叙事詩に恋う

第8話 紫羅欄花


『天下高くウマ娘肥ゆる秋……国内から選ばれた代表選手、そして海外から招待された選手が一挙に集う国際招待競走。GⅠレースジャパンカップが、もうまもなくはじまります!』

既に熱が入りはじめているアナウンスの声と共に、期待に満ちたざわめきがここまで聞こえてきていた。おそらく観客席は、既に満席近くまで埋まっていることだろう。
化粧台の前に座り、アイシャドウを迷いなく刷く。両目をを開いて鏡を見れば、気品のある赤色が瞼を鮮やかに縁取っていた。
出走前に母とお揃いのアイシャドウを塗り直すのは、いつの頃からかルーティンになっていた。身が引き締まるのだ。母に恥じない、そして女帝の名に違わぬ走りをみせるのだという意気が湧く。
まばたきをして不備がないか確認し、エアグルーヴは椅子から立ち上がる。
蹄鉄の音が控え室に響く。靴に支障はない。四肢に痛みもなし。万全のコンデイションだ。
「作戦は?」
ひとつ息をついてから振り返れば、静かに控えていたトレーナーがバインダーを片手にエアグルーヴを見た。
「先行で。このメンバーだと中団後方でまとまる形になって、差しだとごちゃって乱戦になるだろうから……って理由なんだけど」
「同意見だな」
バインダーに挟まれた出バ表を揃って眺めながら、エアグルーヴは彼女の言葉に頷く。
今回の出走者は、差しと追い込みを得意とするウマ娘が多い。となると位置取りが重要になってくるわけだが、密集すればするほど好位置に付くことが難しくなってくる。位置取りを誤ることは。余計なスタミナを消費することにも繋がるのだ。
そしてもうひとつ。紙面に並んだ15名の出走者の、最後尾に記された名前を目線だけでゆっくりとなぞる。
ルドルフもおそらく差しで来るはずだ。彼女は自身の弱みを、そのまま良しとする性格ではない。
そしてこちらもまた、見えている弱点を敢えてつかずに挑むほど腑抜けではない。勝負の世界に、甘さなど必要ないのだ。逆に無礼に当たる。
「じゃあそれで。あとは、あの件のことなんだけど……」
ペンを胸ポケットに差し込みながら、トレーナーは表情を曇らせた。
「ごめんなさい、パドックまでは口を挟めなかったわ」
「当然だろう。招待選手に加えて、相手は王族だ。下手に避ければ不敬ととられかねん」
心底申し訳なさそうに頭を下げる彼女に、エアグルーヴは顔色一つ変えずにそう返す。次いで微かに目元を緩めた。
「寧ろ、今日まで接触を避けられただけでも充分だ。おかげでトレーニングにも集中できた」
「エアグルーヴ……」
夏前に、ジャパンカップに出走したいとエアグルーヴが願い出た時から、何かしら対策を考えておくとトレーナーは言った。そして宣言通り、彼女は裏で懸命に動いてくれていた。
今こうして控え室で静かに過ごせているのも、彼女が手回しをしてくれたおかげなのだ。それがわからないほど、エアグルーヴは鈍くも恩知らずでもない。
「……本当に気を付けてね。危ないと思ったらスタッフのひと呼ぶんだよ」
「私は子どもか。というか危険人物扱いするな」
「えー……エアグルーヴ、ゴールドシップで感覚麻痺してない?」
「してない」
多分。確かにゴールドシップに比べたらと思いはしたし、何ならアグネスタキオンやナカヤマフェスタの顔も浮かんだりはしたが。
そういえば今日はゴールドシップも出走するのだった。また奇行に走らなければいいのだが。いや、それよりも自身のことだ。
「確かに外人らしい振る舞いが目立つというか、一般人と常識がかけはなれているようなひとではあるが……決して悪い御仁ではない」
そう、悪いひとではない。ただエアグルーヴ自身が、少々苦手意識を抱いているだけで。
「大丈夫だ。レース直前にコンディションを落とすような、無様な真似はせん」
それでも彼女は心配そうにしていたが、やがて腹を括った顔をして「女帝の力を見せつけてきて」と拳を握った。
自身の杖にああ、と強く頷き、エアグルーヴは控え室を後にした。


エアグルーヴがパドックに現れた途端、わっと大きな歓声が巻き起こった。スタンドは隙間が見えないほどに多くの人々でひしめき、先月の天皇賞(秋)に負けずとも劣らない熱気がそこにあった。
唯一異なる点があるとすれば、外人の比率が多いことだろうか。中には国旗を振っている団体もおり、秋晴れの東京競バ場は普段よりも異彩な雰囲気を見せていた。
「グルーヴ!」
スタンドに見渡していると、不意に名を呼ばれた。反射で耳を揺らしながら、エアグルーヴは内心でため息をついた。早速来たか。
「お久しぶりです、殿下」
エアグルーヴを見るなり駆け寄ってきた長い鹿毛のウマ娘に、深く礼をする。
ポリッシュミニスター。アイルランド出身のウマ娘であり、エアグルーヴの同室者兼友人のファインモーションの姉でもある。つまり彼女も、アイルランドの王族に連なる人物だ。
そして彼女こそが、エアグルーヴとトレーナーがあらゆる意味で警戒していたウマ娘だった。
「そんなに畏まらないでくれたまえ。今は王女ではなく、ひとりの競技者だ」
そう思われているとは露とも知らず、ポリッシュミニスターはにこやかに話す。流石は姉妹。笑い方がファインとよく似ている。
だが、彼女の実力はそう可愛らしいものではない。ドイツのバーデン大賞を皮切りに、イギリスやフランス、アメリカと各国のG1タイトルをいくつも制してきた歴戦の猛者なのだ。
そして、とエアグルーヴは密かに拳を握る。昨年のジャパンカップにも出場し、エアグルーヴもまた、彼女にクビ差で負けた。
「また君と走ることができて、心から嬉しいよ。グルーヴが出走すると聞いて、私も招待に応じると決めたんだ」
「過分なお言葉、痛み入ります」
「だから畏まらなくていいというのに。妹のファインと同じように、気軽に接してくれて構わないよ。どうか名前で」
「流石にそこまでは恐れ多く……ご容赦ください」
「ふふ、相変わらず真面目だなぁ。でも、それが君の魅力でもある。だからこそこんなにも惹かれるのだろう」
ざわ、と周囲がざわめく。気付かれぬように周囲を見回せば、いつの間にか先にパドックに出ていた選手や観客たちの視線がこちらに集まっていた。
これだ、とエアグルーヴは頭を抱えたい衝動を何とか耐える。この言動がなければ、これほどまでに苦手意識を持たずに済んだのだが。
去年のジャパンカップ以降、何故か彼女に執着されている。懐かれた、と表現するのは流石に不敬か。
気付いたのはファインの実家から贈られてきた、部屋を埋め尽くすほどの大量の荷物からだ。
そのうちのひとつに、彼女の名前が記された手紙が入っていた。開いてみればエアグルーヴに対する熱烈な想いが綴られており、さらには素人が見ても一級品だとわかるブローチが同封されていたのだ。アイルランドのシンボルでもある、三つ葉のクローバーを象ったものが。
その時の自身の心情を表す言葉を、エアグルーヴは未だに見つけられていない。開封を手伝っていたファインが「グルーヴさんのあんな困った顔、はじめて見ちゃった」と感想を述べていたから、少なくとも相当な困惑顔だったのだろう。
もちろんブローチは丁重な断りの文と共にファイン経由で返送してもらった。しかしそれ以来、何かにつけてエアグルーヴに贈り物が届けられている。ファインの家族からではなく、ポリッシュミニスター個人として。
「ここで出会った時からずっと、君を忘れたことはないよ。おかげで引退宣言まで撤回したほどだ」
父上とは散々口論になったよ、と肩を竦める彼女に、エアグルーヴはどんな表情を浮かべていいものか迷った。
彼女は昨年のジャパンカップを最後に、レースを引退するつもりだったそうだ。そしてその後は国王の補佐に回り、王族としての務めを学んでゆく予定であったと。
だが、彼女の話が真実であるならば、その予定を崩してしまったのはエアグルーヴということになる。おそらく笑い話なのだろうが、こちらとしては反応に困る。
「そういえば、伝言は受け取ってくれたかな? グルーヴの邪魔をするのは本意ではなかったのだが……会えないなら、せめて言付けだけでもと思ってね」
ふと思い出したように彼女が尋ねた。エアグルーヴは内心でぎくりとしつつも、何とか平静を取り繕う。話題が変わったことはありがたかったが、変更先もあまりいいとは言えない。
「はい、ファインから伺いました。……折角ですが、やはり今はまとまった休暇を取ることが難しく……」
予め決めておいた返答を口にすれば、ポリッシュミニスターは「そうか」と残念そうに眉を下げた。
「いつか君には、我が祖国を見せたいと思っているのだが……それはまだまだ先のようだね」
「申し訳ありません……」
「いや、気に病まないでくれたまえ。君の多忙さは、いつもファインから聞いているからね」
謝罪をすれば、苦笑と共にそんな言葉が返ってきた。
「それに『強引に連れて行くのは許しません!』と、よくよく言い含められているんだ。可愛い妹に怒られるのは、中々に堪える」
言いながら、彼女はやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。エアグルーヴはきょとんと目をしばたかせ、それから微かに笑みを浮かべる。
まさかファインが、姉相手にそんなことを言っていたとは。あのおっとりとした彼女が激しく怒る姿はあまり想像できないが、ルームメイトの心遣いが素直に嬉しかった。
「こ、こら君! 止まりなさいっ!」
ふいにパドックの奥から慌てふためいた声が聞こえた。どうしたのかと怪訝に思ったその時、流暢且つ意味不明な台詞が出入り口付近から聞こえてきた。
「毎度ご利用くださいましてありがとうございます。葦毛ゴルシの宅急便、ただいま要人を護送中でございます。くれぐれも耳や尻尾などをお触りにならないようご注意ください。触れた場合は足でガトリングをぶちかまします」
否が応にも聞き慣れてしまったその口調に、一瞬で事態を把握できてしまった。エアグルーヴは今度こそ耐え切れずに片手で頭を抱えた。ポリッシュミニスターは不思議そうな顔をして、赤い垂れ幕の向こうを見つめている。
「ゴールドシップ、流石に蹴りはやめた方がいい。君に蹴られたら、人間ではひととたまりもないよ」
しかし、さらに聞こえてきた声音に驚いて顔を上げる。聞き間違うはずがない。というか何をしているのだ。
垂れ幕の隙間から、予想通りのウマ娘が姿を現した。ひとりは先程名を呼ばれたゴールドシップ。
そして彼女に何故か片腕で抱えられた、シンボリルドルフだった。
「大丈夫、大丈夫。トレーナーにかます程度に加減すっから」
「いや、君のトレーナーもなかなかに頑丈な部類に入る。それに君の出走が取り消しになってしまうのは私としても──」
「ま、待ちなさい! 君たちの出番はまだ先だ!」
「まーまーいいじゃねえか。どうせゲートで仲良く横ならえになるんだからよ。気にすんな」
「何を言っているんだ! それに彼女のことも離しなさ……うわあぁぁ⁉」
「おい、何をしているんだ貴様は!」
本当にスタッフに後ろ蹴りを飛ばしたゴールドシップに、エアグルーヴは眉尻を吊り上げて叱咤した。本番前に何をしているのだ。しかもルドルフを抱えたまま。というか本当に何故彼女は抱えられているのか。
幸いスタッフに蹴りは当たらなかったようだ。いや、わざと外したのだろうか。ルドルフをその場に下ろし、尻餅をついたスタッフの前で仁王立ちしながらゴールドシップは口を開く。
「ギャーギャーギャーギャーやかましいんだよ。発──」
「ゴルシぃーーーーっ‼」
今度は何だ。頭が痛くなりそうな事態に、とりあえず状況を把握せねばと半ば義務感で視線を巡らせる。
「ぁあ? ……おいおいトレーナー、ヒトがセリフ言ってるときはかぶせてくんなって、ガキんときに覚えなかったのかよ? 毎週日曜日の朝に悪役の皆さまがカラダ張ってお手本見せてるっつーのによぉ……今からでも遅くねえ、見直してこい。録画したやつ貸してやっから」
「お前やめろお前、ここはジャン〇じゃねーんだよ」
「ジャ〇プが売ってんならここはジャン〇だろ」
「おい軽率にそんなこと言うな。サ〇デーとマ〇ジンが黙っちゃいないぞ」
「オマエこそヤベーこと言うなよな。んなことになったら毎日殺人事件が起きてビルは爆発するわ、超大型巨人が現れて壁破壊しにくるわでしっちゃかめっちゃになっちまうだろ。まっ、アタシは何があっても生き残るけどな」
よくわからない押し問答が目の前で繰り広げられている。やめろ観客も唖然としているだろうが。会長もいい加減止めてください何を楽しそうに聞いているのですか。
ちらりとポリッシュミニスターの様子を窺えば、彼女はぽかんと口を開いて立ち尽くしていた。彼女の周りにはいつの間にか、スーツ姿のウマ娘が数人ほど立ちはだかっている。
おそらく護衛だろう。良い判断だ。非常にいたたまれないが。
「じゃあもうジャン〇でいいから。けどそのネタ外国人には通じないだろ。ノリもツッコミも返ってこないぞ」
一体何を見せられているのだろう。そう思いはじめたところで、ゴールドシップがようやくその滑らかすぎる口を詰まらせた。
「はっ! そう、か……そういやそうだ……トレーナー、オマエはアタシにそれを気付かせたくて、あえての禁じ手を……」
「ああ……俺はお前のトレーナーだからな……」
「トレーナー……! クソっ、せめて会長かエアグルーヴが銀〇を知ってりゃあ……!」
「おい勝手に巻き込むな」
「すまないな……流行りものにはあまり馴染みがないもので……」
「会長も謝る必要はありません!」
「今ですスタッフさーん! ゲートまで連行しちゃってくださーい!」
「了解です!」
「あっ、オメーなに一瞬で手のひらタコ焼きみてーにひっくり返してんだ! あー待った待ったもう少し喋らせろぉぉ!」

『じ、順番がやや変動しました。14番ゴールドシップ。そして15番シンボリルドルフ。えー、ゴールドシップは非常に元気な姿を見せてくれましたね……』
『はは……相変わらず個性的なウマ娘ですねえ。今日は一体、どんなレースを見せてくれるのでしょうか?』

アナウンスの声も当惑しきりだ。早速やらかしてくれたと、エアグルーヴは盛大なため息を吐いた。
「会長ー! 今度銀〇全巻に持っていくからよ! 読んでくれよな!」
「あ──」
「会長! ゴールドシップ、勝手に私物を持ち込んでくるな! 生徒会室に持ってきたら即刻没収するからな!」
ルドルフが了承するのをすかさず制して怒鳴れば、数人のウマ娘スタッフに引きずられたままゴールドシップが「職権乱用だぁー!」と文句と飛ばしてきた。何を言う正当な権利行使だ。
「まったくあいつは……!」
「まあまあ、ゴールドシップも悪気があって言っているわけではないから……」
「あれで悪気があったら最悪です。会長も何をされるがまま抱えられていたのですか! 調子に乗ったら本当に手が付けられなくなるのですよ!」
「いや、それは……」
何かを言いかけ、ルドルフが決まりが悪そうに目を逸らす。君が、と小さく口が動いた気がしたが、そのあとに続く言葉がなかったために確かめようがなかった。
「会長……ああ、君が"皇帝"か」
背後から聞こえてきた声に、エアグルーヴははっとして振り返る。しまった、今自分たちが立っているのはパドックの壇上だった。
知らぬ間に自身もゴールドシップのペースに呑まれていたことを猛省しながら、護衛を下がらせたポリッシュミニスターがルドルフに近付いていくのを目で追った。あのような事態が目の前で起きていながら、取り乱しもせずすぐに平常心に戻ったあたりは、流石は王族といったところだろうか。
「はじめまして、ポリッシュミニスターだ。妹のファインモーションが世話になっている」
「お初にお目にかかります、殿下。シンボリルドルフです。こちらこそ我々を信頼し、現在まで妹君を預からせていただいていること、至極恐悦の至りです」
互いに笑みを浮かべて握手を交わす彼女らを、観客らは興奮を抑えきれないような様子で見守っている。当然だろう。中央レースの頂点に君臨する皇帝と、海の向こう数々のトロフィーを携えてやってきたアイルランドの王女。肩書きといい戦歴といい、彼女らの走りに期待しない者などいないなずだ。
だが、とエアグルーヴは拳をさらに強く握りしめる。自分もそのうちの一人ではあるが、二人ばかりに注目がいくのはあまり面白くない。
「そういえば、グルーヴは生徒会で副会長を務めているんだったね。ということは、彼女は君の従者ということか」
「従者……?」
しかしルドルフが怪訝そうに眉を潜めたことに気付き、一瞬で思考がそちらにいった。瞬く間に先の展開が脳内で組み上がり、エアグルーヴはさっと顔色を変える。
会長、と呼び掛けるより早く、ポリッシュミニスターが口を開く。
「なら、君からも頼んでくれないかな? アイルランドに遊びにおいでと何度も誘っているんだが、生徒会が忙しいからとなかなか首を縦に振ってくれなくてね」
「殿下、それは……」
「殿下のお望みとあれば……と申し上げたいところですが、それはお断りさせていただきます」
ぴり、と剣呑な気配が肌を刺す。それがルドルフから発せられているものだとすぐにわかった。
「エアグルーヴは、私の従者でも部下でもありません。もちろん役職上はそうですが、あくまでも我々は対等です。そして私個人としても、エアグルーヴを必要としております」
彼女は微笑みを湛えたまま滔々と語る。穏やかにも思える口調に、しかし口を挟む余地がない。ポリッシュミニスターに視線を向ければ、彼女は目を見開いてルドルフを見つめていた。
皇帝の覇気に当てられたのだろう。いつの間にか護衛の者も、王女の傍で身構えていた。
「言うなれば彼女は、我が右腕……寸歩不離(すんぽふり)、私にとって欠かすことのできない、大切な存在でもあるのです」
そして、とルドルフは瞳を細め、一歩踏み出してエアグルーヴの前に出た。紅梅色が一瞬だけ赤くきらめいたように見えたのは、おそらく気のせいではない。
「彼女は私の相手だ。それを譲る気はありません」
固唾を呑んで見守っていたスタンドが、一拍を置いて津波のように大きくどよめいた。
エアグルーヴは再び額に手を当てて俯いた。誤解されたうえにその誤解がさらなる誤解を呼んだ。だから止めようとしたのだが。
勝手に盛り上がる観客がいっそ憎らしい。それを理解していながら頬に熱がのぼる自分も大概であるが。
「ご希望に沿えず、誠に申し訳ございません。……それでは、今日はお互いに良いレースをしましょう。行こう、エアグルーヴ」
「……はい」
ルドルフに促され、エアグルーヴは幸いとばかりに踵を返す。先に行くことは気が咎めたが、こんな顔を見られては余計にややこしくなることは目に見えていた。流石にそれだけでも避けたかった。
呆然としているポリッシュミニスターを残し、エアグルーヴたちはパドックを後にした。

地下バ道を中間地点まで歩いたところで、やっと鼓動が落ち着いた。会長、と声を掛ければ、半歩前を進む彼女は毛長の耳をぴっとこちらに向けた。
「誤解を生むような発言はよしてください」
「誤解ではないよ。全て私の本心だ」
そういう意味ではないのだが。やはりあの盛り上がりの意味に気付いてなかったらしいルドルフに、知らずため息がこぼれる。本当に、ひとの気も知らずに。
「それとも……いや……」
何でもない、と彼女は目を逸らす。その様子に、エアグルーヴは目をしばたかせる。
次いでこぼれたのは、嘆息混じりの苦笑いだった。何と言いたかったのか、今度はその続きを察せられたのだ。
先程の態度と王女に対する誤解を解こうと思っていたが、後回しにすることにした。レース後に話したとしても、そう変わりはないだろう。
「……心配しなくとも、私はあなたしか見えていませんよ」
代わりに呟いたのは、伝わらないことを前提とした本音だった。
彼女は驚いたように振り向き、ぱちぱちと忙しなく瞼を上下させた。どこか幼く見える仕草を見つめていると、丸くなっていた瞳がふっと細められる。
先程の鋭い目つきではなく、ただただ柔らかい、エアグルーヴが好ましく思う笑みを浮かべて。
「そうか……。ならば君の望み通り、皇帝の走りを示してみせよう」
案の定、ルドルフには伝わらない。安堵と不満を訴えてくる心を宥めすかして、エアグルーヴも微笑み返す。
ふと、ルドルフは赤いマントを翻してエアグルーヴに向き直る。彼女は一度瞑目し、それからゆっくりと瞼を開いた。
「君を信じるよ。"女帝"エアグルーヴ」
光量が弱い地下バ道のなかで、一対のマゼンダがうっすらと輝く。それを正面から受け止めて、エアグルーヴは弧を描いたままの唇を開いた。
「私もです。"皇帝"ともあろうものが、腑抜けた走りをしたら承知しませんよ」
背を押すように強い口調で言い放てば、彼女は「容赦ないな」とこぼし、それでも嬉しそうに笑みを深めたのだった。


『世界のウマ娘が栄光を求め、ジャパンカップの府中に集う! 日本勢は対抗できるのか!』

ウマ娘の走りは、心を映す鏡のようだ。
以前フジキセキが語っていた言葉が、ふいに頭をよぎる。
ならば今日の自分は、どのように映るのだろう。スターティングゲートのなかで、エアグルーヴは目を閉じたまま胸に手を当てて思う。
勝利を求める競争者か、玉座を狙う挑戦者のひとりか、それとも。
(……関係ない。ただ私は、私の走りを示すだけだ)
私はここにいる。女帝はここに在るのだと。
ざわめきが徐々に静まっていく。それに呼応するように、両隣の気配もぴんと張り詰めた。
出走直前の緊迫感を味わいながら、エアグルーヴは顔を上げる。

『ゲートイン完了。出走の準備が整いました』

軽く拳を握り、構える。降りる静寂に、自身の呼吸と心音だけが耳朶に響く。
沈黙のなか、涼やかな風が頬を撫でた次の瞬間、鈍い金属音を立てて目の前がひらけた。エアグルーヴは地を蹴り勢いよく飛び出した。

『スタートです! 各ウマ娘、スタンドの歓声を背に一斉にスタートを切りました』
『ゴールドシップがやや出遅れましたね。まあこれもいつも通りということでしょう』

ルドルフへの想いを自覚した時、それを彼女自身に知られてしまうことに怯え、エアグルーヴは逃げた。
この感情を隠したかった。いっそのこと消してしまいたかった。
いらない。必要ない。あってはならない。
こんなものは弊害でしかないと、そう思っていたから。
だが、今は違う。
そうではないのだと、母に、そしてトレーナーに、気付かされた。

『第一コーナーカーブ、エアグルーヴが外に付けて4番手。1番人気シンボリルドルフは中団外、内にポリッシュミニスターが付きます』
『どうやらエアグルーヴは先行策のようですね。シンボリルドルフは差し、ゴールドシップは追い込みで様子を窺っています』

胸の奥底には、今も様々な情動が波打っている。高揚。緊張。闘争心。尊敬。渇望。
レースへの想い。ルドルフへの想い。それらが内側でせめぎ混ざり合い、前へと躍進する力を漲らせる。
勝ちたい。負けてなるものか。女帝の走りをここに示すのだ。
そして追ってこい。自分を理由に負けるなど許さない。全霊を賭けた本気の勝負を、私と。

『1000m通過! シンボリルドルフは相変わらず8番手、中団の外につけています』
『好い位置取りですね。視野も広く取れているようです』
『9番手に内からポリッシュミニスター、並んでの追走! 最後方は相変わらずゴールドシップだ!』

止めどなく湧いててくる思いの丈は、確かに走る際に垣間見えるのだろう。好敵手がいれば相手を意識した走りに、目的があれば粛々とこなすその姿勢に。
ウマ娘が放つ闘気が、勝つための執念が、走ることが楽しくてたまらないのだという歓喜が。
だからこそターフに憧れる者が、レースに惹き込まれる者が後を絶たないのだろう。ただ速い。それだけでは、きっとこれほどの規模にはならなかった。

『向こう正面に入りました。エアグルーヴ、4番手を維持しています! それをマークするように13番と2番が追走!』
『ゴールドシップは未だ後方にいますね。ここからどう動くのでしょうか』

しかし垣間見えるそれらは、ほんの一部が表層に浮かぶだけにすぎないのだ。
だってそうだろう。今まさに昂ぶり波打っているこれらを、余すことなくつまびらかにするには、たった数分の刹那では到底足りない。
いくつもの感情が複雑に絡み合い、形を成して生まれる想い。そのような代物、本人にしかわかりえないはずだ。
……いいや、ともすれば本人にすら全てを理解しきれていないのかもしれない。それが心というものなのだろう。
そう、エアグルーヴは身をもって知った。

『シンボリルドルフが、ようやく外を回りまして5番手に上がってまいりました! まもなく第四コーナーカーブに入ります』

がっと蹄鉄を突き刺すような勢いで芝生を踏みしめる。前傾姿勢に切り替え、脚を勢いよく蹴り上げた。

『おおっと! エアグルーヴ、残り400mのところで一気に先頭に代わろうという勢いで加速した! 凄まじい末脚です! それに続くように13番とポリッシュミニスターも突っ込んでくる!』

瞬きの間に息が上がっていく。それでも脚は意のままに強く駆け続けられた。
来い、とエアグルーヴは強く念じた。
(来い、シンボリルドルフ……!)
ここだ。ここにいる。追ってこい。はやく。
敬愛するあなたがここで折れるわけがない。そんなあなたであるからこそ、右腕であることを誇りに思うのだ。
しかし同時に羨望の念を抱き、己との差を目の当たりにして歯噛みすることも幾度となくあった。時にはその深い思考、手腕の高さに圧倒され、いっそ全てを委ねて縋りたくもなったこともある。
けれどその度に、怒りにも似た奮起もまた、引き出されてきたのだ。だというのに。
──こんなにも与えて、見せつけておきながら、今さら恐ろしいなどと言わせるものか。
「──追って来い、私を!」
その瞬間、どっと重い足音が、己の鼓動と重なるようにして地に響いた。

『シンボリルドルフ! シンボリルドルフが来た! 外から凄まじい勢いで先頭勢へと駆けあがっていくっ!』

周囲を呑み込まんばかりの威圧感が、びりびりと肌を叩く。彼女の気迫を全身で感じながら、エアグルーヴは歯を食いしばって走った。
──『君を信じるよ。"女帝"エアグルーヴ』
レース前に囁いたルドルフの台詞を、エアグルーヴは思い返す。
彼女の声音は確かに信じたいと願っていた。彼女の瞳は、それでも不安に揺らめいていた。
そして、今。ルドルフの脚は、その怯えを表すかのように踏み出すことを躊躇っている。
エアグルーヴには、それがはっきりと伝わってきた。
「己惚れるな……」
知らず、エアグルーヴは腹立ちまぎれに言葉を落とす。
その信頼に応えずして何が右腕か。その不安を打ち払えずして何が太陽か。
「私は、──女帝だっ!」
心が吼えるままに檄を飛ばし、その勢いにのってラストスパートをかけた。

『シンボリルドルフが先頭のエアグルーヴに並ぶ! 並んだ! 残り200mで皇帝と女帝の熾烈なデッドヒートが繰り広げられるっ!』

直後、強い風圧と熱の塊がエアグルーヴの真横に迫る。
重い。凄まじい威圧感だ。気を抜けば身が竦みそうになるほどに。
だがそれで失態を犯すほど、こちらも伊達に場数は踏んでいない。
エアグルーヴは奥歯を強く噛んで、一歩でも前に出るべく全力で駆けた。ここまでくれば戦略も何もない。必要なのは勝ちたいという執念だけだ。
ルドルフも差を開くことなく追走してくる。たなびく鹿毛が視界の端に映る。彼女の駆ける音が、息遣いが、すぐ傍らに。
会長。シンボリルドルフ。
私はあなたの幸福を誰よりも願っている。
あなたの瞳にこの姿がいっとう焼き付けばと望んでいる。
あなたに触れ、また触れられたいと渇望している。
誰よりも近く、誰よりもそばで、そして誰よりも長く、あなたの隣に立っていたい。
それほどまでに、どうしようもなく。
──私は、あなたの全てに恋焦がれている。
それゆえに。だからこそ。
エアグルーヴはルドルフの横顔を見る。同時にルドルフの瞳が動く。
かちりと目が合う。二人ともスパートをかけて疾走している。にもかかわらず、いとも簡単に互いの視線が絡み合った。
──信じている。
問うように紅梅がきらめく。
──侮るのもいい加減にしろ。
薄青を鋭く眇めてそれに応えた。
ルドルフがふと目元を緩ませ、瞼を閉じた。
刹那のそれは、けれど噛みしめるような仕草で。
「……ああ、その通りだな」
吐息のような声音が、不思議なほど明瞭に届いた。──そう思った直後。
吹きすさぶような秋の嵐が、エアグルーヴの横を一瞬にして通り過ぎていった。


『シンボリルドルフが先頭だー! シンボリルドルフ、堂々と駆け抜けてゴールイン! 海外勢を打ち破り、日本が誇る皇帝と女帝がワンツーフィニッシュですっ‼』

ワァァァ────ッ‼ 

空気が震えるほどの大歓声を浴びながら、エアグルーヴは肩で息をしながら手を膝についた。
「はっ、はっ……っ!」
息がなかなか戻らない。過呼吸にならぬよう、意識して深く呼吸をする。
(全力を出し切って、なお、これか……)
結果を見れば僅差であったが、それでも歴然とした力の差を見せつけられた。まだ余力はあるだろうと思っていたが、あれほどとは。
「エアグルーヴ……」
頭上に影が差し、芝生の上に黒いメリージェーンが映る。土埃と細い草にまみれた靴は此度の勝者のもので、しかしその声音はそうは思えないほど恐々としていた。
呼吸を整えたエアグルーヴは、静かに息を吸う。
「……本音を言えば、腸が煮えくり返るほど、悔しく思っております」
微かに息を呑む音が聞こえた。ですが、と顔を上げ、何がしかを答えられる前に口を開いた。
「それと同じくらい、楽しかったです。とても」
乗り越えようとした壁は高く、頂点には届かず、己の未熟さを痛感した。
勝てなかった。完敗だ。実力の差につくづく腹が立つ。
しかし同時に、痛快なほどに楽しかった。それこそ心から。
全てをぶつけられた。ミスもなく、怪我もせず、万全の状態で。
腹の底から燃えるような悔しさはある。だが、後悔のないレースだった。それゆえに気分自体は清々しい。
それに、だ。自分の限界はここではないと確信もできた。まだまだ先はあるのだ、と。
だからエアグルーヴは、それを自らの脚で示してくれたルドルフを、真っ向から見据えた。
「次に冠を戴くのは私だ。首を洗って待っていろ、シンボリルドルフ」
宣戦布告をしながら手を差し出し、エアグルーヴは艶然と微笑んだ。ルドルフはぽかんと口を開いて、エアグルーヴの顔を手を繰り返し見つめる。
そしてようやくこちらの意志を理解したらしい彼女は、見開いていた瞳を眩いほどに輝かせた。あまりにも喜色満面のその笑顔に、今度はこちらの方が呆気に取られる。
「エアグルーヴ!」
形のいい唇が至極嬉しそうに名を紡ぐ。ルドルフはエアグルーヴの手を掴み、そのままぐいと腕を引いた。
エアグルーヴは思わず短い悲鳴を上げる。そして反射で瞑った目を開いたときには、ルドルフの腕の中に収まっていた。
「か、会長……⁉」
「ああ、もちろんだ。また競おう。君と私で、何度も、何度でも」
大きく盛り上がる歓声に紛れて、喜びに溢れた声音が耳朶を震わせる。こそばゆさに肩を竦めると、背に回された腕の力がいっそう強くなった。
さらりと柔らかな鹿毛が頬に触れ、先ほどの比ではないほどに顔に熱が集まるのを感じた。心臓の音が煩い。頼むから伝わってくれるな。
「今だ会長ぉー! チューしろチュー!」
「はぁっ⁉」
「ゴールドシップ?」
何とか誤魔化さなければと狼狽えているさなかに、更にとんでもない発言を投げ込まれた。愉快さを隠すこともなくにやにやと笑っているゴールドシップを、エアグルーヴはルドルフの肩越しにぎっと睨みつけた。
「ゴールドシップ、貴様何を──!」
「ギュッとしたならチューだろ。言わずと知れたうまぴょい伝説の歌詞を、まさか忘れたとは言わせねえぜ? ギャラリーのヤツらも覚えてるよなァ⁉ 今日の勝利の女神は~?」
『あたしだけにチュゥするー‼』
示し合わせたかのような大合唱がレース場に響く。何なんだその連帯感は。
ふざけるのも大概にしろと、もう一度怒鳴り返そうとした、その時。
頬に何かが触れ、柔らかな感触を残して離れた。それまで騒がしかったスタンドが一気に静まり返る。
「これでいいのかな?」
目の前で、ルドルフがはにかんだ笑みを見せた。ふうわりと朱に染まるその頬に、何が起きたのかを全て察した。
「な、なっ、何を──!」
ルドルフ以上に顔を真っ赤にしたエアグルーヴの抗議の声はしかし、周囲の絶叫じみた歓声によってかき消されてしまったのだった。


「そこの君、少しいいかな?」
頭から湯気が出して慌てふためくエアグルーヴを腹を抱えて眺めていたゴールドシップは、後ろから掛けられた声にあ? と首を巡らせる。
振り返れば、見るからに高貴そうな勝負服を身に着けた、鹿毛のウマ娘がそこにいた。
「おお、ファインのねーちゃんか。さっきはいい走りっぷりだったぜ! 3着おめでとさん!」
「ありがとう。君は……」
「おーよ、堂々の15着。いやな、直前まではやる気マンマン勇気りんりんの元気百倍だったんだよ。けどゲート入るときに尻尾引っ張られてよー。それで一気に萎えたわ」
「なるほど……それは災難だったね」
肩を竦めながら話せば、ポリッシュミニスターは苦笑いをこぼした。すぐ後ろに控えているSPらしきウマ娘が眦を吊り上げてこっちを睨んでいる。自分と関わってほしくないが、この王女様に止められている、といったところか。
そう嫌な顔をされるとからみたくなっちまうんだよなぁ。ゴールドシップはついにやりと片頬を吊り上げる。それだけでSPの警戒心がびしびしと伝わってきた。
「その……つかぬことを聞くが、グルーヴと皇帝は、もしやそういった関係なのかい?」
「んー? そういった関係がどういった関係なのかわかんねえけど、見ての通りじゃねえ?」
アンタの想像とは多分違うけどな、と最後の台詞は喉の奥に引っ込める。理由はもちろん『その方が面白いから』だ。
「そうか……だからあの時、断りの手紙を……これは知らぬうちに、大変失礼なことをしてしまったようだ」
案の定誤解した彼女は、困ったように微笑する。よっしゃと心の中で拳を握りながら、それをおくびにも出さずに愛想よく笑った。
「大丈夫だって。事情は知らねえけど、会長はちょっとやそっとのことじゃ怒らねえからよ」
「……グルーヴも、また私と走ってくれるだろうか?」
「おうよ! そこは医薬品医療機器等法を遵守して販売された薬並みに保証するぜ。なんたってこのアタシを毎度追い回してんだからな!」
まだ見ぬ明日に期待を膨らませながら、ゴールドシップはポリッシュミニスターの相談に景気よく乗ったのだった。


轟くような大歓声を背に、三人のトレーナーはウイナーズ・サークル内に佇んでいた。普段はここで待機しているはずのマスコミは、興奮しきった様子で前に出てひっきりになしにシャッターを切っている。
これが全部黄色い悲鳴か。ルドルフのトレーナーは遠い目をしながら、自分の担当の影響力を改めて思い知る。盛り上がり方が異常すぎて怖い。
しかし、何より怖いのは。そう思ったところで、肩をぽんと叩かれた。
「……先輩、帰りにちょっと面ァ貸してくださいます?」
「イヤですとんだとばっちりです……」
「何言ってんだばっちり連帯責任でしょうが」
やっぱり。結局怖すぎて顔は上げられず、後輩からのお伺いという名の強制連行に肩を震わせた。
「でも今回はゴールドシップじゃん……発破かけたのはゴールドシップじゃん……!」
「い、いや~大変申し訳ない。ほら、ね? ああいうヤツなんですようちのゴルシは……」
「うっさいどっちも強制連行だよ。今のうちに覚悟決めといてください」
「えぇぇ俺もっすか⁈」
「寧ろこの状況で含めないと思う??」
頭の上を鋭いメンチ切りが通り抜けた気がした。これ絶対朝までコースだなぁ、とルドルフの担当は心の中で泣いた。本当に泣きたいが今は仕事中だ。あと今自分が泣いたら絶対にあらぬ誤解が重なる。
「せめて弁護させてほしいんだけど……ポリッシュミニスターのこと、貴方経由で聞いた話をそのまま伝えたから、ルドルフもあれだけ警戒したんだと思うよ。思ってたより全然普通の子だったから私もびっくりしたんだけど」
そもそもポリッシュミニスターの噂自体、エアグルーヴのトレーナーから全て聞いたのだ。エアグルーヴにしつこく言い寄ってくるからどうすればいいのか、と相談されたこともある。だから権力に胡坐をかいて何でも手に入れようとする箱入り女王様的なイメージを持っていたのだ。
しかし実際に目にした彼女は、想像とは随分違っていた。確かに世間知らずではありそうであったが、妹のファインモーションを彷彿とさせるような人好きのする笑顔と温和さを持ったウマ娘であったのだ。余りのギャップに脳が混乱したほどだ。
「どこがですか。充分要注意人物ですよ。隙あらば自分の国に連れて行こうとしてるんですから」
「ほらぁ偏向報道」
「自覚なしってこえー……」
「え、明日の夜も空いてますって?」
「すみませんでした」
流石にそれは勘弁してほしいのでゴールドシップの担当と揃って謝罪する。というか無理だ。死ぬ。もう徹夜ができる身体じゃないのだ。
しかし、これで今日の夜通しは確定してしまった。覚悟はしていたけれど、避けられるなら避けたかった。
まあ仕方ないか、とため息をつく。今日までの彼女の苦労を思えば、酒を片手に愚痴のひとつやふたつこぼしたくなる気持ちもわからなくはない。
気持ちを切り替えて顔を上げる。ひとまず嘆くのも後輩を宥めるのも自分の身を心配するのも後回しだ。
「とりあえず、事態の悪化を防ぎますか」
「はぁー……そうですね。じゃあプラン通りに」
「え、マジでやるんですか、アレ?」
「もちろん」
軽く腕を伸ばしながら、困惑を露わにしているゴールドシップのトレーナーに頷く。彼も経験しておいて損はないはずだ。本人も言っていたが、なんたって担当ウマ娘があの破天荒な不沈艦なのだから。
「ほら、よく言うじゃない。目には目を、歯には歯を。……メディアが群がるような特ダネは、さらなる特ダネでもみ消せってね」
笑顔でそう言ってのければ、後輩二人にどん引き顔で凝視されたのだった。人を見る目じゃなかった。


◆  ◆  ◆


板書の音と教師の声が淡々と聞こえる教室に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。それだけで教室の空気がふっと弛緩する。
「それでは、今日はこの辺で。来週は小テストがありますから、各自復習をしておくように」
教師が手短な一言と添えて座学が終わる。日直の掛け声で起立と礼を済ませ、教師が去ったと同時にエアグルーヴはスクールバッグを引っ掴んで廊下を飛び出した。
生徒がまばらな数十秒が勝負だ。息を詰め、出来得る限りの速度で走る。目指すはもちろん生徒会室だ。
スズカとタイキには、昼食は一緒にとれないと既に言ってある。事情を知っている二人は快く了承してくれた。
階段を駆け上がり三階へ。教室から出てきた上級生が色めき立った様子でエアグルーヴを見た。声を掛けられるより早く、エアグルーヴは生徒会の扉に手をかけ素早く身を滑り込ませた。
「ああ、やはり君も来たか」
捕まらずに済んだとほっと息をついていたところに、前方から声がかかった。顔を上げれば、同じ学園印のバッグを肩に下げたままのルドルフが、ソファの近くで佇んでいた。
「会長も逃げてきたのですか?」
「うん、まあ……そうとも言うな」
尋ねれば、ルドルフはきまりが悪そうに首を傾げた。互いに何とも言い難い表情を見せたまま、奇妙な沈黙が降りる。
やがてどちらともなく吹き出し、生徒会室に二人分の軽やかな笑声がささやかに響いた。

とりあえず昼食をとろうか。ルドルフのその言葉を合図に、互いに笑いをおさめてソファへと移動した。バッグをソファに置いて、エアグルーヴはいつものように給湯室に向かう。元々応接室も兼ねて造られたのか、生徒会室には来客に対応できるような簡易設備が備わっているのだ。
電気ケトルで湯を沸かし、緑茶のティーバッグを入れたカップに注ぐ。もちろん来客用のお茶ではない。生徒会役員が各々持ち寄っているもののひとつだ。
トレーに乗せて運んでいくと、ルドルフは既に弁当箱を広げて待っていた。向かいに置かれた小さなケースに目を向ければ、「よかったら食べてくれ」と言い添えられる。
どうやらエアグルーヴが来ると予測して、余分に作ってきてくれたらしい。ありがたくいただくことにして、向かいに座って弁当箱を取り出した。
「それにしても、予想以上の反響だな。まさかここまでとは……」
「会長はご自身の影響力をきちんと把握してください」
「いや、相手が君であったから、殊更に盛り上がったのだろう。自分の能力はそれなりに自負しているよ」
どうだか、とエアグルーヴは半眼になる。確かに彼女の政治的手腕は圧倒的だ。現状の問題を分析し、そのうえで己がすべき役目を理解して非常に上手く立ち回る。
が、こと色恋事に関しては怪しいものだ。実際こうなっているのは、彼女の疎さが原因ではないかと思わずにはいられない。最大の元凶はゴールドシップであるが。

『勝利の女神にチュゥを! ジャパンカップは挨拶も海外式!』
レースの翌日、報道記事はそのような見出しで溢れ返っていた。何故このような記事になったかというと、あのあとエアグルーヴらのトレーナーが一策を講じたのだ。
『ルドルフ―! 私にもちゅーしてー!』
まず初めにルドルフの担当がふざけた発言をしながら渦中に割って入ってきた。ついでに応援にきていたらしいテイオーも『ボクも! カイチョーボクもーっ!』とウイナーズ・サークルに飛び込んできた。
そして突然の乱入者に周囲がざわめいている間に、彼女が笑顔のまま『話題転換をはかります』と小声で呟いたのだ。その一言で意図を察した二人は、瞬時に"皇帝"と"女帝"の顔に戻った。
そこから先はとんとん拍子の展開だった。
『そうするのは吝かではないが……生憎と女神が口付ける相手はひとりだけ、ということになっているようでね。すまないな、二人とも』
『あら、女神ができないなら、私たちから贈ればいいんじゃないの?』
そう楽しげに話に乗ってきたのは、つい先ほどまで互いにしのぎを削った海外の選手らであった。自分たちに注目が集まっているうちに、エアグルーヴのトレーナーとゴールドシップのトレーナーが声を掛けて回ったらしい。
つまりはジャパンカップという国際交流大会を利用し、外国式の挨拶に則る流れに持っていたのだ。
その結果、ルドルフを囲んでの集合写真が撮られ、目論見通りに全ての記事があのような形になったわけである。

「取材陣がそちらの話題に飛びついてくれたおかげで、世間ではそれほど騒がれずに済んだが……」
「ええ……寧ろこちらの方が大変です」
昼食を食べ進めながら、二人して苦笑まじりのため息を落とす。
上書きは成功した。だが、トレセン学園においては、そうはならなかったのだ。
この学園に通う生徒たちは皆、頂点を目指して入学してきた競技者とその雛鳥たちだ。いつかレースで栄光を掴むため、日々鍛錬を積む彼女たちにとって、GⅠレースは未来の舞台でもある。
日本の代表と世界の猛者たちが集うジャパンカップとなればなおさら、観戦しない者の方が少なかったのだろう。
であれば当然、ルドルフがエアグルーヴの頬に口付けた場面も、多くの生徒が目撃していたということになる。
結果がこれだ。トレーナー室に逃げ込んでもよかったが、距離的に生徒会室に分配が上がった。
これでも限界まで耐えた方だ。ここ数日、エアグルーヴは登校した途端に囲まれ、カフェテリアで囲まれ、更にはトレーニング後にも囲まれるという事態に陥っていた。衆目を集めることには慣れているが、丸一日ずっと、しかも連日というのはなかなかに堪えるものがあった。
「数日で収まるだろうとは思っておりますが……記者陣から受ける注目とは違うので、どうも流しづらくて」
真意を問われるのならばまだいい。挨拶の代わりに妙に輝いた眼差しで「おめでとうございます!」と言って、そのまま走り去っていくのはどうにかならないものか。せめて誤解を解かせてくれ。
「私は君ほど四六時中生徒に囲まれる、というほどではないのだが……マルゼンスキーやシービーらに、散々からかわれるものでね。先日の詫びも兼ねてブライアンを併走に誘っても、『風よけにするな』と一刀両断されてしまうし……」
ルドルフも同じような状況であるらしい。どことなく疲れた様子で語る姿に、思わずお疲れ様ですと返してしまった。その表情を見るに、マルゼンスキーとミスターシービーにも並走は断られたのだろう。二人の方はおそらく面白がってのことだろうが。
「まあ、平素通りにしていれば、いずれは皆も誤解だったと気付くはずだ。すまないが、もう少しの間辛抱してくれ」
苦労をかけるな、とルドルフは申し訳なさそうに耳と眉を下げた。彼女が作ったにんじんの煮物に箸を伸ばしていたエアグルーヴは、一旦手を止めてルドルフをじっと見つめる。
「……会長こそ、ご迷惑ではありませんか?」
「迷惑?」
「いえ、私とこのような噂になってしまったものですから」
「ああ、そういうことか」
不思議そうな顔をしていたルドルフは、それを聞いた途端に朗らかに笑った。
「別に構わないさ。相手が他ならぬ君であるのだから」
「……そうですか」
特に抵抗感はなし。嫌だと思っている節も見られない。
なるほど、芽吹いてなくとも、種はあるらしい。煮物を口に運びながら、エアグルーヴは内心でそうひとりごちる。
胸に咲いた花のことは、まだ告げるべきではないと判断した。今もそう思っている。まだだ。まだ早い、と。
しかし、だからといって何もせずに待っているつもりは微塵もなかった。
レースと同じだ。頂が高いと思うなら登ればいい。勝算が低いなら、上げたうえで挑めばいいのだ。
花を育てることとも似通っているかもしれない。幸いどちらも得意分野だ。
「会長」
「うん?」
声を掛ければ、ルドルフはすぐに顔を上げる。ぴっと耳をこちらに向け、弁当箱を置いて聞く姿勢をみせる。
優しい色を宿した双眸が自分を捉える。僅かに尻尾を揺らしながら、エアグルーヴは小さく首を傾けて口を開いた。
「食後にハーブティーを淹れようと思うのですが、会長も如何ですか?」
種があるならば、まずは苗床作りからはじめよう。土を耕し、肥料を加え、水をやり、枯れぬように手間暇をかけて。
「ああ、是非ともいただきたい。君の淹れてくれるお茶は、本当に美味しいからね。その代わりと言ってはなんだが、洗い物は任せてくれ」
「ありがとうございます。そのお言葉に甘えさせていただきます」
「ふふ、食後の楽しみが増えたな」
ぱっと華やいだ笑顔を見せるルドルフに、エアグルーヴは柔らかく微笑んだ。どうか刻まれるようにと密かに願い、美しく、鮮やかに。
まだ伝えはしない。けれどありったけを注ぐのだ。親愛を、情熱を、愛情を、幸福を、その心に。
芽吹くように、枯らさぬように。何度も、何度でも。
そうして咲かせてみせよう。己が内で咲き誇るものと同じ花を、彼女にも。

いつか叙事詩の英雄が、君が欲しいとこいねがう、その日まで。




あとがき
二人のことを書き始めた時は中編くらいの長い話は書くつもりは本当にありませんでした。そしてまさか続きまで書くことになるとは思いもしなかっt
色んな時系列で二人の短編を書いているうちに形になっていって、気付けば一話じゃ完結しないような話を書き始めていました。需要がなくても何でもとりあえず私が読みたいから書く!!って腹を決めて書いたので最初から最後まですごく楽しく書けました。何度も頭抱えてのたうち回ったけども。幸いなことに長い話は楽しく書ける性分なんだけど、それでも時間と気力と体力は根こそぎ持っていかれる。
話ごとに添えた感じは和名の花たちです。花言葉を参考に選びました。

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