ひと皿分の甘さ
「お待たせいたしました。こちら氷苺のパフェセットと……ええと、茄子のピリ辛トマトソースパスタのセットになります!」
たどたどしい読み上げと共に料理を置き、カフェの店員は慌ただしく一礼をして去っていった。
私の前にはパスタとコーヒーが、ファインの前にはパフェとアールグレイがそれぞれ置かれていた。顔を見合わせ、ほぼ同時に苦笑いをこぼす。
「えっと……パフェをどうぞ、グルーヴさん」
「ああ。ファインも、ほら」
店員の姿が見えなくなってから、互いの品を入れ替える。名札に研修中のタグが付いていた時点で、こうなることは予測していた。
だから特に驚きはしなかったが、こうも予想通りだとつい笑ってしまう。無論店員に対しての嘲笑などではない。
「そんなにも似合わないものか。私と甘味は」
肩を竦めてみせれば、ファインはくすりと笑声を立てる。これが冗談だと通じるほどに、ファインも同じ光景を何度も見てきていた。
「そんなわけないよ。グルーヴさんは綺麗でカッコいいから、ついそっちのイメージに引きずられちゃうだけじゃないかな? カフェのテラスでコーヒー片手に……とか、すっごく似合うもの!」
「どういう想像だ。まあ、あながち間違ってはいないが」
言われていることはわからなくもない。実際に気晴らしがてらカフェに赴き、課題をこなすためにそうすることもある。そのような時に供として選ぶのは大抵コーヒーだ。
その際にはケーキなども注文するが、一人且つ通い慣れたカフェであればそうそう間違われることもない。
「私もそういうことあるよー。シャカールと一緒のときとか、私が頼んだ特盛りラーメンがいつもシャカールの方にいっちゃうの」
「ふっ……だろうな。容易に想像がつく」
上品な佇まいと可愛らしい顔立ちをしたファインと、目つきが鋭く不愛想なエアシャカール。二人揃って店に入れば、エアシャカールの方に量の多い、もしくは辛味などの強い品が出されることだろう。今の我々と同じように。
スズカやタイキと出掛けた際にもしばしば起こることだが、別段気にしたことはない。ほとんどの店員は提供する前に確認をするし、迷った素振りを見せた際はこちらから声を上げる。
尚且つそのイメージは、私が常に掲げる女帝としての姿を損なわない。寧ろ体現の成果とも言えるべきだろう。
レース外でもそのように見えるのであれば、満足感を感じこそすれ不満が募るはずもなかった。
「ここのお店ね、パンケーキもすごく美味しいんだよ。今度来た時はそっちも食べてみてね。特にラーメン巡りをしたあとに、シメに食べると最高なの!」
「あ、ああ、そうか……」
ラーメン巡りは遠慮しておきたいが。目を輝かせるファインに曖昧に返事をしつつ、私は凍った苺と生クリームをスプーンですくう。ひんやりとした甘酸っぱさと上品な滑らかさが口の中で溶けていく。美味いなと思わず呟けば、ファインは嬉しそうに笑った。
コーヒーが売りのカフェであったが、紅茶の味も良かった。店内の物静かな雰囲気も、大声で騒ぐような客がいないところも概ね好印象だ。
おかげで店を出る頃にはすっかりここを気に入り、今度はコーヒーを頼んでみようかと既に心に決めていたほどだった。
しかし、次の来店があのようになるとは、流石に予想外であった。
◆ ◆ ◆
黒いエプロンを身に付けた店員が近くを通りすぎるたびに、コーヒーの香りが鼻先を掠めていく。店内には相変わらずクラシックがBGMとして流れ、全体的にゆったりとした雰囲気が漂っていた。
店の空気は変わっていない。にもかかわらず落ち着かない心持ちなのは、向かいに座る相手がこの方であるからだ。
「テイオーからここの店が美味しいと聞いてね。まさか君も先週に来ていたとは」
「ええ……私もまさか立て続けに来るとは思いませんでした。美味しかったので、また来たいとは考えていたのですが」
「君やファインモーションも気に入ったのなら、間違いはないな。うん、食事をするのが楽しみだ」
トレセン学園の生徒会長を務めるシンボリルドルフは、そう言って朗らかに微笑んだ。言葉通り楽しんでいる様子に、私の意思と関係なしに心臓が不自然にひとつ跳ねる。
コーヒーをゆっくりと楽しむ客層を意識してのことだろう。客席は八席ほどを目安にやや高めの壁で仕切られていて、座っていれば隣の客以外からはあまり見えることはない。
トレセン学園にほど近いカフェにしては、閉鎖的な間取りをした珍しい店だ。故に学生よりも社会人の客が多い。
しかしこれも客層故か、だからといって制服姿で来店して注目を浴びるようなこともない。それはファインと来た時に実証済みだった。
この店ならば、会長も気兼ねなく食事ができるのではないだろうか。お誘いしてみようかという考えは、実を言えばカフェを気に入った時点で頭によぎっていた。
(これほど早く叶うとは思わなかったがな……)
正直に言えば、もう一度単身で赴いて下調べを万全にしておきたかった。誘っていただけたのは嬉しかったが、準備不足になってしまったことが口惜しい。
加えてテイオーが先に教えたというのも、少しばかり癪に思ってしまった。油断した。あいつはこういった静かな場所には寄り付かないと踏んでいたのだが。メジロマックイーンあたりの影響だろうか。
「まだ夕食まで猶予はあるし、私は軽食も頼むかな。エアグルーヴ、君は?」
「私はこちらにしようかと。ファインがおすすめだと言っていたので」
言いながらカスタードがこぼれるほどに盛られたパンケーキを指し示す。目玉商品なのだとファインが力説していたこともあり、次に来るならこれを食べてみようと思っていた。
それに、どうせならゆっくりと食べられるものにしたかった。
少しでも長く留まれるから、という私の小さな策略など、おそらく会長は知る由もない。
「ほう……スフレパンケーキというのか。まるでスポンジのような厚みだ」
「テイオーから聞いていないのですか?」
「マヤノトップガンと食べたというのは、この店ではなかったな。それにどうも彼女は、ここのパンケーキを食べ損ねたらしい」
「それは一体……?」
「曰く、メジロマックイーンに分けてもらおうとしたら、一口たりとも譲ってもらえなかったそうだ」
意外に思って尋ねてみれば、そのような答えと共に軽やかな笑声が返ってきた。
やはりメジロ家のご令嬢が関わっていたのか。同時に二人がフォークを片手に皿の上の攻防を繰り広げている様を想像してしまって、私も耐え切れずに笑ってしまった。
大方テイオーが気に障るようなことをしでかしたのだろう。まったく何をやっているのだか。
「テイオーはプリンが絶品だったと言っていたから、それを注文するつもりだったのだが……ふむ……」
そう呟いて、会長は再びじっとメニューを見つめた。どうやら迷っている様子だった。
顎に指を添えて悩む姿に、先ほどまでの話題がちらつく。
わかっている。この方にそのような意図はない。純粋に悩んでいるだけだ。
──けれど。いや、だからこそ。
逡巡したのは僅かだった。一拍分の呼吸の後、意を決して声を掛ける。
「会長、その……よかったら、私のを少し分けましょうか?」
眼前のマゼンダが大きく見開いて私を見つめる。驚きに満ちたその表情に、やはり考えもつかなかったのだなと一人答え合わせをする。
「いいのかい?」
「ええ、かまいません。……その代わりと言ってはなんですが、会長のプリンを一口いただければと」
恐れ多いかと思いつつもそう条件を出すと、赤紫の瞳が宝石のようにぱっと輝いた。
可愛らしい、と思わずこぼれそうになった言葉を、きゅっと唇を引き結んで耐える。
「もちろんだよ、エアグルーヴ。さらにパンケーキを食べてしまえば暴飲暴食……とまではいかないが、流石にカロリーオーバーになってしまうからね。そのぶん夕食を減らせばいいのだろうが、それだと栄養バランスが偏りそうであったし」
そう言って耳を揺らし、ありがとうと会長は顔を綻ばせた。
あまりにも嬉しそうに顔を綻ばせる姿が愛らしくて、ただ頷くことしかできなくなる。何より顔が緩みきってしまいそうで、何気ない振りをして水を飲んだ。ソファに挟まれた尻尾が上向いた感覚が背から伝わってくる。
会長がひとの頼みを聞いて断るような方ではないとよく知っている。寧ろ頼りにされるほどに喜ぶお方だ。
だが、それでも困り気味に苦笑されでもしたらどうしようかという僅かな懸念は、私の抱く感情故にどうしても拭い切れなかったのだ。
言ってよかった。平静を心掛けた表情とは裏腹に、内心で胸を撫で下ろす
「それに、一度やってみたかったんだ。誰かと料理を分け合って食べるということを」
そして続けられた台詞に、今度はこちらが目を丸くする羽目になった。
会長は相変わらず喜色を滲ませて微笑んでいる。無邪気という単語が似合うその姿は、普段の印象よりも幾分か幼い。
それは、つまり。
頬に熱が集まる気がして、またコップを傾ける。
(私が初めて、か……)
からんと涼しげになった氷の音が何故か遠い。それ以上に己の心臓が騒がしいのだと気付いて、意識して呼吸を深くする。背もたれに押し付けた尻尾が暴れたそうに動くのが煩わしい。
嬉しいな、とにこやかに目を細める姿に、私もです、と返す素直さと勇気は生憎と持ち合わせていなかった。
「もし可能であれば、パンケーキに合わせて他の料理も出していただきたいのですが」
私が焼き上がるのに時間がかかると言ったからだろう。注文する際、会長は店員にそう願い出た。
余計なことを言ってしまったかと申し訳なく思ったが、少し悩んだ末にその厚意に甘えることにした。先に食べ終えた彼女に食す姿を眺めていられるのも居心地が悪い……というより、心臓に悪い。
このような気遣いが己に向けられることが、嫌なわけではない。寧ろ、ああ好きだな、と。思考が伝達経路を全て省略して囁くくらいには嬉しいと感じている。我ながらどうしようもないと思うが、その感情を否定すること自体を随分と前に諦めていた。
カフェの店員は、会長の頼みを聞くと目に見えて慌てだした。その焦り具合に既視感を覚えて胸元を見れば、『研修中』のタグのついた見覚えのある名札が目に留まる。
彼女は先日に出会った店員だった。まさか店員まで同じとは。そしてこれから起こるであろう展開が容易に予測できてしまい、ついいつもの苦笑いがこぼれそうになった。
その後、途中で通りがかった先輩らしき店員が彼女に代わって快く応じてくれた。我々が礼を述べたあと、彼らは一礼して揃ってカウンターへと去っていった。
先輩のあとをついていく後ろ姿に、ふと庶務の彼女を思い出した。懐かしい。業務をひとりでこなしきれずに深く悩んでいた彼女も、今や立派に業務をこなす有能な生徒会役員の一人だ。
「あの店員は、入ったばかりの庶務の子に似ているな」
どうやら会長も同じ姿を重ねていたらしい。穏やかに目を細める彼女に、相槌を打ちながら同じような笑みを浮かべた。
「そうですね。……あの頃の私は彼女を引き留めることができずに、結局は会長のお手を煩わせることになってしまいました」
「そのように言うのはよしてくれ。君はよくやってくれていたし、寧ろ私の方が差し出がましい真似をしてしまったと今では思っている。あれから猛省したよ。当時の君の叱咤が覿面に効いた」
「会長……」
首を横に振る彼女の笑みには、ほろ苦さが滲んでいた。きっと私も同様だろう。
笑い話にするにはまだ早い記憶だ。しかし、あの頃のすれ違いや衝突があったからこそ、今の私たちがあるのも確かだった。
そう。私は口唇を吊り上げる。
「では、この件はお互い様、ということにしましょう。彼女が今も生徒会に所属していること自体は、喜ばしいことなのですから」
そのような当時があるからこそ、些細な軽口を叩きあえるようになったのだ。苦い記憶だが、決して悪い思い出ではない。
「エアグルーヴ……ふふ、そうだな、まさしく君の言う通りだ。あの子の丁寧且つ正確な働きぶりに、今では我々の方がよく助けられている。この間だって──」
それを皮切りに、私たちは日常を語り始める。
話題に上がるのは普段と変わりない業務の話。ただ、不思議と平素よりも雑談寄りのものになっていた。
目安箱で却下はしたが目についた意見について、カフェテリアの新メニューについての予想、夏をテーマにした花壇が見事な花を咲かせたこと、期待の新星と噂される生徒たちが教室で寸劇に興じていたこと。
例えるなら、ノートの端に書き殴っておいたメモを、そういえばと思い出して口にするような。そんな内容ばかりで。
スズカやタイキらと比べれば堅苦しい、けれど常日頃の私たちからしてみれば随分と他愛のない会話だ。向かいに座る会長の表情もずっと和らいでいて、心地よい音色を奏でる唇は綺麗な弧を描いて私に語りかけてくる。
自分と同じように、会長もこの会話を楽しんでいるのだ。その事実に、内心では舞い上がるような心地だった。
そのためだろう、と思っていた。庶務の彼女に似ていると話した店員が再び現れたときに、少しばかり水を差されたような気分になったのは。
料理を運んでくる姿が視界の隅に入り、彼女の視線が私たちに向けられていることに気付いてあ、と思ってしまった。その時点で苦笑いを浮かべかけていた気がする。
しかし構えていた口元は、予測した笑みをかたどることはなかった。
「お待たせいたしました。クラブハウスサンドのセットと生クリーム……あ、いえ! カスタードブリュレのスフレパンケーキセットになります……!」
緊張した様子でやってきた店員が、やはりこちらに確認を取ることなく料理をテーブルに置いていく。
たどたどしい手つきで置き終わると、ごゆっくりどうぞ! と頭を下げて彼女は急ぎ足で去っていった。
「……やはりかつての彼女に似ているな。あの一生懸命な姿を見ていると、つい鼓舞激励をかけてしまいそうになる」
会長の横顔が再び懐かしげに微笑んで、しかしすぐに怪訝そうな表情を浮かべた。
「エアグルーヴ? どうかしたのかい?」
「あ、いえ」
首を傾げる姿に、ようやく呆然としていたことに気付き慌てて言葉を返す。
「その……彼女が間違わずに料理を置いたことに、驚いてしまって……」
混乱した頭では上手い誤魔化しが思い浮かばず、結局思ったことをそのまま言葉にしてしまった。
私の目の前にはカスタードがたっぷりとかかった甘そうなパンケーキが、会長の前には四つ切りにされた彩り豊かなサンドイッチが置かれていた。二人して頼んだアイスコーヒーはテーブルの中央に、小さなミルクピッチャーと共に添えられている。
間違えられると、ほぼ確信していた予想が、初めて外れた。そのことに驚きを隠せない。
「そうか? 彼女は我々を見て、どちらの注文か判断したのだと思うが」
それは私が甘味を好んで食べることを会長がご存じだからであって、その理屈で言えばパンケーキが置かれるのは会長の方でしょう。
不思議そうに首を捻る彼女にそう返そうとして、しかし続けられた言葉に遮られるどころか思考ごと全て消し飛んだ。
「君は容姿も仕草も、非常に女性らしい。その美しさや可愛らしさに甘味を連想するのは、当然のことではないかな」
呼吸が止まった。かと思った。
そう錯覚するほどに、強い衝撃が胸を叩いた。
「それはともかくとして、見た目で判断していては間違いも起こり得るのも確かだ。有備無患だな。誰かが気付いて、彼女に教えてくれるといいのだが……」
「……そう、ですね」
脈打つ鼓動を必死に宥めすかす。ようやく絞り出せた相槌は、妙に裏返ったりはしていなかっただろうか。
顔を伏せ、膝の上に置いていた手を握りしめる。次いで聞こえてきた機嫌のいい声音には心から安堵した。
「うん、実物は写真以上に美味しそうだ。それに盛り付けも良い。学園のカフェテリアに負けずとも劣らない品々だ」
特に不審には思われていなさそうだ。ほっと肩の力を抜くが、一向に視線は上げられそうになかった。
私の顔は今、確実に赤くなっている。見られでもしたら理由を追及されるに違いない。しかしいつまでも俯いていては、怪しまれるのも時間の問題だ。
どうしたものかと視線を彷徨わせて、料理と共にやって来た食器ケースが目に留まった。
そうだ。少なくともパンケーキを切っている間は下を向いていられる。
会長が軽食にサンドイッチを選んだことも幸いだった。助かったとばかりにフォークとナイフに手を伸ばした。
焼き立ての熱さと甘い香りを漂わせるパンケーキにナイフを下ろす。少し力を入れれば、飴色のカラメル層がぱりっと小気味いい音を立てて割れた。
ナイフに押されて端からとろとろと溢れ落ちるカスタードを見つめながら、半ば無意識に先程の言葉を反芻していた。
(……会長の眼には、私はそう映って見える、のだろうか……)
それとも本当に、周りからもそう見えていると?
美しく、可愛らしく。このような、見た目も味も甘いスイーツを頼んでも、違和感のない娘だと。
ぼっと顔に火がのぼる感覚がした。馬鹿か私は。冷ますつもりが逆に熱を上げてどうする。
私はいつだって女帝としてあらねばならない。それが理想で、私の望みだ。
ならば会長にそう思われてしまうのは、まだまだ己が未熟である証拠だろう。そう思えば悔しさも湧いてくるというものだ。
そう思い、精進せねばと、気を引き締める自分もいる。確かにいるのだ。
だが、その一方で。
(……いかん。顔が、ゆるむ)
ただのウマ娘としての私は、それを嬉しいと感じてしまっている。それもまた、認めざるを得なかった。
甘いものよりコーヒーが似合う。それを不満に思ったことなどない。どこか誇らしささえ感じていたのだから、思う以前の話だ。
しかし心のどこかでは、小さなトゲ未満の引っかかりを覚えていたのかもしれない。先ほど店員に対して胸が騒めいたのはそのせいだったのだと遅れて理解する。
(そのうえ会長の前では、甘いものが似合う娘でありたいと思っているのだと……)
さらにはそんな諸々の余計なことにまで気付いてしまった。
苦し紛れにきゅ、と下唇を噛む。本当にこの方は、無邪気に人の心を翻弄する。
わざと狙って気障ったらしい台詞を放つ場合もあるが、最も厄介なのは今のような純粋のみから生まれた発言だ。毎度不意をつかれる身にもなっていただきたい。
しかし文句を募らせながらも、それをやめてほしいとは言わないのだから私も大概だろう。寧ろもっと、と望んでいるのだから始末に負えん。認めてしまった感情が、こんなにも際限なく欲を膨らませるものだとは思いもしなかった。
そのようなことを不毛に考えているうちに、気付けばパンケーキを切り終わりかけていた。
流石にこれ以上俯いたままではまずい。静かに息を吐き出し、クールダウンの要領で逸る鼓動を鎮めようと試みる。意外にも効果はあり、冷静さを欠いていた己を図らずとも痛感することとなった。
気を取り直して顔を上げる。会長は丁度サンドイッチを一切れ食べ終わったところのようだった。
小さく口を動かす彼女をちらと一瞥し、小分け用の小さな皿に慎重にパンケーキを取り分ける。
カスタードを皿の縁に垂らすことなく乗せることに成功し、胸中でよしと満足しつつ会長に差し出した。
「会長、どうぞ」
「ああ、ありがとう。君は盛り付け方も綺麗だな」
「恐れ入ります」
皿を受け取り、アイスコーヒーに伸ばされた手がふいに止まる。何か思いついた様子の彼女を見守っていると、おもむろに食器ケースに手を伸ばしてナイフを取り出した。
そのままプリンの皿を引き寄せて半分に切り、小分けしたパンケーキの皿に一方を移した。
「エアグルーヴも食べてくれ」
そして元々プリンが乗ってた方の小皿を、私の方に差し出してきたのだ。
「こんなに……会長、私は一口で本当にかまいません」
「いいんだ。分け合いがしたいと言っただろう? いわばこれは私の我が儘だ。ゆえに君には、この我が儘にどうか付き合ってくれると嬉しいのだが」
受け取ってはもらえないだろうか? そう小首を傾げる仕草に、ぐっと言葉に詰まってしまった。至って余裕そうな笑みを浮かべているくせに、瞳を不安そうに揺らすのは反則以外の何物でもない。
はぁ、とため息をひとつ。その表情を見た時点で断る術など失っていた。
「ありがたくいただきます」
そう返せば、ぱぁっと音がしそうなほどに晴れ晴れとした笑みが目の前で花開いた。
「ああ! ふふ、想像していた以上に楽しいものだな、これは」
目を細める彼女の向こうで栗色の尻尾が揺れる。このような些細なことで非常に嬉しそうにするものだから、愛くるしいと思う心が止まらなくなる。
「……会長のお弁当をお裾分けいただくときと、そう変わりはないのでは?」
その笑顔があまりにも眩しくて、つい素っ気ない物言いになってしまう。しかし会長は気にした様子もなく、ただ不思議そうに数度忙しなくまばたきをした。
「む、言われてみればそうなるのかな……? あれは本当に余りものを君たちに渡しているだけだから、そう捉えたことはなかったが」
とん、と指先で頬を叩き、上を見つめていた瞳が次第に柔らかく細められる。
「しかしそう考えると、君たちに弁当を渡すという行為が俄然楽しいものに思えてくるな。うむ、であれば次は栄養バランスだけでなく、彩りにも気を遣ってみようか」
楽しみにしていてくれ、と笑う会長の方が実に楽しそうで、こちらも自然と唇が笑みをかたどっていた。
ならば、と。それを思いついたのも、その明朗な表情を目の当たりにしたからだろう。
(私も、作ってみようか)
この方のために、少しばかりの昼食を。
彼女のお裾分けは基本的に不定期であるが、事前に連絡をいただけるため準備自体はできる。あまり負担にならないように小さめの弁当箱を買って、その中に数品のおかずを詰め込んで。
そうして受け取るのと入れ替えに渡したら、今日のように目を輝かせて、喜んでくださるだろうか。
一抹の不安がよぎるが、目の前の笑顔を見ればそれ以上に渡したい気持ちが膨れ上がった。
帰りに食品店に寄りたいと言えば、会長も付き合ってくれるだろうか。そうであれば他にも好物がないか更に聞いておきたい。栄養バランスを重視した彼女の昼食からだけでは、どうにも判断しかねるのだ。
味に関しても好みというより、健康に配慮した味付けだ。嫌いではないのだろうが、好んでいるというわけでもないだろう。現にしっかりと味付けされているだろうカフェのサンドイッチを、会長は美味しそうに口にしていたのだから。
「君は本当に甘いものが好きだね。そこまで嬉しそうに食べてくれると、誘った甲斐があったというものだ」
そう思案しながら厚みのある生地の一切れを口に運んでいると、楽しげな声が降ってきた。
パンケーキを飲み込み、それは、と否定しかけて、やめる。
説明して、万が一何故と深く追及されでもしたら上手く誤魔化せる気がしない。理事長……はともかくとして、あのたづなさん相手に臨時予算をもぎ取ってくるような方だ。
故に私は、否定の代わりに唇の端を吊り上げた。
「……そうですね。この店の甘味は本当に美味しいので。今日はお誘いいただき、ありがとうございます」
できるだけ綺麗に、今だけは可愛らしく見えるように。
この笑顔が、彼女のマゼンダの瞳に焼き付いてくれるように。
今度は私から誘ってみよう。きっと断られることはないだろうから。
「こちらこそ、応じてくれてありがとう。君と一緒に来れてよかった」
「光栄です」
そうして綻ぶように咲いた柔らかな笑顔の向かいで、今日のように甘味を頼むのだ。
──あなたの傍らであれば、デザートひと皿分の甘さが私に宿る。
そんなこそばゆくも心地いい喜びを、私は知ってしまったから。