おおかみと赤ずきん 冬の森



―――そして僕は今日もずっと、見守るしかできない








「―――――……」
ぱかっと褐色の瞳が開く。半眼になった目から睨むように極小さな氷に包まれた森を見つめて、はぁ、と溜め息を吐く。そのままむくりと状態を起こし自身の身に僅かばかり降り積もった白く細かな氷の結晶を、全身を思いきり震わせて振り落とす。冬でも葉を落とさないこの巨樹は、雪の日でも昼寝には中々最適だ。
ひとしきりそれを落としきったところで腰を落ち着けて、再度溜め息をついた。白い息が上空へと漂い霧散する。
「またかよ……」
あれ以来、メイトは度々悪夢を見るようになった。暗闇からはじまり、狼たちの骸を見つめ、化物だと人間に罵られて目が覚める。それ以上何も進まず、そして変わらない夢。いや、元からこういった夢は定期的に見てはいた。ただここ最近、やけに多いのだ。
いい加減にしてくれ、と頭を垂れてメイトは愚痴を零す。流石に飛び起きることはなくなったが、目覚めの気分が最悪になることに変わりはない。
「…そういや、人間は何かの前触れに夢を見ることがあるって言ってたな…」
そう聞いたのは他の誰でもない、赤い頭巾を被ったあの少女からだ。別に夢の話をした訳ではなく――そもそもメイトとメイコの会話は一方的に彼女が話してそれに相槌を打つというのが定番であったし、元々メイトが言葉で会話するということをしない時点で説明のしようがない――常と変わらない雑談のなかに紛れこんできた、話のきっかけすら思い出せない程他愛のない話題の一つだった。
『―――”予知夢”、ていうんだけど、先の出来事を夢で見ちゃうんだって。私は見たことないんだけどね』
でも、一度でいいから見てみたいなぁ。そう独り言のように呟いていた。
予知夢、と口を動かして、しかしすぐに自嘲の笑みを浮かべ首を振る。これが未来のことであるはずがない。何故ならあの夢は、全て過去の記憶から掘り起こされたものだから。あの場にいた仲間は既にいないし、人間達にも覚えがない。というかここ数年ではただ一人を除いて出会ってもいない。そしてその一人は自分に対して友好的でいてくれている。
「……アホらしい」
ただ夢見が悪いだけだ。この森が平和すぎるから、忘れないようにと無意識に記憶を呼び起こしているかもしれない。……忘れる筈などないのに。夢など自身の脳が記憶の処理のために無意識化のものも含め今までの思い出を掘り起こす作業の付随として再生されるものであり結局のところ自業自得なわけであるが、それを全て棚に上げまくって良いのならまったくもっていい迷惑である。それにこれから起こるかどうかもわからない夢に怯えていたって仕方がない。
故に結論、気にしない。そう自分の中で整理したところで、ふとメイトは思い立つ。
「……そういやあいつ、何処行った…?」
そういえば先程から気配がない。暖かそうな赤い頭巾を被ったあの少女。胡桃色の髪に琥珀色の瞳を持ち、今日も自作のパンをメイトに食べさせるために持ってきた彼女は、一体どこに行ったのだろうか。
狼は立ち上がり、耳をそばだてて辺りを見回す。秋に舞っていた暖色の葉は全て土へと還り、その葉を付けていた木々は枯茶色の肌を惜しげもなく覗かせ今は白い衣を見に纏っている。土を覆っていた草花は大半枯れ、雪がしんしんと降り積もりモノクロの世界を作りだす。そこからひょっこりと顔を出している冬草だけ、色のない大地に青を与えていた。木の陰にある、いつも狼の事などお構いなしに近付いてくる動物達は、それぞれの巣穴で実りの時期をひっそりと待っていることだろう。
キンと冷えた空気を感じながら完全に冬となった景色をぐるりと視線を巡らせる。が、目的の人物は見当たらない。
「おい、メイ―――って危ねぇ…」
思わず名前を呼びそうになって、狼は慌てて口を閉ざす。自分が人の言葉を理解できるのは話せるのは知っているが、話せることは知らない。少なくとも狼が彼女の前で人語を口にしたことがない。暫く沈黙したまま目を動かし、人影が現れてこないことに安堵する。どうやら聞かれてはいなかったようだ。
「……いや、あいつ本当に何処まで行ったんだ?」
メイトは自身の記憶を辿る。確か少し探検してくると言ってそれきりだった筈だ。もしメイコが戻ってきていたのなら足音や気配で起きる。それにメイトのいた幹の反対側でまだ僅かに芳ばしい香りがするから、バスケットが置かれたままなのだろう。ということは、恐らく彼女はまだ森の中だ。
メイトは上空を見つめる。枝の間から覗く空は、鈍色の雲で覆われ僅かな光がささやかに照らすばかりだ。ひゅ、と一瞬雪が横殴りになるような風が吹き、メイトは眼を細くして視線を戻す。
「………仕方ない…」
この時期は日の沈みが早い。曇天であったら尚のこと。完全に暗くなってしまう前に帰らなければ何かあったんじゃないかと彼女の両親を筆頭に村の者たちが心配するだろう。こういうところは昔のままだな、と本日三度目の白い息を吐きながら、メイトは静寂に似た冷たさを醸し出す森をぽてぽてと歩き始めたのだった。





◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

ぼす、ぼす。肉球の付いた足の裏からひんやりとした感覚が伝わってくるのもかまわず狼は歩き続ける。白銀の世界、とはよく言ったものだ。絶え間なく緩やかに舞い落ちてくる氷の結晶は控えめにけれどもはっきりと囁き自己の存在を静かに主張している。枝から雪が落ちる音、溶けたつららが地に滴る音。冬の森は、無音のように思えて意外にも饒舌だ。
数年彼が見回り(という名の暇つぶしの散歩)をして歩き続けたルートは、いつの間にか草がなくなり、土が踏み固められ雪の地でもわかるくらいの小さな道になっていた。その小道を、尖った耳を忙しなく動かしながらメイトは歩を進める。その表情は苦虫を数十匹は噛み潰したかのように渋い。
「まったく…何処に行きやがったんだ…」
メイコは非常に活発な少女であった。木を素早く駆け上がるリスを見ては唐突に木登りに挑戦してみたり、町の少年たちと一緒に放牧地をかけずり回っていたりと、遠目から見ただけでも溌剌(はつらつ)とした子供だった。お転婆娘とは彼女のことを言うのだろう、と思うほどに。それに加えて運動神経もいいらしく、身体能力的には同い年くらいであろう少年たちにも負けていなかった。それは彼女の長所のひとつであり、それについてメイトが否定するつもりはこれっぽっちもない。しかし子供故か、今日のように少々羽目を外し過ぎることがあるのだ。
別に町ではしゃぐのはかまわない。完全に自分の基準であるが子供は遊んでしかるべきだ。ただ、それをここでされるのが困るのだ。

――――、……――

ふいに、冬の奏でる音とは違う響きが耳に入ってきた。頭ごとそちらへ向けて聞き耳を立てると、どうやら人の声のようだった。それも聞き間違えることなどないくらいに聞き続けた、鈴の音にも似た声。
「……あっちか…」
メイトは半眼になりながら徐々に積もっていく雪に足跡を残しながら進んでいった。


「―――――――、」
目的の人物はそれからさほど時間を掛けずに見付かった。立ち並ぶ木々を抜けた先、視界の開けた場所にある、小山を半分ほど切り崩したかような地形。見る者によっては丘とも崖ともとれるここは、時折メイコの住む街を眺め、寒いときには日向ぼっこを決め込めるメイトの気に入りの場所のひとつだ。
だが、ようやくメイコの姿を見つけた時、安堵などという気分は彼女の行動によって頭の何処かどころか遠く彼方へと吹っ飛ばされてしまった。メイトはその光景に目を見開き絶句する。
「…く…もう、少し…!」
メイトの前方、見晴らしの良い丘の先で、メイコは限界まで身を乗り出していたのだ。
「あの、馬鹿っ…!」
毎度のことながら何やってやがる。続けて零れそうになった罵声を寸での所で飲み込む。言葉が話せる云々というよりも下手に音を立ててバランスを崩してしまったら危険だと思ったから。メイトの存在に気付いていないメイコは、危うい体勢のまま更に丘の下へと腕を伸ばしていた。どうすれば、と必死に思考を巡らせる。しかし傍らで、狼としての本能やこれまでの経験がこのまま様子を見守るしかない、と判断していた。
(くそっ…!)
ああもうそれ以上動くな手を伸ばすな自分の能力を少しは考えろ頼むからこれ以上何もしてくれるな。メイトはぎり、と歯を食いしばる。これだから森で身を危うくするようなことをしてほしくないのだ。
うぅ〜、と唸りながら必死に腕を伸ばす少女。横から吹く冷たい風が彼女の紅い頭巾をぱたぱたを動かし、その度に身を竦める様を見てこちらも身体が強張る。心臓に悪すぎる。 ――――…パ…ン…
「―――っ!」
―――その刹那、雪の降る森に不自然なほど乾いた音が響いてきた。メイトは反射的に丘と町の先に見える山へと不穏な輝きを灯した瞳を向けた。じゅうせい、と呆然とした声が次いで聞こえてくるのを無意識に拾い、抑えきれなかった唸りが喉を小さく鳴らす。
嫌な音だ。あれは、生き物の命を容易く奪う。それでいて死の感触など微塵も感じさせずに殺めるのだ。人間にとっては頭を捻らせて作り上げた獰猛な獣に対抗できうる文明の利器なのだろう。武器となる鋭い爪も牙もなく天敵を回避するために、研ぎ澄まされた嗅覚も聴覚ももたない彼らにとって知恵を絞り自己防衛をするのだ。それに対して文句を言うつもりはない。ただ、あの武器とそれが立てる耳を突き刺すような音が耐えかねるほど嫌いなだけだ。
「え、わっ…?!」
「!!」
驚きと焦りを含んだ声が聞こえ、メイトはしまったと慌てて山に向けていた視線をメイコへと戻した。
しかし、その刹那、がくんとメイコは腕からバランスを崩し、赤い服に身を包まれた身体が宙へ投げ出される。時既に遅しとはこのことを言うのか、とやけに冷静な自分が思考の隅でそう呟いた。
「――――――――ッ!!」
はらはらと雪を降らし続ける曇天を切り裂くかのような悲鳴が丘全体に響きわたった。
「―――――メイコッ!!」
その絶叫に丘の上から消えた姿に頭が真っ白になり、形振り構わずメイトは少女の名を叫んだ。余計な事を考えている場合ではなかった。雪の塊がぼすぼすと落ちる音に数度、鈍い音が重なりひと際大きな音を立ててそれきり静まった。どくん、と鼓動が耳に響く程大きく跳ね上がる。
狼はすぐさま横の坂を下る。雪に足を取られないよう四肢に力を入れながら、目と耳と鼻はメイコを探すことだけに神経を研ぎ澄ませた。どくどくと早鐘を打つ心臓が煩い。雪や風とは関係なく、背筋にすぅっと冷たいものが駆け抜けていく。どこだ、どこにいる。早く見つけないと。どこに―――!
「くそっ…!」
落ち着けと、そう言い聞かせても頭はぐらぐら沸騰し、冷静な思考を根こそぎ奪っていく。それでもメイトは落ち着けと繰り返した。白い雪は、いつの間にかメイトの四肢を埋めてしまうほど積もっていた。しかし頭に降りかかるそれは、メイトの頭をちっとも冷やしてはくれない。
落ち着け、頭を振って何度も呟く。メイトは丘を見上げる。彼女が落ちたのは丘の頂。町とは反対側の面からだ。その真下辺りまで跳ねるように雪の中を移動し、メイトは不自然にくぼんだ場所を見つけた。
「メイコ!!」
雪まみれになりながら辿り着いたそこには、案の定丘から消えた少女が倒れていた。赤い頭巾は頭から外れ、胡桃色の髪が氷の絨毯に散らばっていた。メイトは目を見開いて前脚を伸ばし、しかしそこから伸びる爪が視界を掠め慌てて腕を引っ込めた。
「メイコ…っおい、メイコっ!!」
声を掛けるが返事がない。耳をすませると、すーすーと穏やかな呼吸が聴こえてきた。どうやら気を失っているだけのようだ。見た所服のほつれや擦り傷はいくつかあるが、目立った外傷はないようだった。
「………っ、」
メイトは彼女から顔を背け、肺がからになる程深く息を吐きだした。良かった、無事だった。
「心配、かけやがって…」
跳ねあがっていた鼓動が徐々におさまっていく。ざわざわと毛を逆撫でていた悪寒も、いつの間にか消えていた。



◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


「―――ぅ、ん…?」
大きな木の下で身体を丸めていたメイトは、反対側から聞こえてきた声にぴくりと片耳を動かした。どうやら目を覚ましたようだ。
あれから、あのまま放置しておくか否か悩んだ末、巨樹の立つここまで彼女を運んできた。どう連れて行こうか思考錯誤し何とか彼女を背中に乗せるのにはかなりの時間を要したが、幸いな事にメイコはずっと目を覚ますことはなく、ここまで運ぶことができた。
「…っ、いた、た…ここは…?」
―――起きたか
「メイト…?えっと、私…」
寝起きで頭がぼんやりしているのだろう。いつものきっぱりとした声音と違い今はたどたどしい口調だ。確か…と呟き、そのまま押し黙る。今の状況を含め記憶を掘り起こしているのだろう。それを邪魔するつもりはないので、記憶の整理が付くまで静かに待った。
「…もしかして、メイトが…」
私を?その言葉に、無言で首肯する。
「そっか…」
―――怪我はないか?
「…うん、ちょっと身体が痛いけど、大したことないから。ありがと」
その礼に対しても、狼はただ頷くだけで返答はしなかった。えっと…と少女が気まずそうな声を上げた。当たり前だ。いつもだったらこの辺りでメイトが茶化しにいき、それをメイコがばつが悪そうにむくれながら反論するのがお決まりの流れだったのだから。それをメイトは敢えて立ち切った。そして、その意図をメイコは理解している。
「あ、あのね、丘の所まで行ったらいきなり強い風が吹いてきて、その後に鳥の鳴き声が聞こえてきてね」
しどろもどろに説明をし始める彼女に、狼は相槌を打つこともせずにただ黙って聞いた。
「丘の先まで行ったらそのすぐ下に鳥の巣があって、その上辺りを親鳥がくるくる回ってて…」
メイコが幹越しに振り返ってこちらに視線を送ってきたのを感じたが、メイトは耳だけ彼女の方向に向かせながら森の彼方を見続けた。
「丘の下からそこまで行ったら、丁度その真下に鳥の雛が雪の中に埋もれてて。それで、戻してあげようと…して…」
段々と小さくなる声を聞きながら身体も縮こまってそうだと少しだけ良心を痛めながら、メイトは胸中でなるほどな、と溜め息と共に呟いた。彼女が遊び心で危険だとわかる行為をする子供ではないとは思っていた。だから今の説明は言い訳で無く事実で、恐らく彼女が身を乗り出して必死に伸ばしていた腕の先に雛鳥の入っていた巣があったのだろう。彼女は人一倍正義感が強く、心優しい子だ。それに聡い。そうわかっていたから納得がいった。
しかしだからといってだったら仕方ないなと片付けられるものではない。それにこの胸中に渦巻く感情がなくなる訳でもなく、狼は相変わらず沈黙を貫き通していた。その、あの、えっと…。何を言うべきか探しあぐねて言葉になり切れなかった声がふらふらと宙を彷徨う。腕で抱え込んだ膝を自分の方へ寄せたのだろう、ざり、と靴が地面をずる音が聞こえてきた。
「…ごめん、なさい…」
ようよう絞り出された言葉は、周囲の雪に埋もれてしまいそうなほど小さな謝罪だった。
一息、二息。何度か呼吸を繰り返した所で、それまで黙っていたメイトが彼女に向けて意志を放った。
―――……別に、お前に対してそこまで怒ってる訳じゃない。
「…メイト…?」
それは、メイコに言っているにも関わらず彼女に伝えようとはしていない、メイト自身の気持ちの吐露。確かに怒ってはいる。けれど、それは自分自身に対してもなのだ。
―――ただ、お前が危険な目に遭っても、俺は助けられないから。
危ないことをした。下手をすれば大怪我に繋がった事態だった。今日はたまたま運が良かったのだ。例えば川で溺れていたら。自分は手を伸ばせない。口を使っても、鋭利な牙が彼女の皮膚を貫くかもしれない。
―――俺は人を呼べない。助けを呼べない。…怪我を治すことも、できない。
狼なんて、怪我をしたらそれこそ舐めていれば治る、だ。応急処置にもなりやしない。
だから嫌なのだ。彼女がこの森で羽目を外してしまうのが。ひと際大きな身体を持っていても、他の動物とどこか一線を画していても、今日のような状況に陥ったとき、結局見守ることしかできない。
赤銅色の瞳に、夢の情景がちらちらと映し出される。それは過去の出来事で、そしてずっと忘れてはならない現実。

怖いのだ。届かないことが。
嫌なのだ。失うことが。

―――だから、ここで無茶はするな。するなら人の目のある所でやってくれ。
ああそれじゃあ端から危ないことはできないのか。自分で言ったことの矛盾に気付き、メイトは苦い笑みを浮かべた。ツッコミどころ満載だ。
ほら、こんな利己的なこと考えちまうくらい、お前は俺にとって、きっとお前が思っている以上にかえのきかない存在なんだ。
知ってくれなんて思わないから、伝えたいとは思わないけど。彼女を縛ってしまうのは本意ではない。
そこまで思いを連ねて、メイトは気付く。そうか、だからあれから放浪し続けていたのかもしれない。長居すれば、どうしたって情が生まれてしまうから。勿論自分がいては危険だからということもあった。だが、大切なものを作ることを拒んでもいたのだなと、今になってそう思う。
「…あのね」
それまで彼の声なき声に耳を傾けていたメイコが、そっと口を開いた。
「先にごめん。今メイトが何て言ったのか全然わからなかった」
だろうな、とメイトは頷いた。彼女に伝わるようとするときとは違い、思ったことをそのまま吐き出したのだから。ある意味では自己満足に近い自分勝手な独白だ。普通に会話ができているように見えるが、彼女にわかるのは単純な感情だけだ。それでもその場の雰囲気や空気でメイトの思考を読みとるというスキルはものすごいことだと思うが。
だけどね、とメイコは言葉を必死に探しながら話し続ける。
「今日のことで、メイトにすっごく迷惑かけて…それですっごく心配させちゃったことは、わかった」
だから、ごめんなさい。不安そうに揺らぐ声が、もう一度謝罪を繰り返す。
「もう、森で危ないことはしない。危なくなったらメイトを呼ぶ。約束する」
―――…ああ、そうしてくれ
できるならもう二度と遭ってほしくはないものであるが。だが、何でもひとりでこなそうとする癖のある少だから、自分を頼ってくれるのはかなりの進歩なのだろう。ここでは危険な事をしない。その答えだけで充分だ。
メイトの返事に頷いたメイコは、そろそろ帰るねと立ち上がり服に付いた土を払った。雪は止んでいたが、それでも灰色の雲が空を覆っていて辺りは暗かった。
「あと、パン。もう固くなってそうだけど…よかったら食べて。それから……ありがとう」
―――…?ああ…?
ありがとう、とはどういう意味だろうか。助けてくれて、ということなのか。それにしては何か別の意味があった気がするのだが。しかしそれを問う前にメイコはじゃあまた、と別れを告げて立ち去っていしまったため、狼は首を傾げるだけに終わった。
「………まぁいいか…」
結局考えてもこれだろうかという解が見つからず、とりあえず次に会う時は妙に距離を取られなければいいなとすっかり冷たくなってしまったパンをひと齧りしたのだった。



  ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


ほとほととぼた雪が曇天の空から降ってくる。粉のように振る雪と比べ大きい塊となったそれは、舞っているというよりも落ちてくると表現した方が近い。今は木の下にいるから枝や葉が視界に映るが、何もない所でじぃっと見上げているとまるで空に上がっているかのような錯覚に陥るから不思議だ。
太陽が昇り月が現れるのを7回程繰り返した今日、前回積もった雪が溶けようやっと焦げ茶の地面が現れたかと思った矢先にそうはさせるかというように再び降り始めた。湿気もあるせいか比較的暖かいと感じるが、それでもまだまだ春は遠いなとぼんやりを雪景色を眺めながらメイトは思った。
あれから7日。確か人間は一週間と言っていたか。いつもならそろそろ彼女が森にやってくる頃だ。
「………来るかな……」
無意識にそう呟き、女々しいぞお前と自分で呆れ混じりにツッコミを入れる。しかし虚しさを覚えるだけで胸にじわじわと広がる不安は消えない。
7日間、メイトはというと、胸中で器用にも後悔と言い訳を交互に繰り返して大いに反省していた。あの時は怒り過ぎたかいやでもあいつが危ないことするから、だが半分は八つ当たりだっただろう俺しかしあれは流石に注意しとかないと待て伝える気ゼロだった癖にどの口がそれを言うまぁ結果的に気を付けるようにすると言ってくれたから良い…かもしれないがそれにしても大人気なかったなぁおい……そんなことを考え日に日に罪悪感を深めていった。子供を叱った後の親はこんな気持ちなのだろうか。自分で勝手に自省の念に駆られておいて思わず遠い目になる。
喧嘩は(ほとんど一方的であるが)度々したことはあるが、こういったことはメイコと出会ってから初めてのことだった。基本的に彼女が怒ってそれを諭すように叱ることはあった。しかし今回はそれに加えて怒りもぶつけてしまった自覚はある。
怖いと、思われてしまっただろうか。嫌われてはいない、と思う。多分、きっと。
そんなことを考えた後きょとんと目を丸くして、それからふ、と自嘲気味に笑った。随分と彼女の存在が大きくなったものだ。

―――ぱき。

突然、枝が折れる音が耳朶に響く。メイトは弾かれたように幹の向こうに顔を向ける。次いで息を呑む気配が伝わってきて、気のせいではないのだと確信する。
「……………」
「……………」
――――無言。いつもなら元気よく駆け寄ってくる少女が、声すら発さずそのまま動かない。どうしよう気まずい。
普段なら感じることのない居心地の悪さに身じろぐ。どうすればいいんだ。何とかこの状況を打破しようと必死に思考を巡らしていると、向こう側からおずおずと小さな声が聞こえてきた。
「…え…と……」
口を開閉させて何か言おうとしている彼女に全力で耳を傾ける。何度も何度も口ごもり、ようやっと声に出した言葉は…。
「こ…こんにち、は……?」
何の変哲もない、日頃ここにやってくるときにしてくる挨拶。しかも疑問形。いつものことであるがどことなく間の抜けたその単語に、すとんと全身の力が抜けたメイトは脱力したまま思わず吹き出した。
きっと今、ひょっこりと顔をだしてこちらの様子を窺っているのだろう。狼はその姿を容易に想像して、今度は肩を震わせて込み上げてくる笑いに耐えた。なんだ、これっぽっちも変わっていなかったじゃないか。だのにあれだけぐるぐると悩んでいた自分が馬鹿らしい。
―――…、よぉ、今日はいつもよりも早いな
しかし可笑しいという感情が抑えきれず、駄々漏れのままそう伝えれば、一瞬だけ嬉しそうな気配を見せた彼女がこれまた一瞬でばつが悪そうにむくれるのを感じた。その早変わりにますます笑いが込み上げる。
くつくつと笑うメイトに幹越しから刺すような視線を感じたが、構わず肩を震わせて笑った。
「…〜、何笑ってんのよっ!」
そう言って照れながら怒る赤い頭巾を被った少女が駆け寄ってきて、幹を蹴飛ばし木の枝に降り積もった雪が狼に降りかかるまで、あと数秒。







あとがき
折り返し地点



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