もしもの物語-23-



何もない空間に、気が付いたら立っていた。
金色に光る輝きも、その光が波打つように動いている景色も、千年以上も生きていて初めて見る光景だった。
「ここが…」
おそらく、アイゼンの内側。体内というわけではない。精神世界や、あの世とこの世の狭間といった類のもの。考える前に、本能的にそう悟った。
デゼルとロゼがラファーガと会ったときもこんな場所だったのだろうか。確かに地に足がついていない感覚は、まるで夢を見ているようだ。
ということは、どうやら自分の目論見は成功したらしい。
「あとは、お兄ちゃんを見つければ……」
呟いて、けれどエドナは空色の瞳を曇らせる。視線を足元に向けても、やはりどこまでも広がる山吹色の空間だけがそこにあった。
傷付けた、だろう。特にあの子は。
夢を叶えるために自ら無理を強いて、力を手に入れた人間の子供。その身体を乗っ取って、やりたくないことをさせた。
あの子は、殺さずにすむ世界を何より願っていたのに。誰かが傷つく世の中を嘆いていたのに。
裏切られたも同然だっただろう。これではあの師と変わらない。
けれど瞼を震わせて、身勝手だと思いながらもエドナは彼女を想う。願わくば、癒えない傷にはならないといい。
「……まぁ、大丈夫かしらね。あの子の隣にはスレイがいるもの」
見ているこっちがじれったいくらい初々しい二人を思い出して、ゆるりと口元が僅かに緩んだ。大丈夫だ。あの子たちは今、旅を経て確かな強さを手に入れた。この先何があってもきっと折れない、しなやかな強さを。
脳裏に映った彼らを焼き付けるように目を閉じて、やがて俯けていた頭を上げる。
自分は探さなければ。穢れの源を、兄が縛られているくさびを壊すために。
「っ、何?!」
その瞬間、頃合いを見計らっていたかのように、どこからともなく光の球が現れた。
不安定に揺れながら近づいてくる多くの光に、反射的に傘を構える。
だが、それは構うことなくふわふわと宙を舞い、彼女の頭上をくるくると回り始めた。
敵意も悪意も感じない。寧ろ自分に対して好意的にすら感じるいくつもの球体に、エドナはゆっくりと構えを解く。味方……なのだろうか。
そういえば以前、こういった光景を見た気がする。たしかあれは、アイフリードの狩り場の奥地。地の試練神殿・モルゴースで。
もしかして、とエドナは淡い光を見つめる。
「誰かの…」
そこまで言いかけて、エドナは口を噤んだ。その推測が当たっているのだとしたら、兄が原因だ。認めたくないわけではないが、口にはしたくなかった。
だが、それが事実であったとして、何故ここに存在できているのだろうか。
訝しげに未だ自分の周りを浮遊するものを眺めていると、ふいにそれらの動きが変化した。
ふわりふわりと、バラバラに動いているようでいてひとつの方向へと向かっていく。少し先へ行ったところで、また宙に静止してゆるやかに漂った。
「……ついてこいってこと?」
訳が分からないまま何となく尋ねると、光が頷くように上下した。どうやら、彼らにはある程度意思があるらしい。
罠、だろうか。兄のことを恨む者の。それにしては嫌な気配を一切感じない。
「……いいわ、案内しなさい」
エドナは少しだけ逡巡して、その光がいる場所へと足を踏み出した。どちらにしても、ここには何もない。善意であれ悪意であれ、宛てもなく探すより彼らの意図にのった方が何かは見つかるだろう。
穢れであれば祓えばいい。今の自分には、その力があるのだから。


ふわり、ふわりと、まるで踊るように陽気に動き回る光についていきながら、エドナは改めてこの場所を見回す。
本当に何もない空間だ。自分がどこまで歩いたのか、どこから歩き出したのかも最早わからない。方向感覚はとっくに仕事を放棄した。どうせ帰り道を探す必要はない。
ただ、金色の対流。それに懐かしいものを感じる。あたたかくて、力強い、そんなものに包まれているような。
自分とは異なる性状の、しかし自分と似ている地の霊力。
当たり前といえば当たり前なのかもしれない。ここはある意味、アイゼンの世界だ。血のつながりはない。けれど同じ地脈から産まれた、唯一無二の兄。
そして、その気配が段々と強まってきている。
ゆえにエドナはつい先ほど確信した。この先に、必ず兄がいる。
―――会いたい。
その衝動が、エドナの中でどんどん大きくなっていく。もうすぐだ。もうすぐ、兄に会える。
逸る気持ちを抑え込んで、丸い光を追いかける。しかし、ふいにその光が止まった。
不審に思いながら光に近付いていく。右往左往するように浮遊する様は、まるで戸惑っているようだ。
ふと、光が中心から裂けるように左右に分かれる。
ゆっくりと開かれた視界に映った光景に、エドナは思わず息を詰めた。
「なによこれ…」
一面の巨大な柵。いや、黒い鉄格子だ。
何もかもがおぼろげな輪郭のこの空間にひどく不釣り合いな、果ての見えない闇色の檻が、その先へ続く道を塞いでいた。
エドナは警戒しながらそれに近付く。何も変化がない様子に、おそるおそるそれに触れてみると、ただ冷たい感触だけが手のひらに広がるだけだった。
だがほんの一瞬だけ、憶えのある気配を感じ取った。エドナは目を見開き、半信半疑で鉄格子を見上げる。
「お兄ちゃんの仕業なの?」
気のせいかと思うほどわかりにくいものだ。だが、自分が間違えるはずがない。確かに兄の力を、この無機質なものから感じた。何故こんなものを。
この奥に何かあるのだろうか。エドナは怪訝に思いながら、おもむろに鉄格子の向こうに手を伸ばす。
―――その、刹那。
「―――っ!?」
全身が総毛立つほどのおぞましさを感じて、反射的に手を引っ込めた。
一体何がと、疑問が湧く前にその正体がわっと飛び出してきた。
黒いなんてものじゃない。うごめく闇が目に見えるようになった、汚泥のような大量の穢れ。それが一斉に現れて獣のようなあぎとを成し、今まさに白い腕があった場所を食らうように噛みついてきたのだ。
「っ……、なるほどね…そういうこと」
同時に襲ってきた、むせ返りそうなほどの濃い穢れに胸を押さえながら、エドナは納得したように呟く。
アイゼンは、これを閉じ込めるためにこの檻を作ったのだろう。おびただしい穢れの暴走を食い止めるための、霊力の檻だ。
その光が背中を丸めた自分に集まり、周りをふわふわと浮遊する。言葉も表情もないのに、心配しているような気配が伝わってくるのが不思議だった。
「平気よ。それより、危ないから下がってなさい」
身体を起こしてそう言うと、光は戸惑うように揺れた。なかなか離れようとしないそれらに半眼になって邪魔だから、とトゲを刺すと、一瞬不自然に固まっておずおずと下がっていった。顔もないのに、やけに感情豊かだ。
充分に距離を置いたのを確認して、エドナは軽く息をはいてから巨大な穢れを見据える。
ドラゴンの形をした穢れの塊が鋭い咆哮をあげる。悲しみ、怒り、嫌悪、失望、自責、軽蔑、恐れ、苦悶、欲望、憎悪、執着……濃縮された数多の負の感情が、肌を叩きつけるようにびりびりと伝わってくる。
指先からすぅ、と力が抜けていくのがわかる。息苦しさに首を振ると、軽い眩暈が起こって顔をしかめた。
「こんなものをずっと、お兄ちゃんは……」
バカだ。本当にバカだ。化け物になった姿を見て、自分がどれだけ絶望したことか。わかっているのだろうか、このバカ兄は。
いつか帰ると言っていたくせに。いつだって自分の幸せを願ってると、手紙に書いてくれたくせに。
ずっと、ずっと、こんなものを抱えて。どれほど苦しかったのだろう。どれほど辛かったのだろう。

―――だから、もう。

ぎゅっと引き結んでいた唇を、エドナはゆっくりと綻ばせる。猫のような瞳を細め、左手に持った傘をコン、と鳴らす。
途端、エドナの身体が淡く光りはじめた。この空間が放つ色と同じ、山吹の光。
大地の息吹の色。
地の天族の、命の色。
立ち昇る地の霊力に、ドラゴンがおぞましい唸り声をもらす。
少女は傘を構え、横に薙ぎ払う。傘は派手な音を立てて鉄格子に当たり、その一部を粉々に打ち砕いた。
それを好機とみたか、穢れの塊が歓喜の声を上げて突進してきた。
それを捉えていたエドナは、ふわりと足を踏み出す。重力を感じさせないステップで、けれど目にも止まらぬ速さでドラゴンの真上に飛び上がった。
両手で傘を振り上げ、その巨大な頭に振り下ろした瞬間。
すべてを覆いつくすほどの輝きが、嵐のような力の息吹を伴って何もない空間に広がったのだった。




瞼の裏で、光が星のようにちかちかとまたたく。
全身がとんでもなく重たい。だが、指先から段々と感覚がなくなっていくのがわかる。痛みはないが、妙な感覚だ。
こうやって消えるのかと、何の感慨もなくそう思った。
消えたらどこにいくのだろう。何に生まれ変わるのだろう。
ぼんやりと思いながら、すぐに考えるのを止める。あまり意味のないことだ。自分で望んだものになれるわけではないのだから。

微睡むようにたゆたいながら、細い眉をひそめる。それにしても眩しい。
原因は何だと、エドナは面倒くさそうにゆるゆると瞼を持ち上げて、そしてあっ、と小さく声を上げた。
穏やかな金色の光。そのまばゆい光の中に、大きな広い背中を見つけた。
―――お兄ちゃん……
口の中で呟くと、その黒い背中が振り返った。
眩しくて顔はよくわからない。自分と同じく色が白いせいだろう。
ちゃんと顔を見たくて、エドナは小さな手を伸ばす。
その手と交差するように、大きな手の平が伸びてきた。ゆっくりと近づいてきたそれは、壊れ物を扱うかのようにやさしく、エドナの頭を撫でた。
懐かしい感触に、そのぬくもりに、伝わってくる愛しいという感情に、エドナは嬉しそうに微笑んだ。
やっと会えた。やっと触れられた。本当は、文句の百や二百くらい、言ってやりたかったけど。
胸に空いた穴が埋まるほどに溢れる幸福感に、もう充分だと心がひそやかに囁いた。
ひどく安らかな気持ちに満たされながら、エドナはゆっくりと目を閉じた。


◆   ◆   ◆


「……さま、エドナ様!!」
聞いているこっちが辛くなりそうなほど悲痛な叫び声に、エドナは目を覚ました。
「…………え…?」
目の前には、今にも零れてしまいそうなほど涙を大きな翡翠の瞳に湛えた少女。背中には硬い地面の感触。
何で。浮かんだ疑問が口をついて出てくる前に、その少女に思い切り抱きしめられた。
「…っ、ちょっ、と…!」
「エドナ様…!よかった…本当によかった…っ!」
身体が軋みそうなほどきつく回された腕に抗議の声をあげようとしたが、肩を震わせてよかったと繰り返す涙声に言葉を呑み込んだ。代わりにのろのろと重たい腕を持ち上げて、アリーシャの背中にそっと添える。
「エドナ!よかった、目を覚まして…!」
「スレイ…」
少し離れたところにいたスレイが、嬉しそうに駆け寄ってきた。それで仲間達も気付いたようで、それぞれほっとした様子で集まってくる。
未だ動きの鈍い頭でそれを見つめながら、エドナは唐突にはっとして身を強張らせる。
「お兄ちゃんはっ?!」
アリーシャの背中にしがみついて身を乗り出して、スレイ達に問い掛ける。そうだ、兄はどうなったのだ。
少女の服を握りしめながら、彼らの返答を待つ。だが、彼らは無言のまま、ただ顔を俯けた。
明らかによくない反応に、エドナは凍り付く。まさか…だって、あの時確かに。
「エドナの、お兄さんは……」
「いるぜ、ここに」
辛そうに言葉を口にするスレイに、しかし奥から彼の言葉を遮る声があった。
低い声音につられてゆっくりと視線を奥に滑らせる。
ザビーダと、ザビーダのすぐ傍にある人影を目にして、それが誰であるか気付いたエドナは愕然とした。
「どう、して……」
どうして。どうして兄は横たわっている。どうして目を閉じたまま動かない。
無表情で佇むザビーダの傍で倒れているアイゼンを凝視する。誰かに嘘だと言ってほしかった。
思うように動かない身体を必死に動かして立ち上がろうとする。結局自力では立つことすらできず、アリーシャとライラが慌てて手を貸してくれた。
やっとの思いで兄の元まで歩き、震えながらその顔を覗き込んだ。
アイゼンの霊力は風前の灯だった。身体を構成しているのがやっとなほど。消えてなくなるのも、時間の問題だった。
「なんで…穢れは、断ち切ったのに……」
本当に夢だったのだろうか。いや、そんなはずはない。自分は確かにジークフリートの引き金を引いた。
そしてエドナは意志ある力となって、アイゼンが抱え込んだ穢れを消滅させたはずだ。それともアイゼンも巻き込んでしまっていたのだろうか。
そこでエドナは気付く。何故自分は生きているのだろうか。
そして気付いてしまった。
目覚める前、大きな手が頭を撫でてくれた。その、意味は―――。
「嘘でしょ…なに、勝手に…」
アイゼンのどこか満足げな顔を見つめながら、糸が切れたように崩れる。左右から焦った声で名を呼ばれるが、あまりの衝撃にエドナの耳には届かなかった。
「いつも、いつもそうよ……」
掠れた声が、自分の口からぽとりと落ちていく。。
エドナは地面に向けていた頭を勢いよく上げ、アイゼンを睨み付けた。ひとつ、言葉を落としたらもう止まらなかった。
「勝手にいなくなって!勝手にドラゴンになって!今だって…勝手に身代わりになんかなって!!」
今自分が生きている理由。兄の命が消えかけている理由。
デゼルの時と同じなのだろう。消えていく自分の身体に、己の霊力を注ぎ込んだのだ。自分自身が命を落とすこともかまわずに。
空色の瞳から、ずっとずっと堪えていた涙がとうとうこぼれた。
「なんでよ……何で、ワタシのことばっかり…っ…」
こっちだって覚悟をした。命をかけた。なのに、求めた兄に、生きてほしかったひとに、覚悟も命も何もかもを拾いあげられてしまった。
自分が求めていたのは、こんな結果じゃなかったのに。

何よりも兄が大事だった。
また兄と一緒に暮らせることを願っていた。
ひとりの時間はとても寂しかった。
もうひとりにはなりたくなかった。
またひとりぼっちになるのは、いやだった。

けれど、それは叶わないことだから。
「だからせめて、お兄ちゃんだけでも……」
ずっと苦しめて、自分のわがままで縛り続けてしまった。
だからもう、穢れから、自分から、解放してあげたかった。
ただそれだけを、願ったのに。
お兄ちゃん。呼びたかった名は、喉が引きつって言葉にならなかった。
穏やかな顔さえ腹が立った。人の気も知らないでと、そう思ったら余計に涙があふれた。
ぽろぽろと透明なしずくが落ちて、そしてアイゼンの顔も濡らす。薄い頬を伝っていく様は、まるで兄も泣いているようだった。


薄い肩を大きく震わせながら泣きじゃくる彼女に、スレイはかける言葉が見つからなかった。
他の皆も同じだ。エドナを支えたまま唇を噛みしめるアリーシャとライラも、涙を流す彼女と動かない親友を表情もなく見つめるザビーダも、少し離れた場所で顔を伏せるミクリオとロゼ、そしてデゼルも、誰もがこの状況に、ただ無言で見守ることしかできない。
ポケットに収めた銃に触れて、そのまま拳を握りしめる。自分が動揺なんてしなければ、ジークフリートを奪われることはなかったのに。
考えても時間は巻き戻せない。そうわかっているのに、後悔ばかりが胸を締め付ける。
「……?」
ふと、何かが光った気がした。スレイは訝しげに顔を上げてみるが、何もない。
気のせいだったのだろうか。首を傾げながらそう思った瞬間、またちかりと足元で輝くものを目にした。
「な、なんだ?」
戸惑いを隠せないミクリオの声音に、自分の見間違いではないと確信する。
その刹那、無数の光の球が地面から溢れるように飛び出てきた。
「これは……」
圧巻だった。ふわりふわりと上空に浮かび、やわらかく浮遊する光の球は幻想的で、穏やかな輝きで荒れた山肌を照らす。まるでどこか異世界に迷い込んでしまったかのようだ。
思わずスレイは手を伸ばす。すると光のひとつがふわりとスレイに近寄り、くるくると周囲を回りはじめた。一体何なのだろう、この光球は。
「……もしかして、お兄ちゃんのなかにいた…?」
ぽつりと、掠れた高い声が耳に届いた。光から目を離せば、驚いたような顔をして、未だ涙を流しながら光を見つめるエドナの姿があった。
「アイゼンの…?てことは、こいつぁ…」
ザビーダの呟きに、スレイも何となく予想がついた。
魂だ、誰かの。おそらく、アイゼンが食べた。
ふわふわと霊峰を漂う光の球。それが突然、一斉にスレイに顔を向けたように感じた。
「へっ……ちょっ!?」
突然の事にスレイは思わず肩を跳ねさせる。刹那、大量の光がこちらに目掛けて突進してきた。
「な、なになに!?」
「スレイ!」
ロゼとミクリオが叫ぶ。眩しいほど集まった光の球を避ける余裕もなく、スレイは腕を顔の前に出して身を固くした。
「…………え?」
だが、その光がスレイに直撃することはなかった。
「ジークフリートに……」
吸い込まれていく。いや、光が自らジークフリートの中に入っていく。
スレイは慌てて銃を取り出し、淡く輝くそれをまじまじと見つめる。
―――………、…
触れた瞬間、何か音がした。眉をひそめて耳を澄ますと、やはり何かの音がする。
いや、とスレイは自分の言葉を否定する。
「違う、声だ」
声がする。一人ではない、たくさんの声が聞こえる。だが、ひとつひとつがバラバラに話していて。何を言っているのかよくわからない。
―――うってくれ…
何とか言葉を拾おうと更に耳を研ぎ澄ませると、そんな声がした。その言葉に瞠目しながらも、数多のなかでも特に強い声が次々と耳に入ってきた。

―――撃ってくれ、俺たちを
―――アイツに撃てば、助かるかもしれない
―――要は霊力がすっからかんな状態なんだろ?だったら俺らがその代わりになる

「君たちは…?」
思わず、スレイは問い掛ける。しかし、その問いに答えはなく、ただアイゼンを助けてくれと言ってくる。

―――コイツは、俺たちのことをずっと守ってくれてたんだ
―――普段容赦ないくせに、なんだかんだ懐入れてるやつらには甘いんだよなぁ
―――もっと自分を大切にすりゃいいのにな
―――妹さんがからむと鬼だけどな
―――寧ろ悪魔だろ
―――ちげーよ死神さまだよ

低い笑い声がどっと沸き上がる。声の質からおそらく皆男だろう。随分と陽気な人達のようだが、アイゼンを慕っていることを確かに感じた。ドラゴンになる前の彼を知っていた者達なのだろうか。
ひとしきり笑いが治まったあと、大人しくなった彼らのひとりが、また声を出す。

―――でも、やっと恩を返せる
―――頼む。助けてやってくれ

アイゼンを案じる真摯な声が、沈んでいたスレイの心に染み込んでいく。
ドラゴンになりながらも、彼は守っていたのだ。この真っ直ぐな魂を。報いたいと願う彼らのことを。
美しい銃の柄を、導師はしっかりと握りしめる。
だったら、自分のやるべきことはひとつしかない。
「……エドナ、アリーシャ、ライラ。あとザビーダも、ちょっとアイゼンから離れてて」
「スレイ…?」
目尻にぬぐっていたアリーシャが、不思議そうな眼差しでスレイを見つめる。スレイは彼女に微笑みを返しながら、エドナをお願い、と泣き崩れる少女のことを頼む。
「…………」
光を放ち続けるジークフリートを両手で持ち、アイゼンの心臓あたりに銃口を向ける。
もう、覚悟は決めた。
「いくよ…」
仲間達が固唾をのんで見守るなか、スレイは引き金を引いた。
瞬間、銃から放たれた光が呑み込むように周囲を照らし、視界を真っ白に染め上げた。

―――今までありがとなー副長ー!
―――せいぜい長生きしろよ!
―――妹さんを大事になー!

光がおさまりはじめる寸前、そんな楽しそうにはやし立てる男たちの声が、スレイには聞こえた気がした。


「……、いったい、どうなったんだ…?」
ミクリオの呟きに、スレイは硬く閉じていた目をゆっくりと開ける。再び、辺りには静寂が戻っていた。
スレイは足元に目を向ける。そこには、黒い衣服に身を包んだ金髪の男。仰向けに倒れたまま、相変わらず微動だにしない。
ダメ、だったのだろうか。スレイの中で僅かに灯った希望が、またついえていく。
失望がじわじわと広がっていく。どうすることもできなかった現実に火が消えかけた、その時。
ぴくりと、小さくアイゼンの手が動いた。スレイは目を丸くして、すぐに慌てて膝をつく。
息を殺して彼を見遣れば、僅かに呻く声が聞こえた。
やがて瞼が震え、エドナと同じ色の瞳が開かれる。
「ここ、は…?」
「…おにい、ちゃん…?」
掠れた低い声と、震える高い涙声が重なった。鈴の音のようなその声が聞こえたらしいアイゼンは、大きなクマのある目を動かして声の主を見遣る。
「その声…エドナか…?」
青空を切り取ったような、同じ色の二対の瞳が交わる。
目をこれ以上なく見開いていたエドナに、アイゼンは軽く目を瞠った。まじまじと彼女を見つめて、それから疲れ果てた顔にひどく穏やかな笑みを浮かべた。
そこまでが限界だったかのように、エドナは顔をくしゃりと歪ませてつまずきながら兄に飛びついた。
それはおよそ千年振りの、同じ地脈から生まれた兄妹の邂逅だった。
「バカっ!本当にバカ!身勝手に生きるのもいい加減にしなさいよ!」
「……ああ…」
広い胸にかぶさって言葉を投げつけると、アイゼンは緩慢な動作でエドナの背中に大きな手を添えた。
それは眠る間際に撫でてくれた大きな手のひらと同じあたたかさで、また消えるのではないかと怖くなった。
またそのぬくもりを感じられたことが、怖いほどに幸せだった。
「心配なら帰ってきなさいよ…呪いよりドラゴンの方がよっぽど危険じゃない!」
「それは…すまん、意識が朦朧としていて……気付いたらお前のところにいた」
「バカじゃないの?!お土産もヘンなものが多いし、センス悪いし置き場所に困るし、帰ってこないくせにお守りだけは沢山送り付けてきて……っ」
一度言葉を切って、エドナは涙をぬぐう手とは別の、彼にもらった手袋をはめた手でアイゼンのシャツを掴む。
服越しに伝わる確かな感触にとても安心して、また涙がぼろぼろとこぼれた。
「ワタシが、どんなに寂しかったか…!!」
「ああ…すまなかったな…」
子どものように声を上げて泣くエドナを、アイゼンはやさしい顔をして頭を撫でる。
もう、痛いくらいに悲しい雰囲気はなくなっていて、代わりに春の野のような平穏に満ちた空気が広がっていた。

「エドナ…よかった…」
スレイは安堵と嬉しさとで泣き笑いの表情を浮かべる。少し距離を置いてその光景を眺めていると、ふと横から誰かが通り過ぎた。
「ザビーダ?」
長い銀髪の背中に声を掛けるが、ザビーダは振り返らずにエドナとアイゼンの元へと歩いていく。
やがてエドナを挟んでアイゼンの横にしゃがみこみ、よぉっと皮肉な笑みを浮かべて手を上げた。
「元気か、死に損ない」
「ザビーダ……」
「……お前、俺を殺すんじゃなかったのか?」
エドナに向けていた優しい顔から一転、険しい面差しでザビーダを睨み付ける。
責めるように問い詰めるアイゼンに、しかしザビーダは飄々とした口調で首を振る。
「違ぇよ。俺は仇を討ちたかったんだ。ただ、殺すよりももっとキツイ方法があると知っちまっただけさ」
言って、ザビーダは己の指をアイゼンの鼻先に突き付ける。
「殺すだけじゃぬるい。生きて償え、アイゼン」
ドラゴンになってしまったら、もう天族に戻れない。望まぬ殺戮を繰り返し、彼らの恨み恐れを抱え、穢れに身を蝕まれて、心がずたずたに切り裂かれ、ただただ壊れていくだけだ。
だったらためてもの手向けに、友の誇りを守ってやりたかった。
彼らの誇りのために、終わらせてやりたかった。
けど、穢れを浄化することができるのなら。もう一度、天族として戻ることができたのなら。
「お前が殺したヤツらの分、お前を助けたヤツらの分、そして、お前をずっと待っていた妹の分まで。てめぇの一生かけて償えよ」
自分が尻拭いをする必要はないだろう。自分の誇りなら自分で取り戻せばいい。自分が背負った罪は自分で償えばいい。
自分達天族には、永遠にも近い命があるのだから。
「どーよ?えげつねぇ仇討ちだろ、ヒト殺し」
にっと意地の悪い笑みを向けて、ザビーダは仰向けに倒れている親友の肩を強めに叩いた。
その衝撃に顔をしかめて呻いたあと、アイゼンは深く息を吐き、やがて眉間に寄せていたしわを解く。
「そうだな…とんでもない生き地獄だ」
「だろ?死にたくても生き続けなきゃいけねぇんだ。せいぜい最後の最後まで足掻くこった」
やれやれと言わんばかりに言葉を返すアイゼンにくつくつと喉を鳴らして、ザビーダも表情を緩める。
「まっ、とりあえず最初の償いとして、今度美味い酒でも用意しとけよ。久しぶりに酒盛りしようや」
「はっ……お前に酒の味がわかるとは思えないけどな」
「その減らず口も相変わらずだ……でぇっ!?」
「少しは空気読みなさいよ、風の天族のくせに」
二人の会話に横やりを入れたのはエドナだった。ぐす、と鼻を鳴らした彼女が傘の先でザビーダを突き刺し、突き刺された男は言葉も出ずにうずくまる。それをアイゼンが口端を吊り上げていい気味だ、と笑っていた。

少しだけ調子を取り戻したエドナを見て、スレイはようやく心から笑うことができた。
「はは…いつものエドナだ」
戦場の時と同じく、じりじりと訴えてくる疲れと、突き抜けるような達成感がスレイの全身に広がっていく。それから言いようのない、痛みと空虚が入り混じったような感情も。
スレイはゆるゆると首を振り、前を向く。
山を下りたらロハンを通して加護天族のみんなに知らせよう。これで彼らの加護領域を脅かしかねない者は、あとひとりとなった。
そう先のことを考えていると、ふいにとん、と肩に何かが当たった。目をしばたかせて視線を滑らせると、色素の薄い柔らかな髪と白い花飾りが目の前で揺れていた。
「アリーシャ?」
「すま、ない…」
長いまつげを震わせて、申し訳なさそうにアリーシャが呟く。
自分に寄りかかってきた彼女は、その言葉だけを残して突然がくんとくずおれた。
「わっ、アリーシャ!」
地面に倒れる寸前でスレイが彼女を抱き寄せ、狼狽しながらそのまま座り込む。腕にしまった彼女の顔を覗くと、整った顔がいつも以上に白くなっていた。
「アリーシャ、アリーシャ!」
背に悪寒が走り、焦りながら少女の名を叫ぶ。頬を軽く叩くが、まったく反応がない。一体どうしたというのだ。
自分達の異変に気付いたライラが急いで駆け寄ってきてアリーシャの容態を見る。
真剣な面持ちで脈や呼吸を測っていたライラは、やがて安心したようにほっと息をついた。
「大丈夫です。気を失っているだけですわ」
「そっ、か……」
どっと安堵が押し寄せてきて、スレイはアリーシャをぎゅっと抱きしめる。きつく抱きすぎたようで、身じろいで呻く彼女に慌てて力を緩めた。触れあった頬が冷たくなっていて、無意識に己の頬をすり寄せる。
その拍子に、彼女からとす、と音と立てて何かが落ちた。細い身体を抱えたままそれを拾い上げると、スレイと一緒に作ったお守り袋だった。
それから小さな欠片がこぼれ落ちる。モルゴースでもらった、護法天族パワントの装飾品の破片だった。
「無理もないわ。……相当、負荷をかけたから」
小さく響いた声音に、スレイは後ろを振り替えた。アイゼンの傍で座り込んだまま、エドナが沈んだ面持ちで目を伏せていた。
「起きたら謝っときなよ〜、エドナ」
「…そうね」
「珍しく素直だな」
「アナタも空気読みなさい。そんなんじゃ千年経ってもボーヤのままね」
「……前言撤回、相変わらずだ」
仲間達の他愛のないやり取りに、スレイは少しだけ落ち着きを取り戻す。ともかく、エドナもアイゼンも、そしてアリーシャも無事でよかった。
「ありがとう…」
上を振り仰ぎ、名も知らぬ彼らに向かって礼を言った。背負った命はやはり重たかったが、それでも背負ったことに悔いはなかった。
これで、自分のやりたいことは終わった。
あとは、ヘルダルフと決着をつけるだけだ。
「…終わらせてみせる」
災禍の顕主の野望を。災厄の時代を。
はじまりの村からはじまった、悲しい負の連鎖を。
厚い雲に覆われていた空は、いつのまにか綺麗な青空が一面に広がっていた。









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