もしもの物語-11-
トレント種、ヒル種、巨人種、飛鳥種。大きさも行動も異なる憑魔を避け、時には浄化しつつ、スレイ達はバイロブクリフ崖道の頂上付近にあるゴドジンという村に辿り着いた。
「ふぅ〜。食った食った!幸せ〜!」
辺境の村の小さな宿で、宿屋の主人が振る舞ってくれた鍋いっぱいのクリームシチューを平らげたロゼは心底幸せそうに声を上げた。
満足そうな顔で腹部をさすりながらロゼがげぷ、と堂々と音を立てた。それを聞いてしまったスレイは、思わず眉根を寄せて顔をしかめた。
「ロゼさぁ、ほんとそれ良くないよ」
隣にいるミクリオも同じ顔でしきりに頷く。
スレイもミクリオも、この村にある学校のような施設には通ったことはなかったが、ジイジの雷付き礼儀作法教室でマナーというものをそれなりに学んできた。おかげで食べ方については、下界に出てもあまり指摘されたことはなかった。
スレイ自身は美味しいものは美味しく食べられればいいとも思っている。が、流石にげっぷはいただけない。
「食べるのが早い。落ち着いてゆっくり食え」
「シチューなんて飲み物だよ。落ち着いて食べたって時間かからないもん」
デゼルはデゼルで彼女の早食いが気になったらしい。身体的な影響がないからさしたる問題ではないと思っているのか、日常茶飯事すぎて気にしない程度には見慣れたのか。……毎度のことすぎてまぁ別に身体に悪いわけではないから自分を納得させてマナー云々は諦めたという両取りな気がして、思わずデゼルに同情の眼差しを送る。
「まったく…少しはアリーシャを見習ったらどうだい?」
「わ、私ですか?」
溜め息と共にミクリオから唐突に自分の名前が出てきたことに、アリーシャは戸惑いを隠せないまま返事をした。それをアリーシャの隣で聞いたスレイは、ぱちぱちと瞼を上下させてミクリオを見る。
あのミクリオが珍しい。几帳面なミクリオは特にジイジに学んだ礼儀作法を頭どころか身体に叩きこんでいた。その教科書通りの作法は、同じ内容を学んできたスレイでさえ厳しく感じるほどだ。
そう思いつつも確かに、とスレイも同意する。彼女の食べ方は片手でもどこか作法の形が見られて、何を食べても品があるように感じる。うっかりその仕草に見とれて、アリーシャに怪訝な眼差しを向けられることもしばしばあった。
「それいいんじゃない?アリーシャ食べ方キレイだし、教えてもらったら?」
「す、スレイ?!」
「だーかーらー。前にも言ったじゃん。あたしにお姫様の真似はできないって」
煩わしそうに唇を尖らせたロゼに、スレイとミクリオは二人そろってそれは知ってる、と以前と同じように返した。おい!とロゼのツッコミが入ったが、寝食を共にしてからはそれが覆すことができないほどスレイとミクリオのなかで確信に変わっていた。寧ろロゼにそれを求める方が酷だとすら思っている。
「…別に、姫ということとは関係ないと思うが…。ただ、あまり行儀があまりよくないことは確かだ、ロゼ」
繋いでいる手に力が込められたのを感じてアリーシャの方を向けば、細い眉を寄せて不満げな表情でそう呟く横顔があった。
アリーシャの様子に首を傾げていると、ミクリオが腕を組みながらそうだと彼女の意見に同意を示した。
「それ以前の一般的なマナーの問題だ。女性としての前に、人としてどうかと思う」
「そうそう。げっぷはやめた方がいいって」
「何よりもまずシチューは飲み物じゃない。時間をかけて素材の旨みを抽出し、それを凝縮したものだ。ちゃんと味わって食え」
四方からの説教に、あああもう!とロゼはあからさまにうんざりした様子でテーブルを叩く。
「味わって食べてますぅー。いちいち小言がウルサイ!」
頬を膨らませながらそう言い捨て、そっぽを向いてケバブのピザを頬張った。マナー云々の返答をすっ飛ばしたあたり、直すつもりはなさそうだ。というかさっき満足そうに腹部をさすっていたのにまだ食べるのか。
完全に投げやりな口調に、デゼルを筆頭に男性陣と騎士姫は溜め息をもらした。
「デゼルさんも、段々打ち解けてきましたわね」
そんなやり取りを眺めていたライラは、美しいかんばせに柔らかな微笑みを乗せてくすくすと笑っていた。
「うるさすぎ。あと完全に逆ね」
「ですわね」
何が逆かは見ての通りだ。あくまで人間の世間での一般的には、だが。
「兄ちゃんたち、良い食べっぷりだねぇ」
自分よりも年下の仲間たちの雑談を楽しみながら、まろやかな絶品のシチューを味わっていると、ふいに料理を盛った器に影が差した。
スプーンを置いて振り返れば、がっしりと体格のいい男が人のいい笑みを浮かべてこちらを見ていた。この宿を切り盛りしている主人だ。
「おじさん、このシチューすっごく美味しかったよ!」
「煮込まれた野菜と牛乳の両方のやさしい甘みが感じられて、とても美味しかったです。つい何回もおかわりしてしまいました」
「ケバブピザもめっちゃ最高だった!お土産にしたいくらい!」
スレイ達が口々に宿の料理を絶賛する傍らで、ライラは笑顔でこくこくと頷く。彼には天族は見えていないが、それでも気前よく沢山のあたたかい食事を用意してくれたことに感謝したかった。
「そう言ってくれると、こっちも作った甲斐があるよ。何せここには滅多に旅人が来ねぇからなぁ」
「そうなんだ?うーん、じゃあここら辺だと商売は難しいかなぁ…」
「何だい?あんたら、国の調査員とかいうやつじゃねぇのか?」
両手を頭の後ろで組みながら残念そうにぼやいたロゼに、主人は首を傾げて問い掛けた。
そう、ゴドジンに入った時、物珍しげに集まる村人たちの前で『辺境の食べ物について調べている』と説明していた。男が疑問に思うのも無理はない。
向かいに座っているスレイ達が緊張する気配が伝わってきた。バカ正直、とエドナが呟く声が聞こえたが、根っからの素直な彼らが、何とか顔には出していないだけ上出来だとライラは思う。それとも少し甘すぎるだろうか。
「あたしらはただの行商人だよ。国のってのはあってるけど、それはお偉いさんに依頼されたから。本業はこっち」
しかし尋ねられたロゼ自身はさして動揺することなく、にかっと愛嬌のある笑みを振る舞いながら通行証を見せた。
それは商人として働くもの皆が所持している、国境すらフリーパスで移動できる証明書だ。商隊ギルドの印の押された紙をまじまじと見つめていた主人は、それが本物だとわかって納得したようだ。
嘘と真実を巧みに混ぜ合わせて、説得力のある『嘘はついていない』理由を作りだす。セキレイの羽で培ったものか天性の資質か、このことにかけてロゼは仲間内で最も秀でている。
「旅人さん向けの商いはご覧の通りだ。ここも、いつもは村の集会所代わりさ」
「へぇー、そうなんだ。集会ってけっこう頻繁にやってるの?」
「ああ。今もこれから集まりがあるんでな。だからあんたたちには悪いが、これからちょっと宿を空けるぞ」
主人が親指で差した方に視線を向けると、上着を羽織った彼の妻が軽く頭を下げて会釈した。どうやらそれを伝えに顔を出したようだ。
「わかった。食べ終わったらどうすればいい?皿洗いくらいならあたしたちでできるけど?」
ね、とロゼがスレイとアリーシャに同意を求める。こういう時は黙って話を合わせた方がいいとラストンベルの件で学んでいたスレイ達は、それぞれ短く返事をして頷く。
だが、主人はいや、と笑って手を横に振ってロゼたちの手伝いを断った。
「お客さんにそこまでしてもらっちゃあ流石に悪いよ。なに、そこまで遅くはならないからよ。そのままにしといてくれ」
「そう?じゃ、お言葉に甘えてくつろいでるわ」
ロゼの冗談めかした口調にそうしてくれ、と笑う宿屋の夫婦を、ライラ達は小さく手を振って見送った。
◇ ◆ ◇ ◆
とぽとぽとぽ……とポッドから薄い琥珀色のお湯がカップに注がれる。道中で見つけたハーブを火の天響術で乾燥させた、お手製のハーブティーだ。
与えられた宿屋の一室に、紅茶とは違う独特の爽やかな香りが漂う。手元からそろりと目を離せば、その香りに安らいだ表情をした仲間達が見えた。
その姿を見るのが好きで、ライラは宿に泊まった際には進んでお茶を振る舞っている。もう少しストックができたら、いつでも淹れられるようにティーセットでも買わせてもらおうか。
「宿に戻るまで見てたけど、ゴドジンって幸せそうな村だよね」
均等に注いだカップを仲間たちに手渡していると、ふいにロゼがぽつりと呟いた。
燭台の灯りの中に日中の村を見ているか、猫のような目を嬉しそうに細めた彼女に、椅子代わりに置いてあった木箱に座っていたスレイがうん、と喜色を滲ませて頷く。その手が手甲を外したアリーシャの一回り小さな手を握っていることは、既に日常として馴染んでいた。
繋ぐ度に顔を赤らめて恥じらう少女は大変可愛らしかったが、それが当たり前となった今は今で穏やかな気持ちで見守っていられる。
ふいにあたふたと照れるアリーシャが見たくなって、無性につついてしまいたくなるのはご愛嬌だ。
「それに、良い人たちばっかだ」
「そうですわね。村も人も、みんな前向きで、活気があって」
スレイに続いて、ライラもそう言い添える。
本当に、いい村だと思う。環境からすれば決して豊かとはいえない土地であるにもかかわらず、この小さな小さな集落は穏やかであたたかい。
家族みたいだね、と楽しそうに笑ったロゼの表現に、まさにその通りだと思った。
―――ライラ、君も……
唐突に思い浮かんだ別の光景に、ライラは思わず息を詰めた。ぐらりと揺らいだ瞳を隠すように、エメラルドをはめ込んだその双眸を伏せる。
抜けるような青空が広がる、ただ土と草花の香りが色のない風を彩っていた、何もない草原で。
呼ばれた名、その声音、口元に刷かれた淡い笑み。
落とした視線の先で、ポッドの注ぎ口から零れて入りこんでしまったハーブの欠片が、あの時の風に揺られるようにティーカップの中で泳ぐ。ふわりと浮いてきたハーブの香りと共に、暖かな湯気がライラの陶磁器のような肌を慰めるようにやさしく撫でた。
こういう村を見るたび、思ってしまう。
“彼”も、このような村を理想に描いていたのだろうか……と。
「……ライラ?」
「――――は、はい?!」
スレイの怪訝そうな呼び掛けに、ライラは我に返った。慌てて膝の上で握りしめていた両手を解いて面を上げると、自分のことを心配そうに見つめる仲間の顔があった。
しまった、と無意識に物思いにふけっていたことを内心で反省する。
「あ、驚かせてごめん。大丈夫?なんか、辛そうな顔してたけど…」
「す、すみません……え、えぇっと!ちょっとぼーっとぼー立ちしてしまいましたわ!」
「いや座ってるし」
「ぅうっ…」
咄嗟に閃いたダジャレで場を誤魔化そうとしたが、ロゼに冷静にツッコまれてしまった。確かにその通りだが、今はツッコミよりもボケが欲しかった。
「……良い村だけど、天族の加護が感じられないわねって話をしていたのよ」
言葉に詰まるライラを見かねてか、質素なベッドに腰かけていたエドナが溜め息をつきながら助け船を出してくれた。
呆れた表情の彼女に、とりあえず目だけで感謝する。あとで彼女の望むお菓子を作って献上しよう。
「加護天族が不在ですわね。一時は、かなり荒れていたようです。それを今の村長さんが立て直されたということですわ」
ゴドジンの村長、スランジ。
村に入るや否や、よそ者だと子供たちに囲まれて狼狽していた自分たちを出迎えてくれた、黒縁の眼鏡をかけた白髪の老人が自身のことをそう名乗っていた。
「だから村の方々は皆、スランジ殿のことを尊敬しているのですね」
「そうなのでしょうね。ここは随分貧しい土地のようですし」
「うん。オレ、イズチではほとんど自給自足だったからさ。この地質で食べ物に困らないってことが、ホントにすごいことなんだっていうのがわかるよ」
ゴドジンに漂っている穢れは、ラストンベルと同程度だった。災厄の時代、荒れていた村を加護天族なしでこれほどまでに抑えている村は残念なことにあまりない。スランジという老人が相当な手腕の持ち主なのだろうことが窺える。
しきりに頷いていたスレイは、ふいに薄水の髪の少年を見遣って首を捻った。
「どうした、ミクリオ?難しい顔して」
声を掛けられた少年は、顎に指を添えてまま伏せていた瞳をスレイに向けて口を開く。
「そこが妙なんだ。この村、見たところ周りは農業にも狩猟にも適さない、痩せた土地だろ?」
日中過ぎ、辺境の食べ物の調査と言った手前、堂々と教皇の手掛かりを探すわけにもいかず、スレイとロゼとアリーシャが手分けして村人たちから食糧事情の調査と情報収集をしていた。
そのときライラ達天族も各々行動していたのだが、ミクリオは村の土地周辺を調べていたようだ。
一度腕を組んで考え込んだスレイが、数秒の間のあと何かに気付いて声を上げる。
「収入源か!街道沿いでもないし、さっきの宿屋のおじさんは旅人も滅多に来ないって」
「レディレイクのように、これといった特産品も特に見当たらなかったな。確かに、一体どうやって…」
スレイの言葉に、アリーシャも納得したように頷いてゴドジンの環境を鑑みる。
若い男たちが出稼ぎに出ていたと言っていたが、その収入だけで充分な衣食住の確保だけでなく、学校まで建設できるほど豊かになるとは思えない。それに今は、村長のおかげで大分若い衆が戻ってきたとも聞いていた。
「変だろ?普通なら真っ先に、飢饉に苦しむような村なのに」
「…訳があるんだろうな。なにか」
無から有は生じない。生じた有の大きさだけ、対価となる有もあるはずだ。
「訳ありは村だけじゃない」
三人の会話に、扉の横の壁に寄りかかっていたデゼルが口をはさんだ。
特定の話題以外、自分から話すことがない彼が珍しいと思いつつ顔を向けると、その気配を察知した青年は黒い帽子を被りなおしながら話を続けた。
「あの村長、眼鏡をかけていた」
デゼルのその台詞に、今度はアリーシャがあっと顔を上げた。
「レンズなんて貴重品、なかなか出回る物ではありません。所有しているとしたら、ほとんどが貴族や聖職者…」
それを聞いたライラ達も、すぐにその違和感に気付いた。
こんな辺境の村の村長が持っているには、あからさまに不自然な一品だ。
自らも王族である少女は、上流階級の流通に明るいのだろう。そして、そこに商品を納品しているセキレイの羽も。
アリーシャの返答に、デゼルはそうだ、と頷く。
「しかも、スランジは新参者らしい。状況証拠は揃っている」
「……まさか、村長さんが…?」
導き出されたひとつの答えを、スレイが恐る恐る口にする。しかし、当のデゼルは可能性を言ったまでだ、と首を横に振った。
「事実かどうかは知らん」
帽子と前髪で隠れた目から、その真意を探ることは難しい。
だが確かに、これだけでスランジと教皇を結び付けるのは早計なのだろう。だがその可能性が高くなったことには変わりない。
「調べてみる。ありがとう」
「別にいい」
要領を得ない返答に、スレイが疑問符を浮かべた。今の言葉で話を終わらせようとしていたらしいデゼルは、しかし皆の視線が自身に集中していることに気付き、煩わしそうに小さく舌打ちをして再び口を開いた。
「いちいち礼はいらないと言ったんだ」
不機嫌そうに言い直した言葉に、仲間達は思わず笑みを零した。
少しずつではあるが、やはりデゼルもスレイに信頼をおき始めてきている。出会った頃は復讐のためだと、慣れ合いは好きではないと言っていた彼を思うと、その変化が嬉しかった。
「けど、村の中はあらかた調べたぞ。どこを調べるんだ?」
明日も情報収集になることが決まったが、調べる場所がないとミクリオが疑問を投げかける。
そういえばそうだと押し黙ってしまった面々に、ひとり就寝の用意をはじめていたエドナがさらりと何気ない一言を落とす。
「村の奥に遺跡があったわ。相当古くて凝ったものみたい」
遺跡。その単語に、遺跡オタクと称されたスレイとミクリオとアリーシャが僅かに目を輝かせる。
「古いってどれくらい?」
「多分『クローズド・ダーク』より前。ワタシより年上かも」
「―――って、『アヴァロストの調律』時代!?本当なら超貴重だよ、それ!」
『アヴァロストの調律』時代といえば、人と天族が共存しあっていた頃の遺跡だ。凱旋草海にあった斜塔と同じく、遺跡などは天響術を用いて建造されていたといわれている。
つまりエドナの推測が正しければ、二千年以上前の遺跡がこの村にあるということだ。
一気に気分が高揚したスレイは、しかし先程のエドナの言葉を思い返してあれ?と疑問符を浮かべる。
「えっと、エドナって何歳―――」
刹那、顔面めがけてものすごい速さで細長い何かが飛んできた。
チッと羽の付いた耳飾りを掠めてそれは通り過ぎた。錆びついた人形のようにギシギシと目線だけを動かして見遣れば、頬の横すれすれにレース模様の可愛らしい傘があった。ちなみにその傘で倒された敵は数知れないことを、彼女と契約した導師はよくよく知っている。
なす術もなく固まっていたスレイが恐々と視線を下に降ろせば、小さな少女がこれまた可愛らしく小首を傾げて凄絶(せいぜつ)な冷笑を湛えていた。
「なに?」
「……なんでもないです…」
――――こわい。
耳飾りに引っ張られた耳が、今になってじんじんと痛んだ。
この手の話題をエドナには絶対にしてはいけないのだと、スレイは耳の痛みとともにそのことを深く胸に刻み込んだ。
「あはは!女の子に歳を聞くのはマナー違反だよ、スレイ」
「…それって、さっきの仕返し?」
「さぁねー」
引き攣った笑みを浮かべながらロゼをじとりと見つめるが、ロゼはどこか機嫌よさげに曖昧な返事をした。十中八九仕返しだ。
「まぁ、ロゼの言ってることは間違ってはいないよ。マナーというより、御法度(ごはっと)に近いな」
「うん…それは今、充分に思い知ったよ…」
「そうよ、気をつけなさい。アナタとミボはデリカシーってものが欠けてるんだから。特にミボは」
苦笑いを浮かべてロゼに賛同するアリーシャに、スレイは実感と共にしみじみと同意した。
エドナの言葉には、とばっちりをくらったミクリオが何で僕まで!と声を荒らげて反論していたが、既にどちらが勝つかはわかりきっている。今回は『エドナお嬢様』の件もあるため、少し長くなりそうだが。
重くなりはじめていた室内が一気に騒がしくなったところで、デゼルが突然鋭い視線を扉の向こうに投げかけた。
「宿屋の夫妻が帰ってきた。もう寝ろ」
デゼルの忠告に、ミクリオとエドナも言い争う事を止める。
確かに、これ以上村に関する話はできなさそうだ。
「そうだな。遺跡に行くにしても、今日はもう無理だし。明日に備えて寝よっか」
「残念。命拾いしたわね、デミ」
「…おい、それってもしかして、『デリカシーのない僕』の略か?」
「おやすみ」
「聞け!」
「いや、だから寝ろ」
「デミうるさい」
そんなやりとりを聞きつつ、スレイ達も口々におやすみと言って、それぞれが就寝の準備を始めた。
唸り声を上げて黙ったミクリオを気遣わしげに見ていたアリーシャは、スレイに大丈夫だからとベッドへ促されていった。
「……にでも、できることじゃないよね…」
寝る前に皆が飲んだティーカップをトレイに片付けていたライラは、横を通り過ぎた際にロゼの小さな呟きを拾って思わず立ち止まった。
「ロゼさん、どうかされました…?」
彼女の物言いに、ライラは首を横に傾ける。
何か悩み事だろうか。先程も彼女は彼女で何か考え込んでいたようで、あまり会話には参加していなかった。
「あ、ごめん、ちょっと考え事あって」
ロゼはそう言ってもうちょっと調べたらちゃんと話すよ、と明るい口調で言葉を返してきた。
その声音は普段の調子で、杞憂だったかとライラは安堵する。
「ほらほらアリーシャ!いつまでミクリオのこと気にしてんの!」
「わっ!」
この話は終わり、とでも言うように、ロゼは未だおろおろとしているアリーシャに向かい、肩に両手を乗せて寄りかかった。
「ロゼ…いや、だがミクリオ様はいつも尊敬するほど、こまやかに気を配ってくださる方だから…」
「そう?あたしはエドナの意見に同意だけど」
「そんなことはない。今日だって、私のことを気遣って相談に乗ってくださって…」
「へぇーえ?導師様、お姫様こんなこと言ってますけどー?」
アリーシャの肩越しに、にやにやと人の悪い笑みを浮かべる少女に、けれどスレイはきょとんと目を瞬かせてえ?と声を上げる。
「うーん、確かにミクリオは気遣い上手だよな。でもほら、エドナの言ったことって女の子の気持ちがわかってるかってことだろ?それだったら微妙だなぁ」
「ありゃー…そっちいっちゃったか」
「ロゼ、そのお姫様という呼び方はやめて欲しいのだが…」
「あんたもそっちに食いつくか!」
「勝手に人のことを決め付けるな!少なくともスレイよりかはマシだ!」
「ムキになってる時点でデミの負けね」
「てゆっか、見守るって決めたのに、ミクリオずるいぞ」
「言いがかりだ!それに別に直接口出しした訳じゃ―――」
「うるせぇ!お前らいい加減寝ろっつってんだろうが!」
中々布団に潜らないスレイ達に、とうとうデゼルのさして長くもない堪忍袋の緒が切れた。
やっと解散しはじめた彼らを、ライラは目を細めて見つめながら片づけを再開した。
はぐらかされてしまったが、彼女は話してくれる、と言った。今回の件に関わっていることだろうから、今はそれを信じることにしよう。
キッチンに置きに行ったら夫妻に大層驚かれてしまうだろうから、ティーセットを持っていくのは明日した方がよさそうだ。
カチン、とティーカップが触れあい、暖かな室内に冷たい音が僅かに響く。
それが引き金となって、先ほど脳裏をよぎった光景が再び甦る。
(あの方も…夢だったのでしょうか……)
己にとっては、まだ昨日のことのように思えるような、けれど人にとってはそれほど短くはない程の過去の出来事。
まだ自分が”陪神”だった頃の、その終わりに近い頃の思い出。
切なさと後悔が、鋭い針のような痛みとなって胸を刺す。
俯いた先に、ティーカップを持った自身の手が見えた。音を立てないようにそっとトレイに乗せ、細い作りの取っ手を離してその手の平をおもむろに見つめる。
もし、あの青空の下、”彼”の手をとっていたら。
無意識に何かを紡ごうとした唇が無音のまま小さく動いて、けれど音を出さぬまま、視線を落としていた手の平とともにぎゅっと閉じる。
まるで、大切な何かを取り零さないかのように、頑なに。
(…大丈夫)
肩越しに、早々に布団に潜りこんだ仲間たちを見遣る。
ここ数日の旅路で相当疲れていたらしい。先程とは打って変わって静まりかえった彼らに淡く微笑んで、すぐに表情を引き締める。
部屋の隅にある木箱にカップとポッドを置いて、ライラも仲間たちと同じようにベッドに入った。
確か、ここはティンタジェル遺跡群の最奥で発見した地図で、火の紋章が記されていた場所だったはずだ。
(もし、エドナさんの見つけた遺跡が、秘力に関わるものだとしたら……)
自分が、守らなければ。
才能に溢れた、けれどまだ未熟な、優しい導師を。
そのために、ずっと待ち続けていたのだから。
「……尊敬されている、か…でも……」
睡魔に身を委ねてそのまま眠りに落ちたライラは、故に気付かなかった。
ロゼがひどく真剣で、冷たい表情を浮かべていたことに。
◇ ◆ ◇ ◆
村の奥にぽっかりと空いた洞窟内に、複数の声が響き渡る。
「聞きたいのはこっちだ。なぜ私が教皇などという、望んでもいない仕事をしなければならない?」
背筋の伸びた白髪の老人から、ふつふつと黒い粒子が湧きあがった。
それは霊応力のない人間には見えない、『穢れ』という名の可視された負の感情。
「私が聖職に就いたのは、家族にささやかな加護を与えたかったから……ただそれだけだったのに」
「でも、あなたを慕っている人は大勢います。騎士団のセルゲイたちだって」
「わかっている!だからできることを必死でやった!」
カシャンッ、とガラス物の何かが割れる音がした。反射的に下を向いた先に、透明な瓶だったであろうガラスの破片と地面に染み込む青い液体があった。
教会から出回っていた、エリクシールの偽造品だ。
「自分を顧みず!皆のために何十年も!その結果―――!」
スレイの言葉を遮り、身を乗り出して言い募る老人は、ふいにその勢いを失くした。
怒りに満ちた表情から打って変わって辛そうに顔を歪め、その人生を悔やむように俯く。
「気が付けば、家を顧みない男と憎まれ、私の家族は跡形もなくなっていた……」
私は、一体なんのために……。
眼鏡の奥にある目に湧きあがる色は、憤りに、悲しみに……どうしようもなかった、やるせなさで。
目の前で項垂れる老人の悲痛な叫びが、村人らが聖域と呼ぶ洞穴内に佇む者たちの心を強く締め付けた。
スレイ達の予想通り、スランジ村長は一年前に消息を絶っていた教皇だった。
そして偽エリクシールを製造し、貴族に売り捌いていたのも彼であった。
ロゼが調べていたのは、この偽エリクシールに関わるお金の流れだったらしい。本物の証明書付きで売られているにも関わらず、その売上金はこの村に流れていたそうだ。
ゴドジンに教皇がいる可能性をはじめに提言したのもロゼだ。今思えば、恐らく初めから村長が教皇だと睨んでいたのだろう。
僅か一年で貧困な村を立て直した優れた手腕、学校の建設にまで至った多大な資金源、偽エリクシールに、ローランス教会の印が押されていた理由。
それら全てが、この老人が騎士団が探し続けていた教皇だということで繋がった。
「…ハイランドとの戦争には関わったの?」
ロゼの鋭い声が、洞窟内に静かに響く。
先程憑魔化した村人を浄化した彼女の双剣に、ぐっと力が込められるのをライラは見逃さなかった。
そうだ。彼女は……風の骨の頭領は、”依頼”を受けていた。
アリーシャが倒れた夜、ペンドラゴの高台でロゼ自身がそう言っていた。
先の戦争で息子を亡くしたという人物から、『戦いを起こしたヤツを殺してくれ』と。
スレイ達が息を呑んだのがわかった。ライラも無意識に固唾を呑んで状況を見守る。
アリーシャ以外、ロゼがセキレイの羽の裏で何をしているのか知っている。スランジの返答次第では、彼女はきっとその双剣を躊躇いなく振るうだろう。
けれど彼女のその問いに、村長は意気消沈したまま緩やかに首を振って否定した。
「戦争も国も民も、全部投げ出して逃げた」
全てがどうでもよくなったのだと、疲れきった様子で言い捨てて。
「スランジ殿…」
己の地位を利用した不当な商売に憤っていたアリーシャが、小さく彼の名を呟く。どこか途方にくれたその声色に彼女を見遣れば、戸惑ったような哀れんでいるような、そんな動揺を露わにした表情でスランジのことを見つめていた。
端麗な横顔に憂いを滲ませる少女を、ライラは眉尻を下げて気遣わしげに見つめる。
護りたいもののため、生まれた故郷のため、アリーシャは今も奔走している。彼女は知らないだろうが、そのために奮闘するアリーシャをライラは湖の教会からずっと見てきた。
スランジが行ってきたことは、対象が違えどアリーシャと同じ想いを原動力に行動してきたものだ。
愛するもののために国に仕え、身を粉にして必死に貢献した。
だがその結果、何もかもを失った、ひとりの男。
その姿に、アリーシャは何を思っているのか、何を葛藤しているのか。それが手に取るようにわかる。
「―――ぅ、ぐっ…!」
「村長さん!?」
ふいに、スランジが突然腰を曲げて、激しく咳込みながら冷たい地面へうずくまった。
「村長っ!」
スレイ達が駆け寄るよりも早く、つい先程まで憑魔と化していた青年が老人の背をさすりながら寄り添った。村長を支えながら誰か!と洞窟の外へ向けて青年が叫ぶと、数人の男が慌てて駆けつけ、青年と同じように村長の元で膝をつく。
「これは…」
突然スランジの容体が急変したことに、スレイ達は絶句する。脂汗を滲ませて荒い呼吸を繰り返すスランジの背をさすっていた赤髪の男がその途切れた呟きを聞いたらしく、射抜くような鋭い視線を送ってきた。
「エリクシールは生成時に強い毒素が出る。村長の発作はそのためだ。この人は危険を承知で、オレ達のために独りでエリクシールを作り続けてきたんだ。おそらくこの人は、もう……」
その先を続く言葉を恐れるかのように、男はそれきり歯を食いしばって口をつぐんだ。
村の住人は皆、知っていたのだ。彼が偽エリクシールを作っていたことも、それを売り捌いていたことも、それが教会の名で流通することができた訳も。
知っていて、彼らはスランジを尊敬し、村長として慕っていたのだ。
「…だが、エリクシールと偽って偽物を売っていたことは犯罪だ」
苦々しくアリーシャが告げる。
彼女が指摘したことは、紛れもない事実だ。スランジが行っていたことは、人の法で白か黒かで問われたら完全に黒だ。
アリーシャの言葉を聞いた男のひとりが、膝をついたまま敵意を込めて睨みつけてきた。その覚悟を決めた強い眼光に、少女は思わず怯む。
その男は、昨日自分たちに暖かい食事と寝床を用意してくれた、気前のいい宿屋の主人だった。
「村長がどんな人か、みんな知ってる。捕まえる気なら、俺たちは最後まで戦うぞ!」
男の覚悟につられたように、今度は別の青年がアリーシャたちに向けて手をつき、縋るような眼差しで頼む!と頭を下げた。
「村長を見逃してくれ!偽のエリクシールを売った罪は俺が被るからよ」
「…そこまで、スランジ殿のことを……」
その場しのぎではない本気の懇願を感じ取って、アリーシャはたじろいだ。アリーシャだけではない、ライラ達全員が、その言葉を行動に胸を打たれた。
「みんな、落ち着いてくれ…」
「村長、だが…」
ぜぇぜぇと浅い呼吸を繰り返すスランジが、村人の力を借りて何とか身体を起こし、先程とは大違いのか細い声でいいんだ、と呟いた。
「村の皆には罪はない。ゴドジンの皆は、私に何も求めず、ただ家族のように接してくれた…ただ、それだけだ」
村長、と村の者たちが口々に反論の声を漏らす。スランジはそれを目で制して、肺の辺りを押さえながらゆっくりと立ち上がる。
「連れていくなら、私を連れていけばいい。だが、私は再び教皇の座に就くつもりはない。もう、帝国も教会も知らん。卑怯者と言いたければ言うがいい。今の私は――――」
力強い光を細い瞳に宿しながら、静かだが明確な抵抗の意を示すスランジが、ふいにそこで言葉を区切る。
伏せ気味だった身体を真っ直ぐに伸ばして、何もかもを失い、その果てに再び何かを手に入れた老人は、そうしてひどく安らかな表情で笑った。
「村人(かぞく)のために生きている」
その生き様が誇りだと、言外に伝わるほどはっきりとした意思で、朗々と。
皺の刻まれた目元を緩めて、尊いものを見つめるような眼差しで堂々とそう言い放った。スランジの周りには、彼自身から湧いていた穢れなど跡形もなく消え去っていた。
「村人(かぞく)のため…」
僅かな静寂の後、誰かがぽつりとその言葉を繰り返した。声が届いた方向にライラが目を向ければ、そこには赤髪の少女が呆然と立ちすくんでいた。
双剣を握りしめていた両手は、ただ持っているだけなのが傍目からでもわかるほど力が抜けている。それでも取り落とさないのは、身に染みついた習性が可能にするものなのか。
ロゼにとって、その単語から連想させるものは何よりも代え難いものなのだろうとライラは思っていた。アジトや街中で出会う度、彼女らがどれほど互いを信頼し、大切に思っているのかが伝わってくるほどだったから。
その背後に見守るように佇んでいた天族の青年も、彼女を見つめながらそっと黒い帽子のつばを下げて顔を伏せる。
彼女らの心情を、正確に推し量ることはできない。
けれど、風の傭兵団だった彼女がセキレイの羽を、風の骨を作ったのは、きっと苦楽を共に歩む家族のため。
風の傭兵団を見守っていた彼が復讐を誓ったのは、その家族や友がかけがえのないだったから。そうなのではないかと思っている。
視線を動かせば、村長たちを見ているようで、しかしどこか遠い目をしているスレイとミクリオ。幼なじみの二人は、イズチの皆を思い浮かべているのだろうか。
スランジらを揺れる翡翠の双眸で見つめているアリーシャはおそらく国のことを、静かに目を伏せているエドナは……もしかしたら、霊峰に想いを馳せているのかもしれない。
そして、自分は。
―――そういえば儀式の時、ライラのことが見えていた女の子がいただろう?あの子、僕の妹なんだ
まだ幼さの残る丸い輪郭を持ったあどけない顔で、誇らしげに語る少年の姿が脳裏をよぎる。
―――困っている友達を助けたいから、天族信仰を広めることが夢だって、ライラと輿入れしたときに言っただろう?あれも本当だけどもうひとつ、夢があるんだ
あの時は照れくさくて言えなかったんだけど。見晴らしの良い丘で、二人で小休止を取っていた時にとつとつと語られた、少年の目指す未来。
―――妹が幸せになれる場所をつくること。それが、もうひとつの僕の夢
そうだ。彼もまた、はじめは友の、そして家族のために。
「…村長さん。オレ、このまま帰るよ」
誰もが押し黙っていたその沈黙を、穏やかな少年の声がそっと破った。同時に、ライラの目に映された過去の幻がぱちんと弾けた。
眩しいほどの景色から一転、偽エリクシールの積まれた木箱と赤い鉱石が鈍く光る薄暗い洞窟に戻った周囲を見回して、前方にいる白いマントを羽織った少年導師に目を止める。
「オレは事情を知りたかっただけなんだ。その用事はもう済んだからさ」
予想だにしていなかったスレイの台詞に呆然としているスランジ達から視線を外して、こちらを振り向いた彼は物柔らかな笑みを浮かべていた。
いいかな?と自分たちに向けて問い掛ける。切り替わった視界から遅れて思考も記憶の海から戻ってきたライラは、やや間を置いてスレイに同意の意を示した。
「それが、スレイさんの答えなのでしたら」
『導師』の宿命は、災禍の顕主を鎮めること。そのさだめを全うするためならば、スランジをペンドラゴに連れ戻して碑文の暗号を解読してもらうことを優先すべきだとはわかっている。
だが、ただ単純にその道を示して選ばせることの愚かさも、ライラは知っていた。痛いほど、身にしみて。
だから、それが確実に誤った道ではない限り、『導師』ではなく『スレイ』の意見を尊重したい。
ただの自己満足かもしれない。けれど、それはライラにとって守りたいことのひとつだった。
「……私は、罪を犯したものは裁かれるべきだと思っている。…だが、今こうして目の前に、犯した罪によって救われた人々もいる」
静かな、けれどしっかりとした声音で、アリーシャは硬い表情で零すようにそう言った。
石の質感を思い出す声色は、今までそうしてきた彼女の軌跡が見えるようで、そしてその裏で現状にひどく迷っていることがはっきりとわかった。
「だから、スレイの意見が正しいのかどうか、判断をしかねているというのが本音だ。……スレイは、何故スランジ殿を見逃そうと思ったんだ?」
曇りのない二対の翡翠に困惑と迷いの色を浮かべた少女が、スレイに向けて疑問を投げかける。
その問いを受け止めたスレイはうーんと…と頭を掻いて、それからアリーシャの方に身体ごと振り返って笑顔を向けた。
「ゴドジンの人たちの優しさも、家族みたいなあったかさも、全部本物だったから」
隣にいるアリーシャが、はっと目を見開いてスレイを凝視した。
ライラもスレイの言葉に、昨夜宿屋の主人が作ってくれた夕食の味を思い出した。
自分たちは沢山食べると言ったら鍋いっぱいに用意してくれたあたたかなシチュー。
その気前のいい振る舞いは、打算や策略などは感じられない、ただただ安心感を覚える優しい味だった。
「皆を幸せにする方法は間違ってたけど、皆を幸せにしたいって気持ちは本当だった。だったら次は正しい方法で、皆が幸せになることだってできるんじゃないかなって。それが村長さんやゴドジンのみんなならできるって思った」
一旦言葉を区切り、そしてスレイはスランジ達を眩しそうに見つめた。
「だから、オレはこのまま帰ろうかなって」
「スレイ…」
「ワタシは、人間社会のことはあまりわからないけど」
唐突に、今までずっと沈黙していたエドナが傘をくるくると回しながら彼らの会話に口を挟む。
「法律も元々は人間が作ったものよ。ただそれに則るだけじゃ、見えないこともあるんじゃないかしら」
『…まぁ、正直僕も逃げた責任を果たせって気持ちもある。けど、何も教皇に戻るだけが、責任の取り方ではないだろうしね』
その言葉に添えるように、皆の頭の中に少年の声が響く。この洞窟に入るまでに力を借りる必要があったエドナに代わって、今はミクリオがアリーシャの中に入っているのだ。
アリーシャはスレイ達を、それから村長を守るように固まる人々に視線を送る。
「…法に則るだけでは、見えないこと……スレイは、それを彼らに見出したということか…」
天族二人の言葉に、未だ迷っていたアリーシャは決意を固めた顔でもう一度スレイを見つめた。
「わかった。私もスレイと同じように、スランジ殿と村の方々を信じることにする」
犯した罪を法以外で救える方法を、スレイの真っ直ぐな意思を信じてみたい。
「アリーシャ…皆も、ありがとう」
心の底から嬉しそうに笑うスレイに、アリーシャ達も自然と笑みを浮かべて笑いあう。
そんな彼らを、ライラは我が子を見つめる母のような眼差しで眺めていた。
スランジらのこともだが、何よりスレイのことを信頼しているからこそ出せた答えでもあったのだろう。
ティンタジェル遺跡群で、スレイがミクリオとアリーシャに怒りながら語っていた”仲間”に、より近付いてきている。
本当に、彼らの成長は目覚ましい。
「…ロゼ、お前はどうだ?」
今までの会話を黙して聞いていたデゼルは、ひとり険しい顔で悩んでいるロゼに小さく語りかけた。
眉根を寄せたままデゼルとちらりと見上げて、数秒の間を置いてからようやくわかんない、と一言口にした。
「けど、スレイがこの人を信じたのはわかった。だから、いいよ」
「ロゼさん…」
思わず彼女の名がついて出ると、ロゼはライラを振り向いて途方にくれた表情を見せた。
「…あるのかな?白でも黒でもないって」
ロゼは――『風の骨』は、依頼された仕事を遂行するか否かを決めて、それを行動に移していた。つまりそれは、常に対象人物が白か黒かを決定づけていたということだ。
素性が知られてしまえばそれで終わりの組織だ。対象者に関わるうえで、白と黒以外を選択することは自殺行為でもある。今スレイが選んだ選択肢は、ロゼにとって相当衝撃的なものだったのだろう。
彼女にしては珍しく思い悩んだ面差しを正面から受け止めたライラは、言葉を探しあぐねて俯いて、やがて困ったような微笑みを浮かべながらロゼを見つめ返した。
白でも黒でもない答え。それが本当にあるのか、彼女よりも遥かに長く生きてきたライラ自身にもわからない。
それでも、信じたい。
白でも黒でもない、そんな答えや道が、この世界にあることを。
そしてその答えをスレイが…ここにいる旅の仲間が、見つけ出してくれることを願っている。
「――――、まさか、あなた方は…」
スレイの言葉に唖然と口を開けていたスランジは、彼らがライラ達と会話していることにはっとしたように息を呑んだ。
「村長、無理は…!」
よろけながらスレイ達の元へ歩きだした老人に、村人たちも庇うように足を踏み出す。彼らの気遣いに感謝しながら、警戒心を解きほぐすように心配はいらない、と優しく語りかける。
「この方は、本物の導師だよ」
「村長さん…」
隔意のない落ち着いた物言いに、スレイたちも安堵したように顔を綻ばせる。
穏やかな表情を湛えて歩み寄ってきたスランジは、自分たちに一礼して意を決したように口を開いた。
「導師よ、こちらへおいでください」
そう言って、洞窟の更に奥へと歩き出した。それに続くスレイ達の後ろから、ライラもついていく。
薄暗い洞窟の隅で鈍く輝く赤い鉱石が、視界の端でちらちらと存在を主張する。
その宝石のような鉱石の名は、赤精鉱。偽エリクシールの原料であり、そして強力な火の天響術の影響がなければ生まれないものだ。
村人たちはこの場所を『聖域』と言っていた。それに昨夜エドナが零していた、ここに遺跡があるという話。そして地図で記されていた、火の紋章。
これらを結び付けて、ライラのなかであるひとつの推測が浮かんでいた。
その推測が当たっているのならば、この先にあるものは、おそらく。
(……そうだとしたら、私が)
私が、導師を支えなければ。
導師に四つの秘力あり
すなわち地水火風
其(そ)は災禍の顕主に対する剣なり
世界に試しの祠あり
同じく地水火風
其は力と心の試練なり
力は心に発し、心は力を収める
心力(しんりき)合せば穢れを祓い、
心、力に溺るれば己が身を焦がさん
試せや導師、その威を振るいて
応えよ導師、その意を賭して