おおかみと赤ずきん それからのお話





――――誰かが、泣いていた。
何か言葉を繰り返しながら、ぼろぼろと泣きじゃくっている。辺りが真っ暗で、姿は見えなかった。泣いているとわかったのは、その引き攣れを起こしたような湿った声がしたから。それに多分、音の高さからして女か子供だ。
その泣きようがあまりにもひどいから、大丈夫かと声を掛けたくて、しかし何故か声が出せなかった。まるで喉が何かに塞がれているかのような閉塞感を感じて、眉を潜める。
無意識に手で喉元をさすっていると、ふいに何かが頭に乗ってきた。怪訝に思い見上げようとして、しかし頭がその位置から全く動かなかった。押さえつけられているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。ただ、意識してそれを感じてみたら誰かの手だとわかった。小刻みに震える手の平で、撫でるような縋るような手付きで、何度も。その手はじんわりと温かくて、どこか懐かしさを伴って彼を落ち着かせた。
―――…ぃ……ぉ…、…
そのうち、泣き声以外の声が聞こえてきた。語りかけるような、訴えかけているような。必死な声音だと思った。頭でそう思いながら、どこまで身体が動くのか検分してみる。足、動かない。腕、さっき動かせた。瞼、真っ暗なので開いているかどうかわからない。試しにもう一度腕を使って上半身だけでも起き上がれないかとぐっと力を込める。先程同じように動かなかった。
何とも不自由な状況だったが、しかし焦りや恐怖といったものは全く感じない。それ故か、動くことを早々に諦めて、他にすることもないからと頭上から届く声を聴こうととりあえず機能している聴覚を研ぎ澄ませた。
―――ね、ぇ……き…て……!
捉えた声は、やはり我を失った呼びかけに思えた。一体何があったのだろうか。
―――ぃ……っ、メイト…!
「……!?」
悲痛を伴ったその言葉に思わず声を上げかけて、しかし未だに塞がれた喉が呼気を吐き出すだけに終わった。それでも覚えのある名に何で、と疑問符が飛ぶ。
(その名前は…)
聞き覚えがあるどころではない。何故ならそれは自分の名前だ。何を言っているのかわかったからだろうか、それを境に声が先程よりも聴きとりやすくなったように感じた。
メイト、メイト。悲しみに塗られた声が、こだまのように繰り返す。
何故この人が。自分を知っているということは面識のある人物なのだろうか。本格的に誰なのか気になり始めた。
今度は言葉ではなく、声に耳を集中させる。
―――…メイト……ってば……!
遠くから反響しているかのように入ってくるそれは取り乱していて、こちらが心配してしまうほどだ。自身に降りかかる涙も、涸れることを忘れたのかと思うほどとめどなく落ちてくる。頭に乗った手は優しくて、けれど痛々しく震えていて。
「……っ!」
刹那、今まで喉に詰まっていたものがするすると下へ降りてきて、瞬く間にぎりぎりと心臓を締め上げた。
苦しい。思わず胸の辺りで拳をぎゅっと握りしめる。いきなり襲ってきた訳のわからない痛みに、メイトは不機嫌そうに眉根を寄せた。
心臓を鷲掴みにされたような圧迫感に息を詰まらせながら、耳は頭上の声を常に捉えていた。
引き攣れを起こしながらも叫ぶその声に呼びかけられる度に、苦痛とは別の何かが心の奥底から引っ張り出され、それが拍動とともに切に訴えてくる。
「…、…な…」
泣くな。
何故かはわからない。ただ泣き止んでくれと、心の底から強く望んだ。
「なぁ…泣く、なよ…」
どうしてこんなに話すことが難しいのか。それでも彼女が痛ましさをはらんだ叫びが耳朶に響く度、メイトも泣くなと繰り返した。
泣いてほしかったんじゃない。悲しんでほしかった訳じゃない。
いつだって願っていたのは、お前の笑顔で――――――
「……?」
ふとメイトは瞬きをした。
お前の―――――誰の?
誰の、それはこの声の持ち主で、泣き叫んでいる人で、自分にとって―――な―――――

「……?」
ふ、と、そこで何かが引っ掛かったように小さく感情が動いた。微かに湧いたそれを取り出して自分の経験したものと照らし合わせてみる。既知感、懐かしい、馴染んだ。浮かんできた答えはどれも似たようなもので、やはり知っている者らしいという考えに至る。
そう認識した瞬間、ざっ、と闇だけだった視界に、突如として景色が現れた。胸を抑えたまま、怪訝な顔でがらりと変わった風景を見やる。草花の生い茂る地面、木々が好き勝手に生える森。その開けた場所に、ひと際大きな幹をかまえてどっしりと立っている樹木。
その場所には、覚えがあった。
「ここ、は……」
そこは、確か――――――、





「―――ト、メイト」
「――――……」
その呼びかけに瞼が震え、ゆっくりと目を開ける。そこには栗色の髪の女性が、自身を覗き込むように見ていた。
やっと姿が見えたことに、メイトは小さく息をつく。未だはっきりしない思考は、とりあえず彼女の涙を拭おうとゆるゆると手を彼女の頬へと伸ばす。しかし、思いの外距離があったらしく、届かなかった腕は仕方なく彼女の服を掴んだ。
「メイト…?」
不思議そうな顔で首を傾げられる。その凛とした心地よい声音を今度ははっきりと聞いて、漸く思い出すことができた。そうだ、彼女は……
「……、…こ……」
名前を口にしようとして、しかし掠れてほとんど出せず眉間にしわを寄せた。上手く声が出せない。
何度か口を開閉していると、ふいにクスリと小さな笑声が聞こえてきた。
「なぁに?今日は随分甘えん坊じゃない」
「………――――っ!?」
その言葉を耳に入れて脳で処理をし意味を理解した瞬間、メイトは勢いよく起き上がった。まず視界に入ってきたのは青空と雲のコントラスト。そこで自分は今の今までベッドで寝ていたことを知った。
完全に目が覚めた状態で横を振り向くと、そこには先程ぼやけた視界の中で見た色の髪と瞳を持った女性の姿。確かに涙目になっているが、完全に笑いすぎたそれだった。
「あら、だっこはいいの?」
「誰が!んなこと一言も言ってないっ!」
明らかにからかいを含んだ問い掛けに存分に声帯を震わせ全力で否定の声を上げた。ら、思い切りむせた。げほげほと咳き込むメイトに女性はとうとう声を上げて笑った。ぎっと睨めば大して答えた様子もなくごめんごめんと謝罪された。どう考えても適当にあしらわれている。
「メイトが寝ぼけるなんて珍しいから、ついからかいたくなっちゃって」
「……変な夢見たんだよ」
しかも笑顔でさらりとそう続けるものだから、メイトは諦めたようにがっくりと肩を落としてそう返した。
「夢?」
「あぁ。多分、いつもの」
ぽつりとそう零すと、女性はきょとんと目をしばたかせてそう、と相槌を打った。
「やっぱり、覚えてないのもいつも通り?」
僅かに間を置いてこくりと首を縦に振る。今も記憶の中から見つけ出そうとしているが、どうにも思い出せない。
時折見る夢があった。物心がつきはじめた頃から、何度も見る夢が。多分同じもの、と曖昧なのは、その夢の内容を一切覚えていないためで、まただからこそ他の夢と区別している。それに、中身は思い出せなくても、その時感じた感情や雰囲気だとかは必ずといっていいほど残っている。とはいっても重い軽い悲しい嬉しいなどのような単調で抽象的なものだが。
神妙な面持ちで思案に暮れていたら、不意にぽんと何かが頭の上に乗っかってきた。軽く見上げると、メイトを起こしにきた女性が先程とは打って変わって陽の光のような優しい笑みを向けていた。
「メイト、おはよう」
「…おはよう、母さん」
彼女と同じ色の髪の毛をわしゃわしゃと撫でつけるその腕は、少しの粉っぽさとほの甘いバターの香りがした。



◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆



下に降りると、丁度リビングの扉が開き、空よりも深い青い髪をした男が大量の花を抱えて部屋に入ってきた。メイトの父親だ。
階段を下りる音に気付いたらしく、メイトが最後の一段を降りきったと同時に彼は振り返り、おはよう、と穏やかに笑った。それに素っ気なく挨拶を返してすれ違い、家の玄関を目指す。
二回程ドアノブを回して外に出ると、窓から見た景色通り爽快な雰囲気が辺りに漂っていた。ぐっと伸びをしてから歩きだして、家の前にあるポストを開ける。朝に郵便物があるか確認するのがメイトの役目だった。といっても大抵は新聞くらいしか入っていないのだが。この町はそこまで広い訳ではないので、何かあれば直接会った方が手っ取り早い。
メイトは赤い郵便受けの蓋を開けて、いつも通り中途半端に丸めこまれたそれを取り出す。
「…ん?」
すると、その奥から白い長方形の封筒がぽつんとポストの中に入っていた。
「手紙…?」
宛先はここの住所。宛先人はメイコ。母宛の手紙だ。誰からだろうと封筒の裏を見るが、それ以外は何も書かれていない。代わりとでもいうように薄紅色の花びらの絵が舞っていた。中身は流石に開けられないので、気になりながらもそれらを持って踵を返す。
首を傾げながら家に戻ると、扉を開けた途端に芳ばしい香りが部屋中に満ちていた。リビングに入ると更にその匂いが強くなり、メイトの空きっ腹を刺激した。
「めーくん、新聞貰っていいかな?」
「その呼び方やめろっつってんだろバカ親父」
にこやかにそう呼ばれて、メイトは先程花を持ち運んでいた父親に問答無用で新聞を投げつけた。ぺしっと情けない音がして男の顔面に直撃する。自分の子供であるにもかかわらず、彼はメイトのことを愛称で呼ぶ。いつからかはわからないが、メイトに物心がついた時には既にめーくんと呼ばれていらことは確かだ。生まれた時からなら馴染み過ぎて中々変えられないというのもわからないでもないが、そろそろ十になるメイトにしてみれば勘弁してほしかった。
「…あと優しさが欲しいな」
「言ってろ」
最近では何度言っても改めてくれないので対応が無愛想になってしまっている。それでも父親は叱ることもせず苦笑いで受け流すものだから、その余裕な態度が悔しくてどんどん容赦がなくなる。
「メイトーお皿並べてくれる?」
「おー」
そんな応酬をしていると、台所から母の声が聞こえてきた。それに返事をしながら、棚の中に置いてある食器を取り出してテーブルに並べる。既に置いてあったミルクを自分のマグカップに注ぎ入れる。父は新聞を読みながらコーヒーをすすっていたので何も聞かずに瓶を元の位置に戻す。席に座って姿勢を正した所で、丁度母がパンの盛られたバスケットを持ってやってきた。
ふわりと焼きたてのパンの匂いとあたたかさがメイトの鼻腔をくすぐる。
「さぁ、ご飯にしましょ」
その合図で、待ってましたと言わんばかりにいただきますと声を上げて、籠を見た瞬間から目を付けていたパンに手を伸ばす。そのままかぶりつけば、生地のほの甘さと木の実の芳ばしさが噛むたびに広がった。メイコの十八番料理であり、店の人気商品でもあるそれは、彼女が初めて作ったものらしい。メイトが今よりもずっと小さい頃からあり、季節によって味が変わるそれは物心時から彼の大好物だった。今では彼もその材料である木の実集めを手伝っている。
「あ、これ新作?」
「そう、まだ試作品なんだけど」
「そうなんだ。いただきます」
ちらりと視線を向ければ、男の手に見覚えのないパンがあった。それを見ながらもうすぐ節目だからなぁとぼんやりと思う。
メイトの両親は互いに別の仕事をしている。母はパン屋で、父は花屋。別に互いがこの職をやりたいと主張した訳ではなく、互いが互いに続けて欲しいと希望したかららしい。ちなみに理由はあなたの君の作るものが好きだから。それを聞いた当初は何というか胸に空気が入って膨らんだような感覚覚えたが、思い返すとそれは「はいはいごちそうさまです」なんて感情だったのだろう。当の本人たちは終始照れもせずいたって真剣な面差しで語っていたのでその無自覚さにやっぱり呆れた。正直今でも時折思い出して遠い目になる。
「カイトは?そろそろ春の花が咲く頃でしょ?」
「うん、庭に行ってみたら良い具合に蕾ができてたから、もうすぐ入れ替えの時期かな。あと今度山にでも入って――――……」
ただ、メイトは成長するにつれて日に日に募る疑問がある。
花の手入れをする父親と、パン作りに勤しむ母親。………別に間違ってるとは思わないが何となくちょっと逆なんじゃないかと時々思う。その姿が妙に様になっていることも含めて何か違う気がする。
そんなことを考えながらあらぬ方向を向いていると、メイト、と声を掛けられて我に返った。ごまかすように止まりかけていた手を動かしてパンを頬張りながら何、と返事をする。
「今日ね、ちょっと頼みたいことがあるんだけど…」
「頼みたいこと?」
母親の言葉を繰り返すと、ええ、と小さく首を縦に振って話を続ける。
「前に、家にお客さんがやってくるって言ったわよね」
前、と呟きながらふと上を見上げて記憶を巡らせる。我が家で家の客ということは店ではないということだ。
「……ああ、父さんの親戚の子?」
そう答えると、斜め前に座っている父がうんそう、と笑った。
「それで、その子まだ小さいからここまで辿り着けるか不安でさ。街まで迎えに行ってあげて欲しいんだ」
「?、馬車使えば大丈夫だろ?」
「それが歩いて行きたいらしくて…」
「…へぇ……」
そんなに不安なら何故こっちまで来させようとしたのだろうか。はじめてのおつかいなら住んでいる街の中の方が安心じゃないだろうか。疑問をそのまま投げたら本人が行く気満々で止められなかったんだってと返ってきた。面倒臭そうな奴だなぁと思っていたらそのまま顔に出ていたらしく、向かいにいる二人に同時に苦笑された。それが何となく面白くなくて、少年は顔をしかめる。メイトがそう思うことは予想していたのだろう。そしてメイトが嫌がっている訳ではないということもおそらくわかっている。
マグカップに注いだ牛乳を飲みながら、少しばかり思案する。今日はそれといって用事があるわけでもなく、どこかに遊びにでも行こうと思っていた。隣街へ続く街道は行き慣れたものだったので、子供ひとりくらいなら案内はできる。早めに出て迎えがてら街を散策するのもいいかもしれない。それに隣街へ続く街道は聞き慣れたものだったので、面倒な子供でもひとりくらいならここまで連れてこれるだろう、多分。コト、と中身を半分ほど減らしたカップをテーブルに置いてから、メイトは頼みごとを了承した。
「わかった。こっちに着くの何時頃?」
「1時には着くように家を出るって言っていたよ」
「ん、じゃあ店の準備手伝ってから行く」
出掛ける時間を算段しながらそう言って、残りのパンを口の中に放り込み新作だという犬のような動物の形をしたそれに手を伸ばした。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆



朝食を食べ終わってからそれぞれの店を少しだけ手伝い、予定の時刻になったところで行ってきますと告げて家を出た。
雲はまばらで、やわらかな日射しがよく当たる。少しだけ冷たい、穏やかな風がさまざまな香りを運びながら通り過ぎ、メイトは思わず目を細めた。空や空気が春らしくなってきている。
てくてくと砂と砂利の混じった街道を少年は歩き続ける。開けた視界には未だ草木と空くらいしかない。後ろを振り返れば多分こじんまりとした町は見えるだろう。
隣街までは、子供の足で2時間程。大人だったらもっと早く辿り着けるのだろうが、基本は馬や馬車を使って移動するため正確にはわからない。
「…なのになぁ…」
それを子供がひとりで、しかも土地勘のないものが徒歩で行くなど、朝食の席での会話を思い返してみるとやはり面倒臭そうで加えて無鉄砲な奴だと思った。ちなみに今現在徒歩で進んでいる自身を棚に上げている訳ではなく経験則からの呆れだった。何せ初めて街まで歩いた時は片道だけで疲れ果ててしまった口だ。
とはいえ、それでもメイトが馬車を使うことはほとんどない。急ぎの用であったり大荷物を運ぶ際は使うこともあるが、そうでなければ自分の好きな時間に発つことができる歩きの方が気楽だった。
「……お」
並木道の片側が、途中で草木の生い茂る景色へと変わる。メイトの住む町と隣街のちょうど境にある、彼がずっと幼い頃からの遊び場だ。とはいっても町の友人たちを連れてやってきたことはない。遊ぶにしては距離のある場所であったし、そもそもメイトはここにきて自由気ままに遊んでぼんやりと過ごすことが好きだったので、積極的に誘うことをしなかった。それに大抵の遊び仲間は、森に行くことを告げれば途端に興味をなくすことが多かった。
「あと半分か…」
ふと額の辺りに手をかざして太陽を見る。日はまだ東側に傾いている。このまま歩いて行けば親戚の子供が出発する時刻よりもかなり余裕を持って着く筈だ。
予想よりも早く進んでいることに少しだけ嬉しさが湧く。前よりも体力がついてきているようだ。
時計なんてものは持ち歩く習慣がないため、そうして時間を把握することが当たり前になっていた。いつかの誕生日にもらった時計は今日も今日とて家に忘れてきた。恐らく当分の間は大切に保管されていることだろう。

さぁ、と横にそびえる森から風が吹いてくる。身体ごとそちらを向けば、街道のものとはまた違った、草木の匂いの濃い、僅かに湿り気をある空気がメイトに顔を撫ぜ、すり抜けて去っていく。

「―――……?」
そのとき、メイトは奇妙な既知感が胸を突き抜けた。そう思ってから、いや、と自らの考えを否定した。暇さえあればここに赴いて遊んでいるのだから、知っているのは当たり前だ。だったら何故と生じた感情を取り出してためつすがめつしてみたら、既知に似たある感情が思い浮かんだ。
「懐かしい…?」
呟いた言葉がすとんと身体に落ちた。落ちたことにさらに戸惑った。
困惑を隠せないまま森の奥をじぃっと見つめる。しかし、どれだけ目を凝らしてもその感情の正体は掴めない。ただ土に水が染み込むようにじわじわとそれが湧き上がってくるだけだ。
一度隣街の方向に目を向け、そして再度森を目に映す。右手が無意識に胸の辺りの服を掴む。
「……本当は街でも探索するつもりだったんだけどな…」
そう言って僅かに逡巡した後、メイトは意を決した面持ちで歩き慣れた森の中へと入っていった。



「よっ、と…」
森に一歩踏み込めば、先程感じた青臭さが一気に濃くなる。それに加えて土と花と樹木の香り。やわらかな雰囲気を醸し出すその森は、息を吸い込んだだけでも心を落ち着かせた。森林浴とはよく言ったものだ。
「お?」
ふいにがさっ、と音がしたかと思うと、茂みらひょっこりと兎が顔を出してこちらを見ていた。立ち止まって様子を見ていたら、ぴんと立てていた耳をぱたんと閉じて堂々とメイトの前を通り過ぎていった。この森の動物達はどうも警戒心が薄いらしく、それも母であるメイコが子供の時からだというのだから、思わず大丈夫かと心配してしまうほどだ。
「……少しは警戒しろよ…って!?」
話声にすら耳を傾けず呑気に草を食んでいる兎に呆れた眼差しを向けていると、突然頭上から何かが落ちてきた。予想もしない衝撃に頭から沈みかけるが、膝をつく寸での所で何とか持ちこたえる。何だ何だと混乱していると、頭の上からカリカリカリカリ…と軽快な音が聞こえてきた。落ちてきたそれを恐る恐る手を伸ばしてみると、ふさふさとした尻尾に触れた。リスだ。どうやら落とした木の実を拾いにやってきたらしい。
「………………おい…」
凄味を利かせた声を上に向けて放つが、殻を割る音が変わらず響くだけだった。だからお前ら野生なんだから、人に姿を見せないように隠れるとか逃げるとか威嚇とかそもそも触られる前に避けるとかそういう野生らしさを持て、ないなら身に付けてこい。そう思うのは間違っていない筈だ。聞いてくれた試しがないが。
暫く思い切り睨みつけていたが、どうにも自分の頭から動く気がなさそうなことを悟ってメイトは大きな溜め息をついてリスを乗せたまま奥へと進む。多分この諦めのよさの半分くらいは平和ボケした森の住民たちから教わったと思う。
鳥たちのさえずりが木々のあちこちから聞こえてくる。枝葉を移動する音も耳に入ってくるから、多分近くにもいるのだろう。揺れる木をよく見れば、小さな影と無数の蕾が見えた。丸く膨らんだ蕾はそろそろ咲き頃だ。あとで父に知らせようと思いながら、メイトは軽く口の端を上げる。森に生きる者たちの姿が、冬の終わりと春の始まりを垣間見せてくれる。その自然の変化を目の当たりにすることが、メイトは好きだった。
この森は何故こんなにも穏やかなのか、以前母に聞いたことがある。理由は覚えていないが、多分何となくだったのだろうと思う。返答についてもそこまで明確なものを期待していなくて、けれどその言葉とともに見た母の表情が印象に残って、忘れられなくなった。
『ここにはね、神様がいるの。森を見守ってくれている、守り神』
だから、いつも優しいのよ。
何かあったのかとか、悲しい思いをしたのかとか、疑問に思うことはあったけれど。痛そうな、痛みに堪えて笑うような、そんな顔で言うものだから、それ以上は何も言えなかった。あの時のことを思い出す度に今でも胸がざわざわと疼く。とりあえず守り神とやらにいつか会うことができたら礼を言いつつ一発殴ってやろうとその日に固く決意した。残念な事に未だ出くわしたことはない。
「……ん?」
何か、音が聞こえた。立ち止まって耳を澄ませば、やはり何かが聞こえた。気のせいではないらしい。忍び足で歩きながらその音に集中していると、段々と大きくなっていくのを感じた。そのうち、それが誰かの泣き声だということがわかった。

「―――――っ!?」
瞬間、何故か鼓動が大きく跳ね上がった。そして駆け抜けぬけた感情は、先程森に入る前に感じたそれと同じもの。
その感情は衝動となり、いてもたってもいられずメイトは訳の分らぬままに駆け出した。その拍子に今まで頭の上に乗っかっていたリスは傍の木に飛び移る。どうやら彼の動きに驚いたらしい。それを視界の端で捉えていたメイトは悪い、と小さく謝ってそのまま進んでいく。
込み上げる何かがある。懐かしいと訴える思いを確かに感じる、けれどわからない何かが。この声の主を見たら、その正体を掴めるのかもしれない。そう思うと更に胸が高鳴った。

ずっと夢に見ていたこと。いつも忘れてしまうそれが、もしかしたらこの先に――――――――。
がさりと背の高い草を掻き分けて前を見ると、大きな木が佇む開けた場所へ辿り着いた。それと同時にひっ、と小さな悲鳴が少年の耳に入る。
「…っ!?」
「あ…」
その声の方へと視線を巡らせると、目を赤くして泣いている小さな女の子がこちらを見て固まっていた。
夜空色に似た紺色のワンピースに同色のケープ。帽子の中から覗く髪の色は、海のような深い青。籠の中にはワインといくつかの果物と、小さくて可愛らしい花々。見るとそれはこの森でよく見る花たちだった。彼女の周りにもひっそりと咲いていた。これを摘んでいるうちに夢中になってここまできてしまい、いざ帰ろうと思ったら道がわからなくて泣いていたのだろうと思った。要するに迷子だ。

(…あれ?)
気付いたらあの衝動が跡形もなく消えている。メイトは思わず首を傾げる。一体なんだったのだろう。
「…こんなところで何してんだ?」
「…あ、う……」
気を取り直して、明らかに怖がっている彼女を何とかなだめようと声を掛けてみたが、余計硬直させてしまい選ぶ言葉を間違えたと反省する。
どうすれば…と頭の中の引出しを漁るが適当な言葉が見付からず、そもそも自分にそんなスキルがないことを思い出して諦めた。諦めた代わりに泣き腫らした顔の前に手を差し出した。訳がわからずきょとんと目をしばたかせた子供に、メイトはできるだけ優しく話し掛ける。
「迷ったんだろ?森の出口まで連れてってやるから」
とはいえ、口調を変えるという能力も生憎と持ち合わせていないのでぶっきらぼうな物言いには変わらないのだが。内心妙な敗北感に打ちひしがれながらもほら、と催促する。
目を泳がせて暫く迷っていた少女は、やがて横に置いたバスケットを持って、恐る恐るメイトの手に自分の手を乗せた。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


「…あの!ありがとう、ございます…」
「ん?あぁ…別に、俺にとっては庭みたいなもんだからさ」
森を二人で歩いて暫くすると、ずっと黙ったままだった少女がようやっと口を開いた。手を引っ張りながら街道に向けて前を歩いていたメイト少し驚くが、すぐに言葉を返した。
「お前こそ、何でこんなところで迷子になってたんだ?」
尋ねると、うっと声を詰まらせた。繋いだ手に力が入るのがわかる。別に無理に言わなくても、と付け加えようとしたが、少女がおずおずと話しだしてきたので口を噤んだ。
「…この先のまちまで、行こうとして…」
「まち?どっちの?」
「えと、森の先の…」
どっちも森の先にあるのだが。それにどちらにしても徒歩でここまで来るのは無謀なことに変わりはない。まいったな、と片手で頭を掻く。このままだとどっちに案内すればいいかもわからない。
「あー…住んでる所は地面が石になってる方の街?それとも土の方の町か?」
何とか知恵を絞ってそう質問すると、石の方だと返ってきた。ということは隣街から自分の町まで行こうとしていたようだ。
「…ん?」
そこで何かが引っ掛かった。もしかして、とある疑念がわく。
「お前、親戚にカイトって名前の人がいないか?」
「あ、はい…おじさんがいます」
「でもって今日はそのおじさんの家に行くためにここまできたとか」
「は、はい…どうしてわかったんですか?」
そこまで聞いてメイトは大きな溜め息をついた。こいつだ。こいつが無鉄砲で面倒臭そうな奴だ。
「……俺、お前を迎えに行って来いって言われてたんだけど」
「………ぇぇえっ!?」
彼女の素っ頓狂な声に驚いた鳥たちが一斉に木から飛び立ち、さえずりの代わりに羽ばたきが森に響いた。早めに出て何となく森の中に入って良かったと思うべきか自分の彼女に対する予想が間違ってなかったことを嘆くべきか。
「何で馬車に乗らなかったんだ?その方が速いし迷わないだろ?」
「…その、ひとりで行ってみたくて……」
「あー、なるほど。何となくわかった」
大方、ひとりで行きたいと言って許可を得たはいいものの周囲から過度に心配され、故に幼心なりにその子供扱いが不満でさらにムキになって何も言わずにこっそりと家を飛び出したのだろう。メイトに告げられた時刻よりかなり早い時間からここにいるのも定刻で走る馬車に乗らなかったのもおそらくそれが原因か。
でもなぁ、とメイトは呆れを隠しもせずに口を開く。
「そんなことしても余計心配されるだけなんじゃないか?しかも迷子になってたらもう行かせてもくれないかもしれないだろ」
ちなみに今言ったことはメイト自身が昔に経験済みであり、加えて両親に(主に母に)ものすごい勢いで怒られて怒鳴られて引っ叩かれて泣かれて諭されたので、今でも思い出すし思い出しては恐れと罪悪感と少しの苦笑いがじわじわと湧き上がってくる。まぁ彼女の家ではそこまでではないだろうが。
一気にそこまでまくしたてると、それは…声を詰まらせながら少女が小さく呟くのが聞こえた。しかしそこで押し黙ってしまい、どうしたのだろうかと振り向き、ぎょっと目を見開いた。
「…ぅ、っ…」
小さな嗚咽を唇を噛んで耐えながら、再び少女はぽろぽろと涙を流していた。
メイトは脳ごと全身を固まらせた。どうしよう泣かせた。寧ろ俺が母さんに怒られる。
一瞬にして真っ白になった思考回路を必死に稼働させるが、中々いい案が思い浮かばない。お菓子なんて持ってないし子供をあやすスキルなどそれこそ持ち合わせていない。
泣き止ませるにはどうすればと慌てていると、不意にベストのポケットに入っているものを思い出した。焦りながらそれを取り出して、おい、と声を掛けて顔をこちらに向けた少女の前に突き付けた。
「泣くな。これ、貸してやるから」
涙を流したまま猫のように目を丸くした少女は、彼の手の中にあるものを見て軽く首を傾げた。
「これは…?」
疑問符を含めた言葉に、お守り、とメイトは返す。
「持ってると元気になれるお守り」
「元気に…?」
「そ、この森の神様からもらったんだってさ。森を出るまで貸してやるから、だから、元気出せ」
自分よりやや小さい手に紐をくくらせて、袋の方を手の平に乗せる。色褪せた紅色の布と茶色の紐で作られた小さな袋が白い手の平におさまった。少女はそのお守りとメイトを交互に見ながら、やがてぎゅっと大事そうに握りしめてこくんと頷く。それを認めたメイトはよし、と少女の頭をぽんと手の平を乗せてから、再び出口を目指した。
「……あの、私、カイコって言います。あなたは?」
「俺?俺はメイト」
それから少し間を置いて少女が問い掛けてきて、メイトは彼女の名前を頭の中で繰り返しながら返答した。そういえばまだ互いに名前も知らなかった。
「メイト、さん…」
「呼び捨てでいいから。俺もカイコって呼ぶし」
「え、えっと、め、めい…めい…め、めー、くん!」
瞬間、メイトは普段は引っ掛からない筈の枝に足を引っ掛けて危うく転びかけた。
「だ、大丈夫ですか!?」
慌てて傍の木に手を置いて体勢を立て直すが、未だ付けられたあだ名に対しての衝撃が残っている。なるほど確かに父親の親戚だ。しかしこんなところで理解したくなかった。
「何でもない…ホント呼び捨てでいいからさ」
「え、えーと、えーと、め、めー…めーめー…」
「パンダかよ俺は…」
段々と視線が傾いて名前のなりかけの言葉を呟くカイコにツッコミをいれながらがくりと肩を落とした。普段周りに呼び捨てで名前を呼ぶ者がいないのだろうか。メイトにしてみれば珍しいことだが、逆にそんな環境だから自分よりか確実に年下なのに口調がかしこまっているのかもしれない。しかしだったら”ト”が抜けるのか疑問である。
「めい、メイ、く…めい…!」
「……あーもうわかったから。そんなに呼びづらいんならそのあだ名っぽいのでいいよ」
未だ自身の名に悪戦苦闘している少女に、見かねたメイトは早々に降参した。その言葉を聞いて顔を上げた彼女は、先程までの難しい顔が嘘のように笑ってはい!と元気よく答えた。
「よろしくお願いします!めーくん!」
「……あぁ、よろしくな」
その弾けんばかりの笑顔に思わず目を瞬かせ、何となく気も抜けてしまいまぁいいかと思って苦笑いした。
刹那、あっとカイコが突然小さな声を上げる。驚いたような表情に首を傾げながら顔を前に向ければ、木々の隙間から整備された道が見えた。二人で草むらをガサガサと掻き分け、町と街とを繋ぐ一本道に辿り着く。
「で、出れたぁ…!」
心底安心したのか、カイコは声を震わせながらこう言葉を零し、再び青い瞳に涙を滲ませた。それを見ていたメイトは小さく笑い、だから泣くなってと青い頭巾の上から丸い頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「ほら、あとは町まで歩くだけだ。へばんなよ」
「は、はいっ…!」
そう返事をして、カイコは気を引き締めるように籠を持った手を胸の前でぐっとさらに握りしめる。
途端、ぐぅぅと何かの鳴き声のような音が聞こえてきた。互いに顔を見合わせ、数秒ほど間が空いたかと思うと、カイコが顔を真っ赤にしてあわあわと腹部を片腕で押さえていた。
「ち、ちが、違うんですお腹が空いた訳じゃなくて、お腹にいる虫が鳴いただけであのえと、あ、あははは…」
どっちにしても腹が鳴ったことは否定しないのか。意味のわからない言い訳と混乱を極めているカイコに一瞬呆れた視線を向け、しかしすぐに吹き出して笑った。
「な、何で笑うんですかぁ!」
繋いだ手もろともぶんぶんと振りまわす彼女に、メイトは悪かったと謝る。未だ笑いはおさまっていないので誠意が伝わったかどうかは別だが。案の定頬を膨らませてこちらを睨めつけている彼女の頭を宥めるようにもう一度軽く撫でて、町の方を指差した。
「家に着いたら俺ん家のパン食わしてやるからさ。それまで我慢しろよ」
「…っ、は、はい…っ!」
「よし。じゃああともう一踏ん張りな」
そう言って軽く笑いながら、メイトは少女の手を引っ張って歩きだした。





時々、夢を見ることがある。
それはまどろみに任せてたゆたうように心地よくてあたたかく、けれど時々締め付けられるような苦しさを伴う、そんな夢を。
夢を見たとわかるのに、覚えていなくて、だから何でそう感じたのかも、そう感じさせた原因もわからない。
けれども、不気味だとか、もう見たくないだとかはひと欠片も思ったことはなくて。それも合わせて不思議な夢だと思う。
ただの夢かもしれない。気のせいで済む話なのかもしれない。
それでも、ただの夢だと一蹴することはできなくて、それが何故かもわからなくて……けれど、


だからこそ、知りたい。


「ただいまー」
「お、お邪魔します…!」
「いらっしゃい、カイコ。よく来たね」
「あら、早かったわね」
「まぁな。母さんパンある?こいつ途中で腹の虫鳴らせてさー」
「わー!!それ!それは内緒って言ったじゃないですかぁぁぁ!!」
「言わないとは言ってないだろー」



だってそれは、叶えたかった願いだったり、忘れたくない記憶だったり、褪せることのない想いだったり。
そんな大切な思い出かもしれなくて。




『どう、メイト?美味しかった?』
―――ああ、まぁまぁ美味かった
『本当!よかったー。あ、今日も持ってきたから食べてね。今回はね……――――』





もしかしたら伝えてほしい誰かが、知りたかった誰かが、いるかもしれないから。








だからただ、待ってるよ
君の涙が止むまで、あの木の先で―――
ずっと……
だから、奇跡くらい起こったっていいじゃないか。

あとがき
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。今読み返すと今の自分じゃ書けない、思いつけない文章で、何だか自分が書いたようでないみたいで面白かった。


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