キズナ
――――――『…ま、……ぁさま!目を…目を開けてください、母様っ!!』
土砂降りの雨。少女の傍らで、彼女とよく似た女性が石畳の床に伏せていた。
女性からとめどなく溢れる赤い液。それは雨に流され、水間に床の溝を伝い、そして消えていく。それと比例して冷たくなる女性の身体。少女は泣きながら、それでも母を死なせまいと美しいドレスが汚れるのも構わず傷口を必死に押さえる。だが、止まることを知らない血液は、見る見るうちにドレスを赤く染め上げ、吸収しきれなかったそれが少女の手を濡らす。
『クロエ!早く逃げなさいっ!』
父のかつて一度も聞いたことのない切羽詰まった声にクロエと呼ばれた少女は驚くも、しかしそれに対して否を唱えた。雨音に紛れて金属が打ち合う音が聴こえる。
『いや…だって、母様が…母様が…っ』
自分だけ逃げる。つまりそれは、今にも動かなくなってしまいそうな母を見捨てるということだ。そのようなこと、自分にはできない。
『クロ――ぐぁっ!』
『父様!?』
こちらに背を向けていた父が、不自然に言葉を途切れさせ、小さな悲鳴を上げた。
負傷したのだろうか、不意に襲ってきたあの賊により。
カラカラカラ…、と軽い音を立てて何かが転がってきた。剣の柄に剣と翼の紋章が刻まれた、ひと振りの剣。紛れもない、父の剣だった。
『とう、さま…?』
その軌跡を、クロエはゆっくりと追う。
ドクン、と心臓が高鳴る。それを身体で感じた少女は、自身から鳴る音だというのに嫌な音だと思った。
たどった先に革靴が見えた。父が騎士以外の時に身につけている、ブラウンの革靴。それが何故か、裏を向いた状態で目に映った。
さらに視線を上に向ける。常よりずっと低い位置で、頭部が見えた。そこで父が膝をついているのだとわかった。低く唸る心臓が気持ち悪い。
いつも真っ直ぐに伸びた背筋が曲がっている。激しく上下する身体。剣を失った右腕は、脇腹を押さえつけていて。
雨の雫とともに、滴る赤いそれは……血。
『――――っ!!?』
少女は、声にならない絶叫を内で叫ぶ。雨が彼女の周りから、音を、熱を、感覚を奪う。そのためか、少女の視覚はより正確に、鮮明に、目の前に光景を捉えていた。その映像から読み取れる情報を、異様に鈍くなった思考がようやっと現実に追いついたのだ。
『いや…父様…!!』
叫んだ筈の声が、恐怖で掠れる。父が深手を負った。あの強くて誰にも負けなかった父が、突如として現れ襲ってきた暴漢に、刺された。
―――どうして。どうしてこんなことになってしまったの?今日は父様がお休みで、久しぶりに皆で出掛けただけなのに、帰ったら一緒に寝る約束だって、さっきしたばかりなのに…どうして…どうして……!
父の奥にいる影が動き出す。手に持つ大剣をゆっくりと、高く掲げた、その意味するところは。
『っ!やだ、やめて…!そんなことをしたら、父様が…っ!』
闇の中で妖しく光る剣に戦慄を覚える。動きたいのに、止めたいのに身体が動かない。何故、と下を見ると、足元には赤い鎖。石畳から生えたそれは少女の華奢な足を捕らえ、きつく巻きついていた。
『いや…!父様、父様!!』
振り上げられた凶器が、今度は下へと振り降ろされる。
動けない。助けられない。それでも刃は、止まらない。
やめて、と。それを言の葉にする前に、何か硬いモノが切れる音が雨音の隙間から聞こえた。
いつの間にか上にあった剣は下に降ろされ、そして何かの雫で輝きが薄らいでいた。そして、父の身体が横に傾いで、地に伏した。その身体から流れるものは、母と同じ……。
「―――――っ!!?」
パンッ、と何かの破裂音が耳に入り、クロエは勢いよく顔を上げる。目前にあった焚火が、ぱちぱちと乾いた音を立てて燃えている。どうやらこれが原因だったらしい。
「…っ、ゆ、め…?」
荒い呼吸を繰り返しながら、クロエは確認するかのように呟いた。
周りは森、雨は降っていない。そのことに対して酷く安心し、少女は深く息をついた。
髪を掻きあげるとこめかみから頬にかけて何かが流れ落ちてきた。どうやら寝ているうちに汗をかいたらしい。傍にあった袋から布を取り出し、汗を拭う。
(……久しぶりに見たな…)
夢というにはあまりにも鮮明過ぎる、過去の記憶。最近はあまり見ることがなかった、悪夢。あまりにも唐突で、そしてあまりにも非常に突きつけられた現実。
父と母が目の前で殺された、あの日の再現。忘れたくても忘れられない、恐怖と絶望と戦慄と憎悪と無力を一遍に味わった日が、未だに自身を蝕む。
「父様…母様……」
自分にとって最も大切で、最も尊敬していて、最も愛していた人達。彼らを取り戻すために、時を超える能力を持つというエターナルソードが必要で、少女は国を出てここまで来たのだ。
だが…、
「……!」
ふいに前方からがさりと草地を歩く音が聴こえ身構えるが、炎に照らし出されたその姿を見て力を抜いた。
「クーリッジか…」
癖のある銀色の髪に、褐色の肌。そして右の額から頬にかけて施されたマリントルーパーの紋章。その瞼から覗く瞳は海の色。旅の途中で出会った、自分と同じ目的を持った少年。名をセネル・クーリッジという。
「何だ、まだ寝てなかったのか?」
首を傾げ呆れたように問いかけてきたセネルに、クロエは小さく首を振る。今起きたんだと返すと、そうかと短く応えて隣に腰掛けてきた。
意外と近いその距離に胸が小さく高鳴り、戸惑う。彼と出会ったばかりの頃はこのようなことは起こらなかったのに、どうしたことだろうか。
「どうした?」
「は?」
「いや、顔色が悪いから」
「あ、あぁ…少し、夢を見てな…」
「夢?」
「……うん
恐らく原因は、数日前に対峙し敗れた、白髪の男の言葉。
―――『お前の軽い剣では、私には届かない』
『お前と私では決意の重みが違う』
『友のために、今ここにある世界を消し去る…。私はそのことに、微塵も迷いはない』
エターナルソードの真の使い手であり、幾百もの時をうつろいできた者。この世界を2人の精霊と共に破滅から救った、英雄。しかし救われたにも関わらず恩を仇で返すような行いを続ける人間に絶望し、今ある世界と引き換えに礎となった友を取り戻そうとしている人物。
エターナルソードが必要だった。賊に殺された父と母を救うために。何があろうと諦めない、どんなことをしても手に入れると、そう固く決意した。
なのに―――。
少女は再び膝に顔を埋める。木々の隙間から流れてきた風が肩口よりも短い黒髪を静かに撫ぜた。
―――お前はどうだ?
そう聞かれて、言葉に詰まった。
膝を抱く腕にぐ、と力がこもる。
覚悟した筈だった。どんな犠牲も…例えば、自分の命が必要なら、それでもいいと思っていた。
だが、彼は…デュークは、世界を、人間を滅ぼすことも厭わないと断言した。その言葉に、覚悟の重さに、自分は揺らいでしまった。
(違う…私は本気で…父様と母様を…)
軽い筈などない。だったら御伽話のような剣を求めて旅立たなかった。一日でも早く騎士として認められるために、祖国で必死に己を鍛えていただろう。
聞いた時は噂話にすぎなかった。それを信じたのは、一重に大好きだった2人を、その2人と共に過ごした暖かな日々を取り戻したかったからだ。
それなのに、揺さぶられた。自身に固く誓った決意は、彼の強さと決意に敗れてしまった。
あれ以来、胸の内でずっと迷いが生じている。
―――悔しい、悔しい。けれど、私利私欲のために無関係の者を巻き込むことなど、できない。
それは騎士の名家に生まれ、騎士としての道を歩んだクロエにとって当然のことだ。だが、それ程の覚悟がなければ、彼には到底敵わないと、この身を持って知った。
両親を救いたい気持ちに嘘偽りはない。しかし、今のままではデュークには勝てない。
どうすればいい。どうすれば……
「あんまり気負うなよ」
「―――!」
何の前触れもなく掛けられた言葉に、クロエは埋めていた顔を上げる。そこには、僅かに口の端を上げ、微笑むセネルがいた。
「デュークに何か言われたんだろ?」
「どうして、それを…」
「あの時からクロエ、ずっと浮かない顔をしてるからな。」
お前、顔に出やすいよな。そう言って笑う彼に、目を逸らしながら分かりやすくて悪かったなとつっけんどんに返す。欠点を指摘されたことが悔しかったからか、それとも別の理由からか、頬が少しだけ熱くなったのを感じた。
「…別に、気負っている訳ではない」
ならなんだよ、と胡乱げに返してくる少年に、クロエは膝を抱えていた腕に顎を乗せ、暫し逡巡する。
果たしてこれは、セネルに言っていいのだろうか。出会ったばかりだからとか、信用の置けない奴だからとか、そんな理由ではなく、本音を吐露した後の、彼の反応を想像して躊躇う。優柔不断だと呆れるだろうか。覚悟の甘さに眉を顰められるだろうか。やっと形になりつつある絆も、綻んでしまうだろうか。そのようなことを考えると、どうしても喉から先に言葉が出てこない。
この気持ちは何だろうか。彼に出会った当初なら、弱気なところを見せたくないからと意固地になっていた筈だ。それなのに、今躊躇っている理由は、セネルが自身に対して負の反応を示されることを恐れて、言えずにいる。
「クロエ?」
「え、あ、その……」
「…やっぱり気負っているんじゃないか」
口を噤んだことを肯定の意と判断したのか、彼は眉間にしわを寄せ咎めるような視線をクロエに向ける。否定しようかどうか迷い、かといって否定しきれない部分もあることに気付き、結局本心をどう語ればいいかわからず少女は小さく頷く。それを見たセネルは大きく溜め息をつき、自身の髪を掻く。
呆れられてしまったのだろうか。そんな不安がクロエの胸に過(よ)ぎる。
「あのなぁ、何のために俺がいると思っているんだ」
「え…?」
「一人で解決できない悩みなら、俺に相談すればいいんだ。二人で考えれば何か方法が見つかるかもしれないし、それに話すだけでも多少は気が楽になるだろ?」
真剣に語りかけてくるセネルに、その言葉に、少女は言いようのない感情が込み上げてくるのを感じた。
「何故こまで、私に心を砕いてくれるんだ…?」
「仲間なんだから、当然だろ」
「仲、間……」
その言葉に何故か小さく胸に刺さる痛みを感じたが、それ以上に喜びや感動が彼女の胸中を満たす。柄にもなく泣きそうになり、慌てて腕の中に顔を隠す。
初めて、言われた。自分のことを仲間だと。
「そう、か…仲間か…」
自然と笑みが零れる。両親が亡くなってから、クロエはずっとひとりだった。確かに周りに人はいた。伯父も伯母も優しくしてくれた。しかし、心から信じられる人は誰ひとりとしていなかった。だから、少女は孤独だった。
故に、今まで一人で戦ってきた少女の中で、今まで単語としてしか認識していなかった”それ”は瞬時に大切なものへと変わっていった。
「…ありがとう、クーリッジ」
「…俺、何かしたか?」
セネルからしてみれば突然のクロエの感謝に、疑問符を浮かべて問い返す。その姿に、今度はふふ、と笑い声が漏れた。何だよ、とやや拗ねたような口調に、さらに笑う。
心に暖かい光が灯る。自身の葛藤はまだ深く渦巻いている。それでも、彼という存在がその負荷を和らげてくれるように感じた。
「すまない。もう大丈夫だ」
「笑いが治まって何よりだよ」
「違う、そっちじゃない」
やさぐれていたセネルに再び笑ってしまいそうになるが、何とか堪えて否を唱える。こちらを向いた彼に、今度は自分が力強い笑みを浮かべる。
「…平気なのか?」
「ああ」
「本当にか?」
「心配性だな」
未だ疑わしげな彼の声音に、クロエは苦笑いしながら答える。
「確かに、まだ迷いはある。デュークに立ち向かえるのかという、不安もある」
デュークの言葉にまた揺らいでしまうかもしれない。世界の英雄の力に圧倒されるかもしれない。
大切なものを思い、それでも世界をために救う訳にはいかないと何度も何度も葛藤した年月は、彼の方が何百年も上だ。今までその衝動を堪え、世界を静かに見守ってきた彼が反旗を翻したとなれば、その決意は確固たるものだろう。今度は心を挫かれるだけでは済まないかもしれない。
―――だが、
「けれど、今度はクーリッジがいてくれるだろう?」
「クロエ…」
あの時はセネルが敵を食い止めていたため、一人だった。だから、彼と一緒なら、デュークを食い止めることができるかもしれない。
「クーリッジとなら大丈夫だと、そう気付いたんだ」
二対一だとか、物理的な事ではない。ただ隣にいて、自分を叱咤し、支えてくれる存在がいてくれるだけで、立ち上がることができる。そんな気がした。
「そうだろう?」
「…ああ、そうだな」
不敵な笑みを作りセネルを見遣れば、彼も同じ笑みを口に浮かべて頷く。そこにある絆を確かに感じ、クロエの心に更に光が灯る。
ぱち、と木が小さく爆ぜる。視線を向けると火はほとんど消え、僅かな煙を立てて燃える焚火があった。いつの間にか時が過ぎ去っていたらしい。
押しつぶされそうな焦燥感は、今は穏やかに凪いでいた。
「そろそろ寝よう。明日も強行軍であいつを追うんだからな」
そう言いつつセネルは立ち上がり、向かい側の木に寄りかかった。空いたスペースから送り込まれる風がやけに肌寒く感じるのは、何故だろうか。きっと気のせいだと自分に言い聞かせ、クロエは荷物から毛布を取り出す少年に向かって口を開く。
「……ありがとう、クーリッジ」
それを聴きとった少年は、本日三度目となる疑問符を浮かべ、怪訝な顔をした。
「…?俺は別に何もしてないぞ?」
「わからないなら、いい。ただ私が礼を言いたかっただけだ」
満足げにクスリと笑い毛布を身体に巻きつけ、おやすみと言う。言い逃げかよ、と不満そうに呟かれたそれは聞かなかったことにした。
―――私を仲間だと言ってくれて。仲間として認めてくれて、ありがとう。
彼からしてみればきっと当たり前のことだろうから、口に出しては言わなかった、その言葉。おそらくこれからも口にすることはないが、自身の中にずっと存在していくことだろう。
「ありがとう…セネル…」
無意識にその言葉を紡いだのは、果たしてどういうことか。
自分でもわからぬまま、クロエは心地よい睡魔に抵抗することもなく、身を任せて眠りに落ちたのだった。
ツイブレをプレイしてセネクロ再燃したときに衝動的に書いた話。いつまで経ってもセネクロは大好きです。クロエを幸せにしたい
2012.8.19
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