おおかみと赤ずきん 回り道の終着点





―――泣いてる君を慰めたくて、伸ばした腕が震える。




鼓膜が破けるのではないかと思うような強く乾いた音が、丘と森に響き渡る。
最初に感じたのは衝撃だった。跳び上がった状態で体勢を立て直し、崩れそうになる足を叱咤してどうにか着地する。熱湯を飲み下したかのような熱が駆け抜けて、喉からせり上がってきたそれを吐き出して熱の正体を知った。
すぐ傍ではっと息を呑む音がした。どうやら間に合ったらしいと頭の片隅で判断する。
言葉になり切れず零れ落ちたような声を背中で聞きながら、間を置かずに森に向かって走り出す。あの男をこのまま逃がしてはならないと、直感がそう訴えていた。無意識の内に大きく咆哮する。視線だけこちらに投げかけた男が舌打ちをして速度を上げた。かなり足の速い人物である上に木々を縫うように走っている。こういった地形に相当慣れていると感じたが、メイトとて伊達に一匹狼を貫いてきたわけではない。それに地の利はこちらにあった。
開いていた距離は見る間に縮まっていき、後数歩のところで前へと跳躍して渾身の力でその背中に体当たった。バランスを崩して吹き飛んだ男は大きな木に衝突し、低く呻いて膝をつく。それでも振り向いて銃を突き付けてきて、しかしメイトは怯まずに低く吼えながら片足でその細長い筒を思い切り横殴った。勢いよく回転しながら彼を傷付けた凶器は飛んでいき、木の幹に当たって地面に転がった。逃げ出さないように男の胸部を前両足で押さえつける。その胸元に赤いものがぱたぱたと落ち、男の服をまだらに染めていく。睨みつけてくる男の顔は、苦痛を憎悪で歪んでいた。
近くで見ると男はあの青年と―――カイトとよく似た顔立ちをしていた。ただ、その髪は夜闇よりも黒く、二対の瞳はそれ以上にどこまでも黒い。対称的だと思った。色ではなく、雰囲気が。
「メイトっ!!」
背後から自身の名を動揺で上擦った声で叫ばれた。振り返らず耳だけ動かすと、ガサガサと草木を掻き分ける音が耳に入ってきた。おそらくメイコとカイトがこちらに近付いてきているのだろう。呼応するかのように憎悪を募らせる彼を見ても明らかだった。
「……ぃで…、」
男が、荒くなった息を整えもせずくぐもった声で何事かを呟く。段々と大きくなる足音がふいに止まった。緊迫した空気のなかで、震える声が小さくタイト、と呟いた。どうして、と。信じられないとでもいうような声音で。それが合図だったかのように、苛烈さを増した双眸でメイトを睨めつけ口を開いた。
「お前の、せいで…!お前のせいで、メイコは変わった!お前たちのせいでっ…!!」
地を這うような怨嗟がメイトに向けて投げつけられる。おぞましさを隠すことなく放たれるそれは、何も混じることのない純粋なまでの悪意の塊だった。

お前のせいで
――――――化物め。

「…………、…」
それがメイトの脳内で悪夢と重なり、僅かに押さえつける力が緩んだ。
その一瞬の隙を見逃さなかった男は狼を突き飛ばし、よろめきながら立ち上がる。打たれた箇所に思い切り衝撃を受けた狼は、声を上げることすらできずに転がった。何度か咳き込んで、赤い霧が散った。それでも男を捕らえようと上手く動かない足に無理やり力を込めて立ち上がる。もしこのまま逃げられて、自分はともかくメイコとカイトがどうなるのか。考えただけでも不安でしかなかった。

揺らぐ視界から懸命に男を探す。いた。
向かう先には先程メイトが吹っ飛ばした銃が落ちていた。喉の奥で声にならない唸りを上げ、男を追いかける。早く、止めなければ。もう一度打たれたらひとたまりもない。だが、このままでは間に合わない。
思うように前に進まない四肢に焦りと苛立ちを覚えて思わず舌打ちをした。なんだってこんなに遅いんだ。いざというときに思う通りにならない力なんて役立たずにも程がある。
喘鳴を繰り返しながら、睨むように前を見る。刹那、横から一陣の風が吹いた。次いで視界に青髪の青年が現れる。
男が凶器を手に取る間際、カイトが彼よりも先に回り込みそれを蹴飛ばした。彼らの目前にあったそれは、再び距離を開いて茂みの中へと消えていった。そこに隠れていた動物達が大きな音を立てて正に脱兎のごとく飛び出していく。
「お前…!」
射殺すような視線を向けているのが気配でわかった。それを受け止めたカイトは、しかし怯むことなく男の腕を掴んで拘束する。だが、男の方が力では勝っているようで、離せと叫ぶ痩躯を完全に押さえきれていなかった。
だが、カイトの方が冷静であったことが幸いした。
カイトの腕を振りほどこうと、無秩序に暴れ回る彼の片足が浮いた。隙を窺っていた青年は目敏くそれに気付き、その足を払い相手の力を利用して倒れさせた。
どう、と音を立てて男が地に伏したところでようやく追い付いたメイトは気力を振り絞って再び押さえつける。ぜいぜいと鳴る息はどちらのものか、最早それの判断もつかない。
暫く自分とカイトを激しく睨みつけていた男は、やがて凄味のある声音でぽつりと話しだした。
「俺が…俺がずっと、護る筈だったんだ。それなのにお前の…お前たちのせいで、メイコは…っ!!」
怒りで、憎しみで、苦痛で、それらが全て激情に変わって、きっと震えているのだろう。だが、メイトには何故だか彼が泣き叫んでいるように思えた。
その理由はわからなかったけれど、その吐き出した叫びを聞いてひとつだけ、わかった。

ああ、同じなんだ。

選んだものが違うだけで、その結果違う形になってしまっただけで。
呪いのように何度も罵倒を繰り返し尚も抗われた。このまま抵抗を続けられるのならばいっそのしてしまおうかと考えた瞬間、耳元から勢いよく出てきた腕が男の顔を殴りつけた。男はその打撃に短く呻いて、がくりと頭を垂れて気絶した。狼は無骨な手の続く先を目線だけで追う。青髪の青年も、メイトとまったく同じ眼をして顔の似た男を見下ろしていた。狼が自身を見ていることに気付いて、青年は眉尻を下げて困ったように笑った。
「俺がやった方が、あとで色々と言い訳しやすいので、ね…」
「……あぁ、助かった…」
同じなんだ。想っていることは。大切で大切で、笑っていてほしくて、傍にいてほしくて……幸せになってほしくて。――――だから護りたくて。
意識を完全に失っていることを確かめてから、そっと男の身体に乗せていた前足を離す。カイトは男の着ていた外套の端を紐状に裂いて彼の手足を縛り、そうして二人同時に息をついた。多分、似たようなことを考えているんだろうなと思った。
例えばメイトが自分の想いを優先させていれば、目の前の幸せだけを考えていれば、有り得ないが人間であったならば。過去に戻ることも姿を変えることもできないが、それでももしあの時あの瞬間別の選択をしていたのなら、もしかしたら男のように、あるいはカイトのようになっていたかもしれない。だってそれは自分が何度も思い描いて諦めた道だったから。
「変わったのは、タイトだって……」
そうじゃない。小さな囁きがメイトの耳に届いた。力の入らない身体をなんとか動かして振り向けば、泣きそうな顔を隠すように俯く花嫁の姿が合った。握りしめた手が小刻みに震えている。

あぁ良かった、無事だった。

緊張の糸が切れたためか、メイトの視界は一気にぐにゃりと歪み、飛びかけてた意識を必死で繋ぎとめていたら耳元で鈍い音がした。どうやら自分は倒れたらしい。横腹に衝撃が走り、息が詰まって喉から引き攣れた声が漏れた。
「メイトっ!?」
悲鳴のような声で名を呼ばれた。次いでしっかり!とやけに張りつめた声が横から聞こえる。
ありがたくないことに麻痺していた感覚がやっと正常に働き始めたらしい。心臓が脈打つ度に激痛が身体中に響く。息を吸うと口の中に鉄の味が広がり、その原因が喉を塞ぐほど溢れてきて苦しい。
「メイト…!何でっ…!」
何でと言われても、わからない。木陰から男が見えて、彼が自分の大嫌いな凶器を構えていて、それが自分ではなくて青年に向いていたのを理解したら唐突に頭が急速に回転し、驚くほどの速さで浮かんだ答えに辿り着いて、そのあとはもう反射だった。自分がどんな風に動いたのかも朧気だ。
何かが頭に落ちてきた。緩慢に見上げれば、琥珀を埋め込んだような透き通った双眸と重なり、それが彼女の手だと知る。瞳に張った水膜は今にも破れて零れ落ちそうな程に揺らいでいる。触れられるまで、足音や気配に気付かなかった。これはかなり、野生のものとして失格だ。そう思って苦笑いを浮かべようとして、胸の痛みがそれを阻んだ。ごほごほと咳き込めば、喉を塞いでいたものが草や地面を赤く染めた。
「――っ…!!」
声を呑みこんだような音が聞こえてきたかと思うと、透明な雫がメイトの足に落ちてきた。それを歪む視界で捉えながら、ぼんやりと浮かんできた答えのようなものにああそうだ、と胸中でひとりごちた。
悲しむな、と、思った。この男が傷付いたら、こいつがすごく悲しんで、泣くだろうなと。そう思ったら、いつの間にか身体が勝手に動いていた。……結局は、泣かせてしまっているけれど。
霞む視界に白いものが見えた。それが風にはためいて、メイコの身に付けている衣装だと気付く。折角のドレスを汚してしまう。今更と言えなくもなかったが、それでも血糊をつけてしまうのは不味いと思った。
起き上がろうと足に力を込めるが、しかし叶わず崩れ落ちる。
「駄目!じっとしてなきゃ…!」
「……ぃっ、…」
「駄目だってばっ!!」
大丈夫だ、と言おうとしたが、喉がひゅうひゅうと笛のようなるだけで終わった。そのせいで余計に心配させてしまったらしい。泣いているのか怒っているのかわからない声で叱られた。多分どっちもなのだろうが。
ふいに胸の辺りにやや硬い布のようなものを押しつけられた。それは灰白色をしていて、白いシャツから覗く骨ばった手はその布を力を込めて掴んでいた。
「…、まえ…」
「喋らないでください」
努めて平静を保った、けれど余裕のない有無を言わさぬ声音で遮られる。それでもメイトは胸中で伝える気のない文句を言った。
だって、大切な服だったんだろ?今日この日のために作った。もったいないじゃないか。
そう思いながらも、メイトは奇妙なくすぐったさを感じていた。心臓が拍動するごとに失われていく体温とは正反対に、心の中があたたかいもので満ちていく。

ありがとうと言われて、幸せだと微笑まれて、大好きだと抱きしめられて、……泣かれる程、心配されて。

充分だと、思った。望んでも叶わないと思っていたことが、いくつも叶った。だから、もういいと。

そう考えてから、メイトはふと瞬きをした。
そういえば自分はメイコに、何も言っていない。礼も祝いも、返事も。それと謝罪……は多分、というか絶対怒られそうだが。白いドレスが似合っていると、綺麗だと思ったのに、伝えていなかった。あまつさえ今現在汚してしまっている。本当はどきたいのだが、どうにも四肢に力が入らなかった。
ぱっと浮かんだ心残りは、ひとつを皮切りにぽろぽろと実を結んでは落ちてきた。悔いというには弱い、あーあと溜め息をついて苦笑してしまうようなそんなものが、いくつも。 浅い呼吸は、自分のものではないような錯覚を覚えるくらいに意識が霞みがかる。その靄が深くなる度、異常なまでの眠気がメイトを襲う。
「メイ…っ!眠っちゃダメ!メイトっ…!」
そんな中、必死で自分の名を呼び掛ける声が自身を現実へと繋ぎとめていた。
口の開くのさえ億劫だった。だが、その声を聞いたら伝えなければと思った。せめて、ひとつでも、ひとつだけでも―――。
ぼやける視界の中で、雫がぽたぽたと零れ落ちている華奢な腕を見つけた。力の入らない前足を懸命に伸ばして、傷付けないように気をつけながらその手の甲に重ねる。狼の突然の行動にメイコが一瞬息を止める気配がしたが、やがてその手を前足の下でくるりと反転させ、躊躇いながらぎゅっと握ってきた。柔く白い指と、茶色く尖った爪を持つ足。対比のようなそれを見て、狼は可笑しさが込み上げてきた。
何だ、こんな簡単に触れられたんだ。ずっと恐れていたのに。こんな呆気なくこの手を取ることができたんじゃないか。臆病風に吹かれていた自覚はなんとなく持っていたが、まさかこれほど容易だったとは思いもしなかった。
「メイト…?」
頭上から不思議そうな声が聞こえてきた。頭を上げようとするが、どうしても軽くしか上がらなかった。すると涙に濡れた琥珀の透明な双眸が顔を覗きこんできた。
「め…こ…」
メイコ。そう呼びたいのに、掠れて言葉になり損なったただの声が喉から零れたように出てきた。そうしたら双方から喋るなと怒鳴られた。こっちは重症なのにひどくないかと内心で軽口を叩きながら、それでもメイトはめげずにメイコと呼びかける。ようやっと名前になった声がメイコに届いたらしく、メイトの口元に耳を寄せてきてくれた。
「お…れ…も…、…」
気力を振り絞って、喉に力を込める。せめてこれだけでも、と思ったものは気持ちを伝えることだった。何でこれなのかは自分でもよくわからなかった。これを伝えて何になるとか、彼女がどうなるとかそんなことはあまり考えてなくて、確かにぼんやりと後で返事をもらってないと文句を言われそうだとかは頭をよぎったりもしたが、ただ浮かんで伝えなければと思った。それだけだった。
「…、まぇ…こと……」
息を呑む音が聞こえた、気がした。正直もうちゃんと感覚の機能がはたらいてくれない。僅かに聞きとった音と、なんとなく雰囲気で感じ取っただけだった。
「だ……す、き…っ…」
握られた前足にぼろぼろと雨のように涙が落ちているのを目で捉えた。手が震えているように見えるのは視界が歪んでいるためだろうか。
途切れながらも何とか言って切って、伝わったことを感じてメイトは満足げに微笑み――表情に出ていたかどうかはともかく、メイトは笑った――大きく息を吐いて目を閉じた。
「っ!!メイト!」

大好きだった。愛と呼べる感情だった。

彼女と共有する時間の何もかもがあたたかくてくすぐったくて、そして心地よかった。いつしかずっと傍にいたいと望んだ。そのうちそれを諦めてもいいと思うほど、幸せになってほしいと願った。

苗木が背を伸ばしていくようにゆっくりと時間を掛けて育ったそれは、なき叫びたいほど辛くて切なくて苦しくて、それでも幸福だと胸を張って言える大事な想いだった。

「……っは…、…」
でも、きっと。
覚えているのは、辛いだけだから。
優しい思い出はその分、痛くなるから。自分のことは忘れてしまえばいいと、思う。全て忘れてしまえば、想いを馳せることすらできない苦しさもないから。
好きだと伝えた舌の根も乾かぬうちに何をと自分でも思うが、それもまた本心だった。
いっそ自分のこの身体が跡形もなく消えて、そうしたら存在自体も消えたりしないだろうかなんて、半分本気で考える。そうしてすぐに無理だと胸の内で苦笑しながら一蹴した。どこのお伽噺だ。
「メイト!メイトっ…ちょっと、ねぇっ!!」
そういえば、自分に名前を付けてくれたのも彼女だったなと思い出した。あれは確か今日のような天気の、けれど少し肌寒い、小春日和のこと。”メイト”という狼の、はじまり。

――――メイト。あなたの名前、今日からメイトね
――――は?

泣きじゃくる声が聞こえる。喉を引きつらせながら、それでも懸命に自分の名を呼ぶ声が。それが記憶か現実か、最早メイトにはわからない。

――――何でいきなり、名前なんつーもの……
――――だって不便じゃない。名前ないって言うし……前から思ってたの。……それに、

ただわかるのは、その主が狼にとってかけがえのない愛しい存在だということだけだ。

―――……ああ、もし、

だからきっと、こんな願いが湧いてきた。


――――それなら私の名前、ずっと覚えてるかなって。一文字違いならそうそう忘れないでしょ?


―――もしも、奇跡だとか、そんなものが俺の身に起こってくれたのだとしたら、また……――――――。


「…起きて!メイ――…、…ってよ……!―――――」

急速に意識が遠のいていくのを感じながら、メイトと叫び続けるその声だけが、ただただ心地よく狼の頭に響き続けていた。








こうして狼は狩人によって狩られ、村のみんなは安心して暮らしました。



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