”ぬばたまの その夜の月夜 今日までに



直していただきたいと思うところは、案外といくつも出てくるのだが。
これについては、本当にどうにかしてほしいと心から思う。


微睡みの中をたゆたっていた意識が、ふいに浮上する。
エアグルーヴはふるりと瞼を震わせ、薄く目を開けた。暗い。まだ夜だ。なのに妙に明るい。
サイドテーブルの照明でも消し忘れたかと半ば無意識に首を巡らせ、そして原因を突き止めたことを早々に後悔した。
「月明かりか……」
最悪だ。よりにもよってこんなタイミングで、この光で目を覚ますなんて。
やや乱暴に布団を頭からかぶり、丸まって目を閉じる。悪足掻きだとはよくよく理解していたが、そうせずにはいられなかった。
案の定眠れない。いつもは気にならない微かな物音すら、過敏になった神経が拾いあげてしまう有り様だった。
それでも十五分ほど粘ってみたが、数度目の寝返りを打ったところで寝直すことを断念した。
(……ダメだ、眠れん)
もうすっかり眼が冴えてしまった。こんなときばかりは寝起きの良い自分を恨みたい気持ちになる。
これはもう諦めるしかあるまい。細くため息をつき、エアグルーヴはゆっくりと上体を起こした。
首をひねって見上げれば、ちょうど枕の上あたりに小さな窓がある。そこから月明かりが差し込んでいた。
ブラインドでも付けておけばよかったなと、そう悔やむのも何度目か。次のオフの日に買ってこようと決意して、買う直前になって商品を戻すことをその都度繰り返している。
(ファインは……よく寝ているな)
同室の彼女を起こさないよう、細心の注意を払ってもそりとベッドの上で身じろぐ。身体ごと窓に向き直れば、淡い光に全身が包まれた。
「……綺麗だな」
いっそ残酷なほどに。内心でそう続け、エアグルーヴは四角く縁取られた景色を切なく見上げる。
ガラスを隔てた夜空には、瑕疵のない満月が凛と美しく輝いていた。


◆  ◆  ◆


その日は、代わり映えのしない一日だったはずだった。
山積みの仕事をひたすら片付けて、生徒たちが持ってくる案件にその都度対応し、午後はトレーニングに没頭する。何てことのない日常だ。
そして練習後に再び生徒会室に顔を出したのも、普段と変わらない流れのひとつであった。

後期の年間行事予算案を作成していたエアグルーヴは、ふと視線を上げて壁の時計を見た。
もうこんな時間か。ふぅと息をつき、参考にしていた前年度のファイルを閉じて首を巡らせる。
「会長、本日はもう切り上げましょう。そろそろ帰らないと、夕食の時刻を過ぎてしまいます」
こちらもいつものように生徒会長席で書類と格闘していたシンボリルドルフは、エアグルーヴの言葉に顔を上げた。
「ん……もうそんな時間か。すまないな、エアグルーヴ。トレーニング後に、また生徒会室に引っ張り出してしまって」
「いえ、私が進んでやっていることですから」
「そうか……いつもありがとう。おかげで明日中には目途がつきそうだ」
「書類は机に置いていってくださいね。くれぐれも帰宅後に、おひとりで続きをなさいませんよう」
「うむ……だがこの書類だけでも終わらせておけば、明日はすぐに次のステップから始められ──」
「会長」
「……わかった。これは置いて帰ろう」
そう、こんなやり取りをして業務を終了したはずだった。名残惜しそうに作成途中の書類を見つめるルドルフをきびきびと促して、生徒会室の鍵を閉めて学園を後にした。
下校者は自分たちしかいなかった。閑散とした学園を背に、ゆっくりと帰路についた。
歩きながら、おそらく生徒会に関する話をしていた。来月の限定メニューの試食会の件についてだったかもしれないし、生徒会が主催するクリスマス会の予算案の話だったかもしれない。
その辺りの内容は、情けないことにあまり覚えていない。断じて誓うが、決して上の空で聞いていたわけではなかった。
ただ、そのあとの会話が、エアグルーヴのキャパシティをあまりにも超えたものだったのだ。


「君はよく月を見上げているね、エアグルーヴ」
ふと、気付けば宵の空を見上げていたエアグルーヴは、その声に我に返った。慌てて視線を向ければ、ルドルフが興味深そうな眼差しで自分を見つめていた。
はじまりは、そこからだった。
「あ……すみません。会話中によそ見を」
その日の夜空には、綺麗な三日月がくっきりと浮かんでいた。
満月のような明るい月夜というわけではない。だが滲み出すような光が、街灯とは別に石畳の道を優しく照らしていた。
その淡い輝きに自然と引き寄せられるようにして、いつの間にか弧を描いた白銀の月を見つめていた。
「いや、咎めるつもりで言ったわけではないんだ」
すまない、と眉を下げて笑い、「月が好きなのかい?」と彼女は続ける。
そこに呆れやからかうような意図はなかった。ただただ穏やかな問いかけだったからこそ、エアグルーヴも素直な思いを口にできた。
「はい。母曰く、幼少の頃から月が好きだったようです。……特に今日のような美しい三日月は、いつまでも眺めていたくなります」
もう癖のようなものなのだろう。夜になれば、月が出ていないかと思わず空を見上げてしまう。
それほどに月を中心にして作り上げられた夜の雰囲気を、エアグルーヴは好ましく思っていた。
しんと静寂に包まれた空気のなか。柔らかな闇がどこまでも広がる夜の空。深い青が少しだけ差し込まれたその暗色に、散りばめられた星々がちかちかとまたたく幻想的な風景。
そのなかでいっとう輝き、けれど静かに浮かんだ大きな月。
その全てを瞳におさめて、降り注ぐ静謐さに身を委ねるのが好きだった。
月は、真っ直ぐに見上げても目を焼かれない。その美しくも気高い姿を、いつまでも見つめていられる。
長く眺める口実として時折本に手を伸ばしてしまうほどには、その優しい月明かりに魅了されていた。
「そうか……」
ふ、と。ルドルフが柔らかな吐息をこぼす。そこに微かな笑みがまじっていることに気付いて、エアグルーヴは隣を歩く彼女を見つめた。
「会長、どうされました?」
「ん……いや、すまない。少々、おかしな想像をしてしまってね」
「というと?」
尋ねると、彼女はその整った横顔に微苦笑を浮かべた。
ルドルフは普段、凛々しい、勇ましいと周囲から褒めたたえられることが多い。けれど彼女が今のように表情を崩すと、少し印象が変わる。
少なくともエアグルーヴはそう思っている。公の場では決して見せることのない、少しだけ気の緩んだ姿。
そしてそのどこか幼さを含んだ面差しを見る度に、胸の奥でじわりと湧き上がるものを以前から自覚していた。
気を許されている。その実感と、おそらく小さな優越感。
「ううむ……まずは先に謝っておこうかな。気を悪くさせてしまったらすまない」
「なるほど、悪口ですか」
「違うに決まっているだろう。寧ろ才華爛発な君は、どれほど賞賛してもし足りないくらいだというのに」
そう唇を尖らせて少し不満げにこちらを見る姿にも、自然と口元が緩んでしまう。それをどう捉えたのか、「何なら今この場で並び立ててみせようか?」と冗談なのか本気なのかわからない台詞を言われ、エアグルーヴは笑みを刷いたまま「お気持ちだけ受け取っておきます」と丁重に断った。
「それで、何故笑っていらしたのですか? それが私とどう関わっているのでしょう?」
「……やはりそこに戻るか」
「言いたくないことでしたら、無理におっしゃらなくて結構ですが……」
「いや、そうではないよ。驢鳴犬吠(ろめいけんばい)……本当に、あまりにも些末なことだから」
そういったあなたの些細なことすら聞いてみたいのだと、言ったらどんな反応をするだろうか。
それを告げられるほど素直な性分ではないエアグルーヴは、胸中だけでそう呟き、彼女の言葉を待った。
たわけ者だった、と思う。本当は、待ってはいけなかったのだ。
本当につまらないことだよ、と前置きをして、ルドルフは三日月を見上げた。
「私は幼少の時分、今の名とは別の呼称で呼ばれていた時期があってね」
遠いある日に思いを馳せているのだろう。紅梅の花弁に似た色の瞳が、懐かしさをはらんでゆるりと細められる。
「いわゆる幼名というやつだ。……この白い前髪が三日月と似ているからと、そのような理由でね。周囲の者たちからは一時期、『ルナ』と呼ばれていたんだ」
「……そう、なのですか」
ルナ。元の言語はラテン語だったか。『月』を意味する言葉だ。
確かに彼女の特徴的な前髪は、白い三日月を連想させる。納得すると同時に、一抹の不安がよぎった。
それは、自分が聞いてもいいことなのだろうか。
そう思う傍らで、"ルナ"という彼女の名を頭にしっかりと刻み込んでいた。
「柄でもないのは百も承知だよ」
眉を下げて笑うルドルフに、エアグルーヴはふるふると首を振る。シンボリルドルフの名と彼女の功績を知っていると、少し意外に感じるのは否めないが。
「いいえ、そんなことは。お似合いだと思いますよ」
「そうかな?」
普段はその抜きん出た能力に威厳や迫力を感じてしまって気付きにくいが、彼女の顔立ちは実は可愛らしい部類に当たる。本人に自覚があるかはわからないが、てらいもなく笑ったときなどは不思議とトウカイテイオーによく似ているのだ。
だからエアグルーヴがそう返したのは、嘘偽りのない本心だった。
それに、と。少し気恥ずかしげに首を傾げるルドルフを見つめて、エアグルーヴは目を細める。
「ええ。それに会長も、その呼び名を気に入っているご様子です」
そして”ルナ”という呼び名をつけた人物も、さぞ彼女のことを愛らしく思っていたのだろう。
そう指摘すると、ルドルフははっとした様子でエアグルーヴに視線を向けた。それからじわじわと滲むような笑みを浮かべて、その形のいい唇を動かした。
「参ったな。顔に出てしまっていたか。……うん、月を由来としたその名で呼ばれるのが、私はとても好きだったんだ」
少しはにかんで頷いた彼女は、普段よりもずっとあどけない。
愛らしいとさえ思えるその表情に、この方も自分と同年代なのだと、今さらの事実を改めて実感する。それほどまでに、今目の前にいるルドルフは、普段の皇帝たらんとする姿とはかけ離れていた。
そんな彼女の表情をまじまじと見つめながら、エアグルーヴはそれにしても、と頭の片隅で首を傾げる。それが自分と、どう繋がっていくのだろうか。
「だから、嬉しくなってしまってね。月が好きだと、君が目を輝かせて言ってくれたものだから」
そんな疑問を浮かべた直後だった。
穏やかに流れる時の中で、耳を疑うような発言を聞いた。
「お門違いと承知していても、何だか照れてしまったんだ。おかしいだろう? 月を愛でる君を見て、喜色満面になってしまうなど」
そう言って、言葉通り照れながら目を細めたルドルフを、エアグルーヴはまばたきすら忘れて見入ってしまった。
その時の衝撃といったらなかった。ルドルフの表情に冗談も揶揄のつもりもないことが伝わってきて、尚のこと混乱した。
耳の奥で警鐘が鳴り響く。どうして。湧いた疑問に何かがよせと叫ぶ。考えてはいけない。疑問に思ってはいけない。
その先を考えてしまったら、もう。
「何故、そのように……」
なのに、エアグルーヴの意識と離れて、問いかける言葉が転がり落ちた。
頭の中の自分が悲鳴を上げる。逃げろ。落とされるぞ。特大の爆弾を。
「何故、か……正直、そこまで明確な答えがあるわけではないのだが……」
聞いてはいけないと己が叫ぶ。やめろ。聞くな。聞いたら終わりだ。
その通りだと思うのに、足の裏が地面に縫い止められて動かない。
歩を止めたエアグルーヴに気付き、ルドルフも一歩先で立ち止まって振り返る。長い鹿毛をふわりと舞わせる様は、まさに優美そのものだ。
彼女の真上に月が輝いている。その前髪と同じ、白い三日月が。
駄目だ。本能が叫ぶ。けれど、動けない。
月明かりを背に、ルドルフがふんわりと微笑む。
その姿が、あまりにも美しく輝いていて。
「君にルナと呼んでもらえたら、と。多分、無意識下でそう思っていたからなのだろうな」
そうして身構えることすらできないまま、エアグルーヴはその言葉を正面から受けてしまった。


そんなことを、知ってしまったせいだ。
月を見るたびに、心は安らぎと同時にざわめきを覚えるようになってしまった。

「ル……──!」
無意識に言葉を紡ぎかけた口を、エアグルーヴは慌てて噤んだ。
誰にも聞かれていないはずなのに、頬に羞恥がのぼる。月明かりの下で、エアグルーヴは熱を持った顔を両手で覆った。
──あの方は、本当にタチが悪い。
ひどい。ずるい。あんまりだ。
悪癖だ。害悪だ。早急に改善を求めたい。
重ねたことなどなかったのに。寧ろ正反対だと、ささやかに夜道を照らすような優しい光は似合わないと、そう思っていたのに。
月を見るたびに、彼女が重なる。重なって、離れない。

星々に囲まれながら孤高に浮かぶ姿に、頂に立つ背中を思い出す。
満ちていようが欠けていようが美しく輝き続ける気高さに、ウマ娘たちを導く凛々しい横顔が思い浮かぶ。
暗闇を照らす穏やかな月明かりに、生徒を見つめる慈愛に満ちた微笑みを、重ねてしまう。

月に抱いた感想が、全てルドルフに繋がってしまう。

顔が火照って仕方がない。勝手に鼓動が跳ね上がる。心臓が締め付けられるような感覚が息苦しくて、エアグルーヴは静かに熱い呼気を吐き出した。
本当になんて方だ。なんて横暴なのだろう。
あんな無邪気に。あんなに易々と。
(私が月を見上げる理由を……惹かれる、理由を)
新たにもう一つ、いとも簡単に作ってしまわれた。
あまりにも自分は被害者だ。もうどうしようもないではないか。あれを喰らってどうもしない強者がいるなら是非お目にかかりたい。それともこれは自分だけなのだろうか。
熱を冷ましたくて手の甲を頬に押し当てる。氷嚢だったらすぐに溶けてしまいそうな熱さに、エアグルーヴは情けなく眉を下げた。
あのような表情を目の当たりにしたら、思い出さずにいる方が無理な話だ。
(あんな顔で、あんなに嬉しそうに……っ)
自分のことではないのに、あんなにも面映ゆそうに笑ってみせて。
そんな笑顔を見せられたら、考えないわけがないではないか。
(……もし、)
──もし、ルドルフ自身を見つめて、「ルナ」を呼んでみたら、と。
そうしたら、あの方はどんな表情を見せてくれるのだろう。どんな仕草をしてくれるだろう。
呼んだ自分に……自分だけに、どんな言葉を、反応を返してくれるのだろうか。
そんな風に想像を巡らせることを止められない。止まってくれない。
まるでターフを走りきった直後のように、興奮が脳を支配する。どくどくと心臓が鳴り止まない。
ばさ、と衣擦れの音が聞こえて、はっと背後を向く。気付けば尻尾が高く持ち上がって布団を跳ね除けていた。
慌てて掴んで胸元まで持っていく。ちらりとファインの様子を見るが、幸い彼女が起きる気配はなさそうだった。
ほっと息とついてから、エアグルーヴは唇を噛みしめた。なおも揺れようとする自分の尾を、力任せに押さえつける。
本当に、あの方は。
「なんてことを、教えてくれたのだ……!」
湧き上がる情動に耐えかねて、エアグルーヴは呻くように声をもらした。
あれ以降、ふとした瞬間に「ルナ」と呼びたい衝動に駆られる。
彼女が無垢な部分を見せてくるたび、子どものようにしゅんと耳を伏せるたび。
こちらを見つめて、優しく微笑んでくるたびに。唇が震えて、その名を紡いでしまいそうになる。
無理だ。彼女の本名でさえ、長らく呼んでいないくせに。呼んだら最後、絶対に甘やかな響きを含んでしまう。それがわかっているのに。
(……そう、わかっている)
わかっているのだ。何故こんなにもこの衝動に抗い難いのか。これが、どの感情から湧いてくるものなのか。
呼んで、誰も知らないルドルフの一面を、自分だけが知りたいと。
そんな特別を、どうしようもなく望んでいるのは。
「……あなたは、ひどい」
ルドルフに抱く、焦がれるほどの愛情を自覚しながら、エアグルーヴは凛然と輝く満月を睨み上げたのだった。


◆  ◆  ◆


暑い夏がやってきた。トレセン学園恒例の夏合宿も、もうすぐそこまで迫ってきている。
この季節が来ると、学園の年間予定表を初めて見た時の記憶が思い起こされる。当時の私は、七、八月の欄を見てものすごく驚いてしまったのだ。
何せその夏の二か月間が、海辺の宿泊施設での強化合宿に当てられていたのだから。
私も過去に運動部に所属していた。だから合宿の経験はあった。
でも、それは一週間程度の話だ。ちなみに人間の学校であればそれが平均的な合宿日数である。
それを鑑みたうえで改めて二か月という日数を見れば、トレセン学園の合宿期間がどれほど長いのかがよくわかるのではないだろうか。
流石天下の中央トレセン学園。敷地のすべてにレース場もトレーニング施設もライブ会場まで完備なスーパー学園。理事長がポケットマネーでぽんぽん大農園を拡張したり大型の最新コース整備機買っちゃうトンデモ学園。やることなすことスケールが大きい。
けれど、規模が大きいからこそ効果も絶大だ。
夏の二か月間、一日中トレーニングに費やせる。しかも普段より負荷をかけられる砂浜と、遠泳も行える海の練習場で。
レースの頂点を目指すウマ娘たちにとって、この合宿は大きく成長する絶好の機会だ。
トレセン学園に所属する誰もが、その重要さを深く理解している。

そういった事情があり、七月頭に入るとトレーナーは皆一様にトレーニングメニューをゆるめに組むのが恒例だ。
それは私も例外ではなく、きたる強化合宿のためにエアグルーヴの調整に気を配っていた。
だから、彼女がトレーニング中にふらついたことにもすぐに気付くことができた。
「エアグルーヴ、もしかして寝不足?」
走り込みから戻ってきたエアグルーヴに歩み寄ると、彼女はぴくりと眉を跳ね上げた。それから気まずそうに目を伏せられる。
そうしていると彼女の赤いアイシャドウがよく見える。綺麗だな、なんて見惚れていると、ぽそぽそと歯切れの悪い声が聞こえてきた。
「少しな……。安心しろ、トレーニングに支障はきたさん」
「そこは信用してるけど……しんどかったら言ってね」
「わかっている」
いつものように素っ気なく返されるが、やはりバツが悪そうだ。前よりも色んな表情を見せてくれるようになったことが嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。
それを誤魔化すために、エアグルーヴにドリンクを渡しつつ話題の引き延ばしを試みた。もうひとつは寝不足気味の彼女に、一息入れてもらうために。
「面白い本でも買ったの? エアグルーヴのイチオシだったら、私も読んでみようかな」
「いや……昨日はただ、月明かりが綺麗だったから……それでつい、読みふけってしまっただけだ」
「そう……ふふ」
何度か聞いた覚えのある夜更かしの理由に、くすりと笑う。そうしたら不審そうな顔で睨まれてしまった。
「何だ、突然笑い出して。文句があるならはっきり言え」
「ううん、そうじゃないの。エアグルーヴは本当に、花と同じくらい月が大好きなんだなって思って」
きっと好きで何が悪いとか、人の好みにいちいち口出しをするなとか、そういう言葉が返ってくるかと思っていた。だから私は、そんなことないよとか、気になってつい、みたいなことを笑顔で返すつもりでいた。
なのに、エアグルーヴは弾かれたようにこちらを見て、その美しい顔を見る見るうちに真っ赤させたのだ。
そんな反応が返ってくるとは思わなくて、私は思わず目を丸くしてしまった。
「な……っ! どうしてそうなるんだ、たわけが!」
「へっ? え、ご、ごめんなさい?」
「……っ、いいから、さっさと次のメニューに移るぞ! 貴様は早くストップウォッチを持て!」
「は、はい!」
ばさりと尻尾の逆立たせて怒鳴るエアグルーヴに、私は慌てて首に下げていたストップウォッチを手に持った。
既にスタート地点に立った彼女が早くしろと声を張り上げる。急いで駆け寄ってスタートの合図を送れば、エアグルーヴは『逃げ』のような初動の速さで駆け出してしまった。
見る見るうちに小さくなっていくエアグルーヴは、やっぱりいつもより調子が悪い。
けれどそれ以上に、さっきの反応が気になってしまった。
「え……今の会話のどこに照れたの?」
少し傾いたフォームを見つめながら、私は困惑と混乱をない交ぜにした声でぽつんと呟いたのだった。


彼女が照れた理由を私が知ることになるのは、もう少しあとになってからのことである。




あとがき
我れは忘れず 間なくし思へば”

──あの夜の月を、今もわたしは忘れることが出来ません。
絶え間なく、あなたのことを想い続けているのですから。
(万葉集より)



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