もしもの物語-10-
「いよっし、出られた!お日様最高ー!」
冷たく湿り気を帯びた空気が充満した洞窟を抜けて、ロゼは大きく伸びをして嬉しそうに声を上げた。
先に駆け出した彼女に遅れて、スレイ達もその晴れやかな天気に目を細める。ここ数日は雨の草原と薄暗い洞窟の中を彷徨っていたためか、随分と久しぶりに太陽の光を浴びた気がした。
見上げる視界に、険しい崖に掛かるいくつもの岩の橋を振り仰ぎながら、ロゼと同じように目一杯空気を吸う。
土というよりも岩の匂いがする。鼻腔をツンと通り抜ける爽やかな香りはハーブの一種だろうか。
「……ぅん?」
しかし、同時に別の臭いにも気付いて、スレイは顔に険しさをのせる。
幼い頃から嗅ぎ慣れた、獣の臭いだ。
その直後、彼らの前に一陣の風が吹き荒れ、つんざくような甲高い鳴き声と共に一羽の怪鳥が姿を現した。
「ちょ…行ったそばから何!?」
「グリフォンですわ!」
ライラのその言葉を合図に、各々が武器を構える。鳥の頭部と翼を持った憑魔が、獅子の身体を威嚇するように前足を突き出して咆哮する。
「グリフォンか…こんなところにいるとはな」
「こいつは鳥なのか?獣なのか?」
どちらともとれる姿をした憑魔を睨みつけながら浮かんだ疑問を口にすると、デゼルから知るか、と素っ気ない返事が返ってきた。
「いいとこ取りしようとしたらこうなっちゃっとか」
そんな彼の代わりに、というよりも何となく思い付いたような雰囲気でロゼがぽつりと零す。
「今、『鳥』と『取り』をかけましたね!?」
その言葉にカッと目を見開いたライラがグリフォンからロゼへと勢いよく振り向いた。いつになく真剣な表情で詰め寄ってくるライラに僅かに怯みながら、彼女の肩を押して否定する。
「食いつくな食いつくな!あと言いがかり!」
「それはがっかり…」
しゅんと肩を落とし、けれどしっかりとダジャレを組み込むライラに苦笑しながら、スレイは背後に声をかける。
「アリーシャ、この憑魔は見え……アリーシャ?」
未だ完全に憑魔を捉えることが難しい少女に話しかけて、しかし当の少女はこちらの声に気付いていないようだった。長槍を持ったまま俯いて、思い詰めたようにやや目を伏せた彼女に首を傾げる。
『…アリーシャ』
「―――?!は、はい!」
鈴の音に似た少女の声が頭に響く。それは彼女にも聞こえたようで、大きく肩を震わせて背筋を伸ばす。
やっと思考の海から戻ってきたらしい彼女は、スレイの心配そうな視線にようやく気付いた。
「その竜巻は…っ憑魔?!」
慌てて臨戦態勢に入ったアリーシャのその台詞に、目前の光景が彼女の目にはどう映っているのかを知る。グリフォンが見えていないのだ。
憑魔を視界に留めたままちらりとライラに目配せをするが、平静を取り戻した彼女は同じくグリフォンを警戒しながら首を横に振った。
どうやら従士契約をする余裕はなさそうだ。
「アリーシャ、どこか物影に隠れてて!こいつはオレたちで何とかするから!」
「…っ…すまない、任せた!」
一瞬だけ悔しげに顔を歪ませたアリーシャは、しかしすぐにいつもの凛とした表情に戻り、先程抜けたばかりのカンブリア地底洞に駆けていった。
「……スレイ」
彼女が洞窟の入り口に姿を消したのを見送っていると、すぐ傍からミクリオの声が飛んできた。静かに、それでいて諫めるような口調に、スレイはわかってる、と頷く。
「今は憑魔を浄化することが先、だろ?」
「ああ、その通りだ」
スレイの応答に頷いたミクリオは、身の丈以上もある長杖をくるりと回転させた。それを横目で見ながら、憑魔との間合いをはかる。
「アリーシャが悩んでるのって、やっぱり…」
「枢機卿のことだろうな。あの時から様子がおかしい」
間を置かずに返ってきた言葉に、スレイもだよな、と同意する。教会神殿であの女性と出会ってから、アリーシャはもの思いにふけることが多くなった。
彼女自身から理由は聞いていない。先程ミクリオが言ったように枢機卿が原因だろうとは踏んでいたが、一度聞こうとしてライラに止められたのだ。
―――もう少しそっとしておいて差し上げましょう。きっとアリーシャさんが悩んでいることは、アリーシャさん自身が答えを見つけなければならないことですわ
それは、自分が導師になったばかりのときに、ライラに告げられた言葉だ。
自分が導師として、災禍の顕主に対して自分で答えを見つけ出さなければならないように、今アリーシャが思案していることはアリーシャ自身で答えを探し出さなければならないことなのだと。
「…なぁ、ミクリオ」
隣にいる親友に、静かに声をかける。何だ、間髪入れずに返ってきた彼の促す声に、スレイは一旦閉じていた口をまた開く。
「応援するのってさ。その人のことをちゃんと理解してなくちゃ、難しいことなんだな」
「…うん、僕もそう思うよ」
身に沁みるように頷くミクリオの声を聞きながら、じゃり、と音を立てて地を踏みしめる。
ここ最近、ミクリオは誰にも言わずに修行に励んでいた。それも皆が寝静まった深夜や明け方に、ひとり隠れるように。
自分は以前、従士契約の反動のことを黙っていた。自分が、そして仲間達まで危険にさらしてしまうまで、ずっと。
けれどスレイは、水浸しになりながらも必死に修練を積むミクリオに声を掛けなかった。
ミクリオだって、スレイの身体のどこかに不調がきたしていることを知っていながら、自らそのことについて言及することはなかった。
それができたのは、自分とミクリオがお互いにどんなことを考えてどんな行動をするか、ちゃんと理解していたからだ。
そもそも生まれた時から共にいたから遠慮というものが一切必要なかったということもある。そうなるまでに数え切れないほど喧嘩をして、本音をぶつけ合ってきた。
今だって言い争うことはあるが、多少の無茶で相手を止めることはない。悩んでいたって、聞くべきなのかそっとしておいた方が良いのか、説得して半ば無理矢理聞き出すかを判断することができる。
だが、それは相手がミクリオだからこそできたことで、ミクリオもスレイだからこそできたことなのだと改めて痛感する。
自分の行っていることが本当に彼女のためになっているのか、わからない。
わからないから、他に何かできることがあるんじゃないかと考えてしまう。あんなに悩んでいるのに自分は何もできないと、どうしたって悔しさが湧いてきてしまうのだ。
唸るような風切り音を立てながら再び上空へを舞い上がるグリフォンを仰いで、ミクリオはまぁ、と呟いて足元に青く光る陣を浮かべる。
「とりあえず、今僕たちがすべきことは、はっきりとわかるけどね」
不敵さを帯びた親友の台詞に、スレイはそうだなと頷く。
今自分たちがすべきこと。それは、目の前にいる憑魔を倒すことだ。
アリーシャのことは、今はただ黙って見ていることしかできない。だったら、自分にできることをやるしかない。今はわからなくても、これからもっとアリーシャのことを知っていけば、いつか別の選択をできるようになるかもしれない。
「とっとと終わらせよう。アリーシャのことも、枢機卿や教皇のことも、先に進まないことにはどうにもならない」
そう信じて、ただひたすら前に進む。
「だな!」
親友の言葉に頷いて、スレイは大きな翼を羽ばたかせるグリフォンに我先にとばかりに飛び込んでいった。
水気を含んだ風が外へと吹き抜ける洞窟の出入り口付近で、アリーシャは外の様子を窺いながら身を潜めていた。
洞窟の周囲に、憑魔はいないはずだ。自分では見えない類のものも、おそらくいない。いるのなら中にいるエドナが知らせてくれる。
長槍は両手に持ったまま、背後を取られないようにとひんやりとした岩壁に寄りかかる。
いくらなんでも考え込みすぎだ。エドナに声を掛けられるまではスレイの声も、場の空気が張り詰めたことさえも気付かなかった。
(騎士として失格だ…)
油断をしていたつもりはなかったのだが、結局してしまったことはそれと変わりはない。はぁ、とひとつ溜め息をついて項を垂れる。
ずっと、脳裏にちらつく影がある。気にしないようにしていても、ふと気を抜いた隙を狙ってそれは浮かんできて、アリーシャを悩ませる。
どうしても、頭から離れないのだ。ペンドラゴで相対した彼女の……フォートン枢機卿のことが。
◇ ◆ ◇ ◆
マシドラ教皇の行方不明の件について、枢機卿が関わっていないか探ってきて欲しい。
ローランス帝国の皇帝親衛隊、白(はく)皇(おう)騎士団を率いるセルゲイからの頼みごとに頷いて、スレイ達はペンドラゴ教会神殿に向かった。
街と同じようにどこか厳粛な雰囲気を感じる教会に入ってその外観を興味深げに見回しながら歩いていると、立派なパイプオルガンの前で神官の話を楽しそうに聞いている三人の子供達を見つけた。
「最高の力をもつ五人の天族、五大神のお名前を全部言えるかな?」
どうやら勉学も兼ねているらしい。穏やかな笑みをたたえて掛けられた問いに、灰色の服を着た子供がえーと…と唸りながら必死に思い出そうとしている。その横で、少女が勢いよく手を上げた。
「ムスヒ!あと、ウマシア!」
「ハヤヒノとアメノチ!」
もうひとりの少年も、少女に負けじと声を張り上げて続きを答える。
ムスヒは火の大神、ウマシアは地の大神。ハヤヒノは風、アメノチは水を司る大神だ。
子供たちは皆、正解が言えるように一生懸命覚えてきたのだろう。その丸みを帯びた幼い横顔が眩しく感じるほど、自信に満ちた顔をしている。
けれど、ひとりだけ答えることのできなかった少年だけは、悔しそうに顔を歪めていた。
それを見た神官は、柔和な表情で再び優しげに語りかける。
「そう。そして最後の大神は、この教会神殿に祀られている――――」
神官が答えを待って、言葉を区切る。
彼の言葉が質問だと気付いた少年らは、三者三様の表情から一転、全員が笑顔で口開く。
「「マオテラス!!」」
子供らしい元気のいい声が、静かな教会内に響き渡る。
「そう。マオテラス様は、グリンウッド大陸のすべてに加護を与えてくださる天族ですね」
それまで微笑ましそうにその光景を眺めていたスレイとアリーシャは、マオテラスの名を聞いた途端、子供達と同じような顔をして目を輝かせた。
「教会神殿には、マオテラスが祀られてるのか!」
「五大神の超大物が出てきたな」
喜色を浮かべるスレイの言葉に、ミクリオが感心したように相槌を打つ。
スレイ達の最後尾では、ライラが胸を突かれたように瞠目して目を伏せた。しかし神官の言葉に夢中になっていたスレイ達は、その痛みに堪えるような表情に気付かない。唯一エドナだけは、彼女の様子を静かに見つめていた。
「マオテラスなら、災禍の顕主に対抗する方法を知ってる可能性は高いよな」
「可能性としてはありえるね。神代の時代からいた天族だ。災厄の時代をどう乗り越えていったかを見てきたはずだろうし」
すっかり頭の中がマオテラスに占拠されてしまったスレイとミクリオが、興奮気味に会話を交わす。
「そんなスゴイ奴なんだ?」
彼らの会話を傍から聞いていたロゼが何気なく零した呟きを耳にしたアリーシャは、驚いた様子でロゼに目を向ける。
「マオテラスは五大神の筆頭…大神のなかでも特に上の存在なんだ。今まで知らなかったのか?」
「やー、だって商売とはあんま関係なかったし…」
「関係ないって…」
頭を掻きながらそう返答するロゼに、アリーシャは半ば言葉を失った。商いに関わるかそうでないかで、広く知れ渡っている一般知識を知らないままでいられるというのか。
彼女たちのやり取りを聞いていたデゼルが、深い溜め息をもらす。それを見たアリーシャは本当に知らないんだ、と軽い眩暈を覚えた。何だか自分の常識を覆された気分だった。
各々が本格的に雑談をし始めた頃、自分達の存在に気付いたらしい神官が、子供達に何事かを話し掛けてからこちらに歩み寄ってきた。
「スレイさんですね?ようこそ、ローレライ本部教会へ。お話は伺っています。どうぞ奥へ」
神官の案内に従ってさらに奥へと通されたスレイ達は、教会内に荘厳と佇む巨大な石碑に思わず呆然と見上げた。これほど大きな石を、どのようにして運び入れたのだろうか。
「これは『導師の試練』と、それを越えることで得られる『秘力(ひりょく)』について書かれている碑文です」
スレイ達の驚いた様子に少しだけ笑みを深めて、神官は説明する。
「『導師の秘力』!」
スレイは思わず歓喜の声を上げて、その石碑を宝物のようにまじまじと見つめる。その横で、顎に手を添えて思案していたミクリオが小さく疑問を口にする。
「本物かな?」
どうなのだろうか。スレイとミクリオは一度顔を見合わせて、それから真偽を確かめるために湖の乙女たる火の天族をちらりと見つめる。
「カナカナカナ〜♪あ、ヒグラシが鳴いていますわね」
「「本物っぽいな(ね)!」」
盛大に聞いていなかった振りをするライラに、スレイとミクリオは確信した。彼女が誓約で何を話すことを禁じられているのかはわからないが、この全力の誤魔化しようはこれが導師の秘力と関わりのあるものだからなのだろう。
探知機のような誓約とライラの扱われように、エドナとデゼルが憐れむような視線を彼女に送る。心なしか彼女の背中が切なげな雰囲気を醸し出していた。
スレイは碑文に近付くと、黒耀に輝く石碑に刻まれた文字をじっと見つめる。一字一句覚えるように、じっくりと。
だが、すぐに難しそうな顔で首を傾げた。解説のような古代文字があることはわかる。けれど、読むことができない。
無意識にそれを呟くと、同じことを思っていたらしいミクリオから文章になってない、という言葉が飛んできた。
「きっと暗号なんだ」
「秘力っていうくらいだしな。どこかに解読のヒントは…」
「あのー。これ、なんて書いてあるの?」
何とか解読しようと更に石碑を調べようとしていたスレイ達の近くで、そんな軽い調子の声が聞こえてきた。
思ってもみなかった言葉に仰天して振り向くと、自分達と同じような表情をしたアリーシャの隣でロゼが神官に顔を向けながら碑文を指差していた。
……聞くのか。悩みながらもああでもないこうでもないと議論を交わし合って、もしかしたらこれかもしれない違ったらこうしてみようと謎を解き明かす楽しさを堪能せずに、答えを聞くものなのか。
正解よりも正解に至るまでの過程に夢中になるスレイ達にしてみればまさに考えもしなかった行為に、驚いた以上に目の前で好きなものを取り上げられたような切なさが湧く。せめてもう少し時間をくれてもよかったのに。
いや、確かにここは枢機卿の本拠地でもある。もし彼女が敵であった場合、いつ襲ってくるかもわからない。だから確かに時間は掛けない方がいいのだろう。そうなのだろうが、でも少しくらい自力で挑戦してみても平気なのではないか。
そんな彼らの心情を知ってか知らずか、解説を頼まれた神官は自分も読むことはできない、と首を横に振った。
「わかりません。この碑文は、暗号で記されていて、その解読法は代々、教皇様だけに伝えられるのです」
物憂げな表情でそう語った男性に、ロゼの行動に呆気にとられていたスレイ達はやや間をおいて我に返り、彼の言葉を理解する。
「教皇様に読んでもらわないとダメってことか…」
それに神官の沈んだ様子を見る限り、教皇を今すぐここに呼ぶことができない状態であるということがわかる。今は丁度どこかに出掛けているのか、それとも教会神殿に軟禁されているのか、それとも――――――
「スレ――――!」
彼の表情から何かを読み取ろうと思考を巡らせていると、突然全身にのしかかって来るかのような圧迫感がスレイ達を襲った。
同時に、側にいたミクリオがスレイに手を差しのべながら姿を消す。
「スレイ!神官様がっ…!」
苦しげな声で叫ぶアリーシャの言葉に目を向ければ、そこにはまるで石像のように固まった神官の姿があった。
重い足を何とか引き摺りながら、神官の口元に手を当てる。
「そんな…」
先程まで子供に、そしてスレイ達に語りかけていた彼の息が、ない。
あまりのあっけなさに、ぞっと身の毛がよだった。
「ここはまずい、外へ!」
ここは危険だと、己の本能が鳴らす警鐘を聞きながら、スレイはロゼとアリーシャに向けてそう叫んだ。
胸が押し潰されるような強烈な圧力に、膝が崩れそうになる。
奥歯を噛み締めて必死に堪えながら、アリーシャはスレイとロゼについていく。
何かが身体の中に入りこんで、内側から蹂躙されるような、この感覚に覚えがある。マーリンドに入った瞬間の空気や、ティンタジェル遺跡でドラゴンの幼体と対峙した時の、あの背筋が凍り付くような寒気。
(穢れの、領域…!)
それも、かなり強力な。
アリーシャは胸元をぎゅっと押さえつける。スレイがお守り袋を作ってくれるまではと、そのまま懐に入れたホーリィボトルを染み込ませた護符がそこに入っている。盆地でも今も、自分が正気を保っているのはホーリィボトルの効力のおかげなのだろう。でなければ自分も、戦場で理性を失った兵士たちのように、たった今一瞬で呼吸すらも止めた神官と同じように成り果てていたはずだ。
「!、君たち、早く逃げ―――」
パイプオルガンの前でまだ話し合っていた子供達を見つけて、アリーシャは慌てて声を掛ける。しかし、一人の少年の肩に触れて、固まった。
子供達は、談笑したまま時を止めていたのだ。
己が命を落としたことすらわからないまま、笑顔のまま身動き一つしない少年達に、やるせない思いを抱きながら通り抜ける。何故、こんな幼い子供まで。
歯を食いしばりながら前を向く。教皇のことで何の収穫も得られなかったが、この領域に留まり続けていたら自分達もどうなるかわからない。
走ることすらままならないまま、何とか街へと繋がる扉の前まで辿り着いた。ほっと息をつきながら、その扉にスレイが手を掛ける。
――――だが。
「もうお帰りですか、導師よ?」
まるで穢れの中から出てきたのではないかと錯覚するほど、唐突にひとりの女性が姿を現した。
その瞬間、アリーシャは込み上げてくる嘔吐感に思わず膝をついた。
「っぅ…!」
気持ち悪い。身体の中を乱雑に引っ?き回されているかのようだ。
本能が理解する。この女性が、神殿に漂う濃密な穢れの源だと。
「ローランス教会枢機卿、フォートンです」
胃からせり上がってくるものを必死に堪えて、立ち上がる。震える膝を叱咤しながら顔を上げて、生理的に滲んできた視界で何とか目前の女性の姿を捉えようとする。
「この領域は…あなたが…」
途切れがちに言ったスレイの問いに、白い神官服に身を包んだ女性がす、と目を細めてたおやかに笑う。この場にまるでそぐわない聖女のようなその微笑みが、暗に少年の言葉を肯定していた。
「ここまで動けるなら合格ですね。その力を私に預けませんか?民のために」
「…ハイランドでも、同じこと言われたよ」
そうだ。スレイは招かれた王宮で、バルトロ大臣にも言われていた。そして彼は大臣の誘いを断った。
枢機卿もバルトロ大臣と同様、民を大義名分に私利私欲で動く人物なのか。
アリーシャは声が出せない代わりに、フォートン枢機卿を怒りを込めて睨みつける。己の欲望のために教皇に次ぐ地位を利用しているから、これほどまでに穢れているのか。
しかし、彼女は心の底から嫌そうな顔でそれを否定する。
「バルトロのような俗物と一緒にされるのは心外ですね」
「俗物っぽい台詞だよ、それ」
ロゼが皮肉を込めてそう返す。だがフォートンは意外にも堪えた様子もなく、ただ澄ました顔を静かに彼女に向ける。
「少なくとも、そんな挑発に乗る程度ではありません」
「おお…一本とられた」
息の上がってきたロゼが、口端を吊り上げて軽口を叩く。それすらも気に留めず、フォートンは落ち着いた動作で再びスレイに向き直る。
「私の願いはただ一つ。帝国がこの災厄の時代を乗り越えること。それは民の結束なしには不可能でしょう」
しかし、と憂いを帯びた面差しで枢機卿は言葉を続ける。
「愛国心のみでそれを行うには、ローランスは巨大すぎる。導師よ、古来より、国家が何をもって民をまとめてきたか、知っていますか?」
問われて、スレイは少し悩む素振りを見せる。
彼女を睨みつけながらも、『国家』という単語にアリーシャも反射的に思案する。
国が何を利用して民をまとめあげてきたのか。
敵国に勝ち続ける強さ。国民を潤せるだけの財力。整備された、治安の良い豊かな街。
いや、とアリーシャその考えを自ら否定する。それは民が集まってからでこそ成せるものだ。もっと根本的に、民をまとめることのできる国の、基盤になりえるものとは。
ふいに、フォートンの胸元で鈍く光るローランス教会のシンボルを形作った首飾りが目に入って、はっと目を見開いた。
それは長い年月に廃れようとも、己が身に災難が降りかかってきたときには、無意識に縋りつくもの。
ハイランドの民もローランスの民も、そして自分も。
「……信仰、かな」
アリーシャがひとつの解答を導き出したと同時に、スレイが同じ答えをフォートンに返す。
比喩ではなくその信仰の頂点に君臨する女性は、うっそりと不気味なほど美しく笑った。
「そう。人は心の救済のために最も尽くし、価値観を違える集団に対し、最大の結束を発揮します。つまり、我が教会こそが、ローランスの要にふさわしい」
紡いだ言葉と慈愛の眼差しはまさに正しく教会に属する者のそれで、けれどどこか肌が粟立つような危うさを孕(はら)んでいた。
歪んでいる。漠然とそんな思いが頭に浮かんだ。
なのに、とアリーシャは唇を噛む。
詭弁(きべん)だと、そう思えない自分もいる。
宗教とはそういうものだ。信仰という概念すらなかった時代は、人間全てが確かに天族を敬い、感謝して祀っていたのだろうと思う。アリーシャ自身は現代もそうあるべきだと考えている。
けれど今、国の中枢が信仰をどう捉えているのか。まさに枢機卿が述べた通り、民を統べるための手段として価値観を見出している。バルトロ大臣の息の掛かった、ハイランド国中枢のひとりであるナタエル大司教がいい例だ。
天族という存在を、ただ人心を集める便利な道具としてしか見ていない。そんな捉え方だ。
「それが、あなたの考えなんだ」
スレイが鋭い視線を投げながらそう言った。彼の眼差しをフォートンは意に介さず、悠長に語る。
「民を導く者としての理念です。導師の名と力が加われば、より多くの民を救うことができるでしょう」
それもバルトロ達が言った言葉と似ている。だが、何かが違うと、アリーシャの中にある直感が同じであることを否定する。
何故だろうと彼女の言葉を反芻して、すぐに気付いた。
『民のため』。枢機卿は自身の理念を語る度に、必ずその意味合いの言葉を口にしていた。
ただの大義名分なのかもしれない。現に彼女はこれほどの穢れを纏った憑魔になっている。穢れの源は人間の負の感情。寧ろそう考えるのが当然だ。
それなのに、アリーシャの本能に近い部分が、そうだと断言することに躊躇っている。
彼女が嘘をついているようにはみえないのだ。どうしても。
枢機卿の言葉は本心からだと、心のどこかで思っている自分がいる。だが、ならば何故彼女は穢れているのだろうか。
(だめだ。頭が、回らない…)
思考どころか身体もそろそろ限界になりつつある。スレイとロゼと、フォートンの会話がよく聞き取れない。
堂々巡りだ。それでも必死に音を言葉として捉えようと、散り散りになった集中力をかき集める。
―――マシドラ教皇が逃げた。結束のためには騎士団が邪魔。疑う者には罰を。
途切れ途切れに聞こえた会話を頭の中に詰め込んでいると、彼らの会話が不意に途切れた。
恐ろしく無音の世界が広がる教会神殿に、わかりました、と静かな声音がこもるように響いた。
「つまり、私の理念を―――拒否するのですね!」
教会のシンボルを模した長杖が振り払われた瞬間、さらなる圧力が全身を縛りつけるようにのし掛かってきた。
その強烈な力に、アリーシャは堪え切れず膝から崩れ落ちる。
「―――――……レイ!」
スレイとロゼの呻き声と、それから次いで聞こえるはずのない声が何故か耳に届いて、それを最後にアリーシャは意識を手放したのだった。
◇ ◆ ◇ ◆
―――私の願いはただ一つ。帝国がこの災厄の時代を乗り越えること。それは民の結束なしには不可能でしょう
―――人は、心の救済のために最も尽くし、価値観を違える集団に対し、最大の結束を発揮します。つまり、我が教会こそが、ローランスの要にふさわしい
ゆっくりとした口調で、けれど滔々(とうとう)と語られた彼女の意志。
フォートン枢機卿は、それは民のためだと言っていた。民を導くための理念だと。
彼女はローランス教会に、枢機卿である己にやや盲目的な過信があるとは思う。だが、あの時に見たフォートンだけで、彼女自身の善悪を判ずることができない。
それはフォートンがどのようなことを行って、ローランス国民に何をしてきたのかをアリーシャは知らないからだ。枢機卿の手から逃れるため、そして教会にもいなかった教皇の行方を追うために住人と話す間もなくペンドラゴを後にしてしまった。判断材料が少なすぎる。
決めつけてしまっては、以前ルーカスを彼の放った言葉だけで人柄を見誤ってしまったときの二の舞だ。また皆の足を引っ張るような真似は、もうしたくはなかった。
それに、とアリーシャは翡翠色の瞳を揺らす。地下に地底湖がある洞窟からひやりとした風が吹いてきて、色素の薄い髪をさらりと凪いだ。
狂気を孕んでいたが、あの瞳は……。
そこではっと我に返って、頭の中の靄を振り払うように勢いよく頭を振る。
まただ。これではいけない。切り替えなければ。
『無理に頭から消そうとしても意味ないわよ』
すると、今まで沈黙していたエドナからそう指摘されて動きを止める。俯けていた頭を上げてエドナ様、と声を掛けると、少しの間のあとで先程の自分よりも長めの溜め息が耳朶に響いた。
『…ワタシもスレイたちを手伝ってくるわ。どうやらあいつの弱点は火属性と地属性みたいだし』
やや面倒そうな声に、アリーシャはおもむろに洞窟の外へと視線を向ける。彼女の属性が弱点なのかはわからないが、確かにグリフォンと呼ばれていた憑魔は、ライラの放つ浄化の炎に慄いているようだ。アリーシャの目に映る竜巻が、まるで逃げるように彼女の炎から離れた。
わかるのは彼女が地の天族ゆえだろうか。それとも何か見極める術があるのか。
姿のわからない憑魔の動きをじっと目を凝らして見つめていると、再びエドナから声が掛かる。
『別に悩むことはかまわないけど、時と場所を考えなさい。うかうかしてると、下手すれば考える頭がなくなるわよ』
その台詞と同時に身体から何かが抜ける感覚がした。光は見えないが、エドナが外へ出たのだろう。先程まで聞こえていた音がぐっと減り、怒り狂った獣の咆哮も聞こえなくなった。
洞窟からそっと様子を窺うと、刀身から炎を放ったスレイの近くで、ロゼがいきなり双剣を収めて拳を地面に叩きつけた。瞬間、彼女の前方に四本の石柱が跳び出す。
どうやらロゼとエドナが神依化したらしい。不自然に吹き飛んだ竜巻が、鈍い音を立てて地に落ちる。
その好機を逃すはずもないスレイ達が、その竜巻に向かって一斉に天響術を放った。
もう大勢は決まっただろう。安堵の息をついていると、ふいに目の前の景色が歪んだ。
「な――っ?!」
突然の事態に息を呑んだアリーシャは慌てて槍を構えて周囲を見回す。しかし、それが敵意の感じられない水の膜だと気付いて、ほっと表情を緩める。
この術を使うことのできる者を、彼女はひとりしか知らない。
「ミクリオ様…ありがとうございます」
出入り口付近に身体を向けて、大体彼がいるであろう場所に見当を付けて微笑んだ。
アリーシャ自身を包み込むように出現した球体の水の膜は、光の屈折を利用して姿をくらます効果がある。ペンドラゴを抜け出すとき、監視の目から逃れる際に活躍した彼の術、『霊(れい)霧(む)の衣(ころも)』だ。
「…ミクリオ様?」
ふいに涼やかな水音が一瞬だけ強まったかと思うと、正方形の紙が一枚、唐突に現れた。
野営のときに気晴らしに、とライラからもらった折り紙だ。アリーシャも同じものを数枚ライラから受け取った覚えがある。
まだ折り目のついていないその紙に文字が書かれていることに気付いて、読んでから苦笑いを零す。
―――"気にしなくていいよ。エドナにグリフォンに対して僕は役立たずだから、せめてアリーシャを守ってこいって言われただけだから”
「…エドナ様は、私に気を遣ってくださったのですね」
彼女の心遣いは、荒野にそっと咲く小さな花のようにさり気ない。いつもこうして彼女が去ってから、もしかしてと振り返って気付くことばかりだ。
嬉しいと思うと同時に、気遣われてばかりの自分が少し情けない。エドナの言う通り、こんな場所で考え事をしていたらあっという間に憑魔の餌食(えじき)になってしまう。
―――”そうだろうけど、もう少し言い方ってものがあると思わないか?”
少年の端麗な顔立ちが不満げにしかめられているだろうことが容易に想像できて、くすりと笑う。
水という属性を持った天族ゆえか、はじめは冷静沈着で少し冷淡そうな方だと思っていたが、実際はスレイと同じくらい表情豊かなことを、アリーシャはもう知っている。
「でも、エドナ様の本心に気付いていたから、こちらに来てくださったのですよね。エドナ様もミクリオ様もお優しいです」
微笑みを乗せてそう告げると何故か暫しの間が空いて、ふいに折り紙が反転して色のついた面がこちらに向く。
―――”別に、僕は僕の判断でアリーシャのところに来ただけだから”
先程よりもやや走り書いたように記された文字に、アリーシャはもう一度小さく声を上げて笑った。
しかめられた顔を更に難しくさせてしまうと思ったが、それでも照れを隠した文面が彼を自分と同い年くらいの少年へと近付けて、ぐっと湧いてきた親近感に笑みが抑えきれなかった。
―――”少しは元気が出た?”
ふいに目前の折り紙が揺れ、先程の文字の下に書き足されたその言葉に、アリーシャは目を見開く。
「…申し訳ありません。ミクリオ様たちに、ご迷惑をおかけしてしまって…」
丸くした瞳をすぐに瞼で半分隠し、彼に向かって謝罪する。
―――”迷惑だなんて思ってないよ。僕もエドナも、もちろんスレイたちも。まぁ、心配はしてるけどね”
その優しい気遣いが滲む言葉に安心すると同時に、恐縮してしまう。
仲間たちは皆、気付いているのだ。
当たり前だ、ここ数日は上の空だったことは自分でもよくわかっていた。
けれど、考えないようにすればするほど、服ついた泥のように頭の中にこびりついて離れなくて、いつの間にかもの思いにふけって我に返る。その悪循環だった。
アリーシャの目線に合わせて少しだけ下げられた紙が、丁度読み終わる頃合いですっと引かれた。釣られて顔を上げると、正方形の紙が小刻みに震えていた。
時々躊躇うかのように止まる折り紙を何気なく見つめていると、やがてくるりと反転してほとんどが文字で埋められた水色の紙面が現れた。
―――”アリーシャが何に対してそんなに悩んでいるのか、何となくだけど察してる。だからって無理に聞くつもりはないよ。ただ今だけ、そのことだけ考えてみたらどうだい?僕が霊霧の衣を使っている間は安全だし、スレイたちが憑魔を浄化するまで、さ。一度思い切り悩んだら、意外とすっきりするかもしれないよ”
少しだけ歪んだ、けれど元が整った文字だとわかる文を目で追いながら、思わず息を止めて彼を見た。正確にはミクリオの顔があるであろう場所を。
「ミクリオ様…」
じわりと染み入るような彼の心遣いに目頭が熱くなりかけて、慌てて首をふって誤魔化す。
未だ、こうして誰かに手を差し伸べられることには慣れていなくて、情けないくらい泣きたいほど嬉しくなってしまう。
目に溜まるものをぐっと抑えて、代わりに口端を吊り上げてありがとうございます、と礼を言った。
「では、少しだけ。お言葉に甘えさせていただきます」
軽く頭を下げて、アリーシャは瞼を伏せる。意識してゆっくりと深呼吸をして、感覚を研ぎ澄ませるように心を鎮める。
マルトラン師匠(せんせい)から学んだ精神統一の方法だ。お前はよくひとつの物事に囚われて他がおろそかになってしまうことがあるからと、苦笑交じりに教えてくれた。
理知的な面差しに勇ましさを纏った、怜悧な美貌をもった己の師の姿が脳裏に甦る。
そういえば、マルトラン師匠はもうレディレイクから戻ってきているのだろうか。だとしたら今頃、戦場で消えた自分を探してくれているのではないだろうか。
ふとそんなことが頭をよぎって、ああでも、と淡く苦笑いを零す。
(仕事に関しては厳しいお方だから…)
待っているくらいはしてくれそうだが、帰還して早々叱り飛ばされてしまいそうだ。
怒鳴るでもなく、ただ底冷えするような双眸で懇々と諭されるのは、なかなか怖い。
待っていると言えば、屋敷の者たちのことも心配だ。大臣が彼らに何か嫌がらせをしていなければいいのだが。開戦前に届けた手紙は、無事に届いているだろうか。
様々な懸念が頭の中に浮かび上がる。
浮かんでは消える言葉の海を掻き分けて、アリーシャは今最も頭の中を占めているものを見つけ出す。
――――ローランス教会のNo.2、フォートン枢機卿。
彼女は憑魔だっだ。それは紛れもない事実だ。でも、だからこそ余計にわからない。
彼女の言葉に、嘘は感じられなかった。貴族や王族、それに国家の中枢の中で暮らしてきたアリーシャにとって、見栄や建前が入り混じった会話は日常茶飯事だった。正直に言って楽しい部類のものでは決してなかったが、だからこそそれが本音なのか、己の欲で歪められた言葉なのかはある程度わかる。
その自身の直感が、彼女は嘘をついていないと告げている。だが、ならば何故あれほどに濃い穢れを纏っていたのか。
そういえば、とアリーシャはふと別の人物を思い浮かべる。
バルトロ大臣は、まだ憑魔ではなかったはずだ。あの時はまだ従士契約をしていた。枢機卿のときのように押し潰されるような息苦しさを、彼らからは感じなかった。
どちらも国の中枢に関わり、国と民を動かしている者たちだ。そして自分も、いつかは。
ならば、その違いは何なのだろうか。
そもそも、穢れとは一体何なのだろうか。憑魔とは、何なのだろうか。
何故彼女は、憑魔になってしまったのか。
(……曖昧だ。全部)
どれだけ必死に考えても、今まで得た知識を引っ張り出してかき集めても、わからない。
知識や経験といった情報が、圧倒的に足りない。
穢れのことも、憑魔のことも。ローランス帝国のことも枢機卿のことも、何も知らなすぎる。
なんて無知なのだろう。何の知識もないまま、自分はハイランド国民の上に立とうとしていたのか。
無意識に下唇を噛み締める。数日の野宿で荒れはじめていた唇にぴり、とした痛みを感じながら、アリーシャは己を恥じる。
末席とはいえ王族であるアリーシャが政治に関わることを、周囲の人間はひどく煙たがっていた。ゆえにアリーシャには意図的に情報が遮断されることがよくあった。だが、それは言い訳にはならない。
大臣たちが自分のことを嘲るわけだ。悔しいが、自分は自身が思っている以上に箱入り娘だったようだ。
意識の外から、地響きのような音が聞こえてきた。もしかしたらスレイ達が憑魔を倒したのかもしれない。
そうだ。自分は導師のことも天族のことも、まだよく知らない。
ぎゅっと眉根を寄せながら力の限り長槍の柄を握りしめて、震えるほど力を込めて、それから唐突に力を抜いて息をつく。
今ある知識と経験だけでは、答えどころか可能性すら見出せない。ならばどうするか。
(…これから、知っていくしかない)
何もわからない現状は、裏を返せば自分が何も知らないことを知ったということだ。そして今からでも、まだ手遅れにはならないはずだ。
肺が空になるまで体内にある空気を吐き出して、静かに息を吸う。ぐ、と身体に力を入れて顔を上げる。
同時に、アリーシャを覆っていた霊霧の衣がぱちんと音を立てて破れた。
―――”少しは考えがまとまったかい?”
次いで、そんな文字が綴られた新しい折り紙が目の前に現れて、アリーシャは晴れた気持ちをあらわにしてはい、と笑った。
「自分の無知さが身に沁みましたが、お陰様で大分すっきりしました。ありがとうございます」
スレイ達と旅を続けていけば、またわからないことが増えていくのだろう。導師の旅路なんて、それこそ未知の世界だ。
けれど、自分には夢がある。夢のために目指している場所がある。
その場所に立つために必要な何かが、きっとこの旅の中にある。
―――"ならよかった。丁度スレイ達も浄化が完了したようだし、行こうか”
「はい。行きましょう、ミクリオ様」
彼の言葉に力強く頷いて、アリーシャはその決意を胸に、仲間達が佇む崖道へと踏み出した。
「風を操るのは百年早かったな」
ちょうど皆の元へ駆け寄った頃、デゼルの静かで皮肉めいた声音が耳に届いた。
その前方あたりから途中でアリーシャの元を離れたエドナが風ムカツク…と愚痴を零す声が聞こえた。
刹那、まるでその声に反応したかのように、入り組んだ地形に突風が吹き荒れ、短い悲鳴が上がる。
「エドナさん!」
ライラの焦った声を聞いて強い風に閉じていた目を開くと、エドナの声が聞こえてきた方向にスレイが駆け寄り、大丈夫?と屈んで手を差し伸べていた。どうやら今の突風でエドナが飛ばされかけてしまったらしい。
「ちょっと滑っただけよ」
気まずそうな声と共に、スレイが後ろに重心をかけながら立ち上がった。その戸惑ったような声音がどこか可愛らしくて、アリーシャは思わず優しげな笑みを浮かべる。
『手がかかるね、エドナお嬢様は』
しかし、ミクリオはそうは思わなかったようだ。
今はアリーシャの中に入っている彼は、日頃の仕返しと言わんばかりに、嫌味ったらしくわざとゆっくりとした口調で彼女をからかった。
「…ミボに言われるなんてっ…」
その効果はてきめんだったようだ。小さな少女は、普段は感情の読みにくい声音に珍しく怒りを滲ませてタンッと音を立てた。どうやら地団駄を踏んだらしい。
その様子を見ることのできたスレイとロゼと顔を顔を見合わせて、お互いに楽しそうに笑った。狼狽するアリーシャの肩を二人して叩き、大丈夫大丈夫と宥める。
『見渡した限りでは村は見えませんでしたね…道が狭いので、挟みうちに気を付けつつ行きましょう』
「久しぶりに濡れないで歩ける〜!今ならどんなにキツくてもひょいひょい登れそう!」
『調子に乗って崖から落ちたりするなよ』
「ダイジョーブだって!そんなヘマしないよ」
頭の中から聞こえる声にそれぞれ頷いて、バイロブクリフ崖道を振り仰ぐ。遠目に怪鳥の飛び交う姿やのそのそとゆっくりとした動作で歩く巨体が見える。
浄化はしておいた方がいいのだろうが、今回はマシドラ教皇を探すことが目的だ。出来る範囲で戦うべきだろう。
「よし、先へ進もう」
「ああ、そうだな。先へ」
スレイの言葉に、アリーシャは顔を引き締めて前を向く。
わからないからこそ、今は進んでくしかない。
目指すはゴドジン。そこに教皇の、そして枢機卿についての手掛かりがあると信じて。
「あー!」
「うわっ!いきなりどうしたんだよ、ロゼ?」
「大変!焼き菓子が全部しけってる!」
「えっ!…ほ、本当だ…皆さんが作ってくださったバタークッキーも、チョコレートラスクも…」
「…開け口が緩んでたんだな。袋ん中まで雨が入り込んでやがる」
「ちょっと、最後に開けたの誰!?スレイ?アリーシャ?」
「ええ!?お、オレはペンドラゴ出てからお菓子は一回も食べてないよ」
「わ、私はその…確かにいただいたが…。でもその時は、ロゼからもらって……」
「「…………」」
「…………あたしか!」
「「ロ〜ゼ〜!」」
『…墓穴を掘ったな、ロゼ』
「まぁ、これでしばらくは気を付けるだろう。菓子はまた作ればいい」