気持ち



濁りなど一切存在しない透明な泉、辺りは草花が咲き、そよ風に揺られている。遺跡船に住む人々は古代の言い伝えにならい、此処を「輝きの泉」と呼んでいる。
そんな場所に、銀髪の青年はいた。
(あれ、何でこんな所に……?)
今の状況を理解しようとしても、頭は霞がかかったようにぼんやりとしている。何か用事でもあったか?と、首を傾げる動作すらどこか自分の身体ではないような感覚だ。
散漫なままの思考で何とか考えようとするが、何も思いつかない。
そんななか、ふと視界に人影が映った。あ、と気付いて声を掛けようとするが言葉として出ず、ただその後ろ姿を捉えるだけに終わる。人影の正体は、よく見知った少女だった。
肩口よりもやや上で切り揃えられた、艶やかな黒髪。その上に乗る白と青の帽子。
身長は女性にしては上背で、その腰には華奢な身体には似つかわしくない、一本の剣が携えられている。
暫く彼女を眺めていると、その視線に気付いたのか、振り返りセネルの姿を捉える。
それはいつもの見慣れた顔。
でも、その顔に湛えられているものは、普段は滅多に見られないもので……。


「―――クーリッジ!いい加減起きろっ!!」
「うわぁぁっ!?」
驚きのあまり、セネルは文字通り跳び起きた。
「あ、れ……ここは…?」
「お前の家だ。まだ寝ぼけているのか?このろくでなし」
その声に顔を向ければ、腕を組みながら睨みながらこちらに視線を向けている少女――クロエが呆れと怒りが混ざったような顔でセネルを見下ろしていた。いや、見下ろすというより、見くだしていると言った方がなお正しい。
どうやら今日の寝起きの悪さはいつも以上だったらしいと、クロエの様子で察した。少しは自分で起きられるように努力しろ!などとごもっともだが自分にとってかなり無理難題な説教をされる。努力で直るものなら苦労しない、などと言ったら今度は平手でも飛んでくるだろうか。多分合ってる。
これ以上叱責が飛んでこないようにベッドから床に足をつけ、ふいに先程の光景を思い出す。
(夢、か……)
当たり前だ。 ベッドに寝たはずなのに外に出ている方がおかしい。それに気付かないのが夢だと、言ってしまえばそうなのだが。まだ思考がうまく働かない。寝起きなのだから仕方がない。
まだ夢半ばのセネルの様子を見て、まったく、と溜め息をついてクロエは下に降りていく。
夢。そうか、あれは夢だったのか。
「もったいなかったな……」
つい、そんな本音がこぼして、いつもより数段遅い動作で何でだ?と首を傾げた。

「ほら、ぼーっとしてないで支度をしろ。私までレイナードに叱られてしまうだろう」
何を言っても無駄だと判断したのか、クロエはキッチンを借りるぞ、と一回から声を張り上げた。
未だに意識が飛びそうになりながらも何とかクローゼットを開け、薄目を開けていつもの戦闘服を見つけ出す。
着替え終わった頃には、食欲をそそられる香りが漂ってきていた。いつの間にか嗅ぎ慣れた、このほの甘い匂いはバターだろう。
自然と身体が空腹を訴え、やっと目も覚めてきた。まともに働くようになった頭で、しかしはてと疑問を浮かばせた。
「あれ?今日は特に何もなかった気がするんだが……」
階段を降りてカレンダーを確認する。今日の日付には、やはり丸印も何も記されていない。
けれど、自分よりよほど几帳面なクロエが予定を間違えるはずがない。だったら自分がうっかり書き忘れたのか。
その疑問を、セネルに背を向けたままクロエが答えた。
「ああ、何でも急な用事らしい。私もノーマ伝手に皆を集めるように言われただけだから、詳しくは知らないんだが……」
「……ノーマってところが何か怪しくないか?」
「私も最初はそう思ったんだが、散々レイナードの愚痴を言っていたから本当だと思う」
「あぁ……また遺跡かウィルのコレクションだかを壊して書類の整理でもやらされてたのか?」
「多分な。それで早朝に依頼が来て、伝令を頼まれたんだとか……と」
コンコン、とフライパンを叩く音がしてから、クロエがぱっとこちらを振り返った。両手には湯気の立つ器が二つ。それがことりとテーブルに置かれた。
「勝手に家のものを使ってしまってすまない。大丈夫だったか?」
「いや、構わない。寧ろ助かった」
律儀に謝る彼女に苦笑しながら、できたての朝食の前に座る。オムレツにコンソメスープ。それからたった今窯から取り出された、こんがりと焼かれたトースト。
「美味そうだな」
思わず頬を緩めて呟くと、水の入ったコップも持ってきてくれたクロエが「あ、味は保証しないからな!」と目元を僅かに赤らめて向かいの椅子に座った。
「クロエは食べないのか?」
「私はもう食べたに決まっているだろう」
食事が自分の分しかなかったことを尋ねれば、何を言っているんだと言わんばかりの答えが返ってきた。それはそうか。
スプーンを右手に持ちつつ、何となく覚えた違和感に眉をひそめる。じっと料理を見つめるが、出来たてで湯気の立つそれらはただ美味そうなだけだ。
「どうした?」
不安そうな声音に、はっと我に返った。見れば、顔を曇らせて自分を見つめている。
「いや……」
首を振るが、妙に座りの悪い感覚が抜けない。何だ、と思いながらクロエを見て、ふいに閃く。
「なぁ、クロエ」
呟きながら、オムレツの真ん中にスプーンを突き刺す。割れたところから半熟の中身が見えた。
「俺を起こしに来るときは、こっちで食べたらどうだ?」
そのままケチャップと一緒にひと口分をすくって食べる。卵とバターの甘みとケチャップの酸味が口の中に広がり、すきっ腹に沁みていく。うん、美味い。
クロエの反応がないことが気になったが、そのひと口でセネルの思考は食べることに集中し始めた。ウィルの用事もあることだしと、野菜の入ったスープとカリカリに焼けたトーストも食べにかかる。
「……っ、はぁあああ?!」
「うわっ!?な、何だよ?」
料理の味に満足しながら黙々と食べていたら、急に正面から腹の底から張り上げた叫びが聞こえてきた。
視線を上げると、真っ赤な顔をして口をぱくぱくと開閉しているクロエの姿が目に飛び込んできた。その反応が予想外で、セネルは手を止めて目をしばたかせる。
「お、お前、何言って……!」
「何って……俺、そんなにおかしいこと言ったか?」
二人いるのに自分だけ食べているのが何とも奇妙な心地になるから、一緒に食べた方がと思ったのだが。それに一人分を作るのも二人分を作るのも手間はそんなに変わらない。まず自分が人に起こされることなく起きろという話なのだが、それは完全に棚上げしたセネルである。
しきりに首を傾げていると、何かを言おうとして言葉にできずに飲み込むことを繰り返していたクロエが、やがてわなわなと肩を震わせながら机に顔を伏せた。
「もういい……」
「……何がだ?」
「うるさい。このひとでなし」
「だから何がだって……」
訳が分からないままキレのない罵りを受けて流石に文句を言いたくなったが、いいからさっさと食べろ、とテーブルに突っ伏したまま睨み付けられたので大人しく従うしかなかった。
何となく気まずい空気の中黙々と朝食を平らげていると、ふいに芳ばしい、というか焦げたような臭いが鼻先を掠めた。どうやらクロエの方もその臭いに気付いたらしく、はっとしたように勢いよく立ち上がり、慌てた様子で窯を開けた。
「しまった……」
「他にも何か焼いてたのか?」
窯から天板を取り出して項垂れるクロエに声を掛けると、ああ、と呻くように言葉を返してきた。
「今日の昼食用に、と思ったのだが……すまない、焦げてしまった」
お前が折角作ったタネを無駄にしてしまった。そう言ってキッチンに置いた天板の上には、まん丸いバターロールが六つ。本来はキツネ色である表面が、中央だけやや黒くなっていた。
「昼飯って……ああ、そうか。今日はいきなりだから」
「そうだ。おそらくハリエットが私たちの分も用意してくれている」
なるほど、だから。ただパンにものを挟んだだけで劇的な味の変化を成しえてしまうハリエットの独創的な料理センスを思い出して、セネルは思わず遠い目になる。
何も持参しないまま行けばウィルに強制的に食べさせれたことだろう。クロエに感謝しながら、セネルは食べ終わった食器を水場に置いて落ち込んでいる彼女の傍に寄り、そして天板から焦げたバターロールをひとつ取った。
あっと彼女が声を上げると同時に焼き立てのパンを頬張る。さくっとやや硬めの表面が割れ、すぐにふんわりとした中身が熱気と共にやってくる。
「……うん。美味いよ、全然」
「ほ、本当か?」
まだ不安そうなクロエに、セネルは頷きながら持っているバターロールを半分ちぎって渡す。渡されたパンを、ひと口分ちぎっておずおずと口に含み、やがてほっとしたように表情を緩める彼女を見てセネルも笑みを浮かべる。
「ああ、そうだ。ごちそうさま。クロエって料理上手かったんだな」
からかい混じりにそう言えば、クロエはあからさまにむっとしたような顔をして唇を尖らせた。それでも口の中のパンを飲み込んでから出ないと話をしないところは、礼儀を重んじる彼女らしい。
「簡単なものばかりだし、そんな意外そうに言われるのも腹が立つが……まぁ、美味しいと言われるのは、悪くないな」
けれど、はにかんだような笑みを浮かべたクロエは、かなり予想外で。
虚を突かれたセネルは、頬に熱が集まるのを感じて狼狽えた。
「クーリッジ?どうした?」
突然動きが止まったセネルに、クロエが小首を傾げてこちらを見てくる。
「あ、いや……」
その言葉に我に返り、しかし何と返事をしていいのかわからず言葉に詰まる。何せ自分でもよくわかっていない。
どうすればと目を泳がせていると、ふとまだ焼き上がったばかりのバターロールが目に入った。
「そ、そうだ。これ、昼飯にするんだろ?何か挟んで持っていかないか?」
「あ、ああ。そう思ってハムやキュウリも切り分けて置いてある」
「そうか。じゃあ挟むか」
早速冷蔵庫を開けて切って置かれている食材やバターを取り出していると、クロエがやや慌てたように待て、とセネルの腕を掴んだ。いつもは気にしないはずの、自分とは違って白く細い手の感触に何故か固まる。
「サンドイッチにするのは私がやっておくから。お前は出掛ける準備をしろ」
そう言われて、セネルはこれ幸いとばかりに二階へと逃げ出した。

何だ、これは。
クロエに言われたとおり、武器や道具の確認をしながら、セネルは頬の熱を押さえようと必死だった。
―――最近、クロエの一挙一動にやけに動揺する自分がいる。
「前はこんなこと、無かったんだが……」
何でだろう。というかいつから?そもそもこれは一体何なんだ?
答えの出ない疑問を悶々と考えていると下から支度は済んだか?という声が飛んできた。どうやら昼食の支度は終わったらしい。
彼女の呼び掛けに今行く、と声を張り上げ、さっきまでの考えを頭の隅に追いやる。きっと今考えてすぐ答えの出ることではないのだろう。そう結論付けて、セネルは階段を降りて行った。
とりあえず、今は遅れれば鉄拳が飛んでくるオヤジの家へと急ぐのが先だ。

「わるい、待たせた。それと支度も。ありがとな」
手を差し出し、クロエの持っているバスケットを受け取って自分の道具入れに突っ込む。バスケットからは先程嗅いだ芳ばしい匂いがほのかに漂ってきた。
「そう思うなら生活を改めることだな」
今度はクロエの方から、からかい混じりの遠慮のない言葉を刺された。
「うっ、……努力はする」
呻きながら絞り出した声は、自分でもわかるほど声に説得力が無い。露骨にぎくりと背中を強張らせたセネルを見て、クロエは仕方ないな、と呆れたような笑みをこぼして肩を竦めた。
「それじゃあ、レイナードの所へ行こう」
そんなやり取りに心地よさを感じながら、自分を追い越して前に進むクロエの後ろを、セネルは口の端を上げて歩き出した。


―――――夢の中、振り向いた少女はいつも隣にいる、唯一背中を任せられる彼女。
クロエ、と声を掛けるとふわり、と微笑み彼女は言った。
『セネル』と、普段口にすることはない、彼自身の名前を。


この鈍感な少年が自分の気持ちに気付くのは、そう遠くない未来。





あとがき
年月を経て半ば設定厨と化した私がこの話を書き直しながら思ったこと。レジェンディアの世界に冷蔵庫はある、のか…?
い、いやでもバスケットで長期間パン持ち運べるし(仕様)、遺跡船にまで食材を輸入輸出するならある程度の冷蔵技術はないときついと思うし大丈夫大丈夫タブン。
大幅に加筆修正したもののセネルがクロエに無自覚にときめく、という話の大筋は変えないようにしたつもりです。
時系列的には多分クロエ編後の時間軸で書いてたような……と思いつつ黒歴史を覗く覚悟であとがきを確認したら合ってました。しかしいつ書いたものかわからなかったよ!日付書いといて欲しかったな過去の私!
再掲:2018.7.8


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