Sabre
初めてそれを見たのはただの偶然だった。親に連れてこられた挨拶回り。それに飽きて辺りを散策していたときだ。
草木が茂って秘密基地みてぇになってたガゼボで、ひとり踊るアイツを見つけた。
あの時感じた衝撃は、嫌気がさすほどに憶えている。胸に刻まれた。烙印のように。
一本の剣みてぇだと思った。とびきり切れ味の鋭いヤツだ。
私が習わされてきたものとは違う、ただ型に沿っておキレイに踊るつまんねぇダンスとは、まったくの別物。
違うといっても型は同じだ。どのステップもターンも知っている動きだった。だが一つ一つの動作が、今まで見てきた誰よりも目に焼き付いた。
思わず身震いして立ち竦んじまうような、心臓の中心を突き刺すようなダンス。そんな舞い方があるのかと思った。どうやったらこんな風に踊れるんだと、鈍器で頭をぶん殴られたみてぇだった。
そうだ。最初からそうだった。
私が同じ場所に並び立ってやると強く思ったのは。互いに本気で競い合ったら楽しいだろうと、想像するだけで全身の毛が逆立つほどに興奮を覚えたのは。
コイツが、コイツ自身が、心からノッている時だった。
「──手を貸せ、シリウス。あの頃のレッスンの続きをしてやる」
手入れの行き届いた傷一つない右手が、シリウスへと伸ばされる。一瞬だけその手のひらを見て、すぐに目の前に佇むウマ娘に目を向けた。
久しぶりに、その顔を見た。優等生のお手本みたいなつまらないそれではない。強気で、尊大で、自信に満ち溢れた顔。シリウスが誘いに応じないとは、毛ほども思っていないのは明らかだった。
断ったらどんな反応するんだろうな。過ぎった思考に、シリウスは口角を上げる。どうせあの手この手で結局無理やり踊らされるに違いない。ノせられるくらいならノッてやった方がマシだ。
己に真っ直ぐに伸ばされた右手に左手を乗せ、がっちりと握りこんでやる。向こうは意外そうに目をしばたかせた。だがすぐに厭味ったらしい笑みに戻った。
指摘は飛んでこなかった。敢えてということはわかっているのだろう。どうせ君らしいな、などと思っているに違いない。
「いいのか、"皇帝"サマ? このまま踊り出せば、いつもと逆のステップになる。教科書通りに戻してくれって泣きつくなら今のうちだぜ?」
「いや、このままでかまわないよ。たまにはこういった趣向も悪くない」
そう答えるのはわかっていた。ああそうかよ、と適当な相槌を放り投げ、シリウスは組んだ左手に力を込める。
引き寄せたのは双方。距離が近づき、そのまま制服に包まれた腰に回そうと右手を伸ばす。身体は勝手にコモンセンターの位置に合わせて動いた。
しかし、今度は先手を打たれる羽目になった。自分の手よりも先に己の腰に添えられたそれを一瞥し、シリウスはじろりと睨めつける。相変わらずシンボリルドルフは、余裕そうな顔をして微笑んでいた。
舌打ちをひとつ。けれどすぐに片頬が吊り上がる。
──主導権はテメェで握ってみせろってことか。
上等だ。犬歯を覗かせ、シリウスは我先にと足を踏み出した。小手調べのステップを数種、ターンも交えてリードしてみせる。
だだっ広い体育館の中央でくるりと回った途端、小さな笑声が耳朶を震わせた。
「どうやら腕は鈍っていないようだ。殊勝にも陰で鍛錬に励んでくれたのかな」
あの頃と同じく偉そうで、あの頃よりも皮肉の効いた声音が届く。シリウスはぴくりと耳を揺らし、はっと笑い飛ばす。
「ご名答。お膳立てがなきゃ飛べないアンタを、大衆の目から守ってやりたくてな。持ち上げられるだけの"皇帝"サマ」
そう煽れば、相手はさらに笑みを深めて煽り返してくる。何が「やにわに取り繕ったものでなければ洗耳恭聴し、合切を委ねるつもりさ」だ。そんなつもりは一切ねぇくせに、とシリウスは嘲笑する。強く握りこまれた右手の方が、本人よりもずっと正直者だ。
ぐっと足を踏み出し、三歩目の足の向きを変える。腕を引き寄せるまでもなく、ルドルフはシリウスの意図を察して優雅にターンしてみせた。どころかさらにシリウスの腰を引き、今度はルドルフのリードでターンさせられる。不意打ちでも体勢を崩すことがなかったのは、同じく先読みをしたからじゃない。
「ふふ、よほど私のレッスンが忘れられないか。リードされるほうが、性に合うと見える」
わかりやすい挑発だ。そうとわかっていながら、シリウスは敢えてそれに乗った。
「うるせぇ。さっさと主導権を寄越せ!」
組んだ手に力を込めて半ば無理やりターンする。「おっと!」と驚いたような声音がわざとらしい。演技をするならば動きにも焦りを見せろというのだ。
ヘタクソ、と内心で悪態をつきながら、シリウスは再びリーダーに変わる。だが気を抜けばすぐに奪い返されるはずだ。
今だってそうだ。パートナーへの信頼だのなんだのと長々と講釈を垂れる口とは裏腹に、ダンスは徐々に激しさを増していっている。
気付けばステップの速度が上がっていた。向こうの策略だと気付き舌を打とうとして、なりそこなった吐息を吐くだけに終わる。
心臓が脈打つ。額に汗が滲みはじめたのがわかった。
音楽のないダンス。打ち合わせなど一切ない、即興のステップだ。にもかかわらず、シリウスもルドルフも互いの足さばきが乱すことはなかった。
はっと呼気を吐き出しながらシリウスは誰に向けるでもなく嘲笑する。そんなのは当然だ。不思議でも何でもない。
正面を見据える。くるくると回る視界のなか、その無駄に整った顔だけははっきりと目に映った。
一対のピンクサファイアが、虎視眈々とこちらの隙を狙っている。鈍く光る宝石に、シリウスはぞくりと肌が粟立つのを感じた。
──そう、そうだ。ノッてるときはこうだった。
懐かしい。そうだ。これを求めていた。丸々暗記したような模範的なダンスでも、優等生然とした澄ましたツラで踊るそれでもなく。
コイツの──ルドルフの本気の舞いは、ダンスじゃなくて剣技になる。
まるで剣を切り結んでいるように。ルドルフ自身が剣のように鋭く、鮮やかな太刀筋を描く。
高揚、興奮、戦慄。背筋がぞくぞくと震えるような緊迫感のなかで、シリウスは笑う。ルドルフも笑っていた。互いにギラついた笑みを浮かべた二人のダンスは、さらに激しい鍔迫り合いを繰り広げていく。
ステップは間合い取り、ターンは回避と撹乱、チェイスは攻撃の仕掛けだ。振り向きざまに一振りかましてリードを奪おうとする。けれどルドルフはそれを難なく受け流す。
今度はペースをわざと崩して横に薙ぐ。アイツは予測済みだと言わんばかりにこっちの剣を捌く。そこからさらに強襲。軽く見開かされた瞳に、今度こそ虚を付けたとほくそ笑んだ。仕切り直してシリウスが攻めに回る。
互いの一手を読み、避けては仕掛ける。一騎打ちの舞台に立ち、二人は全身を刃に変えて何度も何度も切り結んだ。
そのさなかのことだった。ふいにルドルフが、吐息のような笑声をこぼして呟いた。
「……そうだな。だが、何故だろうね」
随分と余裕なもんだと鼻で笑おうとした矢先、ルドルフが独り言のようにそう呟く。ステップの速度を緩めずに怪訝に眉を潜めていると、燃えるようにきらめいていたその双眸が、この場に不釣り合いな穏やかさで細められた。
「今の君と踊る方が──楽しいよ」
真っ直ぐに向けられたその言葉に、シリウスは目を見開く。一瞬だけぎこちなくなった動きに、目敏く気付いたルドルフは再び瞳に剣呑さを宿して足をさばいた。
隙を突かれたシリウスは、クソっ、と悪態をつきながら体勢を立て直す。
「おいおい、”皇帝”サマともあろうお方が、なかなか姑息な手を使うじゃねぇか」
「おや、心外だな。私は本心を言ったまでなんだが。まあ、例えどんな言葉を投げかけられたとしても、常に湛然不動(たんぜんふどう)でいることが重要だぞ、シリウス。何事においてもな」
「はっ! 昼間に私の挑発にまんまとイラついて、当てこすりまでしやがったヤツの言うセリフとは思えねぇなあ」
くどくどと堅苦しい説教にそう返してやれば、今度は向こうが固まった。主導権を奪い返してそら見たことかとせせら笑えば、ルドルフは少しむっとした様子で唇を引き結んだ。
悔しがってるのが丸わかりだ。シリウスはくつくつと喉を鳴らす。だがそんな拗ねた顔も久しぶりに見た。
──ああ、認めるよ。
上がる息の合間に、シリウスは声を出さずに呟く。認めてやるさ。コイツ自身が己の傲慢さを認めたんだ。そうじゃなきゃフェアじゃない。
──私は今、コイツとのダンスをバカみたいに楽しんでいる。
そうだ、優等生の仮面を割ってしまえば、コイツは年相応に感情豊かで、好き嫌いだってはっきりとしたヤツなのだ。そのくせ負けず嫌いで頑固者。聞き分けだってそれなりに悪い。
主導権を奪い、奪われながら、ダンスはいっそう激しくなる。呼吸一つ分の時間でいくつものステップを刻む。追撃の機を狙う足捌きは優雅なくせに物騒極まりない。
うねるような熱が渦巻くこの競り合いを、シリウスは心から楽しんでいる。
それを、その顔を、いつもシリウスの前では見せていたのだ。
なのにいつの間にか、世間が求める聖人君主を体現するかのように振舞って、毒にも薬にもならないような笑顔をずっと張り付けて。
それが"皇帝"シンボリルドルフだと、さも当たり前のように馴染んでいく世界がどうしたって気に食わない。
本当のコイツはそんなもんじゃない。その程度の枠におさまるヤツじゃない。
そうであるべきなのに、コイツは自ら羽をもいでそこにおさまってしまった。それが使命やら義務だとか言って、大衆が用意した玉座に座り続けている。
笑みが歪むのを、シリウスは舌打ちで誤魔化す。そのまま半ば強引にターンを仕掛けた。
──いっそのこと、お前が外道だったよかったのにな。
なあ、ルドルフ。顔を見られないようにプロムナードポジションを維持しながら、シリウスは胸の内で呼びかける。
お前が冷徹な独裁者で、自分のためなら手段を選ばないようなヤツだったら。そうしたらきっと、こんなつまらねぇことに縛られない、自由なお前を見続けていられたのにな。
けど、とシリウスは思う。──多分、そんなお前だったら、最初から憧れたりなんかしなかった。
何もかもを持っていて、自由なお前が羨ましかった。眩しかった。だがそれだけじゃない。
強請ればダンスを教えてくれた。走り方だって学んだ。ビリヤードの技だって何だって会得してきて、それをシリウスもできるように練習に付き合ってくれた。
ルドルフから教えを乞うのが、どんなレッスンよりも楽しかった。本当に何だってできて、ルドルフにできることが自分もできるようになるのが滅法楽しかったのだ。そんなヤツが自分だけには本気の顔を見せていたことも、幼いシリウスは誇らしかった。
だから眩しかった。だから羨ましいと同時に、誇りだった。
誇らしく思うくらいに、ルドルフという友は、シリウスにとって大きな存在だったのだ。
「……余裕そうにしやがって。昔からその態度が、気に食わねぇんだよ」
ルドルフが去ったあとの体育館で、シリウスはぼそりと悪態をつく。春先の肌寒い空気が、火照った頬をほどよく冷ましてくれた。
やはり一度打ち負かさないと気が済まない。"皇帝"もだが、ルドルフ自身にも。勝ち逃げなんてさせてやるものか。
しかし、今はひとまず約束は果たすのが先だ。シリウスは一度瞑目し、ゆっくりと開いた目を体育館の入り口に向ける。
「──で、お前はいつ出てくるんだ。のぞき見は褒められたもんじゃねぇぞ」
やはりシリウスは”皇帝”を認められない。そんな肩書きに縛られるアイツを、他の誰が許そうがシリウスだけは許せない。
だが、とシリウスは微かに微笑む。少しくらいなら、認めてやってもいい。そんな思いが、先ほどのやり取りで僅かに芽生えはじめていた。
今日のアイツは己を傲慢だと認め、認めたうえで自分が満足したいのだと言った。
自分自身の願いを、本心から口にしたのだ。
だから、尻尾の毛先くらいは認めてやってもいいだろう。誰かのためではなく、自分のためだと言い切ったアイツを。
そんな幼馴染みの傲慢で遠大な願いに手を貸してやるため、シリウスはコソコソと身を隠していた群れの一員に声を掛けたのだった。