝えた導師に、皆満足そうな笑みを浮かべた。
そのなかで、青銀の髪をした少年と薄金の髪をたなびかせた少女が一歩、決意を宿した面差しで前に出る。
「決着をつけよう。全てに」
ずっと共に成長してきた親友が、流水のように涼やかに、そして確かな強さを秘めて言い放つ。
「行こう。スレイの…私たちの出した答えを示すために」
この旅のはじまりを作ってくれた大切な少女が、出会った頃と変わりなく凛とした、しかしあの時よりも揺るぎない声音を響かせた。
二人の言葉にスレイは力強く頷き、カムランの奥へと足を踏み出した。
◆ ◆ ◆
黒とも紫ともつかない濃い穢れにまみれた空間の中、何度訪れても変わらず真白いままの神殿は異質に見えた。まるで神殿全体が穢れという存在を拒絶しているかのようだ。
黒の一切を拒み、白で塗りつぶされた空間。夢想で固められているような、自然の摂理に反した異常さを感じる。
「そうは思わぬか?」
神殿と同じく、大理石を思わせる質の白い玉座を見下ろし、災禍の顕主――ヘルダルフは誰かに問い掛けるように呟く。獅子の姿をした異形以外いない部屋で、しかし異形の問いに答えるように別の呻き声が響いた。
肯定とも否定ともつかないその声に、獅子の異形は満足げに鼻を鳴らす。元から明確な答えなど求めてはいない。”それ”に求めているのは別の使い道だ。
王の椅子を見つめていたヘルダルフは、ふと白い面のような顔を上げた。
「さぁ、来おったぞ」
言うが早いか、この部屋に通じる唯一の扉が音を立てて開く。次いで張り上げた声がこもった空気を吹き飛ばした。
「ヘルダルフ!決着の時だ!」
この白い部屋に似合う、この神殿を覆う穢れに不似合いな少年の声にゆっくりと振り返る。そこには白いマントを羽織った導師と、それに付き従う者達の姿があった。
疼きだした左手を握り込み、災禍の顕主は若い導師に向けて口を開く。
「苦しみとともに生きねばならぬ世界……全ての者は、これからの解放を望んでいるのは明白。何故それに抗う、導師よ」
「……確かに、お前の目指す世界では苦しみから逃れられるのかもしれない。けど、やっぱ違うと思う」
ここに来るまでに世の闇を幾度も目にしたその深緑の瞳は、ただ真っ直ぐにヘルダルフへと降り注ぐ。
「僕らは苦しみから目を背けたくない」
「厳しい現実を乗り越えた先に、己が理想を掴めるのだとこの身で実感したからこそ」
導師の両脇に、かつてこの村を収めていた男によく似た天族と師匠を愚直なほどに信じていたハイランドの姫が獲物を構える。さらに二人の隣で紙葉を浮かせた女と双剣を抜いた少女が、彼らの言葉に頷いてみせた。
「辛い事があるから、楽しい事を実感できるのですわ」
「だね。あたしらは、生きてるって感じたいんだ」
いっそのこと清々しいほど青臭いその台詞に、ヘルダルフは呆れたように鼻を鳴らした。
「苦しみに抗う事でのみ得られる安寧……そんなものを世界が享受するはずもあるまい」
苦しみに抗った結果はどうだ。功績に嫉妬され仲間に刺された女騎士。全てを失い、辺境の村に逃げた教皇。責任を押し付けられ、その重みに耐えきれず凶行に及んだ枢機卿。
他ならぬ自身も、抗った結果地位も名誉も、家族さえも失った。
「別に逃げるのが悪いってワケじゃないわ」
「俺らがそうしねぇってだけさ」
「……ワシは自然の摂理を語っているのだ」
そうする、しないの話ではない。世界が”そう”作られているのだ。
「摂理に従うのが生きる事だってことなのか」
「無論の事よ」
だのに、導師は今更それを確認する。ヘルダルフは不思議でならなかった。
あれだけの現実を目の当たりにしながら、何故わからない。抗った者ほど大きな穢れを生み出し、そのような世の中に絶望して憑魔に転じる。この世の歪んだ理を。
だが導師は目を吊り上げて違う!と否定した。
「それは死んでないだけだ。それがどれだけ苦しいことか、お前は知ってるはずだ!」
あまつさえ、わかったような口を聞く。痛みに耐えるような顔すらして。
こちらの存ぜぬところで何を見てきたのか知らないが、あまりにも幼稚で傲慢なことだ。
赤の他人が何を見てどう感じようと、我が身に降りかかった痛苦に満ちた人生を理解したと思うのは驕りというものだ。
胸にかかったモヤごと吐き出しかけた溜め息を呑み込み、災禍の顕主は静かに問い掛ける。
「最後にもう一度問おう、導師スレイ。ワシに降れ」
「断る!」
再度の誘いを、やはり導師ははね除けた。予測していた展開は、ヘルダルフの想像と寸分も違わず同じ道をなぞっていく。
ヘルダルフは無言で構える。この姿になってからいずこかへ消えた剣は使わなくなった。代わりに鋭い爪と巨大な拳が己の武器だ。
「災禍の顕主と導師……やはり世の黒白(こくびゃく)ということか。だがワシは白には変じぬ!」
「オレも黒にはならない!行くぞ、みんな!」
『まずはマオテラスの力を引き出させろ!話はそれからだ!』
「そうしなければ、繋がりを見いだせません!」
「承知しました!」
「了解!デゼル、ガードよろしく!」
スレイの掛け声に従士と陪神が瞬時に動く。以前より遥かに洗練された動きだ。
未だ己の内にある武人としての魂が、好敵手との出会いに高揚していることに気付いた。翼を折ってやったあのドラゴンと対峙した時以来だろうか。
しかしヘルダルフは湧き上がる熱とは裏腹にぞろりと牙を剥き出しにして冷笑を浮かべ、刃のない剣を振り下ろす導師に向けて左手をかざしたのだった。
軽く受け止められることを承知で切り込んだスレイは、ヘルダルフの黒い手のひらを凝視したまま呼吸を止めた。
この部屋に入った時から、前に相対した時には感じなかった違和感があった。ざわざわと産毛が逆立つような、小さな頃から覚えのある感覚。
憑魔化したハイランド兵の屍が点々と転がり、変わり果てた姿になっていたイズチで、ジイジの家に避難していた皆に聞いた。カムランの封印を解こうとする人間を追い払うために、ジイジはひとりで遺跡に向かったのだ、と。
しかしここにくるまで、ジイジの姿は見当たらなかった。サイモンも言っていた。ジイジはヘルダルフに捕らわれたのだと。だからジイジの気配があってもおかしくはないと思った。
ヘルダルフがどこかにジイジを捕らえて、隠しているのだと。気配がなかったらもうヘルダルフの手にかけられているはずだ。
そんな僅かな希望を見出して、内心で安堵すらしていたのだ。
なのに、今目の前にあるのは。
目の前の、苦悶に満ちたしわまみれのその顔は。
信じられない思いで愕然と目を見開くスレイを見て、ヘルダルフがにたりと嗤った。
「親だけは捨てられぬか。いかに成長しようと、それが貴様の限界よ」
紛れもなく、見間違えるはずもない、自分とミクリオの、大切な―――。
「―――!?うわぁぁあッ!!」
刹那、部屋全体に紫電が雨のように降り注いだ。轟音と共に全身を駆け巡る電撃に、誇張などではなく目の前で火花が散る。
スレイはたまらず叫び声を上げて、硝煙を立ち昇らせながら白い床に倒れた。
雷撃はスレイだけに留まらなかったのだろう。背後で仲間達の呻く声も聞こえてきた。
「この、いかずちは…っ、ジイジの…!」
その力の正体にいち早く気付いたのは、やはりミクリオだった。息も絶え絶えに吐き出した言葉は悲痛そのもので、スレイは胸に走った鋭い痛みに歯を食いしばる。
「取り込みやがったのか…!」
「なんと愚劣な…」
膝をつきながら、ザビーダとライラが怒りの滲んだ声をもらす。
意思を保ったまま穢れの源泉たる災禍の顕主に取り込まれたということは、猛毒が満ちた密室に閉じ込められたことと同じだ。今、ゼンライが味わっている苦しみは計りしれないだろう。
殺すよりもいっそうむごい仕打ちに、ゼンライと古くからの既知であったライラは唇を噛みしめる。
「ライラ!浄化すればジイジは助かるんだろう?!」
「…………」
「ライラ!」
ミクリオの今にも泣き出しそうな叫びに、ライラは更に唇を強く噛んで俯く。
彼らがジイジと呼ぶ天族、ゼンライを助ける方法はある。
だがライラの口からそれを言うことはできない。どうしてもできなかった。
「貴様…!」
「とにかく一度ぶっ飛ばすっ!話はそれから!」
ライラだけではない。アリーシャもロゼも、ここにいる全員がその問いに答えることはできない。
自分達は決めたのだ。マオテラスを救うことを。ヘルダルフをも救いたいというスレイの想いを叶えるために、全力を尽くすと。
ミクリオだって、本当はもうわかっているのだ。未だ呆然とヘルダルフを見上げているスレイも。
わかっているからこそ、それを自ら口にできないのだ。
「黒にならぬと言ったな。今お前に湧き出ている感情はどうだ?」
左右から攻撃を仕掛けるロゼとアリーシャに、ヘルダルフは再び雷撃を放つ。紙一重で避けながら好機を窺う少女らを見下ろす災禍の顕主から、彼とは別の苦しみに唸るしゃがれ声が聞こえてきた。
「愛する子を傷つける苦悩……伝わるか?」
剣をじわりじわりと突き刺すような鋭利な言葉を紡ぐヘルダルフに、スレイはかっと目を見開いた。
「ヘルダルフ――ッ!!」
雄叫びをあげた勢いで立ち上がり、儀礼剣の柄を痛いほど握りしめる。頭の中が沸騰したように熱い。思考が怒りで埋め尽くされそうだ。
全身から溢れ出る怒気にヘルダルフは皮肉げに口角を持ち上げ、これみよがしに左手を前にして構えた。
「スレイ、ダメだ!」
獅子の男に今にも飛びかかりそうな少年に、凛と厳しい声音が静止の声を掛けた。
ヘルダルフを視界から遮るように現れた白と薄桃の背中に、スレイは駆け出そうとした足を驚いて止める。
「君の気持ちは痛いほどわかる…だが、ここで怒りに任せてしまったらそれこそ相手の思うつぼだ!」
「でも…!」
「スレイを育てた御仁は、きっとそんなことを望んではいないはずだ!だから…!」
ヘルダルフを睨み付けながら自分を諭すアリーシャを見つめる。でも、ともう一度同じ言葉を吐き出そうとして、その華奢な身体が小刻みに震えていることに気付いた。
「待て!ロゼ!」
ふと、悲鳴混じりの声が空を裂いた。反射的に視線をそちらに向けると、双剣をヘルダルフに向けて今にも攻撃に転じようとしているロゼを必死に止めるミクリオの姿があった。
「……わかってとは言わない。あたしを憎んでもいい」
髪に隠れていた横顔が、スレイに向けられる。苦しさの滲んだ、けれど覚悟を決めた顔。
「今だけは、あたしに任せて」
「ロゼ……」
スレイが彼女の名を呟くと同時にロゼが動く。風の力を受けながら走る少女は、目にも止まらぬ速さでヘルダルフの背後を取った。
「あたしが何とかする!そう決めたんだから!」
だが、ロゼの短剣が振るわれるよりも早くヘルダルフは身体をひねり、柄を握った腕ごと捕らえて攻撃を止めた。
「自らの家族だけは失いたくない……たいした覚悟だ」
「ふざけんな!おじいちゃんもミューズって人も、ホントだったら犠牲になる必要なんてない……全部あんたのせいでしょ!」
ロゼが投げつけた詰りを意に介した様子もなく、ヘルダルフは彼女の短剣を掴んだまま雷を落とす。
スレイ達が叫ぶ間もなく雷撃はロゼに襲い掛かった。まともに攻撃を受けたロゼは悲鳴を上げ、力が抜けた瞬間床に叩きつけられた。
『ロゼっ!』
「うっ……く……」
「エドナ様、回復を!」
「言われなくてもわかってるわよ…!」
苦悶の表情でうずくまるロゼを中心に陣が形成され、穏やかな光が降り注いだ。癒しの光を受けながら、ロゼはまた立ち上がろうと痺れた手足に力を込める。
自らの手で手を下そうとするロゼのその姿に、スレイはくしゃりと顔を歪めた。
自分の代わりに、嫌なことを引き受けようとしてくれている。命の重みを充分にわかっていながら、それでも躊躇わずに。
言葉にしない優しさに、鼻の奥がぐっと熱くなった。
自分が道を誤らないように止めてくれる人がいる。自分のために罪を背負おうとしてくれる人がいる。自分を信じて、見守ってくれる人たちがいる。
心から自分を想ってくれている仲間の想いが身に染みる。いつだってこの身を、仲間達が支えてくれた。
だから自分は、ここまでこれたのだ。
―――けど、それだけじゃダメだ。
滲んだ視界を腕で拭って、俯いて顔を上げる。
「スレイ…」
「アリーシャ。もう大丈夫だから」
スレイを守ろうと立ち塞がるアリーシャの手を槍の柄ごと握り、耳元でありがとう、と呟く。
震えを誤魔化しきれていないその声音に、アリーシャは全てを察したようだった。悲しそうに眉尻を下げながら、彼の道を開けてくれた。
スレイは静かに足を進めて、起き上がろうとするロゼの前に立つ。
「スレイ…?」
「ありがとう、ロゼ。本当に」
泣きたいのを必死に堪えて、スレイは笑った。笑わないとスレイの中の色々なものが、全部崩れてしまいそうだった。
言葉を失って呆然と自分の顔を凝視するロゼを背にして、少年は儀礼剣をヘルダルフに向ける。
本当は嫌だ。すごく嫌だ。
産まれたときから育ててくれたひとだ。ずっと自分達のことを見守ってくれていたひとだ。
感謝してもしきれないくらい、色んなものをくれたかけがえのないひとだ。
けど、それでも。
「これは……これだけは……オレがやらなきゃいけない!」
だからこそ自分自身の手で、終わらせなくちゃいけない。
「スレイ……」
膝を折って手をついていたミクリオが、スレイの覚悟を見て目元を乱暴に拭って立ち上がった。
腫れた目をしながらスレイの隣に並び、強い眼差しで自分を見る。
「君一人には背負わせない」
色んな感情が内包した、けれどそれを全て押し込めて決意したその紫水晶の双眸を見て、スレイは唇を引き結んで頷いた。
「『ルズローシブ=レレイ』!」
白い衣装に身を包んだスレイは巨大な弓を構え、自分とミクリオの霊力を矢に注ぎ込む。
『……狙いは僕が合わせる。タイミングは……スレイ、任せた』
「ああ……わかった」
身体と視線が自然と動く。その先には災禍の顕主。獅子の男の左手に浮かぶ苦悶の面相。
その顔を見つめているうちに、在りし日の思い出が次々と浮かび上がる。
―――『スレイや』
想いを込めるように、ゆっくりと穏やかに名前を呼ぶしゃがれた声が好きだった。
―――『このバッカも――んっ!!』
本物の雷が落ちてきたかのような怒号は、いつだって怖くて緊張した。
―――『ふふ……わかっておるよ』
自分の事をわかってくれて、何もかもを許してくれるような、そんな優しい顔が。
―――『自由に、自らの思う道を生きよ。お前の人生を、精一杯』
しわが沢山刻まれた顔にくしゃくしゃな笑みを浮かべて、頭を撫でてくれることが大好きだった。
『ジイジ…っ…』
「この痛み……忘れない…っ」
口の中から鉄の味がするほど奥歯を食いしばり、スレイは矢を射った。同時に放たれた紫電と霊力の巨大な矢がぶつかり合う。
閃光が火花を散らし、目を焼いた。拮抗した力はやがて互いに打ち消し合い、大きな爆発音と霧を噴出しながら消えていった。
視界の悪くなった室内を、スレイは迷いなく駆け抜ける。
水面を滑るように足が動き、霧の向こうにいる大きな影を捉えて飛び出した。
「貫けぇっ!」
虚を突かれ咄嗟に出された左手めがけて、スレイは弓のとがった柄の先を思い切り振り下ろした。
辛そうに自分達を見つめる顔に、声には出さずにごめん、と謝った。
悪いことをしたときは思い切り叱って、何かできることがひとつ増えたら目一杯褒めてくれて。
自分達がわがままを言ったときは諭されるけど、最後はこっちの意志を尊重して、背中を押してくれた。
腰の曲がった丸い背よりも大きくなっても、ずっと追い付けなかった広い背中。
いつか追い越したいと思っていた。いつか追い越せるものだと思っていた。
ずっとずっと、自分が成長してからもイズチの家で、ずっといてくれるものなんだと……当たり前のようにそう思っていた。
目の奥が熱くなると同時に、目の前がぐらりと歪んだ。ぼやけた視界の先に、先端に霊力を集中させた弓と巨大な手の平がある。
「『うおおぉぉおっ!!』」
その弓はやがてヘルダルフが築いた障壁を打ち破り、皮膚を貫く感触をスレイとミクリオの手に与えたのだった。
―――よくやった。スレイ、ミクリオ……
さらさらとすくった水のように消えていくジイジの霊力を感じながら、確かにその声を聞いた。
それは幼い自分達の頭を撫でながら褒める、笑顔のジイジと寸分も違わない声で。
最後の最後まで適わないやと、慟哭する数多の感情の片隅でスレイは困ったような笑みを浮かべた。
「自ら手を穢し、涙してまでも抗うのか……」
神依を解いた少年らは、肩を震わせてぼろぼろと泣いていた。そんな彼らを守るように、仲間達が彼らの前に立つ。
誰もが悲嘆にくれた顔をしながら、しかし誰も折れていなかった。
ここまでしても真っ直ぐに己に立ち向かうその姿に、ヘルダルフは胸の内で感心した。呆れにも似た感心だった。
「……よかろう。真の孤独をくれてやる」
だが、それを貫く意思には敬意を払うべきだろう。かつて白皇騎士団の初代団長を務めた男はそう判断し、片手を掲げる。
「―――マオテラス!」
我が身を呪い、そしてその穢れに染まった五大神の筆頭の名を叫ぶ。刹那、その身に溢れんばかりの力がみなぎり、黒い光が全身から吹き出した。
閃光に目を潰されないように顔を背けたスレイ達は、目を逸らした先で白い壁が崩れていく様を見た。
辺りを見回せば、玉座の間以外の神殿が瓦礫と化していた。
床や柱であっただろう欠片は、この場から逃げるように重力に逆らって上へと飛ばされていく。それともこの部屋が奈落へと落ちていっているのか。
「これは……」
「マオ坊の力が暴走してんだろ。風が読めねぇ」
スレイがこぼした呟きを、ザビーダが拾って舌打ちをした。
「それに地脈の力も利用してる…。大地の気もメチャクチャだわ」
傘を前にかざしながら床を確かめるように踏むエドナも、煩わしそうにそうこぼした。
これがマオテラスの力。スレイはごくりと生唾を呑む。実際に目の当たりにすると、改めて途轍もないと痛感する。
「ロゼ、平気か?」
「ん、もう大丈夫。ありがと、アリーシャ」
耳に捉えた声に視線を滑らせれば、煤のついた顔を拭いながら立ち上がるロゼと彼女の肩を貸すアリーシャの姿。
とりあえず全員無事なことに安堵したところで、前方の光が徐々におさまりはじめた。
目を眇めて光が完全に収束するのを待ち、やがてあらわになったその姿に全員が言葉を失った。
雄々しい獅子の顔に、ドラゴンの身体。骨のような質感の鱗に覆われた皮膚に、人間に似た両腕。鱗の隙間からは、濃紫の穢れが脈打つように流れる様がまざまざと見えた。
ひとの恐れというものがそのまま具現化したといっても過言ではない、破壊神がそこにいた。
白いたてがみをたなびかせ、鋭い牙をぞろりと見せて異形は語る。
「決意、覚悟、全て無駄。この力の前ではな!」
その声は紛れもなくヘルダルフのものだ。
スレイ達は今まで戦ってきたどのドラゴンよりも巨大な彼を見据えて、武器を構える。
「もうお互い引けない……退いたらこれまでの事を否定することになる。そうだろ?ヘルダルフ!」
「小童がワシを語るか……片腹痛い!」
ヘルダルフが話すたび、夥しい穢れがスレイ達に降りかかる。先程よりも身体に圧し掛かる重圧が明らかに増している。
こうしている間にも周囲の崩壊も着実に進んでいる。あまり長期戦には持ち込めない。
「スレイ、僕らは君を信じてる。だからスレイも僕たちを信じてくれ」
長杖を構えたミクリオがそっと声を掛けてきた。ヘルダルフから視線を外さないまま、スレイは仲間の声に耳を傾ける。
「神依による最大の攻撃を撃ち込んでください!」
「慎重かつ大胆に、ね」
「とにかくぶっ放せ。前みたいに躊躇うんじゃねぇぞ!」
「サポートはまかせて!やってやる!」
『外すんじゃねぇぞ、スレイ!』
強さを失わない彼らの頼もしい言葉を聞きながら、スレイはポケットに収めた銃の柄を握りしめる。
「私の全てをかけて、君を守ってみせる。私たちが必ず活路をひらく。だからスレイはジークフリートだけに集中してくれ」
長槍を構え、アリーシャがよく通る声音で言った。こちらを見た拍子に花に似た髪飾りが揺れ、咲き誇るような美しい笑顔をスレイに向けた。
「共に叶えよう、スレイ。私たちの夢を」
「……ああ!」
鼓膜が破れるようなドラゴンの雄叫びを合図に、互いの命を懸けた戦いが再び幕を切った。
『まずは俺様が先陣を切ってやるよ』
自分達の背丈を一回り以上も上回る巨大な手と天災にも勝るとも劣らない天響術の猛攻にひたすら耐え続け、僅かに生まれた隙をついた時だった。
地の神依をまとったロゼの岩の拳とアリーシャの槍術が巨大な顎を力の限り叩きのめし、眩暈を起こしたヘルダルフを見て飄々とした声が囁く。スレイは無言で頷き、そしてザビーダの真名を叫ぶ。
風を切る刃の羽根で空を飛び、かざした手中の光から美しい銃を取り出した。
『わかってんなスレイ!!』
「ああ……」
祈るように、スレイはジークフリートを額につけて目を閉じる。
ザビーダがやったら様になるんだろうな。ふとそんな姿が思い浮かんで口の端を上げる。口元の震えには気付かないふりをした。
『怖気づいたか、導師殿?』
「違うよ。これは…そうアレ、武者震いってやつ」
『へっ、言うようになったじゃねぇか』
こんな状況でも変わらないザビーダの調子に小さく笑い、スレイはヘルダルフを見据えて銃を構えた。
気の向くままにさすらう風。だが本当は確固たる信念を持って、時に裁きの刃を下す荒々しい旋風。
自然と頭の中に浮かぶ言葉を、スレイはそのまま声にして紡ぐ。
「処断せし瞬天の扇動!」
『良い頃合いだ―――いくぜ!』
「『シルフィスティア!!』」
ドウッ!と大きな破裂音を立てて、淡い緑の閃光がヘルダルフに貫く。肩が抜けそうになるほどの衝撃が両腕を突き抜け、顔をしかめながらもザビーダの行方を追った。
『続けていくわよ』
「エドナ…」
『一発で何とかなるような相手じゃないのはわかるでしょ。今のうちに早く』
腕の痺れが治まらないうちに、鈴の音を鳴らしたような涼やかな高い声に促される。
スレイは一度瞑目して、ジークフリートの柄に力を込めた。深く息を吐いてから、空いている片手を掲げて『早咲き』の名を口にする。
「『ハクディム=ユーバ!』」
スレイの瞳が大地の色に変わり、巨大な岩の拳が現れた。神依の力に呼応して銃が巨大化し、その身を白く輝かせる。
「ありがとう、エドナ。最後まで一緒にきてくれて」
『何?今更改まって』
「本当はさ、一緒にいたかったろ?お兄さんと」
『あら、この戦いが終わったら、まるでお兄ちゃんとは二度と会えないような言い草ね』
エドナの皮肉交じりのその台詞に、スレイはえ?と声を上げる。
「だって――」
『諦めないかぎり、希望は消えないんでしょ?アナタが言って、証明してきたことよ』
「エドナ……」
出来の悪い弟に言い聞かせるような、そんな優しい声音に胸がつまった。
エドナは今、きっと滅多に見られない表情で笑っているのだろう。
見れたらよかったな。そう残念に思いながら、目に滲んだものをごしごしと拭った。
太陽が照らす大地は橙。気高くて、勇ましくて、どこか寂しくて、優しい色。
けれどエドナには、野花のような可愛らしい黄色が一番似合うと思う。意外としたたかなところも、というのは、流石に本人には内緒だけれど。
「黄昏し巨魁の鍵亭!」
『終わらせるわ。いい加減正気に戻りなさい、マオ坊!』
「『アーステッパー!』」
スレイの全身が光ったかと思うと、間をおかずに山吹色の光が銃口から放たれ真っ直ぐに吸い込まれていく。
力の弾は確実に当たっている。だが、ヘルダルフに些細な変化も起きない。
不安に駆られるスレイ達に向けて、くつくつと無慈悲に嘲笑う音が崩壊しかかった空間に響いた。
「残酷にして無謀極まりない。仲間と称するものを犠牲にしながら、何の功も奏しておらん」
犬死よ。
投げつけられた蔑みの言葉に、スレイはぎり、と痛いほど拳を握る。
「オレは…オレたちは……」
圧倒的な力の前では何もかもねじ伏せられてしまうのか。大切な者の、命すらかけても。
ふいに心に吹きかけた臆病風を、スレイは勢いよく首を振って頭の中から追い払う。
違う。そんなことはない。
「オレたちは!信じた答え、信じてくれた道を貫く!」
ヘルダルフが吐き出した炎を薙ぎ払い、スレイは声を張り上げる。
エドナも言ってくれた。無意味なんかじゃないと。
今までの旅が、何よりそれを証明している。
「スレイ、次は僕がいく」
周囲に飛び散った火の粉に水の弾を放って消していたミクリオが、隣に立って呟いた。
「あの二人だけだと、どこかで油を売ってるかもしれないからね。アリーシャ、ロゼ。スレイのこと、最後までよろしく頼むよ」
「ミクリオ様……はい、もちろんです!」
「当ったり前!安心して行ってこい!」
「ミクリオさんもご武運を!」
『マジでウダウダしてるようだったら蹴りでも入れてやれ』
それぞれがミクリオに声をかけながら、ヘルダルフの隙を作るために向かっていった。
ミクリオは彼らの言葉に口の端を吊り上げ、静かにスレイと目を合わせた。スレイも応じるように彼の真名を唱え、水の神依を纏う。
幼い頃に教えてもらった彼のもう一つの名前。まさか神依のカギとなる力があったなんて、あの時は夢にも思わなかった。
「ミクリオ、さっきは―――」
『礼はいらない。前もそう言わなかったか?』
ジイジのこと、一緒に背負ってくれて。
そう言おうとして、言い切る前にミクリオに制されてしまった。
彼の言葉を聞いて、スレイは懐かしさに思わず目を細めた。やっぱり、あれから随分と時が経ったように思えて仕方ない。
「そっか。うん、そうだったな」
『まったく……そんなんじゃ僕との約束もいつまで覚えてるかどうか…』
「それは大丈夫だって。覚えてるよ。叶えるまでずっと」
『言ったな』
「ああ、言った」
『忘れてたら殴ってやる』
「だったらミクリオもな」
『僕は忘れないから、約束しても意味ないね』
まるでいつもと変わらない日常のように軽口を叩きあって、二人して声を立てて笑う。相変わらず胸は痛みを訴えてくるのに、不思議なことにもう悲しさは湧いてこなかった。
唐突に、空気が急激に熱を帯びはじめた。ライラが周囲に放たれた竜巻を天響術で利用して、渦巻く炎を作ったのだ。
誓約により強力な力を得た彼女の浄化の炎に焼かれ、脆くなった鱗を自らの鎌鼬に切り裂かれてヘルダルフは悶絶する。
『今だ、スレイ!』
ミクリオの合図に、スレイは引き金にかかる指に力を込める。
いつも共にあった。楽しいときも、辛いときも。いつもスレイの味方でいてくれて、けれど間違った選択は違うと、時には身体を張って止めてくれた。
人と水の関係が切っても切り離せないように、自分にとってもミクリオは必要不可欠な存在だった。
「青華たる冷霧の執行!」
『僕が決める……決着をつけるんだっ!』
「『アクアリムス』!」
全身から煙を上げる災禍の顕主に向けて、青白い光の弾が直線を描いて駆けあがる。
「スレイさん!」
ライラがスレイの名を叫ぶ。スレイは振り向き、駆け寄る彼女に手を差し伸べて初めて神依化した時のように声を張り上げた。
「『フォエス=メイマ』!」
現れた巨大な白い聖剣を背に抱え、ジークフリートを構えたその時。
「スレイっ!」
アリーシャの鋭い声と殺気にはっとして横を見上げる。スレイの死角から現れた巨大な手が風圧を伴ってスレイに迫る。
避けきれない。一瞬のうちにそう判断したスレイは険しい顔をして身構える。
「裂駆槍(れっくそう)!」
来るべき衝撃はこなかった。代わりにスレイの目の前に現れた人影が、その黒い手を長槍で貫いていた。
「させない……!」
「無駄なことを……」
心底呆れた様子で吐かれた呟きに、スレイはきつくヘルダルフを睨み付ける。
「まだみんな戦ってる!」
「それなのに、私たちが諦めるわけにはいかない!」
「そうだよ!あんた、それがわかんないの?!」
口々に叫ぶ少年と少女らに、ヘルダルフは無言に彼らを見下ろしたあと、深い溜め息をついた。
「そうか……よほど命が惜しくないとみえる」
『いけない!離れて!』
ライラの悲鳴じみた声が響く。しかしその声がアリーシャに届くよりも、ヘルダルフが寸刻早かった。
長槍に貫かれたまま、鋭い爪が生えた手が少女の華奢な身体を無遠慮に掴んだ。
「うぁっ…ぁああっ!」
持ち上げたまま万力で締め上げるように力を込めた手の中で、アリーシャの身体がしなる。
みしり、と骨の軋む嫌な音がスレイ達のところまで届き、耐え切れず彼女の名を叫ぶ。
「アリーシャっ!」
「このっ!やめろぉっ!!」
怒鳴り声をあげながらロゼが跳躍し、彼女を握りつぶさんとする手の甲をあらん限りの力を込めて切り付ける。
腕や肩に飛び乗りつつ振るわれ続ける双剣に、ヘルダルフが低く舌打ちをした。瞬間、腕を大きく振り上げてアリーシャを思い切り投げつけたのだ。
「スレイ!」
「わかってるっ!」
ものすごい勢いで落ちてくる少女を、スレイは必死に受け止めた。あまりの衝撃にスレイごと吹き飛ばされたが、何とか残っている床ぎりぎりで踏みとどまる。
ぐったりと力の抜けたアリーシャに、癒しの天響術をかける。青白い顔から険しさが消え、浅い呼吸が落ち着いて来たところでスレイはほっと息を吐く。
出来るだけそっと横たわらせて、スレイはヘルダルフの方へ振り返る。途端、横から来た風圧に反射的に視線を滑らせれば、再び黒い手がスレイを狙ってきていた。
「はあああっ!」
聖剣に手にかけた瞬間、今度はロゼが全身を使ってその手を防いだ。
「今のうちに!早く!」
『さっさと撃て!』
必死に攻撃を受け止めるロゼとデゼルに、スレイは頷いて銃を取り出した。
「ライラ!」
『ええ、やりましょう!』
スレイの全身から赤い陽炎が立ち昇る。白いフードが熱にあおられ、紅の双眸が禍々しいドラゴンを射抜く。
アリーシャがスレイにとって旅の始まりなら、ライラは導師としての力を開花させる鍵だった。
湖の都で導師を待ち続けていた白銀の聖女。その内に秘めていたのは、悪しきものを焼き尽くす清浄なる炎。
「業火たる白銀の聖鍵!」
『幕を引きましょう―――災厄の時代の全てに!』
「『フランブレイブ』!」
赤い光弾がヘルダルフに吸い込まれていった、その、刹那。
今まで何の変化もなかったヘルダルフの身体から光があふれ、恐ろしい絶叫と共に目の眩むような光が紫紺の虚空を照らしたのだった。
緩やかに崩壊が進む時空の歪んだ空間で、荒い息遣いだけが静寂に響いていた。
膝をつきながら呼吸を整えていたスレイは、キン、と澄んだ高い音にゆるゆると顔を上げた。
目がちかちかするほど白かった崩れかけの部屋は、穢れの影響かすっかり黒に染まっていた。だがもうここに、胸が押し潰されそうなほどの穢れはなくなっていた。
僅かに残っている床や壁と同じように黒く染まった玉座。その椅子に、座り込む人影があった。
「ヘルダルフ……」
毛皮の襟に、金の装飾が施された黒い軍服。金色の髪と同じ色の髭を生やした老人が、額から血を流してもたれていた。
ふと、彼の頭上が淡く輝いていることに気付いた。そのまま視線を上に滑らせて、スレイはあっと声を上げた。
そこには、真白いドラゴンがいた。大きな身体を子供のように丸めて、きらきらと光る神々しい姿が。
「あれが……」
―――マオテラス。
なんて綺麗なのだろう。確かに先程と変わらず圧倒的な力が伝わってくるのに、不思議と恐ろしいとは思わない。
「う…ヘルダルフは…?」
傍で倒れていたロゼが目を覚まし、のろのろと起き上がってきた。スレイと同じように視線を奥にやって、その光景を見てほっとしたように表情を緩めた。
「終わったよ……みんな……」
噛みしめるように、湿り気を帯びた少女の声がぽつりとこぼれ落ちた。
寂しそうに、けれどやりきった顔で玉座を眺めていたロゼの肩に、スレイはそっと手を乗せた。
「え―――?」
そしてその手を強く押して、満身創痍の彼女の体勢を崩した。
未だ気を失っているアリーシャの近くで後ろから倒れたロゼは、呆気にとられたままスレイを見つめる。
「スレイ……?」
問い掛けるよう呼ぶ彼女の声に、けれどスレイは淡く微笑んだだけで答えなかった。
代わりに鞘から儀礼剣を引き抜き、ロゼたちと自分との間に剣を思い切り突き立てる。
ぴしり、とひびの入る音が聞こえ、そう時間が経たずに大きな音を立てて床が割れた。
「デゼル。アリーシャとロゼをよろしく頼む」
『スレイ、お前……ああ、わかった』
戸惑うような声は一瞬で、デゼルは何もかもを察した様子で受け止めてくれた。
「スレイ!なんで!」
ふわりと上昇しはじめた床に我に返ったロゼは、今にも飛び移ろうと立ち上がった。だが、顕現したデゼルが彼女の身体に腕を回してそれを食い止める。
「このっ…離せデゼルっ!」
「暴れるな!姫さんが落ちるだろうが!」
その忠告にロゼははっと動きを止める。ぐっと悔しそうに唇を噛んで、スレイを上から睨み付ける。
当のスレイは、困ったように眉尻を下げて自分を見ていた。その姿がみるみるうちに遠くなっていく。
「―――っ、バッカやろ―――っ!!」
ぽつりと一言、何かを呟いた彼の声も届かなくなってしまったところで、ロゼはようやく彼への罵倒を振り絞るように叫んだのだった。
―――ものすごく怒ってたなぁ……
スレイはもう見えなくなってしまった虚空の先を見つめながら、苦笑いを浮かべた。
もし次に会うことがあったら目があった瞬間即行で殴られそうだ。ああでも、その前にデゼルがこれから殴られるかもしれない。
ごめん、デゼル。心の中で頼みごとを聞いてくれた天族の青年に謝って、スレイは再び玉座を振り返る。
ゆっくり、ゆっくりとスレイは足を一歩一歩進める。
ヘルダルフに近付きながら、先程耳に届いた金属音の正体を知った。
剣だ。柄に金の螺旋の装飾が施された、鈍い輝きを放つ一振りの剣。
「親を……仲間を奪われた復讐を……成し遂げたな……」
掠れた声が、呪うようにヘルダルフは語り掛ける。
その言葉を聞きながら、スレイは無言で刃の潰れていない剣を床から引き抜く。
「……災厄の時代は終わらん…」
また、ヘルダルフが呻くように呟いた。
「その剣をワシに突き立てたとき……新たな災禍の顕主が生まれるのだ……」
ヘルダルフの言う新たな災禍の顕主とは、おそらくスレイのことだ。
憑魔は人間には倒せない。それは人よりもずっと強靭な力を持っているから、というだけではない。
憑魔を殺せば、穢れが器から飛び出す。飛び出した穢れは、新たな宿主を求めて近くにいる人間や天族にとり憑いて憑魔化する。
だから導師の力が、穢れを祓う浄化の力が必要なのだ。
けれど、スレイは淀みのない足取りで、ヘルダルフの前に立った。
口元に笑みすら浮かべながら自分を見上げる老人に、スレイはヘルダルフ、と声を掛ける。
「オレは、お前のことも救いたい」
「何だと……?」
ヘルダルフの鋭い瞳に、胡乱な色が浮かぶ。スレイはただ真っ直ぐに、ヘルダルフの事を見た。
がらがらと、音を立てて部屋が瓦礫と化していく。その音を聞きながら、少年は災禍の顕主であった人間の答えを待つ。
真意を推し量るように導師を凝視していた老人は、やがてふ、と口の端を上げて呟いた。
「救い、か……この歪な世界が壊れてしまえば、これ以上の救いはないな」
その言葉に、スレイはじっと老人を見つめる。
皮肉げな笑みを浮かべる、光のない虚ろな目をした男。全身から滲み出る穢れの中に漂う、僅かに伝わるその感情に気付いて、スレイはきゅっと口を引き結んだ。
「……そうか」
そう呟き、スレイは剣を構えた。
胸の中心で輝く、獅子をかたどったような装飾品。そのすぐ横、丁度心臓がある辺りをスレイは見据えて、剣を引く。
―――ひとひとりの命を奪うのは、ほんの一瞬だった。
左胸目がけて突き出した剣は、寸分の狂いなくヘルダルフを貫き、柄越しに確かな手ごたえをスレイに伝えた。
「ぐっ!……ふふ…」
ヘルダルフは短い呻き声を上げた。笑っていたように感じたのは、気のせいだったのかどうかわからない。
スレイは歯を食いしばりながら剣を引き抜いて、数歩下がる。がらん、と音を立てて剣を落としながら、浅くなる息を整えようと必死に深く呼吸する。
「こんなことでしか、救えないなんて……」
ヘルダルフは、死を望んでいた。彼が最後に答えた望みは、裏を返せばそういうことだ。
ふいに、ぶわりと男から穢れが溢れ出し、器を求めてスレイに纏わりついた。
男が抱いていた苦しみ、憎しみ、絶望。その全てを、スレイはただ真正面から受け止める。
「おやすみ、ヘルダルフ。……永遠の孤独は今、終わった」
こみ上げるやるせなさに泣きそうになりながらも、力なく微笑んでそう告げた。
するとスレイの言葉が伝わったのか、穢れは動きを止め、やがて興が削がれたとばかりに虚空に溶けて消えていった。
それから、とスレイはゆるりと目を閉じて、再びヘルダルフを、その向こうを見つめる。
「ミケルさんも。もうこれ以上、苦しまなくて大丈夫だから」
息絶えたヘルダルフの座る、玉座の後ろ。おそらく鳶色の、男性にしては長めの髪をした男が、俯けていた顔をはっと上げた。
親友によく似た顔の男と目を合わせて、スレイはとつとつと彼に語りかける。
「ミケルさんの苦しみも、つらかったことも、目指していた夢も。オレが全部背負います。ずっと、ずっと忘れない。だから、」
どうか、安らかに。
瞠目してスレイを凝視していたミケルが、やがて張り詰めていた糸が切れたように表情を緩めた。
穏やかに微笑んで、親友と同じ紫水晶の瞳から、透明な涙をこぼして。
―――ありがとう……
礼を言うように口を動かして、同じ夢を抱いた先代導師は淡い光の粒子となって空へと昇っていった。
消えていく彼を眺めていたスレイは、満足そうに深く深く息を吐く。
これで、終わった。悲しい連鎖は、もう起こらない。
あとは自分がマオテラスと共に眠りにつくだけだ。五感を遮断して、大地を浄化しながら自分の霊応力を張り巡らせれば。
「―――、え……?」
ふと、近くで何かがちかちかとまたたいた気がして、スレイは視線を前に戻した。
すると、ヘルダルフの胸元―――自分が突き刺した傷口の奥から、数個の小さな光がふわりと現れたのだ。
赤、青、黄、緑。四色の光が喜ぶように、スレイの周りをくるくると回る。
唖然と目を丸くしていたスレイを、青い光が呆れたように目の前で揺れる。緑の光に頭を小突かれて、赤と黄色の光が笑っているのか小刻みに揺れる。
その様子を見て、スレイはようやく泣きそうな顔でくしゃりと笑み崩れた。
「みんな…っ…」
生きていたんだ。
マオテラスが護ってくれていたのだろうか。それとも穢れのない場所がマオテラスかヘルダルフの中にあったのだろうか。
いや、そんなことはどうだっていい。
ずっと痛んでいた胸を、あたたかな光が癒していく。
みんなが無事だった。その事実さえあれば、今はどうだっていい。
スレイは涙をぬぐいながら、ふわりと上空に浮かんで白いドラゴン――マオテラスと向き合った。
ぼろぼろと玉座が崩れていく。もうまもなく、全てが灰燼に帰すだろう。
マオテラスに寄り添うように、その大きな白い額にそうっと触れる。力強い、けれど優しい力が伝わってくる。
そうして四色の光が、アリーシャ達がのぼっていった彼方を見上げて、スレイは穏やかに微笑んだ。
「ありがとう―――」
信じてくれて。分かち合ってくれて。一緒にここまで、いてくれて。
この旅のなかで何度目になるかわからないそれを、万感の思いを込めて優しく呟いた。
そして導師の少年はマオテラスに額をつけ、ゆっくりと眠りにつくように安らかに目を閉じたのだった。
こうして、ひとりの少女との出会いから始まった、導師スレイの旅は幕を閉じた。
途方もなく遠い、昔の話。
けれど確かにあった、歴史のひと欠片だ。
それからの世界は、決して平坦な道を進んだわけではなかった。
悪人ばかりではない世界は、当然善人ばかりでもなく、社会というものがあれば権力というものがあり、そして野望や欲望といったものが湧きだして、悲しみが生まれる。
それらが穢れとなってひとを、天族を、世界を蝕むこともあった。
それでもいつの時代も、諦めない者はいた。信じぬく人がいた。
導師スレイの意思を継いだ者達が、伝承を語り継いだ者達が。
彼が照らした希望があったからこそ、紛れもなく現実の、この平穏な『今』がある。
そう、これからもずっと、繋がっていく――――。
「もうそろそろいいだろ?」
「…ん、もう少しだけ」
「ここに一日中いるつもりか?心配しなくても景色は逃げないよ」
ずっと飽きることなく、丘から見える風景を眺めていた親友に声をかける。
親友が今、何を思っているのか簡単に想像できる。その先にあるのは、息を呑むほど美しい湖の都だ。
もう少し浸らせてやりたいが、そうも言ってられない。
早くしろとせっついて、ようやく重い腰を上げことを確認して歩き出す。ずっと各地の遺跡を巡っていたから、この森に入るのは久しぶりだった。みんなは元気にしているだろうか。
「ミクリオ、何か急かしてない?」
「まぁね」
そう曖昧に答えを濁しながら、機嫌よく彼の前を歩く。けれどそれじゃ引き下がらないだろうことは、最初からわかっていた。
「なんだよ、気になるだろ」
むすくれて食い下がる親友にくすりと笑って、僕は歩きながらやれやれと肩を竦めて彼を見た。
そういえば身長も追い抜いていた。少し目線が違うことが、尚更気分をよくさせる。
振り向いた拍子にぱきん、と踏んだ枝がいい音と立てて折れる。案の定渋い顔をしていた親友に、また笑いがこみ上げそうになるのをこらえて、僕は勿体ぶった調子で口を開いた。
「スレイ。君に会わせたい人がいるんだ」
旅は終わった。けど、物語は続いていく。
旅を終えて、僕はそのことに初めて気付いた。
こうしている間にも、物語は紡がれていく。
そんな当たり前のことに、ようやく気付くことができたんだ。
伝承ではない平凡な、誰もが知っている安穏な物語が。
生きている限り、誰かがいる限り、果てなき道が続いている。
ひとはそれを人生と呼び、先に続く道を未来と呼び、積み重なった数多のそれを歴史と呼ぶ。
「さぁ、着いた。そろそろ来る頃だと思うんだけど…」
「ミクリオ、ここって…」
「ああ。懐かしいだろ?」
「うん、まぁそりゃそうだけど。でも来る頃って?」
誰が?スレイが呟いたその瞬間、カツン、と石畳を踏み歩く足音が聞こえてきた。
少しだけ駆け足で、どこか嬉しそうに弾む足取りで。
硬く、軽やかなその足音に、スレイがまさかと息を呑んだ。
その様を見て、気付かれないようにくつくつと忍び笑いをもらす。
これからスレイがどんな反応をするか、楽しみで仕方なかった。
だから、導師の旅は終わっても、彼の物語は続いていく。
そう、またここから。
ひとりの少女との、出会いから。
「―――おはよう、スレイ!」
彼らだけの物語が、はじまっていく。
あとがき
ここまでお読みくださりありがとうございました。当時はTOZをクリアしたときに胸に残った衝撃があまりにも強くて、本当に衝動と感情のままに書き始めたif話でした。ほんとちょっとあまりにも色んな意味で衝撃がすごくて…何でだろう、どうしてだろうと自分の中の疑問をどうにかこうにか解消したくて、攻略本と設定資料集ひっくり返しながらもう一度シナリオとサブシナリオとスキットを振り返るために二週目をはじめてひたすらに台詞をメモ帳に記録していました。今振り返ると正気を失ってたなと思います。メモ帳ファイルの量がとんでもないことになってた。
でも書ききったおかげで自分の中のいろんなものが昇華されました。書いてひととなりや世界を知っていく、というのが私の性に合っているようです。ものすごく遠回りなんだろうけども。