―――列岩地帯。大小の岩礁が重なりあい、複雑な形をなした岩の島。
その岩の島が浮かぶ周辺の海に、無数の泡が湧きたっている。島の東側、西側と、その気泡はいたるところで弾けては消え、弾けては消えを繰り返す。
何かが潜んでいることは確実だった。
ふと、メェー、とどこからともなくヤギの鳴き声がした。
漁師たちがここに近寄らない原因である魔物たちが、途端に蜘蛛の子を散らすように海の近くから離れていく。
刹那、気泡が出ていた海面がみるみるうちに盛り上がり、大きな水飛沫を上げて何かが現れた。
塔のような大きな体躯、その節目ごとにある裂け目のような口、体中に浮かんでいる渦巻のような模様。
まるで異世界の悪魔のような姿をした魔物が、次々と海面から姿を現す。やがてその魔物以外姿が見えなくなった岩の島で、魔物はいくつもある口の一つを開けてメェー、と鳴いた。
明日はきっと晴れ
「よっしゃぁ!ワイらの勝利じゃ!」
ヒョォォ!と雄たけびを上げて、モーゼスは槍を大きく掲げた。彼の周りには何体もの巨大なミミズに似た魔物が、枯れた植物のように倒れている。
「うるさいですよ。いちいち叫ばなきゃ気が済まないんですか、あなたは?」
「気持ちええもんじゃぞ。ほれほれ、ジェー坊もワイと一緒に叫んでみんかい!」
「絶・対・に嫌です」
クカカ、と個性的な笑い声でお前も騒げと言ってくる隻眼の青年に、ジェイは眉間にしわを寄せて断固拒否した。本心から嫌がっているのだが、しかしモーゼスは気にした様子もない。
ジェイは深く溜息を付き、倒れた魔物――ディノゴードンの間々に立っている仲間達を見回した。首元の装飾具についた鈴が、音もなく揺れる。
「みなさん、お疲れ様でした。おかげでヤギの襲撃を阻止できました」
ありがとうございます、と感謝を告げると、それぞれがジェイに笑顔を向けた。全員疲れの色があるが、表情は明るい。
ちなみに『ヤギ』というのは、列岩地帯の至る所に倒れているディノゴードンのことである。命名したのは、遺跡船の固有種族であるモフモフ族だ。理由は鳴き声がヤギに似ているからだとか。
その別名をつけた一族の一人というか一匹が、ひょこっとジェイの傍から顔を出した。
「本当に助かったキュー!皆さんはモフモフ族の命の恩人だキュ!」
赤い頭巾を被ったラッコのような生き物が嬉しそうに飛び跳ねている。彼に続くように黄色い頭巾を被ったモフモフ族もぴょんと跳ねた。
「本当にありがとうだキュ!おかげで潜水艦も壊されずに済んだキュ!」
「まったく……壊されずに済んだ、じゃないよ、ポッポ。僕たちがいなかったらどうなってたことか……あれほど危ないことはしないでって、何度も言ってるじゃないか」
眉を吊り上げて叱るジェイに、歓声を上げていたポッポは一瞬でしゅん、と項垂れる。
「キュ〜……ごめんなさいだキュ。魔物避け用に搭載した超音波機能が、まさかヤギを呼び寄せるとは思わなかったんだキュ……」
そう、そもそもモフモフ族の村に近いこの場所に、これほどまでにディノゴードンが集結していたのは、ポッポの発明品が原因だった。
発明者のポッポ曰く、人間やモフモフ族には聞こえない一定の周波数の音を鳴らすことで、周辺の魔物を村に近付けさせないための装置なのだそうだ。魔物がその音を聞くと逃げ出すこと自体は、幾度にも及ぶ実験で証明されていた。
小型の装置で使用運転を繰り返し、本格的に実用を開始したのが今日。確かにここに生息する魔物には効果を発揮し、実験は成功したかにみえた。
が、結果は地に伏しているディノゴードンの数を見れば明らかだ。
ポッポの数々の発明品とその結末を幾度となく見てきたジェイが心配してセネル達を呼び寄せていなければ、今頃モフモフ族の村は以前の二の舞になっていたことだろう。
「最近、ジェイの言う黒い霧の影響で魔物も凶暴化しているから、魔物避けの装置を作ればジェイやキュッポ兄さんたちの負担を減らせると思ったんだキュ……」
ぽつぽつと理由を語り、小さな背中を更に丸めてしょげているポッポを見て、ジェイがうっと困ったように眉を下げた。
そんな彼らを見て、クロエは苦笑いしながら思わず口を開く。
「まぁ、こうして皆無事にいるんだ。そのくらいでいいんじゃないか、ジェイ?」
「そうですよ、ジェイさん。ポッポだって、悪気があってやったわけじゃないですし」
「それは、そうですけど……」
クロエに続いてシャーリィもポッポを援護すると、ジェイは迷うように目を伏せた。
いつもなら易々と人を丸めこむほどに口が回る彼は、モフモフ族に関わることとなると嘘のように言葉に詰まる。ジェイにとってポッポたちは、それほど大切な存在なのだ。
「……ジェージェーは今さらだけどさぁ。クーもリッちゃんも、モフモフ族にやたら甘々だよね」
彼らの会話をスカルプチャを拾いながら聞いていたノーマは、ディノワームに登ったまま呆れたように呟いた。
「そ、そんなことはない!」
「だ、だって、ちゃんと反省してるみたいですし……」
「じゃああたしがポッちんと同じことしても今みたいに怒らない?クーもリッっちゃんも、あたしの味方してくれる?」
慌てて弁明しだした二人にそう問いかければ、彼女たちは揃ってぱちぱちと目をしばたかせ、その次にはノーマから目を逸らした。
「それは……」
「その……」
「ほらぁ!ってかヒドい!庇ってよ!」
予想通りだったがあんまりな反応だ。薄情な二人に、ノーマは怒りと悲しみに任せてディノゴードンをげしげしと踏みつける。モーゼスの傍らにいるギートが、ディノゴードンを哀れむようにクゥン……と鼻を鳴らした。
「す、すみません。ノーマさんが反省している姿が、どうしても想像できなくて……」
「し、シャーリィ、そういうことは心の中だけに留めておくものだぞ」
「クーも否定くらいしろコラぁー!」
「うるさいぞ、バカものが」
むきー!とさらに地団駄を踏んでいたノーマの頭が、その一言と共にガクンと沈んだ。あまりの痛みにスカルプチャを地に落として叫びかけたノーマを、再び大きな拳の一撃が襲い彼女は声もなく座り込んだ。
「まだ他にも魔物が潜んでいる可能性があるんだ。話すのはかまわないが、あまり騒ぐんじゃない」
「うぅぅ……ひどいよぉ……皆してあたしをいじめるんだー!」
「あらぁ?どうしたの、ノーマちゃん。どこか具合が悪いのかしら?いたいのいたいのとんでけ〜」
いつの間に近くに来ていたのか、背の高い女性がおっとりとした口調でノーマの傍に現れた。
今のやりとりを見ていたのかいなかったのか、いまいち掴めない発言をしながらノーマのボンボンのついた頭を優しく撫でる。ノーマは顔を伏せたまま、涙声でその女性に飛びついた。
「うっ、うっ、グー姉さん……あたしを慰めてくれるのはグー姉さんだけだよぉ……」
「あらあら」
抱き着いてきたノーマに動じることもなく、グー姉さんことグリューネはにこにこと微笑んで彼女を撫で続ける。
ふいにノーマがグリューネの胸元からちらりとこちらを見上げ、勝ち誇ったような顔をした。案の定嘘泣きだったと、仲間達は呆れたような表情を浮かべて溜め息をついた。
「何やってるんですか……」
ジェイの言葉に、羨ましがっているモーゼス以外は深く頷く。
ふいに近くで音が響いた。はっとクロエとジェイが身構えるが、その姿を確認してすぐに警戒を解いた。
列岩地帯の向こうから現れたのは、遠目からでも目立つ白い衣服と銀髪の寝癖頭。
「周辺を見てきた。もう残党はいないみたいだ……って、一体どうしたんだ?」
一体のディノゴードンの上で抱き合っている二人。それを遠巻きにする仲間達。
他に危険な魔物はいないか辺りを見回ってきていたセネルは、消えていくディノゴードンの群れの中で何やら微妙な空気になっている彼らを見て、首を傾げたのだった。
◆ ◆ ◆
「村を救ってくれたお礼に、今夜は村に泊まってほしいキュ。モフモフ族の料理人が、腕によりをかけてご馳走を用意するキュ!」
ディノゴードン退治を終え、怪我の手当てや素材の回収など、事後処理がひと段落したところで、ピッポは愛用のハープを片手にセネル達に言った。
「ぜひそうしてほしいキュ!村の戦士を集めて、モフモフ族伝統のホタテのマイも披露するキュ!いっぱいおもてなしするキュ!」
弟に続いてキュッポも小さな手を目一杯動かし、ポッポも兄二匹の言葉にこくこくと頷いた。
名案だとばかりにつぶらな瞳をきらきらとさせて返事を待つ、愛らしい彼らのその厚意を断るという選択肢が、どこにあろうか。
主に女性陣とジェイからの目に見えぬ圧力もあり、お言葉に甘えることにしたセネル達は、列岩地帯の向こうにひっそりと暮らすモフモフ族の村へと招待されることになったのだった。
「セの字!クッちゃん!勝負じゃ!」
「いやいきなりすぎだろ」
「シャンドル……つまりじっとしているのに飽きたんだな」
そして準備が整うまで自由行動となり、村の外れで組み手をしていたセネルとクロエのところに突然やってきたモーゼスが、唐突にそんなことを言ってきたわけである。
呆れながら構えを解いた二人に、モーゼスは悪びれた様子もなくその通りじゃ!と腰に手を当てて笑った。
「言っとくが自慢にならないからな」
一応セネルはツッコむが、モーゼスに言っても通じないことはわかっていた。本当に一応だ。
「ま、どうせワレらもヒマなんじゃろ。だったらワイも混ぜてくれっちゅう話じゃ」
案の定笑い飛ばして流したモーゼスは、子供が見たら逃げ出しそうな悪い顔をして言葉を続けた。ちなみに本人にその自覚はない。
そのあけすけな物言いに、確かにな、とセネルは苦笑いする。弁明しておくが、モーゼスのように飽きたわけではない。今日の戦闘について話し合っていたら色々と課題が見えてきて、だったら今から実践するかとといつものように訓練することになっただけだ。
「で、一体何の勝負だ?」
「勝負……ま、まさかお、泳ぐとかじゃないだろうな!?」
「それもいいんじゃが……って、く、クッちゃん?なしてワイに剣を向けとるんじゃ?」
はっと身をこわばらせて今にも後退りしそうなクロエをちらりと見て、セネルは小さく溜め息をつく。
「泳ぐのは却下だ。魔物は大方退治したが、まだ水中に潜んでいるかもしれない」
「わかっとる。流石に今日の今日だしのう」
その危険性はちゃんと考えていたらしい。セネルの指摘に、モーゼスも素直に頷いた。
横にいるクロエがほっと肩の力を抜いたのがわかった。そしてモーゼスに向けていた剣を、ようやく鞘に戻す。
クロエが泳げないことは、仲間内では自分とジェイ以外は知らない。しかし知った側となってみれば、この動揺っぷりによく周りが気付かなかったものだなとセネルは思う。見ているこっちが気が気じゃない。
「なら、何をするつもりだったんだ?」
こほん、と誤魔化すように咳払いをして、クロエがモーゼスに問いかける。すると、彼は待ってましたと言わんばかりにニタリと歯を見せて笑った。
「こっから列岩地帯まで、誰が一番速いんか勝負じゃ!」
びしっとセネル達を指差して言い放った言葉に、二人は顔を見合わせてまばたきをした。
「競走か……」
「まぁ、それなら」
片や腕を組み、片や顎に指を添えながらそれぞれ呟く。
どんな無茶を言いだすかと思ったら意外とまともだった、とは胸のうちだけに留めておこう。基本的に身体を動かすことが苦ではない二人は、その提案に頷いた。
「よっしゃ!セの字とクッちゃんならそう言ってくれると思っとったわ」
「時間を持て余してたのはこっちも同じだしな」
「ああ。周囲の見回りもできるし、丁度いい」
二人の返答に、モーゼスはクカカ、と楽しげに笑う。
生真面目で融通が利かない、妙に似た者同士な二人だが、これまた二人して何だかんだ付き合いはいいのだ。
仲間内で最もモーゼスと同じノリでふざけあえるのはノーマだが、それとはまた違った気安さをセネルとクロエには感じていた。
「あ、17歳トリオじゃん」
ちょうどその時、その呑気な声が三人の耳に届いた。振り向けば、村の入り口から黄色と緑の凸凹コンビがこちらに歩いてきていた。その後ろから少し遅れて、金髪の少女も肩を落としてついてきている。
「うふふ、セネルちゃんもクロエちゃんもモーゼスちゃんも、何だかとっても楽しそうねぇ」
「姉さんにシャボン娘か」
「それにシャーリィも……シャーリィ?」
「どうした、何かあったのか?」
セネルが心配そうにシャーリィに尋ねる。シャーリィは顔を上げて、困ったようにえっと……と言葉を詰まらせた。
セネル達が疑問符を浮かべていると、ノーマはいや〜、とへらりと笑って頬を掻いた。
「宿でゴロゴロしてたらすごく美味しそうな匂いがしてきてさ。リッちゃんとグー姉さんと一緒に外に出たらすごいご馳走いっぱいあって、ちょっとだけ味見してたらジェージェーに見つかっちゃって……」
ノーマの説明に、それから先のことを察してセネルは半眼になった。
「要するに追い出されたわけだな……お前、どれだけ食ったんだよ」
「ちょっとだけだってば!ほんの二、三口だけ!」
「とぉーっても美味しかったわぁ。お姉さんとノーマちゃんで、大きなお皿い〜っぱいのお料理を食べたのよぉ」
「ちょちょっ、グー姉さん!?」
ノーマは慌ててグリューネの口を押えようとするが、もう遅い。彼女の悪気なしの内部告発に、三人は呆れ果てた。
「ジェイが怒るのも無理はないな」
やれやれと首を振るクロエに、ノーマではなくシャーリィが申し訳なさそうに身を縮める。
「すみません……ノーマさんとグリューネさん、止める間もなくどんどん食べてしまって……」
「シャーリィは悪くないよ。どう考えても全面的にノーマが悪い」
ちなみにここでグリューネの名が上がらないのは、彼女なら何をしでかしても仕方ない、という共通認識があるからである。
「まぁったくシャボン娘は食い意地がはっとるのう」
クロエ、セネルに続きモーゼスにまで呆れられたノーマは、胸に手を当てて大袈裟によろめいた。
「うぐぅっ、セネセネとクーはともかく、モーすけなんかにバカにされるなんて……屈辱すぎるぅぅ……!」
「おい!何でワイ限定なんじゃ!」
腹の底から悔しそうなノーマの呟きに、モーゼスは肩をいからせた。
ここにジェイがいたらバカだからに決まっているでしょう、などと横やりが入れられていただろうな、とセネルとクロエは苦笑いする。トリオというなら彼らの方がよくひとまとめにされているだろう。ジェイからは苦情がきそうだが。
しばらく嘆くノーマを睨み付けていたモーゼスは、やがてため息をひとつ付いてがりがりと頭を掻いた。
「まぁいいわ。シャボン娘、合図出しとくれ」
「合図ぅ?」
ちょいちょいと手招きをしながら言った彼に、ノーマは首を傾げた。グリューネは変わらずにこにこと微笑んでいるままだ。
「シャンドル、具体的なゴールは決めてあるのか?」
「ああ、列岩地帯の手間辺りにギートがおる。そこがゴールじゃ」
「爪術の使用はありでいいよな?その方がいい鍛錬になる」
軽く肩を回しながらセネルは言う。それを聞いたモーゼスとクロエは、眉を上げて強気な笑みを浮かべた。
「ええのう。面白そうじゃ」
「ああ。私も賛成だ」
三人のやり取りを眺めていたノーマは、そこで彼らが何をしようとしているのかをやっと理解した。そしてあからさまに顔をしかめて、わざとらしく仰け反った。
「うえ、さっきあんだけ戦ったのにまだ走んの?ウソでしょ?」
「マジじゃマジ」
腕を組んで肯定するモーゼスを見て、それからセネルとクロエを見る。二人も至って真面目な顔をして頷いた。
そんな彼らを交互に見たノーマは、深刻そうな表情で突然シャーリィの肩を掴む。
「ねぇリッちゃん、ヤバいよ。セネセネとクーがモーすけ菌にやられちゃってるよ。このままじゃモーすけみたいに脳みそまで筋肉になっちゃう……!」
「え、ぇええ?!」
「くぉらシャボン娘!さっきから好き放題言いおってぇ!」
小声ではないそれをばっちり聞いていたモーゼスは、くわっと細い目を開いてノーマに詰め寄る。もちろんその行動は読めていたのだろう。迫ってくるより先にノーマはさっと逃げ出した。
「きゃー助けてー!モーすけ菌がうつるー!」
「人をバイキンみたいに言うのやめんかい!」
モーゼスが捕まえようと腕を伸ばし、それを器用に避けながらノーマたちは村の前をぐるぐると走り回る。
シャーリィはぽかんと目をしばたかせていると、クロエとセネルが同時に溜め息をついた。
「まったく……競走するんじゃなかったのか?」
「シャーリィ、ノーマの言うことは話半分に聞いておくんだ。モーゼスがああなのは元々だからな」
「なんだとコラー!」
「どういう意味じゃセの字ぃ!」
「そのままの意味だ」
さらりと返すと、二人してむきー!と叫んで文句を言い始めた。ザマランが猿というのも無理はないな、とセネルは右から左へ流しながら思う。
そう内心で呆れかえっていると、ふいにノーマとモーゼスが何やら目配せをしはじめた。二人は小さく頷き、それからセネル達を見据える。
「こうなったら……よーいどん!」
「おうりゃぁああ!」
ノーマが腕を振り上げ、彼女の一声が放たれるや否やモーゼスが勢いよくこちらに向かって駆け出してきた。
完全に不意を突かれたセネルたちは予想外の動きに身構える。だが、モーゼスはニヤリと笑って彼らをすり抜けていった。
呆気に取られていた二人は、彼の行動の意味を理解してはっと我に返りまなじりを吊り上げた。
「シャンドル!卑怯だぞ!」
「合図出したんはシャボン娘じゃ!ワイはちゃんとルールを守っとるぞ!」
「クソッ、行くぞクロエ!」
「わかっている!」
言うが早いか、セネルとクロエはモーゼスを追って同時に地を蹴った。その姿はみるみるうちに小さくなっていく。シャーリィ達の視界では、白と黒、それから赤色が平地にぽつんと並んで見えた。
「あーあ。追いかけっこにあーんな本気になっちゃって。セネセネもクーもお子様だねぇ」
モーすけはいつもどおりだけど、と両手を頭の後ろに回しながら、ノーマがため息をはく。
夕暮れは三人の姿を照らし、すでに彼らは黒い点になっていた。爪の輝きだけが星のようにまたたいている。
ノーマと並んで眺めていたシャーリィは、彼女の呟きにくすりと肩を揺らす。
「そうですね。でも……」
胸の前で両手をそっと握り、少女は目を細める。彼女の頭部を飾る花のカチューシャが、夕日に照らされてちかちかと光った。
「お兄ちゃん、すごく楽しそうです」
目を細めながら、シャーリィは逃亡生活を繰り返していた日々を思い返す。
あのときは自分もセネルも、いつ里を襲撃したものに見つかるかとずっと気を張り詰めていた。
「ああやってはしゃぐお兄ちゃんを見るのは、久しぶりだから」
どんなに疲れていても、シャーリィを安心させるように優しく大丈夫だと言ってくれたセネル。けれど、里で姉と一緒に遊んでいた時のような表情は見たことがなかった。
きっとそれはシャーリィも同じで、心から楽しくて笑ったのはつい最近のことだ。
「だから、きっといいことなんです」
「リッちゃん……」
ノーマの方を向いて、シャーリィはにこりと笑う。
ずっとひとりでシャーリィを守ろうとしていたセネルに、やっと心を許せる相手が見つかったのだ。悪いことのわけがない。
ただ、ちょっとだけ悔しいと思う。だって自分では引き出せなかったから。できるなら、自分が引き出してみせたかった。
でも、大切な人が笑って生きている。それが悔しい気持ち以上に嬉しい。
ふと、突然ふわりと頭に何かが乗った。驚いて上を向くと、そこには優しい眼差しで微笑む女性が、シャーリィの柔らかな金糸を撫でていた。
「ぐ、グリューネさん?」
戸惑いと照れでほんのりと頬を染めるシャーリィに、グリューネはさらに目を細めて片手を頬にあてた。
「シャーリィちゃんはとぉーってもいい子ねぇ。お姉さん、シャーリィちゃんのことをよしよししたくなっちゃったわぁ」
「え、えと、もうしてもらってるんですけど、あ、あの……」
「うんうん、ほんといい子だわー。いーなーセネセネ。あたしもあんな可愛げのないジジイよりリッちゃんみたいな可愛い妹が欲しいー!」
ぐっと両手を握りしめて叫ぶノーマに、撫でられ続けているシャーリィはなんと反応していいかわからず渇いた笑いをこぼした。傍から見ていてザマランはノーマのことを大切に思っているのだろうなと感じるのだが、シャーリィが見かけるたびに二人は言い争いをしている。
「よしリッちゃんっ!」
「は、はいっ!」
喧嘩するほど仲がいいってことなのかな、と考えていると、突如ノーマが勢いよく顔を上げてこっちを見てきた。あまりに俊敏な動きに、シャーリィはびくっ肩を跳ねさせる。
「あたしたちも走ろう!」
「ええぇ?」
「セネセネたちだけ楽しんでずるくない?あたしたちも楽しもうよ!」
ぐっと迫って力説してくるノーマに、シャーリィは思わずグリューネの服の裾を掴んで後退る。ちょっと怖い。
「で、でもノーマさん、さっきまで乗り気じゃなかったのに……」
「リッちゃん、人の気はすぐに変わるもんだよ」
「か、変わり過ぎじゃないですか?」
「いーからいーから。ほら、こんなキレイな夕日なんだよ。周りは海、一面の草原。これを見ながら走るってよくない?超いいシチュエーションじゃん。青春じゃん。楽しそーじゃん!」
「え、ええと……」
そう言われると、楽しそうな気がしてくるような。
ちらりとグリューネを見上げると、彼女はあらあら、と呟きつつもニコニコと微笑んでいた。兄は不愛想で度々人に誤解されることがあったが、逆にグリューネは終始この表情だから何を考えているのかさっぱりわからない。
そう思っていたら、人間離れした整った顔立ちがふとこちらを向いた。目をしばたかせていると、グリューネはシャーリィに手を伸ばしてそっと両頬を包み込んだ。
「シャーリィちゃん。お姉さんは、シャーリィちゃんがとぉーっても楽しんでいるところも見たいわぁ」
「え……?」
考えていることがわからないと思っていた女性から、予想外に彼女自身の意思を伝えられてシャーリィはきょとんとしてしまった。
まだ共に行動するようになって日が浅いシャーリィにとっては珍しい彼女の意思表示に、ノーマはうんうんとしきりに頷いた。
「そうそう。リッちゃんだってさ、楽しんでいいんだよ。ていうかあたしも見たい。はしゃいでるリッちゃん!」
ぽかんとしている彼女の顔を覗き込んで、ノーマはにーっと笑う。
それからぱっと離れ、そういうことだから、とノーマはびしっとセネルたちが走っていった方向を指さした。
「さぁリッちゃん、夕日に向かってダッシュよ!」
「は、はい……!」
「うふふ、よーい、どん」
ノーマが先陣を切り、シャーリィが慌ててそのあとを追う。グリューネも一拍を置いてついてくる。
ノーマの背の向こうに、真っ赤な夕日がある。彼女の黄色い背中がオレンジ色に見えた。きっと自分も夕焼け色に染まっているのだろう。
走っているうちに、シャーリィは胸をくすぐられているような気分になった。顔が熱くて、くすぐったくて、むずむずして、湧きあがる衝動は自然と地を蹴る足に力をこめる。
この感覚に、覚えがある。
シャーリィがほしくてほしくてたまらなかったものを、初めてくれたあのときの。
(フェニモール。私、友達が増えたよ)
あなたの妹のデューラとも、仲良くなれるかな。ううん、仲良くなりたい。なってみせるね。
息を弾ませながら、シャーリィは紅潮した頬を緩ませ、苦しくなるのも構わず声を上げて笑った。
◆ ◆ ◆
ステラやシャーリィ以外の誰かと共にいること。それがここまで当たり前のことになるなんて、少し前の自分なら考えもしなかった。
しかもこんな、ただの遊びに本気で付き合うなんて。
そんなことを思いつつ、セネルは赤毛の青年を追い越すために走り続けていた。追いつけそうで追いつけないのは、時々モーゼスが爪術を使ってそこら辺の枝や岩を砕いて妨害をしてくるせいだ。
もう少し近付ければこちらもやりようはあるのだが、あっちも頭ではなく本能でそれを理解しているのだろう。あと数mほどの距離がなかなか縮まらない。
あいつ意外にセコいんだよな、と内心で悪態をついていると、ふっ、と横から吐息のような笑い声が聞こえた。
目線だけ向ければ、肩よりも上で切り揃えられた黒髪に縁どられた横顔に、僅かに笑みを乗せた彼女が見えた。
「クロエ?」
気になって名を呼んだ。怪訝な色をした琥珀と目が合う。
笑ってただろ、と指摘すると、見られていたとは思わなかったのか、バツが悪そうに視線を泳がせた。少しの間そうしていたが、やがて観念したように笑みは苦笑いに変わる。
「ああ、いや……随分と慣れてしまったものだなと思って」
困ったような顔をして、けれど満更でもなさそうな呟きに、今度はセネルが疑問符を浮かべる。クロエはこちらの心情を察して、くすりと笑声をこぼして続けた。
「こうやって、クーリッジと肩を並べて走ることに」
その言葉に、セネルは思わず目を見開いた。こちらの反応に彼女も意外そうに瞬きをする。
ヒュ、と風を切る音が耳を掠めた。そして一拍の間のあと、セネルは耐え切れずに吹き出した。
「は……?っ!?そ、そんなに笑うことはないだろう!?」
突然笑い出したセネルにクロエは驚き、かっと顔を赤くして眦を吊り上げた。
「ああいや、悪い、そういうつもりじゃなくて……」
セネルはくつくつと笑いながら謝る。流石に走りながら笑うのはちょっとキツかった。こんな風に走るのも、そういえばいつ振りだろう。
ならどういうつもりだと、速度を落とさないまま器用にこちらを睨み付けているクロエを見て、セネルは目を細めた。
「クロエと同じこと考えてたからさ。だからつい」
こういった偶然が起こると、妙におかしくて笑いがこみ上げてくる。そんな感覚も久しく忘れていた。
はっ、と弾くように呼吸をして、セネルは前を向く。そろそろ海に着水しそうな夕日は、清々しいくらいに綺麗だ。
「俺もだ。いつだって隣にクロエがいることが、当たり前になってる」
背中を預け合える心強さも、視線一つでお互いの意図が伝わる高揚も、弱音を吐き出せる安心感も。
「変だよな。もうクロエがいないってことの方が、今じゃ考えられないなんてさ」
呼吸の合間に、独り言のように呟く。
不思議なものだ。少し前なら考えもしなかったことなのに、今ではひとりで戦うことに違和感を覚えるようになってしまった。
対等だから、気安いから、考えることが似ているから。けれどそれだけではない気がする。
ただ、そう、彼女の隣は心地いい。
クロエも同じように思ってくれていたらいい。そう考える程度には、セネルは今の関係が気に入っていた。
「……ん?」
しかし、彼女からの反応が一向に来ない。せめて相槌くらいは打つはずだが、とセネルは不思議に思って視線を巡らせた。
横を向いた先に飛び込んできたのは、夕日のように顔を真っ赤にしたクロエの姿。
セネルはきょとんと目をしばたかせる。大体この顔をしたときのクロエは、このあとキッと眉を吊り上げて怒り出す。
何か、クロエを怒らせるようなことを自分は言っただろうか?
「な……なっ……!」
セネルが自分が言った言葉を思い返し、クロエがわなわなと言葉にならない声をこぼす。
やはり叱責がくるなと思った、丁度その時。
前方で空を引き裂くような獣の咆哮が、セネル達の耳に届いた。
後ろから追いかけてくる二人が何やら話しているのが聞こえて、何じゃ余裕じゃの、とモーゼスは文句のひとつ煽りのひとつでも飛ばしてやろうかと思っていた矢先だった。
おろそかになった足に何かがぶつかった。
「うぉおおあっ!?」
モーゼスは体勢を大きく崩しながらも、何とか転ぶ寸前で踏みとどまる。
しくじった。セネル達に追い付かれる。そう思った瞬間、全身が総毛だつほどの殺気が背中に降り注がれた。
「んなっ……?!」
間近で聞こえた鼓膜が破れそうなほどの獣の叫びに、モーゼスは本能的に臨戦態勢になって振り返った。
黒と灰の体毛、巨大な爪の生えた脚。その体躯の大きさには少々不釣り合いな小さめの羽。
そして最も特徴的なのは、王冠のような形状をした赤い角。その下にある小さな瞳が、怒りをたたえてモーゼスを見下ろしていた。
「グランゲート……?!何でこがぁなところに……」
呆然と呟いて、その理由を察して舌打ちをする。ポッポの開発した装置の余波か。
「モーゼス!」
「これは一体……!」
追い付いたセネルとクロエが、殺気立つグランゲートを見上げて声を上げた。グランゲートの体躯で彼らの姿は見えない。モーゼスは魔物越しでも聞こえるように、セネル達に向けて声を張り上げた。
「すまん!寝とったグランゲートにけつまづいて、起こしてしもたみたいじゃ!」
「お前なぁ……ちゃんと前見て走れ!」
「だからすまん言うとるじゃろ!」
「二人とも言い争っている場合か!とにかくこいつを何とかしないと……」
「何とかっちゅうても……」
モーゼスは片目でグランゲートを見上げる。尖った牙だらけの口はいつ見ても笑っているように見えるが、肌に伝わってくる気は怒りに満ち満ちている。
尻尾踏んだくらいでんな怒らんくてもいいじゃろ、と小さく呟くが、相手は魔物だ。こちらの都合など知ったことではない。
とりあえず覚悟を決めるしかない。モーゼスは先手必勝とばかりに槍を掲げた。しかし―――、
「おぉおお?!ち、ちょお待てぃ!」
槍を投げるより先に、グランゲートが勢いよく突進してきたのだ。こちらの懐深くに入り込んできた魔物に、モーゼスは慌てて槍を盾にする。
ガキィッ!と硬質な音が腕に重い衝撃を伝えてくる。モーゼスは押し負けまいと踏ん張るが、グランゲートはふいに力を弱めたかと思うと、頭部をぐいと上に持ち上げたのだ。
「なんじゃ……っ!?」
その動きに角にからめとられていた槍がモーゼスの手を離れた。角に引っかかった槍は、途中で角から外れて宙に浮く。
モーゼスは手の痺れに唖然としながら、以前ウィルあたりが言っていたことをふいに思い出す。そういえば、ゲート種は頭がいいのだとか何とか。
そんなことを思い出していると、ゴッと思わず目を閉じてしまう程の突風がモーゼスを襲った。いや、突風ではない。これは。
「ぎゃひぃぃぃ!」
二度目の怒りの込められたグランゲートの突進に、モーゼスはなす術もなく吹っ飛ばされ、しかも運悪く付近を流れる川へと落ちていったのだった。
「シャンドル!」
巨体の横からモーゼスが飛び出してきたかと思ったら、悲鳴を上げながら川へと落ちた。
その一連の展開に呆気に取られていたクロエは、彼が川に落ちた音ではっと我に返って彼の名を叫んだ。
剣を構えたまま川に目を向けるが、モーゼスが浮き上がってく気配はない。流れも速いのだろうが、どうやらかなり深さもあるらしい。
こんなところに落ちてしまったらと、クロエはさぁー、と青ざめる。思わず剣を握る手に力が入った。
あの馬鹿、とセネルは消えたモーゼスに向けて悪態をつく。普段は八人がかりで倒しているグランゲート相手に、一人で敵うわけがないだろう。
ふと、足の裏から地響きが伝わってきた。ズシン、ズシン、と一定の間隔で地面が揺れる。クロエも気付いたのだろう。注がれた視線に気付き、二人は顔を見合わせる。
「グルルルル……」
頭上から響く低い唸り声。恐る恐る顔を上げれば、怒りに燃えるつぶらな瞳と目があった。
「…………っ、」
ああ、薄々わかってはいた。こうなるんじゃないかとは思っていた。勘ではなく、経験則で。
セネルもクロエもぐっと奥歯を噛む。それでも言わずにはいられない。
「「何でこうなる!?」」
図った訳でもなく、二人揃ってそう叫んだ。
その悲痛な声に反応してグランゲートも咆哮する。ぐっと口元が膨らんだかと思うと、弾丸のような泡を吐き出してきた。
セネルとクロエは左右に飛び去ってそれを避け、グランゲートから距離を取って背を合わせる。泡が当たった草地は、土ごと無残に抉れていた。
「やるしかないよな。やる以外ないよな……」
「……ああ、ないみたいだな」
とりあえず叫んで多少すっきりした二人は、逃げることを早々に諦めて今の状況を鑑みる。
見渡す限りの平原。数十mほど横にモーゼスが落ちた川。それから敵意が剥き出しのグランゲート。対してこちらは二人。
村からかなり走った。応援は呼べそうにない。
「くそ、モーゼスのヤツ、いつまで沈んでるんだよ」
「せめてギートが駆けつけてくれると助かるんだが……」
おそらく列岩地帯付近に繋がっているはずだ。流れ着いたモーゼスを発見するか、このグランゲートの気配に気付いてくれればいいのだが。
ちなみにモーゼスの心配は一切していない。川に落ちたくらいでどうにかなる奴ではないことは、二人ともよくわかっていた。
「!、来るぞ!」
クロエのよく通る声に、セネルは咄嗟に横に跳んだ。地面を擦る鈍いと共に、自分達が今いた場所に巨大な顔が沈んでいた。
セネルはぐっと足に力をこめ、その横面に目がけて突っ込む。
「幻竜拳!」
勢いに乗った拳がグランゲートの口元、顎のあたりに直撃する。と、同時に正面から衝撃波が魔物を襲った。土煙の立ち込める中で、きらりと何かが光った。
「虎牙空裂斬!」
一気に間合いを詰めたクロエが、地面に剣を突き刺し敵を蹴り上げ、着地から流れるように飛び上がって剣を振り下ろした。爪術と組み合わさった強烈な連撃を続けて受けたグランゲートは、悲鳴を上げる間もなく目を回した。
今だ、とセネルは爪を光らせ、跳躍する。内包する気を張り巡らせるように意識すると、全身から炎のような闘気が陽炎のように纏わりついた。
その闘気を纏ったまま、セネルは急降下する。
「鳳凰天駆!」
岩をも砕く蹴りは頭部の真ん中、丁度角の生えていない場所に目測通りに命中した。
顔だけで人一人分以上はある頭が更に地面に埋もれた。確かな手ごたえを感じたセネルは、しかし足裏から押し返される力を感じて瞬時に飛びずさった。
草地に着地したところで、魔物の雄叫びが地を揺るがした。セネルは苦い顔でナックルを構える。
「やっぱこれだけじゃ倒れないか……」
エッグベアやギガントあたりだったら、今の連撃で仕留められたはずだ。何故よりによってモーゼスはグランゲートの尻尾を踏んだのか。運が悪いにもほどがあるだろあいつ。
「普段、どれほどノーマ達ブレス系の力に助けられているのか、身に沁みるな」
傍らまで後退してきたクロエも、険しい表情で頷いた。
双方どちらかの攻撃の手が緩んだら、一度引いて体勢を整える。いつからか、は覚えていない。いつの間にかそういう戦い方をするようになった。いつの間にか、それが当たり前になっていた。
だが、とクロエがちらりとこちらを見る。夕焼けに照らされ不敵に微笑む彼女は、驚くほど様になっていて、綺麗だなと素直に思った。
「私たちの勝てない相手ではないだろう?」
横目で彼女を見ていたセネルは、その笑みにつられるように口端を吊り上げる。
窮地だ。なのに気分が高揚する。
隣にクロエがいる。それだけで負ける気がしない。気の高ぶりはそのまま爪の輝きに比例した。
「ああ、そうだ……なっ!」
ぐぅっと喉を仰け反らせて頬を膨らましたグランゲートに、セネルはもう一度大きく飛び上がり、頭を思い切り踏みつけた。再度放たれようとしていた泡の弾は、吐き出される前に魔物の口の中で爆発した。
「はぁっ!」
すぐ横を黒い風が通ったかと思うと、キィン、と澄んだ金属音が鳴った。セネルの鷹爪脚(ようそうきゃく)で下にさがった赤い角と白い刃がぶつかり合う。力比べはせず、剣は横薙ぎに数度、同じ個所を正確に切り払われる。
綺麗な横一文字に止まった剣は、くいと手首のひねり一つで剣先を地面に向けられた。クロエは鋭い眼差しで、剣を振り上げる。
「月影昇舞(げつえいしょうぶ)!」
深く角に突き刺さった刃が、硬質な音を立てて赤い角を砕いた。敵に背を向けたクロエと目が合う。琥珀色のそれに応じるように、セネルは今しがたクロエが折った角のやや下――グランゲートの目元をめがけて拳を振り下ろした。
「迫撃!戦吼(はくげきせんこう)!」
眩い閃光の後に拳が爆発し、続けざまに獅子の形をした闘気が襲い掛かる。
仰け反ったグランゲートの片目から血が噴き出した。大口を開けて喚く敵に、セネルとクロエは再び距離を取る。
数秒だけ交わる視線。まだ余裕みたいだな。当たり前だ。言葉を交わさなくても伝わってくる相手の意思。
セネルは口角を上げる。柄にもないはずだったのだが、これではバーサーカーと言われても否定できない。けれど、悪い気はしない。
変わった理由は明白だ。隣に彼女がいる、ただそれだけ。
カチ、とリストを鳴らし、セネルはグランゲートに飛び込んでいった。
――――その、刹那。
「なっ……!?」
血走った眼と目が合ったかと思うと、グランゲートが宙を舞った。いや、こちらに向かって飛び掛かってきたのだ。
自分達を押し潰そうとする巨体を見上げ、すぐに前に視線を戻してセネルは駈け出した足を更に速く動かした。踵を返して後退する時間はないと本能的に感じたのだ。
「クーリッジ!」
背にクロエの叫びが聞こえた。その声に押されるようにして、セネルは夕日に照らされた地面へとわき目も振らず走った。
ズゥン、と鈍い音が鳴り、突風が巻き起こる。何とか攻撃をかわしたセネルは、しかしその風圧に軽く吹き飛ばされ、二転三転する羽目になった。
クーリッジ!もう一度名を呼ぶ声が魔物の向こうから届く。セネルは起き上がり、呼吸を整えることもせずに声を張り上げた。
「大丈夫だ!」
しかし、まずい状況になった。セネルは額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。
二手に分けられてしまった。これでは碌な連携ができない。
鼓動を鎮めるように息を深く吐きながら、ちらりと目だけを横に動かして、また戻す。
元々悪かった分がさらに悪くなった。こうなれば、自分がグランゲートを引き付けて、クロエを逃がすべきか。自分一人なら最悪そこの川に飛び込んで何とか撒くこともできる。問題はクロエがそれに納得するか、だが。
セネルは腹ばいになった敵を見据えながら、ふと違和感を覚える。グランゲートは、セネル達を押し潰そうと飛び込んだ状態のままだ。
まさか気を失ったのかと、一歩足を踏み出す。その時だった。
クジラの尾のような尻尾が、ゆらりと持ち上がる。セネルはさっと身構えるが、尾は襲ってこない。
「何だ……?」
不審に思い、グランゲートの様子を窺う。しかし、尻尾以外は特に動きを見せていない。
ドラゴンのものに似た羽根も、角を折られた頭も。
ふいに、ざり、と奇妙な音がした。音のした方向を見極め、セネルは視線を滑らせ―――そして目を見開いた。
「まずい、これは……!」
「クーリッジ?どうしたんだ!」
クロエの呼びかけに、セネルははっとする。しまった、正面にいる彼女には、敵の動作が見えていない。
「クロエ、避けろっ!」
刹那、グランゲートの足がざりり、と地面を抉り、その巨体が大きく横に回転した。先程よりも強い風に粉塵が舞い、セネルは腕を前にかざして後退する。
「くっ……!」
ごうごうと風が唸る。巻き上げられた土に、声も視界も遮られる。
攻撃が止まるまで待つしかない、と目を眇めて隙を狙っていた、その瞬間。
轟音に紛れて、嫌な鈍い音がセネルに届いた。
「今の音は……っ!?」
雑音まみれの中で、その音を拾ったのは奇跡に近かった。
それは警鐘のようなものだったのだろう。巨体の横から飛び出してきた影を捉えて、セネルは何故その音が聞こえたのかを理解した。
「―――っ、クロエっ!!」
名を叫ぶ。けれど宙に投げ出された彼女は応えない。
白い手から剣が離れた。意識を失ったクロエは、そのまま吸い込まれるようにして川へと落ちていった。
セネルは自身の血の気が一気に下がってくのを感じた。いてもたってもいられず、クロエが落ちた川へと駈け出す。
「クロ―――っ!」
しかし、足を踏み出したところで悪寒を感じて、咄嗟に横に転がった。
チッ、と足先に何かが掠め、次いで牙をむき出しにした顔が落ちてきた。
「くそ!邪魔するなっ!」
早くしないとクロエが。焦りと苛立ちで頭が熱くなる。低い体勢のままグランゲートに突っ込み、傷付いた左目にもう一度拳を食らわせる。
しかし、セネルの動きに気付いたグランゲートはわずかに顔を上げてそれを阻止する。鋭い牙に受け止められ、リストの装甲がパキン、と割れた。
「っつ……!」
手の甲に痛みを感じて腕と共に身を引く。運悪く牙の先端が掠ったらしい。
猛獣の低い唸り声がする。びりびりとした殺気を捉え、セネルは横薙ぎに振るわれた足をかろうじて避けた。そのせいで川が遠ざかる。
セネルは舌打ちをして血の滴る手で構える。もうこいつになんか構っていられない。さっさと倒して、早く助けに行かないと、クロエが。
ぞわりと身体が震える。底から這いあがってくるような恐怖を、敵への怒りに無理やり変えて歯を食いしばる。
失いたくない。こんなことで、クロエを失ってたまるものか。
「そこをどけぇ!」
セネルは全身全霊をこめて爪を光らせた。のししかかるように魔物の前足が振り上げられる。
巨大な足と拳がぶつかる、まさにその寸前。
「狼破ァ!」
グランゲートの頭に、狼の闘気を纏った槍が噛みつくように突き刺さった。それに続くように、遅れて本物の狼がセネルの上を声てグランゲートに飛びかかる。
突然のことに呆気に取られていると、陽気な声音が耳に届いた。
「待たせたの、セの字!」
「モーゼス!それにギートも……」
全身ずぶ濡れの青年が、投擲した姿勢のまま威勢よく声を張り上げる。赤毛のガルフも声に応えるように鳴き、大きく後転して相棒の傍らに着地した。
「トラクタービーム!」
今度は敵の向こう側からそんな声が聞こえてきた。顔を正面に戻せば、グランゲートの巨体が宙に浮かんでいるではないか。
この爪術。それに今の声は。
「もしかして……ノーマか?」
「へ?セネセネたちそっちいんの?」
「お兄ちゃん!」
「シャーリィ?」
「や、やっと追いついたぁ……」
「お、追いついた?」
何でこんなところにシャーリィ達が。というか追いついたって。どいういうことだ。
予想外の事態に混乱しているうちに、浮力を失ったグランゲートが一気に落下した。
地に叩きつけられ、痛みにうめきながらもなおも起き上がろうとする。セネルは身構えるが、ふいに朗らかな女性の声音の詠唱が聞こえたかと思うと、グランゲートの頭上から今度は光の雨が降り注いだ。
雨は羽根を、尻尾を貫き、魔物に焼け跡を刻んでいく。光の上級爪術、レイだ。
「うふふ、やっと追いついたわね。セネルちゃんたち、とぉーっても速いのねぇ。お姉さん、感心しちゃったわぁ」
「グリューネさんまで……」
おっとりとした口調で容赦ない威力の術を叩き込む様を目の当たりにしながら、セネルは呆然と術の餌食になっているグランゲートを見上げていた。今度は間髪入れずに荒れ狂う大量の水が魔物を飲み込んでいく。巨体の隙間から、少し息を弾ませながら羽ペンを光らせるシャーリィの姿が見えた。
窮地から一転。敵が倒れるのはもう時間の問題だ。開いた口が塞がらないとはこのことか。
「クカカ、相変わらず姉さんたちの術は頼もしいのぅ。クっちゃんもあっちにおるんか?」
クっちゃん。愉快そうに尋ねてきたモーゼスの言葉に、セネルはようやく我に返った。同時に焦燥感が一気に押し寄せる。
「そうだ、クロエが!モーゼス、途中、川の中でクロエを見なかったか?」
「いや……まさかクっちゃんも川に落ちたんか?……っておい、セの字!?」
「え、なになに、クーがどしたの?」
「悪い、あとは頼んだ!」
制止の声もきかず、セネルは駈け出す。モーゼスが見かけなかったということは、もしかしたら沈んでいるのかもしれない。だとしたらなおさら危ない。
「あらぁ?こんなところに剣が落ちてるわ」
「グリューネさん、それってもしかして……」
勢いよく川へと飛び込む。背中から聞こえていたグリューネとシャーリィの声が途中で途切れ、代わりに水の流れる音と自らが零す気泡の音が耳朶を震わせる。
絶対に助ける。その衝動の突き動かされるように、セネルは流れに沿うように水を掻いた。
◆ ◆ ◆
肌寒い。けどあたたかい。
ぼんやりとした意識のなかで、最初に思ったのはそれだった。次いで鈍い痛みが全身に広がる。それから聴覚が回復してきて、反響音のような形で音を捉えた。
その音が必死で、悲痛な叫びで自分を呼んでいるのだと気付いたとき、クロエはいやに重い瞼をこじ開けた。
「クロエ!よかった……!」
「……クーリッジ?」
目を開いた先には、安堵の表情を浮かべるセネルがいた。しんなりと垂れている白い寝癖頭と、軽く細められた海のような深い青の瞳、それからマリントルーパーの証である額と目元の入れ墨をまじまじと見て―――クロエは悲鳴を上げて彼を突き飛ばした。
うわっと素っ頓狂な声を上げてセネルが地面に転がる。クロエは顔を真っ赤にしながら胸に手を当てて縮こまった。抱きしめられるように支えられていた肩が、背中が熱い。
「な、なんっ……なんで……?」
「い、てて……お前、覚えてないのか?」
恨めしそうな表情に、気遣うような声音。何をだ、と口を開こうとして、自分の衣服が濡れていることに気付いた。どうりで肌寒いはずだ。
セネルから目を離し、周囲を見回して驚いた。茜色一色だったはずの空はいつの間にか水色が混ざり、辺りは薄暗くなっていた。
「ここは……私は、確かグランゲートに……」
グランゲートの不意打ちに反応しきれず、尻尾に思い切り当たってしまった。脳を揺さぶられるような衝撃を受け、それからの意識がぷっつりと途切れていた。
そこまで思い返して、クロエははっと身を強張らせて立ち上がった。
「そうだ、グランゲートは!?」
剣を抜こうとして手が空を切る。怪訝に思って腰辺りを見れば、剣帯には鞘だけがぶら下がっていた。
加えてブーツからぐしゃりと水のしみ込んだ嫌な感触。意識を失う前とあまりに違う現状に混乱を極めていると、セネルが溜め息をこぼした。
「落ち着けよ。グランゲートはもう大丈夫だ。あれからモーゼスとギートと、何故かシャーリィ達も駆けつけてきたから、何とかなってるだろ」
「シャーリィたちも……?一体何故?」
「それは……俺もよくわからない」
本当に何で来たんだ?と頭を掻いてから、セネルはゆっくりと立ち上がる。
「で、お前はみんなが駆けつける前に吹っ飛ばされて、川に落ちたんだ」
川に落ちた。セネルの言葉を繰り返して、流水の音がする方向を眺める。河口が近いのだろう。遺跡船で貴重な真水の流れる幅広の川は、薄暗い空の下で底の見えない深い青に染まっている。
熱いくらいだった頬がみるみるうちに冷えていく。クロエは思わず己の身を抱きしめ、ぶるりと震えた。
セネルがここにいるということは、彼が引き揚げてくれたのだろう。岩礁と魔物が群がる、大海につながるこの川から。
セネルが助けてくれなかったらどうなっていたことか。考えるだけでも恐ろしい。同時に水が克服できない自身に対して情けなさが湧いてきた。
「す、すまない……迷惑をかけてしまったな」
「仲間を助けるのは当然だろ。迷惑なんて思ってないさ」
肩を竦めて呆れ気味に苦笑するセネルに、クロエは安堵しながらもつきりと胸が痛むのを感じた。
―――仲間、か。
胸の内でため息をつく。当たり前だ。何も伝えていないのだから。
そう、わかってはいるのだが、心はその先を求めて勝手に苦しくなる。仲間以上の何かがいい。一括りにされない存在になりたい、と。
今は何とか宥めすかして堰き止められているけれど、このタガが外れてしまったら、一体どうなってしまうのだろう。
想像するのさえ、あまりにもこわい。
「クロエ、どうした?」
どこか痛むのか?と気遣わしげに寄ってきたセネルにはっとして、クロエは一歩後退りながらも大丈夫だ、と手を振った。しかし途端に右腕に痛みが走り、思わず身を固めて呻く。
「おい!どこが大丈夫なんだよ」
「た、大したことない!多分打ち身だから……!」
近付いてきたセネルが腕を取る。クロエは焦って腕を引こうとしたが、それ以上の力で引き留められる。ぐっと、けれど加減されて握り込まれた腕を、気遣わしげに見られる。
「折れてる感じはないか……痛みはどのくらいだ?」
「だ、だから大したことはないと言っただろう。大丈夫だ。というかクーリッジだって、手を怪我しているじゃないか」
「それこそ大丈夫だよ。ちょっと掠っただけだ」
そう言いながら、セネルは腕の検分をやめてくれない。
正直もう痛いのか熱いのかわからなくなっていた。もっと言えば恥ずかしいから早く離してほしかった。
しかし、クロエの思いに対してセネルはじっと腕を取ったまま動かない。
しばらく大人しくしていたが、段々といたたまれなさに耐え切れなくなってきた。逸らしていた視線をセネルに向けて、クロエは睨むようにして口を開く。
「も、もういいだろう?いい加減離して……」
くれ、と言おうとして、クロエは目をしばたかせた。
「……クーリッジ?」
向かい合う相手から、どことなく重々しい空気が伝わってくる。
どうしたのだろう。クロエは無意識に彼の顔を覗き込むように近付く。
「……悪い。敵が仕掛けてくるって気付いたのに、焦って反応が遅れた。俺がもっと早く知らせてれば、クロエが危険な目に遭うことはなかったんだ」
心配になって問いかけようとした直後、セネルがぽつんとそう言葉をこぼした。
後悔が滲んだその吐露に、クロエは一瞬呆気にとられ、それから慌てて違うと否定した。
「あれは私のミスだ。敵が倒れたと思って油断してしまったんだ。クーリッジのせいじゃない」
あのとき敵の攻撃を受けてしまったのは、クロエ自身の落ち度だ。彼が謝ることではない。
そう反論するが、セネルの顔は曇ったままだ。
「けど、クロエからしたら死角だっただろ」
「クーリッジだったら気配で避けていただろう?」
「それとこれとは話が別だろ」
「同じことだろう。私の実力不足が原因だ」
「だとしても、それを知っててフォローできなかったのは俺だ」
違う、そうじゃない、私が、俺が。お互いに己の責任だと主張してはお互いに反論しあう。はじめは落ち込むセネルを宥めるように返していたクロエだったが、次第に相手への心配はどうしてわかってくれないんだ、という苛立ちに変わっていく。
「お前……相変わらず頑固だな」
「それはこちらの台詞だ!どうしてそこまで自分のせいにしたいんだ」
「それこそこっちの台詞だろ!」
しまいには会話は喧嘩腰になり、何故か睨み合いにまで発展した。
どうしてこうなった。腕を掴まれたまま、クロエはセネルを睨めつけながら頭の片隅で思う。
ああ、そうだ。仲裁に入る者がいないからだ。いつもならそろそろ頭に拳が飛んでくる頃合いなのに。
セネルの方も、険しい表情でクロエを睨みながらもどこか戸惑ったような空気を発している。多分、自分も同じ顔をしているのだろう。
やがて平行線の口論に言葉が尽きた。しばらく目を光らせてそっちが折れろと念というかガンを飛ばしあっていた。が、最終的にはどちらともなく肩を落として溜め息をついた。
「なぁ……俺たち、ものすごく馬鹿らしいことで言い争ってないか?」
「あぁ……そうだな……」
戻ろう、とセネルは言って手を離す。彼に続き、クロエも川沿いの道を歩き出した。
何となく気まずい。クロエはセネルから顔を逸らすように川を見つめた。
冷静になってくると、ふと水を吸った服の冷たさが気になってくる。腕をさすりながら、今の気候が暑くてよかった、とクロエは嘆息した。これが冬であれば二人して凍えていたはずだ。
薄闇の中、水の音と虫の鳴き声を聞きながら歩いていく。草地を踏みしめる足は、ぐしぐしといつもは鳴らない奇妙な音を鳴らして地面を濡らす。もう夕日が照らす場所は見当たらず、夜の帳が降りるをの待つばかりだ。
ウェルテスにはそろそろ明かりが灯る頃だろうか。エルザは今日一日、朝に見たときのまま元気に過ごしていたらいいのだが。
そんなことを取りとめもなく思っていると、ふいにセネルがクロエ、と声を掛けてきた。クロエは思わず肩を跳ねさせ、驚いてしまったことが恥ずかしくて顔を赤らめる。
おそるおそるセネルを見ると、幸いにも彼は前を向いていて、クロエの反応に気付いていなかった。
「な、なんだ?」
「さっきの戦闘で分断されたとき、どう動くつもりだった?」
唐突にそう聞かれて戸惑いつつも、クロエは思案する。無意識に剣の柄に触れようとした手が空を切り、苦い顔で鞘を見る。戦闘になった場所まで戻ったら、ひとまず剣を探さなければ。
「そうだな……クーリッジと合流するために、どう敵の注意を逸らそうかと考えていた」
もしくは隙をついて逃げ出す算段を。あれほど激昂していた相手がそう簡単に逃してくれるとは到底思えなかったから、こちらの案はすぐに選択肢から外したが。
「俺は、俺が囮になってクロエを逃がせればって考えてた」
それは、とクロエは眉尻を吊り上げてセネルに顔を向けた。
「あまりも無茶だろう。そもそも、私がそれに同意すると思っていたのか?」
「いや、反対するだろうなって思ってた」
間を置かずそう首を振る。当たり前だ、と不満を乗せて返した。
「だから、あの状況で何が最善だったのかって思ってさ」
彼の言葉に、クロエは顔を前に戻して再び思考にふける。あの状況での最善。確かに、考えておくにこしたことはない。
合流、撤退、強行突破、応援を待つ、もしくは呼ぶ。数ある選択肢を頭の中で挙げては先ほどの先頭に当てはめていく。
しばらくそれを繰り返し、クロエはふぅと小さく息を吐いた。
「見当が付けられないな。正直、あの状況では何をしても危険が伴ったと思う。ただ……」
呟いて、途中で言葉を切る。ちらりと視線を向けると、セネルが横目でこちらを見ていた。
日に焼けた横顔が、ただ?と先を促す。クロエは願望に近いんだが、と前置きをしてから話を続けた。
「お互いの姿が見えない状況でも、いつものように連携が取れていたら、勝機はあったんじゃないかと思う」
セネルを真っ直ぐに見つめて言う。あの時、勝てない相手ではないと長髪じみた啖呵を切ったのは嘘ではない。二人なら勝てると、本気でそう思っていた。
だから、どんな状況下でも自分達のベストの戦い方ができればと、そう思った。
理想論なのかもしれない。敵の動きを見切ったうえで、見えない相手の次の一手を予測するなんて。けど、セネルとなら。
見つめていた青い瞳が、ふいに柔らかく細められた。驚いて目を見開けば、視界で愛想のない横顔が、楽しげに口の端を吊り上げた。
「クロエもそう思ったんだな」
その一言に、クロエはまばたきをする。クロエも、ということは。
じわり、と胸の奥に熱が灯る。こみ上げてきたくすぐったさに、クロエはこらえきれずにふっと笑った。
「ああ。私たちならできる」
今度は絶対的な確信をもって強く頷いた。今より更に先へ行ける。溢れる高揚感にぐっと拳を握った。
膳は急げと言わんばかりに、話は次の訓練の話題に変わる。場所はどこがいいか。魔物の生息地ならならウィルかジェイに聞いた方が早い。ある程度作戦も考えたい。いつだったら時間が取れる。
先程の意地の張り合いが嘘のようにぽんぽんと話がまとまっていく。この場で決められそうなことはある程度決まった。空は黄昏の名残も消え、すっかり薄い青一色になっていた。
「……やっぱり、考えられないな」
「え……何か言ったか、クーリッジ?」
「いや……」
ふいにセネルが立ち止まる。つられて足を止めると、彼は身体ごとこちらを向いて、片手を差し出してきた。
クロエは思わずきょとんと目をしばたかせる。意図が掴めず、黒いグローブに覆われた手のひらを辿り、セネルを見た。
「クロエ、これからもよろしくな」
薄暗がりのなか、身体ごとクロエの方を向いて、セネルは穏やかに微笑んでいた。海のように深い青が、優しく自分を見つめている。
途端、クロエは心臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥った。掴まれた心臓が、自分の意思とは関係なくどくんと大きく跳ねる。胸の熱は、甘さとほろ苦さを含んで更に膨らんだ。
(……ずるい)
ぎゅっと手を握りしめる。まぶしくて目が眩みそうだった。
何て厄介なのだろう。表情ひとつ、言葉ひとつで、こうも感情を揺さぶられる。
出会った当初ではあり得なかった笑顔。それに込められた絶大な信頼。どちらも想像すらしなかった。
そんな今が、少しだけ苦しくて、舞い上がるほどに嬉しい。
自分とセネルがお互いに向ける感情は、きっとイコールではない。それは痛いほどにわかっている。
それでも。
クロエはゆっくりとまばたきをして、それからセネルを真っ直ぐに見つめる。口唇は意識せずとも弧を描いていた。
「ああ、任せてくれ」
セネルが、自分が隣にいることを望んでくれている。胸が熱くなるような嬉しさは嘘じゃない。
クロエは誇らしげに微笑んで、一回り大きい手のひらに重ねる。セネルはにっと歯を見せて、クロエの手を握り返した。
「頼りにしてるからな」
「こちらこそ。背中は任せたぞ、クーリッジ」
互いに力強く頷いて、どちらともなく手を離して再び歩きはじめる。
「そうだ。もう一つ思ったんだが、もし俺たち全員がはぐれたときにどう行動するかも、ある程度決めておいた方がいいんじゃないか」
「なるほど……ふふ、クーリッジ、保安官の仕事が板についてきたんじゃないか?」
くすりと口元に手を当てて笑声を立てれば、むっとしたようにじと目で見られた。
「からかうなよ。柄にもなくて悪かったな」
「そんなこと一言も言っていないぞ」
「顔に出てるんだよ」
機嫌を損ねたといわんばかりにセネルは顔をしかめるが、それが本気ではないことくらいわかっていた。
「そうか。それはすまなかったな」
澄ました顔をしてそう謝れば、セネルは肩を落としてため息を吐いた。右隣から怒りは伝わってこない。クロエは目を伏せ、そっと穏やかに微笑んだ。
先ほどと違う、心地よい沈黙。二人はその静けさに身を委ねながら、自分達を待っているだろう仲間達のもとへと歩いたのだった。
〜おまけ〜
仲間達と合流する頃には、辺りはすっかり夜の帳が下りていた。
「いやぁ〜、それにしても、落ちたクーを助けに行った時のセネセネのあの必死な顔ったら!」
前を歩いていたノーマがくるりと振り返った。ぷくく、と笑いを堪えながらセネルを見るその顔は、誰がどう見ても完全に面白がっているそれだ。
「……何だよ」
面倒くさいという気持ちが勝って、つい不機嫌な低い声音が出る。しかしノーマは全く怯まない。
「べっつに〜?あーんな慌てふためいてたセネセネ、久しぶりに見たなーって」
だけといいつつ、それだけとはとても思えない。言いたいことが山ほどあるような口振りだ。
思わず身構えていると、ノーマの隣を歩いていたモーゼスもうんうんとしきりに頷いた。
「ワイの時とはえらい違いじゃったな……」
「いや、まぁ……」
ただ単にそう思っただけなのだろう。悪気のないその一言に、セネルは言葉を濁した。そりゃカナヅチが川に落ちたら助けに行くだろ、と内心で呟く。
ちら、と傍らにいるクロエを見る。先程シャーリィから手渡された愛用の剣を下げた彼女は、絶対に言うなとでもいうようにこちらを睨んでいた。
どうしろっていうんだよ。セネルは途方に暮れて空を仰いだ。
「おっと〜?その反応は何かあったってことかな〜?」
「何じゃセの字、クッちゃん怒らせるようなことしたんか?」
「お兄ちゃん……?」
「シ、シャーリィ?何か怒ってないか?」
シャーリィのいつもより低い声音に、セネルは頬を引き攣らせる。可愛い妹の笑顔は、しかし今は目が笑っていなくて怖い。
そこに追い打ちをかけるかのようにあっ!とノーマが声を上げた。頼むからもうこれ以上余計なことを言うな、と睨み付けるが、無言の圧力も虚しく彼女は楽しそうににやにやと片頬を吊り上げる。
「それともクーが色々頑張ったのに、セネセネが鈍感すぎて気付かなかったとか?」
「ち、違う!おかしな想像をするな!」
いきなり話を振られ、クロエは慌てて勢いよく首を振る。そこで焦って否定するから余計にからかわれるのだが、ついつい反応してしまうのがクロエだ。
何だよ色々って、とセネルは半眼になる。よくわからないが、多分口にしたら何故か呆れられるのだろう。胸中だけに留めておくことにして、違うことを口にした。
「あの時、クロエは気を失ってたんだ。意識のない人間が水の中に落ちたら助けるに決まってるだろ」
「あー!ごまかしたなセネセネー!」
「お前が勝手に話を逸らしたんだろ。話を戻しただけだ」
やれやれと肩を竦めると、ノーマはぶーぶー、と不満げに唇を尖らせた。しかし何かに気付いたようにまばたきをして、再び悪戯めいた笑みを浮かべた。
「ほほぅ?ってことは気を失ったクーにセネセネが人工呼吸したなんてドキドキな急展開が―――」
「「ないっ!!」」
これには流石に無視できず、クロエと揃って否定した。しかし否定してからふと首を傾げる。
人工呼吸は救命活動だ。別にやましいことではないのに、何故反射的に否定してしまったのだろうか。
腑に落ちない原因を突き止めようと思案する。すると突然、周囲の雰囲気が変わりだした。見回すと、仲間の突き刺すような視線がセネルに向けられていた。
「セネセネ、もしかして本当に人工呼吸……」
「ない!してないぞ!」
どうやらその間が悪かったらしい。あらぬ誤解を招いてしまったことに気付き、セネルは慌てて首を横に振った。だが、それだけで納得してくれるはずもなく、今度はクロエが詰め寄ってきた。暗くてあまり見えないが、おそらく顔が赤くなっている。
「な、なら今の間は何だ!?」
「それは……」
「おうおう、なかなか漢じゃのう、セの字!」
「モーゼス、お前は黙ってろ」
「お兄ちゃん……いくらなんでも、やっていいことと悪いことが……」
「誤解だシャーリィ!というかどう誤解してるんだ!?」
事態は収拾するどころかどんどん騒がしくなる。本当にしていないのだからないとしか言いようがないのだが、仲間達はどんどんセネルに疑惑を募らせていく。
どうしたらいいんだ、と頭を抱えたその時、あらぁ?とこの場に似合わぬのほほんとした声音が耳に届いた。
「ウィルちゃん、私たちのこと待ってくれていたみたいねぇ」
決して大きな声ではないその声音に、えっ、と全員が固まった。
セネル達はおそるおそる前方を見る。モフモフ族の村の入り口。そこには鬼のような形相で仁王立ちする筋骨隆々とした男がいた。
「お前たち、随分と楽しそうじゃないか」
「あ……」
ウィルの眼鏡が冷たく光る。彼の後ろでは、やれやれと肩を竦めて呆れかえっているジェイの姿。
その後、セネル達はウィルの鉄拳を一人ずつ食らい、モフモフ族が丹精込めて作ってくれたご馳走を目の前にして、お預け状態のまま正座で小一時間ほど説教を受けたのは、言うまでもない。