おおかみと赤ずきん 出逢い
――――偶然からはじまる、必然の一場面(ワンシーン)
「―――、……っ、」
「――――……」
はじまりは、偶然と気まぐれが起こした一つの出来事。狼がここに居座り始めて1、2年が経った頃、一人の幼子が森で迷子になった。人々に樹海などと称されて忌避されるほど広大でもなくかといって小さい訳ではないこの森は、道に迷う事のないように標が道に立っていた。故に人が迷い込むことはほとんどなく、更に基本的に保護者が同行していることが多い幼子となれば、狼がここに来てからその一度だけだった。
ここを新たな住処とするまでの間、狼は様々な山を越え人里離れた森に潜み夜闇に包まれた街を通り抜け、別の群れの仲間と喧嘩し時には友情が芽生えごくたまに欠伸をしながら夜警の番を勤める人間を驚かせつつそれなりに楽しく旅を続けていた。…………まぁ、一回や二回や三回や四回死にかけたこともあったが、それも今となっては笑い話であり武勇伝だ。しかし二度と御免である。
群れを作るということは、自分が旅に出た理由が理由だからかあまり考えたことがなかった。考えたとしても今はまだ必要ないと、大抵はその結論に至っていた。自分が狼の中でも抜きん出た身体能力であることを自覚していたし、また放浪することでそれは確信に変わった。確かに仲間と寝食を共にし、時々は競い合いながら暮らすことは楽しかった。けれど、それ以上に一匹で自由気ままに生きる方が楽だった。
それともうひとつ。彼は人の言葉が理解できた。そしてそれが草木もない荒れ果てた荒野に花が咲いているような、稀で異質なことであると知っていたから、作ろうとしなかった。
異質な存在は畏れられまた敬われる。時の流れの中で彼は、守護神と崇められまた人を唆し誑かす化物だと刃物を銃を向けられたことが何度かあった。そして、ふと思った。もし自分と共にいる仲間がいたとしたら、彼らは人の目にどう映るのだろうか、と。その答えはすぐに頭の中ではじき出された。自分と同じ目を向けられ、そして巻き込まれてしまう。自分の経験してきたことがそのまま仲間に牙を向ける光景が容易に想像できた。だから彼は一つの場所に留まらず、群れをつくることもなく彷徨っていた。
そうして当てもなくふらついているうちに、この大きな木の佇む森へと辿り着いた。この木の性情が森に染み付いているのか、今まで住み着いたどの森よりものどかでこころよいと感じた。町と町に挟まれた位置に存在するためけもの道ではなく少しだけ整備された草木のない道があったが、人工的な違和感を与えることなく自然の一部として溶け込んでいた。人によって手を加えられたことは恐らくこの歩道だけなのだろうとぽてぽてと進みながら思った。そして森をざっと一回りしてから、再び巨樹の下にきてそれを仰いだ。
『暫く厄介になる』
風でそよいだ木の枝が、まるで狼の言葉に頷くかのように揺れたのが印象的だった。今でもその景色は瞼の裏で時折思い出す。
そして狼が即座に気に入ったその巨樹の下で、幼子は泣いていた。赤いワンピースに白い前掛け、赤い頭巾の隙間から見える茶色の髪。傍に置いてある乾燥した植物で作られた籠の中には固そうなパンと赤い液体の入った瓶、それから可愛らしい色とりどりの小さな花々。きっとあの花を遠目から見つけて、夢中になって摘んでいるうちにいつの間にか元来た道がわからなくなってしまったのだろう。甲高い声が、それでも声を抑えようと妙に引き攣れた音を発して零れ、溢れた涙が華奢な腕を伝ってぽたりぽたりと地面を濡らしていた。初めは木から離れた草陰で、小さな子供を見ていた。そのうち歩きはじめないか、泣き疲れて眠ってしまえば背負って元の道まで送ってやれるなどとそんなことを考えて、その幼子がどうするのか気配を殺してじっと観察していた。
「…っぅ、…く…、…」
しかし、その子供はいつまで経っても泣き止むことはなくて、かといって木の下から動くこともなかった。日が暮れ始めても一向に泣き続ける子供に、狼はどうすればいいのかわからずやや途方に暮れた。
並の狼よりも一回り程大きな身体とそれに反して俊敏な足。鋭利にきらめく大きな爪やぞろりと生えた牙は、いとも容易く肉を引き裂き噛み千切る様を連想することだろう。それ故に恐れられてきた。忌み嫌われることも度々あった。狼はそのことを深く自覚していたため、極力人目を避けて暮らしていた。だから、成人でも恐怖におののく自分の姿を見たら、きっと怯えて混乱して尚のこと泣かせてしまうだろうと思った。
「…ふ…かぁ、さ…!」
「………」
そう思っていたの、だけれど。目を真っ赤に腫らしながら震える肩が、膝を抱えた腕に口を押さえつけて泣く様が痛々しくて、見ていられなくて。その小さな唇から時折堪えきれずにこぼれ出る掠れた叫びにも似た声音が、耳に刺さって。
「……っ!?」
何故だか妙な焦燥感に駆られて、狼はひとつの気まぐれを起こした。今になって思えばあれが居ても立っても居らない、というものだったのだろう。わざとがさりと大きな音を立てて姿を現し、忍び足も使わず敢えて気配を立たせたまま、のそのそと子供に近付いた。決してお前を獲物として見ている訳ではないと、少しでも伝わるように。顔を上げ背筋を伸ばした幼子の喉がこくりと鳴ったのが聞こえた。あぁ恐がられているな。狼の胸中に罪悪感と無常感が僅かに生まれる。仕方のないことだ。恐れられても敬われても、常にそうだったじゃないか。ついと交えた視線の先で、猫のように丸いブラウンの瞳が大きく見開かれていた。
別に、このまま恐怖のあまり悲鳴を上げて逃げ出してもそれはそれでかまわなかった。逃げ惑う彼女をそれとなく歩道まで誘導することはできるだろうし、もしかしたらただならぬ叫び声に気付いた人間が保護してくれるかもしれない。そうなったら自分はこの森に居られなくなる可能性が高いだろうが、その時は再び放浪生活に戻るだけだ。森を踏み荒らされるのは忍びないが、猛獣がいないとわかればすぐに立ち退くだろう。そうして町人は平穏な生活を繰り返し、森は元の植物と虫と動物だけが生きる世界へと戻る。 そう考えながら幼子の目前まで迫り、静かに立ち止まった。果たしてこの子供は叫ぶのか逃げるのか。いっそ諦観にも似た感情を胸に抱きながら、しかし幼子はただただ声を殺して、涙を零すまいと水の膜が張った大きな瞳をごしごしと擦って――それでも拭いきれなかった雫が落としながら――力強い眼差しで狼を睨みつけた。その予想に反した反応に、今度は狼の方が切れ長の瞳を軽く見開いた。
「…あんた…に、あげるエサなん、か、…れっぽっちも、ない…だからっ…!」
ともすればしゃくりあげそうになる喉を必死に押さえて、それでも目を逸らすことなくそう言った。恐く、ないのだろうか。そんな推測が頭をよぎり、いやとすぐに打ち消した。何故なら肩が、足が小刻みに震えている。恐くない筈がない。だのに、幼いながらも懸命に、自分よりも二回りも大きい獣に屈しまいとしていた。
「…………、」
完全に虚を突かれた狼は、そのまま固まり、やがて小さく笑みを浮かべた。面白い子供だ。
瞬時に元の無表情に戻った狼は顔を上げ、鋭い視線を投げつけてくる幼子をひたと見据えた。1秒、2秒、3秒。そうしてふいに踵を返した。数歩歩いてから、顔だけくるりと向ける。てっきり襲いかかってくるかと思っていたのだろう。子供はきょとんとしたまま目を瞬いていた。ひょんと毛長の尻尾を一振りする。その意図に気付いたのか、幼子はすくっと立ちあがり、横に置いたバスケットを手に持ち恐る恐る歩き出した。それを認めた狼はできるだけゆっくりと歩を進めた。ぽてぽてと歩くと、背後からとてとてと小さな足音が聞こえてきた。時折ちゃんとついてきてるか振り返り、見るたびに子供が慌ててキッと表情を険しくしてきて、心の内で小さく笑う。それを何度か繰り返しているうちに、草木のない標識の立った道が出てきた。遅れてその景色を幼子が見てあっと声を上げた。それまで狼と一定の距離を取っていた子供は一気に駆け出して街道へと飛び出しだ。やや息を切らしながら辺りを見回す幼子の眼には、涙など消えていた。これでもう大丈夫だと判断した狼は、今度は気配を殺して森の奥へと戻っていった。
「…もう迷うなよ」
さて、あの子供は今日の出来事を話すのだろうか、それとも自分にあったことは隠して迷ったとだけ言うのだろうか。どちらにしてもきっともう会うこともないだろうと、この時狼は確信を持ってそう思っていた。
………後日、見覚えのある赤い頭巾を被った幼子が草むらからいきなり飛び出してくるまでは。
あとがき
書き始めた当初から、「おおかみは赤ずきんに恋をした」の歌詞から物語を膨らませていこうと思って書いていました。まだまだ小さい頃のめーちゃん。
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