おおかみと赤ずきん 僕と、君と、





―――愛しているよ、抱きしめたいよ、だけどできないんだよ―――!




ざぁ、という音と共に風が木々の隙間を、草花をすり抜けていく。その風に乗って小さな花弁や草の欠片はさらわれ、山の向こうへと旅立つように舞っていった。地にしっかりと根付いているものは後から追い付いてきた微弱な風にゆらゆらと葉や茎を動かす。空に浮かぶ雲は、相も変わらず自由気ままにゆっくりと形を変えながら移動している。綿花のような柔らかな白と対比するように突き抜けるような青が、木々の隙間から陽の光とともに降り注ぐ。木漏れ日の下には、青々とした葉を精一杯広げ少しでも栄養を蓄えようと様々な植物が光合成に勤しんでいる。
もぞりと、森の中で最も歳を重ねているであろう大きな木の下、そこで黒い影が小さく動いた。尖った耳、細長い顔、鳶色(とびいろ)の剛毛に覆われた、犬によく似た形(なり)をした獣。背中を丸め、組んだ前足の上に顎を乗せて眠る彼の上には、小鳥が数羽。呼吸に合わせて上下する背に、まるでいつものことだとでもいうように落ち着いた様子で羽を休めている。
―――ざぁぁ。先程よりも強さを増した風が彼らの体毛や羽毛をなびかせて通り抜ける。木々の擦れる音、地に生えた雑草特有の青臭さや湿った土の香り、川の流水音を森の外へと運んでいく。小鳥たちは楽しそうにピィピィと鳴き声を風に乗せると、彼方から同じ鳴き声がピィピィと聴こえてきた。それでも大きな獣は身動き一つせず、目を閉じたままだ。

――――――……―――…――――――……

ふいに鳥とは違う、しかし澄んだ音が森に小さく響いた。ぴくりと三角形の耳がその音に初めて動く。

――――ン………カ…ン……―――――

自然のものとは異なる、無機質の音。狼のまぶたがゆっくりと開く。体毛と同じ赤褐色の、力強さを感じさせる瞳。頭を気だるげに持ち上げて、その音色だけを捉えようと耳を前後に動かす。天敵である彼が起きたにもかかわらず、小鳥たちは遠くの仲間と大合唱中だ。

――――…ラァ…―――――カラ…ン……

この森から少し歩いたところに、町がある。その町の中に白い壁と黒い屋根を持ったどこか異彩を放った建造物が建っており、その傍に同じく白い柱と黒い屋根を持った建築物の頂上で金色に輝く金属物がある。それが揺れ、空洞の内部にぶら下がった振り子が丸みを帯びた台形の外部とぶつかり合った音。それがこの音の正体らしい。らしいというのは遠目から見たことはあるが実際に動き音の鳴る瞬間を狼自身は見たことがないためだ。重たく、鈍く、しかし己の背でさえずっている鳥たちにも似た澄んだ音色。風の強弱によってそれも大きくも小さくも耳に届いた。

―――メイト、

名を呼ぶ声が聞こえた気がした。しかしそれは空耳だとすぐにわかった。今その声の持ち主は、この場にいる筈がない。何故ならこの鐘の音の元に、彼女はいるのだから。

――――私ね、結婚するの……

そう告げられた。その日その時、時間がわからずとも鐘が響けばそれが合図だと。
狼は――メイトは、その知らせを耳に捉えながらのそりと起き上がる。バランスを崩した小鳥たちはぴちち、と鳴きながら空へと羽ばたいていった。その背に悪いな、と小さく呟きながら、狼は町のある方向へと顔を向けた。

今日は、結婚式。いつも赤い頭巾をかぶっていた、小さな女の子だったあの子の。快活で明快で活発で、胡桃色の髪を風に遊ばせながら季節を花を動物を愛でる聡くて優しい、メイコという名の女性の。
狼の足元には一枚の四角い厚紙が置かれていた。金の色で装飾に可愛らしい小さな花をあしらった――彼ですら紙にしては上等なものだとわかった――招待状。名前の欄には自身の名前が書いてあるそうだ。人の言葉は理解できるし話すことも可能だが、文字などといった彼らの文化にかかわるものは生憎と狼はわからない。だのに何故名が記入されていると知っているのか、また何故彼がこれを持っているのかというと、何のことはない。この招待状をもってきた本人がメイトに渡し、その時に彼女がその文字の意味を教えてくれたからだ。


―――メイト、知ってる?私達人間はね、年齢で大人と子供を分けてるの
あれは、数年前の出来事。
歳月が流れた。この森に来てから、もう何年になるだろうと感慨にふけるほどの時間が。少なくとも10年は居座っていることは確かだ。瞬く間に時が過ぎた気もするが、過ごした日々は穏やかで緩やかなものだったと思う。

―――生まれてから20年経ったら成人したってことになって、大人になるのよ
幼子だった少女は今や二十歳になった。彼女の住んでいる町では、周りから形式的に子供から成人へと認められる年齢なのだそうだ。

―――だから、それまでは子供なの
わざと明るく振る舞って、いつもの軽口のようにはいた言葉。けれど振る舞い切れなくて、震えていた声音。

―――だから、だからね…、
そんな屁理屈を無理やり道理にして、あの時彼女は言った。

―――まだ…メイトと一緒にいても、いいかな…?
メイトは逃げだと、誤りだとわかっていながら、その縋るような声に是を唱えたことを、昨日のことのように思い出せる。


その時効が今現実として、メイトの目の前に突き付けられていた。



◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


森を抜けて、切り立った丘へと出た。身体についた草や実を振り落とすために全身をぶるりと震わせる。草独特のにおいが鼻を掠め、そしてすぐに霧散した。それから一呼吸置いて、ぽてぽてと丘の先へと足をのばす。
もう、終わった頃だろうか。
遠目に見える町の、他の民家と比べて異彩を放つ白い建物を眺めながらふと思った。招待状の日付は今日だ。
くつりと、メイトは可笑しそうに笑った。
「何で俺にまで渡したんだ。行けるわけないだろ」
いつものように他愛のない会話をしてその話を聞いて、暮れた日を見て帰る時刻になって、そして別れ際に突然はい、と訳もわからぬままに渡された。だからこれを持ってきたのだと言われて唖然とし、感傷に浸る間もなく(それはそれで自分が気持ち悪いが)その隙にメイコはさっさと帰っていってしまった。全てが一方的だった。
彼女がいなくなってしまえば自分で考える他なく、とりあえず眉間にしわを寄せながらぐるぐると思考を巡らせた。そして考えた結果、普段と変わることなくここにいる。
来てねとは言わなかった。だから来なくてもいい…というかメイトが来ないのを承知の上で渡してきたのだろう。おそらく知ってほしかったのだ。互いのけじめのために。
「悪いな、行けなくて」
それでも、口で言うだけでなく招待状を渡してきたということは、来てほしかったのだと、思う。
陽の光の下白く輝く美しいドレスを着て、綺麗な花束を持って、皆に祝福してもらうのだと、語っていた。その声は少し照れくさそうで、寂しそうで。けれど本当に嬉しそうで、幸せそうで。メイトは目を細めて、相槌をうちながら耳を傾けていた。
「今頃、えらいお祭り騒ぎなんだろうな」
今になって少しだけ心残りがある。良かったな、と。彼女の話を聞き終えてからそう伝えた。それしか言葉が思いつかなくて、けれど意思を汲み取ったメイコはありがとうと声に笑みを乗せて返してきた。
おめでとうと言えば良かったのに、言えなかった。何故かと問われればメイトの中には既に答えがはっきりと出されていて、それに対する言い訳すら思いつかないことに未練がましいと後から呆れ混じりに苦笑するしかなかった。
「町中の皆が祝ってくれてるんだっけな。……豪勢なんだろうな」
ただ、切なさに痛む胸は確かに苦しいけれど、その更に奥底の心は驚くほど穏やかであった。その理由はわかっている。メイコと結ばれる相手があの青髪の少年――今となっては青年だが――だからだ。
メイコがあの青年に次第に心惹かれていっていたことを、メイトは彼女との他愛ない会話から感じ取っていた。例えば、日々を重ねるごとに大きくなったこと会話に占める青年の割合、無言の間を過ごしていた際にふわりと漂うポプリの香りに何かを思い出したかのように小さく零れる笑い声、彼のことを話している時の、楽しげな口調に混じった照れたようなそれでいて至福をじんわりと噛み締めた声音。彼女が自覚していなかった頃から、メイトはそんな些細な変化に気付いていた。
勿論今日までの彼女と紡いだあたたかでしあわせな日々も心が凪いでいる要因でもあったが、それは主にメイトの心が崩れないための堅固な支えとなってくれたにすぎない。 「ま、俺が行ったら別の意味で大騒ぎか」
ついと細めた大地の色を宿した双眸が少しだけ、何かに耐えるように揺れる。折角のめでたい日に、彼女だってそんなことを望んでいない筈だ。いっそ行ったら行ったでそれはそれこれはこれで花嫁本人に勢いよく追い返されそうな気さえする。容易に想像できて理不尽だなおいと苦笑した。
だけれど、ただ、
「……俺も、」
ただ、欲を言っていいのなら。
曖昧な境界線にいた少女が大人へと成長した姿を。
いつもの赤い頭巾がトレードマークの彼女ではなく、眩しい程に真っ白なドレスを身に纏ったその姿を。
「俺も、見たかった、な…」
ぽろりと零れた言葉は丘の下へと転がって、やがて地面へと消えていった。

メイトは少女のことが好きだった。メイコもまた、狼のことが好きだった。恋情とか、愛情とか、メイト自身の自惚れを除いても確かにそういった呼び名のつくものがメイトのそしてメイコの中に存在していた。
だが、それと同時にメイトはメイコの幸せを願っていた。そしてそれは、自分と彼女が共にある未来を否定するものと同義であった。少なくともメイトの中では、覆されることのないものだった。
だから、その願いを叶えてくれる存在がメイコの前に現れたことが嬉しかった。悔しさや痛みや辛さや苦しみは目を逸らせない程にはあったけれど、それを凌駕するほど余りある穏やかな喜びがメイトの心に溢れ満たしていった。
ふ、とメイトは微笑してゆっくりと瞬(まばた)きをする。
だから、いい。願いが叶ったから、いい。



ふいにメイトの尖った耳がぴくりと動く。森のさざめきとは違う、大地を踏みならす靴の音と衣擦れの音が聴こえてきた。動き方からして人間のものだ。それも二人。やけに慎重に、そしてこちらに近付いてきている。
メイトは怪訝そうに首を傾げる。聞き覚えのない音だった。いや、人の足音自体はそれこそ数え切れないほど聞いてきた。ただ彼がこの森で聞き続けた特定の者を表わす音とは異なるそれで、故に胡乱げに眉を潜めた。
だが、人間がこちらに向かってきているにも関わらず、狼はその場から動こうとしなかった。急げば森の中に隠れることができるだろうが、今のメイトにそんな気が全く起きなかった。
見付かった途端驚かれて、一時の間を置いて悲鳴をあげられ……その後なんて容易に想像ができる。だが、もしかしたら丁度いいのかもしれない。この森には長く留まり過ぎた。そろそろ重い腰を上げて、放浪の旅に出る頃合いだと、そういうことなのだろう。ただ招待状を渡されたあの日が今生の別れというのも気持ち的に納得がいきがたいものがあるから、折を見て彼女に別れだけでも告げていきたい。
すぐ後ろでがさりと草が動く音がした。そして小さく息を呑む音が二人分。ああやっぱり。その先の展開がわかっていても、気持ちが沈むことには変わりないなと諦めるように俯いて目を閉じた。


「―――メイト」

凛とした声が、耳朶に響いた。

「―――っ!?」
バッと勢いよく身体ごと振り返ると、そこには栗色の短い髪と見たことのない純白の衣装を風に遊ばせてこちらを見つめる女性がいた。やけにゆっくりとした歩き方だったのかこのためか、と停止した頭で思った。その半歩ほど後ろには、青髪の青年。彼女と対になるような、身なりの良い灰白色の服を身につけていた。
瞠目するメイトにかまわず、女性は―――メイコは、よかったと口を開く。
「―――いつものところにいなかったから、ここかなと思って」
当たりね。花嫁が綺麗に笑う。驚愕に固まったまま動けないメイトは、その微笑みに目を奪われるばかりだ。
何でここに、後ろの奴は誰だ、というか式はどうした、真っ白な頭がようよう思考能力を取り戻しはじめた瞬間溢れんばかりに出てきた疑問をそのまま彼女に言い募りかけて、しかし寸でのところで口を噤んだ。回転を始めた脳はどうやらまだ混乱を極めているらしい。飲み込み切れず喉元に引っ掛かった言葉を溜め息に変えて吐き出す。それからいつものように意思を伝えようとして、はたと止まる。彼女の隣へと移動してきた青年が目に入ったからだ。大きな獣と会話する女性を、彼は何と思うだろう。浮かんだ疑問は経験則をまじえて脳内を巡り、瞬く間に弾き出した答えにメイトは解れかけていた緊張を再び強めた。それは彼が最も恐れる結末だ。メイトは数分前の自分に内心舌打ちをする。妙な自棄を起こさなければよかったと後悔するが、もう遅い。彼女の姿を見て明らかに驚いてしまった時点で、今更知らぬふりを決め込むという道は閉ざされてしまっていた。 どうすれば…。必死に打開策を考えながら、ちらと青年を見やると、驚くことに目が合った。思わず視線を固定させて動けずにいると、ふいに青年が困ったように苦笑いし、深い海を思わせる青い頭を狼に向けてぺこりと下げた。予想だにしなかった行動に目を疑っていると、大丈夫よ、と柔らかいアルト調の声が耳に入ってきた。
「彼は…カイトは、メイトのこと知ってるから」
カイト、彼女の紡いだ名を口の中で繰り返し、ああこいつが…と男の正体を聞いて納得する。そうか、彼があの時の。カイトと呼ばれた青年は一歩前に進み、メイトを真っ直ぐ見つめてはじめまして、と再び軽く頭を下げた。
「貴方のことはメイコから伺っています。無口で無愛想で、けれど優しい大きな狼だと。襲ってこない上に、人の言葉がわかって話すこともできる不思議な狼だとも」
そう続けた彼の言葉にメイトは驚愕し勢いよく彼女を見ると、知ってたと言わんばかりに二対の琥珀に可笑しさを滲ませて微笑んでいた。
「気付いてたわよ。メイトが喋れるってこと」
そんなに意外?逆に問いかけられて、メイトは半眼になる。当たり前だ。こちらは知られていないと思っていたから話さなかったのに。
「………いつから知ってた?」
しかしそれに頷くのも癪で、代わりにそんな言葉を躊躇いがちに投げかけたら最初からと即答された。
「初めて会った時、森から出してくれたでしょう?そのときメイトの声が聞こえたのよ」
メイトはがくりと肩を落とす。本当にはじめから知っていたのか。あぁそういえば何で喋らないんだと度々癇癪を起されていた記憶がある。あの時は何言ってやがるこのガキくらいにしか思っていなかったが。
「…で、何しに来たんだ?」
過去を思い起こし自分の情けなさというか空回りっぷりに若干黄昏ながら、そもそも何故彼女らがここに来たのか理由を聞いていなかったことに気付き、顔を上げて尋ねた。
「メイトに会いにきたの」
「それは見りゃわかる」
「それと話しに」
「…それだけか?」
「あとカイトを紹介しようと思って」
「……あとは?」
「え、それだけ」
きょとんと首を傾げるメイコに、狼は地に腹を擦りそうになった。それだけのために何故よりによって結婚式とかいう多分人にとって重要な祝い事を途中で放り出すんだこいつは。
思ったことをそのまま伝えると、彼女は目をしばたかせながら不思議そうに口を開いた。
「町の人には言ってあるわよ?」
「そういう問題じゃねぇよ」
すかさず突っ込むと乾いた低音の笑い声が聞こえてきた。青年も狼の気持ちが多少なりともわかるらしい。よかった味方がいた。その笑声を聞きとったメイコは不満げに何よ、と彼を軽く睨めつけた。
「カイトだっていいって言ってくれたじゃない」
「確かに言ったけど、まさか式の途中で行くとは思わなかったからさ…」
まったくもってその通りである。
「まぁ、メイコらしいといえばらしいけどね」
「…そうだな」
その言葉に思わず同意して、はたと青年と顔を見合わせる。互いに戸惑うような視線を送りながら、やがて自分と同じように彼女に対してどこか悟ったような色を見つけて、苦い笑みを零した。
「お前も振り回されてるんだな」
「メイトさんも、みたいですね」
無意識なのだろう。メイトと向き合った瞬間、袖から覗いた無骨な手が拳を作ったことを狼は視界の端で捉えていた。晴れた空を切り取ったような瞳の奥に、恐れを宿していることにも。幾度となく見てきた色だからすぐにわかった。自分より強いものに怯える。ここの動物達やメイコは本当に例外で、カイトの反応は人間らしい、というよりも動物の本能として当然のことだ。
メイトはふ、と目を細める。それでも恐怖の対象と向き合って、それを隠して対等に話そうとする人間は、メイトが出会った人々の中で誰一人としていなかった。柔らかそうな…言葉を選ばずに言っていいのならひ弱そうな面差しであるが、存外肝が据わっている。
「…流石だな」
「え?」
「いんや、あいつと同じで変わりもんだなと思っただけだ」
「あ、はは…でも、それを言うならメイトさんもじゃないですか」
「違いない」
くつりと笑うと、カイトも同じように口の端を上げて笑った。まさか狼(俺)と人間が。自分自身が作り出しているにもかかわらずその珍妙な光景が可笑しくて更に笑えてきた。
「誰が変わりものよ」
いつもよりか低い声音が入ってきて、見てみれば案の定メイコが拗ねたような表情でこちらを見ていた。お前だお前とからかいを含めてそう告げると、人のこと言えないでしょ、と返してきた。その通りだがお互い様だ。こんな状況を作り出してくれたきっかけは、他ならぬ彼女なのだから。
「カイトも、否定してくれたっていいじゃない」
「えー、褒め言葉だよ」
「褒めてるように聞こえないっ」
白い手が青年の肩を叩く。聞こえた音の具合からいって弱くはなさそうだ。痛い痛いと抗議しながらも甘んじてそれを受ける彼は、けれどその双眸の奥に滲む色が蜂蜜のような甘さを宿していて。
メイトは胸を締め付けられるような感覚を覚え、気付かれないように一度ゆるりと瞳を閉じて、静かに息を吐く。違和感を覚えさせないぎりぎりのところまで時間をかけ、何とか衝動をやり過ごしてゆっくりと開いた。
「それで、話ってなんなんだ?」
式の途中ということはそう長くもいられるわけではないのだろう。何といっても彼らは主役だ。そう尋ねると、そうだったとそれまでの応酬を止めてメイトに向き直った。メイコが一歩前に出て、鉢合わせしたときと同じような立ち位置になる。
「メイトにね、お礼を言いたかったの」
「…は?」
身に覚えのないメイトは思わず素っ頓狂な声を上げた。その様が面白かったのかくすりと笑われ、狼は顔をしかめる。物言いたげな視線を送るが、大して効果がなかったのでメイトは諦めて話の続きを無言で促した。それを察した花嫁は満足げな表情を浮かべ、それからはにかんだ笑みを滲ませてメイト、と口を開いた。
「ありがとう。私に恋を教えてくれて」
その言葉を皮切りに、紅を塗った唇が言葉の形を作って音を放つ。
「楽しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、悔しいこと。メイトのおかげで沢山知ることができた」
恥ずかしそうに目を伏せ、白いグローブに包まれた手を胸の辺りで重ねる。ちらりと横目で隣の青年を見て、そしてまたメイトに視線を向ける。
「メイトのおかげで……カイトのことが、好きだってわかったの」
出会った頃はメイトよりも小さかった女性は、彼に近付いて真っ白な衣装が汚れるのもかまわず膝を曲げる。同じ高さで、同じ色の瞳が交わる。そして、今までに見たことのないような表情で、綺麗に笑った。
「他にも沢山…本当に沢山のことを教えてくれて、ありがとう。おかげで私は今、すっごく幸せよ」
「――――、」
身体が固まった。切れ長の眼がこれ以上ない程見開かれているだろうことがはっきりとわかる。
そっと伸ばされた手に、反射的に仰け反った。けれど、穏やかに笑う彼女に大丈夫と言外に告げられて、止まる。たおやかな腕が頬を掠め、ゆっくりと、ゆっくりと、優しく首に巻かれる。顔の横で、彼女が幸せそうに笑う声が聞こえた。それから小さく、本当に小さく、囁くような、けれど確かな声で―――。

「大好き」

ぽつりと、まるで大事にしまっていた大切な宝物を、もったいぶらせながら手の平をそうっと開いて見せるような、そんな声で、そんな言の葉を紡がれた。
心臓が震える。その震撼は熱を伴って血流に乗り、駆け巡っているかのような速度で全身に伝播していく。それは、驚きでもあり、戸惑いでもあり、確信でもあり―――そして、それらを遥かに上回る程の至福であった。
衝撃といっていい程の熱の激流が段々と落ち着いてきて、強張りに強張りまくった体躯から徐々に力が抜けていく。やがて脱力に近い状態までほぐれてきて、重力のままにこてんとおとがいを彼女のむき出しの肩に乗せた。顎ごしに体温と、僅かな脈拍が伝わってくる。その生きている証が、何故だか無性に愛しく感じた、
「………あぁ…」
零れた言葉はその言葉にもなっているかわからないような一言だった。
言いたいことは沢山あった。教えてくれたのはお前のほうだ。お礼を言いたいのはこっちのほうだ。今彼女が言ってくれたことだって、本当は謝りたかったことだったのに。誤った道に行くことを止めずに眺めていたことを、だけど全てを感謝として述べられてしまった。あぁもうなんだってこいつは。内心で並べたてられる悪態は、しかしだからこそ惹かれたのだということもわかっている。

ちらりと目線を前に向ける。青年と目が合った。何となく気まずくなって悪いな、と言外に告げると、カイトは静かに首を振って穏やかに微笑んだ。その笑みに浮かぶ感情は、どこかメイトに通ずるものがあった。あぁこいつもちゃんと想っているんだと、こいつらは互いに想い合っていることを知っているんだと確信した。それと同時に心の底に残っていた不安が解けて代わりに安堵が満ちていくのを感じた。余裕が顔を覗かせているのは少し癪だが、だったら遠慮するだけもったいないと開き直れた。
瞼を伏せる。とくとくと鳴る自身の鼓動はいつもよりも早くて、けれど穏やかだった。
「あったかいな…」
「…メイトは、思ったよりも毛並みが柔らかいわね」
「……幸せ、だったか?」
声が湿っていることには気付いていた。だが、敢えて指摘はしなかった。もしかしたら自分だって人のことは言えない声になっているかもしれない。だから代わりに、僅かに逡巡してそう尋ねたら、メイコは聞いてなかったの?と不満とからかいを含んだ声で問い返された。
「今だって幸せよ」
小さく震える声を、それでもわざと明るく返してきた彼女の返答に小さく目を瞠り、それから喉の奥で笑ってそうか、と呟いた。
きっとメイコは、会ったその時から既に何となく察していたのだろう。メイトが何を考えていたのか、何を決意したのか。そのことが少し申し訳なくて、けれど通じ合っていることが嬉しかった。

だから、もう――――――

さぁぁ、と枝葉が擦れあう音が風と共にやってきた。春らしいのどかでであたたかい気流は、森を人を狼をすり抜けて丘の向こうへと去っていく。その透明な船に、森に溢れた香りを乗せて。



――――ふいに、嗅覚が妙なにおいを捉えた。
目を開き、顔を上げる。ちりちりと痛みにも似た何かが背筋を駆け抜ける。

森の木の後ろで、物影が動く。男がいた。背の高い、痩躯の男。メイコやカイトとそう変わらなそうな若者が、息を潜めてじぃっとこちらを見つめている。
その姿を認め、瞳に宿った昏いものを見てとった瞬間、メイトの全身の毛が一気に逆立っていくのを感じた。
陽の光の隠れた場所に佇む男は、その日陰すら薄いと感じさせる程真っ暗な黒髪を揺らしながら、無表情で見ていた。感情のない整った顔は、努めて押し殺そうとしているように思った。だが、その押し殺している感情が何か、男が構えている細長い筒のようなものが雄弁に物語っていた。鼻が捉えたのはあれから発せられるものだ。メイトが、狼が最も毛嫌いしている、あの。
「メイト?」
狼の身体が強張っていることに気付いたメイコが埋めていた顔を離して疑問符を投げかける。ともすれば唸ってしまいそうになる本能を無理やり抑え、少しでも落ち着こうと一呼吸分間を置く。何とか平静の片鱗をとっ捕まえていや、とあやふやに答える。何でもない風を装う余裕はなかった。幸いな事にまだメイコもカイトも気付いていないようだったが、このままでは自分はおろか抱きついているメイコも危険だ。彼女を振り払って彼らから距離を取ろうかと考えを巡らせる。威嚇して尻尾を巻いて逃げる類の者であればそうしたが、どうにもそういった輩ではなさそうだった。構えた銃が震えていない。闇に通ずる昏い眼は不気味なほど凪いでいた。おそらくそれの扱いに慣れているのだろう。
しかし、男が射抜くように見つめている視線の先が自分ではないことに気付き、まさかとメイトは絶句した。背中に冷たいものが伝い、心臓が奇妙に跳ねあがる。
カチリ。無機質な音が耳に届いた。頭の中で警鐘が煩いくらい鳴り響く。見ているのは自分ではなかった。向けられた銃口はメイコを狙っていなかった。闇色の瞳の、鈍く光る筒の先にあるものは、

――――――パァン―――!!

乾いた破裂音が空を切り裂く。
男が気配を殺して狙いを定めていたのは、海の色で染めたような青い髪の、今日、メイコの伴侶となる青年であった。












そう思い込んでいたのは、他でもない、僕らでした。



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