叙事詩に恋う

第7話 唐菖蒲


レース直後の地下室は、人が出払ってしんと静まり返っていた。運営スタッフも記者陣も、今頃はウイナーズ・サークルに集まっていることだろう。
できればひと気が戻ってくるまでに場所を特定したいものだが。控え室のドアが左右にずらりと並ぶ廊下を小走りに駆けていると、前方のひとつが内側から開いた。
そこから現れた人物を見て、エアグルーヴは速度を落とす。ルドルフの担当だ。
静かに扉を閉めた彼女は、身体の向きを変えたところでこちらに気付いた。エアグルーヴは声を掛けようとして、しかし相手が人差し指を立てたためすぐに口を噤む。
「……会長のご様子は?」
近付いてくるのを待ってから、エアグルーヴは小声で問いかけた。ルドルフの担当は顔を曇らせて俯く。
エアグルーヴは憂いに瞳を揺らす。その反応である程度は察せられる。
それに、だ。担当である彼女が、さっさと控え室から出てきたということは。
「その……追い出されたのか?」
「あ、いや、そういうわけじゃないよ。ちょっと買うものができて……」
トレーナーは首を振り、それから急に押し黙った。
どうした、と声を掛けるよりも早く、彼女は真剣な顔をしてエアグルーヴを見上げる。
「エアグルーヴ、私が戻ってくるまで、ルドルフのこと頼んでもいい?」
「は?」
そして告げられたのは突拍子もない頼みごとであった。
「い、いや待て、会長は落ち込んでおられるのだろう?」
エアグルーヴは思わずたじろぐ。様子が気になってついここまで来てしまったが、それほど塞ぎ込んでいるのなら話は別だ。というより、今さら迷いが生じた。
レースでさえ、常に己を律して皇帝たらんとする彼女だ。平静さを欠いた自身など、誰にも見られたくないはずだ。
きゅ、と知らず唇を引き結ぶ。自分が訪ねたところで、邪魔になるだけではないだろうか。
「大丈夫、エアグルーヴなら。ううん、寧ろエアグルーヴじゃないとダメなんだ」
しかしルドルフのトレーナーは、そんなエアグルーヴの懸念ごと否定するかのように続けた。
一度言葉を区切り、真摯な眼差しで見上げられる。自らの担当が関わるとき、どのトレーナーも同じ顔つきになるものなのかと頭の片隅で思った。
「今のルドルフと話せるのは……ルドルフが一番話したい相手は、他の誰でもない貴方だから」


◆  ◆  ◆


すぐ戻って来るから。そう言って後ろ髪を引かれるような面持ちでトレーナーが出ていくのを、ルドルフは片手を上げて見送った。
ドアが閉まり、彼女の足音が遠ざかる。戻ってこないことを確認してから、上げていた手をだらりと下げた。
「……っ、」
口元から笑みを消した途端、それまで抑えていた激情が暴れ始めた。咄嗟に歯を食いしばり、そのまま化粧台に顔を伏せる。
堪えきれずに喉の奥がぐぐ、と鳴る。それも何とか嚙み潰して、ルドルフは大きく息を吐いた。
──皇帝ともあろう者が、一体何をやっているのか。
神聖なるレースの最中に、私事に気を取られて勝利を逃すなど。
手の甲に額を押しつける。ずしりとした疲労感が、重く背にのしかかっていた。
まるであの頃に逆戻りではないか。無謀にも一人で全てを抱え込もうとして、気付かぬうちに道を外しかけていた。
迷って、立ち止まって、途方に暮れて。今よりずっと未熟な己に、また。
「悪因悪果(あくいんあっか)とは、このことだな……」
そう嘲笑おうとして、できなかった。わなないた唇を、その内側を噛んで無理やり止める。
瞼の裏には、未だ幻影が鮮明に張り付いていた。前を走る彼女の……エアグルーヴの。
(私は……こんなにも……)
目の奥が熱を帯びる感覚に、拳を握る。
唇の震えがいよいよ抑えきれなくなっていた。瞼の閉じ蓋も限界だと訴えてきている。
(トレーナー君は……そう時間をかけずに戻ってくる、だろうが……)
残り時間はどれくらいかと計算しかけ、途中でやめる。
構わないと思ったのだ。例え見られたとしても。
どうせ一度は目撃されている。多少の恥はあれど、今さら彼女に動じられることも見限られることもないと知っている。
ならば、いいか。
ほつ、と生温かい水滴が手袋に染みた。それを皮切りに、嗚咽を噛み殺しながらルドルフは泣いた。
ああ、情けない。覆水不返 (ふくすいふへん)。何という失態だ。あのような無様を晒して。
(勝てるレースを、みすみす落としてしまった。それも最悪の形で、だ)
腹の底から憤りがふつふつと湧く。自分は、皇帝にあるまじき走りを見せてしまったのだ。
そして。きつく瞼を閉じ、肩を強張らせる。
あの時、ルドルフが感じたのは紛れもない恐怖だった。己の怯懦が生み出した幻に、打ち克つことができなかった。
──克ちたくなどないと、思ってしまったのだ。
皇帝としての自身よりも、シンボリルドルフ個人の私情を優先してしまった。そういうことに他ならない。
あまりにも不甲斐ないその事実が、一着を逃したこと以上にルドルフを打ちのめしていた。

こんこん、と扉が控えめに叩かれる音に、ぴくりと耳を揺らす。彼女はもう戻ってきたのか。
泣き止もうと試みるが、やはり止まらない。ルドルフは取り繕うことを諦め、顔を伏せたままトレーナーが入ってくるのを待つ。
しかし、トレーナーはドアの前で立ち止まったまま中々動こうとしなかった。どうしたのだろう。彼女なら返事をしなくとも、入室してくるだろうと思ったのだが。
ルドルフが訝しげに顔を上げた、その時だった。
「失礼します……」
トレーナーの声ではない。馴染むほどに聞き慣れた、この声音は。
ドアノブが回るのを目にして、慌てて顔を隠す。ほとんど反射だった。
「会長⁈ どうなさいました、まさかお加減が……!」
駆け寄ってきた彼女の手が肩に触れる。絶句した状態のルドルフは、錆びた人形のようにぎこちなく首を振ることしかできなかった。
何故エアグルーヴがここに。トレーナー君は一体。
「……それほど、体調が優れないのですか?」
声も出せないほど、ということなのだろう。そういうわけではないのだが。
けれど口を開けば隙間から嗚咽がこぼれそうで、もう一度同じ動作を繰り返す他なかった。
(早く……早く、泣き止まねば……!)
徐々に膨らんでいく焦りとは裏腹に、感情が制御できない。涙も、唇の震えも。
普段であれば造作もないことが、できない。想定外の事態に混乱しきりだった。
「……今すぐ医療スタッフを呼んでまいります。お辛いでしょうが、それまでお待ちください」
諭すような声色で告げられ、ルドルフは目を見開いた。肩に触れていた手が、ゆっくりと離れていく。
エアグルーヴの気配が離れていくのを感じて、ぞわりと寒気が走った。
違う。そうではないんだ。止めてくれ。頼む。
どうか、君だけは。
「──、待ってくれっ!」
体裁を取り繕うのも、言葉を選ぶのも忘れて。
踵を返したその後ろ姿に、必死に腕を伸ばして追い縋った。


「会、長……?」
顔を上げたルドルフは、ぼろぼろと涙をこぼして泣いていた。
初めて見る彼女の泣き顔に、エアグルーヴは一瞬にして言葉を失った。
「待ってくれ、頼む……」
エアグルーヴの左手を掴んだまま、これもまた今まで聞いたこともないようなか細い声をぽとりと落とした。
あの時と違い、彼女の手は熱く火照っていた。その熱が手のひらから伝染ったかのように、エアグルーヴの頬にも微かに朱がのぼる。心臓が跳ねるのも含めて不可抗力だ。
「どう、されました? 何か必要な物でも……?」
やっとの思いで落ち着きの一片を取り戻して尋ねると、彼女はふるふると首を振った。
先程と同じ反応に、エアグルーヴは早々に困り果てる。様子がおかしいとは思っていたが、これほど心を乱しているとは思わなかったのだ。
「その、手を……このままでは呼びに行けません」
「いい。ここに、いてくれ」
「ですが……」
「後生だ、から」
エアグルーヴ。涙で滲んだ声音で名を呼ばれ、思わず天を仰ぎたくなった。
好いている相手に、そう縋られて手を払える者がこの世にいようか。少なくともエアグルーヴには到底無理だ。
小さく息をつき、エアグルーヴは椅子に座る彼女の前に膝を付いた。仕方ない、呼びにいくのは一旦保留だ。
空いている片手も添え、彼女の右手を包み込むように握る。
「……何があったのですか?」
あの最終直線で。原因があるとすれば、そこしかないはずだ。
できるだけ穏やかに問いかければ、ルドルフは小さく息を呑み、しかし失敗して嗚咽をこぼした。
赤くなった目から溢れる涙が、深緑のスカートにぽろぽろと落ちていく。眉間にしわを寄せているのは、泣き止もうとしているためだろうか。
見ていて痛々しいほど、彼女の泣き方は下手な子どもよりも拙かった。
「……幻を、見たんだ。並走したときの、君の」
押し黙っていたルドルフが、ふいにぽつりと呟いた。やはり囁くような声量で聞き取りづらかったが、何とか言葉を拾い上げる。
「私の幻……ですか?」
繰り返すと、ルドルフは小さく頷く。
「私が追い抜いて、君は恐れた。けれど君は立ち直った。そんな君を、私は今度こそ手折ってしまうかもしれない……」
彼女にしては珍しい、随分と要領の得ない話し方だった。頭に浮かんだ単語を片っ端から声に出しているような、まるでツギハギの言葉の群れだ。
当惑しながらそれを聞いていると、ルドルフの右手がきゅっと力んだ。
「そう、考えたら……恐ろしくて、たまらなくなった」
恐ろしい。到底彼女に不似合いな言葉に、思わず目を瞠ってルドルフを見上げる。紅よりも柔らかな色合いの双眸は、それを証明するかのように潤んだまま揺らめいていた。
「君を怖がらせてしまうこと。君から走る脚を奪うこと。……君が私から、離れてしまうこと。その、すべてが」
熱を帯びる右手から、震えが伝わってくる。本当に本心から怯えているのだ。
エアグルーヴはその事実に心底驚きながら、しかし何かが胸に染みわたるような、不思議な感覚を味わっていた。
「君の怯えた表情が離れなくなった。君が走れなくなる未来がよぎった。君のいない日々を想像した。私は……っ、」
美しいマゼンダから、また涙がはらりと流れた。その雫がそのままエアグルーヴに落ちてくるかのような、そんな錯覚を。
はらはらと。胸の奥に、あの時とは異なる波紋が。
「私は、君を失うことが、耐え難いほどに恐ろしい……!」
そして止めどなくこぼれる涙と同じように、ルドルフは次々とおもいを溢れさせた。
「これがエゴだとは重々承知だ。多くの者たちの未来を踏み砕いておいて、今さら何を、と……誰よりも私が、私自身に強く呆れている」
それでも、と鼻をぐずつかせながら、彼女は続ける。
「どうすれば、と考えてしまうんだ。どうすれば君は離れないでいてくれるのだろう。どうしたら傍にいてくれるだろう」
どうしたら、と。喉を引き攣らせてなお、吐露することをやめない。
「不甲斐ない私を当たり前のように叱ってくれて、花や後輩たちに慈しみを持って、接する君を眺めて……君の淹れてくれたお茶を飲みながら、他愛ない会話を交わす日常が、帰ってきてほしい、と……君の幸福など端に置いて、ただ、私の望みを叶えたいがために……」
そうして大粒の涙が、彼女の声が、雨のようにはらはらとエアグルーヴに降り注いだ。
「全てのウマ娘が幸福である世を、創造してみせると豪語しながら……まったく厚顔無恥だろう? 本当に……自分の身勝手さに、虫唾が走るよ」
実際に顔を顰めて嫌悪を露わにし、ルドルフは言葉を切った。黙したまま彼女の告白を聞いていたエアグルーヴは、強く胸を打たれたような衝撃に、しばらく声が出せなかった。
けれど驚愕と同時に、ようやく腑に落ちたものがあった。
いや、と己の考えを否定する。たった今、気付いたわけではない。そうだ、ルドルフは。
(会長は、自ら孤高の道を選びながら……孤独に痛みを覚えるお方だった)
知っていた。わかっていた。去っていった生徒たちを語る、その表情を見れば。
ぼやけていたその輪郭が、ようやくエアグルーヴの中ではっきりと像を結んだだけで。
エアグルーヴは、耳を限界まで垂れ下げて俯くルドルフを改めて見つめる。
まるで懺悔のような、苦渋に満ちた声音だった。
しかしその声で、告げた言葉の数々は、全て。
唇を噛み、痛々しく泣き続ける少女に、無意識に手が伸びる。
前に下がっていた横髪を軽く押しのけ、涙に濡れた頬に触れ──たその瞬間、エアグルーヴは即座に眉根を寄せた。
「……会長、少し失礼します」
そのまま彼女の前髪を掻き分け、手のひらを当てる。
案の定、触れた額は異常と断言できるほどに熱かった。
「やっぱり熱があるんじゃないですか……!」
「ねつ……?」
自覚がなかったらしい。ルドルフは緩慢な動作で小首を傾げる。
何ですかその可愛らしい表情と仕草は。いやそうではない。
「……会長はここに。ライブは欠席すると運営に伝えてきます」
「嫌だ」
「会長!」
「断る。それよりも、エアグルーヴ」
煉言など聞きたくないと言わんばかりに首を振って、額に当てた手に擦り寄ってくる。だから何なのだその仕草は。うっかり頭を撫で回したくなる衝動を、エアグルーヴは険しい表情の下で必死に耐えた。
「今だけでいい。傍にいてほしい。……再三に手前勝手を重ねて、すまない。君に縋るのは、もうこれきりにするから。……少々時間は要するだろうが、それでも何とか──」
ルドルフの声が途中で止まる。当然だ。くだらないことを言うその口を、額に当てていた手で塞いでみせたのだから。
「何か誤解をなさっているようですが、私はあなたから離れるつもりは毛頭ありません」
そう、くだらない。見当違いのことで悩むなど、なかなかに意味のない行為ではないか。
突然の事態に固まっていたルドルフが、大きく目を見開いた。呆気に取られた彼女を見下ろし、エアグルーヴは唇の端を吊り上げてみせる。
できるだけ美しく、力強く。あなたのそれは要らぬ心配なのだと、伝わるように。
「今も、そしてこれからも。あなたの願いを叶えるためではありません。私の意思で、私自身の望みで、あなたのお傍にいます」
それが自分の理想を叶えるために選んだ道であり、なおかつ新たに生まれた願いを叶えるための最善の道でもあるのだ。
双方が最後まで繋がっているわけではない。道といっても未踏の地だ。
けれど重なっている。ならば、その道を切り拓くまで。
母の前で、エアグルーヴはそう決意したのだ。
しかしここまで言い切ったにも関わらず、ルドルフの表情は半信半疑であった。何故そこまで疑り深いのかと呆れたくなるが、彼女のこれまでの歩みを思えばそうなるのも頷けなくもない。
エアグルーヴとブライアンが副会長にと誘われ、請け負うまでの間、ルドルフの生徒会にはその役職に座する者はいなかったのだ。
そこにどんな経緯があったのか、詳しく聞かずとも想像はつく。そして当時のルドルフがどんな心境であったのかも、今なら。
「では、スタッフに伝えてきますので……」
「いや、ライブには出る」
とりあえず目下の問題を解決することが先かと手を離した途端、ルドルフは再度欠席することに拒否を示した。あまりにも頑なな態度に、エアグルーヴも流石に容赦なく彼女を睨みつける。
「発熱した状態でライブに出るおつもりですか?」
「問題ない。おそらく右肩の炎症が原因だろうから、他の者にうつすという心配もない」
「大有りです! それこそ怪我が悪化したらどうするのですか!」
「怪我はトレーナー君が応急処置をしてくれる。それでもたせる」
「あのトレーナー……!」
トレーナーでありながらウマ娘を危険に晒すとはどういう了見だ。そもそも諫めるのは自分ではなく彼女の役目だろう。まさか代役として引き留めたのではあるまいな後で覚えていろ。
「彼女をどうか責めないでやってくれ。私が無理を言って頼み込んだんだ。トレーナー君は、最後まで渋っていたよ」
思わず怒りの矛先を彼女の担当に向けていると、ルドルフは目元を拭いながらそう言い添えた。ようやく涙が止まったらしい。
彼女はやや腫れた瞼を開き、真っ直ぐにエアグルーヴを見つめた。
「ウイニングライブは、応援してくれるファンに対する恩返しでもあり、感謝を示す大切な機会だ。おろそかにするなど言語道断。……常日頃からそう語る私が、不言実行などという不誠実を働くわけにはいかない」
「だからといって……」
「君だって私と同じ状況ならそうするだろう?」
「それをいうなら、私と同じ状況でしたらあなたは止めるでしょう?」
「そうだな。だが、君はそれでも無理を押してライブに出る。私も同じだ」
その返しにぐっと言葉に詰まった。確かにそうだと思ってしまったのだ。
説得はここまでか。頑固者め、とエアグルーヴは内心で悪態をつきながらため息をつく。
「……でしたら、その顔をどうにかしないといけませんね」
「エアグルーヴ?」
「メイク道具を貸してください」
「あ、ああ」
突然の申し出に戸惑いつつも、彼女は足元のカバンから化粧ポーチを取り出した。小ぶりのそれを受け取りつつ、エアグルーヴは備え付けのティッシュを手前に引き寄せる。
「目の赤みはどうしようもありませんが……軽い腫れなら多少は誤魔化せるかと。幸い今回のライブは、照明の赤いシーンがよくありますから……失礼します」
言って、エアグルーヴは折りたたんだティッシュをルドルフの頬に当てて涙を吸い取っていく。彼女はナチュラルメイクだから少し濃くなってしまうだろうが、ライブならばさほど問題はないだろう。
「終わったらすぐに目元を冷やしてください。それとそれ以上目を擦らないように。でなければ翌日、酷い目に遭いますよ」
「……随分と詳しいな。勉強になるよ」
「万が一に備えてのことです」
ルドルフの指摘に曖昧に答えて、エアグルーヴは断りを入れてからポーチを開けた。おいそれと手の届かないような高級ブランドのロゴに一瞬たじろいだが、腹を括って手に取った。
ヘアクリップを取り出し、彼女の前髪を上に留める。化粧水を浸み込ませたコットンを、目を閉じたままじっとしているルドルフの顔に優しく滑らせた。崩れた個所に重点的に施した後、ファンデーションを乗せて全体を馴染ませていく。
「……ひとつ、言い忘れていましたが」
ぱちんとファンデーションのケースを閉じて呟けば、閉じていた瞼が持ち上げられた。未だ不安げに揺らめいている双眸が、エアグルーヴを窺うように見上げる。
「先ほど仰っていた私に対する恐れは、会長の杞憂です」
「しかし、君はあの時──」
「あれは別件です、とだけ。詳細はお伝え出来ませんが、少なくともあなたを恐れてのことではありません」
「……だが、」
「──侮るな、と……もう一度食って掛かった方がよろしいですか?」
伏せられそうになる紅梅の瞳を、エアグルーヴは自身の薄青と半ば無理やりに合わせた。
あの時とは逆の位置で、あの時と同じように。そしてルドルフも当時を再現するかのようにえ、と目を丸くする。
「何度あなたと走ろうとも、私はあなたを恐れません。ましてやその程度で折れるなどと、寝言も大概にしてください」
エアグルーヴは言い切り、不敵に微笑んでみせた。
「それはあなたもよくご存知だと、そう思っておりましたが?」
忘れもしない。昨年の夏合宿の半ば。陽射しが弱まり、赤い夕暮れに染まった海辺でのこと。
再起せよと己を鼓舞してきたのは、他ならない。自分のトレーナーと、ルドルフであるのだから。
何より、とさらに遠い記憶を遡る。我々の出会いなど、形は違えど真っ向勝負のぶつかり合いから始まったのだ。それこそ忘れられてたまるものか。
かつての出来事を彼女も思い出したのだろう。ルドルフは一瞬だけ懐かしそうに瞳を滲ませ、それからようやっと表情を緩めた。
「……うん。そう、そうだったな。どんな苦難や脅威を前にしようと、決して膝を折らずに立ち向かっていくのが、君というひとだ。……私が、そして君を取り巻く者たちの誰もが認め、敬意を抱く……気高き不屈なる挑戦者──"女帝”エアグルーヴだ」
少しだけ力の戻った声色で彼女は呟き、そして深く頷いた。
それを見たエアグルーヴは、ほっと息をついて僅かに目元を和ませる。ようやく誤解を解くことができた。
「……別件につきましても、いつかきちんと理由を話すと、お約束しますから」
きっと今、こちらの想いを告げても、ただいたずらに戸惑わせるだけだろう。
まだ早い。それを、ルドルフの独白じみた吐露を聞いて察した。
彼女のそれが恋愛感情からきているものなのかと言うと、どうだろうと首を傾げてしまうのだ。どちらかといえば幼子が母親を求めるような、そんな執着に近い気がしてならなかった。
何故なら、と胸の内で呟く。己に身勝手さに嫌気が差すと嘆いていた、その想いこそが嬉しかったのだと、彼女は知る由もないだろうから。
本音を言えばそれだけでは足りない。自分と同じ感情でもってそれを言ってくれればと、胸が切なく締め付けられる感覚もある。──けれど。
それでも、と思う。ルドルフが自分を必要としてくれている。離れがたいと泣くほどに、想ってくれている。
それをどうしようもなく嬉しいと感じているのことも、また紛れもない事実なのだ。
足りない。けれど今は、それで充分だ。
胸の奥底に、受け止めたばかりの想いを注いでいく。蕾を開いたばかりの花が、心地よさそうにふわりふわりと揺れた。その姿に、自然と口元が綻んだ。
「……わかった。君の意見を尊重しよう」
殊勝に頷くルドルフに、エアグルーヴは内心で胸を撫でおろす。一応それらしい理由は考えてきていたが、特に追及されずに済むに越したことはなかった。
元々、すぐに成就するものとは思っていない。決意を固めたその時から、長期戦は覚悟のうえだ。
カチ、と指先でケースを開き、ベージュトーンが並ぶパレットの隅からチップを取る。
「会長、また目を閉じていただいても?」
「ああ」
素直に閉じられた瞼に、仕上げのメイクを施していく。あまり濃くならないよう心掛けながら、瞼のくぼみにアイシャドウで影をつける。これでぱっと見ただけでは、腫れているとはわかりづらいだろう。
ヘアクリップを外して、三色に分かれた前髪を整える。さらさらと手触りの良い髪は、すぐに普段のヘアスタイルに戻った。
その時、ふつりと欲が湧いた。一瞬にして浮かんだそれにエアグルーヴは狼狽したが、葛藤の末に欲が勝った。意を決し、その一房に指先を伸ばす。
綺麗に弧を描く白い前髪を、そろりそろりと持ち上げ──エアグルーヴは祈るような姿勢で、彼女の三日月にそっと口付けを落とした。
ルドルフから怪訝そうな気配を感じた。顔を上げられる前に動かないようにと釘を刺し、手櫛で彼女の髪を梳き直す。熱を持った頬を見せられるわけがなかった。
「とりあえず、今はあなたともう一度走りたいですね」
「──!、……そうか」
問われる前に用意していた台詞を口にすれば、ルドルフはようやく安心したように目元を緩め、心から嬉しそうに微笑んだのだった。


「いや~、しこたま怒られたなぁ……」
テーピング用のテープを引っ張りながら、トレーナーはしみじみと呟いた。遠い目をして先程の出来事を反芻しているらしい彼女に、ルドルフは苦笑いを浮かべる。
あれから数分ほど経ってから、氷と氷嚢を手に彼女は戻ってきた。そして戻ってきて早々部屋の外に引っ張り出され、彼女はエアグルーヴに叱り飛ばされたのだ。
「すまないな……あまり叱ってくれるなとは、言っておいたのだが……」
「ううん、いつもよりずっと大目に見てくれたよ。今回は完全にエアグルーヴの方が正しいしね」
そう言われると耳が痛い。耳を伏せ、ルドルフは乾いた笑いをこぼす。
しばらく邪魔にならぬよう黙ったままテープを肩に巻かれていたルドルフは、ふいに表情を引き締める。
彼女には、早めに言っておかなければならないことがあった。
「トレーナー君、次のレースだが……」
「ジャパンカップだね。メニューは組んであるから、今度改めて話を詰めよう」
右肩に処置を施しながら、トレーナーはさも当然のようにそう言い切った。
先に続く台詞を言われてしまい、思わず瞠目してまじまじと見つめる。ルドルフが唖然としている間も、彼女は手際よくテーピングを巻いていく。
「……君は、最初からわかっていたのかい?」
こうなることを。尋ねると、己の担当はいつものようにへらりと笑った。
「人間はね、貴方たちよりずっと非力な分、悪知恵だけはよく働くんだよ。それに少しは頼りがいも見せないとね」
そうしてあっけらかんと言ってのけた彼女に、ルドルフは参ったとばかりに眉を下げた。
「……まったく、恐れ入ったよ。私の周りには、英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)な人材が実に多い」
「あはは、ルドルフに褒められると本当にそんな気がしてきちゃうなぁ」
「私は本心から言っているのだが」
「ありがたき幸せ」
「……トレーナー君、信じていないな?」
「まあまあ。それだけ喋る元気があれば、ウイニングライブも行けそうだね」
できたよ、とその言葉と共に彼女が離れる。首を右に向ければ、濃い肌色のテープがしっかりと巻かれていた。
軽く肩を回して痛みの度合いや可動域を確認していると、買ってきた氷を氷嚢に詰めていたトレーナーがでも、と再び口を開いた。
「もうこれ以上無理はさせないから。炎症と熱が完全になくなるまで、明日以降の練習は禁止。もし破ったら私は広場の前だろうがカフェテリアだろうが所構わずエアグルーヴに泣きつく所存です」
容赦がない。そして目が本気だ。
本当に恥も外聞もなく泣きつく気らしい。非力を自覚する者は手段を選ばない、と脳内で密かに追加しておく。
「返事は?」
「……了解した」
これは大人しくしている他なさそうだ。仕方がない、とルドルフはため息をつく。無理を言っているのはこちらの方なのだから。
ライブ開始まで冷やしておくようにと二回目のアイシングを渡される。それをありがたく受け取りながら、ふいにルドルフはぱちりと目をしばたかせた。
「どうしたの、いきなり?」
そして唐突に笑い出した己に、トレーナーは訝しげに問いかけてきた。くすくすと忍び笑いをもらしながら、ルドルフはいや、と首を振った。
「今さらながら気付いたんだ。エアグルーヴにも、本当の私自身を見せていたのだな、と……」
今日だけでなく、以前からも。
そしてそんな自分を受け止めて、なおも傍らにいてくれたのだ。
自身のトレーナーと同じように。エアグルーヴも、また。
呆れ混じりに、それでいて噛み締めるように呟けば、「本当に今さらだね」と困ったような顔で笑われてしまった。

「あ、でも」
「うん?」
「ジャパンカップ、エアグルーヴ以外にも気に掛けておいた方が……というより気を付けておいた方がいい相手がいるって、前に聞いたような……」
「ふむ……覚えている範囲で話してくれるか?」
「ええと、確か海外の選手なんだけど……」
その内容を聞いた直後のルドルフは、トレーナー曰く「おっかない顔」をしていたという。





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