心に咲く、熱



ふと何気なく顔を上げた先で、壁掛け時計が視界に映った。短針と長針が指し示している数字に、シンボリルドルフは思わずあっと声を上げる。
「しまったな……これほど時間が経っていたとは」
誰もいない生徒会室でぽつりとこぼし、ルドルフは苦笑いを浮かべた。
また熱中してしまった。明日のために書類を整理して、すぐに帰るつもりだったのだが。
ノートパソコンに映る完成した資料に、やってしまったと肩を落とす。次いでそこから予測される未来を想像して尾が丸まる感覚もした。役員の業務を横取りしてしまったわけではないのが不幸中の幸いか。
明日はどうしようか。無論、生徒会が行うべき業務は山ほどあるが、既に各役員へ適材適所割り振り済みなのだ。
つまり、ルドルフが担当する業務がない、というわけだ。何かトラブルが急遽発生すれば話は別だが、それを期待するのは生徒会長として本末転倒である。
ルドルフはううむと唸りながらパソコンの電源を落とす。とにかく、今日はもう帰ろう。軽く伸びをして立ち上がり、机周りを片付けてから生徒会室を後にした。

随分と日が沈むのが早くなったものだ。静まり返った廊下をやや早足で進みながら、ルドルフは窓の向こうを見やる。
室内の明るさとは裏腹に、外はとっぷりと夜の帳が下りていた。日中は鮮やかな紅葉が鑑賞できた木々も、今は夜闇の色に染まっている。
念のため、夜間外出届を提出しておいてよかった。スクールバッグの持ち手につけている腕時計を見つつ、ルドルフはほっと息をつく。
先日、URAから駿大祭についての通達があった。内容を要約するとこうだ。
今年の駿大祭の開催日が決定した。また、トレセン学園の担当は奉納劇となった。占で選ばれたウマ娘は下記の通りである。したがって、当日までには劇を仕上げておくように、と。
その後、生徒たちへも内容を公表。昨日、指名された生徒らは劇の練習のために強化合宿へと向かった。数週間前から駿大祭に向けて動き出していた生徒会も、その頃から本腰を入れて準備に取り掛かっている。
あと数日も経てば、生徒会はいっそう多事多段(たじただん)になる。有志による屋台の出店や催し物希望者のとりまとめ、当日スタッフの割り振り、URA職員との奉納劇衣装やプログラムの打ち合わせ、その他諸々……と、これらの仕事が仕事が一気に舞い込んでくるのだ。
そういった理由があり、この時期のルドルフは前もって夜間外出届をまとめて申請しているのだ。余談だが十月末に開催されるハロウィンパーティが寮主催であるのも、生徒会が駿大祭の運営で手一杯になるためでもあった。
──まあ、今日に限っては己の失態故であるが。
己のトレーナー風に言うならば、「うっかりしていた」だろうか。どうにも興が乗ると歯止めが利かなくなってしまう。次の予定があれば、時間まで忘れるようなことはないのだが。
そう考えている途中で、ルドルフははっと顎に指を添えて耳を大きく揺らす。
「今日はつい"興"が乗ってしまった……おお……!」
突如閃いたダジャレをと、その出来の良さに思わず笑声をこぼれる。これはなかなか、軽妙かる明快で良いダジャレではないだろうか。
いそいそとバッグからネタ帳を取り出し、早速書き込んでいく。機会があれば披露してみるとしよう。
ネタ帳をしまって玄関を出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。トレーニング中は心地よく思える冷気も、事務作業後では随分と寒く感じるものだ。
今日はトレーニングもなかったことだし、寮まで走って帰ろうか。そう思案している最中に、視界の端でちかりと何かが光った。半ば反射的にそちらへ向いて、ルドルフはおやと首を傾げる。
こんな時間だというのに、スタジオに明かりがついている。消し忘れかとも思ったが、近付いてみると微かに物音が聞こえた。
シューズが床に擦れる音だ。誰かがダンスの練習でもしているのだろうか。
「熱心な生徒だが……発憤忘食(はっぷんぼうしょく)なほど励むのは、些か心配であるな……」
呟き、ルドルフは瞳に憂いを宿す。そろそろ帰らなければ、食堂が閉まってしまう。我々トレセン学園の生徒は身体が資本だ。欠食は心身共に影響する。
しかし、とルドルフはさらに眉を下げる。自分が声を掛けて、もし生徒を萎縮させてしまったら。それに生徒の自主性を妨げてしまうのも本意ではない。
どう声をかけるべきか、まずは様子を見るだけでも。そう悩んでいるうちに、スタジオの入り口まで来てしまった。
しばし逡巡していたルドルフは、意を決して扉に近付く。
やはり見過ごすことはできない。姿を確認して、無理をしているようであれば声を掛ける。大丈夫そうであれば何も言わずに帰ろう。
そう意思を固め、ドアノブに手をかける。
「──……ゆらかし、ゆらかすは……あめつちに……──我は……」
刹那、スタジオから漏れ聞こえてきた声に、思わず目を見開いた。
この声は、とルドルフは逸る気持ちを気持ちを抑え、音を立てぬようそっとスタジオ内を伺う。ガラス越しに見えた姿に、つい彼女の名をこぼしてしまった。
「……エアグルーヴ?」
何故、彼女が奉納劇の練習を。今年選ばれたのは彼女ではない。
湧いた疑問に首を傾げている最中も、彼女は舞っていた。時には劇の初めから終わりまでを通して、また時には一幕ごとに区切って演じている。
動画を撮って振りを確認しているのだろう。近くにはスマートフォンを乗せた三脚が設置してあり、度々スマホを見つめては演じることを繰り返していた。
「──これは、舞を生業と致す者でござる。我が師は当代一の達者。師に比ぶれば未熟なれど、いつかは彼方の境地に至らんと精進致す」
台詞からして、彼女が演じているのは奉納劇の演目の一つ、『白拍子(しらびょうし)』のようだ。そこまでは窺い知れたが、やはり彼女が夜間に練習をしている理由が不明なままだ。
ただ、熱心に演じるその姿に、目を奪われた。
指先まで精錬された所作が美しかった。凛とした音色が、太古の唄を流暢に紡いでいく。唄いながら白い手足が、暗色の鹿毛が、ひらりひらりと優雅に舞う。
舞いには少しばかり違和感があった。よくよく見ると、全体的に左側が不安定な箇所がある。
──そう、正しい。左の動きが甘いのは、白拍子の悪癖故。山籠もりをしていた頃の彼女は、何度も何度もその点を指摘され、その度にからかわれていた。
再び踊り終え、エアグルーヴは三脚に近付く。難しい顔をしながらスマホを凝視し、何事かを小さく呟いているようだった。
やがて彼女は小さく頷いて顔を上げる。スマホを操作してから再び距離を取って佇み、真剣な表情のままゆっくりと瞼を閉じた。
エアグルーヴが何を思って演じているのか。また何を理由に舞っているのか。
わからない。けれど──、
気付けばルドルフは、誘われるようにスタジオ内へと踏み出していた。

ペットボトルを片手に動画を見直していたエアグルーヴは、画面の中で舞う己を注意深く見つめていた。
「……よし、何とか形にはなったか」
手本にしていた奉納劇の動画を思い返しても、大分差異がなくなってきた。エアグルーヴは肩の力を緩め、ボトルのキャップを空ける。
この調子なら期日までに間に合いそうだ。個人的かつ急な頼みにもかかわらず、動画の提供と手ほどきをしてくれたウマ娘神事芸能団体には感謝するばかりだ。
あとは細かな粗を潰していけば、より練度の高い演技になるだろう。具体的には粗の目立つシーンの重点稽古と、通し稽古の反復練習だ。
しかし、とエアグルーヴは眉間にしわを寄せる。さらに演技を磨くとして、果たして目的は達成できるだろうか。
ボトルから口を離し、口元を拭う。そうなると客観的視点がほしい。
「……ウマ娘神事芸能団体に頼んでみるか」
いつでも訪ねてきてくださいと、朗らかに応じてくれた芸能団体の方を思い出す。以前奉納劇を演じたことがあるひとで、今回の件で訪ねた折に、手ほどきもしてくれた。一度相談してみるのも手だろう。
動画を閉じ、再び撮影モードにスマホを切り替える。録画ボタンを押して、三脚から距離をとった。
演技を見てもらうためにも、まずは気付ける範囲の粗を全て潰していかなければ。先ほど動画で見つけた課題点を頭の中で並べ立ててから、深く呼吸をする。
静まり返ったスタジオに佇んでいたエアグルーヴは、ふいに右手を腰に当て、左手を前へと掲げる。
「──これは、舞を生業と致す者でござる」
『白拍子』とは、およそ九百年ほど前に日本で起こった歌舞の一種であり、それを演ずる芸人を呼称する名詞でもある。更に遡ると、巫女が儀式や祈祷の際に舞った巫女舞が原点にあるとも言われている。
主に舞い手は女子供が務め、舞う際の服装は白い直垂(ひたたれ)・水干(すいかん)に立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)の刀を差すという、当時でいう男装をして演じるのも特徴の一つだ。
この演目の主役である白拍子も例外ではなく、奉納劇では男装の伝統衣装を身に纏って演じられる。
白拍子は、歌舞を生業(なりわい)とするウマ娘の舞い手だった。彼女の師は当代一の舞い手であり、いつかは師を越えるために日々精進していた。
この物語は、白拍子と師の芸の継承を描いたものだ。病に倒れた師のため、師の芸を存続させようと山に籠り、修練を積み重ね、様々な出会いを経て、やがて境地に至る……古より連綿を語り継がれてきた、あるウマ娘の成長の軌跡だ。
「──くっ、未だ奥義を極めるには、我が技芸ではほど遠い……! いざ、今一度!」
腰に下げていた扇子を右手に構え、白拍子は鍛錬に明け暮れる。本来であれば師より手ほどきを受け、継いでいく技芸を、ただ独りで。
(病に倒れた師……唐突に導き手を失った白拍子にとって、芸を受け継ぐことが唯一の希望であり、師と己を繋ぐものだったのだろう)
物語から察するに、白拍子の芸は一子相伝であったのではないかと思う。つまり、白拍子が継承できなければ、師の技芸はそこで途絶えてしまう、ということだ。
それは舞い手にとって、誇りを、夢を、魂を……先達が背負ってきた数多の想いを絶つことに等しかったはずだ。
加えて彼女の師は、当代一の舞い手。周囲からの期待も落胆も、その門弟である白拍子に一気に降りかかってきたのではないか。
突如として導き手を失った白拍子の心情を、推し量るには余りある。エアグルーヴは幸いにも、標(しるべ)となる偉大な存在を失う経験はしたことはない。
──それでも、多少なりとも共感はできる。
白拍子は、ひどい不安と焦燥に胸を焼かれていたことだろう。だとしたら、師の技芸を受け継いでみせるという気概の裏で、自分の代で絶たれる恐れに怯えていたのではないだろうか。
ゆえに修行に打ち込んだ。打ち込むしかなかった。でなければ、恐怖に飲み込まれてしまいそうだったから。
否、真に"孤独"であったら、奥義に至る前に心が折れていたやもしれない。
しかし、幸いにもそれは起こらなかった。何故なら山籠もりをする、彼女の周りには──。
「いざやいざや、我が心立てしを──」
「やあやあ!」
「うわぁぁぁっ⁉」
突如背後から声を掛けられ、演技ではなく本気で悲鳴を上げた。飛び跳ねる心臓を手で押さえながら振り返ったエアグルーヴは、更に目を白黒させる羽目になる。
「なっ……⁉」
──なぜ会長がここに⁉
何の前触れもなく現れたルドルフは、絶句するエアグルーヴを見てくつくつと笑いを噛み殺していた。ひとを嘲るようなその笑い方に違和感を覚え、さらに困惑する。
「かい──?」
「ふっ、動じよった、動じよった! やはり左がおろそかなり、心が向いておらん!」
一体どうしたというのか。戸惑いながら声を掛けたエアグルーヴは、しかし遮るように続いた言葉にぴんと耳をそばだてた。
混乱していた思考が一気に明瞭になる。その台詞には聞き覚えがあった。幾度も見返した台本が、脳内でぱらりとめくられていく。
鼓動を鎮めようと呼吸を深め、ゆっくりとまばたきをひとつ。次いでエアグルーヴは、驚かせてきた“彼女”を責めるように睨みつけた。
しかし彼女は意に介さず、赤紫の双眸を妖しげに細めて小首を傾げるだけだった。
豊かな鹿毛がふわりと舞う。体重を感じさせない動きでくるりと回った彼女は、音も立てずに着地してこちらに近寄ってきた。
あまりにも優雅な舞いに不覚にも惚けていると、彼女はうっそりとした笑みを浮かべて口を開いた。
やれ足元がおろそかだ、やれ踏み込みもまだまだなっておらん、この程度では奥義習得など以てのほか。ああ嘆かわしい。これが当代一と謳われた舞い手の門弟か。
囃し立てるように次々と憎まれ口を叩き、しまいには肩を震わせてくふりと笑声を立てる。
「不功じゃ、不功じゃ。あさましや!」
口元を片手で隠しながら不遜に笑う彼女──『胡蝶』に、『白拍子』はとうとう柳眉を吊り上げる。
「──、ええい、忌々しい胡蝶め! 今に見ておれ。右も左も、前も後ろも、くまなく心巡らしまったしく舞って見せようぞ!」
悔しさを露わに怒号すれば、胡蝶はくすくすと笑いながら軽やかな動作で距離を取った。そのまま胡蝶は白拍子から離れていく。
おそらく舞台袖にいったのだろう。そう仮定し、エアグルーヴは胡蝶が姿を消した場所を睨みつけてからふんと鼻を鳴らす。
「……此度は左か。むむむ……立ち返り、いざ!」
その後も白拍子を演じるエアグルーヴの前に、ルドルフはときに『胡蝶』として、ときに『旅芸人』として現れた。急な登場には驚かされたが、落ち着きを取り戻せば他の役を演じてもらえるのはありがたかった。
何よりルドルフの演技は、エアグルーヴにとって非常にいい刺激になった。

「やあやあ、見てゆくにはいくらも承る! が、さして有職(ゆうそく)でもござりませぬ」
油断すると、その一挙一動に引き込まれる。彼女の演技に呑まれて『演じさせられ』そうになるのだ。
「さてもさても、ひと節舞って見せて進ぜよう。そうれっ!」
片膝をついていたルドルフが、背から大太刀を引き抜く仕草をして跳ねるように立ち上がる。
胡蝶の優美な舞いとは異なり、旅芸人の剣舞は力強い大立ち回りだった。だんっ、と音が響くほど強く踏み込み、その次には大きく飛び跳ねる。しかし雄々しい剣舞とは裏腹に、『旅芸人』の表情は無邪気なほどに晴れやかだ。
その舞う姿に、こちらまで浮足立つような気持ちが湧いてくる。──きっと白拍子もこんな風な心情だったのだと、心で理解できる。させられる。
そうだ、とエアグルーヴは白拍子の裏で胸を熱くする。

「──師の御為、技を継がんと一心につとめしそなたの功。しかと見届けた。ゆえに、そなたに祝福をさづけよう」
今まで散々からかってきた胡蝶が、荘厳な雰囲気を纏って白拍子の前に降り立つ。あの妖ものは三女神の御使いだったのだと、その佇まいだけで彼女は知らしめてきた。
思わず息を呑んだのは白拍子か、それとも己か。その境が曖昧になりかかるたびに自身を奮い立たせ、誘われるように胡蝶の前に跪く。
「ちはやぶる神にまかせし行く末の、永く久しく栄(さか)して継げよ──」
その演技の才に感銘を受けると同時に、思う。
──負けてなるものか。
エアグルーヴは拳を強く握り、顔を上げる。
負けるものか──そう強く湧き上がる意気を胸に、切磋琢磨することの何と楽しきことか。
神秘的な雰囲気を纏い、胡蝶がこちらを見つめる。強い意志を宿した白拍子を見た瞬間、彼女の静やかな瞳が、湖面の奥で僅かに揺らいだ。
ちりりと微かに感じる威圧感に、胸の奥から熱が湧き立つ。相手から感じる同様の思い。呼応するその熱の、何と甘美なことか。
──ああ、楽しい。
そうだ。そう感じてほしい。それを伝えたくて、エアグルーヴは。


「後輩の手本になれば、と思ったのです」
帰り際、ルドルフの疑問にエアグルーヴはそう答えた。あの子のことか、とルドルフは彼女を慕う生徒の一人を思い浮かべる。
確か、エアグルーヴの母親が勤めるスクールからやってきたウマ娘だ。名門スクールから推薦されただけあり、入学当初から周囲よりも一つ抜けた走りを見せていた。特に最終コーナーからの末脚は、ルドルフから見ても目を瞠るものがある。
「君がアドバイザーを務めている生徒だな。どことなく、雰囲気がメジロドーベルに似ている」
エアグルーヴに憧れ、慕う姿を思い出して呟けば、隣から吐息まじりの笑声が聞こえた。
「そうですね。ドーベルも自分と重なって放っておけない、と言っておりました」
曰く、自分に自信が持てず、男性が苦手なところが、だそうだ。メジロドーベルの指摘は的を射ていて、観客のいるレース──特に男性客が多い状況だと周囲を意識しすぎて萎縮してしまうのだという。
「彼女の才能は確かなのですが……加えて、ここ最近は勝ちきれないレースが続いておりまして……」
「なるほど。それで手本になれば、ということか」
「はい。彼女が白拍子を演じると知り、少しでも背を押すきっかけになれば、と」
「きっと勇気づけられるさ。私も動画を見返したが、素晴らしいものが撮れていたよ」
あれから二人で通し稽古を繰り返し、満足のいく出来になる頃には、食堂の開放時間もすっかり過ぎてしまった。幸いだったのは、互いに夕食は済ませていたことか。
だが時間を費やした甲斐もあり、最後に舞った奉納劇は、ルドルフとしても良い演技ができたと感じている。
何より白拍子である彼女の舞いだ。見かけた時点でかなり仕上がっていたが、この短時間でさらに完成度を高めた。間近で見ることができてよかったと、そう思うほどに。
心からの思いを伝えれば、彼女は「恐縮です」と微かに耳を揺らした。街灯に照らされた横顔は控えめに微笑んでいて、自然とルドルフも目を細める。
本当に、彼女の志は樫の木のようだ。
皆の、己の理想像を目指す"女帝"を体現する彼女には、金剛不壊(こんごうふえ)で真っ直ぐな芯をルドルフは常々感じている。彼女自身その自負があるからこそ、前を向く一対の淡い空色は誇らしげに輝いているのだろう。
ふと、薄青の瞳がこちらを向いた。ぱちりと目が合い、ルドルフは僅かな動揺を隠すように目をしばたかせる。
エアグルーヴが立ち止まり、「会長」とルドルフを呼んだ。彼女に応じるように、ルドルフも歩を止める。
「ありがとうございます。おかげさまで、予想以上に早く後輩に動画を送ることができそうです」
感謝を告げる彼女に、ルドルフは軽く目を見開く。それから眉を下げながらふるりと首を振った。
「礼を言われるほどのことはしていないよ。全ては君が後輩を思う心と、君自身の努力の賜物だ」
私は、とルドルフは目を伏せる。
「君の舞っている姿を見て、私も舞いたくなった……ただ、それだけだったんだ」
エアグルーヴのように、誰かのためではなかった。彼女の舞う姿に惹かれて、彼女と同じ舞台に立ちたいと思った。
本当にそれだけだった。胸襟秀麗(きょうきんしゅうれい)な理由もなく、ただ自分のために舞った。自身の行動を振り返り、今さらながらに恥じる。
「いいえ」
けれど、隣から否定の言葉が返された。視線を向ければ、エアグルーヴがこちらを向いて微笑んでいた。
「会長が共に演じてくださったおかげで、私は伝えたかったことを表現することが出来ました」
深まった夜の闇に、白色の霧が言葉と共にこぼれて浮かぶ。ぽかんと目を丸くしたルドルフも、同じように白い呼気をこぼした。
「……君が何を伝えたかったのか、よければ聞いても?」
奉納劇を演じる本質は、数ある伝承を祭事に実演し、奉納することで三女神のご加護を得ようとするところにある。だが彼女が後輩に最も伝えたいことは、どうやらそれとは異なるようだ。
尋ねると、エアグルーヴは静かに頷いて口を開いた。
「奉納劇の白拍子は、複数人が集まり演じる演目です。それぞれが劇の本質や役への理解度を深めることで、より精錬された舞台が出来上がっていく……」
奉納劇に限ったことではないですが。そう言い添えてから、エアグルーヴは視線を滑らせる。目線は空よりも低い、どこか特定の場所を見ているようだ。
その方角にある建物と言えば。ぱっと思い浮かんだ場所を、凛とした音がすぐに紡いだ。
「その過程は、レースにも通ずるものがあると思うのです。私が、私たちが己の理想を求め、互いの信念を賭けてぶつかりあった、あの青いターフと」
冬の景色によく似合う、けれど確かに熱意のこめられた声色だった。ルドルフは軽く耳を揺らしながら、ゆっくりと頷く。
己を限界まで鍛え上げ、レースという舞台に立ち、一着という頂点を目指して全身全霊で競い合う。
そうして作り上げられる舞台は、多くの者を湧き上がらせる素晴らしい一幕となる。
レースの世界は熾烈だ。勝負事であるかぎり、必ず勝ち負けが付きまとう。
綺麗事ばかりではない。美しく輝かしい舞台の裏側で、数多のウマ娘の涙や苦悩が生まれていることも、ルドルフは痛いほどによく知っている。
それでも、互いに切磋琢磨した経験が、心身の成長に繋がるのもまた真実だ。その姿は、ルドルフは何度も、何度も見てきた。
確かにその過程は、奉納劇とも共通する。それから白拍子自身とも。
「……そうか。君はそれを、後輩にも伝えたかったのだな」
呟けば、エアグルーヴは「ええ」と肯定した。
「彼女はトリプルティアラを目指していました。それは彼女自身の願いであり、私を含め周囲の者たちも期待していた。……結果自体は、非常に悔しいものでしたが」
ですが、と涼やかな声音に、確かな熱が灯る。
「三つのティアラを賭けて競い合った経験は、確実に彼女を成長させています」
北風が通り過ぎ、自分たちの髪をさらっていく。横髪が煽られ、露わになった薄青の眼に、青い炎がゆらりと揺らめいているのをルドルフは見た。
「だから、劇を通して伝えたかった。──恐れるな、前に進め、と」
闘志が燃え上がる薄氷の瞳は大層美しい。寒さとは異なる肌を刺す感覚に、ルドルフは無意識に目を細める。
ふと、エアグルーヴがレース場から視線を外して目を伏せる。惜しいな、もっと見ていたかった。内面でそうぼやいていると、彼女は瞼を上げてルドルフを見た。
「会長。あなたは『ただ舞いたかった。それだけだ』と先ほどおっしゃいましたが、それの何が悪いのでしょうか?」
そうして唐突に話を戻され、面食らってしまった。
咄嗟に言葉が返せずにいると、エアグルーヴは引き結んでいた唇をふいに緩めた。
「私自身、あなたと演じること自体を楽しんでおりました。それでいいではないですか。それもまた演劇の真髄……そして、レースにも通じることだと私は思います」
そう言って、彼女は柔らかく微笑んだ。その言葉にルドルフは目を瞠り、やがて目元を緩めた。
「……そうだな。うん、君の言う通りだ」
そうか。楽しんでいいのか。じわじわと込み上げる歓喜に、自然と口唇には笑みが滲んでいく。
「あなたの悪い癖ですね。いい加減、直していただきたいものです」
まったくと肩を竦める彼女に、ルドルフは弁明の余地もないな、と苦笑する。同時に、悪癖を指摘してくれるありがたさをしみじみと噛み締める。
──レースは楽しいものだ。走り切った先にある幸福を、私は皆に伝えたい。
そういえば、それを思い出すきっかけを作ってくれたのも彼女だった。彼女と己のトレーナーが背中を押してくれたからこそ、今の己が在るのだ。おそらく二人ともそれはルドルフ自身が道を過(あやま)たずに努力を積み重ねた結果だと否定するだろうが、ルドルフはそうだと確信している。
ふぅと静かに息を吐いて、ルドルフはエアグルーヴに向き直る。であれば、言うべきことはひとつだ。
「君と舞うのは、まさに手舞足踏(しゅぶそくとう)の面持ちだった」
あのとき胸にくべられた熱は、非常に心地のよいものだった。気を抜けば焼かれそうなほど熱く、演じることに無我夢中になるほどに楽しかった。
もっとずっと、永永無窮(えいえいむきゅう)に彼女と舞い続けていたいと、そう願ってしまうほどに。
「機会があれば、君と共演したいものだな」
劇に限らず、レースでも、何でも。
「ええ、是非とも。その際はよろしくお願いいたします」
快諾した薄青の瞳に、再び炎が灯るのを見た。ちりりと肌を炙られるような感覚に、彼女も同じ思いだと感じ取る。奥底から湧き上がる喜びに、ルドルフはさらに笑みを深めた。
次の機会が待ち遠しいものだ。彼女と共に織り成せるのであれば、今宵と同様の熱がこの胸に宿るに違いない。
ところで会長、とエアグルーヴが微笑んだまま言葉を紡いだ。
「スタジオにいらした時点で、本日の業務時間はとっくに終了していたはずですが?」
笑顔とは裏腹に冷たく鋭い声音が耳に突き刺さった。ルドルフはぴしりと尻尾を固まらせ、言葉に詰まる。
「ええと……その、だな……」
先ほどのダジャレが頭をよぎる。が、流石にこの状況で言うのは悪手だ。
瞬時にそう判断したルドルフは、険しい目線を向けるエアグルーヴをそろりと伺いながら、素直に頭を下げたのだった。




あとがき
今年の駿大祭イベストを見て胡蝶な会長見たさに書きました。同志感強めな二人。お互いの演技にお互いに見惚れて負けるものかってなってたらいい。

右腕、アニメ3期で機材頭に載せたままパマヘリ引っ張って歩いてるあたり体感姿勢バランス感覚花丸満点なんだろうなと思うので奉納劇の舞いもすぐ上達しそうな印象。あのまま生徒会室(多分3階あたり)まで連行したんだろうか…。

奉納劇の白拍子は、演じ手によって役に何を感じるのかがそれぞれ違うんだろうなと思います。そうして『彼女たちらしい唯一無二の物語』が出来上がるんだろうなと。どの劇にも言えることかもですが。

【四字熟語補足】
発憤忘食(はっぷんぼうしょく):心を奮い起こして、食事をとるのも忘れるほどに励むこと。
手舞足踏(しゅぶそくとう):大きな喜びなどで気持ちが高ぶって、思わずそれが身振り手振りとなって現れること。
金剛不壊(こんごうふえ):きわめて堅固で決して壊れないこと。また、志を堅く守って変えないこと。
永永無窮(えいえいむきゅう):いつまでも永遠に果てることなく続くさま。




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