像前の墓標
夢を壊された彼女たちを前にして、『幸福な世を』、と。
そう願うのは、あまりにも残虐非道だろう?
頭上を叩き続けていた雨音がふと弱まった。おや、と傘の隙間から上を見上げれば、一面に広がっていた雲に切れ間が見えはじめていた。
「やれやれ……ちょうど帰りがけに止むとはな」
ぽつ、ぽつ、と僅かな水滴を落とすだけになった空に、シンボリルドルフは苦笑いをこぼして傘を閉じる。あと一時間ほど早く止んでいれば、もう少し長くトレーニングができただろうに。
夏の天気は変わりやすい。特に近年はスコールのような豪雨が突如として降ってくることがままある。今日はその激しいにわか雨に見舞われてしまったのだ。
多少の雨であれば稍重(ややおも)や重バ場を想定したトレーニングを行う場合もあるが、激しい雨ともなると流石に話は別だ。となれば生徒全員、その日のメニューは室内トレーニングに変わる。
そうなれば必然的に施設の争奪戦だ。いくら広大な敷地を誇る中央トレセン学園といえど、施設や器具には限りがある。例にもれずルドルフのトレーナーも奮闘してくれたようだが、使用時間という制限によって今日は早めに切り上げることとなった。
普段ならここで生徒会室に向かい業務を確認するところであるが、今回もエアグルーヴに先回りされてしまった。
『本日の業務は滞りなく終了しました。明日ご確認をお願いします』
休憩中にスマートフォンを開いたら、そんなメッセージが届いていた。このように釘までしっかりと刺されてしまえば、ルドルフの選択肢は帰寮して休むの一択だ。
「それだけあなたには万全な状態で、最高のレースをしてほしいってことだよ」
そしてメッセージの件を聞いた担当トレーナーにまでそう言われてしまえば、もう大人しく帰るしかない。
「……本当に恵まれているな、私は」
木漏れ日のように赤い夕陽が差す空を見上げながら、ルドルフはその幸運を噛み締めるようにして笑みを刷く。春のファン大感謝祭のあと、天皇賞(春)直前の出来事を経てからは尚のこと。
立ち止まれば背を押してくれる。道を誤れば正してくれる。共に走る同志がいる心強さを、改めて痛感した。
否、気付かされたと言った方が正しいのだろう。これまでは同じ志を持つ存在というものを、本当の意味で理解していなかった。
(それを真に理解した今……いや、これまで以上に、私は夢を掴みたい)
全てのウマ娘が幸福である世界を。その途方もない夢を叶えるために。
「次の冠も、勝ち取ってみせる」
六冠目のジャパンカップを見据え、ルドルフはぐっと拳を握りしめる。それが自分を信じてくれた彼女たちに、報いることにもなるだろう。
「……ん?」
ふと、止んだはずの雨音が聞こえた気がして上を見上げた。しかし空はすっかり晴れており、朱色に染まった雲がまばらに点在していているだけだった。
ならばどこから。辺りを見回して、ああ、と気付く。視線の先には、大きな壺のような台座に佇む三人の女神像の姿があった。
「三女神の像か……」
彼女たちが抱える甕(かめ)からは、絶えず透明な水が流れ落ちている。どうやらそれを雨の音と勘違いしたらしい。
無意識のうちに噴水広場へと足を向けていた己に、ルドルフは自嘲気味に笑う。これは自覚している以上に疲れが溜まっているようだ。自己管理が甘い証拠だ。反省せねばならない。
(……あまり、ここには近付きたくないのだがな……)
ならば何故ここに来てしまったのか。女神たちに吸い寄せられた……というのはやや神秘的すぎる。おそらく癖で生徒会室に赴こうとしたのだろう。
これも悪癖なのだろうな。そう思いながらやれやれと首を振り、ルドルフは女神像を見上げた。
──三女神。彼女らは我々ウマ娘の始祖だと言い伝えられている。ウマ娘たちを常に見守り、導いてくださる神々だとも。
そのような伝承があるゆえか、多くのウマ娘は三女神に親愛の念を抱いている。学園の生徒たちも例にもれず、正面広場に佇む像に挨拶をする光景を目にすることも少なくはない。
それゆえか、この学園にはとある伝統がある。
レースの節目を迎えたとき、もしくはこの学園を卒業する際に、生徒たちはこの三女神に想いを託していくのだという。
それがいつから始まったのかはわからない。少なくともルドルフがこの学園に入学した頃には、既に浸透していた風習であった。
そしてその話をはじめて耳にして以降、ルドルフはこの噴水広場の像に忌避感に近い思いを抱いていた。
理解できなかったのだ。そのような伝統も、それを誇らしげに語っていた先輩のことも。
(……違うな。未だに理解し難いと思っている)
──何とむごい因習だろう。
そう、思ってしまったから。あの時に感じた寒気は、今なおルドルフの胸を冷やし続けている。
まばたきをひとつして、女神像から視線を外す。
黄昏色に染まった広場に、凪いだ風が吹く。さわさわとざわめく梢の囁きをなんとなしに聞いていると、ふと周囲の景色が揺らぐ気配がした。
(……ああ、やはり)
ざ、と目の前が暗くなる。そう思った次の瞬間、女神像を囲むようにして、黒い人影が音もなく姿を現した。
それは学園の制服を身に纏った、自分と同じウマ娘たちであった。しかし彼女らは膝をつき、皆一様に暗い顔をして涙をこぼしている。
ルドルフにとって、見慣れた景色がそこにあった。
──三女神の前には、常に誰かがうずくまっている。
いや、とルドルフは首を振る。本当にいるわけではない。見えているのは己だけだと理解していた。
それは過去の幻影だった。夢が叶わず志半ばで学園を去っていった、生徒たちの。
ルドルフが三女神の前に立つとき、決まってその光景が目の前に広がるのだ。
(──墓標だ)
胸の内だけで密かに呟く。
神聖なる三女神像を前にして、そう言い表す不届き者は自分くらいだろう。マルゼンスキーあたりなら、打ち明ければ理解はしてくれるやもしれないが。
いつからだ、と問われれば、はじめから、と答える。そう、はじめから。ルドルフにとって女神像は、数多のウマ娘たちの想いの墓場だった。
肩を震わせる彼女たちに、みな見覚えがある。あの娘も、あの娘も、あの娘だって。
(彼女は出だしのトップスピードが素晴らしかった。あの鹿毛の娘は、中等部時代によく併走していたな。あの生徒は、先日レースで競って……)
知っている。皆、知っている。どのようにターフを駆けていたか、どのような夢を抱いて学園にやってきたのか。
そして、どのようにして彼女たちは歩みを止めてしまったのか。
(しまった、などと……まるで他人事だな)
ルドルフは自虐めいた笑みを浮かべる。そうでないのは、己が一番よくわかっているだろうに。
何てことはない。その輝かしい脚のことごとくをへし折ってしまったのは、他ならぬルドルフ自身なのだ。
曰く、自分の走りを見て自信をなくした。
曰く、圧倒的な速さに二度と追いつけないと痛感した。
曰く、あまりの実力差に打ちひしがれた。
口々にこぼし、涙を流しながら去っていく彼女たちを、ルドルフは何度も見送った。その誰もに言葉をかけられずに。
どんな言葉をかけられたというのだろう。その心を挫いた己が。何を言っても間違っている気がしてならなかった。
「……悔しい」
ぽとり。落ちた声は自分のものではない。
それはうずくまる彼女たちの、想いの断片だった。
雨上がりの生ぬるい風が頬に当たる。それが合図だとでもいうように、彼女たちは絞り出すようにして声を震わせた。
「夢を叶えたかった」
「叶えてみせるって思ってた」
「なのに何で」
「どうして同期にあんな娘がいるの」
「勝てっこないじゃない。あんなのに」
「もっと速く走れたらよかった」
「何で私はこんなに弱いんだろう」
「何でこの脚はすぐにもつれるの」
「あんなに走ることが楽しかったのに」
「こんなに苦しいものじゃなかったはずなのに」
「もっと強かったら、もっと速かったら」
「こんな悔しい思いもしなかったのに」
「私にも」「私にも」「私にも」
「──シンボリルドルフ(あなた)のような脚があったら、よかったのに」
辛い。悲しい。苦しい。
ぽとり、ぽとり。涙に濡れた言葉に、ぴくりと耳が揺れる。無意識に伏せようとするそれを、ルドルフは厳しく諫めた。
──耳を塞ぐな。聞け、彼女たちの無念を。お前が砕いてきた夢の欠片を。
その痛みを和らげることなどできない。できなかった。無力な己が憎らしい。
(駄目だ、落ち込むな。今はそうしている場合ではない)
沈みかけた思考を遮るように首を振る。違う。落ち込む暇があるなら前を向け。無力だと思うなら立ち止まるな。
そうだ。なればこそ、全てを背負ったうえでその先へ──、
「会長……?」
「──っ!」
その時、突如として響いた涼やかな音色が、津波のような嘆きの奔流を一瞬にしてかき消した。
ルドルフは勢いよく身をひるがえす。視線を向けた先には、凛とした雰囲気を纏った少女が、澄んだ薄青の双眸で真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「エアグルーヴ……」
「……どうされました? 顔色が優れないようですが」
端麗な面差しが気遣わしげにひそめられる。まじまじと彼女を見つめていたルドルフは、慌ててその憂いを払うようにぱっと微笑んでみせた。
「いや、大事ないよ。トレーニング直後で、少し疲れが出ただけだ」
「お疲れなのでしたら、すぐに寮に戻ってお休みになられてください」
「……うん、そうだな。君の言う通り、今日は早めに就寝するとしよう」
素直に頷くと、切れ長の瞳が大きく見開かれた。
余程意外だったのだろう。わかりやすく驚く姿に、ルドルフは笑みを微苦笑に変える。因果応報。彼女には特に心配をかけていただけに、諫言よりも耳が痛い。
「君は、何か用事でもあったかな?」
問いかければ、エアグルーヴはふるふると首を横に振った。
「いえ、たまたま通りがかっただけです。会長はこちらで何を?」
尋ね返されて、ルドルフは少し言葉に詰まった。どう言えばいいのか。未だちらつく幻影を視界の端でとらえながら、答えを探しあぐねる。
いつの間にか夕日は沈み、学園には夜の帳がおりはじめていた。眼前の彼女の、黒みを帯びた鹿毛が青く輝くさまを見てそれに気付く。
何を、か。行動という意味であれば特に何もしていなかった。
ただ、そう。強いて言うのであれば。
「……少し、彼女たちの声に耳を傾けていただけだよ」
「三女神に、ですか……?」
怪訝そうに首を傾げる彼女にいや、と否定しかけ、しかし思い直して口を噤む。
仔細に説明することはできる。だがこのことは──彼女たちの想いは、己が背負っていくべき重みだ。
握り潰した夢の数は、自分だけが覚えていればいい。
ゆえにルドルフは曖昧に微笑むだけに留めた。エアグルーヴは腑に落ちない表情をしていたが、こちらが答える気はないと察したらしい。それ以上追及してくることもなく、小さく息を吐いてから三女神像を見上げた。
彼女の思慮深さに感謝しつつ、ルドルフは噴水の周囲に目を向ける。やはりかつての生徒らの幻影は、宵の薄暗さに溶け込みながらも変わらずその場に留まっていた。
「……!」
刹那、ざわりとその影が蠢いた。唖然としていると、更に驚くべきことが起こりはじめた。
彼女たちはルドルフではなく、皆一斉にエアグルーヴを凝視したのだ。
陽炎が揺らめく。縋るように伸びてきた腕の先に、影に気付かず佇む姿が、そこに。
(──ダメだ)
思考を介さず本能が叫んだ。突然湧いた強い否定に困惑しながら、けれど遅れて追いついた理性もダメだ、とかぶりを振った。
そちら側には行かせない。行かせられない。
彼女は。──君は。君だけは。
奪われまいと半ば無意識に伸びた手が、しかし途中で止まった。
「……エアグルーヴ?」
代わりのように、ルドルフの口からは彼女の名がぽろりとまろびでる。
囁きのようなその声は、しかし違わず届いたようだ。はい、とこちらを向いた秀麗な面差しに、また意思とは別に疑問がこぼれ落ちる。
「君は、三女神に何を見る?」
「はい?」
きょとんと目をしばたかせる彼女に、ようやく思考が追いついたルドルフはしまった、と目を泳がせた。いくらなんでも脈絡がなさすぎる。
「ああ、いや……すまない、唐突に。君の表情が、あまりにも穏やかなものであったから……つい、気になってしまって」
歯切れ悪くそう告げれば、エアグルーヴは「そんな顔をしていましたか?」と気恥ずかしげに眉を下げた。
恥じらうようなことではないのに。ルドルフは胸の内でぽつりと呟く。寧ろ息を呑むほどに美しい微笑みだった。
そして、それゆえに思ってしまったのだ。ひどく柔らかな眼差しに、何が映っているのだろうと。
向こう側にある景色を、自分も見てみたい。影の存在すらも忘れてしまうほどに、そんな願いが一瞬にして生まれてしまった。
「……実は、母のことを思い出していました」
「お母様の?」
繰り返すと、彼女は先ほどと同じ柔らかな笑みを浮かべてはい、と頷く。
「トゥインクル・シリーズを駆け抜けていた頃の母も、私と同じように三女神像を見上げることもあったのだろうなと……そう思うと、不思議と力が湧いてくるのです」
言いながら、エアグルーヴは再び女神像を見上げた。夜の青さが、彼女の白い顔を縁取る。
前髪の隙間から見えるセレストの片目が、薄闇の中で星のようにちかりと強く輝いた。
「かつてのあの人に負けてなるものか、と。必ず理想を追い越してみせるという気概が」
弧を描いていた唇がさらに吊り上がる。猛々しい感情を三女神に向けるエアグルーヴの、その気迫にびりびりと肌を叩かれた。
好戦的にきらめく横顔が、ただただ美しい。そんな感慨を抱くのは、己もターフに立つ競争者であるからか、それとも。
──いいや、それよりも。
「……そう、か……君は……ふ、ははっ……!」
「会長?」
途端、エアグルーヴの困惑した声音が耳に届いた。けれどルドルフは、それをわかっていながら笑いを収めることができなかった。
──君は三女神を前にして、そのような景色が見えるのか。
数多のウマ娘の中に母という理想を、母が託した熱い想いを。
なんと痛快無比なことだろう。己の思考の、なんと杓子定規なことか。
そんな景色があるとは思わなかった。真っ直ぐに伸びる情熱に満ちた道が、三女神の向こうに広がっているなどと、思いつくことすらなかったのだ。
「何がおかしいのですか?」
エアグルーヴの声色があきらかに低くなった。これはまずいとルドルフは慌てて顔を上げる。
「いや、すまない。君のことを笑ったわけではないんだ。そこは誤解しないでくれ」
そう弁明すれば、彼女は吊り上げていた眉を戻した。しかし疑問は残ったようで、冬空の瞳が何故だと無言で問いかけてくる。
ルドルフは居住まいを正して向き直り、ただ、と理由を口にする。
「君が私の右腕で本当によかったと、そう痛感しただけなんだ」
つくづく手放し難いと、そう思ってしまうほどに。
晴れやかな笑顔でそう言えば、エアグルーヴは呆気にとられたように目を丸くしてしまった。
どうしたのだろう。けれどルドルフが尋ねるより、彼女が自力で我に返る方が早かった。。
「その言い方……さては禄でもないことを考えていらっしゃいましたね?」
すぅ、と切れ長の瞳が鋭く細められる。いや、我に返ったのではなく、裏に含まれたものを察知されてしまったようだった。
容赦のない物言いに笑ったまま眉を下げる。それほど頻繁に不穏なことを考えているつもりはないのだが。
しかし、今回は彼女が正しいのだろう。ルドルフはそっと瞼を伏せた。
「そうだな……そうかもしれない。私は思っていた以上に、彼女たちに対して穿った見方をしていたようだ」
独りごちるように告げると、エアグルーヴは呆れまじりのため息をついてまったく、と額に手を当てた。
「……言いたくないことなら、と訊かずにいましたが、気が変わりました。生徒会室に参りましょう。そこで洗いざらい白状してもらいます」
「私は罪人か何かかな……?」
思わず呟いたらきつく睨まれた。どうやら失言だったらしい。もう一度すまないと謝れば、不機嫌そうな顔のままであるものの、後ろに伏せられた細長い耳がゆっくりと立ち上がる。
ほっと安堵の息をつき、ルドルフはへにゃりと情けなく笑う。
「だが、君の言う通り、あまり気持ちのいい話ではないから……」
「だから聞かせられないと?」
鋭く指摘する彼女は、あの日保健室で見た視線とよく似ていた。侮るな、と言外の言葉が聞こえてくるようだ。
「私はあなたの右腕なのでしょう? そして同じ視座に立つ同志だと」
否とは言わせない雰囲気を纏わせてエアグルーヴは言い募る。ルドルフ自身もそれを否定する気は毛頭ないため、その通りだと頷く。
「だが──」
「でしたら、あなたの景色を私にも見せてください。強者の……皇帝の世界を」
遮るように続けられた言葉に、弾かれるように顔を上げた。彼女の表情は、ルドルフの予想とは裏腹にひどく優しくて。
「何のためにお傍にいると思っているのですか」
紡がれた声色は力強く、呆れまじりのその笑顔は、思わず目を閉じてしまいそうなほどに眩しかった。
しばし呆然と彼女を見つめていたルドルフは、やがてゆるゆると解れるように頬を緩めた。
「……そうか、そうだな。ふふ……まったく君には、いつも様々なことに気付かされる」
──ああ、やはり手放し難い。
先ほど抱いた思いを再び胸の内で呟く。エアグルーヴを見れば、怪訝そうな顔で小首を傾げていた。
「私からすれば、会長から学ぶことの方が多いと感じていますが」
「ふむ……ならばお互い様、ということかな?」
「ええ」
そう返せば、こくりと彼女は頷く。ルドルフは淡く微笑しながら、そうか、と小さく相槌を打った。もらってばかりではないのなら良かった。
こん、と手に持っていた傘の先で地を叩く。濡れた石畳はこもったような音を立て、噴水の水音に吸い込まれていく。
三女神を見上げれば、やはり嘆きの声は未だ聞こえてくる。それでも胸を塞ぐような圧迫感は、先ほどよりも随分と薄くなっていた。
「悪癖というものは、なかなか直せないものだな。自らで気付きづらいのも難点だ」
「身に染み付いた癖というのはそういうものでしょう」
自嘲しながら肩を竦めてみせれば、そんな答えが返ってきた。なかなかに実感のこもった台詞だ。彼女の悪癖とはなんだろうか。掃除の鬼と化している時は記憶が飛んでいるようだから除外するとして。
いつか聞いてみようか。その思い付きを一旦頭の片隅に仕舞いながら、ルドルフはゆっくりと目を閉じ、そして開く。
「わかった。全て話そう。私が三女神に何を見たのか。……君の言葉に驚かされた理由も含めてね」
彼女に話すことで何か変わるだろうか。おそらく変わらない気がする。これは己に対する戒めでもあるから。
それでも、自分の見ていたものにはまったく違う側面があると知れたこと、そして自分の世界を誰かと共有することは、非常に価値のある経験になるだろう。それだけは確信できた。
校舎に向けて足を踏み出す。エアグルーヴも隣に並んで歩きはじめる。コツコツとテンポよく並ぶ足音が心地よかった。
どこか美しい音楽のようにそれを、ルドルフは至極穏やかな面持ちで聞いていた。
◆ ◆ ◆
レース場から学園に戻る頃には、夕暮れ模様に夜の暗色が混ざり始めていた。薄い群青が、水彩画のように空をゆっくりと染めていっている。
そういえばあの日もこんな黄昏時だったな。三女神像の前を通りながら、ふとそんなことを思い出す。
橙色に染まった渡り廊下を進み、『生徒会室』のプレートがはめ込まれた扉をノックすれば、予想通りの凛とした声色が応じてくれた。
ドアを開けば、書類を片手に振り向いたエアグルーヴと目が合った。
「やぁ。お疲れ様、エアグルーヴ」
「会長?」
「いや、仕事をしにきたわけではないんだ。だからそんなに睨まないでくれ……」
こちらの姿を認めた途端に顔を険しくした聡明な右腕に、ルドルフは頬を引き攣らせる。
七冠を達成した前後あたりだろうか。レース後はきちんと休養を取るという約束事が、生徒会内では取り決められた。ちなみに原因は他ならぬルドルフ自身である。
そのため急を要する案件がない限りは直帰することを心がけているのだが……そうしたくない理由が、今日はあった。
「差し入れだ。少しばかりお茶にしないか?」
口実のために買ってきた手土産を掲げ、ルドルフは笑う。この高揚が冷めやらぬうちに、どうしても彼女と話したかったのだ。
虚を突かれたようにエアグルーヴは手提げ袋を見つめる。一瞬だけ上がった尻尾が小さく揺れて、一拍ほど。やがて彼女は寄せていた眉間を緩めた。
「……そういうことでしたら」
苦笑まじりに微笑む彼女に、ルドルフは喜色を滲ませてぱさりと尻尾を振った。
「テイオーがね、私に宣戦布告をしにきたんだ」
ソファに向かい合って座り、今日の出来事を互いに報告しあった後のこと。
エアグルーヴが淹れてくれたコーヒーを片手に、ルドルフはおもむろにそう呟いた。
「テイオーが?」
ルドルフが買ってきたバターサンドを手にしたまま、きょとんとまばたきをするエアグルーヴにああ、と頷く。
「最近、テイオーとと一緒にいるトレーナーと連れ立ってやって来てな。私を越えてみせる、と。そう宣言されたよ」
言いながら、ルドルフは先ほどの出来事を思い返す。レースを終えて控え室で小休止を取っていた最中のことだった。
普段と異なる雰囲気を纏わせて、トウカイテイオーは自分のもとにやってきた。
いつもの純真無垢できらきらとしたものと違う、闘志に燃える眼差し。その炎が揺らめく双眼で己を見据えて、彼女はこう言い放ったのだ。
──『ボクはいつか必ず、"皇帝"を越える"帝王"になるよ!』
膝に乗せた手に、自然と力がこもる。あの時の気迫に満ちたテイオーの顔が、強く目に焼き付いていた。
「そうですか……では、彼女もついにメイクデビューを」
「ああ。いずれ君と走る機会もあるだろう」
そう告げれば、薄青の双眸がきらりと光った。彼女もテイオーのデビューを心待ちにしていたのだろう。闘争心にきらめく瞳に自分と同じ思いを感じとって、ルドルフはカップに口を付けたまま唇を吊り上げる。
「……君のお母様も、このような気持ちであったのかな」
ふと浮かんだ思考をぽつりとこぼす。怪訝そうな気配に顔を上げれば、首を傾げてこちらを見つめる姿があった。
ルドルフはちらと目元を緩め、ことりとカップをソーサーに置く。
「以前、三女神像の前で話してくれただろう。君は三女神像を眺めると、お母様を思い出すと」
「ああ……あの時の話ですか」
エアグルーヴは納得したように頷くと、こちらを見つめて眉を潜めた。恐らくそのあとにルドルフが話した内容も思い出したのだろう。
あの時は予想以上に重く受け止められてしまって大変だった。沈みきったエアグルーヴの調子を取り戻すために四苦八苦したものだと当時を思い返しながら、ルドルフはうん、と頷いて口を開く。
「私に憧れを抱いた者が、夢を抱いて未来へと邁進していく……こんなにも喜ばしいことなのだな、これは」
噛み締めるように呟いて、じわりじわりと笑みを滲ませる。春の陽光を全身に浴びたような、けれど騒ぐ血が肌を粟立たせるような、そんな心地だった。
今なら理解できる。誰もが三女神に想いを託す理由が。それを誇らしげに語った、先輩の気持ちが。
レースの楽しさを、勝つことの喜びを、全力で走りきった先の幸福を。
そうして駆け抜けた軌跡が、誰かが追いかける夢となれるように。
──連綿を受け継がれていく意志の、なんと尊いことか。
「……そうですね。私もドーベルを見ていると、そう感じることがよくあります」
ルドルフの言葉に、エアグルーヴも優しさを湛えた面差しで答えた。しみじみと同意を示した彼女に、ルドルフも穏やかに目を細める。
「君はメジロドーベルによく目をかけているからね。彼女のデビューも待ち遠しいな」
「ええ。その時は全力で迎え撃ちます」
一転して不敵な笑みを浮かべる姿は、女帝の二つ名に違わぬ威厳だ。同感だ、と深く頷いて、二人は顔を見合せてくすくすと笑声を立てる。
所詮、我々は競争者だ。そう簡単に追いつかせるつもりも、ましてや追い越されるつもりもない。
正々堂々、血湧き肉躍る全身全霊の勝負を。そうして手に入れた栄光こそ、何物にも代えがたい至福なのだと、誰よりも理解しているから。
「……楽しみですね。テイオーの成長が」
「ああ、本当に。その日が待ち遠しくてならないよ」
あの小さな少女が自分と同じ舞台まで上り詰めてくるであろう、そう遠くない未来を夢見る。
彼女の憧れたりうる皇帝として、そしてターフを駆けるひとりのウマ娘として。
──待っているよ、テイオー。
赤紫の瞳をちりちりと光らせながら、ルドルフは好戦的に、それでいて幸せそうに口端を吊り上げたのだった。