おおかみと赤ずきん メイト



――――きっと君は今日も、この道を訪れる




――――揺れていた。暗い暗い闇の中、赤い光がちろちろと。喉にねっとりとからみつくような空気がまとわりついているせいか、不気味に、不吉に。どこか薄ら寒さを感じさせて揺らめく。不定期に光が塊ごと危うげな動きをするそれの下を何気なく見やる。よく見るとそれは、先端に布の巻かれた木の棒から立ち上っているようだった。更に視線をずらすと、今度は白い何かが見えた。メイトたち狼とは異なる体毛の生えていない五指に分かれた手。人間のものだ。宙に浮いている訳ではなかったのかと、いつになくぼんやりとした頭で思う。
「…!」
先の見えない空間を何ともなしに見つめていると、突然闇の中から何人もの人々が現れた。
「……、……」
「…――……」
ぼそり。ぼそり。口をパクパクと開閉させて何事かを呟いているが、何を話しているのかメイトには聴こえない。松明の明かりだけが頼りの視界では、彼らの顔はおぼろげにしか見えなかった。それに皆、小さい。細いとか、低いなどではなく、全体的に。
―――ああ、遠いのか。
だから聞こえないんだ。人間同士が言葉を交わしているのならさして気にはしなかった。だが、彼らはメイトに向かって何かを言っていた。だから近付かなければと。そう思った。
赤褐色の体毛に覆われた大きな前足を、暗然とした空間に一歩踏み出す。不思議と躊躇いはなく、そこに道があるのだという確信があった。ぽてぽてと歩を進めて、人間達が佇む場所へと向かう。ぼそり、ぼそり。歩いても歩いても、中々その声が大きくなることも人々の姿がはっきりとすることもない。
「…?」
メイトはぴたりと足を止めた。何故声が聞こえないからといって彼らに近付かなければならないと思ったのだろうか。そもそも自分は人に対して興味などほとんど示さない筈だ。それなのにどうして。
そう疑問がわいた、刹那―――
――――ドサッ
突如、横で何か重量のあるものが落ちる音がした。枝に降り積もった、雪がまとめて落ちてくるような、そんな鈍い音が。メイトは首を傾げる。周囲には何も、気配すらなかった筈だ。それともただ単に見過ごしていただけだったのだろうか。耳をピク、と動かしながら顔を向けて――――そのまま、凍りついた。
細長い顔。頭部に付いた三角の耳。灰黒の剛毛に覆われた、毛長の尻尾を持つ、獣。闇夜に包まれた地に、異様なほど鮮やかに広がる、赤い色。
落ちたんじゃない、倒れたんだと、どこか冷静にこの状況を客観視する自分がそう頭の中で呟いた。それを皮切りに、ドサドサと嫌な音が耳朶に響いた。固まった身体が、ぎしぎしと音を立てて動き出す。見たくもないのに、勝手に。視線を動かす。ああほら、やっぱり。
同じだった。自分と同じ形(なり)をした獣が――――メイトの仲間だった者達が、血を流して倒れていた。
―――、―………。
ぼそり、ぼそり。先程よりも声が強くなった。
しかし今のメイトには彼らの声に耳を傾ける余裕がなかった。何でだ、どうして。
「こ、んな……」
「―――……、」
ぼそり、ぼそり。立ち止まっているにもかかわらず、人間達の声がどんどん大きくなる。だのに言葉として聴こえないそれは、最早まじないのようだった。それを右から左へ流し聞きしながら、初めに倒れていた仲間に近付こうとする。しかし何故か身体が石のように固まって動かない。
「おまえ、ら…おい、何で、そんな……」
血を流して、目を閉じて、倒れて。くたりとした四肢は地に投げ出され、開かれた口は力が完全に抜けていることがわかる。知っている、この状態を何と呼ぶのか。だが、認めたくなかった。理解したくなかった。だってこいつは、こいつらは、昨日まで一緒に森を駆けまわってて。しかし、何よりも横たわった腹が、一度も――――。
「…、…モ―――」
ぼそり、ぼそり。繰り返し繰り返し、気でも触れたかのように何度も言葉を吐き出す人間。止まない呟きに、メイトは耐えきれず喉を唸らせて吼える。
「―――っ、うるせぇ!!」
その咆哮に先程の無機質な声が打って変わってあからさまに怯え、叫び、そして武器を構えた。引き金を柄を持ち、その腕の奥から覗く恐怖で彩られた眼で、メイトを睨みつけて。そうしてわななく唇でまたぼそりと一言、呟いた。
「……化物め」
「っ…!」
今まで聴こえなかった呟きがはっきりと、ようやっと言葉としてメイトの鼓膜を震わせた。
「化物め」
「化物め」
ぼそり、ぼそり。一言一言が針のように、メイトの胸を無遠慮に突き刺す。
「…ち、が…俺は…」
否定しようと振り絞った声は思いの外掠れ、目の前にすとんと落ちて届かない。唾を飲み込んでも喉の渇きは癒えず、メイトはただただ呆然と彼らを見つめることしかできなかった。足元に僅かに熱を持った液体が流れてきた。その感触と臭いだけで、何であるか見なくてもわかった。
「―――化物め」
唸りにも似たその声が深く、メイトの心の奥底へと沈んでいった――――――




「――――っ!?!」
ぱっと勢いよく瞼を開く。赤褐色の瞳を目一杯見開き、息を荒らげながらメイトは辺りを見回した。
明るい視界、色彩に溢れた草木や花々、くるみを頬袋に詰めて走り去っていくリス。人間の集団はいない。変わり果てた姿で倒れていた仲間たちも、いない。
「……ゆめ、か…」
はぁーー、と一気に息を吐き出して、突っ伏すように重ねた前脚にぽすっとおとがいを乗せる。心臓の音がうるさい。
「ここんとこ見てなかったかのにな…」
油断してた、とメイトは独りごちる。久方振りに見た夢だった。懐かしいというには凄惨で、できることなら二度と見たくなかった、今となっては遠い過去の記憶。一度だけ、メイトが犯した過ちの結果。恐らくこの森に居座ってからは一度も見ていなかった筈だ。
「…ったく…」
これだから夢というものは質が悪い。何の兆しもなく忘れた頃に突然現れてはいたずらに心をざわつかせて去っていくのだから。メイトはもう一度深く息を吐いて呼吸を整えた。もしあの少女がやってくるとしたらそろそろだから。
さわさわと、冷気をともなった風が緩やかに流れる。肌寒さを感じさせるそれは、赤や黄色に色づいた葉を枝からそっと離し、自身に彩りを纏わせてひつじ雲が浮かぶ空へ向かって去っていく。風に乗りそこねた葉はそのままひらひらと宙を舞い、落ち葉となって地に着地した。それを見るともなしにぼんやりと見上げていた狼の耳に、がさりと枯れ葉を踏みしめる音が入ってきた。それを聞きながら、メイトは口元を緩めてやっぱりな、と心中で呟いた。
「メイト!…って、今日はウサギがいるー!」
茂みを掻き分けた音と共に楽しそうに弾ませた声が耳に入ってきた。恐らく赤い頭巾に赤いワンピースを着ているであろう彼女の名はメイコだ。
数年が経っても、この奇妙で不思議な関係は続いていた。四本の足で立つ狼と同じくらいの背丈だったメイコは、その頃にはこちらが見上げる程の高さになり顔つきも幼子から少女のものになっていた。見た目が全く変わらなかった狼に比べ見る見るうちに成長していくメイコに、子供の成長はこんなにも早いものかと妙に感心した。それでも、鈴がころころと転がったような声も嬉しそうに木の下まで駆け寄ってくる足音は相変わらずであったけれど。ちなみに面を向かって顔を合わせたことはなく、だのに何故彼が面差しについてわかるかというと少女が時折無防備にもうたた寝をかました隙にそっと覗いていたためである。
「そうだ!…って、どうしたの?何か元気ない気がするけど……」
しばらくうさぎと戯れていたメイコが、それを抱きかかえながら巨樹にもたれて落ち葉の敷き詰められた地面に座ったのが声と音でわかった。おい野生動物お前それでいいのかと自分のことを棚に上げて半眼になりつつ、狼は別に、と首を振った。彼女には関係のない話であったし、自身が言葉で彼女と会話できない限り到底伝えることなどできそうにない。
「そう…?」
―――気にすんな。それより何か言いたいことがあったんじゃないか?
「あっ、そうなの!メイト聞いて聞いて!」

いつの頃からか、狼は”メイト”と呼ばれるようになった。元々、狼には名がなかった。正確には人の言葉を使った呼び名が。その名を付けたのは勿論、いつも赤い頭巾を被ったこの少女だった。
―――『メイト。あなたの名前、今日からメイトね』
―――は?
唐突だった。いつものように森にやってきて、声を掛けてきて、定位置となった木の幹に背中を預けながら座って、それから一方的な会話がはじまるのだろうと思っていた狼は内心で胡乱な声を上げた。その頃には狼の心情を気配と雰囲気で喜怒哀楽疑問同意否定はある程度読み取れるようになっていたらしい(驚いたことにこれがほとんど的を射ているのだ)少女は、今変な顔してるでしょ?と面白そうに指摘した。変な顔とは何だと顔をしかめると、それも伝わったらしくくすくすと笑い声が聞こえてきた。それを黙殺して何でいきなり、と無言で問いかける。幹越しの視線から意図を汲み取った彼女の返答は、名前がないと不便だからといたって単純なものだった。狼自身から話しかけることはないのであまり気にしたことはなかったが……確かに自分に置きかえると相手に名前がないとまどろっこしい。なるほどと納得していると、メイコはそれと、と付け加えるように口を開いた。
―――『それなら私の名前、ずっと覚えてるかなって。一文字違いならそうそう忘れないでしょ?』
――――………。
照れくさそうに笑う少女に狼はどう反応すればいいかわからず、胸中に灯ったあたたかくもむず痒い感覚を持て余しながら結局はパタンと尻尾を地に叩くだけに終わった。
――――ただ、その名前と理由は悪くないと思った。
自分に与えられた、新しい名。
少女の子供らしくもやさしいわがままが込められた、一音違いの名。
仲間たちから呼ばれていた名とは違った響き。単純に快く、そして嬉しかった。最後に添えられたような彼女の言葉が一番の本音なら、きっとずっと考えて悩んで付けてくれた名前だ。そう思うと余計に身体が熱くなって、森中を全力で走り回って力の限り吼えたくなる衝動に駆られた。まぁ疾走するのはともかく遠吠えは流石に町の住人を怖がらせてはまずいので実際にすることはなかったが。
そして今では当たり前のように少女は狼をそう呼び、狼も意識せずとも自身の名だと認識できる程彼の中で定着していた。
「今日ね、私が考えたパンが店に並んだの!この前話した、ここの木の実を使ったパン!」
興奮のあまり上擦った声になりながら話すメイコに、メイトは口端を上げておめでとうと軽く尻尾を振った。それにおそらくはにかんだ笑みを浮かべているだろうメイコがありがとうと返してきた。
「売り上げはいまいちだったんだけどね。でもダメ出しもらってばっかだったから、すっごく嬉しかったの」
ここ最近、メイコの話題と言えば新作のパンのことばかりだった。彼女の――正確には彼女の両親の――パン屋は、季節の変わり目に旬の食材を使ったパンを作っているのだそうだ。それは去年のレシピをアレンジしたり、一から案を出して作りだしていったりしていくらしい。今回メイコが任されたのは後者だった。ここに来ては悩んだり愚痴ったり落ち込んだり果ては声帯を無駄にフル活用し叫んだりしていたことを知っていたメイトにとって、彼女の努力が報われた事が何よりも嬉しかった。 「もちろんこれからもっと改善していくつもり。味もだけど、色とか形状とか考えて、買っていった人に会った時どうだったか聞いてみて……」
そしていつかは店の名物にするの!そう意気込むメイコに、メイトはふ、と目を細めた。
―――そうか、頑張れよ
人間の生活などこの少女から得た知識がほとんであるため、正直よくわかっていない。”パン”や”牛”なら言語が違えど形があるから理解できるが、”名物”といったような単語は何を指すのかはわからない。けれどメイコが目指しているものだからそれはきっとすごいことで、叶えば彼女が今以上に喜ぶのだろうことだけはわかった。だからメイトは心から応援する。
「ありがと。というわけでこれ置いてくから食べてね」
―――あ…?
礼の後に続いた言葉に首を傾げている。どういうことだと問いかける前に、少女はじゃあねと言い放って去ってしまった。がさがさと丈の低い木の色づいた葉を掻き分けて通り抜けていく足音が砂利の混じった道に辿り着いたのを確認してから、のそりと起き上がって巨樹の反対側へと回り込んだ。
「……そういうことか…」
そこに置いてあったのは、黒や赤い実が混ぜ込まれた丸いパンと、彼女が腕に抱えていたらしい茶色い毛並みの耳長の動物。ひくひくと小さな鼻を動かしながら同じ色をした焼いた小麦粉の香りを嗅いでいた。彼女がやってきてから終始鼻腔をくすぐっていた芳ばしい香りの正体はこれだったのか。
「俺は肉食だっての…」
それくらい常識だろう…というか狼が味見してどうする。呆れを十二分に含んだ言葉を溜め息と共にもらす。しかし、犬歯が覗く程弧を描いた口が、穏やかな光を湛えた鳶色の瞳がことごとく声を裏切っていた。本当に、彼女はいつだって自分が想像もしないことを平然としてくるものだ。ご丁寧に綺麗な紅色をした大きな楓の葉の上に置かれたそれを、一口かじる。かりかりとした歯ごたえと甘酸っぱさが、口の中で広がる。
―――あぁ、まただ。
同じだ。名をもらったあの時と。衝動はなかった。ただじんわり、じんわりと、うららかな春の日射しのように、熱湯を呑み下したかのような熱が胸から全身へと伝播していく。 メイトは、生まれてから幾度となく人間を見てきた。群れで行動する狼を遥かに上回る大群で生活をする人間は、何処に住み着いてもちらほらと見かけることが多かった。興味があろうとなかろうと、メイト自身が人の言葉を理解できていたから、余計に目にも耳にも入ってきた。
逆に、人間がメイトを見ることもあった。その時の人間の反応は、いつだってあの夢のように恐怖に身体を震わせて逃げるかニタリと口元を歪ませ興奮した面持ちで銃を構えるかのどちらかだった。時々は守り神などと宗教じみたことに巻き込まれることもあったが、最終的には同様の結果だった。
仕方がないと思っていた。自分達と人間はこういう関係なのだと。だから関わらなければいいのだと、何度も自身に言い聞かせてきた。………つい情にほだされてしまうことも度々あったが、そのおかげで人間に何かを期待することはなくなった。
だから、こうして人の―――メイコの優しさに、対等であろうとする意志に触れると、どうしていいかわからなくなるのだ。
ひょんと毛長の尻尾が揺れる。一振り、二振り、小さくゆらゆらと。
ふ、と赤褐色の瞳がさらにやわらぐ。そのなかでただひとつ、わかっていることは――――――この関係が、メイトにとってかけがえのないものになりつつある、ということ。
―――この間のパン、どうだった?
次にここを訪れたら真っ先にそう聞かれるだろうなと確信しながら、メイトはやれやれと苦い笑みになりきれなかった優しい笑みを乗せながらパンに前足を添え、今度は半分ほど口に放り込んだのだった。









あとがき
めーちゃんの家はパン屋さん。赤ずきんなので時々隣町のおばあちゃんの家へ自家製パンや村で育てた作物を届けに行っている設定です。隣町のほうが栄えていて、めーちゃんの村は農村。牧畜や狩りなども行っていて、村で自給自足ができるくらい。


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