もしもの物語-22-



この海のずっとずっと向こうには、また大陸がある。ここと同じように四季があり、川が流れ、生物が生きる、そんな大地が。
かといってこの目で見たことも、その地を歩いたこともない。ただ知っている。
その大陸のどこかに、兄がいるから。
可憐な赤い花がひそやかに咲く岩陰に座り込み、エドナは大きな大きめのベレー帽子を被った人形を顔の前まで持ち上げる。
海の向こうにいる兄は、時々こうして手紙やお土産をエドナに送ってくれる。今日もぼんやりと空を見上げていた時に、白い鳥が運んできたものはそれだった。
「…………」
「…………」
いつもヘンテコな土産が多いが、今日のは特にヘンテコだった。何せ目を合わせようしてもあからさまに視線を逸らすのだ。何度やっても目が合わない。『人形』なのに何ともフシギだ。
(お兄ちゃんに頼まれでもしたのかしら……)
しばらく半眼で睨み付けていたが、やがてため息をついて横に置いた。あとで片足を紐でくくってお気に入りの傘にでもぶら下げようか。しばらく吊るし上げれておけば、そのうち根を上げて目的を吐くかもしれない。
かさりと膝の上に置いた手紙に触れ、達筆な文字で『ノル様人形だ』とわざとらしく書かれた部分を指でなぞる。何でも、身に付けた者を護ってくれる存在らしい。
「そんなに心配なら、帰ってくればいいじゃない。こんな可愛い妹をほっとくなんてバカじゃないの?」
呆れた声でこぼれ出た本音は、ずっと姿を見せない兄のせいでトゲだらけだ。自覚はしているが、もう直りそうもない。兄もあまり気にしていないようだから、もうこのままでもいいかと思っている。
自分の言葉に同意するように、小さな花が赤い花弁をふわりと揺らした。エドナはそれに軽く目を細めて、小さな指先でそっと赤い『エドナ』を撫でる。
自分も海を渡ったらまた、会えるだろうか。そんなことを何度も何度も考えては、結局ここで兄の帰りを待つという結論に至っている。
だってどう考えたって色々と面倒くさいことになるし、そもそも勝手に旅に出て行ってしまったのは兄の方なのだ。そっちから戻ってくるのが当然だろう。
そんな屁理屈をこねて、ただ兄が無事に帰って、また一緒に暮らせることを願っていた。
「…はやく帰ってきなさいよ。お兄ちゃんのバカ」


例えばあの時、幼い子供のように湧き立つ衝動のまま兄を追いかけていれば、何かが変わっていたのだろうか。
大好きな兄が化け物になって帰ってきたなんて、そんな残酷な現実を少しでも変えることができていたのだろうか。
今からでも間に合うなら。今からでも、遅くないのなら。

―――もう一度、会いたいよ…お兄ちゃん……。


◆   ◆   ◆


ビュゥゥ、と身体の芯から凍るような冷たい風が山肌を滑り、容赦なく肌を叩く。植物の生えない灰褐色の山は、まるで生きるものすべてを拒んでいるかのようだ。
うっすらと白く降り積もっているのは霜だ。標高が高くなるにつれて厳しくなる寒さに、時折首を竦めながら山道を登っていく。
神の宿る山、神を祀る山。そういった意味で霊峰と称される山、レイフォルク。今では信仰も廃れ、頂上に近付けば近付くほどに穢れが濃くなっていく。その負の塊に誘われ、異形達も彷徨っていた。
「…流石に、ここまでくると憑魔も出てくるね」
「ああ。それに前に来た時よりもずっと強い」
険しい顔でロゼの言葉に頷くミクリオに、スレイもだな、と相槌を打つ。
「けど、それはウーノさんたちの加護領域がちゃんと働いてるってことだ。領域から押し出された分強いし数も多いけど、きっともうこれ以上は増えない」
高位天族が展開する加護領域は、領域内にいる者達に己の加護を与えてくれる。浄化することは出来ないが、ある程度の穢れを追い払うことができる。
旅を経て、スレイ達は何人もの高位天族と出会った。グリフレット橋で暴れていたウーノ。マーリンドでドラゴンパピーと化していたロハン。ラストンベルでの悲しい事件をきっかけに戻ってきたサインド。ゴドジンの学校に宿るフォーシア。ペンドラゴで出会った猫の姿をしたムルジム。ローグリンへの道を阻んでいたアラカン。それから、先日別れた白い犬の天族オイシ。
彼らはスレイの頼みを聞いて加護天族となってくれている。その加護が大陸に広がり、街を、人と天族を護ってくれていた。
そんな彼らの加護を、今日だけはレイフォルク側まで広げてくれと頼んだのだ。
ドラゴンは穢れを吸収してさらに力を強める。しかし、ドラゴン自身は穢れを生み出さない。
ならば周囲から穢れが入り込まないように加護領域で囲えば、少なくともこれ以上穢れを吸収されることはない。そうすれば致命傷を与える前に浄化できるのではないかと、そうスレイは考えたのだ。
そのためにアタック達ノルミン天族にも協力してくれるように頼んできた。彼らがいれば、加護領域もより強固なものになるはずだ。
「何だか、マーリンドでのことを思い出すよ」
じりじりと漂ってくる冷気に手をすり合わせながら、アリーシャが懐かしそうに僅かに目だけを細める。
その手を取って温めたいと、スレイはふとそんな衝動に駆られた。だが、憑魔のいるここでは危険だとわかっているから、諦めるようにぐっと拳を握る。
「うん、実はマーリンドのことも参考にしたんだ。急がば回れ作戦ってさ」
「ああ、そういえばそんな作戦だったね。ほんの数か月前のことなのに、随分と前のことのように感じるよ」
「オレも。まだ一年も経ってないんだよな」
「それくらい、スレイさんもアリーシャさんも成長したということですわ」
やや強張った顔のまま、それでも柔らかく微笑んで見つめてくるライラに、スレイとアリーシャは顔を見合わせて互いに微笑みあった。
そうなのだろう。そう自分達で思えるくらいには様々な経験して、多くのことを学んだ。
突如、岩の陰から巨大なトレントが現れた。スレイたちは武器を構え、穢れを取り込んで異形となってしまった枯れ木を浄化する。
長寿の樹木は、清浄であれば天族が器として宿る神聖な器になる。マーリンドの大樹に、加護天族のロハンが宿っているように。
もしかしたらこのトレントも、昔は御神木として祀られていたものの一本だったのかもしれない。
導師になったばかりの頃は、ただ目の前の穢れを浄化することだけを考えていた。その頃はどうして穢れが生まれるのか、どんな理由で憑魔になってしまったのか、よく知らなかったから。
今は穢れを祓うことに、行き場のないやるせなさが伴うようになった。
それもまた、成長した証なのだろう。


◆   ◆   ◆


風だけが鳴き続ける山道を黙々と歩いていく。砂と小石ばかりの細い道は、歩くたびにじゃり、と音を立てた。
「…あの天族の男は、大丈夫なんだろうか」
ふと、ミクリオがぽつりと声をもらした。この場にいるのはミクリオとスレイ、ロゼとデゼル、それからザビーダの五人だけだ。
アリーシャとエドナとライラは少し戻った場所で待機してもらっている。数の多くなってきた憑魔の一掃と、ここにきてからずっと喋らないエドナを休ませるために。気休め程度でしかないが、少しでもエドナの負担を減らしたかった。
そんな矢先に放たれた言葉は、彼らに共通の男を思い浮かばせた。

―――あぁ…なんてことをしてくれたのだ……。彼女がいなければ、もう生きていても仕方ないというのに……

絶望が声になればこのようになるのだろう。そんな声音で引き絞るように吐き出した言葉は、スレイ達全員の耳に残っている。
ヘルダルフの策略でドラゴン・ティアマットと化していた天族、ゴウフウ。共にヴァーグラン森林まで飛ばされた彼は、スレイ達から戦場での経緯を聞いた後、全ての気力を失った顔をしてそう言った。
自分のために犠牲になった天族の女性のことを想い、その犠牲の上に生き長らえた事実に悲嘆にくれ、その選択をしたスレイ達を泣きながら責めた。そんな彼の言葉を、自分達はただ黙って受け止めることしかできなかった。
「ま、あいつ次第だろ。抜け殻でい続けるのも、立ち直るのもな」
ザビーダにしては珍しく、淡々とした口調でミクリオに答えた。後頭部で手を組んで、空を仰ぐように見つめるその姿からは感情が読めない。
ミクリオはちらりと彼を見上げ、それからまた地面に視線を落としてわからないな、と呟いた。
「想っていた人が死んだから、自分に生きている意味がないなんて……それこそ、僕にしてみれば意味がわからない」
「まだまだお子様だなぁ、ミク坊は」
「はぁ?何でそうなるんだ…」
「そういうところがだよ。なぁデゼル」
『知らん』
「あぁ、お前もお子様だったな。悪ぃ」
『違ぇっ!いちいち俺に突っかかるなって意味だ!』
「もー!デゼルうっさいから叫ぶな!」
ザビーダの軽口にまんまと乗せられたデゼルに、ロゼは耳を押さえて抗議する。刹那、ボロ布を無造作に纏った骸骨の憑魔が闇から這い出るように現れた。どうやらロゼの声に反応したようだ。
ヤバ、とロゼは顔をしかめたが、対処は迅速だった。詠唱を始めた憑魔の懐に素早く潜り込み、腰から引き抜いた双剣で骨ばかりの体躯を切り付ける。頭蓋がカタカタと何かを呟くように顎を鳴らし、そして消えていく。
ロゼが振り向いたときには、他の憑魔も仲間達によって浄化されていた。
『おいロゼ、気を付けろ』
「え〜、デゼルが叫ばなかったらあたしだって叫ばなかったし」
短剣をしまいながらそう反論して中に入っている天族を黙らせる。そういえば頭の中から声が聞こえるのにもすっかり慣れたなと思いながら、それよりさ、とザビーダの方を向く。
「あたしもさぱらんだな、さっきの話。大切な人を守るためとか、そういう話じゃないでしょ?」
「まぁそうだんだが…なんて言おうかねぇ」
ふむ、とザビーダは顎に手を当てて考える素振りを見せ、それからゆっくりと口を開いた。
「自分にとってものすごく大切なやつっていうのは、ミク坊にもロゼちゃんにもいるだろ?そういう相手を見つけたとき、視野がめちゃくちゃ狭くなるやつもいるんだよ」
どこか別の景色を見ているように遠くを見つめて、仲間の中で最も長寿の天族は続ける。
「あいつさえいればいい。あいつのために生きる。それが行き着くと、あいつが俺の世界の中心だって考えるようになる。失ったときに気付くやつもいるな」
「……自分にとって世界の中心だから、相手を失ったら自分の中心がなくなったも同然、てことか?」
未だ納得しきれていない顔で呟くミクリオに、ザビーダは頷く。
「ま、そういうことだ。地脈が死んだら、当然大地も死んでいくだろ?ヒトもそれと同じだ」
「心が死んだら、身体も一緒に死んじゃう、か…」
「逆にロゼちゃんが浄化した野郎みたいに身体が死んでも心だけこっちにいる奴もいるけどな」
ロゼは後ろに携えた双剣に触れる。死を望むもの、生にしがみつくもの。確かに、真逆のようでいて、何かに依存しているところは同じだ。
冷たい床にうずくまる天族の姿が脳裏によぎる。大切な人の死が与える影響は計り知れないほど甚大だ。結局追い付けなかった大きな背中が脳裏によぎる。
胸の前で拳を握っていたロゼは、でも、と曇りのない眼でザビーダに顔を向ける。
「ぽっかり穴が空いちゃっても、あたしは埋められると思う。どんなに時間がかかっても、きっと」
大切な人を失った苦しみも、その人がいなくなった世界で生きる辛さも多少なりともわかる。けれど今自分は、前を向いて立っていられている。
それを実感しているからこそ、確信をもって言えた。
「ま、いつまでもウジウジしてたら無理だろうけど」
肩を竦めてそう言うロゼに、ザビーダはくっと笑いながら手厳しいねぇ、と言葉をもらす。
「だがよ、それはロゼちゃんみたいに強い人間が言えることだ。世界中の誰もがそういうわけじゃないってこった」
「普通じゃん?別にあたしは自分が強いとか思ったことないけど。てか、あたしには守らなくちゃいけない家族がいたから……って、ちょっと待って」
ロゼは途中で言葉を止めてはっと目を瞠る。すぐさま険しく眉根を寄せて、緊迫した面持ちでザビーダに問いかける。
自分には家族がいたから。心を支える大切な人が、まだいたから。
なら、彼女は―――?
「それって、エドナも今同じ状況に立たされてるってことじゃない?」
「まさか!……いや、あり得なくはない、のか…」
ロゼの言葉を否定しかけたミクリオは、しかしすぐに思い直す。ミクリオの中で、あの天族の男とエドナの姿が重なって見えたのだ。
天族の姿であった頃のエドナの兄にはもちろん会ったことはない。だが彼女がアイゼンについて語るとき、傍から見てもエドナにとってとても大切な存在であることがわかった。そうでなければ数百年もの間、ドラゴンになってしまった兄の傍に居続けたりなんてしないはずだ。
「俺様はそう思ってる。スレイも同じだろ?」
ザビーダの言葉に、それまでずっと黙ったまま周囲を見回していたスレイはやや間をあけてからうん、と頷いた。
「オレはどっちかっていうとゴウフウさんを助けた人とエドナが同じに見えてさ。…エドナ、時々何か考え込んでたし、少し前から様子がおかしかったから」
ザビーダもスレイも、はじめからこのことを危惧していた。おそらく待機しているライラも察しているだろう。彼女とエドナは旧知の仲だ。
「さっきははぐらかしてたけど、デゼルも知ってただろ?」
『……まぁな』
寧ろスレイよりも先にデゼルは気付いていたかもしれない。彼はまさにスレイ達の目の前で、その命をロゼのために何の躊躇いもなく使ったのだ。
今の彼女がどれほど危うい状態なのか、あの時のことを思い出せば想像に難くない。
「おろろ、スレイだと素直になるんだな〜デゼ坊は」
『てめぇは俺にいちいち絡まないと気が済まねぇのか…!』
「ああもう、話が進まないからその辺にしてくれ!」
再び言い合いが始まりそうになり、ミクリオが耐えかねて声を上げる。同じ風の天族なのになぜここまで仲が悪いのか。いや、気まぐれで気難しい風の天族だからこそそりが合わないのか。というかいちいち歯向かうデゼルをザビーダが面白がっているから拍車がかかっている気がしてならない。
「それで?気付いてたってことは、何か考えがあるんだろう」
問いというよりも確認に近い問いかけに、スレイは少しだけ緊張を解いてもう一度うんと頷く。
「対策ってほどじゃないんだけど……オレ、今ジークフリートは持ってないんだ」
「…、それは……」
その意図を察した親友が言葉に詰まる。その隙にスレイはまた口を開く。
「心配なんだ。実際ドラゴン相手に何発必要になるかわからないけど、自分ひとりならって思ってそうで……ヘルダルフのこととか穢れのこととか関係なく、エドナは大事な仲間だから」
ざく、ざく、と踏みしめる大地の先は、天に向かって伸びる頂き。あそこにアイゼンがいる。
吐いた白い息の行き先を何気なく目で追っていたスレイは、躊躇いながらもまた口を開いた。
「多分、導師はみんなを平等に見なきゃいけないんだと思う。けどオレは、オレ自身の気持ちにウソはつけないよ」
アイゼンだって助けたい。もしかしたらそれは、ジークフリートを使えば叶うかもしれない。
だが、”かもしれない”という可能性だけで、仲間を失うわけにはいかない。何より、エドナには生きていてほしい。
ヘルダルフと戦うことを考えれば、ただの偽善かもしれない。けど、できることなら失いたくないという気持ちは、紛れもなく本物だから。
「『俺がドラゴンになったら殺してくれ。きっとエドナが苦しむから』」
静かに、奥底にしまっていたものをそっと取り出すかのように呟かれた言葉に、スレイははっとしてザビーダを見た。
「それって……」
「大昔に受け取った約束だ。あいつだって世界のためとかそんな大層な理由で殺せと言ったんじゃねぇ。ただただ可愛い妹のためにそう頼んだんだ」
黄昏色の瞳がすっと細くなる。驚いたような顔をして自分を見つめる少年に、ザビーダはにっと口の端を上げた。
「いいんだよそれで。ヒトってのはそういうもんだ」
「だね。スレイは導師である前に、ひとりの人間でしょ?」
「ザビーダ、ロゼ……」
笑って肩を叩いてくる二人に、スレイもどこか安心したように微笑。自分自身を肯定してくれる彼らの言葉が、スレイにはとても心強かった。
『ここら辺はあらかた片付いたな。スレイ、また憑魔が湧く前に行くぞ』
「そうだな……うん、一旦アリーシャ達のところに戻ろう」
辺りを見回してもう一度憑魔の気配がないことを確認してから、スレイ達は山を下り始めた。
「それにしても、君がよく気付いたな」
「エドナのこと?」
尋ねると、ミクリオは少しからかうような口調でああ、と首肯する。
「けっこう意外だった」
「そう?けっこうすぐにわかったよ」
来た道を戻りながら、スレイはゆっくりとまばたきをした。脳裏に浮かぶのは、花のような優しい笑顔と、とてもとても大切なひとの姿。
ただ想うだけで心があたたかくなる。そんな感情を湧き上がらせてくれる、かけがえのないひと。
「オレがエドナの立場だったらどうするか……そう考えただけだから」


◆   ◆   ◆


本当は、最初からわかっていたの。

天高くそびえる霊峰。その山頂で低い唸り声を上げて待ち構える黒い影。久しぶりに踏みしめたかたい大地は、こんな状況でも懐かしさを感じた。
エドナはその巨体を透き通るような空色の瞳に映して、哀しそうに、そして愛おしげに呟いた。
「……この時が来ちゃったよ、お兄ちゃん」
ぽそりと、そっと囁かれた声に応えるように、兄は空を咲くような雄たけびを上げた。
行くぞ!と導師のマントをはためかせた少年が皆に号令をかける。彼についてきた仲間たちと同様、エドナも傘の柄をぎゅっと握りして臨戦態勢に入る。
自分達が間合いに入った瞬間、アイゼンがごうっと風を巻き込んでこちらに突進してきた。
エドナはタイミングを見計らって上げた片足を地におろし、地面を隆起させてその突撃を阻む。その隙にスレイ達が彼の背後に回り込み、足元を狙って攻撃を始める。
その光景を、どこか他人事のような感覚で眺めながら術を唱えていると、ふと大きな影が降りかかった。
「……何?」
いつまでも自分の横に佇む男に、いい加減うっとうしくなって渋々声をかける。正直言われることは予想がついていた。
「いんや別に?」
「ならさっさとスレイ達のところに行きなさいよ」
「そしたらエドナちゃんがひとりきりになっちまうじゃねぇか」
「普段そんな気なんて回さないクセに珍しいじゃない」
「いつもだってさり気なく守ってんだぜ?それこそさすらう風のようによ」
「あらそう?無駄口叩いているようにしか見えなかったけど」
「そこがミソなんだよ。一見何もしてなさそうに見えて実は…ってのがいい男の在り方なのさ」
「物は言いようね」
アイゼンが鋼のような鱗に覆われた尻尾を振り回してスレイ達を吹き飛ばす。
前線で奮闘する彼らに半透明の障壁を張っていると、相変わらず容赦ねぇなぁ、と笑い混じりの呟きが聞こえてきた。
この状況で、不謹慎とも思えるほど他愛ない応酬だ。彼は常にこういう言葉遊びを口にするので、いつも通りと言えばいつも通りだが。
「……悪ぃ、言っちまったわ」
そのおどけたような雰囲気を壊したのは、ザビーダ本人だった。
彼の主語の抜けた呟きを、けれどエドナはそれだけで全てを察した。
どうせ最初から言うつもりだったくせに。内心でそう悪態をつきながら、エドナは静かな声音でそう、と返す。
「なら、全員気付いているのね」
「ああ。だからあいつらだけで何とかしようとしてる」
「随分信用されてないのね、ワタシ」
「エドナちゃんはずるい女だなぁ…わかっててそれ言っちゃう?」
そこがまたソソられるんだけど、と無駄に一言付け加える相手を、エドナはバカと一蹴する。相変わらずそれに堪えた様子もなく、けれど唐突に雰囲気を変えて呟いた。
「心配なだけさ。みんなエドナのことが大好きなんだよ」
「…知ってるわ。あとバカなほどお人好しだってことも」
「なら、そんなバカなお人好しどもが何を考えてるかもわかってるよな」
ごうっと耳元で風がうなった。いつの間にか術を唱えていたザビーダから竜巻が放たれ、威力を増してアイゼンに襲い掛かる。エドナと同じ地を司るアイゼンは、風を司るザビーダとは相克の関係をなす。荒ぶる風は大地を削り、豊穣の大地を荒野に変えるのだ。
「……約束、したわよね」
吹き荒れる風のなかで、エドナは静かに言った。小さな声だったが、ザビーダにはしっかりと聞こえたようだ。彼の顔から笑みが消えたのだ。
凄まじい竜巻に身動きが取れなくなったアイゼンに、スレイ達が一斉に飛び掛かる。穢れは確実に浄化されている。だが、スレイ達の力ではまだまだ足りないことは明白だった。
「大丈夫よ。お兄ちゃんとの約束を破るわけじゃない。それに少なくともワタシの心は救われるわ」
彼の横顔を一瞥して、再び乱戦状態の場所へと視線を戻す。凶器である爪と尻尾を振り回して暴れ回る彼を見つめて、エドナは愛おしそうに目を細めてうっすらと微笑む。
「誤算だったのはお兄ちゃんの方。ワタシのことを甘くみていたせいよ」
耳を塞ぎたくなるような雄叫びが山頂に響く。あまりの音量に眩暈を起こしたのか、膝をついたアリーシャに癒しの陣を張る。隣で無言のまま風の刃を召喚させ、交差した刃が地を抉ってアイゼンを襲う。
戦闘の音が鳴りやまぬなか、黙ったまま怖い顔をした男の口が開くのをエドナはじっと待った。
「……ったく、兄妹揃って酷いねぇ。俺に殺されろってか?」
ようやく返された言葉は、いつものようなおどけた口調で、けれどいつもよりも疲れた声音だった。
自分の兄を親友だと言っていた男に、エドナにしては珍しい表情で笑った。
まるで彼女の名前と同じ、可憐なエドナの花のように。
「そうね。せいぜい諦めてちょうだい。お兄ちゃんには死なない程度にしてあげてってお願いしといてあげるから」
「そりゃお優しいこって」
へっと不貞腐れ気味にぼやいたザビーダに、エドナは穏やかに目を細める。
「……そろそろ行くわ。くれぐれも邪魔しないでね」
「わかってるさ。俺の真名にかけてな」
「……ありがと」
エドナ自身も珍しいと思うほどするりと出てきた礼の言葉を聞いた相手は、こちらを見ずにひらひらと手を振った。
前方から地響きを伴うほどの轟音が聞こえてきたのを合図に、エドナは戦場の中心へとふわりと駆けて行った。
透き通るような金色の髪を揺らしながら、小さくて華奢な背中が遠のいていく。薄着のワンピースを翻し、兄からのお下がりのブーツで灰色の地面を体重を感じさせない動きで走り抜けていく。
髪に巻かれた若草色と、脚に絡まる黄色のリボン、それから背中に咲いた白い花飾りも相まって、遠目から見るとまるで一輪の野花が咲いているようだ。
孤高になるしかなかった可憐な花。他ならぬ少女自身の望んだ選択を、自分はただ眺めることしかできない。
「……本当に、ひでぇ約束をさせられたもんだよ」
やがて光の球となって姿を消した彼女を見つめながら、ザビーダは行きどころのないやるせなさを苦しげな声にして吐き出した。


「ライラ、穢れは!?」
『まだです!まだ相当の穢れが残っていますわ…!』
吐き出された炎をギリギリで転がり避けながら、スレイは険しい表情でドラゴンを見上げた。彼の領域に押し負けてはいるが、周囲には加護領域が展開されている。それぞれの加護天族にはノルミンが数匹ついて力を貸してくれている。だというのに、ドラゴンから以前穢れが消える気配がない。
以前のように圧倒的に勝てないような力は感じないが、やはり強い。おそらくアイゼン自身の実力が相当なものなのだろう。
一体彼は、どれほどの穢れを取り込んできたのだろうか。エドナのように穢れを放つ人間から離れて暮らすこともできただろうに、何故それをしなかったのか。それともできなかったのか。
荒くなった息を何とか整え、炎の聖剣を構える。今はそれを考えている場合ではない。
「みんな、大丈夫か?」
「ああ、何とか…だが、私達よりも…」
「うん…ドラゴンの方がヤバいんじゃない?」
アリーシャとロゼの言葉に、スレイはぐっと奥歯を噛みしめる。至る所に裂傷が刻まれたドラゴンは、苦しそうに呼吸をして明らかに消耗している。
このまま浄化を続けていたら、アイゼンは。
『……スレイ』
「……わかってる…」
気遣わしげな、けれど諭すような響きを含んだミクリオの声に、スレイは自分に言い聞かせるように呟く。
胸が痛みを伴ってきしきしと軋む。罪悪感や悔しさが、留まることなく胸の底に落ちてきて息苦しい。
この選択は、エドナを悲しませる。きっと泣かせてしまう。傷つけてしまう。
大事な人を、この世から消してしまう。
指先が白くなるほど大剣を握りしめる。それでも苦しさは消えない。

でも、自分で決めたことだ。他の誰にも、この役目を任せようとは思わなかった。
「…アリーシャ、ロゼ」
息を吐いて、スレイは静かに従士の二人に声を掛ける。彼女たちはドラゴンを見据えながらも、自分の声に耳を傾ける気配を見せた。
「一気に決める。その間、二人で時間稼ぎをしてほしい」
「スレイ、それは…!」
はっと見開かれた翡翠がスレイに向けられる。透明な瞳から伝わる無言の問いかけに、スレイは決意を秘めた眼差しで見つめ返した。
「…決めたんだね、覚悟」
「……そう、か…」
ロゼの言葉に、スレイは頷く。アリーシャは揺れ惑う感情をあらわにして二人を交互に見るが、やがて彼女も瞼を伏せ、覚悟したように顔を上げた。
『―――そう。やっぱり殺すのね』
だが、アリーシャから放たれた声は、彼女とは別の鈴の音のような声だった。


「エド、ナ…さま…?」
驚きに震える声が耳元に聞こえる。その声を無視して、エドナは白い厚手のグローブに包まれた手を握ってみた。
初めて器にした時のような動かしにくさは感じない。寧ろ自分の身体と変わらない。違うのは目線の高さだけだ。
そう判断してから、エドナはスレイを見据えて”長槍”を突き出した。
「ぅわっ!?」
「ちょっ、アリーシャ何やってんの?!」
『違う!今姫さんの中にいるのは…!』
白く華やかな槍と白く勇ましい大剣が、火花を散らして交差する。仕掛けた少女も剣で防いだ少年も、驚愕に満ちた顔で互いを凝視している。
「エドナ、何を…!」
『だってもなにも、こういうことよ』
『ああっ!』
アリーシャの身体に憑依した”エドナ”は、瞠目した表情から一転して皮肉げな笑みを浮かべ、長槍で聖剣をからめとりそのまま振り上げてスレイの態勢を崩させる。
その隙に素早く腕を伸ばし、腰布の下に隠れたそれを奪い取る。
「しまった…!」
『やっぱりね。どうせデゼル辺りが入れ知恵してると思ったわ』
どこか気怠げな声音で息を吐いて、エドナはロゼの中に入った風の天族を一瞥する。
その手には、銀の細工が施された、美しい銃があった。
『アナタは一番早く気付いてたものね。この子がロゼと同じくらい、霊力を通しやすい身体になってるってことを。それから―――』
言い終えるや否や、彼女の身体が光り輝く。光の向こうで、スレイ達が息を呑む姿が見えた。
『モルゴースで護法天族が身に着けてた装飾品を授かったことで、地の天族となら神依化ができるようになってたってことも』
薄金の髪が金色に輝く。ドレスのような白い装束に身を包まれ、両脇には巨大な岩の拳が浮かぶ。
「エドナ!それをやったらアリーシャが…!」
『そうね。この子の身体にかなりの負荷がかかるでしょうね。だから邪魔しないでくれる?』
焦燥した様子のスレイをそう一蹴して、エドナは岩の拳に乗ってふわりと宙に舞う。
スレイとロゼが追いかけてこようと駆け出す。だが、ふいに暴れ出したアイゼンが二人の行く手を阻み、そちらに応戦せざるを得なくなったようだ。
彼らに一瞥をくれて、エドナは更に空へと上昇する。巨大なアイゼンでさえ見下ろすほど上に。
「エドナ、様…!」
『あら、まだ意識があったの?』
「やめてください…!そんなこと、したら…エドナ様が…!」
『人の心配より自分の心配をしたらどう?アナタの状態だって危険なのよ』
少しは自分の事を大切にしろと以前窘めたが、どうやらまったく改善されていないようだ。これだから生真面目な頑固者は困る。
呆れ切った声でそう返して、エドナは小さく口の端を上げた。だが、そんなお堅い性格は嫌いではなかった。
一度目を閉じてから、ゆっくりと瞼を開く。
華美ではない綺麗な柄をした銃を見つめ、そして自分よりも一回り大きな、けれど女性らしい白い手でそれを構えた。
『ずっと苦しめて……ごめんね、お兄ちゃん』
どれくらい長い時間離れ離れになっていただろう。年月を数えるのも面倒なほど、ずっと兄の帰りを待っていた。
その間にどれほどの想いが積み重なっていたか。どれほど再会を待ち焦がれていたのか。その気持ちの重さを、そして大きさを正確に知っているのは、この世でエドナ自身だけだ。

きっとそれが、この場にいる全員の誤算だったのだろう。

「エドナ様…!!」
――――けどね。本当は、最初からわかっていたの。
「エドナ!バカな真似はよせ!」
"アレ"はもうただの化け物だって。沢山の命を食べてしまったアレは、もう殺すしかないって。
「エドナさんお願いです!早まらないで…!」
ワタシがここに縛り付けてしまっているだけ。全てを否定しきれないなら、絶対に無理だって言いきれないじゃない。
そんなあってないような小さな希望に縋りついて、そのくせ自分からは怖くて探しにいけないまま、何百年も。
「ちょっと!マジでシャレになってないから!アリーシャ、意識あるならエドナ止めてっ!」
『無理だ!完全に身体を乗っ取られてやがる…!』
全部わかってたのよ、そんなこと。
それでも、それでもよ。
どうしても会いたかったの。ワタシと同じ色の髪と目を、ワタシとは正反対の大きな背中を。
「エドナ様…!やめて、ください…っ!」
ひと目だけでもいいから、会いたかったのよ。

『―――スレイ』
最期に、エドナははじめて契約を交わした導師に語りかける。
『今までありがとう。さようなら』
最初は困った時だけ頼ってくる、身勝手な人間のひとりだと思っていた。
けれど彼は真っ直ぐな心と言葉で、この地に縛られていたエドナを外の世界へ連れ出してくれた。兄を救う方法を探すと約束してくれた。
そんな人間は、はじめてだった。
決して楽な旅ではなくて、それどころか面倒なことが多い導師の旅だったけれど。
この少年導師に引き寄せられて集まった者達との旅路は、いつだって飽きのこない毎日だった。
「っ、エドナぁぁあああっ!!」
スレイが叫ぶ自分の呼び名を聞きながら、エドナは自分でも驚くほど凪いだ気持ちで彼らを見つめる。

けど、それ以上に。
ほんの一瞬でもいい。それでもいいから、会いたかった。
―――だって、ワタシはお兄ちゃんのことが、誰よりも大切なんだもの

これ以上ないほど穏やかな微笑みを浮かべながら、エドナは自らの命と引き換えにその引き金を引いたのだった。








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